銀河英雄伝説 エル・ファシルの逃亡者(新版)   作:甘蜜柑

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第33話:小物の本領 795年4月2日~3日 ティアマト星域

 四月二日深夜一時、ウランフ中将の第九艦隊が帝国軍左翼の突出部に痛烈な横撃を加え、カルナップ艦隊を敗走させた。これによって、帝国軍の左翼における攻勢は挫折。右翼も攻勢を中止。帝国軍は三〇光秒(九〇〇万メートル)向こうまで退いた。

 

「この機に攻勢に転じましょう!」

 

 第二艦隊副司令官ウィレム・ホーランド少将が反転攻勢を主張したが、総司令官ラザール・ロボス元帥は採用しなかった。あと一日待てば後続が到着する。それに敵は予備戦力が豊富だ。あえて賭けに出る必要はないと判断したのである。

 

 早朝七時、陣形を再編した帝国軍は、一六光秒(四八〇万キロメートル)の距離まで進んだ。中央にミューゼル艦隊とエルクスレーベン艦隊とブラウヒッチ艦隊、左翼にゼークト艦隊、右翼にケンプ艦隊とカルナップ艦隊が並ぶ。ヴァーゲンザイル艦隊は予備に回ったと思われる。中央が厚く左翼が薄い布陣だ。

 

 

 

 

 

 再び砲撃戦が始まった。主砲のエネルギー出力を上げているのか、ビームの一本一本がいつもより太い。

 

 同盟軍はエネルギー中和磁場を張り巡らせて対抗する。だが、砲撃が集中した部分から穴が空いて虫食い状態となった。そして、間隙から飛び込んできた砲撃が同盟軍の軍艦を打ち砕く。

 

「中和磁場の出力を三〇パーセント上げろ!」

 

 第一一艦隊司令官ドーソン中将の指示は、驚くほどの速度で実行された。第二艦隊、第九艦隊も中和磁場の出力を上げた。たちまちのうちに中和磁場の壁から虫食いが消える。

 

 両軍の砲撃戦は数時間にわたって続いた。帝国軍が主砲の出力を落とす気配は無い。エネルギー切れを覚悟で早期決着を狙っているように思われる。三個艦隊からの砲撃に晒された第二艦隊は、連携の悪さに苦しみつつもギリギリで踏みとどまった。

 

 一一時、同盟軍総司令部は帝国軍の繞回運動を察知した。一万隻ほどが第一一艦隊の後方に回り込みつつある。苛烈な砲撃は牽制に過ぎなかった。

 

「第一一艦隊は九時方向に延翼行動を取れ! 敵の繞回を阻止せよ!」

 

 ロボス元帥はドーソン中将に繞回運動を妨害するよう命じた。また、手持ちの予備戦力を派遣して第一一艦隊を補強した。

 

 一二時、第一一艦隊の左端が帝国軍繞回部隊の前に立ち塞がった。またもや敵の作戦は失敗に終わったのである。

 

 だが、喜ぶにはまだ早い。第一一艦隊は予備戦力を加えても一万四〇〇〇隻。一方、敵は正面のゼークト艦隊、繞回してきたヴァーゲンザイル艦隊とゾンバルト分艦隊を合わせると、二万隻を越える。俺の心臓が早鐘のように鳴り出す。

 

 

 

 

 

「うろたえるな! 落ち着いて迎え撃て!」

 

 ドーソン司令官が落ち着きとは程遠い声で命じると、第一一艦隊は素早く艦列を整えた。戦艦と巡航艦のビーム砲、駆逐艦のレーザー砲が一斉に光線を放つ。

 

 一万四〇〇〇隻と二万隻が四光秒(一二〇万キロメートル)の中距離で撃ち合った。駆逐艦の中距離レーザー砲は最低有効射程が短いため、砲撃を一点に集中させやすい。集中攻撃が両軍の中和磁場を綻びさせた。

 

 同盟軍正規艦隊は帝国軍主力艦隊より練度が高い。自分の攻撃は当たりやすく、敵の攻撃は当たりにくいということだ。中和磁場の綻びは両軍の損害を増大させたが、帝国軍により多くの損害をもたらした。

 

 第一一艦隊の反撃にたまりかねたのか、左前方のヴァーゲンザイル艦隊とゾンバルト分艦隊が足を止めた。一方、ゼークト艦隊は怯むことなく進み続ける。

 

 ゼークト大将は勇猛だが頭が硬いと評される。前の世界でもヤン・ウェンリーの策に引っかかって死んだ。だが、この局面ではその単純さが物を言っているらしい。

 

「先頭集団より報告! ゼークト艦隊旗艦『グルヴェイグ』を確認!」

 

 その報告と同時にメインスクリーンの画面が切り替わった。分厚く長大な巨大戦艦。ゼークト専用旗艦のグルヴェイグだ。その周囲を一〇〇隻以上の標準型戦艦が取り囲む。凄まじい威容に圧倒されそうになる。

 

 むろん、見掛け倒しでは無い。艦体の大きさは蓄積できるエネルギー、すなわちビーム砲やエネルギー中和磁場の出力と比例する。帝国の標準型戦艦の艦体は、同盟の標準型戦艦の倍以上の厚みを持つ。そんな巨艦のみで構成された旗艦直衛部隊は恐ろしく堅固だろう。そして、グルヴェイグはさらに大きくて防御力も高い。ゼークト大将は単純だが無謀ではなかった。

 

 ここが勝負どころと判断したのだろう。皇太子直属のエルラッハ分艦隊とコッホ分艦隊がこちらに向かってくる。ヴァーゲンザイル艦隊とゾンバルト分艦隊も再び前進を始めた。彼らが合流したら敵は二万五〇〇〇隻を越える。何としてもゼークト艦隊を打ち破らなければならない。

 

「砲撃を旗艦の取り巻きに集中させろ! D分艦隊は天底方向から回り込め! ゼークトの下っ腹を叩け!」

 

 ドーソン司令官が早口で指示を飛ばす。長距離砲での一点集中砲撃はシトレ系の用兵家が得意とする戦法だ。シトレ派のファルツォーネ前司令官に指導された第一一艦隊もこの戦法を使うことができた。

 

 一〇〇隻の戦艦が作り上げた中和磁場の分厚い壁も、長距離砲の大火力を一点に叩きつけられてはひとたまりも無い。旗艦直衛部隊がみるみるうちに打ち減らされていく。そこにレヴィ・ストークス少将のD分艦隊が殺到した。

 

 一〇〇〇隻ほどの敵部隊がゼークト大将を守るように割り込む。しかし、D分艦隊は細長く伸びきった敵を突破し、退路を絶つように展開する。

 

「D分艦隊より報告! 敵旗艦から三光秒(九〇万キロメートル)まで接近! 中距離砲の射程に入りました!」

「他の艦に構うな! 駆逐艦は旗艦に攻撃を集中せよ!」

 

 ドーソン司令官の声が上ずった。ゼークト大将は用兵家としては二流だが、勇猛さにかけては帝国宇宙軍でも屈指だ。そして主力艦隊司令官の地位にある。そんな大物が射程に入ったら、誰だって興奮するに決まってる。

 

 D分艦隊配下の三個駆逐艦戦隊が中距離砲を一点に集中した。残り少なくなっていた旗艦直衛部隊は完全に消滅。がら空きになったグルヴェイグに砲火が襲いかかる。

 

「頼む、沈んでくれ」

 

 スクリーンを眺めながら祈った。ここでゼークト大将を討ち取れば、誰もドーソン司令官の実力を疑わなくなるはずだ。何としても討ち取って欲しい。

 

「まだ沈まないのか」

 

 どれだけ砲火を浴びせても、グルヴェイグの分厚い中和磁場はびくともしない。それどころか側面の副砲を放ち、D分艦隊配下のの駆逐艦を次々と返り討ちにする。エルラッハ分艦隊とコッホ分艦隊も目と鼻の先まで迫っていた。

 

「もしかして、グルヴェイグは不沈艦なんじゃないか」

 

 言いようのない不安が湧き上がる。ゼークト大将には武運がある。ドーソン司令官と敵将の武運の差が、グルヴェイグを不沈艦にしているのではないか。そんな錯覚に囚われた。

 

「よし!」

 

 誰かが叫びをあげた。グルヴェイグの中和磁場に白熱したような輝きが現れる。負荷に耐え切れなくなってきているのだ。やはり集中砲火は効いていた。

 

 やがて一本のレーザーが中和磁場を貫き、分厚い装甲に受け止められた。次第に貫通するレーザーが増えていく。巨艦の装甲に入った亀裂がどんどん大きくなる。レーザーの束が亀裂に突き刺さった瞬間、グルヴェイグの巨体が砕け散った。前の世界で天才ヤン・ウェンリーに討ち取られた猛将が、じゃがいも提督に討ち取られたのである。

 

「グルヴェイグ、撃沈しました!!」

 

 報告と同時に歓喜が満ち満ちた。みんなが歓声をあげながら手を叩き合う。日頃の確執など吹き飛んでしまったかのようだ。俺も軍人になって初めての勝利に酔いしれた。

 

「まだ戦闘が終了したわけではない! 気を緩めるな!」

 

 みんなが喜びに湧く中、ドーソン司令官はいつもと変わりない。緊張感をまき散らしながら指示を出す。うまくいき過ぎて恐怖すら感じているのだろう。小心者の俺には司令官の気持ちが痛いほどに分かる。しかし、付き合いが浅い人からは、名将らしい冷静さに見えるかもしれない。

 

 一度成功すれば、内心と関係なく他人は好意的に解釈してくれる。エル・ファシルの英雄になった時に俺が経験したことだ。今後はドーソン司令官も好意的に見られるに違いない。

 

 司令官を失ったゼークト艦隊は総崩れとなった。ヴァーゲンザイル艦隊とゾンバルト分艦隊も退き始めた。遅れて到着したエルラッハ分艦隊とコッホ分艦隊のみが果敢に攻撃を仕掛けてくるが、明らかに統制が取れていない。もはや、帝国軍右翼は脅威ではなかった。

 

 この頃、第九艦隊司令官ウランフ中将は、シドニー・シトレ元帥の戦術面における一番弟子であることを証明した。一点集中砲撃と一翼包囲によって帝国軍右翼に大打撃を与え、カルナップ艦隊は戦線崩壊、ケンプ艦隊は旗艦シグルーンを捕獲された。捕虜となった司令官ケンプ中将は自決を図り、意識不明の重体だ。

 

 ウランフ中将の用兵をシトレ流用兵の精華とするならば、第二艦隊司令官パエッタ中将の用兵はロボス流用兵の精華であろう。ホーランド少将との不協和音に苦しみながらも、巧みな機動でエルクスレーベン艦隊とブラウヒッチ艦隊を分散させ、薄くなった部分を突き破った。

 

 もはや同盟軍の優勢は揺るぎない。ドーソン司令官とウランフ中将は大功を立て、パエッタ中将も勝った。乱戦を避けて後退するミューゼル艦隊が唯一の不安要因だった。

 

 

 

 四月三日〇時、帝国軍は撤退を開始した。ルートヴィヒ皇太子の本隊を先頭に、エルクスレーベン艦隊、ブラウヒッチ艦隊、カルナップ艦隊、ケンプ艦隊残存部隊、ゼークト艦隊残存部隊がばらばらに逃げている。

 

 後衛となった部隊のうち、ヴァーゲンザイル艦隊、ゾンバルト分艦隊、コッホ分艦隊、エルラッハ分艦隊は、武勲を立てる最後の機会とばかりに奮起した。

 

 無傷に近い戦力を持つラインハルト・フォン・ミューゼル中将は、突出してきたホーランド少将に逆撃を加え、あっという間に第二艦隊先頭集団を半身不随に追いやった。

 

 一瞬にして第二艦隊を脱落させたラインハルトは、第一一艦隊へと向かった。しかし、何か動きがおかしい。戦力を分散し、様々なポイントに不規則に攻撃を仕掛けてはすぐ退く。戦力の集中、目標の統一、行動の徹底など、あらゆる用兵の原則から外れていた。天才のすることだ。何らかの理由があるのは間違いない。だが、それが何なのかは想像もつかなかった。

 

 

 

 

 

 俺は作戦部長チュン・ウー・チェン大佐のデスクを見た。彼も休憩中だった。名参謀の意見を聞きたいと思い、ホットコーヒー入りの水筒を持ってデスクへと向かう。

 

「どうも」

「やあ」

 

 挨拶を返すチュン・ウー・チェン作戦部長の口元に、パン粉がびっしりとくっついていた。ほんの少したじろいだが、すぐに気を取り直す。

 

「お疲れ様です。コーヒーはいかがですか?」

「ありがとう。ちょうど食事中でね。飲み物が欲しかったところだ」

 

 チュン・ウー・チェン作戦部長は俺の手から水筒を受け取り、デスクの上に置いた。その隣にクロワッサンがあった。皿に乗せたわけでもなければ、紙を敷いたわけでもなく、デスクに直に置いてある。

 

「そうでしたか」

 

 この程度で驚く俺ではない。飲み物の缶が何本か倒れて中身がこぼれ、書類にしみを作っているが、想像の範囲内だ。しかし、ケチャップやマヨネーズがデスクに付いているところまでは、想像できなかった。いったい、どんな食べ方をすればこんなことになるのだろうか?

 

 前の世界で読んだ『最後の総参謀長チュン・ウー・チェン』によると、行儀の悪さで有名なヤン・ウェンリーが食事のマナーについて、「彼(チュン・ウー・チェン)よりは私のほうがずっとましだろう」と評したという。大いに納得できる評価だ。

 

「そんなにクロワッサンが気になるのかい?」

 

 どうやら、俺がデスクの汚さではなくクロワッサンを気にしていると、チュン・ウー・チェン作戦部長は勘違いしたらしい。

 

「いえ、そういうわけではなくて」

「遠慮することはないさ。君のおかげで食べられるパンだ。堂々と要求すればいいよ」

 

 そう言うと、チュン・ウー・チェン作戦部長が胸ポケットから潰れたクロワッサンを取り出した。せめて、デスクの上に置かれているクロワッサンにしてほしかったが、人がくれる食べ物に文句を言うのは良くない。前の世界で、妹に作ってやったアップルパイを目の前で捨てられたことがある。あの悲しみを他人に味わわせたくはない。

 

「ありがとうございます。ごちそうになります」

「好き嫌いがないのはいいことだよ。かく言う私も好き嫌いはないんだけど、娘が偏食でねえ。人参を食べたがらない。困ったものだよ」

「それは困りますね」

 

 そうは言ったものの、困っているのは俺の方だった。前に「トマトが食べられない」と言ったのをはっきり聞いてるし、パン以外の物を食べているのを見たことは無い。だが、表情を見るに本気で言ってるらしい。

 

 いちいち突っ込むのも面倒だ。さっさと本題に入ることにした。

 

「おかしな用兵ですよね。ミューゼルは何を考えてるんでしょうか?」

「こちらの隙を探り出そうとしているのかも知れないなあ。あるいは挑発かもしれないね」

 

 チュン・ウー・チェン作戦部長もラインハルトの意図を測りかねている様子だった。

 

「あなたでもわかりませんか」

「何か狙ってるとは思うんだよ。それ以上はわからないな。あいにく千里眼は持ち合わせていなくてね」

 

 ヤン・ウェンリーに次ぐ知謀の持ち主ですら狙いを読めない。これは危険な徴候だ。

 

「ドーソン司令官に撤退を進言するわけにはいきませんか?」

「私もそれは少し考えた。でも無理だな」

「どうしてです?」

「司令官を納得させられるような理由がない」

「何を企んでるかわからないというのは駄目ですか?」

「敵の意図がわからないから撤退しろと言うのは筋が通らないよ。最後までわからない戦いの方がずっと多いんだから」

「ああ、それは確かにそうですね」

 

 俺はため息をついた。客観的には第一一艦隊が撤退すべき理由は無い。参謀が口を開く際には、どんな動機があるにせよ、表向きには筋の通った理屈を用意する義務がある。勘だけで動いていいのは指揮官だけだ。

 

 潰れたクロワッサンを口に入れた瞬間、頭がぐらりと揺れた。足元がふらつく。眠気も酷い。意識を保つのがやっとだ。

 

「大丈夫かい?」

「なんか疲れたみたいです」

「もしかして、戦いが始まってからずっと起きてたんじゃないか?」

「ええ、いろいろと心配で目が離せなかったんですよ」

「それは良くないな。平時と戦闘中では疲れが全然違うんだよ。参謀は頭を使う仕事だ。次からはちゃんと休むんだね」

「次からは気をつけます。それにしても……」

 

 司令官席に視線を向けた。ドーソン司令官が生き生きと采配を振るっている。今年で五四歳だというのに、二八歳の誕生日を間近に控えた俺よりもずっと元気だ。

 

「ドーソン司令官は本当に凄いですよ。不眠不休で指揮をとってらっしゃるんですから」

「そういえば、司令官は休んでないね。憲兵司令官だった時もそうだったのかい?」

「ええ、あまりお休みにならないですよ。休むように言っても、『集中力が切れるから』とおっしゃるんです。仕事中毒というか、なんというか……」

 

 しょうもない人だ。ぼんやりした頭でそんなことを思いつつ、苦笑いを浮かべる。

 

「それはまずいな」

 

 チュン・ウー・チェン作戦部長が端末に向かった。そして、普段のマイペースぶりからは信じられないような速度でキーボードを叩く。

 

「そうか、そういうことか」

「どうなさったんですか?」

「これを見るんだ。司令官のもとに報告が入ってから指示を下すまでの時間だよ。ミューゼル艦隊との戦いが始まってから急に遅くなった」

「つまり……」

「判断力や注意力が低下しているんだよ。無意味な攻撃を繰り返し、そのすべてに対応させて司令官の頭を疲れさせる。それが敵の狙いさ。指揮系統を攻撃するのは用兵の基本だけど、こんな方法を使うとはね。本当にとんでもない敵だ」

「ど、どうしましょうか!?」

 

 今の第一一艦隊は司令官の独裁状態だ。中級指揮官には権限が与えられていない。肝心の司令官が疲れたらどうなることか。想像するだけで恐ろしくなる。

 

「そうだなあ、まずは……」

 

 チュン・ウー・チェン作戦部長の言葉を遮るように、オペレーターの声が響いた。

 

「敵が後退を開始しました!」

 

 ラインハルトがどんどん後退していく。俺はドーソン司令官に視線を向けた。彼が後退を決断してくれたら、この戦いは無事に終わる。

 

「これ以上の追撃は不要だ! 陣形を再編しつつ、ゆっくりと後退せよ!」

 

 ドーソン司令官は期待に応えてくれた。俺は胸を撫で下ろしたが、チュン・ウー・チェン作戦部長はそうではなかった。

 

「まずいな。ゆっくりではなく全速で後退しないと」

 

 何かを決心したように、チュン・ウー・チェン作戦部長は立ち上がる。

 

「どうしてです?」

 

 俺が質問した瞬間、再びオペレーターの叫び声が聞こえた。

 

「敵が突進してきます!」

 

 後退したかに見えたラインハルトが急に前進してきた。戦力を一点に集中し、驚くべき速度で第一一艦隊最右翼のC分艦隊へと突入する。

 

「第六八機動部隊のハールシー司令官が戦死!」

 

 接触から三分後にC分艦隊の一角が崩れた。

 

「A分艦隊は一〇時方向、D分艦隊は二時方向に移動。敵を迎え撃て……。B分艦隊はC分艦隊を援護せよ……」

 

 ドーソン司令官は虚ろな表情で指示を出す。これまでとは比較にならないほど判断が遅い。奇襲を受けて緊張が切れてしまったらしい。

 

 ラインハルトはC分艦隊を斜めに突き抜けると、第一一艦隊本隊を一直線に目指した。副司令官ルグランジュ少将がA分艦隊とD分艦隊を率いて救援に向かう。だが、敵の速度はそれをはるかに上回る。敵艦隊八〇〇〇隻と第一一艦隊本隊二〇〇〇隻の間には、ほんのわずかな距離しか無かった。

 

 

 

 

 

 ドーソン司令官からは明らかに精彩が失われた。こんな状態で四倍のラインハルトに突入されたらどうなることか。考えたくもない。

 

「ど、どうすれば……」

 

 わらにもすがるような気持ちで、チュン・ウー・チェン作戦部長を見る。

 

「取りあえず落ち着きなさい」

「し、しかし……」

「参謀が取り乱してどうするんだい? 冷静さと客観性は大事な仕事道具だろうに」

「無理ですよ。それに俺が冷静になったところで解決策は出てきません」

「君にしかできないことがある。それも参謀の大事な仕事だよ」

「あなたがすればいいじゃないですか。何をすればいいのか、ご存知なのでしょう?」

「あれを見るんだ」

 

 チュン・ウー・チェン作戦部長が司令官席の方向に目を向ける。参謀長ダンビエール少将、副参謀長メリダ准将ら参謀数名が集まって何やら言っていた。だが、ドーソン司令官は「できない」「無理」という言葉をうわ言のように繰り返す。

 

「提督と付き合いが長ければわかるだろう?」

「わかります。俺はそういう人間ですから」

 

 俺はすべてを理解した。参謀長らは真剣にアドバイスしようとしている。ところがドーソン司令官はミスを責められてると思い込んで聞こうとしないのだ。

 

 八〇年以上の小心者経験から言うと、小心者は苦境に弱い。ちょっとした失敗ですぐに無力感を覚える。そんな時に他人から「やればできる」と助言されると、自分の無力感を否定されたように感じ、「何もできない」と言い張りたくなる。適切だからこそ聞き入れられない。それを聞き入れて成功したら、自分の間違いを認めることになるからだ。無力感を受け入れて何もしないことが自分の正しさを証明する。実に情けない。だが、それが小心者なのだ。

 

「私が何か言っても、ドーソン提督を追い詰めるだけだよ。確実に却下される進言なら、どんなに正しくても言わない方がましだ。ああいう人が一度却下した進言を再び採用すると思うかい?」

「絶対にしないでしょうね。最初の判断が間違いだと認めることになりますから。親しくない相手の提案ならなおさらです」

「採用されない進言に意味は無いというのが、私のモットーでね。『正しい進言を無能な上官に却下された悲運の名参謀』なんてごめんこうむる。何が何でも進言を採用してほしい。だから、どんな部隊に配属されても、必ず君みたいなポジションの人と付き合うわけさ」

 

 チュン・ウー・チェン作戦部長のプロ意識は、反骨心のあるキャゼルヌ准将、直言を好むダンビエール参謀長らのそれとは異質だった。

 

「わかりました。小官にできることがあるのなら教えてください」

「ドーソン提督が落ち着きを取り戻すように言ってほしい」

「それだけですか?」

「ああ、それだけだよ。判断力が鈍っているとはいえ、落ち着いたら今よりはだいぶましになるだろう。戦術的なアドバイスをしても聞くような人じゃないしね。救援が来るまで持ちこたえれば、それで十分さ」

「わかりました」

 

 俺はするべきことを理解した。チュン・ウー・チェン作戦部長のもとを離れ、司令官席へと向かう。

 

「第一三九機動部隊より報告! ナウマン司令官が負傷! ポンテ副司令官が指揮権を引き継ぎました!」

 

 本隊に所属する三個機動部隊の一つ、第一三九機動部隊の旗艦が攻撃を受けた。その報告に全身が震える。もはや、ヴァントーズも安全では無い。数時間前に撃沈したグルヴェイグの姿が脳裏に浮かび、足が止まる。

 

「いや、あの偉大なチュン・ウー・チェンが俺を信じてくれたんだ。期待に応えないと」

 

 首を横に振り、再び歩み始める。やがて、司令官席が視界に入った。

 

「無理だ。無理に決まっている」

「そんなことはおっしゃらないでください。この方法なら十分に持ちこたえられます」

 

 下を向いて否定的な言葉を並べ立てるドーソン司令官。真剣な顔でアドバイスをする参謀たち。

 

「司令官閣下、失礼します」

 

 俺が声をかけても、ドーソン司令官は返事をしなかった。自分のことで頭がいっぱいなのだ。そんな相手に何を言う言葉を俺は知っている。

 

「小官も閣下のおっしゃる通りだと思います。もうできることはありません」

 

 俺の言葉にダンビエール参謀長やメリダ副参謀長らが顔色を変えた。

 

「馬鹿を言うな! 参謀が諦めるように勧めてどうする!?」

「立ち直っていただかないとどうにもならないのだぞ! 状況をわきまえろ!」

 

 まっとうな責任感から発した参謀達の怒り。前の世界で市民を見捨てた逃亡者として批判された時の恐怖を思い出す。だが、チュン・ウー・チェン作戦部長への信頼だけを頼りに言葉を続ける。

 

「司令官閣下はベストを尽くされました。誰がやってもこれ以上はできないでしょう」

「貴官の言う通りだ、私にはもう何もできん」

 

 俺の言葉に頷くドーソン司令官。やはり、ここで必要なのは誠意あるアドバイスではない。耳触りの良い言葉だと確信する。

 

「誰が閣下を批判できるというのでしょうか? できるとしたら、それは閣下の苦労を知らぬ者だけでしょう」

「そうだ、その通りだ」

「そのまま指揮をおとりになれば良いのです。それが閣下の正しさを証明するでしょう」

「うむ、貴官はよく分かっておるな。私は何一つ間違いなど犯しておらん」

 

 ドーソン司令官の顔に生気が浮かぶ。やはり彼は自分が間違っていないと証明する方法を求めていた。

 

「戦いはまだ終わっておらんぞ! 席に戻れ!」

 

 参謀達に席に戻るように言うと、ドーソン司令官は再び指揮をとりはじめた。

 

「かしこまりました」

 

 ダンビエール参謀長やメリダ副参謀長らは、俺に殺意のこもった視線を向けた後、憤然と戻っていく。単なる追従に見えたのであろう。反感の大きさに身震いした。

 

 俺が席に戻った後も戦局は恐るべき速度で悪化していった。

 

「戦艦ヴァラーハ、撃沈されました!」

「第七独立宇宙母艦戦隊司令ナンゴン代将が戦死!」

「第一六四一戦艦群が壊滅!」

「第二三駆逐戦隊は戦力の半数を喪失しました!」

 

 次々と本隊の損害が報告される。人々が恐怖する中、自分の正しさを証明するという目的を見出したドーソン司令官だけが活力を保っていた。

 

 本隊にいるすべての艦がエネルギー中和磁場の出力を高めた。しかし、ラインハルトの速度はそれをあっさりと打ち砕く。

 

「エネルギー中和磁場、出力二〇〇パーセント!」

 

 カラスコ艦長が声をからして叫ぶ。ヴァントーズの中和磁場の出力が限界値に達した。エネルギー消耗が激しすぎるため、ここまで出力を高めることは滅多に無い。現在のヴァントーズがどれほど追い込まれているかがこの一事だけわかる。

 

 至近にいた戦艦プルートーの艦体が炸裂し、まばゆい光がスクリーンを満たす。それと同時にヴァントーズが激しく揺れる。俺は椅子から転げ落ち、無様に横転した。

 

 床に手をついて立ち上がろうとした。しかし、体が震えて起き上がれない。数時間前に葬り去ったグルヴェイグの姿が頭の中に浮かぶ。それはヴァントーズがそう遠くないうちにたどるであろう運命だった。

 

 頭の中にダーシャ・ブレツェリの顔が浮かんだ。ただの友達だったが、あの丸っこい顔を二度と見れなくなると思うと少し寂しい。

 

 統合作戦本部のオフィスにいるイレーシュ中佐、宇宙艦隊総旗艦アイアースで作戦を練るアンドリュー、教育部隊で新兵を鍛えるクリスチアン中佐、国防委員会庁舎で軍政に励むトリューニヒト委員長とベイ大佐、その他の親しい人達の姿が次々と浮かんでは消える。

 

「もう一度会いたい」

 

 そう思った時、体の震えが止まった。手に力を入れて立ち上がる。その瞬間、オペレーターが叫んだ。

 

「A分艦隊とD分艦隊です! ルグランジュ提督が到着しました!」

 

 数千個の光点が側面からラインハルトへと突入していく。第一一艦隊副司令官ルグランジュ少将が率いる二個分艦隊四〇〇〇隻。ドーソン司令官の粘りが実ったのだ。

 

 ルグランジュ少将の戦力はラインハルトの半数に過ぎない。だが、彼は同盟宇宙軍でも屈指の猛将だ。前の世界でもあの天才ヤン・ウェンリーを辟易させるほどの奮戦をした。B分艦隊とC分艦隊が到着するまでの時間は稼げるだろう。ロボス元帥の本隊、パエッタ中将の第二艦隊、ウランフ中将の第二艦隊からも援軍が向かっている。希望が見えてきた。

 

 ラインハルトの動きは素早かった。第一一艦隊本隊を突っ切り、ルグランジュ少将と逆の方向に直進した。それから大きく回って戦場の外縁部に出る。孤立する危険を避けたのであろう。天才は引き際も見事だった。

 

 ヴァーゲンザイル艦隊、ゾンバルト分艦隊、コッホ分艦隊、エルラッハ分艦隊も抗戦を断念。全速力で戦況から離脱した。

 

 四月三日九時四七分、第三次ティアマト星域会戦は自由惑星同盟軍の勝利に終わった。


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