銀河英雄伝説 エル・ファシルの逃亡者(新版)   作:甘蜜柑

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第二章:憲兵エリヤ・フィリップス
第13話:じゃがいもの本当の味 宇宙暦793年1月~秋 憲兵司令部


 七九三年一月、俺の勤務地はハイネセンポリスからオリンピア市に変わった。統合作戦本部、技術科学本部、後方勤務本部、宇宙艦隊総司令部、地上軍総監部、首都防衛司令部、同盟軍士官学校などの軍中枢機関が軒を連ね、地方勤務者から怨嗟と羨望の入り混じった視線を向けられるあのオリンピアだ。軍人に対してその名を口にすれば、一〇〇人中の九九人が軍中枢のトップエリートを思い浮かべるであろうあのオリンピアだ。

 

 昨年六月にロボス大将から提示されたポストの中には、勤務先がオリンピアになっているものもあった。いろいろ考えてすべて断ったのだが、その半年後にオリンピア入りすることになるとは思いもしなかった。

 

 フィン・マックール補給科は、とても素晴らしい職場だった。母艦乗員と空戦隊員を合わせて一〇〇〇人近い大所帯の後方支援担当部署だけあって、残業は多かったけれども、競争は少なかった。上官は優しくて、部下はみんな真面目だった。勤務地は都心部からかなり離れてると言っても、一応ハイネセンポリス市内で、休日はいろんな場所に遊びに行けた。出世さえ考えなければ、これほど良い職場も無い。

 

 士官は平均すると二年か三年おきに転勤させられる。最低でもあと半年は最高の環境を謳歌できると計算してたのに、ほんの半年しかいられなかったのが残念だ。

 

「エル・ファシルの英雄がこんなところにいるのはおかしい、いずれオリンピアかキプリング街に呼ばれる。そう思ってたんですよ」

 

 送別会の時、補給科の人達は口々にそう言った。キプリング街と言えば、ハイネセンポリス都心部の官庁街で、同盟軍の中では国防委員会の代名詞である。要するに、俺は統合作戦本部や国防委員会で働くようなエリートだと思われていたのだ。

 

「そんなことないですよ」

 

 笑顔で手をひらひらさせながら否定した。

 

「謙遜することもないでしょう。フィリップス中尉の実力はみんな知っています」

 

 みんなには謙遜してるように受け取られた。だが、俺は本気でそう思っている。

 

 士官学校を卒業したエリートの中でも、オリンピアやキプリング街で勤務できる者はほんの一握りだ。士官学校を出てから一〇年目のイレーシュ・マーリア少佐だって、一度もオリンピアやキプリング街での勤務を経験していない。まして、俺は幹部候補生養成所を出た一介の補給士官だ。英雄の虚名のせいで勘違いされてるだけで、エリートなんかではない。

 

「宇宙母艦の補給科からオリンピア入りなんて、大抜擢じゃないか。俺の言った通りだよ。見る人は見ている」

 

 俺の心中も知らず、アンドリュー・フォーク宇宙軍少佐は呑気に笑う。どうして、みんな俺を過大評価したがるのか。あまり期待されても困るのに。

 

 引っ越して間もない官舎の一室。一枚の紙を眺めて、何度も何度もため息をついた。

 

「辞令

 

 宇宙軍中尉エリヤ・フィリップス

 

 憲兵司令部付を命ずる 

 

 宇宙暦七九三年一月五日 

 

 憲兵司令官

 宇宙軍少将 クレメンス・ドーソン」

 

 軍警察とも呼ばれる同盟憲兵隊(ミリタリー・ポリス)は、軍隊内部の秩序や規律を維持する作戦支援部隊である。治安警察として国民監視体制の一翼を担う帝国憲兵隊とは異なり、軍人のみを取り締まるが、それでも細かいことにうるさいことから嫌われ者だった。そんな同盟憲兵を統括するのが、憲兵司令部である。

 

 憲兵司令部の幕僚部門は、人事や会計などを担当する総務部、運用計画や教育訓練などを担当する運用部、捜査や諜報などを担当する調査部、規律や防犯などを担当する保安部の四つの部に分かれている。司令部付の俺はいずれの部にも所属せず、憲兵司令官と憲兵副司令官に直属する。

 

「よりによって、じゃがいも閣下が憲兵司令官なんだよなあ」

 

 憲兵司令官クレメンス・ドーソン少将の神経質そうな顔を思い浮かべた。彼には去年の秋から冬にかけて、五回もレポートを書き直しさせられた。ようやく縁が切れたと思ったら、今度は直属の上官だ。

 

 憲兵司令部が宇宙母艦の補給科より忙しくないなんてことはないだろう。そして、上官は神経質で狭量なドーソン。最悪としか言いようがない。

 

「こんなことになるなら、ロボス大将から勧められたポストを受けておけばよかった」

 

 後悔が胸の中に広がっていく。

 

「断らなければよかったかも」

 

 もう一枚の紙を取り出す。保守政党「国民平和会議」のパラディオン市支部から送られてきた三月の下院選挙への出馬要請だ。

 

 昨年一一月末、パラディオン選出のロイヤル・サンフォード下院議員が、分離主義過激派組織「エル・ファシル解放運動(ELN)」のテロリストに暗殺された。同盟軍の強引な攻撃で惑星エル・ファシルが焦土になったことに激怒したELNは、「自由惑星同盟に与するすべての者に無制限攻撃を加える」と宣言し、「エル・ファシル復興を目指す超党派議員連盟」の最高顧問を務めるサンフォード議員を最初に狙ったのだ。

 

 サンフォード議員の孫娘シルビア・サンフォードと、パラディオン市長ランドルフ・フィリップスが後継候補に名乗りをあげ、国民平和会議パラディオン市支部は二分された。パラス惑星支部とタッシリ星系支部が候補者調整に乗り出したものの失敗に終わり、保守分裂選挙の危機に陥ったため、市政界の重鎮カーソン・フィリップス市会議員が知名度の高い俺を擁立する案を出した。

 

 四年前、駆逐艦マーファのビューフォート艦長は、俺が議員になる可能性もあると言った。それが現実味を帯びてきたのである。

 

 新聞や雑誌を読んでみると、パラディオン市を中心とする下院タッシリ九区では、極右政党「統一正義党」の候補者イルゼ・エッフェンベルガー退役大佐が急速に支持を伸ばしていた。歴代通算二二位の撃墜数を誇る女性撃墜王としての名声、青少年非行防止運動での実績、そして長年にわたってサンフォード一派が作り上げたパラディオンの利権構造に対する不満が、エッフェンベルガー退役大佐への期待感となっているのだそうだ。

 

 俺とパラディオン市長と同姓で、どちらとも血縁関係のないフィリップス市会議員は、「フィリップス君の知名度なら勝てる」と言った。しかし、下院議員ともなれば、のんびりとは程遠い暮らしが待ち受けていることは想像に難くない。イレーシュ少佐、クリスチアン中佐、コズヴォフスキ大尉らと相談した末に、断ることに決めたのであった。

 

 一月六日、憲兵司令部に着任した俺は、ドーソン司令官に挨拶をした。メールを通して受けた厳しい修正を思い出すと、前に立っただけで膝がガクガク震え、歯がカチカチ鳴り出す。こんな気持ちになったのは、上院議員になりおおせたマリエット・ブーブリル副旅団長以来だ。

 

「フィリップス中尉」

 

 ドーソン司令官に名を呼ばれた瞬間、恐怖は最高潮に達した。相手は前の世界で最も意地悪な軍人と言われた人物だ。ブーブリルなんかとは格が違う。どれほど凄まじい悪意をぶつけられるのかを想像するだけで、卒倒しそうになる。

 

「ご苦労だった。控室で待機せよ」

 

 ドーソン司令官は表情を変えずにそう言った。ラオ大尉というどこかで聞いたような名前と冴えない風貌を持つ副官が、拍子抜けする俺を、控室へと案内してくれた。

 

 司令部付士官控室には、俺と同年代の士官が三名集まっていた。一人は茶色い髪を角刈りにした体格の良い男性、一人は金髪で中肉中背の男性、一人は黒髪でぽっちゃりとした女性だ。ここにいるということは、みんな俺と同じ司令部付なのだろう。しかし、階級の近い司令部付士官がどうして四人もいるのか? 単に配属先が決まっていないだけとは思えない。

 

 やがて、ドーソン司令官が部屋に入ってきた。そして、俺達四名の司令部付が担当する任務の内容を説明する。体格の良いハインツ・ラングニック地上軍大尉は総務部、中肉中背のマックス・ワドル宇宙軍中尉は運用部、ぽっちゃりしたジェニー・ホートン宇宙軍中尉は調査部、俺は保安部に付いて、部員の仕事ぶりを調査するというのだ。

 

「どんな細かいことでも気がついたら耳に入れること、小官からの指示を素早く正確に実行すること。諸君にはその二つを期待する。以上だ」

 

 ドーソン司令官は念を押すように言った。憲兵司令部部員の過失を見つけて、徹底的にいびり倒すつもりなのだ。

 

 なんと陰険な思考だろうか。しかも、自分がその手先に使われるのである。うんざりせずにはいられない。ロボス大将の申し出や下院選挙出馬要請を断ったことを、本気で後悔し始め、帰り道にじゃがいもを大量に購入した。

 

 保安部担当になった俺が最初に命じられた仕事は、保安部員に関する情報収集だった。陰険な仕事でも手を抜けないのが俺だ。集められる限りの情報を集めて提出したところ、ドーソン司令官は眉間にしわを寄せて黙り込んだ。

 

 いきなり上官の不興を買ったことを悟り、ぶつけられる悪意を想像し、体中から血の気が引いていく。念には念を入れて、本人の三親等以内の親族に関する情報まで集めたのだが、この程度の仕事ぶりではやはり満足してもらえなかった。他の司令部付三人はみんなドーソン司令官が士官学校教官だった時の教え子で、俺一人だけが何の縁もないのに、いきなり失敗した。

 

「申し訳ありません、司令官閣下! もうしばらく時間をいただけたら、ご期待に添える資料を用意いたします!」

「十分過ぎるほどに十分だが……。なぜこんな情報まで調べた?」

 

 ドーソン司令官が俺に見せたのは、六年前の惑星パデリア攻防戦の戦闘詳報の抄録だった。保安部警備課長ハマーフェルド地上軍少佐のファイルに、参考として添付したものだ。

 

「ハマーフェルド警備課長は、銅色五稜星勲章を持っていらっしゃいます」

「それくらいはわかっている」

「あの方はパデリアの戦いで銅色五稜星勲章を受章なさいました。受章した背景も調べなければ、閣下の要望に添えないと考えたのです」

「そういうことか……」

 

 腕を組んでなにやら考えていたドーソン司令官だったが、少し経ってから口を開いた。強烈な嫌味が飛んでくるに違いない。奥歯を食いしばって耐える準備をする。

 

「ご苦労だった。今後もこの方法でやるように」

 

 信じられなかった。あのドーソン司令官から褒め言葉を貰ったのだ。あまりのことに拍子抜けしてしまった。

 

 次の日、さらに信じられないことが起きた。ドーソン司令官は、俺を含めた四人の司令部付士官を集め、人事資料のテンプレートを配った。その項目分けが俺の提出した資料とまったく同じだったのだ。

 

「このテンプレートはフィリップス中尉が考案したものだ。他の三人も使うように」

 

 性格は悪いが実務能力に定評のあるドーソン司令官が俺なんかのアイディアを採用した。他の三人はテンプレートを読んで何やら驚いていたが、俺はもっと驚いた。夢でも見てるのではないかと疑った。

 

 二月に入った頃には、仕事にやり甲斐を感じるようになってきた。保安部の腐りきった実態が見えてきたのだ。

 

 組織的な裏金作り、検挙実績を挙げるための違法捜査、関係者が起こした事件の揉み消し、私的制裁やセクハラの横行など、資料を読むだけで腐臭が漂ってくる。サイオキシン麻薬の常習者、統一正義党系列の極右民兵組織「正義の盾」の隠れ構成員、憲兵司令部に集まった情報を使って金儲けに励む者などもいたのである。日に日に不正を正さなければならないという思いが強まり、じゃがいもを食べる量が減っていった。

 

 二月に行われた七九二年度の業務改善提案審査で、ドーソン司令官に書き直しさせられたレポートが個人部門三位に入賞して国防委員長表彰を受けたことも、気分を高揚させた。

 

 ドーソン司令官は、憲兵司令官の激務をこなしながら、俺達が集めた資料や公文書のすべてに目を通し、貪欲に情報を吸収していった。情報にカロリーがあったら、肥満していたに違いない。

 

 情報収集が終わると、ドーソン司令官は憲兵司令部の大掃除に乗り出し、全部員の一割近い一八六名が懲戒処分を受けた。また、保安部長パードゥコーン地上軍大佐、憲兵隊首席監察官ストリャコフ地上軍大佐、調査部情報保全課長クアドラ宇宙軍少佐など二七名の憲兵司令部部員が、収賄、業務上横領、職権濫用、機密漏洩、私的制裁などの疑いで国防委員会に告発された。

 

「見ての通り、憲兵隊の腐敗はもはや座視し得ない水準に達している! 徹底的に膿を出し、市民の信頼を取り戻す! それが諸君の義務だ!」

 

 突然の大粛清に震え上がる司令部部員に、ドーソン司令官が口ひげを震わせて檄を飛ばす。前の世界で陰険な小悪党と言われた男は、今の世界では不正と戦うヒーローとなった。この日の俺はじゃがいもを一個も食べなかった。

 

 

 

 三月下旬の定例人事では、課長級以上の幹部部員の四割、一般部員の三割が転出させられ、空いたポストにはドーソン司令官に忠実な者が登用された。

 

「小官が副官ですか?」

 

 ドーソン司令官に呼ばれて内示を聞かされた時、自分の聴覚が狂ってしまったのかと疑った。副官のサンジャイ・ラオ宇宙軍大尉が更迭されるとは聞いていたが、俺以外の司令部付であるラングニック大尉、ワドル中尉、ホートン中尉の三名のうちから選ばれるとばかり思っていたのだ。

 

「そうだ。貴官が新しい副官だ」

 

 ドーソン司令官の表情が、そんなこともわからないのかと語る。どうやら聞き間違いでないらしい。

 

「しかし、副官は大事な仕事です。小官程度の者でよろしいのでしょうか? 有能で信頼の置ける者を選ぶべきでは?」

 

 何としても、副官だけは避けたかった。副官は階級こそ低いものの、士官学校卒のエリートが登用される要職で、司令官の手足となって走り回る激務である。まして、上官はドーソン司令官なのだ。幹部候補生あがりの俺に務まるとは思えない。

 

「だから貴官を選んだのだ」

「し、しかし、小官に務まるとは……」

「私に人を見る目が無いと言いたいのか?」

 

 ドーソン司令官の声にとげが混じる。彼は不正を許さないが、自分が否定されることはもっと許さない。

 

「申し訳ありません。小官が間違っていたようです」

 

 怒りを買うのが怖くて引き受けた。こうして俺は大尉に昇進し、ドーソン司令官の副官に就任したのである。

 

 憲兵司令部副官の朝は早い。憲兵司令部の副官室に到着すると、自分の端末を開いてメールをチェックする。それから、四人の副官付と打ち合わせだ。

 

 副官付とは、副官を補佐する下士官や兵卒のことを指す。俺の下には、フィン・マックールの前給食主任アルネ・フェーリン宇宙軍軍曹、ハイネセンポリス砲術専科学校を首席で卒業したタチアナ・オルロワ地上軍伍長、フィン・マックールの前給食員エイミー・パークス宇宙軍上等兵、ウォルター・アイランズ上院議員の娘でハイネセン記念大学人文学部を卒業したエリサ・アイランズ地上軍一等兵の四名が付く。みんな優秀な女性だ。

 

 普通は、下士官と兵卒が一名ずつ副官付になる。しかし、ドーソン司令官は何でも自分で仕切ろうとするため、副官の仕事も必然的に多くなるし、俺は能力が低い。だから、通常の倍の人数が必要になるのである。

 

 副官付との打ち合わせを終えたら、司令官専属ドライバーとともに公用車に乗る。官舎までドーソン司令官を迎えに行き、一緒に登庁する。

 

 司令官執務室に入った後に、その日のスケジュールについての説明を行う。司令官のスケジュールを組むのは副官の仕事だが、これが結構難しい。予定を詰め込み過ぎると、不測の事態が起きた際に、予定が一気に崩れてしまう。しかし、余裕を持たせ過ぎると、するべき仕事を消化できなくなる。絶妙なバランス感覚が必要だ。

 

 課業時間に入ると、さらに忙しくなる。連絡事項がひっきりなしに舞い込み、司令官宛ての超高速通信やメールが次々と入り、司令部部員が入れ替わり立ち替わりで決裁を求めに来る。それらの取り次ぎは副官の仕事だ。憲兵隊全体の仕事を把握した上で、副官の裁量で取り次ぐ順番を決めていく。少しでも間違えば、たちまちのうちに仕事が滞る。緻密な頭脳、幅広い知識が問われる。

 

 副官の仕事は取り次ぎだけに留まらない。会議があれば準備を行い、来客があれば応接し、司令官の食事やトレーニングにも付き合う。司令官が外出する際は随行し、出張する際は一緒に出張する。司令官のある所には、常に副官がいるのだ。

 

 多忙な司令官には、打ち合わせに割ける時間は無い。そのため、移動の合間に細かい打ち合わせも行う。

 

「交通違反ゼロキャンペーンの成果はまずまずだ。しかし、リューカス星系の違反者だけは急増しているな。軍人がこうも交通違反を犯しては、示しが付かん。あそこの警備司令官はグエンだったな。あいつとは士官学校で一緒に仕事をしたが、本当にいい加減な奴だった。とにかく生徒にいい顔をしようとする奴でな。規律の何たるかをわかっていないのだ。そのくせ、四〇歳にもならないうちに准将に昇級しおって。まったくもって世の中は……」

「リューカス星系の道路交通法は、去年末の改正で第一七条、第一九条、第二四条、第三〇条の適用範囲が飛躍的に拡大しました。あのトリプラ星系よりずっと厳しい内容です」

「貴官は星系法まで勉強しているのか?」

「そうでなければ、司令官閣下のお役に立てないと思いまして」

「そうか。トリプラより厳しいとなれば、車のエンジンを掛けただけでも罰金を取られかねんな。まあ、グエンの無能だけではないということか。注意を喚起しておこう。資料を作成してくれ」

「了解しました」

 

 このように司令官の求めに応じて、いつでも必要な情報を提供するのも副官の仕事だ。知識を整理する能力に加え、知識を更新する熱意を持ち、怠ること無く勉強を続けなければ、情報に貪欲なドーソン司令官の副官は務まらないのである。

 

 課業時間が終了した後は、公用車に乗って司令官を官舎まで送り、それから司令部に戻る。そして、四人の副官付と打ち合わせをして、明日の準備にとりかかるのだ。しかし、多忙な司令官が課業終了と同時に帰宅することは少なく、毎日のように残業するし、二日か三日に一度は夜の会議もある。そのすべてに俺が同行する。官舎に帰れるのは、早くても夜の二二時だ。

 

 このように副官はとんでもない激務で、軍幹部や政治家と顔を合わせることも多く、いい加減な俺には最も向かない仕事だった。ストレスが積もり積もって、マフィンを食べる量が倍増した。

 

「いや、話を聞いてる限りでは、天職としか……」

 

 アンドリューはそう言ったが、彼は善意的な解釈をすることでは右に出る者のない男である。仮に俺が統合参謀本部長や宇宙艦隊司令長官になったとしても、やはり天職と言うに違いない。

 

「あのじゃがいも閣下に信頼されるなんて、大したもんだってみんな言ってるのに」

 

 イレーシュ・マーリア少佐もとんだ誤解をしている。仕事ができない部下を信頼する上官など、どこにいるのだろうか。まして、俺の上官はあの気難しいドーソン司令官なのだ。

 

 前の世界で名将ダスティ・アッテンボローの作戦主任参謀、バーラト自治政府軍参謀次長を務めた英才サンジャイ・ラオですら、副官の仕事を全うできなかった。俺もいずれ更迭されるのは間違いない。

 

「しかし、フィリップス大尉は、一度も失敗したことがないじゃないですか」

 

 フィン・マックール補給科での部下だった副官付のアルネ・フェーリン軍曹は、相変わらず俺を贔屓してくれる。しかし、仕事なんて失敗しないのが当たり前だ。それに恥ずかしいから面と向かっては言えないが、失敗せずに済んでいるのは、彼女ら副官付が有能なおかげではないか。

 

「そもそも、フェーリン軍曹とパークス上等兵が副官付になった事自体、ドーソン提督が貴官に期待している証拠だと思うがな。母艦の給食員だった者を副官付に起用するなど、異例もいいところだ。貴官のために引き抜いたのではないか?」

 

 エーベルト・クリスチアン中佐は腑に落ちないような顔で言うが、ドーソン司令官がそこまで俺に配慮するとは思いにくい。

 

 副官の激務をこなしていると、フィン・マックールの補給科が懐かしく思える。しかし、あの穏やかな日々は二度と戻ってこない。

 

 上官のコズヴォフスキ大尉は六月で定年を迎え、少佐に名誉進級して軍を退いた。カヤラル准尉が第三方面分艦隊旗艦「ヒューベリオン」の補給主任に転じ、カイエ一等兵がハイネセンポリス通信専科学校に推薦入学するなど、一緒に働いた者の半数がフィン・マックールを去った。

 

 同盟も嵐のただ中にいる。三月の下院選挙では、統一正義党が議席を大きく増やし、極右勢力の台頭が明らかになった。帝国軍が一大攻勢を開始し、三月にはシャンダルーア、七月にはドラゴニアとパランティアに大軍が押し寄せてきた。昨年に国防予算が削減されたことを受け、同盟軍は三年間で兵力の一五パーセント削減を決定した。

 

 気の滅入るニュースも多い。惑星エル・ファシルで抵抗を続けていた最後の帝国軍敗残兵三〇〇人が、ゼッフル粒子を使って同盟軍一二〇〇人を道連れに自爆した。アルレスハイムで惨敗したアップルトン少将は、准将に降格の上で予備役に編入された。ラインハルトに乗っ取られた駆逐艦リンデン二二号の艦長は非難に耐え切れずに自殺し、アマランス五号の艦長は降格の上で予備役に編入された。

 

 生暖かい風に吹かれて初夏の夜道を歩きながら、穏やかな世の中が終わってしまったような思いにとらわれ、暗い気分を覚えたのであった。

 

 

 憲兵隊は国防委員長直轄の部隊だが、格付けは意外と低い。六二万三〇〇〇人と全体の規模はそこそこ大きいものの、分散して配備されるため、各部隊の規模は小さく、最大級の規模を持つ艦隊憲兵隊や方面軍憲兵隊ですらせいぜい一万人だ。これは代将たる大佐が指揮官に充てられる格の部隊である。要するに将官ポストが少ないのだ。それゆえに、トップの憲兵司令官は、「中将もしくは少将」と定められ、艦隊副司令官や方面軍副司令官と同格に過ぎなかった。

 

 戦闘に参加しないのも憲兵隊の格を低くする要因だった。武勲に縁が無い憲兵は、他の部門と比較すると昇進が遅く、憲兵勤務一筋で将官まで昇進する可能性は限りなく低い。司令官・副司令官・部長・首席監察官といった要職は、ほぼ情報部門と兵站部門の出身者で占められており、生え抜きの憲兵は少ない。歴代憲兵司令官一三三名のうち、憲兵勤務一筋だった者はわずか五名だ。

 

 汚れ仕事で出世の見込みも少ない憲兵は、当然のように不人気で、能力にも意欲にも欠ける人材の吹き溜まりだった。他の部門ならとっくに淘汰されるような人材も、憲兵隊では大きな顔をしていられた。

 

 馴れ合いと無気力が憲兵隊を覆い尽くし、私的制裁やセクハラなどの深刻な事案は放置され、軽微な違反の摘発によって水増しされた検挙実績だけが虚しく積み上がった。腐敗の温床と化した憲兵隊を健全化して信頼を取り戻す。それがドーソン司令官に課せられた役目だったのである。

 

 憲兵司令部の腐敗を一掃したドーソン司令官は、憲兵隊全体の健全化に取り組んだ。徹底的な監査によって、隠蔽されてきた数々の裏金作りや違法捜査を白日のもとに晒した。憲兵向けの研修を充実させ、法令遵守意識の向上に務めた。勤務態度の悪い者、規則違反の常習者を厳しく処分し、弛んだ空気を引き締めた。

 

 健全化と同時に機構改革も進められた。指揮系統を簡略化し、上下の情報の流れを円滑にする。連絡体制を整備し、部署間の連絡を迅速かつ正確なものとする。ほとんど機能していなかった監察官室の権限を強化し、司令部部員を厳しく取り締まらせる。恐竜に例えられるほどに動きが鈍かった憲兵隊は、ドーソン司令官の手腕によって、機動力に富んだ組織へと生まれ変わったのだ。

 

 ぬるま湯につかりきっていた古参の憲兵は、改革に激しく反発した。ある者は組織的なサボタージュを企んだ。ある者はドーソン司令官のスキャンダルを掴んで失脚させようとした。ある者は軍幹部を動かして圧力を掛けようとした。しかし、彼らの企みはことごとく失敗に終わり、軍から追放され、ドーソン司令官に忠誠を誓う者だけが残ったのである。

 

 夏が終わりかけた頃、国防予算削減に不満を抱く地上軍中堅将校のクーデター計画が、憲兵隊によって未然に阻止された。この事件は表沙汰にはならなかったものの、新生憲兵隊の評価、そして改革を成し遂げたドーソン司令官の評価を大いに高めた。

 

 前の世界でローエングラム朝銀河帝国の初代憲兵総監を務めたウルリッヒ・ケスラー宇宙軍元帥は、腐敗した憲兵隊の改革を成し遂げた。もしかして、ドーソン司令官もケスラー元帥のような名将なのだろうか? 一瞬だけそんなことを思い、すぐに打ち消し、じゃがいもを電子レンジでふかして食べた。

 

 ドーソン司令官の手腕は素晴らしかったが、統率ぶりは酷かった。仕事の質が落ちるのを嫌ったのか、部下の裁量に任せようとせずに、すべてを自分で取り仕切った。どんな情報でも集めようとするあまり、人の悪口や根も葉もない噂話にまで耳を傾けた。素早く仕事を進めるため、批判者を遠ざけ、言うことを聞く者だけを近づけた。その結果、憲兵司令部はドーソン司令官の独裁国家と化し、密告や讒言が横行した。「みんな仲良く」という俺の理想とはほど遠い。

 

「でも、君にはまったく被害無いじゃん。じゃがいも閣下のお気に入りなんだから」

 

 スクリーンの向こう側の第一輸送軍後方副部長イレーシュ・マーリア少佐は、下着の上に寝間着をだらしなく羽織り、ベッドに寝そべりながら、ポテトフライをつまむ。

 

「そんなことないですよ。たぶん嫌われています。あんなに優秀な人が、俺のような役立たずを気に入るとは思えませんよ。ほとんど褒めてもらえませんし」

 

 ふかしたじゃがいもにバターを塗りながら答える。ドーソン司令官は仕事はできるが、偉大なダスティ・アッテンボローが書き残した通りの狭量な人物なのだ。俺なんかを認めるはずもない。

 

「保安部長の犯罪を突き止めて失脚させたのに、役立たずってことはないでしょ」

「失脚させたのは司令官です。俺は情報を集めただけですよ」

「自分自身の能力と他人の好意を過小評価したがるの、君の悪いとこだよ? 単純で物を深く考えないくせに疑い深い。駆逐艦の艦長やってた頃の部下にもそんな子がいたよ」

「どんな人だったんですか?」

「君より二歳上の新兵だったんだけどさ。とにかく自信の無い子でね。自分も他人も信用していなかった。いつもおどおどしていて、自分の中に閉じこもってたよ」

 

 思い切り身に覚えがあった。恐る恐る質問を続ける。

 

「前歴などは調べましたか」

「まあね。ため息が出るほど不幸だったよ。幼い頃に一家が離散して、親戚をたらい回しにされ、最後は施設に入れられた。親戚のところでも、施設の中でも虐待を受けた。一六歳で社会に出た後はどんな仕事をしても長続きせず、つまらない犯罪を重ねて刑務所を出入りし、行き場がなくなって二六歳で志願兵になった。身上書を読んだだけでやるせない気持ちになったね」

「彼は閉じこもることで、その場その場をやり過ごしてきたんじゃないでしょうか。殴られても罵られても、何も考えずに閉じこもっていれば、それで済みますから」

 

 俺はその志願兵のことでなく、過去の自分自身のこと、そして矯正区や貧民街や刑務所や救貧院で共に過ごした人々のことを語った。

 

「上官に相談したら、君と同じことを言ってた。『あまりに不幸が続くと、人間は単純で疑い深くなる。ずっと自分の中に閉じこもって、成長しないままに時を過ごして、子供みたいになってしまう。誰かがそれを終わらせなければならない』ってね」

「良いことをおっしゃる方ですね」

「そうだね。前の君もそんな感じだった。最近はだいぶマシになったけど」

「少佐のおかげです」

「不幸らしい不幸を経験してないはずの君が、どうしてああなったのかは知らないけどさ。これだけ認められてるんだから、いい加減前向きに考えなよ。国防委員長表彰される水準まで指導してもらえた。個人的な付き合いが無かったのに、士官学校の教官だった時の教え子三人を差し置いて副官に抜擢されて、大尉に昇進させてもらえた。好き嫌いの激しいじゃがいも閣下にここまで取り立てられるなんて、並大抵のことじゃないよ。みんなお気に入りだと思うに決まってるでしょ」

「やはりそう思われますか。でも、気に入られてたとしても、居心地が悪いですよ。ドーソン司令官を嫌う人は冷たい視線で俺を見る。媚びようとする人は俺に取り入ろうとする。俺の悪口をドーソン司令官に吹き込んで、自分がお気に入りになろうと企む人もいる。いずれにしても苦しい立場です」

 

 ほくほくしたじゃがいもをかじり、やるせない気持ちとともに飲み込む。

 

「なるほどねえ。君はそういうの弱いからなあ。愛されすぎるのもそれはそれで苦労するね」

「いや、愛されてはいないでしょうが……。どうすればいいんでしょうか?」

「自分の得意技で勝負するしかないんじゃない? 腰の低さと気配り。そして、かわ……」

「ありがとうございます! 頑張ります!」

 

 恩師のアドバイスに勇気づけられた俺は、翌日からドーソン司令官をじっくり観察することにした。彼が身を持って示してくれたように、情報を制する者はすべてを制するのである。

 

「何と酷い母親なのだ! こんな奴には生きる資格は無い! 死刑にしてしまえ!」

 

 母親が愛人と一緒に子供を虐待して殺したというニュースを見たドーソン司令官は、口ひげを震わせて怒った。

 

「もっと早く救いの手を差し伸べることができなかったのか……」

 

 生活苦に陥った一家が心中したというニュースを見たドーソン司令官は、口ひげをしおれさせて悲しんだ。

 

「頑張って勉強するのだぞ」

 

 街角で募金箱を持って立っている交通遺児を目にしたドーソン司令官は、財布からしわ一つない一〇〇ディナール紙幣を三枚取り出して寄付すると、優しく励ました。

 

「人を馬鹿にしおって! あいつは士官学校にいた時から生意気だった!」

 

 第七艦隊副司令官ウランフ少将のオフィスを訪れたドーソン司令官は、スタッフの服装の乱れを嫌味混じりに指摘したが、ウランフ少将の副官ダスティ・アッテンボロー大尉に手痛い反撃を受けて、帰りの車中で怒り狂った。

 

「実に真面目な若者だ。ああでなくてはいかん」

 

 統合作戦本部で開かれた会議に出席したドーソン司令官は、準備に携わった本部情報参謀部員スーン・スールズカリッター中尉の不器用だが実直な仕事ぶりを褒めた。

 

 じっくり観察していくうちに、ドーソン司令官という人がわかってきた。

 

 わかりやすい悪に怒り、わかりやすい不幸に同情し、わかりやすい善行を好む。生意気を嫌い、素直を好む。善意に対しても悪意に対しても敏感。人の言葉に左右されやすい。自分の視界に入っている人間には意外と優しい。要するにとても普通の人だったのだ。

 

 前の世界で読んだ『革命戦争の回想』や『自由惑星同盟内戦記』といったドーソン司令官に非好意的な本の影響、第一艦隊にいた時の経験から、彼を狭量なだけの人と思っていた。だが、自分とそれほど変わらない価値観を持っていることが分かるにつれて、付き合い方も分かってくる。

 

 情報収集に熱心な彼の姿勢、そして副官という自分の立場を利用して、讒言や悪口とは正反対の話を耳に入れる。それが最善手だと判断した。

 

「イアシュヴィリ大佐は、とても奥様を愛していらっしゃると聞きます。結婚から二〇年近く過ぎても新婚同然だとか」

「それは結構なことだ」

 

 保守的で素朴な家族観を持つドーソン司令官は、とても満足そうに頷いた。

 

「クォン少佐は捜査の鬼と言われた方ですが、過去に司令官賞や隊長賞で得た報奨金の半額を必ず犯罪被害者救済基金に寄付なさるそうです」

「あの女傑にそんな一面があったのか」

 

 慈善や奉仕といった言葉が好きなドーソン司令官は、煙たく思っていたクォン少佐の慈善家ぶりに感銘を受けたようだ。

 

「ドレフスカヤ少佐は、最近体調を崩しているそうです。先日来訪したフェザーン財務長官を雨に打たれながら警護したのが祟ったのでしょう」

「あんな酷い雨なら体を悪くするのも道理だな。休ませてやらねば」

 

 真面目さを至上の価値と思っているドーソン司令官は、仕事熱心な部下に対してはこのような気遣いを見せる。

 

 こうやってドーソン司令官の優しい部分を引き出す一方で、密告や讒言をする人を遠ざける取り組みも行った。

 

「ルチャーギン中尉は行動力があります。現場指揮官として力を発揮するのでは」

「確かにそうだ。あの男は熱心に提案をしてくるからな」

 

 ルチャーギン中尉が点数稼ぎのために不要不急の提案ばかりして仕事を滞らせる人物だとか、そういったことは一切言わずに、点数稼ぎに奔走していることを「行動力がある」と言い換える。

 

「レザーイー中佐は麻薬取り締まりに実績があります」

「最近の貴官はそればかり言っているな。よほどレザーイーの手腕を評価していると見える。そこまで言うなら考えておこう」

 

 レザーイー中佐が讒言を武器として世渡りする人物だとか、そういったことは一切言わずに、一〇年以上前にあげた唯一の実績を強調する。

 

 こうして、現場向きの人材であることを強調して、問題のある人物が憲兵司令部の外に出されるように仕向けた。

 

 必死の努力が実り、変な取り巻きは姿を消し、真面目で穏やかな人間が新しい取り巻きとなり、ドーソン司令官の雰囲気は柔らかくなった。何でも自分で取り仕切ろうとするところ、批判を嫌うところは相変わらずだったが、側近以外の部下にも気遣いを見せるようになった。おかげで憲兵司令部もだいぶ過ごしやすくなり、じゃがいもの消費量も減ったのである。


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