銀河英雄伝説 エル・ファシルの逃亡者(新版)   作:甘蜜柑

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第39話:エル・ファシルの現実 796年1月28日~2月 エル・ファシル市~第一軍用港跡地~第八一一独立任務戦隊司令部

 一月五日にハイネセンを出発したエル・ファシル方面軍は、途中でエル・ファシル軍とパランティア軍に分かれた。方面軍司令官直轄部隊及びエル・ファシル軍は、二八日にエル・ファシル宇宙港へと降り立った。

 

 車窓の外に赤茶けた荒れ地が広がる。七年前には青々とした畑が広がっていたと思う。シャンプールで会った地球教徒から聞かされた「小麦畑もチーク林も焼けた」という言葉を思い出した。

 

 星都エル・ファシルの市街地に入った。ビルは壊れたまま。商店は昼間だと言うのにシャッターを閉ざしている。道路のひび割れが酷い。わずかな通行人の顔はみんな疲れきっていた。

 

「これが本当に星都……」

 

 ダーシャが廃墟同然の街並みに呆然とする。

 

「前と同じだよ」

 

 俺は窓の外に視線を固定したまま答える。目を背けてはならない。自分が作り出した光景を目に焼き付けなければならない。それが偽りの英雄の義務だ。

 

 やがて中心街に入った。これまでガタガタ揺れていたバスが急に安定する。路面を見るときれいに舗装されていた。大都市の都心部に建っているような立派なビルが軒を連ねる。デザインの良いスーツを身にまとったビジネスマンが歩道を早足で歩く。ピカピカの新型車が車道を行き交う。首都圏の大都市と言われても信じてしまいそうな繁栄ぶりである。

 

「これがエル・ファシルの自由ってことか」

 

 俺はそう呟いた。改革派も反改革派も嘘は言っていない。極端な豊かさと貧しさが一つの街に同居している。エル・ファシルの繁栄は万人にとっての繁栄ではなく、非凡な者にとっての繁栄なのだろう。

 

「あのさ、この星ってまずくない?」

 

 ダーシャが顔を寄せてささやく。

 

「何が?」

「同じ街の中でもこんなに落差があるんだよ? 不平等感が凄いんじゃない?」

「ああ、そうか」

 

 言われて納得した。豊かな中央宙域(メインランド)と貧しい辺境宙域の不平等感。それが同じ地表に共存するようなものだ。確かにまずい。

 

 バスは星系政庁庁舎の前で止まった。四年前に帝国軍司令官カイザーリング中将が自爆を遂げた北棟は、崩れかけの外壁、剥き出しの鉄骨がそのままになっており、周囲の美しいビル群からは完全に浮いている。庁舎前広場も焼け野原のままだ。

 

「マスコミは質素倹約だって褒めてたけどさ。目の当たりにすると引いちゃうね」

 

 ダーシャはリベラリストだが軍人一家で育ったせいか秩序意識も強い。こういった建物は立派であって欲しいと考えるたちだ。

 

「そうだなあ」

 

 俺は心の底から同意した。質素倹約は大事だが、さすがにこれは度を超えている。

 

 エル・ファシル方面軍司令官パストーレ中将、エル・ファシル軍司令官マクライアム少将、エル・ファシル軍副司令官ヤン准将らの後について庁舎南棟に入った。八年前と比べると恐ろしく寂れた感じがする。使われていない部屋が多いせいだろう。

 

 俺たちは星系主席、星系首相ら政府要人と相次いで面会したが、ほとんど時間は割いてもらえなかった。

 

「お久しぶりです。八年前はお世話になりました」

 

 かつて星系庁舎まで案内してくれたフランチェシク・ロムスキー教育長官に挨拶した。

 

「ああ、久しぶりだね」

 

 おそろしく素っ気ない答え。椅子も勧められなかったし、お茶も出なかった。ロムスキー長官は改革派の急先鋒。前の世界ではエル・ファシルを独立させた革命家である。トリューニヒト系の俺に冷たいのはある程度予想できた。それでも、いざ直面してみると寂しいものだ。

 

 反改革派のエネルギー長官と地域開発長官だけがまともに応対してくれた。エル・ファシル方面軍がどう見られているのかをこれほど雄弁に教えてくれる事実も無いであろう。

 

 星系政庁を退出した後、エル・ファシル惑星政庁、エル・ファシル市政庁へ挨拶回りをした。星系政庁ほど大人げない対応はされなかったが、それでも歓迎からは程遠い。

 

 取材に来たマスコミは多かったが、好意的に取材してくれたのはトリューニヒト国防委員長に近い右派系のみだった。国民平和会議(NPC)主流派のビッグ・ファイブに近い中道保守系、進歩党に近いリベラル系などは、わざと怒らせようとしているかのような質問を繰り返す。

 

 パストーレ中将とマクライアム少将は、冗談を交えながら攻撃を受け流す。彼らは政治能力に長けたいわゆる「政将」だ。マスコミ対応には手慣れていた。

 

 夜からは「海賊対策を推進する有志議員の会」が主催する歓迎会に出席した。超党派の星会議員連盟ということになっているが、実際は反改革派の巣窟である国民平和会議エル・ファシル支部に属する議員しかいない。

 

「良くいらっしゃいました! エル・ファシルはあなた方を歓迎しておりますぞ!」

 

 イバルス・ダーボ支部幹事長は、体中の脂肪を揺らして大笑する。強烈な反改革志向ゆえにNPC本部から二度も離党勧告を受けたいわくつきの人物だ。

 

 反改革派の議員が次から次へとやってきてお世辞を言う。エル・ファシルに降り立って初めて歓迎されたパストーレ中将らは、大いに機嫌を良くし、飲み食いと歓談を楽しむ。

 

 改革派の議員を潔癖とすると、反改革派の議員は俗物そのものだった。男性の側には美女、女性の側には美男子が寄り添って酒を注ぐ。だらしない顔で美女の体をしきりに触る議員、大きな声で基地工事について談合する議員もいる。

 

 何十回も政治家のパーティーに出たが、ここまで露骨ではなかった。これが地方政界というものなのだろうか?

 

 俺は体裁を気にする型の凡人だ。こうも欲望剥き出しだと不安になってくる。ドーソン中将が居合わせたとしてもそう感じると思う。ロックウェル中将のように欲が先立つ型の凡人ならこの場にも合わせられるのかも知れない。

 

 ヤン副司令官は「飲み過ぎた」と言って別室に行ったまま帰ってこない。さすがは撤退戦の名手。戦場の外でも引き際を弁えていた。

 

 ダーシャやクリスチアン中佐は階級が低いせいで呼ばれなかった。呼ばれていたらあまりの俗悪ぶりに気分を悪くしたことだろう。クリスチアン中佐なら怒鳴るぐらいはするかもしれない。

 

 ひたすら甘い物を食べて糖分を補充し続けた。欲望の宴を乗り切った後は、タクシーでエル・ファシル市郊外の官舎に帰り、目覚ましを朝四時にセットして眠りにつく。

 

 目覚ましが鳴る五分前に目が覚めた。駐車場に行き、エル・ファシル赴任が決まった際に購入したエアバイクに乗る。

 

 白くなってきた空の下、エル・ファシル第一軍用宇宙港の跡地に向けてバイクを走らせた。果てしなく広がる荒れ地の中で、モスグリーン色の柵に囲われた土地がちらほら見える。エル・ファシル方面軍のために新設された基地の工事現場だ。

 

 惑星エル・ファシルに進駐する戦力は、司令官直轄部隊一二万人、エル・ファシル軍の三割にあたる一一万人、合計すると二三万人になる。一方、星系警備隊がこの惑星に保有する基地の収容能力の合計は七万人。一六万人分の基地が必要だ。 現在、宇宙部隊は民間宇宙港、陸上部隊は大型公共施設、航空部隊は民間空港、水上部隊は民間水上港に間借りして、基地が完成するまでの日々を過ごしている。

 

 年初から始まったこの巨大工事は、エル・ファシル経済に大きな影響を与えたらしい。改革派は「喜ぶのは利権屋だけ。庶民は怒っている」と批判し、反改革派は「最高の景気対策」と褒め称える。どちらが正しいのかは分からない。

 

 焼け野原を作ったのも政治なら、建物を建てようとするのも政治。エル・ファシルは風景までが政治に左右される惑星なのだ。

 

 かつてエル・ファシル星系警備艦隊が駐留していた第一軍用宇宙港の跡地に着いた。六八年前にすべてを失うきっかけを作った場所であり、八年前にやり直した場所。原点を思い出すつもりでやってきた。

 

「本当に酷いな」

 

 見渡すばかりの荒れ地。クレーターのような大穴が点在する。かつてのエル・ファシル星系警備隊の基地は、すべて四年前の地上戦で破壊され尽くした。現在の星系警備隊基地は別の場所に新しく作られたものだ。

 

 一人でぐるぐると歩き回る。わざわざやり直した時と同じ時間帯に来たのに、あまりに風景が違いすぎて、懐かしい気持ちにならない。

 

 二〇メートルほど先に軍服らしきものを着た人影が見えた。穴の辺に腰掛けているようだ。早朝にこんな場所で何をしているんだろうか? 不思議に思いながら足を進める。

 

「すいませーん」

 

 五メートルほどの距離になったところで声を掛けた。軍服を着た人物が顔を上げる。幼い顔の女性だ。

 

「もしかしてフィリップス代将閣下ですか?」

「そうですよ」

 

 代将は閣下じゃなくてただの先任大佐なのにと思いつつ答えた。すると、女性はぴょんと立ち上がり、跳ねるように走り寄ってくる。

 

「お久しぶりです!」

「久しぶり?」

 

 俺は女性をじっくりと観察する。身長は俺より二〇センチほど低い。一五〇センチ前後といったところだろう。髪はチョコレート色、肌は真っ白、きらきらした目と低い鼻が可愛らしい。階級章は宇宙軍軍曹。年齢は俺より五歳ほど下だろうか。見覚えのない人物だ。

 

「覚えていらっしゃらないんですか?」

「すまない」

「ハッセル・ベーカリーって言ったらわかります? 帝国軍が攻めてくる前はフィリップス閣下にひいきしていただいてました」

「ああ、思い出した! 懐かしいなあ!」

 

 口先では懐かしそうに言ってみせたが、実は全然覚えていない。エル・ファシルで兵役を務めていたのは実時間で六八年前になる。基地の近くにパン屋があったこと、そこの娘と仲が良かったことをぼんやりと覚えてるに過ぎない。

 

「私は末っ子のルチエですよ」

「ルチエか! こんなところで会えるとは!」

 

 適当に話を合わせ続けた結果、ルチエ・ハッセル軍曹が、六八年前に通っていたパン屋の娘だったことが分かった。もっとも、俺と親しかったのは彼女ではなく、長姉のマリアらしい。

 

 ハッセル軍曹の口から語られる六八年前の自分は、まるで別人のようだった。給料の大半をスロットマシンに注ぎ込んでたとか、簿記の資格を取ろうとしてたとか、暇さえあれば故郷の妹とメールしてたとか、記憶に無いことが当然の事実として語られる。俺といつも一緒にいたという「のっぽのマーティンさん」と「丸顔のジュディさん」、俺の上官だった「ヘッジズ軍曹」や「パーカスト大尉」などは、存在すら覚えていない。

 

 昔については饒舌なハッセル軍曹だが、今については寡黙だった。エル・ファシル義勇旅団での功績で軍曹に任官したこと、現在はエル・ファシル第二陸戦師団に属していることぐらいしか話さない。マリアなど家族の行方については聞き出せなかった。

 

「楽しかった。ありがとう」

 

 俺は笑顔で礼を言い、思い出の地を後にする。朝日が降り注ぐ中、八年前に通ったのと同じ道を通り、エル・ファシル市へと向かう。胸の中は新しい仕事への期待で膨らんでいた。

 

 

 

 第八一一独立任務戦隊司令部は、三階建ての馬鹿でかいプレハブだった。市役所の仮庁舎なんかに使われるようなしっかりしたプレハブではない。風が吹いたら潰れてしまいそうな安っぽいプレハブだ。何とも寂しい気分になってくる。

 

 袋の中から取り出したマフィンを口に放り込んだ。糖分を補給したところで公用車から降り、司令着任式に臨む。

 

 臨時講堂に集まった隊員は八九〇〇名。司令が壇上にいるのに私語が止まらない。隊列はばらばら。表情の緩み、服装の乱れも酷い。言いようのない不安を感じながら、マイクを握って訓示を始めた。

 

「隊員の皆さん、はじめまして。新しく司令に着任したエリヤ・フィリップスです。

 

 軍の仕事はますます増えているのに、人員や予算は減っています。最近はリオ・コロラド事件や第八六星間巡視隊体罰事件など不祥事が相次ぎ、軍に対する批判の声も強まっております。

 

 皆さんも苦労が多いことでしょう。私は指揮官として、皆さんの苦労を軽減できるよう、微力を尽くしたいと考えております。

 

 古代の名将は『部下から頼られる指揮官が良い指揮官だ』と申しました。私は見ての通り頼りない容姿です。経験も足りません。しかし、皆さんの話を聞きたいという気持ちだけは人一倍持っております。

 

 どうか皆さんのご要望をお聞かせください。皆さんの力をお貸しください。部隊を一緒に作っていきましょう。よろしくお願いします」

 

 ペコリと頭を下げた。しかし、驚くほど隊員の反応が悪い。反感とか敵意とかではなく、宇宙空間に向かって小石を投げたような感じだ。

 

 着任式が終わった後、戦隊副司令、三名の群司令、四人の主任幕僚、戦隊最先任下士官らと相次いで面談した。経験の浅い俺にとっては、彼らの持つ情報と経験が頼りだ。出世した際に彼らが腹心になってくれるかもしれないという色気も少しだけあった。

 

 帰宅した後、端末を開いた。キーボードを叩き、主要な部下の人事資料の要約、直接対面した印象などを打ち込んでいく。

 

 戦隊副司令オルソン大佐は経験豊富だが自主性に欠ける。指示を与えなければ何もしようとしない人だ。指揮官としてはそこそこ優秀でも、パートナーたる副司令としては頼りない。

 

 第一任務群司令アントネスク大佐は勇敢だが大雑把すぎるせいで、細部を見落としがちだ。第二任務群司令タンムサーレ大佐は頭がいいが細部に拘るあまり、全体像を把握できない。二人とも無能ではないが部隊を掌握する能力は今ひとつだ。

 

 第三任務群司令のラヴァンディエ大佐は、四人の大佐の中で最も多くの勲章を持つ勇士だ。しかし、あまり感じは良くない。何を聞いても我関せずの一点張り。自分の部隊についても他人事のようだ。

 

 作戦主任幕僚と首席幕僚を兼ねるスラット中佐、人事主任幕僚のエッペルマン大尉、情報主任幕僚のメイヤー少佐、後方主任幕僚のムートン少佐、戦隊最先任下士官マッコーデール准尉からは、活力や意欲といったものがまったく感じられなかった。

 

「彼がもっと高い階級だったら良かったのにな」

 

 戦隊旗艦「グランド・カナル」の艦長サイラス・フェーガン少佐。年齢は三〇歳だが、立派な口ひげが提督級の貫禄を醸し出す。清廉剛直で曲がったことは絶対にしないと評される。士官学校卒業の経歴、豊かな武勲のわりには昇進が遅い。清廉すぎて煙たがられたのだろう。階級が大佐、いや中佐だったら群を指揮させたかった逸材だ。

 

「これは厳しいな」

 

 フィン・マックール補給科のカヤラル准尉やバダヴィ曹長、ヴァンフリート四=二基地憲兵隊の故トラビ大佐のように任せきりにできる部下は、この部隊には一人もいなかった。部下を頼るのを前提とした指導方針ファイルを倉庫フォルダに移動する。

 

「一人でやるしか無いのか」

 

 さっそく新しい指導方針の作成に取り掛かる。参考にするのはドーソン中将からもらったメモのコピー。部下を一切頼らない指導の秘訣が記されていた。

 

 徹夜で指導方針を作り上げた俺は、第八一一独立任務戦隊の人事記録を検索した。条件は二〇代の若手士官。真面目で自己主張が少なければ能力は問わない。

 

 何と怨敵のスタウ・タッツィーが最上位に来た。前の世界では七九九年時点で曹長に過ぎなかった男が、今は七九六年で大尉。しかも直属でないとはいえ俺の部下。何とも気分の悪い話だ。

 

 タッツィーを除外して再検索。条件に合致したのは、二六歳のセウダ・オズデミル大尉、二四歳のウルミラ・マヘシュ中尉、二二歳のシェリル・コレット中尉の三名。みんな士官学校を卒業した二〇代の女性士官だ。地方部隊に配属されるぐらいだから卒業席次は低い。彼女らを戦隊司令部付士官に登用した。憲兵司令部副官になる前の俺と同じ役割だ。

 

 手足が揃ったところですべての部署に文書を提出するよう求めた。必要な文書の内訳、提出期限を明確に区切り、言い逃れができないようにする。

 

 軍人は命令を拒否することはできないが、手を抜くことはできる。俺のデスクには、文書を出せない理由を説明する文書が山のように積み上げられた。司令部付士官と手分けして文書をチェックした。

 

 その中で納得の行く理由が示されていたものは一割程度、言い訳にしては良くできていると思えたものは二割程度、残り七割は言い訳にすらなっていない。この部隊は手抜きにも手を抜く。

 

 ドーソン中将なら全員を呼びつけて厳罰を下すだろう。しかし、俺は一番酷かった三名を「虚偽報告」として減給するに留めた。あまり厳しくしたら萎縮して仕事に集中できなくなる。心を入れ替えてくれたらそれでいい。

 

 減給処分から一週間後、俺のデスクには要求した通りの文書が積み上げられた。哨戒活動や訓練などの平常業務の傍らで、文書に目を通して情報を吸収した。

 

「酷いな」

 

 まったく芸の無い表現ではあるが、第八一一独立任務戦隊の現状を説明するには、その一言だけで十分だった。

 

 最初に目についたのは勤務環境の悪さだ。少人数で現場を回しているため、過労によるミスが多発している。残業や休日出勤が常態化しているのに、人件費に割り当てられた予算が少ないため、超過勤務手当がほとんど支払われていない。

 

 生活環境も酷過ぎる。支給される食事は、安価な穀類やいも類で水増しして法定カロリーをようやく満たしている有様で、兵士からは「ドッグフードの方がまだまし」と言われる。プレハブ作りの兵舎は廃墟も同然で、窓ガラスの割れ目はテープで塞がれ、給湯器からはお湯が出ず、照明や空調の故障も放置されたまま。

 

 戦闘力は劣悪。所属艦の七割が七六〇年代から七七〇年代に建造された旧式艦で、整備状態も悪く、なぜドックの外にいるのか理解に苦しむ。そんな艦を運用する隊員は、スキルに乏しい上に疲れきっている。物資もことごとく不足気味だった。

 

 こんな職場でやる気が出るはずもない。上は副司令から下は一等兵に至るまで、怠慢と事なかれ主義と無責任に浸りきっている。

 

 隊員同士のトラブルが頻発し、ストレスから病気にかかる者、脱走する者、悪い遊びにのめり込む者が後を絶たない。兵舎の中では暴力事件や盗難事件が頻繁に発生し、麻薬使用の疑いがある者もいるというのに、事なかれ主義の士官がすべて揉み消してしまう。

 

 どこから手を付ければいいのか、見当も付かないほど酷い。そこで部下の立場になって考えてみた。

 

「やはり待遇改善が優先だな」

 

 こんな環境で軍務に専念するなど不可能だ。恩師のクリスチアン中佐も食事と睡眠が基本だと言っていた。まずはすべての部下にうまい飯と安らかな眠りを提供するところから始めよう。

 

 ヨブ・トリューニヒト国防委員長のおかげで予算はたっぷり使える。最初に後方主任幕僚ムートン少佐を呼んだ。

 

「兵士にうまいものを食わせてやってくれ。食事の献立を急に変えることはできないだろうから、肉や魚や野菜を増加食として付けるんだ。甘い物も間食として用意するように」

「かしこまりました」

「兵舎の修理も手配してもらいたい。細かいことはすべてこちらに書いてある」

 

 細々とした指示書をムートン後方主任に手渡した。彼は幕僚であるにもかかわらず、部隊の状況をまったく把握していない。だから、俺が細部まで指示する必要がある。

 

 次に人事主任幕僚エッペルマン大尉を呼び、これまで支払われていなかった残業代の支払い手続きを取るように指示した。

 

 三日後、仕事を終えた俺は兵舎の様子を見に行った。疲れきっていた兵士たちも少しは明るくなっているに違いない。

 

「あれ……?」

 

 相変わらず兵舎の空気は淀んだままだ。周囲をぐるりと歩き回ってみたが、修理工事が始まっている様子も無い。

 

 首を傾げつつも中に入り、下士官や兵卒に暮らしぶりを尋ねた。

 

「増加食ですか? 半年前にインスタント麺が付いてきたきりですね」

「甘いものに飢えてるんですよ。せめて角砂糖一個でもいただけませんか」

「早く修理工事してほしいんですけどねえ」

「残業代が支払われるなんて聞いてませんよ」

 

 みんな口を揃えて何も変わってないという。念のために厨房に行ってこっそりゴミ箱の中を覗いた。だが、肉、魚、野菜、甘い物などが支給された形跡はない。

 

「すまなかった!」

 

 俺は部下に頭を下げた後、そのまま戦隊司令部に戻った。そして、帰宅していたムートン後方主任とエッペルマン人事主任を呼び出す。

 

「後方主任、人事主任、これはいったいどういうことだ?」

 

 何のことやらわからないといった様子で立っている幕僚二人を睨みつけた。さすがにこれは度を超えている。

 

「ええと、それはですね……、なんと言いますか、その……」

 

 二人の言うことは一向に要領を得ない。責任逃れをしているというより、本当に説明に困っていると言った感じだ。手抜きに慣れすぎて、呼吸するような感覚で放置したのだろう。これでは説明を求めても時間の無駄だ。

 

「もういい。ご苦労だった」

 

 俺は二人に帰るよう命じた。彼らが逃げるように司令室を出て行った後、マフィンを口に入れ、砂糖とクリームでどろどろになったコーヒーを飲み、糖分を補給した。

 

 どんな改善策を打ち出しても、実行されなければ無意味だ。まずは「命令したら実行する」という軍隊組織としての最低限のルールを叩き込むところから始めよう。情けない限りではあるが、この部隊はそのレベルすらクリアできていない。

 

 三名の司令部付士官に怠慢ぶりの酷い者をリストアップさせ、一四名を減給、一八名を戒告とした。これらの処分は軽そうに見えるが、れっきとした懲戒処分であり、退役するまで昇進や昇給に響く。また、一〇〇名以上を懲戒処分でない訓告、厳重注意、口頭注意とし、「次はこれでは済まないぞ」と釘を差す。

 

 事なかれ主義の人々にとって、経歴に汚点が付くほど怖いことはない。第八一一独立任務戦隊の隊員は心を入れ替えて働くようになった。

 

 良くも悪くも部下は上官に影響される。エル・ファシル方面軍の人事部に対し、不適格な幕僚や部隊長を解任するよう要請した。意識を変えるには、悪い体質の染み付いた幹部を排除するのが手っ取り早い。

 

 第三任務群の司令と副司令の解任要請が通ったとの連絡を受けた俺は、一〇〇キロ離れた第三〇四任務部隊基地からアーロン・ビューフォート中佐を呼び寄せ、司令代行とした。

 

「第三任務群司令代行アーロン・ビューフォート中佐、只今着任いたしました」

 

 四七歳のビューフォート中佐は、一八歳で航宙専科学校を卒業して以来、艦艇勤務一筋という宇宙の男だ。しかし、日に焼けしたような浅黒い肌、真っ黒な髪の毛と口ひげは、宇宙の男というより海の男のように見える。

 

「お疲れ様でした。コーヒーをどうぞ」

「ご馳走になります」

 

 コーヒーに口をつけるビューフォート中佐。仕草の一つ一つに渋みが漂う。航宙士は洒落っ気に富むという紋切り型のイメージそのままだ。

 

「いかがですか?」

「なかなかうまいですな」

「こうしてあなたと一緒にコーヒーを飲める日が来るなんて、夢にも思いませんでした」

 

 俺は自分のコーヒーをすすった。八年前にエル・ファシルを脱出した時のことが昨日のように思い出される。人生をやり直したばかりの俺は、駆逐艦艦長だった当時のビューフォート少佐に突っかかって優しく諭された。

 

「あれから八年ですか」

「年が経つのも早いものです」

「小学六年生だった上の息子が今年で成人しましたよ。アルバムを見るたびに、こんなに小さかったのかと驚きます」

「本当に八年って長いですね」

「一等兵だったあなたが私の上官になる程度には長いですな」

 

 ビューフォート中佐の頬にえくぼが浮かぶ。

 

「艦艇部隊の指揮官はこれが初めてです。中佐の経験を頼りにしています」

「かしこまりました。微力を尽くしましょう」

「よろしくお願いします」

「あなたはこれから上官になるのです。敬語ではなく命令口調で言っていただきたい」

「わかった。よろしく頼む」

 

 俺とビューフォート中佐はがっちりと手を握り合わせた。そして、すぐ打ち合わせに入る。第八一一独立任務戦隊は、旧式艦の近代化改装が終わり次第、前線に出ることになる。使える時間はさほど多くない。

 

 他の部隊も再建に取り組んでいる。エル・ファシル方面軍配下の部隊は、もともと地方警備部隊に属しており、予算不足でボロボロだ。海賊討伐作戦には、地方警備部隊の戦力再建という目的もあった。

 

 第八一一独立任務戦隊の悪風は打ち砕かれた。ダーシャやクリスチアン中佐によると、「さすがはドーソン提督の弟子だ」と評判になっていると言う。次は戦力を充実させる番であった。


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