銀河英雄伝説 エル・ファシルの逃亡者(新版)   作:甘蜜柑

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第112話:賽は投げられた 802年11月13日~11月下旬 イゼルローン要塞

 帝国軍が動いたのは援軍到着から九時間後のことである。一一月一三日一五時一四分、二万隻を超える大軍がガイエスブルク要塞正面に展開した。レンネンカンプ艦隊が右翼、ルッツ艦隊が左翼、ミュラー艦隊とキルヒアイス直属部隊が中央という布陣である。トゥルナイゼン独立分艦隊はキルヒアイス直属部隊の先鋒となった。

 

 同盟軍はグエン大将の第八艦隊を右翼、クリンガー大将の第三艦隊を左翼、スレッテゴード技術少将の第三機雷戦集団を後衛に置いた。総司令官ヤン元帥は旗艦ヒューベリオンを中央最前列に置き、陣頭指揮をとる。ダロンド中将の第五一独立分艦隊とマイアー中将の第五三独立分艦隊が、旗艦の周囲を固めた。

 

 不敗の魔術師と赤毛の驍将が互角の条件で戦う。戦記の読者なら誰もが一度は夢見たシチュエーションが、思わぬ形で実現することとなった。

 

「始まったか」

 

 俺は仕事の手を止め、スクリーンに視線を移した。指揮権を返上し、中央司令室から退去したため、一観客として観戦する立場である。

 

 帝国軍は両翼を前進させ、凹形陣を形作った。各艦の距離は大きく開いている。これはかつての帝国軍イゼルローン駐留艦隊が用いた戦法であった。凹形陣を敷いた帝国軍は、上下左右から圧力を加えつつ中央を後退させ、同盟軍を要塞砲の射程内に引きずり込む。要塞砲が放たれると、散開状態の帝国軍は素早く退避するが、同盟軍は逃げ切れずに直撃を食らうことになる。

 

 同盟軍は艦列を広く薄く展開させた。上下左右の端が危険宙域と密着し、中央部に向かって引っ込むように湾曲している。この陣形を編み出したのはヤン元帥である。上下左右と前方から放たれる砲火網に死角はない。敵が回廊外縁部を迂回しようとすれば、防衛陣の端にひっかかる。敵が並行追撃を仕掛けようとしても、散開した同盟軍に食らいつくことがはできない。敵が薄い艦列を強引に突破しようとすれば、要塞砲の餌食になる。巨大なレンズのように見える陣形は、通常の宙域では役に立たないが、イゼルローン回廊最狭部である要塞周辺では無類の威力を発揮するのだ。

 

 双方がカウンター狙いの陣形をとり、砲撃を交わしつつ相手の出方を伺った。こうなると正攻法は使えない。まったく先が読めない展開である。

 

「いったいどうなるんだ」

 

 まったく先が読めない展開である。水面下では奇策の応酬が繰り広げられているはずだ。ヤン元帥の策が失敗することはないだろう。しかし、キルヒアイス元帥がヤン元帥の策にはまる場面も想像できない。

 

「君たちはどう思う?」

 

 俺は幕僚たちの意見を聞こうとしたが、誰もスクリーンを見ていなかった。他の者はこの戦いを消化試合だと思っているのだ。

 

 先に動いたのは帝国軍であった。ガイエスブルク要塞が通常航行用エンジンを稼働させ、イゼルローン要塞と正反対の方向に向かった。艦隊は凹形陣を保ち、守りを固めつつ後退する。イゼルローン攻略を断念したように見えた。

 

 同盟軍は追撃を仕掛けるどころか、ゆっくりと後退した。艦列の密度は一層薄くなっている。敵をイゼルローン要塞の前面に引きずり込み、艦隊と要塞砲群の連携攻撃を加える態勢だ。敵の撤退が見せかけに過ぎないと判断したのだろうか。

 

 両軍の距離はどんどん開いていき、やがて長距離砲の射程外となった。同盟軍の第三機雷戦集団が機雷敷設作業に取り掛かった。

 

 三〇分もしないうちに、核融合機雷六〇〇万個が回廊最狭部を埋め尽くした。指向性ゼッフル粒子で穴を開けても、突破は不可能だ。穴が一個だろうが、一〇個だろうが、一〇〇個だろうが変わらない。豊富な兵力を持つ同盟軍は、機雷原の全域に迎撃部隊を配置し、穴から出た敵を狙い撃ちできる。機雷原を超えて追撃しようとしたら、同盟軍が狙い撃ちにあうだろう。意思を持たぬ機雷は敵も味方も通さない。

 

「わかったぞ! 機雷原が魔術の種だ!」

 

 俺は身を乗り出した。体中の血が沸き立った。期待が風船のように膨れ上がった。心が子供のようにときめいた。ヤンマジックをこの目で見るのは初めてだった。人目がなければダンスを踊りたい気分である。

 

 帝国軍はなおも後退を続け、イゼルローン回廊の帝国側出口を抜けた。レーダーに映った光点が次々と消えていく。通常航行からワープ航行に切り替えたのだ。レーダーが真っ暗になると、同盟軍はイゼルローン要塞に引き返した。

 

「…………」

 

 期待は完全に裏切られた。ヤン元帥は機雷をばらまいただけだった。キルヒアイス元帥はあっさり撤退した。夢の一戦は凡庸極まりない結果に終わった。

 

「消化試合だと言ったでしょう」

 

 副参謀長チュン・ウー・チェン中将が苦笑いを浮かべた。

 

「でもなあ……」

「敵には撤退以外の選択はありません。潰走したわけではないので、追撃しても返り討ちを食らうだけです。答えは自ずから決まってきます」

「常識的に考えればそうなる。でも、ヤン元帥なら何かやってくれると思った」

「用兵家としての彼は合理主義者です。無意味なことはしません」

「じゃあ、機雷は何のために使ったんだ?」

「メッセージでしょう」

「そういうことか」

 

 俺にもヤン元帥の意図がようやく理解できた。追撃ルートを自ら塞ぐことにより、敵の全面撤退を促したのだ。去る者は追わず。楽に勝てるに越したことはない。いかにもヤン元帥らしいやり方である。

 

 一一月一三日二〇時、イゼルローン要塞で記者会見が開かれた。ヤン元帥が演台の左側、俺が演台の右側に座った。退避先から戻った従軍記者が記者席を埋め尽くした。

 

 演台に登ったヤン元帥は、つまらなさそうな顔でつまらないコメントを述べた。「お前たちの期待に応える義務はない」と言わんばかりである。普通の人がこんな態度をとったら、生意気だと叩かれるだろう。だが、ヤン元帥ほどの実績があれば、クールだと称賛される。

 

 次に演台に登った俺は、爽やかな笑顔で優等生的なコメントを述べた。マスコミと軍は持ちつ持たれつの関係である。話題を提供するかわり、好意的な記事を書いてもらう。そんな取り引きが暗黙のうちに成立している。

 

「三年ぶりの対帝国戦はいかがでしたか?」

「苦しい戦いでした。ラグナロックの戦訓から学んだのは、我々だけではなかった。敵もまた学んでいた、ということです」

「一番危なかった場面は?」

「初日の強襲上陸です。恥ずかしながら、いきなり上陸されるとは思いませんでした」

「印象に残った敵将は?」

「レンネンカンプ提督は本当に手強かったです。キルヒアイス提督もかなりの強敵でした。ルッツ提督、ミュラー提督、トゥルナイゼン提督は予想以上に健闘しました。いずれも二〇代から三〇代の若手です。帝国軍は世代交代を着実に進めていると感じました」

「今後、警戒すべき敵将は誰だとお考えですか?」

「キルヒアイス元帥ですね。イゼルローンに上陸された時、驚きより感嘆を覚えました。こんなやり方があったのかと」

「機動要塞が九世紀ぶりに戦場に現れました。戦った感想は?」

「イゼルローン要塞を攻めているような気分でした。機動要塞の復活ではなく、第二のイゼルローン要塞の出現である。小官はそう受け止めております」

「他に脅威だと感じた兵器はありましたか?」

「既成兵器の使い方に見るべきものがあります。特に感心したのはワルキューレの集団戦法です。艦載機を集団運用するという発想は、我々にはありませんでした」

「帝国軍は強いということですね」

「その通りです。帝国軍は凄まじい勢いで再建を進めています。そして、より強大な軍隊に生まれ変わろうとしています。さらなる警戒が必要です」

 

 そう答えたところで、俺は水の入ったコップに口をつけた。喉が乾いたわけではない。「さらなる警戒が必要」という発言を印象づけるため、間を空けた。記者たちは感嘆の声を漏らし、この発言が最重要発言であるかのように演出した。

 

 ここまでの問答は、帝国軍の強さを印象付けるためのものである。俺は意識改革を促したい。政府は不手際をごまかし、「苦戦したのは帝国軍が強いから。さらなる軍拡が必要だ」という方向にもっていきたい。御用マスコミは政権批判を封じ、帝国脅威論を煽りたい。三者の思惑が一致した結果、帝国軍の強さが必要以上に強調されることとなった。

 

 左後方から強烈な冷気が流れてきた。そこに座る人物が不機嫌の極みであることは、考えるまでもなくわかった。大物の不興を買ったと悟り、小物は恐れおののいた。机の上に置いた手が小刻みに震え出す。膝がガクガクし始める。肌がぞくぞくと粟立つ。

 

「どの部隊が最殊勲部隊だとお考えですか?」

 

 この質問が助け舟となった。問答に集中している間は、黒髪の青年元帥を意識せずに済む。

 

「要塞艦隊です。彼らの武勲については言うまでもありません。新設間もない部隊とは思えない活躍ぶりでした。伝統ある部隊も彼らに負けじと奮戦し、競い合うように武勲を重ねました。敵を倒すだけでなく、味方の奮起を促した。二つの意味で最殊勲部隊です」

「一二星将を率いて戦った感想は?」

「びっくりしました。彼らの勇名はもちろん知っています。しかし、ここまで強いとは思いませんでした。噂では彼らの強さを伝えきれないのでしょう。味方で良かったと改めて思います」

「ホーランド提督が復帰第一戦を飾りました。元部下としての思いは?」

「嬉しいの一言に尽きます。お世話になった方ですから。同盟軍にとっても喜ばしいことです。頼もしい戦力が加わりました」

「フィリップス提督は第一辺境総軍司令官であると同時に、第二艦隊司令官でもあります。第二艦隊の戦いぶりをどう評価なさいましたか?」

「十分な手応えを感じています。アップルトン中将をはじめとするベテランは、安定した力を発揮しました。コレット少将などの若い力も育っています。今後が楽しみです」

「どの場面が印象に残っていますか?」

「オペレーション・モンブランの後半ですね。痛恨の判断ミスでした。第二艦隊と第四艦隊の奮戦に助けられました。無力さを感じるとともに、良い部下を持ったことに感謝しました」

 

 俺は必要以上に部下を持ち上げた。アッテンボロー大将やジャスパー大将の非協力的な態度は、頭痛の種だった。一二星将や第二艦隊幹部の実力不足は明白だった。普通の提督なら遠回しに非難しただろう。厳しい提督なら名指しで非難したかもしれない。だが、誰かを傷つけるような発言はしたくなかった。

 

「今回の戦いでは多くの新兵器が実戦投入されました。使い心地はいかがでしたか?」

「レダ級巡航艦は次世代の主力艦にふさわしい艦ですね。トリグラフ級大型戦艦は司令塔として艦隊を引っ張ってくれました。チグリス級駆逐艦やグラックス級宇宙母艦も良い艦です。新しい艦載装備は非常に使いやすく、しかも高性能です。装備を積み替えた既成艦は、著しく性能が向上しました」

 

 新兵器の名前を羅列したが、新型単座式戦闘艇チプホには言及しなかった。故障が多すぎて使い物にならないので、褒めようがない。チプホ導入の急先鋒であるトリューニヒト議長は、良い顔をしないだろう。それでも、無理なものは無理だ。

 

「軍拡の成果は出ている。そう考えてよろしいのでしょうか?」

「小官はそう考えております。数と装備が未熟さを補いました」

 

 ここで言葉を切り、俺は再びコップに口をつけた。ぬるい水が乾いたのどを潤す。記者たちは再び感嘆の声を漏らした。軍拡が成功したとアピールするための演出であった。

 

「同盟軍は強敵を見事に打ち破りました。最大の勝因は何でしょうか?」

「将兵が頑張ってくれました。以前に述べたとおり、我が軍は未熟です。それでも、一人ひとりが未熟なりにベストを尽くしました」

「愛国心の賜物ということでしょうか」

「そのとおりです。我々は祖国を愛しています。我々は民主主義を愛しています。我々は自由を愛しています。正義は必ず勝つのです」

 

 俺は右手の拳を握り、ガッツポーズを作った。努力をたたえ、愛国心と正義を強調するのは一種のお約束である。

 

「そして、手厚い支援を受けました。手持ちの六個艦隊に加え、四個艦隊もの援軍をいただきました。物とお金を好きなように使わせていただきました。大軍を与えてくださった政府、援軍を率いてくださったヤン元帥、そして市民の皆様のご協力に心より感謝いたします」

 

 付け加えるように述べたコメントが真の勝因を示していた。狭い回廊では一度に投入できる兵力は限られており、数で押せなかったが、それでも物量差は物を言った。四個艦隊の援軍の存在は心強かった。改革派政権だったら、最前線に大軍を置かないだろうし、援軍も少なかっただろう。物量主義のトリューニヒト政権だからこそ、消耗戦に持ち込めた。

 

「今後の課題は何だとお考えですか?」

「経験不足が目立ちました。小官自身も例外ではありません。練度も不十分でした。兵力を増やしても、戦い方がわからなければ無意味です。優れた装備を持っていても、使いこなせなければ無意味です。経験不足と練度不足を解消しなければなりません」

「フィリップス提督自身はこの戦いをどう総括なさっていますか?」

「今回の戦いでは四三万六五四三名の兵士が犠牲となりました。彼らに感謝すると同時に、謝罪しなければなりません。小官は判断ミスを犯しました。小官は戦力の質的向上に失敗しました。彼らの死の責任は小官にあります。償うためにできるかぎりのことをします」

 

 俺は直立不動の姿勢を取り、腰を九〇度に折り曲げて謝罪した。これは演技ではなかった。戦死者には本当に申し訳ないとことをした。やるべきことをやっていれば、彼らは死なずに済んだのだから。

 

 会見場は静まり返った。丁重だが中身のない謝罪を行い、記者たちが持ち上げるというのが本来のシナリオだった。俺が自分の責任を明言してしまったため、どう反応すればいいのかわからなくなったのだろう。

 

「質問ありがとうございました。ヤン元帥とフィリップス提督より最後の一言をいただき、会見を終了したいと思います」

 

 司会者は何事もなかったかのように締めに入った。

 

 ヤン元帥は面倒くさそうに立ち上がり、俺の左隣に立った。その顔には「不愉快でたまらない」と書いてある。本人は隠しているつもりなのだろうが、隠しきれていない。

 

「結果がすべてです」

「勝利はゴールではなくスタートです。次の戦いは既に始まっています。同盟軍は一致団結して勝利を目指します。良かった点については、さらに改良を進めます。失敗は必ず修正します。明日の同盟軍は、今日の同盟軍より強くなるでしょう。明後日の同盟軍は、明日の同盟軍より強くなるでしょう。同盟軍は市民あっての軍隊です。ご協力をお願いいたします」

 

 最後のコメントを述べた後、俺はヤン元帥と握手を交わした。こうして記者会見は終わりを告げたのである。

 

 マスコミは記者会見の様子を大々的に報じた。俺とヤン元帥のツーショットというだけで話題になった。人々は俺の長いコメントを深読みする一方で、ヤン元帥の短いコメントの「真意」を探ろうとした。しゃべったら深読みされる。しゃべらなければ、ありもしない「真意」を探られる。世間はそういうものだ。

 

 

 

 第九次イゼルローン攻防戦は幕を閉じた。同盟軍は兵士四三万六〇〇〇人と艦艇四八〇〇隻を失った。帝国軍は七〇〇〇隻前後の損害を被り、イゼルローン回廊から撤退した。

 

 同盟政府は勝利宣言を行った。イゼルローン回廊を守り切った。自軍が被った損害より、敵に与えた損害の方が多い。名のある敵将を討ち取った。勝利を主張する材料は揃っていたが、市民の同意を得られなかった。

 

 国立中央自治大学世論調査センターの世論調査によると、第九次イゼルローン攻防戦を「勝利」とみなす者は二七パーセントに留まった。四五パーセントが「引き分け」、二四パーセントが「敗北」と答えた。勝ったと思わない理由については、「イゼルローン要塞に上陸された」「ガイエスブルク要塞に接近できなかった」「一度も主導権を握れなかった」「戦力に見合った戦果をあげていない」などがあげられた。

 

 最大の戦犯とみなされたのは国防委員会である。帝国が攻めてくる可能性を低く見積もり、備えを怠った。最悪のタイミングでヤン元帥を呼び出した。経験不足や練度不足についても、大きな責任を負っている。エルクスレーベン事件などの不祥事が相次いだこともあり、国防委員会は無能の代名詞に成り下がった。憂国騎士団ですら国防委員会叩きを行う有様だ。

 

 ネグロポンティ国防委員長はかねてより辞意を表明していたが、正式に退任した。委員長職を退くだけでは責任を取り切れないとの理由で、議員辞職する意向を固めた。

 

 国防委員会の体制刷新を求める声が高まったため、ネグロポンティ委員長以外の首脳陣も交代させられた。国防副委員長六名、国防委員一七名は辞任した。国防事務総長ルフェーブル元帥は退役し、五五年の軍人生活に終止符を打った。

 

 人々の怒りが国防委員会に集中したため、その他の者に対する批判は広がらなかった。トリューニヒト議長は四個艦隊派遣を即決したことで株を上げた。俺については、「国防委員会に足を引っ張られた」と同情する声が大きい。国防情報本部は侵攻を予測できなかったにもかかわらず、責任を問われなかった。

 

 ネグロポンティ前国防委員長は大いに満足しているだろう。トリューニヒト議長を守れたのだから。忠誠にはいろんな形がある。彼が自分なりに忠誠を尽くしたことは疑いない。

 

 イゼルローン要塞は平時体制に移行した。四個艦隊とフィッシャー大将は引き上げた。労働者が職場に復帰し、兵器工場や食糧プラントは操業を再開した。企業や商店は通常営業に戻った。

 

 仕事は山ほどあった。人を一人動かすたびに、書類を作らなければならない。物を一つ動かすたびに、書類を作らなければならない。一〇〇〇万人を超える大軍を動かしたため、途方もない量の書類が必要になった。

 

 俺は死傷者にかかわる書類を最優先で処理した。戦死者がより大きな名誉を受けられるように取り計らった。負傷者がより手厚い待遇を受けられるよう取り計らった。遺族が一日でも早く補償を受けられるように取り計らった。叙勲推薦や昇進推薦を出しまくったので、国防委員会から「多すぎる」と苦情を言われた。

 

 トリューニヒト派の一派である厳格派のせいで、書類仕事は煩雑になる一方だ。必要な書類の量が五割増しになった。書式は頻繁に変更された。少しでも不備があれば、国防監察本部から注意を受けた。そのため、デスクワークに多くのリソースを割かれることとなった。

 

「シトレ元帥やボロディン大将の時代が懐かしいな」

「良識派は書類を減らしましたからね。書式にもうるさくありませんでした」

 

 チュン・ウー・チェン副参謀長はこの種の愚痴をよく聞いてくれる。

 

「良識派と厳格派を足して二で割ったら、ちょうどいいのにね。どいつもこいつも極端で困る」

「あなたならできます」

「わかっている」

 

 俺はにっこりと笑い、潰れた野菜サンドイッチを口に入れた。ちょうどいい潰れ具合だ。自分で潰してもこうはならない。チュン・ウー・チェン副参謀長ならではの味といえよう。

 

 外部との調整も重要な仕事である。要塞艦隊や要塞軍集団とは定期的に話し合っている。イゼルローン要塞に移転したイゼルローン総軍総司令部との定期会合も始まった。アッテンボロー大将は相変わらず敵対的だ。シェーンコップ大将は何を考えているのかわからない。それでも、ジャスパー大将やデッシュ大将がいないので、前よりはましになった。

 

 イゼルローン総軍副司令官ヨハネス・オイラー大将は、ヤン元帥の代理として会合に現れた。それ以外の仕事は与えられていなかった。差別発言を繰り返したため、イゼルローン総軍と第一辺境総軍の双方から告発されて、権限を失った。取り巻きは一人残らず離れた。幕僚ですら食事に付き合ってくれないので、人目のない場所に隠れて飯を食っているらしい。そう遠くないうちに解任される予定だ。

 

 従軍記者は何かにつけて俺のもとにやってくる。ヤン元帥は何もしゃべってくれない。アッテンボロー大将やシェーンコップ大将はよくしゃべるし、視聴者受けが良いが、体制に都合のいいことは絶対に言わない。俺は体制に都合のいいことを言うし、記者をしばしば会食に招いた。彼らが俺のもとに集まるのは、必然的な成り行きであった。

 

 本音を言うと、イゼルローンの従軍記者は好きになれない。敵が来たら逃げ出し、敵がいなくなったら戻ってくるような連中が従軍記者を名乗るなんて、おかしな話だ。軍隊と行動を共にするのが従軍記者ではないか。そのくせ、軍のつけで飲み食いし、兵士に命令するような態度をとる。

 

 どうしようもない連中だが、権力を握るには彼らの協力が必要だ。俗物と付き合わなかったジョアン・レベロやシドニー・シトレは、頂点に立ったものの、本当の権力者にはなれなかった。彼らは財政再建や軍縮を求める時流に乗って上昇し、時流が変わった途端に失墜した。俺は本物の力を求めている。時流がどうなろうと、自分のやり方を押し通せる力が欲しい。

 

 統合作戦本部長の地位を当面の目標として定めた。制服組トップという地位より、国防調整会議の常任アドバイザーという地位の方が重要だ。宇宙軍幕僚総監や国防事務総長は、非常任アドバイザーに過ぎず、緊急事態の時しか呼ばれない。

 

 安全保障政策を審議する国防調整会議において、統合参謀本部長は軍事のプロとして意見を述べる。常任議員は文民なので、統合作戦本部長の「助言」は決定的な影響力を有する。レベロ政権が地方制圧に踏み切れなかったのは、当時の統合作戦本部長ボロディン大将の「助言」によるところが大きかった。やり方次第では最高評議会議長や国防委員長とも対抗できるポジションだ。

 

 今の立場でも非公式な政治介入ならできる。一九年にわたって宇宙艦隊司令長官の地位を占め、超法規的な権力をふるったフレデリック・ジャスパーという前例もある。それでも、公式に介入できるに越したことはない。

 

 今の俺にとって、統合作戦本部長が手に届くポストである。上級大将三五名の中で、功績、知名度、政治力のすべてにおいて、俺を上回る者はいない。地上軍幕僚総監ベネット元帥は、精彩を欠いている。現職の本部長ビュコック元帥、次期本部長最有力候補ヤン元帥の二名がライバルということになる。

 

「あの二人と戦うことになるのか」

 

 ライバル二名の顔を思い浮かべるだけで憂鬱になる。前の世界の歴史を知る者にとって、アレクサンドル・ビュコックとヤン・ウェンリーは神聖な存在である。それでも、戦うしかなかった。賽は投げられた。後戻りはできない。

 

 

 

 イゼルローンを出発する前日、要塞軍集団司令官ワルター・フォン・シェーンコップ大将が俺の執務室を訪れた。同行者は一人もいない。

 

「どうなさったんですか!?」

 

 俺はいぶかしげに質問した。敬語なのは、イゼルローン総軍が指揮下から外れたからだ。

 

「コーヒーを飲みにまいりました。前に言ったでしょう? 再び陣を並べることがあったら、飲ませていただきたいと」

「早速用意いたします」

 

 俺は早速コーヒーをいれて、シェーンコップ大将の前に置いた。首席副官ハラボフ大佐が砂糖とクリームでドロドロになったコーヒーを作り、俺の席の前に置く。

 

 シェーンコップ大将は右手でカップを持ち、ゆっくりとコーヒーを飲む。何気ない動作なのにこの上なく優雅に見える。

 

「美味ですな」

「ありがとうございます」

「ヴァレリーにも飲ませてやりたいもんです」

「そういえば、彼女にもコーヒーを飲ませると約束していました」

 

 俺はヴァレリー・リン・フィッツシモンズ中佐のことを思い出した。幹部候補生学校の同期で、ヴァンフリート四=二や褐色のハイネセン攻防戦で共に戦った。シェーンコップ大将の元愛人でもある。

 

「約束を守ってくれないと怒ってましたよ」

「彼女とまだ連絡を取っていらっしゃるんですか?」

 

 俺は目を丸くしながら問うた。シェーンコップ大将は後腐れなく別れるタイプだと思っていた。連絡を取っているというのは本当に意外だった。

 

「メールだけですがね。腐れ縁です」

「そうでしたか。約束を忘れたわけじゃないんです。忙しかったもので」

「いけませんなあ。女性との約束は最優先にするべきでしょう」

 

 シェーンコップ大将はとても意地の悪そうな笑いを浮かべる。

 

「本当に申し訳ないです」

「相変わらず素直ですな」

「小物が背伸びしたところで笑われるだけです」

 

 俺は嘘偽りのない気持ちを口にした。

 

「あなたは小物ではないでしょう。敵から逃げようとしない。悪口を言われても耳を塞がない。見下されることを恐れていない。そんな人間は小物ではありません」

「小物ですよ」

「トリューニヒトみたいな奴を小物と言うんです。敵から逃げ回る。悪口を言われたら耳を塞ぐ。見下されることを何よりも恐れる。自分を小物だと認めることすらできない」

 

 シェーンコップ大将はトリューニヒト議長を厳しくこき下ろした。

 

「そんなことはありません。トリューニヒト議長はつまらない人間でも受け入れてくださいます。だから、俺もあの方の下で働きたいと思いました」

 

 俺は間髪入れず反論した。

 

「トリューニヒトはつまらない人間しか受け入れられない。自分より優れた人間を恐れているのです」

「そんなことは……」

 

 反論を続けようとして言葉に詰まった。シェーンコップ大将の指摘は完全に正しい。トリューニヒト議長は凡庸な人物ばかり重用している。非凡な人物は冷や飯を食わされるか、追放されるか、自分から出て行った。

 

「否定できるのですか? あなたもトリューニヒトに恐れられる側でしょうに」

「買いかぶらないでください」

「自覚がないとは言わせませんよ」

 

 グレーがかったブラウンの瞳が俺をまっすぐに見つめる。

 

「…………」

 

 俺は何も言わなかった。恐れられていることはわかっている。だが、この場で口に出したくはなかった。相手はあのワルター・フォン・シェーンコップだ。わずかな隙が命取りになる。

 

「トリューニヒトにはめられましたな」

 

 シェーンコップ大将は思いもよらないことを言った。

 

「どういうことです?」

「あの男が一番恐れているのは、あなたとヤン元帥が手を組むことです。だから、第一辺境総軍をティアマトに駐留させた。正反対の部隊が仲良くやれるはずがない。部下同士がいがみ合えば、組みたくても組めなくなる。帝国軍が攻めてきたのは予想外でしょうがね」

「ヤン元帥を召還したのはネグロポンティ先生ですよ」

「ネグロポンティは独断で動く男ではありません。ヤン元帥を召還したのはトリューニヒトです」

「部下同士をいがみ合わせたいなら、召還するのはまずくないですか? 俺の部下にはヤン嫌いがたくさんいます。ティアマトにいた方が好都合のはずです」

「和解の可能性をゼロにするためでしょうな。あなたとヤン元帥がトップ同士で話をつける。その可能性を排除するためには、どちらかをティアマトから離しておく必要があった。あなたを召還したら、第一辺境総軍をティアマトに置く理由がなくなる。だから、ヤン元帥を召還した」

「面白い推理ですね。でも、証拠はありませんよ」

 

 俺は作り笑顔を浮かべると、ポットを手に取り、シェーンコップ大将のカップにコーヒーを注いだ。そして、自分のコーヒーに口をつけた。内心では一理あると思ったが、口に出さなかった。

 

 トリューニヒト議長にとって、俺は潜在的な敵である。長年の腹心ではあるが、独自の人脈を持っており、トリューニヒト議長への依存度は低い。与党に深く食い込んでいる上に、反戦・反独裁市民戦線(AACF)を除く全野党とのパイプがある。軍部での人望は厚い。合法的に政権を取る可能性も、クーデターを成功させる可能性も、ヤン元帥よりはるかに高いだろう。フェザーンが不安定要素の除去を求めるなら、俺が真っ先に排除されるはずだ。

 

 シェーンコップ大将の推理は、「なぜ俺ではなくヤン元帥を査問にかけたのか」という疑問を解決できる。ヤン元帥を俺と対立させることが目的であって、辞職に追い込む気など最初からなかった。そう考えれば辻褄が合うのだ。ヤン元帥を査問にかけたのは、俺への嫌悪感を煽るためではないか。俺に「ヤン排除」への協力を求めたのは、後ろめたさを持たせ、関係修復への努力を放棄させるためではないか。

 

「コーヒーをもう一杯いただけますか」

 

 二杯目のコーヒーを飲みほしたシェーンコップ大将は、人好きのする笑みを浮かべた。

 

「どうぞ」

 

 俺が新しいコーヒーを注ぐと、シェーンコップ大将は味わうようにすすった。

 

「本当にうまいコーヒーだ」

「気に入っていただけて何よりです」

「あなたは妙なお方だ。コーヒーのいれ方を知っているのに、飲み方がわかっていない。そんなに砂糖とクリームを入れたら、味がわからんでしょうに」

「こうした方が味が引き立ちます。単純ゆえに微妙な違いがわかるんです」

「のろけですか」

 

 シェーンコップ大将は顔を左に向けて、にやりと笑う。その視線の先にいるのは、俺のカップにコーヒーを注ぐハラボフ大佐であった。

 

「自慢です」

 

 俺は砂糖とクリームでドロドロになったコーヒーをすすった。無意識のうちに顔が綻んだ。うまいコーヒーは人を幸せにする。

 

「フィリップス提督、あなたはなぜ権力をお求めになるのですか?」

「やりたいことがあるからです」

「人生に必要なものは、いい女とうまいコーヒーの二つだけです。あなたはどちらも持っていらっしゃる。権力を手に入れてどうするんです?」

「持っているのはコーヒーだけです」

 

 俺は軽く訂正した。ダーシャは違う世界に旅立った。だから、今はコーヒーしかない。

 

「自分一人の人生なら、コーヒーがあれば十分です。でも、今は自分一人の人生ではありません」

「みんなのために権力を手に入れる、と。ルドルフのような言い草だ」

「俺はルドルフにはなりませんよ」

「ルドルフだって、みんなのためだと思っていたんじゃないですかね。みんなのために民主主義を滅ぼし、劣悪遺伝子排除法を制定し、四〇億人を殺した。みんなのためという理由があれば、人間はどんな残酷なことだってできます」

 

 シェーンコップ大将の声に苦い響きが混じった。彼のような人種は「みんなのため」という言葉を何よりも嫌う。

 

「俺がそんな人間に見えますか?」

「あなたは理由のないことは絶対にしません。そして、理由があれば何でもします。ヴァンフリートでも、エル・ファシルでも、解放区でも、ボーナムでも、イゼルローンでもそうでした。自分さえ納得するなら手段は選ばない。あなたはそういう人です」

「そうだとしたら、大丈夫ってことになりませんか? 俺が求めているのは合法的な権力です。独裁者になる理由はありません」

「今の立場に限界を感じたから、権力が欲しくなったんでしょう? 権力者になったら、制度の枠でしか動けない立場に限界を感じるかもしれない。そうなった時、独裁権力が欲しくなるんじゃないですか?」

「権力者になってほしくない。そう言っているように聞こえますが、気のせいでしょうか」

「気のせいではありません」

「どうしてです?」

 

 俺はわかりきった質問をした。この世界の人は俺が戦記を読んだことを知らない。戦記読者なら簡単にわかることでも、あえて質問しなければならないこともある。

 

「お節介だからです。あなたは何から何まで面倒を見ようとする。そんな人が権力を握ったら、どうなるかは考えるまでもない。すべてを統制しようとするでしょうな」

 

 シェーンコップ大将の回答は予想通りだった。ヤン・ウェンリーは面倒も見ないが、統制もしない。前の世界のワルター・フォン・シェーンコップは、そんな人物が権力者になることを望んだ。世界が違っても人間の本質は変わらない。俺が権力者になるのを望まないのは当然と言える。

 

「否定はできません」

「私はヤン元帥を気に入っていましてね。あの人は理想しか見ていない。他人に興味を持っていない。結果さえ出せば文句は言わない。だから、非常に付き合いやすいのです」

「なるほど」

 

 俺は微笑みながら頷いた。確かにそうだと思ったからである。放っておいてほしい人間にとっては、ヤン・ウェンリーこそが理想の上官であろう。

 

「好きにさせてほしい。私の願いはそれだけです。認めていただければ良し。認めていただけないなら、全力で抵抗するまでのことです」

 

 シェーンコップ大将は淡々と言った。

 

「なるべく争いたくないのですが」

「ここまで来たら、個人がどう思うかは関係ないでしょう」

「確かに」

 

 俺は何のためらいもなく認めた。自分が争いたくないと思っても、支持者がそう望んだら争わざるを得ない。エリヤ・フィリップスを支持する者は、聖域の存在を認めないだろう。ヤン・ウェンリーを支持する者は、聖域を守るために命がけで戦うはずだ。

 

「ごちそうになりました。機会があれば、また飲ませていただきたいですな」

「いつでもお越しください。門戸は開けておきます」

「あなたの人生が自分一人のものになった時、お邪魔させていただきます」

 

 その言葉を聞いた瞬間、刃を突き付けられたような気分になった。みんなのために頑張っている間は会わないと言われたに等しい。

 

「わかりました。その時までお元気でいてください」

 

 俺はやっとの思いで言葉を絞り出し、シェーンコップ大将を見送った。何かを求めるならば、代償を支払うのは当然である。求めるものが大きくなるほど、代償も大きくなる。シェーンコップ大将との決別も代償の一つなのだろう。寂しいが止まるわけにはいかない。

 

 シェーンコップ大将はドアの外に踏み出したところで立ち止まり、こちらを振り返った。その視線の先にいるのは俺ではなかった。

 

「ユリエ・ハラボフ大佐。人生に必要なものは、いい女とうまいコーヒーの二つだけです。そのことをフィリップス提督に教えてやってください」

「…………!」

 

 ハラボフ大佐は何も言わずに後ろを向き、テーブルの上を急いで片付け始めた。カップとソーサーとスプーンが乱雑な音を立てる。背を向けているので、表情はうかがえない。

 

 ドアが閉まり、俺はハラボフ大佐と二人きりになった。静まり返った部屋にガチャガチャという音が響く。彼女が何を考えているのかわからない。表情を確認しようとしたら、顔をそらされる。話しかけても答えない。シェーンコップ大将は非常に迷惑な置き土産を残していった。


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