銀河英雄伝説 エル・ファシルの逃亡者(新版)   作:甘蜜柑

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第126話:上を見れば果てしなく、下を見れば底がない 804年11月14日~15日 ハイネセンポリス

 銀河帝国・フェザーン・地球の三国が金融協力協定を結んだとの知らせは、全銀河を驚愕させた。三国の立場は完全に対等であるという。

 

「嘘だろう」

 

 人々は自分の目と耳を疑った。常識とあまりにかけ離れていたからだ。

 

 ルドルフ以来、帝国は「人類社会における唯一絶対の支配者」を自称してきた。この建前は自由惑星同盟の出現によって実質を失った。だが、同盟の憲章にあたる「大帝遺訓」に明記されているため、法的には有効であり続けた。

 

 帝国が他国と対等の協定を結ぶことなどありえない。亡命帝マンフレート二世は対等講和を模索したために殺された。皇帝弑逆は帝国においては最悪の犯罪とされるが、亡命帝を殺した者は一切の罪に問われず、恩賞を賜った。遺訓は皇帝の命より重い。救国軍事会議は帝国政治のタブーを次々と破った。それでも、遺訓タブーに挑むとは思われなかった。

 

「見間違いに違いない」

「聞き違いに違いない」

 

 人々は現実と常識の整合性を取ろうと躍起になった。三国協定に関する救国軍事会議議長ラインハルト・フォン・ローエングラムの会見動画は、一分間に数億回というペースで再生された。

 

 常識を守るための戦いは四時間で終わりを告げた。帝国がフェザーンと地球の独立を認めたことが判明したのである。フェザーン自治領は「フェザーン自由国」、地球自治領は「地球教国」となった。フェザーン駐在高等弁務官ウド・デイター・フンメルは「駐フェザーン大使」に任命された。太陽系・シリウス高等弁務官レナートゥス・フォン・ターク中将は、「駐地球大使」の兼帯を命じられた。

 

 それから間もなく、ロンドリーナなど八か国が金融協力協定に加わった。これらの国々は帝国自治領であったが、協定参加と同時に独立を宣言した。

 

「我が国は金融協力協定参加国をすべて独立国として承認する。サジタリウス腕諸国も例外ではない」

 

 ラインハルトはこのように述べた。同盟と国交を樹立する意思を明確に示したのだ。

 

「…………」

 

 俺はテレビを見ながら呆然とした。ラインハルトが何でもありなのは知っている。だが、知っているだけだ。何をするのかはわからない。そして、彼が打ってくる手は、凡人の予想など軽々と超えていく。

 

「どうなるんでしょうか……」

 

 隣に座る副官代理シェリル・コレット少将がこちらを見た。彼女は傑出した才能と精神を持っている。それでも、ラインハルトの圧倒的天才性には遠く及ばない。

 

「わからないなあ」

 

 それ以外の答えは思いつかなかった。この世界で身につけた常識は役に立たない。凡人が知識と経験を蓄えたところで、物知りの凡人になるだけに過ぎない。前の世界の記憶は役に立たない。このような状況が発生しなかった。

 

「フェザーンも地球も混乱しているようです。帝国との国交樹立について、何のアナウンスもありません」

 

 コレット少将は冷静に指摘した。

 

「上だけで勝手に決めちゃったんだろうな」

「気持ちはわかります。フェザーンと地球にとっては、願ってもないチャンスですから」

「ローエングラム公は怖いね。自治領主と総大主教が手玉に取られてる」

 

 俺は軽く肩をすくめた。アドリアン・ルビンスキーもシャルル二四世も無能とはほど遠い。しかし、常識の範囲内での優秀さは、規格外の天才には敵わない。

 

「しょせんはフィリップス提督の引き立て役ですが」

 

 とんでもないセリフを吐いた後、コレット少将は端末を開いた。年配の男性の写真が映し出された。凶悪な面相とえげつない肩幅を有しており、軍隊と警察と傭兵部隊と犯罪組織にしか居場所がなさそうな類の人種である。

 

「アラルコン提督との会食はいかがなさいますか?」

「行くよ。キャンセルしたところで、別れを先延ばしするだけだ」

「できれば、ずっと味方でいてほしかったのですが」

「しょうがない。主戦論者を六〇年もやってきた人に『講和に協力しろ』なんて言えないよ」

 

 未練を振り切るように、俺は言った。戦友の絆ほど大事なものはない。そして、戦友との別れほど辛いものはない。

 

 お好み焼き屋「ヨッチャン」に到着した俺は、憂鬱な気分でノレンをくぐった。食欲をそそる匂いが鼻孔をくすぐる。楽しげな話し声が耳に飛び込んでくる。それでも気分は晴れない。

 

「お待ちしておりましたぞ!」

 

 サンドル・アラルコン予備役上級大将は大口を開けて笑い、片手で大ジョッキを掲げた。先に一杯やっていたらしい。

 

「ご機嫌だな」

「それはもう!」

「ソフトドリンクも頼んでおきました! ペットボトルで!」

「ありがとう。のどが渇いていたんだ」

「お好み焼きはすべて私が焼きます!」

「いいのか?」

「私がなぜ今日まで生き残ってきたのか!? それは他人にヘラを決して預けなかったからです!」

「そ、そうか……」

「あと、白米を注文するのは禁止です! お好み焼きに白米は邪道ですからな!」

「わかった……」

 

 俺は少し引いた。そして、お好み焼き屋を選んだことを後悔した。

 

「じゃあ、さっそく本題に入りましょう!」

「えっ!?」

「私の性格はご存知でしょう!?」

「よく知ってる」

「では話が早い。単刀直入にいきます」

 

 アラルコン上級大将は真顔になった。

 

「わかった」

 

 俺は覚悟を決めた。ここまで来たら逃げられない。

 

「私はあなたに従います」

「本当か?」

 

 俺は自分の耳を疑った。

 

「このサンドル・アラルコンに二言はありません」

「俺が講和派なのは知ってるだろう?」

「知っております」

「本当にいいのか?」

「ええ」

「…………」

「嬉しくないのですか?」

「嬉しいんだけどね……」

 

 本来なら喜ぶべき場面であったが、俺は困っていた。筋金入りの主戦論者が簡単に転向するとは思えないからだ。

 

「お気持ちはわかりますぞ。サンドル・アラルコンと主戦論は同義語ですからな」

「理由を聞かせてくれ」

「エリヤ・フィリップスの物語に参加したいのです」

「は……?」

「いろいろ考えたんですがね。忘れられんのですよ。あの輝きが」

 

 アラルコン上級大将は眩しそうに目を細める。

 

「エリヤ・フィリップスという光に灼かれてしまったのです。思想も。信念も。憎悪も。怨恨も」

「市民軍ではたまたまうまくいっただけだ。同じことを期待されても困る」

「英雄の英雄たる所以は生き方です。利益を求めず、名誉を求めず、祖国の安寧のみを求める。敵を憎まず、友を贔屓せず、万民の幸福のみを求める。そんなあなたの生き方が、私にはどうしようもなく眩しく、仰ぎ見ずにはいられません」

「俺はそんなに立派な人間じゃない」

「真顔でそう言えるところが立派です。立派だから現状に満足せず、より良い自分を目指して努力する。あなたは常に進歩し続ける。あなたは常に変化し続ける。凡人にはなし得ないことですよ」

「よくわかった」

 

 俺はここで話を打ち切った。聞いてて恥ずかしくなるからである。アラルコン上級大将はなにか言いたげだったが、お好み焼きを次から次へと注文し、ヘラに集中するよう仕向けた。お好み焼き屋を選んだのは正解だった。普通の店なら、アラルコン上級大将はべらべら喋りまくり、俺の羞恥心に深刻な打撃を与えただろう。

 

 食事を終えると、俺はテレビ局に直行し、二一時のニュース番組に出演した。講和問題については一切発言しない。「こういうことを言ってほしい」という国防委員会からの要望はなかった。こちらから国防委員会に「こういうことを言いたい」と連絡したが、返事はなかった。

 

 その後もテレビ出演や動画配信をこなしたが、国防委員会は何も言ってこない。結局、何も言えないままに終わった。

 

「何やってるんだ」

 

 宿舎に戻った俺は、忌々しげに国防委員会公式サイトを睨んだ。講和問題に関する公式コメントは未だに出ていない。中心になって動くべき官庁がコメントの一つも出せないのだ。

 

 国防委員会の上部組織である最高評議会は、この期に及んでも沈黙を崩さない。外部への発信は完全に停止した。講和勧告以降、定例記者会見は一度も行われていない。主要SNSに設けられた官邸公式アカウントは何も語らない。ヨブ・トリューニヒト最高評議会議長の公式アカウントは、非公開となった。閣僚は議長官邸に集まっているらしいが、閣議は行われておらず、何をしているのかは不明だ。

 

 各委員会においては、委員長が登庁しないため、副委員長が委員長代理として職務を執った。議会には副委員長が出席している。

 

 同盟国内の諸勢力は様子見に徹した。動きたくても動けない。いつ盤面が引っくり返されるかわからない。ラインハルトというジョーカーの存在が彼らを慎重にさせた。

 

 事態が膠着化する中、ネットだけが活発に動いている。喋るだけならコストは必要ない。皆が軽い気分で感想を言う。何かあるたびに一言言わねば気がすまない人が騒ぎ出す。どの勢力も動きが取れないため、暇を持て余した専門家が参入してくる。電脳空間は講和問題一色に染まった。

 

 保守派とタカ派リベラルは、雪崩を打つように講和派を支持した。彼らの理想はラグナロック戦役で潰えた。講和派の誕生はいい機会だった。反戦派は嫌いだが、もとを辿れば同じハイネセン主義者であり、反ハイネセン主義者よりは親しみを持てる。新しい大義を得た彼らは、嬉々として自分たちの正しさを誇った。

 

 講和派の盛り上がりは、アンチ・リベラルやアンチ・移民の怒りを刺激した。彼らはハイネセン主義の建前とそれに基づくものすべてを嫌っている。嫌いな連中がはしゃいでいることが許せないのだ。

 

 中立主義者は右でも左でもない中立的見地に立ち、講和派に冷笑を浴びせた。彼らは基本的に何かの否定しかできない。

 

 反戦・反独裁市民戦線(AACF)を始めとする反戦リベラルは、大いに困惑していた。そもそも、彼らは対等講和など目指していなかった。マンフレート亡命帝が殺された後、両国の反戦派は対等講和を断念し、相互不干渉宣言による「国交なき講和」を追求した。数年がかりで相互不干渉に持っていくつもりだった。だが、ほんの数日で帝国が国交樹立を求めるところまできた。戦略は水泡に帰した。理論は通用しなくなった。態勢を立て直すにも時間がかかる。

 

 統一正義党を始めとする極右勢力は、夢の世界に逃げ込み、「市民一人一人が一万ディナール出せば無借金で戦争できる」といって募金を募ったり、「帝国は油断している。今攻めれば勝てるぞ」と叫んだりしている。戦争を心底から支持していた者は、想像よりはるかに少なかった。主戦派の大多数は、講和派にあっさり鞍替えしてしまった。反講和派の主流は、強硬な主戦論者ではなく、講和派のアンチであった。戦争が支持されていないという現実を突きつけられて、彼らは正気を失った。

 

 トリューニヒト派は蚊帳の外に置かれていた。これまでは戦争もフェザーンも地球教も肯定すべき対象だった。しかし、フェザーンと地球教が突如として講和派に回った。戦争を肯定すれば、フェザーンと地球を否定することになる。フェザーンと地球を肯定すれば、戦争を否定することになる。トリューニヒト議長は答えを教えてくれない。講和派にも反講和派にも加担できず、傍観するしかなかった。

 

 ネットと現実社会は表裏一体の関係にあり、双方が相互に影響を与えながら世論を形成していく。この構図はいずれ現実社会に波及するだろう。

 

「それにしても、無様だな。超無様だ」

 

 第一辺境総軍ネット監視部隊の報告書を読んだ俺は、憤りを覚えた。主戦派はこんなに脆かったのか。こんな連中のために命を賭けてきたのか。「英雄エリヤ・フィリップス」を支持していたのはこんな連中だったのか。

 

 結局のところ、主戦派の大多数は戦いたい人や国を守りたい人ではなく、みんながやってるからやるだけの人だったのだろう。だからこそ、あれほど無責任でいられたのだ。戦争をやっているという感覚すらなかったのだ。

 

 主戦派は自らを「リアリスト」と称し、「現実を見ろ。戦争は続いているんだ」と言い続けた。しかし、「現実を見ろ」と言う以上のことはしなかった。要するに「現実の見えている自分は正しい」と言いたかっただけだ。変わらぬ現状を肯定することで、変われぬ自分を肯定したかっただけだ。現状を変えようとする者を嘲笑することで、何もしない自分を肯定したかっただけだ。かつて反戦派に投げつけた「現実をわきまえぬお花畑」という言葉は、彼ら自身にこそ当てはまっていた。変われぬ自分から目を背け、何もしない自分から目を背け、自己肯定の花畑に安住していた。

 

 花畑にしがみつこうとする者は、エリヤ・フィリップスに望みを託した。第一辺境総軍広報部とエリヤ・フィリップス・ファンクラブ事務局に、講和反対を訴えるメール数百万通を送りつけた。SNSのエリヤ・フィリップス公式アカウントに、講和反対のコメントを出すよう求めるリプライ数百万回を送った。エリヤ・フィリップスが配信した動画に講和反対を訴えるコメントを大量に送った。

 

 武装蜂起、トリューニヒト政権打倒、主戦派軍事政権の樹立、フェザーン出兵などを期待するメッセージも寄せられた。むろん、憲兵隊に一件残らず通報した。一般回線の通信使歴は、すべて公共安全局に保存されている。放置したら俺が疑われかねない。

 

「フェザーンの皆さん! 騙されてはいけません!」

 

 テレビから叫び声が聞こえてきた。

 

「ローエングラムを信じてはいけません! これは謀略です! 平和主義者を装っているのは、フェザーンを油断させるための罠です! 彼はフェザーンを占領しようとしています!」

 

 どこかで聞いたようなことを叫んでいるのは、金髪碧眼の可愛らしい少女であった。テロップには「時間逆行者、ペトラ・ベーテル」と記されている。

 

「これ、まずくないか?」

 

 俺が気にしたのは副官たちに問いかけた。ベーテルは明らかに未成年である。中学校を卒業したかどうかも怪しい。こんな時間にテレビに出演させるのは、法律違反ではないか。

 

「五七歳だそうです」

 

 次席副官クリストフ・ディッケル大尉が答えた。その左手には端末が握られている。たった今検索したらしい。

 

「マジか。時間逆行者じゃなくて不老者だろ」

「時間逆行者って異常に若く見える人が多いそうです。ベーテル夫人みたいな人は珍しくないとか」

「そういや、千年王国のカシア・ロスネルはやたら若作りだった。若いというより幼かった」

「フィリップス提督も外見だけなら時間逆行者ですね」

「外見だけならな」

 

 俺は戯言に戯言を返した。本当は中身も時間逆行者なのだが、ここで言う必要はない。

 

「大預言者様のルイス提督だって、外見だけなら逆行者だ」

「あの人、やたら若かったですよね。士官学校の教官だった頃は、生徒と見分けがつかなかったとか」

「外見が若くたって、若死にしたら意味ないよ」

 

 そう言って、俺は軽く目を閉じた。ポルフィリオ・ルイス元准将は四六歳で世を去った。アンドリューをやたら敵視していたので、いい印象はないが、若死にしたことには同情する。

 

 二つの世界を合わせれば、九六年の歳月を過ごした。長生きしたと言っていい。過去の失敗は取り返した。過去になかったものを手に入れた。一人の人間としては幸せだった。あとは国家を守り抜くだけだ。講和が人生最後の仕事になっても……。

 

「……!」

 

 自分は何を考えていたのか。こっちではまだ三六歳ではないか。最後とは程遠い。

 

「ミッターマイヤーはフェザーンで市民五〇万人を虐殺し……」

 

 ベーテル夫人の叫び声が耳に飛び込んできた。とても不快な気分になった。ウォルフガング・ミッターマイヤーの五〇万人虐殺は、『R』史観お得意のデマである。そもそも、『R』史観の元ネタは、ヤン・リベンジャーズのプロパガンダ文書なのだ。彼女が本当に逆行者だとすれば、リベンジャーズに騙されたまま死んだのか、リベンジャーズの一味であるかのどちらかであろう。

 

 俺はチャンネルを変えた。画面の中では大人しそうな少年がフェザーン侵攻について語っている。他の出演者の話しぶりからして、少年は四〇代の自称時間逆行者らしい。

 

 端末で番組表を検索すると、他にも逆行者がゲスト出演する番組がいくつか放映されている。花畑を守るために自称時間逆行者を使おうとする人がいるだろう。

 

 テレビを見ながら仕事をしていると、コレット少将が近寄ってきた。ただならぬ雰囲気だ。一体何があったのか。

 

「フェザーン高等弁務官事務所から会談申し込みが入っております。極秘とのことです」

「時間は?」

「今すぐ」

「誰が出てくる?」

「高等弁務官です」

「聞き間違いじゃないのか」

「間違いではありません」

「信じられないな」

 

 俺は目を丸くした。高等弁務官がこの時間に緊急会談を申し込んでくる。よほどのことだ。

 

「向こうも焦っているのでしょう」

「最高評議会が押しても引いても動かないからね」

「いかがなさいますか?」

「会おう。軍幹部が友好国の外交官と”国防問題”について話し合う。何の問題もない」

「かしこまりました」

 

 コレット少将は颯爽と歩いていった。

 

「基本情報ぐらいは頭に入れておくか」

 

 俺はデータベースを開いた。権力掌握後に備えて、フェザーン政府要人に関する調査を進めてきた。こんなに早く役立つとは思わなかった。

 

 フェザーン自治政府駐ハイネセン高等弁務官フィオレンツァ・マニャーニは、いわゆる「ルビンスキー・チルドレン」の一人である。一六歳でゴミ収集作業員、二六歳で国務次官補、二九歳で国務次官、三二歳で自治領主補佐官、三四歳で駐ハイネセン高等弁務官となった。親族には有力者が一人もいない。中卒で働いていたが、ルビンスキー自治領主が学費を出してくれたおかげで、博士号を取得できた。能力は抜群だが、他人を見下すところがあるため、人望に欠ける。

 

「なるほど。追い込まれてるのか」

 

 それが俺の推測であった。マニャーニ弁務官は地盤を持っていない。ルビンスキー自治領主との関係が唯一の命綱だが、使えないと判断されたら切り捨てられるだろう。功績を立て続けなければならない立場である。しかし、ライバルのルパート・ケッセルリンクが、帝国を対等外交に転換させるという大金星をあげた。成果を挙げなければ詰んでしまう。

 

 一時間後、俺はホテル・ビザンチウム・ハイネセンポリスに到着した。地下駐車場で車から降り、従業員入口を通り、非常階段を登る。

 

「ディッケル君を置いてきて良かったんですか?」

 

 コレット少将が小声で言った。

 

「高等弁務官が相手だからな。随員にも相応の貫禄が必要だ」

「私では軽すぎるかと」

「君なら自治領主相手でも見劣りはしないよ」

 

 俺は率直な評価を述べた。

 

「貴官は自治領主府のヒラ相手でも見劣りするよな」

 

 刺々しい声の主は、フィリップ・ルグランジュ予備役上級大将である。正統派のマッチョが一人は欲しいと思って呼び出した。就寝中に叩き起こされたので、ものすごく機嫌が悪い。

 

「ええ。だから、あなたに同行をお願いしたんです」

「いかつい奴ならいくらでもいるだろうが」

「ですが、いかつくてなおかつ頼れる人はあなたしかいません」

 

 俺は元上官を懸命になだめた。本当は「なんだかんだ言って来てくれそう。お人好しだから」と思って呼び出した。むろん、言う必要もないことだ。

 

「早々に大役をお任せいただけるとは! まことにありがたい!」

 

 仲間になったばかりのサンドル・アラルコン上級大将は、上機嫌で笑った。

 

「これからたくさん働いてもらうぞ。覚悟しておけ」

 

 俺がそう言うと、アラルコン上級大将はますます機嫌を良くした。単純というには曲者すぎる。曲者というには単純すぎる。よくわからない人である。

 

「ワクワクするね。最終章って感じ」

 

 妹のアルマ・フィリップス中将が声を弾ませる。

 

「楽しそうだな」

「そりゃそうだよ。高等弁務官なんて滅多にお目にかかれないんだから」

「アルマは自治領主相手でも緊張しないんだろうな」

 

 俺はため息まじりに妹を見た。最近は幼顔から童顔に成長しつつあるが、可愛さは健在である。貫禄などない。こんなのを連れて行ったら、間違いなく舐められる。しかし、コレット少将とルグランジュ上級大将とアラルコン上級大将が推薦したので、仕方なく呼び出した。癒しも必要ということだろうか。

 

 高等弁務官との会談場所は六六六号室だ。扉の最下部を三回ノックすると、ロックが外れる音がした。心臓が飛び跳ねる。恐れるな。大丈夫だ。これだけのメンバーが付いている。覚悟とともに扉を開けた。

 

「……!」

 

 俺の全身が硬直した。背後から息を呑む音が聞こえた。動けない。俺も仲間も。

 

 巨人が立っていた。一九一センチのアラルコン上級大将よりはるかに背が高い。胸板は鉄板を何枚も重ねたように厚い。手足は丸太のように太くて長い。肩幅は鉄棒をまっすぐに通したかのように広い。肌は浅黒くて健康的だ。眉は太いというより幅広い。目も鼻も口も大きく、漫画家がデフォルメした顔をそのまま立体化したような顔だちだ。頭部には一本の毛髪もない。巨獣の如き風貌なのに、高級なスーツが上品にはまっていた。

 

「あ、あなたは……」

 

 俺は口をぱくぱくさせた。

 

「もうお忘れになりましたか? お会いしてから一週間も経っていないのに」

 

 フェザーン自治領主アドリアン・ルビンスキーは、冗談めかした口調で言った。

 

「い、いえ……」

「どうぞお入りください」

「かしこまりました」

 

 俺たち五人は言われるがままに室内に入る。ルビンスキー自治領主以外に、二人の女性と二人の男性がいた。男性は風貌と体格からボディーガードであると思われた。女性のうち、黒髪で背が低いのはマニャーニ高等弁務官だ。赤茶色の髪で平均的な身長の女性は、美人だがスーツを着慣れていない感じで、どう見ても役人ではなかった。

 

「ドミニク、客人に飲み物を」

 

 ソファーに腰掛けたルビンスキー自治領主がそう言うと、赤茶色の髪の美人がキッチンに向かった。戦記に登場したルビンスキーの愛人ドミニク・サン・ピエールは、あの女性だったのだ。

 

「どうなさいました? なにか疑問でも?」

「なぜ、ハイネセンにいらっしゃるのですか? 帰途にお着きになったとばかり思っていました」

「こっそり戻ってきたんですよ。心配で」

「なるほど」

 

 そう答えた俺だが、内心では納得していなかった。本国の方がよほど危ない状況だ。カーレ・ウィロックの逮捕は、民主化運動を沈静化させるどころか、さらに激化させた。金融危機により、フェザーンの大手金融機関がドミノ倒しのように破綻した。ハイネセンにいる場合ではない。

 

「こちらにも大人の事情がありましてね。元首だからといって、すべて決められるわけではないのです」

 

 ルビンスキー自治領主は苦笑しながら言った。言葉を各面通りに受け取るならば、ハイネセンにいるのは彼自身の意思ではないということだ。

 

 普通に考えれば、「大人の事情」とは長老会議のことであろう。長老会議は元老院の最高機関で、自治領主の任命権と罷免権を握っている。長老たちは有力財界人でもある。自治領主府を法的にも財政的にも支配しているのだ。

 

 しかし、俺は普通でない知識を持っている。前の世界の戦記によると、地球教はフェザーンの裏の支配者であった。地球教がどうやって具体的にどうやってフェザーンを動かしているのかは、この世界で知った。

 

 ファルストロング伯爵からもらった資料によると、銀河には地球人の互助会的なネットワークが存在しており、その中では地球教がフェザーンの「家主」とされる。地球教はビッグ・シスターズ系企業一〇社を「管理人」としてフェザーンに招いた。その後、二社が「契約違反」を理由に追放され、同盟系企業二社が後釜に座った。この管理人グループこそが一〇大財閥である。管理権を使えば無限に金が湧いてくるので、管理人は家主の言うことを聞いている。

 

「私をお呼びになったのはどなたのご意思でしょう?」

「このアドリアン・ルビンスキーの意思です」

 

 ルビンスキー自治領主がそう答えたところで、ドミニクが戻ってきた。

 

「どうぞ」

 

 ドミニクは五つのカップをテーブルに置いた。俺の前には砂糖とクリームでドロドロになったコーヒー。コレット少将の前には砂糖とクリームでドロドロになったコーヒー。ルグランジュ上級大将の前には砂糖が多めのレモンティー。アラルコン上級大将の前には茶色いバター茶。妹の前には砂糖とミルクでドロドロになった紅茶。

 

「…………」

 

 俺は呆然となった。全員の好みが完全に把握されている。事前に向こう側に伝えた随員の人数は「三人」で、名前は伝えていない。連絡後に妹を追加したので四人になった。誰が来ても対応できるだけの情報を持っていたのだ。

 

「これがフェザーン流のもてなしですか」

 

 アラルコン上級大将は皮肉を言いつつ、バター茶をすすった。

 

「お気にいっていただけましたかな」

 

 ルビンスキー自治領主が微笑みを浮かべる。

 

「いいバターを使っていらっしゃる」

「アラルコン提督はフェザーン嫌いだと聞いております。これを機に我が国の良さを見直していただければ幸いです」

「バター茶は好きですぞ」

 

 アラルコン上級大将はいつものキレがなかった。役者が違いすぎた。

 

「砂糖とミルクの量がぴったりですね」

 

 妹の言葉は失礼にならないギリギリのとげを含んでいる。

 

「こういうところに手を抜かないのがフェザーン流です」

 

 ルビンスキー自治領主は笑顔で受け流した。

 

「友人もそう言っていました」

「ブレツェリ提督ですな」

「何でもご存知なんですね」

「そんなことはありません。知るべきことを知るだけで精一杯です」

「私のことなんて知る価値もないですよ」

「大いにあります。私は気の強い女性が好きでしてね。お互いにガンガン言い合える関係が理想です」

「口の達者な男は嫌いです」

「ますますあなたを好きになりました。偉くなりすぎたもので。どいつもこいつも私に媚びてくる。歯ごたえがなくてつまらんのです」

「媚びたくなりました」

「おや? 媚び方をご存じなのですか?」

「知りません」

「でしょうなあ。あなたは媚びられる側の人間ですから」

「もっとフランクに接してほしいんですけどね。階級も年齢も上の人が、初対面で敬語使ってきた時は本当困りました。そんなに怖いのかなあ、って」

 

 妹はいつのまにか楽しげに談笑していた。役者が違いすぎた。

 

「…………」

 

 コレット少将は何もなかったかのような顔でコーヒーをすすった。

 

「…………」

 

 ルグランジュ上級大将は「勘弁してくれ」と言いたげな顔で、ミルクティーを飲んだ。

 

「ごちそうさまでした」

 

 俺はコーヒーを飲み干すと、ルビンスキー自治領主とドミニクに微笑みかけた。心の中ではルグランジュ上級大将に共感している。勘弁してほしい。こんな怪物に関わりたくない。しかし、戦争を終わらせるにも、ラインハルトとの戦いを回避するにも、フェザーンの力が必要だ。

 

「私はこれから議長官邸に向かいます。一緒に来ていただきたい」

 

 ルビンスキー自治領主は居住まいを正した。

 

「兵を動かせとおっしゃるのですか? それなら、承知しかねます」

「いえ、保証人になっていただきたいのです」

「保証人?」

「トリューニヒト議長がなぜ我々の要請に応じないのか? ご存知ですか?」

「心当たりがありません」

 

 俺は嘘をついた。議長官邸の内情はほぼ把握している。情報提供者の存在がばれたら困るので、表向きには知らないふりをする必要がある。

 

 トリューニヒト議長は暴力を恐れている。政敵を排除するために憂国騎士団の暴力を用いた。政権を守るために警察右派の暴力を用いた。講和を口にしたら、暴力の矛先が自分に向けられる。議長警護隊の隊員は、警官と憂国騎士団団員の中から、特に右翼思想の強い人物を選りすぐっている。ボディーガードに狙われる可能性すらあるのだ。

 

「彼は右翼から脅されています。講和交渉を開始したら襲撃する、と」

「信じられないですね。民主主義国家とは思えません」

「まあ、自業自得でしょう」

 

 ルビンスキー自治領主はさりげない顔で毒を吐いた。確かに自業自得ではあるのだ。トリューニヒト議長は暴力を濫用してきた。矛先が自分に向けられたとしても、文句を言う筋合いはない。

 

「いずれにしても由々しき問題です」

「議長が決断した場合の身の安全を保証していただきたい。この国で最大の軍事力を持つあなたに」

「私の役目はそれだけですか?」

「ええ」

「お役に立てることがあれば、手伝いますが」

「後は全部こちらでやります。フィリップス提督の手をわずらわせるのも心苦しいので」

 

 ルビンスキー自治領主は柔らかいが妥協のない口調で応じた。

 

「承知しました」

 

 俺は二つのことを承知した。トリューニヒト議長の身の安全を保証すること。ルビンスキー自治領主が俺との関係を最小限に留めたいということ。

 

 朝方、俺とルビンスキー自治領主は議長官邸に赴いた。トリューニヒト議長は話し合いに応じた。ルビンスキー自治領主だけが議長室に招き入れられ、俺はドアの前で待機した。話し合いは五分程度で終わった。

 

 それから間もなく、最高評議会は臨時閣議を開き、金融協力協定への参加を三票差で決定した。閣議決定の次は議会での審議である。現在の政権において、議会は最高評議会の決定をそのまま追認する場所と化している。金融協力協定への参加、帝国との国交樹立、講和交渉開始は時間の問題と思われた。

 

 鮮やかとしか言いようのない手並みであった。ルビンスキー自治領主が本気を出した途端、事態が一気に動き出したのだ。

 

 そして、確信した。ラインハルト・フォン・ローエングラムとの戦いは絶対に避けねばならない、と。今回の件で圧倒的な格を見せつけた自治領主ですら、ラインハルトには歯が立たなかった。戦ったら確実に負ける。負けたら確実に滅ぼされる。

 

 他人には期待できない。トリューニヒト議長は側近の造反に怯える有様だ。ヤン元帥は知識人と対談したり、古典アニメのコスプレをしたり、学会を見学したりするだけだった。オリベイラ博士はいつもどおりの全方位外交で、AACF、銀河左派ブロック、明日のために(FT)などの野党とも接触している。レベロ議員は勢力が小さすぎる。

 

 誰にもできないのならば。自分しかできないのならば。俺がやる。俺が戦争を終わらせる。数十年の平和ではだめだ。戦いが再開された時、ラインハルトが生きているかもしれない。恒久平和でなければ。再戦の可能性を永久に封じなければ。ラインハルト・フォン・ローエングラムとの戦いを避けるために。確実な敗北を避けるために。確実な滅亡を避けるために。失われた命に報いるために。今を生きる命を守るために。

 

「これからが本番だ」

 

 そう言って、俺はシャンプール行きの船に乗り込んだ。第一辺境総軍司令官の任期は残り一ヶ月半。それが終わった時、最大の戦いが始まる。講和交渉という名前の戦いが。


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