銀河英雄伝説 エル・ファシルの逃亡者(新版)   作:甘蜜柑

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第56話:旅の始まり 797年12月下旬~12月30日 モードランズ官舎~ニューブリッジ官舎~モードランズ官舎~モードランズ宇宙軍基地

 遠征軍が編成されてから二週間が過ぎた頃、妹のアルマがやってきた。二日後にハイネセンを出発するのだという。

 

「大丈夫なのか?」

 

 俺は心配でたまらなかった。特殊部隊は遠征軍より一週間早く帝国領に入り、潜入偵察を行う。危険極まりない任務だ。

 

「大丈夫よ」

「本当に大丈夫なのか? 見つかっても逃げられないんだぞ?」

「見つからないための訓練だから」

「万が一ってこともあるじゃないか」

「何度も行ってるし」

 

 妹は帝国領に潜入した経験がある。表には出ないが、イゼルローン要塞が陥落する前から、同盟軍の特殊部隊は帝国領への潜入偵察を繰り返してきた。少人数なら簡単に哨戒網をすり抜けられるそうだ。特殊部隊基準での「簡単」なのだが。

 

「今回はグループリーダーなんだろ? これまでとは勝手が違う」

「それを言うなら、お兄ちゃんだって機動部隊司令官は初めてじゃないの」

「でもなあ」

 

 延々と押し問答が続く。取っておきのフルーツマウンテンタルトを二人で分け合うことでけりが付いた。

 

「そろそろ始めよっか」

 

 妹がうきうきしながらビデオカメラをセットする。

 

「ああ、わかった」

「つまらなさそうな顔しないでよ」

「遺書を作るなんて楽しくないだろう」

「お兄ちゃんと一緒なら何でも楽しいよ!」

 

 軍人は戦地に赴く前に遺書を作らなければならない。妹は俺と一緒にビデオレターを撮るためにやってきたのだ。

 

「早く早く!」

 

 妹は俺の手を引っ張って、ビデオカメラの前に連れてきた。左側に俺、右側に妹が立ち、一緒に家族向けのメッセージを吹き込む。緊張する俺とテンションの高い妹が対照的だった。

 

「楽しかったね!」

「そうだな」

 

 俺は嘘を言った。本当は不安でたまらない。妹の笑顔がとても儚く見えたからだ。

 

「また一緒に撮ろうよ!」

「お、おう」

「次はないかもしれないけどね!」

「縁起の悪いことを言うなよ」

「だって、この戦いは『すべての戦争を終わらせるための戦争』なんでしょ?」

 

 妹は流行りのフレーズを口にした。

 

「どうかな」

 

 俺は言葉を濁す。フェザーンの天秤が必要とは思わないが、対帝国戦争が終わっても平和になるとは思えない。地上軍の出番は増えるのではないか。

 

 ビデオカメラを片付けた後、妹は上着を脱ぎ捨ててくつろいだ。丈の短いタンクトップを着てるせいで、腹筋を小刻みに引き締めたり緩めたりしているのが分かる。彼女にとって筋トレは呼吸も同然なのだ。

 

 リビングのテレビはニュースチャンネルに合わせてある。解放区民主化支援機構(LDSO)が正式に発足したとか、トリューニヒト下院議長が「この規模の作戦なら六〇〇〇万は必要」と述べたとか、法秩序委員会が地球教など四つの宗教団体を「警備業を名目に私兵を養っている」と批判したとか、そういったニュースが流れてくる。

 

 俺と妹はぼんやりとテレビを眺め続けた。内容は頭に入ってこない。ただ二人でいるだけの時間が心地良く感じる。

 

「お兄ちゃん」

「なんだ?」

「ひがみっぽいおばさんはどうしてんの?」

「おばさん?」

「D分艦隊の副司令官」

「オウミ准将のことか?」

「うん」

「相変わらずだ」

 

 俺とD分艦隊副司令官マリサ・オウミ准将は仲が悪い。厳密に言うと、オウミ准将が一方的に俺を嫌っている。

 

 今から六年前、少尉になったばかりの俺は、第一一三機動部隊所属の空母フィン・マックール補給科に配属された。当時、第一一三機動部隊司令官を務めていたのがオウミ准将だ。それが今では同じ階級で同じ部隊にいる。オウミ准将としては面白くない状況だ。

 

「気にすること無いよ。おばさんがひがんでるだけだから」

 

 妹は口が悪い。今の世界と前の世界で共通する数少ない点だ。

 

「おばさんって連呼するなよ。オウミ提督はまだ三八歳だぞ」

「十分おばさんだよ」

「見た目は二〇代で通用するんじゃないか。童顔でちっこくて肌がつやつやしてるからな」

「お兄ちゃんはその手の人と相性悪いよね。義勇旅団の副団長もテロリストもちっこかったでしょ?」

「まあな」

 

 俺は背の低い人に親近感を覚える。だが、マリエット・ブーブリルは俺を馬鹿にし、ルチエ・ハッセルは俺の命を狙った。

 

「やっぱ、背が高くないと合わないのよ」

「そんなの関係ねえだろ」

「あるよ。お兄ちゃんの周りには背の高い女の人しかいないじゃん。ダーシャちゃんとか」

「あいつは普通だ」

「一七〇あったらかなり大きいよ。女性の平均が一六三だもん」

「ダーシャは一六九・九五だ」

 

 間髪入れずに俺は訂正した。

 

「大して変わんないでしょ」

「一六九と一七〇は全然違うぞ」

「わかんない」

「師団と旅団ぐらい違う」

「やっぱわかんない」

 

 一八四センチの妹には理解できないらしい。これが持てる者と持たざる者の違いか。

 

「ダーシャは普通だぞ」

「感覚が麻痺しちゃったんじゃないの? みんな背が高いから」

「そんなことないぞ」

「目つき悪い副参謀長は一八〇超えてるでしょ」

「偶然だ」

「暗そうな副官も一八〇あるよね」

「偶然だ」

「だらしない艦長も一七五はあるんじゃない?」

「偶然だ」

「カイエさんは一七〇ぐらいかな」

「偶然だ。それに彼女は一六八しかない」

「通信部長のマーさんも一七〇あるはず」

「偶然だ」

 

 世間では俺が背の高い女性を集めたと思われてる。だが、本当に偶然集まっただけなのだ。

 

「とにかくお兄ちゃんとは背が高くないと合わないの! 私は一八四だし!」

 

 妹は顔を真っ赤にしながら叫ぶ。「お兄ちゃんと自分は相性がいい」と言いたかっただけのようだ。これが二四歳の地上軍大尉の言うことだろうか? 幼いのは外見だけにしてほしい。

 

 やがて妹は本棚を物色し始めた。船中で読む本を探しているらしい。脳みそが筋肉で出来ているように見えて、なかなかの読書家なのだ。軍務に役立ちそうな本しか読まないのだが。

 

「お兄ちゃん、この本貸して」

 

 妹が『カリスマ下士官が語る新兵指導の秘訣』という本を指さす。

 

「これはだめだ。ダーシャから借りた本だから」

「他の本を借りようとした時も同じこと言われたけどさ。どんだけたくさん借りてんのよ」

「うちにある本棚の半分はダーシャの本だな」

「返せとか言われない?」

「どっちにあっても大した違いじゃないと言われた」

「そりゃそっか」

「たくさん私物置いてるからね」

 

 俺の部屋にはダーシャの私物がたくさんある。彼女の部屋には俺の私物がたくさんある。二つの部屋を二人で共同使用しているに等しい。

 

 三年前、第六次イゼルローン遠征が終わった後、俺とダーシャはお互いの部屋を行き来するようになった。当初は泊まるたびに着替えを持ち込んだのだが、「それじゃ面倒でしょ」と言われて置きっぱなしにした。今では俺の服は彼女のクローゼットの四分の一を占める。そして、俺のクローゼットの五分の二が彼女の服に占拠された。俺の部屋には彼女の化粧品があり、彼女の部屋には俺の整髪料がある。

 

 寝る時は同じべッドを使う。当初はリビングのソファーで寝ていたのだが、ダーシャに「同じベッドでいいでしょ」と言われた。もちろん俺は拒否した。ただの友達であっても、女性と同じベッドで寝るのは気が引ける。しかし、「へえ、意識してたんだ。ただの友達じゃなかったの?」と返されて反論できなかった。

 

 似たような経緯で一緒に入浴するようになった。エル・ファシル討伐作戦が始まる頃には、俺の体にダーシャが触れたことがない部分は一つもなく、ダーシャの体に俺が触れたことがない部分は一つもなくなった。

 

「ダーシャちゃんは本当に包囲殲滅戦が得意なんだね」

 

 妹が苦笑を浮かべる。

 

「得意というより好きなんだろ。レグニツァの話になると、『私が作戦参謀だったら、ローエングラム元帥をアスターテまで誘き出して包囲殲滅したのに』とうるさいんだ」

「そういう意味じゃないけど……。まあいいや。で、どうなの?」

「何のことだ?」

「この先には結婚しかないよね」

「まあな」

 

 それは俺もダーシャもわかっている。わかっていても言えないことがこの世にはある。

 

「お兄ちゃんもダーシャちゃんもぐずぐずし過ぎ。早く結婚しようよ」

「遠征が終わってからでいいじゃないか」

「死んだらどうすんの」

「まさか、そんなことは……」

 

 そんなことはないと言いかけてやめた。戦いに出る以上、死ぬ可能性はある。

 

「死んでもおかしくないな」

「今が最後のチャンスなんだからね」

「わかったよ」

 

 俺は適当に返事した。

 

「じゃあ、通信して」

 

 妹が俺に携帯端末を差し出す。

 

「通信って誰に?」

「ダーシャちゃん」

「何で通信するんだ?」

「結婚するって決めたんでしょ。さっさと伝えなきゃ」

「急がなくてもいいだろう。あと一時間もすれば戻ってくるんだし」

「なんで待つの?」

 

 何を言ってるのかと思ったが、妹の目は笑っていない。

 

「こ、心の準備ってもんがあるだろうが!」

 

 俺は慌てた。いくらなんでも急ぎすぎだ。

 

「そんなのいらない」

「俺にはいるんだ!」

「お兄ちゃんは何年迷ったの? まだ迷うつもり? 人生には限りがあるの。一日言うのが遅れたら、結婚が一か月遅れる。その一か月の間に死ぬかもしれないのよ? 私たちは軍人だからね。迷うなんて時間の無駄。電話するだけでしょ。ほんの一瞬だから」

 

 妹はクリスチアン中佐のようなことを言い出した。声も表情も淡々としていたが、有無を言わせぬ迫力がある。

 

「わかった!」

 

 怒鳴るように答えると、妹から携帯端末をひったくり、ダーシャの番号を素早く入力する。呼び出し音が二回鳴った後、通信が繋がった。

 

「どうしたの、エリヤ?」

「結婚しよう」

「結婚?」

「そうだ。俺は君と結婚したいんだ」

「えーと……」

 

 端末の向こうから困惑が流れてくる。ダーシャは強気だが、結婚の二文字には弱い。

 

「いやか?」

「い、いやじゃないけど……」

「俺はしたいよ」

「私もしたいけど、でも……」

「したいならしよう」

 

 一旦決めたらとことん突っ走るのが俺だ。端末を通してぐいぐいと押しまくる。

 

「う、うん」

 

 ついにダーシャが頷いた。俺はぐっと拳を握り、妹は親指を立ててにっと笑う。出会ってから三年半、行き来するようになってから二年と一一か月、一緒に寝るようになってから二年と九か月にして、俺とダーシャは結婚の約束を交わした。

 

 

 

 結婚の約束から二日後、俺はダーシャとともに飛行機に乗り、ハイネセン北大陸のニューブリッジ市へと向かった。

 

「そんなに緊張しなくていいのに」

 

 ダーシャが苦笑いした。

 

「失敗したらと思うと不安で不安で」

「大げさね」

「悪く思われたらまずいだろうが」

 

 今からダーシャの実家に結婚の挨拶に行く。士官は一年から四年の周期で転勤するため、その子供にとっては親が住む官舎が実家なのであった。

 

 都市計画の都合上、軍人の官舎はひとまとめに作られる。ダーシャの父が住む官舎街は、車道も歩道も広く、緑地帯が計画的に配置され、きれいな一戸建てや集合住宅が立ち並ぶ。アッパーミドル向けの住宅街のようだ。

 

「静かでいいな。子供ができたらこんな街に住みたいもんだ」

「でも、人通りが少なすぎない?」

「出兵間近だからな」

「見た感じ、この一帯は世帯向けだよ。それなのに年寄りや子供がいない。おかしくない?」

「気のせいだろ」

 

 ああだこうだ話しているうちに、目印のシルバー・グラス・フィールド一八丁目公園に着いた。そこからは教えられた住所に向かって歩く。

 

「あれかな?」

 

 ダーシャが指差したのは、周囲の家よりひときわ大きい二階建ての一軒家。邸宅といった方がふさわしい大きさで、庭も広々としており、プールやテラスまで備わっていた。

 

「本当にここか?」

「住所は間違いないよ」

「君のお父さんは大佐だったよな?」

「そうだけど」

「ドーソン中将の官舎よりでかいぞ。本当は大佐じゃなくて大将なんじゃないか」

「馬鹿なこと言わない」

 

 ダーシャはさっさと玄関に歩いて行った。俺は慌てて後を追う。

 

「はじめまして。エリヤ・フィリップス君」

 

 奥から出てきたのはよれよれのジャージ、素足にサンダル履きというラフ過ぎる格好の男性だった。髪の毛はほぼ真っ白、背は俺よりも低く、体格は痩せていて、定年間近の小学教師といった感じだ。

 

「はじめまして」

 

 我ながら芸のない挨拶だった。

 

「入りなさい」

 

 素っ気なく言うと、ダーシャの父は家の中へと歩いて行く。その背中は想像したよりもずっと小さい。

 

「……ダーシャ?」

 

 俺はダーシャに小声でささやきかけた。

 

「……なに?」

「……イメージとぜんぜん違うな」

 

 俺はダーシャの父親、ジェリコ・ブレツェリ宇宙軍大佐の情報を少ししか持っていなかった。フェザーン移民の二世で、陸戦専科学校を卒業した後に四〇年以上勤務した程度しか知らない。

 

 専科学校卒業者が大佐になるには、伍長から出発して九回昇進する必要がある。これは士官学校を卒業して少尉に任官した者が大将になるまでの昇進回数と等しい。そのため、専科学校卒業者の大佐は、士官学校卒業者の大将に匹敵すると言われる。さぞ勇猛そうな見た目なのだろうと想像していた。

 

「……お父さんは航空だから」

「……なるほどな」

 

 陸戦隊と言っても、全員が戦斧を振り回して戦うわけではない。兵站部隊もいれば、機甲部隊、航空部隊、宇宙艦部隊もいる。

 

「この子がエリヤ君? なかなか可愛い子じゃないの」

 

 ダーシャの母親であるハンナ・ブレツェリ宇宙軍准尉は、可愛いという言葉をマシンガンのように乱発する。そしてほんわかした丸顔。さすがは親子だ。

 

 両親に案内されて奥に進むと、ダーシャの兄と姉が食事の用意をしていた。フェザーン系のブレツェリ家は、独立心を大事にするフェザーン的な家風だ。子供には家事をひと通り習得させると聞いたことがある。

 

 上座につかされた俺は、山盛りのチョコレートをつまみながら、ブレツェリ一家が食事の用意をする様子を眺めた。

 

 やがて、食事が完成し、テーブルの上に並べられる。パプリカ風味のシチュー「ポグラチ」、豚肉のオーブン焼き「ペチェンカ」、豚と雑穀の腸詰め「クルヴァヴィツェ」、豆とじゃがいものサラダといったフェザーン風料理の他、俺が大好きなマカロニアンドチーズやピーチパイといったパラス風料理もある。

 

「今日のメニューはマテイ兄さんが選んだんだよ」

 

 ダーシャがそう言うと、長兄のマテイ・ブレツェリ宇宙軍軍曹が微笑んだ。

 

「エル・ファシルの英雄に俺の料理を食べてもらえるなんて光栄だ」

 

 今年で三三歳になる彼は、補給専科学校で調理を学び、現在は宇宙母艦「アムルタート」の給養主任を務める。堅実そのものの性格で、「どんな時代でも絶対に食いっぱぐれない技術がほしい」という理由で調理を学んだのだそうだ。

 

「小さいとは聞いてたけど、本当に小さいなあ。ダーシャと並ぶと弟みたいだ」

 

 笑顔で無礼なことを言ったのは、次兄のフランチ・ブレツェリ宇宙軍曹長。単座式戦闘艇「スパルタニアン」のパイロットをしている。

 

「そ、そうですか……」

「俺の下には妹しかいないからさ。君みたいにちっこくてかわいい弟が欲しかったんだ。これからもよろしくな!」

「は、はい」

 

 どう答えていいか分からなかった。悪気がないのはわかるが鬱陶しい。

 

「固くなるなよ。俺たちは兄弟みたいなもんだ。これからは『フランチ兄様』って呼んでくれ」

「調子に乗らない!」

 

 ダーシャがついに切れた。叱られてしょぼんとするフランチ兄様。どこかで見たような光景である。

 

 父、母、長兄は「またやってるよ」と言いたげにダーシャと兄様を眺めた。ブレツェリ家にとっては見慣れた光景らしい。

 

 ほんわかした丸顔の女性が一人おろおろする。顔も髪型も体格もダーシャとそっくりのこの女性は、姉のターニャ・ブレツェリ宇宙軍軍曹。性格は消極的でおとなしく、基地の託児所で保育士として勤務しており、キャリア志向の妹とは正反対だ。それでも仲は結構いいらしい。

 

 食事の準備が終わると、家族全員が「我、幸いにも食を得る。聖人様の加護と生きとし生けるものの恩恵に感謝せん。いただきます」と楽土教式の祈りを唱えた。ブレツェリ家は楽土教徒なのである。

 

 厳粛な気持ちとともに食事が始まった。ダーシャの父はさっそくビールに口をつけた。ダーシャの母は俺に料理を勧める。長兄と姉とダーシャは控えめに飲み食いし、俺とフランチ兄様はがつがつ食べる。

 

「エリヤ君」

 

 最初に声をかけてきたのはフランチ兄様だ。

 

「はい」

「一つ聞きたいことがあるんだ」

「何でしょう?」

「徴兵されるまでアルマちゃんと一緒に風呂に入ってたって本当かい?」

 

 俺は食べ物を吹き出しそうになった。

 

「ほ、本当です……」

 

 他に答えようがなかった。フランチ兄様の情報源はたぶん妹だ。

 

「君たちは本当に仲がいいんだなあ」

「ええ、まあ……」

 

 記憶にはまったく残っていないが、妹は「一緒に風呂に入ってた」と言い張っていた。姉が言うには、昔の妹は一人で風呂に入ろうとしなかったので、姉と俺が交代交代で一緒に入ってやったのだそうだ。

 

「俺もブラコンの妹が欲しかった」

「自業自得じゃん」

 

 ダーシャがココアのカップに視線を向けたまま突っ込む。

 

「シスコンぶりはエリヤ君に勝るとも劣らんぞ!」

「兄さんの愛は鬱陶しいだけだし」

「ターニャ、お前は俺の味方だよな」

 

 フランチ兄様は助けを求めたが、ターニャ姉さんは困り顔で目をそらす。

 

「そんなことよりもっと食べなさい」

 

 ハンナ母さんが全員の皿に料理をどさどさと乗せた。フランチ兄様は静かになり、ダーシャはココアを冷ます作業に戻る。ブレツェリ家では母親が一番強いようだ。

 

 食事が終わると、家族全員が「我、食によりて心身充実せり。ご馳走様でした」と唱えた。これもまた楽土教式の祈りである。

 

 食後の片付けが始まった。俺が手伝おうとすると、黙々とビールを飲んでいたダーシャの父が席を立った。

 

「フィリップス君、君に見せたいものがある」

「わかりました」

 

 俺はダーシャの父の後を付いて行く。

 

「広い寝室だろう?」

「そうですね」

 

 ダーシャの父は官舎の中を案内し、設備の充実ぶりや住み心地の良さなんかを細かく解説してくれた。

 

 どの部屋も使いやすい間取りなのが素人目でもわかる。適切な確度で日光が差し込み、風が心地良く通り、ある部屋で大きな音を立てても他の部屋に聞こえないなど、行き届いた設計がなされていた。そして、すべての部屋がバリアフリーに対応している。美しさと機能性を兼ね備えた家だ。

 

「ここが浴室だよ。ジャグジーが付いている」

 

 広々とした浴室の中には、円形の大きなジャグジーが据え付けられていた。

 

「ジャグジー付きの官舎なんて初めて見ました」

「凄いだろう?」

「凄いですね」

「昨年まではワーツ提督の一家がこの官舎に住んでいた。あの方の家族が出て行った後で、私が入居した」

「第四艦隊司令官の官舎でしたか」

 

 それなら豪華なのもわかる。ダゴン星域会戦以前からの伝統を誇る第一艦隊・第二艦隊・第三艦隊・第四艦隊の司令官は、他の艦隊司令官より格上だからだ。

 

「ワーツ提督とは面識があってね。何度か指揮下で戦った。有能な方だったんだがね。亡くなる時はあっけないもんだ」

「そうでしたか」

「六万隻で二万隻に負けた戦犯の一人だ。批判されるのは仕方ないと思うがね。最低最悪の無能みたいに言うのはいかんな。無能者が兵卒から提督になれるはずもないだろうに」

「おっしゃる通りです」

「世間は『パストーレ提督が第四艦隊司令官だったら勝てた』と言うがね。そんなのは結果論に過ぎんよ」

 

 ダーシャの父はレグニツァの敗将ラムゼイ・ワーツ中将を弁護する。的はずれなことは言っていない。レグニツァで敗死する前のワーツ中将は、「第五艦隊司令官ビュコック中将に比肩する」と評された。あの戦いさえなければ、名将としての生涯を全うしていただろう。

 

「確かに結果論ですね」

「マスコミが嘘ばかりとは言わんよ。ワーツ提督は功名心が並外れて強かった。兵卒あがり特有の勘と経験に頼りすぎるところもあった。しかし、そういう人だからこそ、あそこまで偉くなれたんだ」

「長所と欠点は表裏一体ということですね」

「完全無欠な人間も悪いところばかりの人間もおらんよ。ワーツ提督の短所とパストーレ提督の長所を比較したら、そりゃパストーレ提督の方が名将に見える」

「俺もそう思います」

 

 ダーシャの父に合わせたのではなく、本心からそう思う。レグニツァ会戦以降、ワーツ中将とパストーレ元帥の比較論が流行ってたが、これほどアンフェアな議論も珍しいのではないか。

 

 パストーレ元帥が第四艦隊司令官に内定していたが、就任直前にエル・ファシル海賊討伐を命じられたため、ワーツ中将がその代わりになった。また、パストーレ元帥の敗死は、本人より中央情報局の責任が大きい。そのため、「パストーレ提督が第四艦隊司令官だったら……」と嘆く人が多いのだ。極端な人になると、「パストーレ提督がレグニツァで戦っていたら、ローエングラム元帥は戦死し、イゼルローン要塞は陥落しただろう」などと言う。

 

 だが、前の世界で生きた俺は、パストーレ元帥が第四艦隊を率いた結果を知っている。アスターテ星域会戦でラインハルト・フォン・ローエングラム元帥に完敗した。後世では同盟末期屈指の愚将扱いだ。

 

 パストーレ元帥は無能ではない。戦力整備やマスコミ対応にかけては超一流だ。用兵下手の俺を突撃専門にしたのもうまいと思う。しかし、戦術指揮は不得意だった。皮肉な言い方をすると、惜しまれてるうちに死んだおかげで評価を高めた。

 

「アンフェアでも批判を受けねばならんのが提督だ。一人の戦死者の背後には、数人の家族、数十人の親族・友人がいる。彼らは決して提督の無能を許さん」

「死者には提督の事情なんて関係ないですからね」

「その通りだ。一万人を死なせた提督は数万人の恨みを背負い、一〇万人を死なせた提督は数十万人の恨みを背負う。敗将は残りの生涯すべてを贖罪に費やすよう求められる。責任の重さに比べれば、ジャグジー付きの豪邸も厚遇とは言えないな」

「提督になってみると、レグニツァで負けた提督を責められなくなりました。明日は我が身ですから」

 

 俺は窓の外に視線を向けた。暖かい日の光が差し込んでくる。第七次イゼルローン遠征軍首脳の査問会が終わった日もこんな天気だった。

 

 国防委員会はレグニツァの戦犯に苛烈な処分を下した。総司令官パエッタ大将、総参謀長アーメド中将、第四艦隊副司令官チャンドラー少将の三名が、二階級降格の上で予備役に編入された。副参謀長リー少将ら九名が一階級降格の上で予備役編入、第六艦隊D分艦隊司令官クリステア少将ら七名が階級据え置きで予備役編入された。減給や停職になった者は数えきれない。戦死したワーツ中将らは、戦死者に例外なく認められる一階級昇進の対象外となった。

 

「敗将にも家族がいる。ワーツ提督の家族はこの官舎に住んでいた。六六歳の妻、九三歳で足が不自由な母親、七年前に亡くなった息子夫婦の子供が三人いた」

「お孫さんはおいくつなんですか?」

「一三歳と一二歳と一〇歳。義務教育も終わっていない」

「お母様の老齢年金、ワーツ提督と息子さんの遺族年金頼りですね。奥様に老齢年金が出るのは四年先ですし」

「それだけでは到底暮らしていけんだろうな」

「親族に引き取られるか、施設に入らないときついかもしれません」

「この官舎街はもともと第四艦隊の官舎街でね。世帯主を失った家族が一度に何万も生まれたのだよ」

「ああ、なるほど。だから人通りが少なかったんですね」

「レグニツァの未帰還者はおよそ一八〇万。それと同数の空き家が生まれ、同数の不幸な家族が生まれた。どういうことなのか想像して見たまえ」

「ずっしりきます」

 

 俺は胸を抑えた。『レジェンド・オブ・ザ・ギャラクティック・ヒーローズ』の中では、一度に何十万人もの軍人が死ぬ。戦記では英雄の戦果でしかない数字が、現実では路頭に迷う家族の数なのだ。

 

「この一帯の空き家を払い下げようという話が出ていてね。私の知り合いが反対しているんだ。そいつの頼みでこの官舎に仮住まいしているのだ」

「そういう事情でしたか」

「軍人の死について考えてほしかった。それがこの官舎を見せて回った理由だよ」

「ありがとうございます。勉強になりました」

 

 俺は頭を下げた。

 

「君はいい軍人だ。勇敢で誇り高い。進む時は先頭に立ち、退く時は最後尾に立つ。窮地にあっても決して絶望しない。指揮官としての一つの理想像だろう。しかし、軍隊で四〇年勤めた経験から言わせてもらうと、そういう指揮官ほど早死にするものだ」

「そ、そうなんですか?」

 

 意外な高評価、そして早死にすると言われたことに目を丸くする。

 

「引くぐらいなら死を選ぶ。君はそういう男だろう?」

「いえ、別にそんなことは……」

「八年前、エル・ファシルで『帝国軍よりも卑怯者と呼ばれる方が怖い』と君は言った。今日までその言葉を実践してきた」

「そんな立派なものではありません。気が小さいだけです」

「死より不名誉を恐れる男を小心者とは言わんよ」

 

 ダーシャの父は盛大に勘違いしていた。前の人生での経験から、「逃げて叩かれるくらいなら、戦って死んだ方がマシ」との教訓を得ただけだ。

 

「エリヤ・フィリップス君」

「はい」

「私は軍人を四〇年やってきた。軍人は死ぬのも仕事のうちだ。そんなことはわかっている。私は軍人だ。そんなことはわかっている」

 

 ダーシャの父が俺の両肩を掴む。

 

「わかってはいるんだがね。私は親なんだ。子供には幸せになってほしい。君には死んでほしくない。ダーシャと一緒に生き続けてもらいたい」

「…………」

「軍人に『死ぬな』なんて、馬鹿なことを言っていると思うよ。まして、命知らずの君が相手だからな。でも、私は親なんだ」

「…………」

「娘にそんな思いをさせんでくれ、空き家にダーシャを残していくような真似はせんでくれ。何が何でも生きて帰るんだ」

 

 肩を掴む力が急に弱くなった。ダーシャの父の顔に汗が何筋も流れる。

 

「……娘をよろしく頼む」

「わかりました」

 

 俺は何のためらいもなしに頷いた。初老の大佐が軍人としての矜持をかなぐり捨て、一人の父親として語った言葉。それは何よりも重かった。

 

 

 

 ブレツェリ家を訪れた翌日、俺とダーシャは婚姻届を出した。夫婦の姓は統一せずに、俺はフィリップス姓、ダーシャはブレツェリ姓を引き続き使う。

 

 手続きを終えた後、ダーシャはベンチに腰掛けた。俺はベンチに仰向けになり、ダーシャの太ももを枕にする。二人とも童顔で私服姿だ。傍目には学生がいちゃついてるように見えるかもしれない。

 

「ダーシャ、結婚って簡単だったんだな」

「そんなことないよ」

「手続き一つで済むんだぞ」

「相手を見つけるのが難しいのよ」

「確かにな」

 

 俺は笑った。前の世界では八〇年生きたにも関わらず、一度も結婚できなかった。

 

「生きて帰らないとね」

「大丈夫だ。今なら一〇万隻に突っ込んでも生きて帰れる気がする」

「不吉なこと言わない」

 

 ダーシャが俺の赤毛をくしゃくしゃとかき回す。

 

「俺が戦場から帰ってこなかったことがあるか」

「ないけどさ」

「信じろ」

 

 普段の俺はこんなことは言わない。自分が一人ではないとの自覚が言わせるのだろう。何が何でも生きて帰りたいものだ。

 

「ダーシャ、戦う理由ができたよ」

 

 俺はにっこり笑った。大義なき戦いに自分なりの大義を見出した。それはダーシャの前に生きて帰ることだ。

 

 初夏の太陽が眩しく俺たちを照らす。南半球のモードランズでは一二月は初夏なのだ。真っ青な空、みずみずしい木の葉、色とりどりの花。そのすべてが前途を祝福してくれた。

 

 結婚から三日後の一二月三〇日、俺はいつもと同じ朝五時三〇分に目覚めた。左隣ではダーシャが気持ち良さそうに寝息を立てている。

 

「起きろ、時間だぞ」

 

 俺はダーシャの体を軽く揺すった。

 

「今何時……?」

「五時半だ」

「じゃあ、六時になったら起こして」

 

 ダーシャは強気だが朝には弱い。俺はその正反対だ。

 

「六時になったら、六時半に起こせって言うんだろ」

「言わないよ」

「いつも言ってるだろうが」

 

 寝ぼけ声のダーシャと押し問答を続ける。

 

「とにかく六時まで待って……」

「待たない」

 

 俺はベッドから飛び出すと、シーツを勢い良く引き剥がした。そして、窓とカーテンを全開にする。朝日が部屋に差し込み、ダーシャの白い体を照らす。

 

「な、何すんのよ!」

 

 ダーシャは慌てて飛び起きた。

 

「着替えだぞ」

 

 俺はクローゼットから取り出した下着と軍服をダーシャに手渡す。そして、自分も下着と軍服を着用した。

 

 今朝の朝食は軽めだ。俺はチーズとハムが乗ったトースト六枚、ゆで卵五個、りんご二個、レタス半玉、牛乳五〇〇ミリリットル。ダーシャはトースト二枚、りんご二切れ、生野菜サラダ、牛乳二〇〇ミリリットル。

 

「一緒に朝食を食べるのは今日で最後だね」

「次は帝国領に入ってからだな」

「イゼルローンで一度ぐらいは会えるよ」

「それにしても一か月先か」

 

 俺とダーシャは寂しそうに笑った。仕事の都合上、週末以外は一緒に住めない。出兵中はただでさえ少ない機会が完全に無くなる。

 

 食事を終えた後、俺たちは準備を始めた。これから数千光年彼方へと飛び立つ。忘れ物をしても取りに戻ることはできない。忘れ物がないかどうかを念入りにチェックし合った。

 

「完璧だ」

 

 準備が整えて部屋から出ようとしたところ、ダーシャが後ろから俺の首に手を回してきた。びっくりして振り返ると、ダーシャが不意に唇を重ね、俺の唇をこじ開けるように舌を差し込む。

 

「…………!」

 

 俺はたじろぎつつも舌を絡めた。唇を離した後、ダーシャの丸っこい顔に悪戯っぽい笑みが浮かんだ。

 

「エリヤの顔、真っ赤だよ」

「ふ、不意打ちだったから」

「あはは、ほんと可愛いよね」

「ダーシャには敵わねえよ」

 

 いつものやり取りを終えた後、一緒に家を出た。俺は公用車に乗ってモードランズ宇宙軍基地、ダーシャはリニアに乗ってホルトン宇宙軍基地へと向かう。

 

 モードランズ宇宙軍基地は軍服と私服で埋め尽くされていた。軍服の人はこの基地に駐留する第三六機動部隊司令部と第三六作戦支援群の隊員。私服の人は見送りに来た家族や友人。彼らは思い思いに別れを惜しんでいる。

 

「帰ってきたら凱旋式と結婚式だな。二年前に礼服を新調しておいて本当に良かった」

 

 第二艦隊司令官クレメンス・ドーソン中将の口ひげが浮き浮きとしている。わざとらしく結婚式場のパンフレットを抱えているのが見えたが、知らないふりをした。おせっかいな彼は他人の祝い事に口を挟むのが好きなのだ。

 

「武勲を立てて帰って来い!」

 

 エーベルト・クリスチアン中佐が俺の肩をどんと叩く。査問会の後、予備役に編入されそうになったが、意気はまったく衰えていない。決して揺るぎない強さが安心感を与えてくれる。

 

「無理はせんでくれよ」

 

 最初の上官タデシュ・コズヴォフスキ退役少佐が俺の頭をぽんぽんと叩く。

 

 この場に集まった軍人は、ハイネセン在住でなおかつ遠征軍に参加しない者だ。俺の場合はフィン・マックールや憲兵隊での知り合いがそれにあたる。

 

 俺のもとにスーツを着た男性が寄ってきた。トリューニヒト下院議長の私設秘書ユン・ウリョンだ。

 

「トリューニヒト先生からのメッセージです」

 

 ユン氏がトランクを開くと、トリューニヒト議長の等身大ホログラフが現れた。俺は直立不動で敬礼をする。

 

「やあ、エリヤ君。見送りに来れなくてすまない。ホログラフ通信で挨拶させてもらうよ」

「きょ、恐縮であります!」

「私の願いは一つだけだ」

「何でしょうか?」

「君の結婚式に出席させてほしい」

 

 トリューニヒト議長がにっこり笑う。太陽のように暖かい笑顔。

 

「かしこまりました! 必ずや戻ってまいります!」

 

 俺は最敬礼で答えた。トリューニヒト議長は胸に手を当てて敬礼する。周囲から割れるような拍手が巻き起こった。

 

「司令官閣下、そろそろお時間です」

 

 副官シェリル・コレット大尉が出発するよう促す。

 

「分かった」

 

 俺は見送りの人々に別れを告げた。コレット大尉、参謀長チュン・ウー・チェン大佐、副参謀長イレーシュ・マーリア中佐、作戦部長サンジャイ・ラオ少佐、情報部長ハンス・ベッカー少佐らを連れてシャトルへと乗り込む。

 

 あっという間に地表は遠ざかっていった。大気圏外に出ると、モスグリーンの軍艦数百隻が俺たちを出迎える。その中心に第三六機動部隊旗艦「アシャンティ」がいる。

 

 シャトルからアシャンティへと移乗すると、艦長イブリン・ドールトン中佐以下の乗員二二五名が敬礼で出迎えてくれた。

 

「ご苦労」

 

 俺は返礼した後、司令室に入って司令官席に腰掛けた。その周囲にはチュン・ウー・チェン参謀長、コレット大尉らが座る。

 

 端末のスイッチを入れると、副司令官ポターニン代将、スー代将ら四人の戦隊司令、マリノ大佐ら五人の群司令の顔が現れた。

 

「出発準備は整ったか?」

「万全です」

 

 全員が声を揃えて答える。

 

「よし、全軍出発だ! 目的地はイゼルローン!」

 

 俺はさっと手を振り下ろした。この瞬間、第三六機動部隊は数千光年の旅路の一歩目を踏み出したのであった。


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