銀河英雄伝説 エル・ファシルの逃亡者(新版)   作:甘蜜柑

124 / 136
第115話:人が足りない 803年6月~8月 第一辺境総軍司令部

 第一辺境総軍は訓練に明け暮れている。若手を育て、ベテランを鍛え直し、同盟軍六〇〇〇万人の手本となる部隊を作るのだ。

 

「まだまだだな」

 

 俺はマフィンをもりもり食べながら、実戦訓練の様子を眺めた。できないことは悪いことではない。人間、誰しも欠点を持っている。できないことではなく、改善しようとしないことが問題なのだ。

 

「長い目で見ましょう。人の育て方とパンの作り方は同じです。焦ったら生焼けになります」

 

 苛立つ俺と対照的に、チュン・ウー・チェン副参謀長はゆったり構えている。

 

「わかっている。長い目で見よう」

「時間をかけるだけでは駄目です。意識を変えないと」

 

 ワイドボーン参謀長が苦々しげに言った。

 

「失敗しても、『指示を守っただけ。自分に責任は無い』と言い張る。下っ端ならそれでも構いませんがね。佐官や将官が言ってるんです。情けないにもほどがあります」

「意識改革も進めないとね」

 

 俺は腕を組んで考え込んだ。第一辺境総軍の士官はやるべきことを理解していない。分艦隊司令官ですら、細かく指示しないと何もできない人間が半数を占める。意識を変えなければ、これ以上の成長は望めないだろう。

 

 ゲルマン第二帝国の宰相ビスマルク侯爵は、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」と語ったそうだ。愚かな俺は過去の経験からヒントを引き出そうと試みた。

 

 七年前に指揮した第八一一独立戦隊は、言われたことすらできない部隊だった。やる気のない幹部を追い出し、真面目な人材を引っ張り、信賞必罰を徹底し、生活環境を改善したことで、言われたことができるレベルまで向上した。しかし、それ以上の進歩はなかった。

 

 六年前に指揮した第三六機動部隊は、当時の正規艦隊所属部隊としては標準的部隊だった。士官に任務を与えたら、最適な手段を考えて実行してくれた。下士官と兵卒は、士官の期待に応えるだけの力量を備えていた。意識の高さは喜ばしいことであったが、それゆえの困難もあった。みんなが自分なりのこだわりを持っているため、内部調整に苦労させられた。

 

 どちらの経験も第一辺境総軍には応用できない。環境は十分に整っている。士気はそれなりに高い。意識だけが低いのだ。

 

 環境を変えることはたやすいが、意識を変えることは難しい。どうすれば、意識を変えることができるのだろうか?

 

 幕僚たちの顔を見回した。ワイドボーン参謀長やチュン・ウー・チェン副参謀長のようなエリートは、一流の人材をさらに伸ばす方法を知っていても、二流の人材を引っ張り上げる方法は知らない。アブダラ副参謀長のような叩き上げは、乏しい戦力をやりくりする方法を知っていても、戦力の質を高める方法を知らない。

 

「人事部長。あなたの意見を聞かせてほしい」

 

 俺が意見を求めたのはイレーシュ・マーリア人事部長だった。エリヤ・フィリップスという最低の人材を育てた彼女なら、良い案を出せるかもしれない。

 

「私の意見は参考になりませんよ」

 

 イレーシュ人事部長は部下の一人として答えた。身内以外の人間もいる場なので、恩師として振舞うことはできないのだ。

 

「俺のケースは参考になるんじゃないか?」

「当時のあなたは努力を知らなかったし、限界も知らなかった。走り方を教えるだけでよかった。でも、第一辺境総軍の士官は違うんですよ」

「何が違うんだ?」

「士官は選ばれた人間なんです。士官学校を出たエリートもいるし、兵卒や下士官の中から抜擢された叩き上げもいる。努力の楽しさも苦しさも知っている。そして、努力では越えられない限界があることも知っている」

「確かに違うなあ」

 

 俺は納得せざるを得なかった。第一辺境総軍の士官は余白の少ないキャンバスだ。真っ白なキャンバスだった自分とは違う。

 

 もう一度幕僚たちの顔を見回した。イレーシュ人事部長以外にも教育畑の人間が何人かいたが、あてにはできないだろう。学生を教えることは、真っ白なキャンバスに絵を描くようなものだ。限界を知ってしまった者に対しては応用できない。

 

 首席副官ユリエ・ハラボフ大佐が右手をまっすぐに上げた。そして、何かを決意した表情でこちらを見る。

 

「意見があります」

「聞かせてくれ」

 

 その言葉を俺に言わせたのは自分の意志ではなく、見えない何かであった。

 

「定期的にレポートを課しましょう。考える習慣を身に着けさせるのです」

「レポートか……」

 

 俺は少し失望した。冷徹無比のハラボフ大佐なら、もっと現実的な意見を口にすると思っていたからだ。

 

 はっきり言って、レポートほど無意味なものはない。軍人の大多数は、無難に過ごせたらそれでいいと思っている。目を付けられたくないという気持ちもある。そんな人たちにレポートを書かせたところで、体裁を整えることしか考えないだろう。だからこそ、馬鹿正直に書いた俺はドーソン提督の目に留まり、添削と言う名のしごきを受けることとなった。

 

「私はレポートを書いて力をつけた提督を知っています。この部隊にも応用できるのではないでしょうか」

「レポートを書いて力をつけた提督……? 誰のことだ?」

「私が尊敬する提督です」

 

 ハラボフ大佐が嬉しそうに答えた。尊敬する提督の話をする時、彼女の冷徹さにひびが入る。

 

「それじゃあ、参考にならないな。その提督はもともとできる人だ。何をやっても伸びる」

 

 俺はハラボフ大佐の意見をやんわりと否定した。彼女が尊敬する提督といえば、オーベルシュタイン提督のように冷徹で、ラインハルトのように勇敢で、メルカッツ元帥のように重厚で、シュターデン元帥のように理性的で、レンネンカンプ提督のように公正で、クラーゼン元帥のように廉潔だそうだ。完全無欠の人間など例として不適切である。

 

「できない人にも応用できます」

「どうやるんだ?」

「中身ではなく姿勢を評価するのです。そうすれば、誰もが考えるようになります」

「少し楽観的すぎないか」

「そうでしょうか?」

「下は上の好みに合わせようとするものだ。姿勢を評価したら、上辺を取り繕う人が増える。今の我が軍を見ればわかることじゃないか」

 

 甘党の俺が見ても、ハラボフ大佐の考えは甘すぎた。数字にできない要素を評価することは難しい。同盟軍が成果主義を廃し、能力主義に切り替えると、努力したふりが流行るようになった。その結果、アピールのうまい者だけが得をしている。

 

「承知しております」

「考えるふりが流行っても構わないというのか?」

「はい。見せかけにも意味はあります。シトレ元帥が統合作戦本部長になると、清廉なふりが流行りました。皆が清廉なふりをしているうちに、汚職できない空気が生まれたのです」

「先に空気を作るということか」

「皆が考えるふりをするようになったら、『指示に従っただけ』なんて言えなくなります。それだけでも大きな進歩ではありませんか」

「ああ、素晴らしい進歩だ」

「全員が考えるふりをするとは限りません。本当に考えている人もいるはずです。これをきっかけに考え始める人もいるでしょう。偽物が本物になることだってあります。一〇〇人中九九人が見せかけだったとしても、本物が一人いれば成功です。〇が一になったのですから」

 

 ハラボフ大佐は俺をまっすぐに見つめた。その緑色の瞳には暖かい光が宿っている。

 

「まったくだ。君の言うことは完全に正しい」

 

 俺はにっこりと笑った。人間は自分が思っている以上に言葉に弱い。建前に過ぎない言葉でも、一〇〇回口に出したら、それが正しいと思えてくる。無意味な言葉でも、一〇〇回聞かされたら、その通りにしないとまずいと思ってしまう。模範的な軍人を演じているうちに、模範的に振舞わねばならないと思い込んでしまった小物の例もある。

 

「あなたらしいやり方ですな」

 

 情報部長ハンス・ベッカー少将が横から口を挟んだ。

 

「そうかな?」

「ええ。相手を変えずに動かす。エリヤ・フィリップスの得意技でしょう」

 

 その指摘は完全に正しかった。内心はどうでもいい、そういうふりをするだけで構わないというのは、俺らしい発想である。

 

「言われてみるとそうだ」

「疲れていらっしゃるんですな。自分らしさを見失っておられる」

「立っている場所、見通せる範囲、握っている権力、達成すべき目標、倒すべき敵……。何もかもが桁違いだからね。余裕がなかった」

 

 俺はここで言葉を切り、ゆっくりと視線を動かした。幕僚一人一人の顔を確認するように見る。それは部下との絆を確認すると同時に、自分自身を確認する行為でもあった。そして、最後にハラボフ大佐を見て笑った。

 

「ありがとう、ハラボフ大佐」

「…………!」

 

 ハラボフ大佐は早口で何か言った後、急に横を向き、手帳を確認し始めた。彼女らしからぬ慌てぶりである。重要な用件を思い出したのだろうか。

 

「彼女の案で行こうと思う。君たちの意見を聞かせてくれ」

 

 俺が意見を求めると、ワイドボーン参謀長が不機嫌そうに口を開いた。

 

「やむを得ませんな」

「不満があるのか?」

「あります。この案に対する不満ではなく、この案を用いざるを得ない現状に対する不満です」

 

 この言葉に対し、ラオ作戦部長、ウノ後方部長、ファドリン計画部長、メッサースミス作戦副部長、バウン作戦副部長らが頷いた。いずれも中央機関や正規艦隊を渡り歩いた面々である。

 

 エリートは自分にも他人にも高い水準を要求する。彼らにとって、標準的な部隊とはラグナロック以前の正規艦隊や常備地上軍、士官学校卒のエリートや優秀な叩き上げが普通の士官、百戦錬磨の鬼軍曹が普通の下士官、鍛え上げられた精兵が普通の兵士である。第一辺境総軍は「普通」とは程遠い部隊だった。

 

「パンを焼くのと同じですね」

 

 チュン・ウー・チェン副参謀長は穏やかにほほ笑んだ。パン屋以外の職業が想像できないような人がパンを引き合いに出すと、尋常ではない説得力がある。

 

「おいしいパンを作ろう」

 

 俺は幕僚たちに向かってにっこりと笑いかけた。至高のパンを作る必要はない。安くてもみんながおいしいと言ってくれるパンを作ればいい。凡人を逸材に変えることはできないが、使えない凡人を使える凡人に変えることはできる。

 

 既存の人材を育てる一方、新しい人材の確保に力を入れた。第九次イゼルローン攻防戦で多くの隊員を失った。テロリストや海賊との戦いによる損害も少なくない。病気、出産、育児などを理由とする休職者は数十万人にのぼる。毎月のように新規部隊が創設された。人材はいくらいても足りなかった。

 

「気鋭の若手、歴戦の勇士、愛国者、市民軍の英雄、優等生、ムードメーカー……。ほとんど詐欺じゃないか」

 

 俺は呆れ顔で国防委員会から送られてきた人材リストをめくった。美辞麗句を弄したところで、中身のしょぼさは隠しようもない。

 

「何回も引っかかったもんね」

 

 人事部長イレーシュ・マーリア少将が意地悪そうな笑いを浮かべた。部屋にいるのは俺と彼女と副官二人だけなので、遠慮がない。

 

「それは言わないでください」

「君の騙されやすいところ、好きだよ」

「あなたに好かれるのは嬉しいですが……。でも、騙されるのは困ります」

 

 俺は苦笑いを浮かべ、もう一度リストを眺めた。若さだけが取り柄の「気鋭の若手」、経験年数だけが取り柄の「歴戦の勇士」、威勢の良さだけが取り柄の「愛国者」、市民軍在籍経験だけが取り柄の「市民軍の英雄」、大人しいだけが取り柄の「優等生」、要領の良さだけが取り柄の「ムードメーカー」が名を連ねている。この中から選ばないといけないと思うと、頭が痛くなる。

 

 少し離れたデスクで作業をしていたハラボフ大佐が立ち上がり、早足でこちらにやってきた。俺の机の上に大きな皿を置き、その上で紙袋をひっくり返す。どさっという音とともにマフィンの山が現れた。

 

「お召し上がりください」

「ありがとう。ちょうど糖分が欲しいところだった」

 

 俺が礼を言うと、ハラボフ大佐は無言で一礼し、早足で席に戻った。

 

「過保護だねえ」

 

 イレーシュ人事部長が微笑ましそうにハラボフ大佐のいる方向を見た。

 

「厳しくできないんですよ。俺は甘党ですので」

「君じゃないよ」

「えっ?」

 

 クエスチョンマークが頭の中を乱舞したが、イレーシュ人事部長は構わずに話を続けた。

 

「一番悪いのは政府だよ。人事政策がめちゃくちゃだから」

「認めるしかないです」

 

 トリューニヒト政権寄りの俺でも、今の人事政策を擁護することはできない。同盟軍再編の一環として施行された新人事基準は、建軍以来の伝統を誇る成果主義を廃し、能力主義への転換を図るものだった。着眼点は悪くなかったが、運用がいい加減であったため、アピールのうまい者だけが得をした。

 

「しばらくは変えないだろうけどね。間違ってたってことになるから」

「最善が無理なら次善を求めましょう」

 

 俺はマフィンを食べて糖分を補充すると、人選作業に取り掛かった。一〇月クーデターと粛軍によって多くの人材が失われた。狂った人事政策のおかげで、微妙な人材ばかりが登用されている。うんざりするような状況だが、それでも投げ出すわけにはいかない。

 

「士官と下士官はましだけどね。予備役を再招集できるから、頭数だけは揃えられる。問題は兵隊だよ。頭数すら揃わない」

 

 イレーシュ人事部長は豊かな胸を抱え込むように腕を組み、椅子の背板にもたれかかった。ふんぞり返ったわけではない。身も心も疲れ切っているのだ。

 

 同盟軍の兵士不足は深刻である。志願者数は七七〇年に匹敵する低水準となった。反戦運動が最高潮に達した年と同じ程度の志願者しかいないのだ。定数割れに陥った部隊は三割にのぼる。正規艦隊や常備地上軍ですら定数割れが生じた。

 

「軍が招いたことです」

 

 俺はやるせない気持ちを言葉にして吐き出した。同盟軍には返しきれないほどの恩義がある。自分を育て、あらゆるものを与えてくれた。だからこそ、悲しまずにはいられない。

 

 同盟軍に対する信頼は最底辺まで落ち込んでいる。ラグナロック戦役では国が傾くほどの金を使い、兵士数千万人を死なせ、虚偽発表で市民を欺き、非人道的行為を重ねた。ボロディン元大将が統合作戦本部長を務めていた時期には、移民保護を目的とした武力介入を繰り返す一方で、反乱鎮圧に消極的な姿勢を示したため、辺境住民の怒りを買った。八〇一年一〇月末に制服組トップがクーデターを起こし、市民に銃口を向けた。トリューニヒト粛軍以降は、汚職や人権侵害を立て続けに起こした。社会の敵と言っても過言ではない有様だ。

 

 軍人という職業に対するイメージの悪化が、同盟軍の不人気に拍車をかけた。七九二年から八〇一年まで続いた軍縮により、大量の軍人が解雇され、軍に残った者の待遇も切り下げられた。危険度が高いわりに、給料や福利厚生が良くない。現役で働ける期間が短いわりに、退職後の保障が少ない。命令に従っただけで犯罪者になりかねない。トリューニヒト政権が待遇改善に取り組んでいるが、悪いイメージを払拭するには至らなかった。

 

「競合相手も多いからねえ。軍より魅力的な職場がたくさんあるから」

 

 イレーシュ人事部長は力なく笑った。非凡な容姿を持つ彼女だが、内面はごく普通である。普通ゆえに、若者が軍以外の職場を選ぶ気持ちがわかるし、愛着ある職場の不人気ぶりを残念に思う。

 

 競合相手を作り出したのはトリューニヒト政権である。積極財政が巨大な雇用を生み、労働力需要を増大させた。星間保安隊、国民保護部隊、学生保護部隊、労働救援部隊といった新しい準軍事組織は、安全だが国家に貢献できる職場として人気を集めた。産業支援部隊、労働奉仕庁、農業支援部隊などは、若い労働力の確保に血道を上げた。安全でイメージの良い職場が、ただでさえ不人気な軍隊から志願者を奪い取った。

 

 徴兵数を増やすという最も手軽な案は、軍需産業界の反対にあって頓挫した。若い労働者が徴兵されたら、生産ラインを維持できなくなるというのだ。軍需産業は特に人手不足が深刻で、受注に生産が追い付かない状態が続いていた。

 

「地道に信頼を取り戻すしかありません」

 

 俺はため息まじりに言った。一度失った信頼を取り戻すのは難しい。それでも、地道に頑張るしかなかった。

 

 一番大事なのは任務を果たすことだ。テロを防ぎ、航路の安全を確保し、危険地域を警備し、治安の安定に務める。基地祭を開き、地域行事に協力し、市民との交流を深める。講師を学校や自治体に派遣し、国防や防災に関する知識を伝える。警察官や消防士や自治隊職員に訓練を施す。有人惑星に接近する小惑星や隕石を破壊する。体験入隊者を受け入れる。映画やテレビの撮影に協力する。これらの任務を着実にこなすことにより、実績を積み上げていく。

 

 広報活動によるイメージアップも同時に進めた。「同盟軍は信用できないが、市民軍は信用できる」と思っている市民は多い。軍が市民軍のような立派な組織だとアピールするため、市民軍の英雄を前面に押し立てた。メディアに出演させる一方、地域行事へのゲスト参加、学校や福祉施設への訪問なども行った。

 

 忙しい中、親友アンドリュー・フォークから届いたメールに目を通した。三日前に届いたメールだが、何回も読み返している。

 

 ラグナロック戦犯裁判の中で、冬バラ会悪玉論の誤りが明らかになった。国防委員会は冬バラ会メンバーに対する訴追を行わないとの方針を示した。それでも、無罪と認定されたわけではない。主犯ではないが共犯ではある。法律が許しても、世間が許さない。

 

 俺はコネを駆使して、アンドリューをフェザーンの名門大学に官費留学させた。人材不足とはいえ、彼の現役復帰を認める者はいないだろう。民間で働くのも難しいはずだ。アンドリューが勉強し直したいというので、ほとぼりが冷めるまで留学することとなった。

 

「元気そうで何よりだ」

 

 アンドリューのメールを見るだけで頬が緩んでくる。門閥貴族の坊ちゃん、上院議員の息子、官費留学した官僚、最先端の学問を学びに来た学者、キャリアアップを目指すビジネスマン、バイトしながら勉強する苦学生、勉強を老後の楽しみにする引退者、青春を謳歌する普通の学生……。国籍も年齢も階層もばらばらの学生と共に学び、共に遊び、絆を深める。本当に楽しそうだ。

 

 彼に手伝いを頼むことに軽い罪悪感を覚えた。軍事や政治と完全に決別させた方が良いのではないか? 大学生としての平穏な生活を妨げる権利があるのか?

 

 いや、今はアンドリューの力が必要だ。ロボス・サークルはロボス元帥に密着しており、旧ロボス派の中でも孤立した存在だった。アンドリューが仲介しなければ、ロボス・サークル残党を引っ張り込むことはできない。

 

 人材不足を解決するため、俺は旧ロボス派の取り込みを図った。かつての軍部最大派閥は、旧シトレ派に匹敵する人材の宝庫である。第一辺境総軍には旧ロボス派出身者が大勢いる。あまりに多いので、「ロボス総軍」と呼ばれるほどだ。そのコネを生かし、即戦力の人材を引っ張った。元冬バラ会など複雑な事情を抱える人物にも声をかけた。

 

 アンドリューには明かしていないが、旧ロボス派の取り込みには別の目的もあった。政党にとって、近しい軍人はブレーンであり、軍部に介入するための尖兵である。国民平和会議(NPC)残党から旧ロボス派軍人を引き剥がし、軍部に対する影響力を消滅させるのだ。

 

 ラウロ・オッタヴィアーニ、エステル・ヘーグリンド、エティエンヌ・ドゥネーヴ、バイ・ジェンミン、ビハーリー・ムカルジ、パヴェル・ネドベド、シャーリー・ラングトン、そしてコーネリア・ウィンザー。ラグナロックを起こしたNPCの指導者たち。謝罪の言葉すら口にせず、軍に責任を押し付けた。こいつらの復権は絶対に認めない。それが生き残った者としての務めだ。

 

 決意を新たにしたところで、新しいメールが届いた。差出人の名前を見た瞬間、息が詰まりそうになった。

 

「ジェシカ・ラップ……」

 

 人違いではないかと思い、肩書きを確認した。「平和と民主主義を守る母親の会」という団体の代表だそうだ。

 

 平和と民主主義を守る母親の会のサイトを見ると、代表の顔は見覚えのある顔であった。ジェシカ・ラップは、前の世界の反戦政治家ジェシカ・エドワーズだった。

 

「世界が違っても反戦活動をしてるのか」

 

 俺は意外な思いに打たれた。前の世界のジェシカ・エドワーズは、婚約者ジャン=ロベール・ラップの戦死をきっかけに反戦活動家となった。この世界のジェシカ・エドワーズは、婚約者と無事に結婚し、ジェシカ・ラップとなった。婚約者が生きているのに、反戦活動をやっている。

 

 前の世界で戦死したジャン=ロベール・ラップは、この世界では宇宙軍中将まで昇進し、予備役に編入された。現在はハイネセン記念大学平和研究センターの准教授を務めている。平和将官会議のメンバーで、反戦・反独裁市民戦線(AACF)の国防政策ブレーンでもある。若き反戦知識人といったポジションだ。

 

 平和と民主主義を守る母親の会のサイトを見ると、明らかにAACF系の団体だ。前の世界で反戦市民連合代表だったラップ夫人だが、一市民団体の代表に過ぎない。夫が生き残った分、割を食ったのだろう。本人にとってはこちらの方が幸せかもしれないが。

 

 ラップ夫人から送られてきたメールの件名は、「有力者子弟の兵役服務状況」であった。

 

「穏やかじゃない題名だ」

 

 俺は砂糖とクリームでドロドロになったコーヒーを飲みほし、糖分を補充した。AACF系の団体と兵役という組み合わせは不吉極まりない。十分な糖分を確保し、覚悟を決め、深呼吸する。

 

 平和と民主主義を守る母親の会は、政治家・軍幹部・高級官僚・財界人のうち、徴兵適齢期の子弟を持つ二五万二〇〇〇人に関する調査を行った。その結果、子弟を軍隊に入隊させた者は一四・二パーセント、前線に送り出した者は〇・八パーセントに過ぎなかったという。

 

「有力者の子弟のうち、軍隊に入った者は七人に一人、前線に出た者は一二五人に一人。この数字は何を意味するのでしょうか?

 

 彼らは『この戦争は民主主義を守るための聖戦だ』と言います。それならば、なぜ自分の子供を聖戦に参加させないのでしょうか? 民主主義を守りたくないのでしょうか?

 

 彼らは『戦わなければ、祖国を守れない』と言います。それならば、自分の子供を戦わせようとしないのでしょうか? 祖国を守りたくないのでしょうか?

 

 彼らは『戦死は名誉なことだ』と言います。それならば、なぜ自分の子供に名誉を与えようとしないのでしょうか?

 

 彼らは『兵役は崇高な義務だ』と言います。それならば、なぜ義務を果たそうとしないのでしょうか?

 

 戦争の大義を説き、敵国の脅威を煽り、名誉の死を賛美し、他人の子供を戦場に送り出しているのに、自分の子供だけは安全な場所に避難させる。これほど筋の通らない話はありません。彼らは自分ができないことを他人に求めているのです」

 

 メールの添付ファイルには、二五万二〇〇〇人全員のデータが添付されていた。自分の目で確かめさせるためだろう。

 

「確認してみるか」

 

 俺は添付ファイルを開き、知り合いの軍幹部二〇名と政治家二〇名をピックアップした。彼らの子弟の服務状況が俺の記憶と一致していれば、データが正しいということになる。

 

「捏造ではないのか……」

 

 データは俺の記憶とほぼ一致していた。一致していない件については、俺の記憶の方が間違っているように思われる。それほどに精度の高いデータだった。反戦派の調査能力は大したものだ。

 

 国防白書をフォルダから引っ張り出し、統計を添付ファイルと突き合わせた。データが正しいからといって、分析が正しいとは限らない。正確なデータを提示しておいて、それと矛盾する内容の分析をくっつけるというのは使い古された手法だ。大抵の人間は数字をポンと出された時点で信用してしまう。データを曲げられなくても、印象は曲げられる。

 

 徴集兵三一〇〇万人に、徴兵適齢期にあたる士官・下士官・志願兵・士官候補生九〇〇万人を加えると、徴兵適齢期人口の五・九パーセントが軍隊に入っている。有力者の子弟の入隊率は一四・二パーセント。平均的市民と比べるとかなり高い。

 

 全軍のほぼ半数が外征部隊の戦闘要員、危険地域の警備要員などの前線勤務者で、その三分の二が徴兵適齢期にあたる。前線で勤務する徴兵適齢期の若者はおよそ二〇〇〇万人。徴兵適齢期人口の三・〇パーセントが前線勤務者なのだ。有力者の子弟の前線勤務率〇・八パーセント。平均的市民よりかなり低い。

 

 高い入隊率と低い前線勤務率は、箔をつけるために入隊した者が多いことを示している。戦時体制が一世紀半続いた同盟では、軍歴はステータスになる。箔をつけるために入隊する者は少なくない。コネを使って後方勤務に回してもらえば、リスクを冒さずに軍歴を獲得できる。兵役経験を売りにする政治家の多くは、後方勤務しか経験していない人間だ。

 

「予想はしてたけどね」

 

 俺は予想の範囲内だと自分に言い聞かせた。後方勤務者に有力者の子弟がやたらと多いことは、軍人なら誰でも知っている。それでも、数字として提示されると胸が痛くなる。

 

 有力者の子弟に対する「配慮」を求められたことは、一度や二度ではなかった。親が直接依頼する場合もあるし、親から依頼された人間が話を持ち込んでくる場合もある。

 

 不当な要求だが拒否するのは困難だった。政治家も軍人も官僚も財界人も学者もジャーナリストも、無償で動くほど善良ではない。協力してくれた相手には、一定の「配慮」が必要になる。拒否するにしても慎重に説得しなければならない。高い入隊率と低い前線勤務率の背後には、こうした取引の積み重ねがある。問答無用で拒否できるのは、ヤン・ウェンリーのように有力者と一切取引しない人間だけだ。

 

「党派別の数字を出してみよう」

 

 政治家の所属党派で絞り込みを行い、党派別の服務率を算出した。民主主義防衛連盟(DDF)所属議員が一位、統一正義党所属議員が二位、大衆党所属議員が三位、独立と自由の銀河(IFGP)所属議員が四位、和解推進運動所属議員が五位、汎銀河左派ブロック所属議員が六位、AACF所属議員が最下位になった。

 

「良心的徴兵拒否者は除外しないといけないな」

 

 母数から徴兵拒否者を差し引き、服務率を計算し直した。権力を使って徴兵を逃れた者と、リスクを冒した者を一緒にすることはできない。

 

 良心的徴兵拒否は同盟市民に認められた正当な権利である。この権利を行使しても、法的な罰則を受けることはない。徴兵拒否者は公的な奉仕労働に従事することで、兵役を務めたものとみなされる。だが、社会的には大きなリスクがある。「兵役から逃げた奴」として白眼視されるのだ。就職や進学で目に見えない差別を受ける。同盟加盟星系の中には、徴兵拒否者に公務員試験受験や公的奨学金受給を認めない星系も少なくなかった。

 

 はっきり言うと、良心的徴兵拒否は割に合わない。徴兵されるのは兵役対象者の三パーセントにすぎないので、何もしなくても九七パーセントの割合で徴兵を回避できる。運悪く徴兵されたとしても、一度も戦場に出ずに任期満了を迎える者の方が多い。損得を考えるなら、あえて良心的徴兵拒否を選択する理由がないのだ。

 

 良心的徴兵拒否者を差し引くと、DDF所属議員が一位、統一正義党所属議員が二位、大衆党所属議員が三位、AACF所属議員が四位、和解推進運動所属議員が五位、汎銀河左派ブロック所属議員が六位、IFGP所属議員が最下位になった。

 

 この結果は意外でも何でもなかった。AACFは損得度外視でイデオロギーを貫く者が多いのだろう。和解推進運動の旧楽土教民主連合出身者は、宗教上の理由による拒否者が多いと思われる。汎銀河左派ブロックとIFGPは、同盟秩序そのものに懐疑的だ。

 

 次に党派別の前線勤務率を算出した。AACF所属議員が一位、統一正義党所属議員が二位、和解推進運動所属議員が三位、IFGP所属議員が四位、汎銀河左派ブロック所属議員が五位、DDF所属議員が六位、大衆党所属議員が最下位になった。二位と三位、五位と六位、六位と七位の間には大きな差がある。

 

 これも予想通りだった。AACFと統一正義党が極端に高いのは、前線勤務を志願する人が多いためだろう。和解推進運動は国防意識の高い人と道徳的非暴力主義者が混在している。IFGPと汎銀河左派ブロックは、前線勤務志願者も少ないが、「配慮」を求める力もない。DDFは腐敗したNPCの残党で、現在も軍部に一定の影響力を持っている。大衆党については、お察しくださいと言ったところだ。

 

「予想はしてたけど、へこむなあ……」

 

 俺はため息をついてマフィンを食べた。主戦派だろうが反戦派だろうが、潔癖な人は前線に行きたがるし、俗物は安全な場所に逃げたがる。非暴力主義以外のイデオロギーは闘争を否定していない。

 

 反戦運動をリードする退役軍人と戦没者遺族にとって、「安全な場所で戦争を煽る主戦派」は何よりも許し難い存在だ。戦場で味わった苦しみ、家族や友人を失った痛み、前線に理不尽を押し付ける者に対する怒りが、彼らを動かしている。

 

 七六九年三月の第二次イゼルローン攻防戦は、反戦運動に大きな転換を促した。同盟軍は無謀な突撃を繰り返し、兵士二〇〇万人を死亡させた。コルネリアス一世の親征以降最大の敗北は、同盟社会に大きな衝撃を与えた。最後の総攻撃が下院選挙前日に実施されたこと、総司令官ハウエル大将が戦場から五光年離れた場所で指揮をとったことが明らかになると、人々の怒りは沸騰した。知識人や宗教者による穏健な反戦運動は、帰還兵と戦没者遺族による過激な反戦運動にとってかわられた。この事件は「七六九年の衝撃」と呼ばれる。

 

 現在の反戦運動は、七六九年に立ち上がった「シックスティナイナーズ(六九年組)」の系譜を受け継いでいる。AACFのソーンダイク副代表は、第六艦隊副司令官として第二次イゼルローン攻防戦に参加し、子供三人がトゥールハンマーに吹き飛ばされる様を目の当たりにした。銀河平和主義者協会のエルゲン会長は、第二次イゼルローン攻防戦で撃沈された戦艦グラナダの唯一の生き残りだ。

 

 犠牲を払った人々に「安全な場所から戦争を煽るのはやめろ」と言われたら、普通の人間は沈黙するだろう。主戦派の戦場経験者はこの批判に当てはまらないが、反戦派に言い返すことはない。後方で勝手なことを言う連中に腹を立てているのは、反戦派だけではないのだ。

 

 後方には後方の言い分がある。「安全な場所で戦争を煽るな」と言われたら、彼らは「自分がいる場所と戦争の是非は別だ」と答えるだろう。「そんなに戦争が好きなら、自分が戦えばいい」と言われたら、彼らは「後方を固めるのも大事な仕事だ」と反論するだろう。「自分が戦えないのなら、身内を前線に出せ」と言われたら、彼らは「本人が決めることだ」と言うだろう。

 

 当事者の絶対化を問題視する立場からの反論もある。「安全な場所で戦争を煽るな」という主張は、「危険な場所にいたら、何を言ってもいい」と解釈することもできるのだ。

 

 主戦派にとっても、戦場経験や家族の死は強力な武器となる。右派政党の政治家には退役軍人や遺族会会員が多い。犠牲を払った者が「帝国は絶対に許せない」と言ったら、普通の人間は沈黙せざるを得ないのだ。そのため、前線に行って戦場経験を手に入れようとしたり、子供を前線に送って遺族会入会資格を獲得しようとしたりする者が後を絶たなかった。

 

 それでもなお、「安全な場所で戦争を煽るな」という主張が、説得力を失うことはないだろう。戦時国家において、血を流した人間の言葉は何よりも重い。

 

「反論はできない」

 

 俺は相手に理があることを認めた。ラップ夫人が血を流したわけではない。だが、義務を果たさぬ者を擁護する気がなかった。

 

 正直なところ、前線勤務を忌避する有力者の子弟に対しては、不快感を覚える。後方勤務だって立派な仕事だ。有力者の子弟は学歴が高く、将来のエリート候補なので、前線に出すのはもったいないという見方もある。だが、先頭に立って人々を引っ張るのは、エリートの仕事なのだ。汗のにおいを知らず、涙の苦さを知らず、危険を乗り越えず、恐怖を乗り越えず、苦しみを乗り越えず、理論と計算のみを知っている。そんな人間に誰がついていくというのか。

 

 結局のところ、人を動かすのは熱量だ。流した汗、流した涙、流した血、乗り越えた危険、乗り越えた恐怖、乗り越えた苦しみが言葉に熱を与える。

 

 熱があれば、何も持っていなくても人を動かせるし、上に立つ資格がある。理屈や戦略は必要ない。そんなものは上に立ってしまえば、誰かが用意してくれる。前の世界のジェシカ・エドワーズは平凡な女性だったが、巨大な熱量を持っていた。婚約者を失った悲しみが彼女の言葉に熱を与えた。熱い感情論を吐けるという一点において、彼女は頂点に手をかける資格があった。

 

 熱がなければ、あらゆるものを持っていても人を動かせないし、上に立つ資格もない。この世界のヨブ・トリューニヒト議長は、熱を失ってしまった。親子のような関係だった俺ですら、今の彼の言葉には説得力を感じないのだ。

 

「まずいことになった」

 

 俺は困った顔で髪をかきまわした。このメールが俺一人に送られたとは思えない。あちこちにばらまかれたはずだ。そう遠くないうちに表に出るだろう。

 

 同盟軍が信頼を失っている時に、組織ぐるみの不正人事が明らかになったらどうなるか。エルクスレーベン事件を凌ぐスキャンダルに発展するだろう。志願者はさらに減るはずだ。徴兵制廃止論が再燃するかもしれない。

 

 俺は国防委員会にメールを転送した。自分の一存で判断できる問題ではない。政治サイドに判断してもらおう。

 

 次から次へと問題が出てくる。ヤン・ウェンリーや警察やカメラートと戦うどころではない。明日になったらまた問題が増えるのだろうか? この国を亡ぼすのは国内問題ではないか? ラインハルトと対決する前に自滅するのではないか? そう思えてならなかった。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。