リオヴェルデ星系第三惑星メディアルナは、同盟首星ハイネセンから二日の距離にある。俺とイレーシュ・マーリア准将は一二月二六日にハイネセンを出発し、二八日午前六時にメディアルナへと降り立った。
星都カンタールからリニアと電車を乗り継ぎ、北極圏のインカダへと向かう。インカダはウィレム・ホーランド予備役中将の出身地であり、現住地でもある街だ。俺はホーランド予備役中将の真意を知りたかった。イレーシュ准将は、士官学校に通っていた頃からホーランド予備役中将と仲が悪かったが、「一度会ってみたい」と言って着いてきた。
インカダ駅に降り立った瞬間、世界が真っ白になった。雪が風に乗ってホームの中を舞い踊る。床やベンチには雪が積もり、屋根の端からつららが垂れ下がっていた。巨大な冷凍庫の中に無理やり駅を作ったかのようだ。
「寒い!」
情けない悲鳴が俺の口から飛び出した。体がぶるぶると震えだす。歯がかちかちと音を立てる。目に涙がにじんできた。
寒さには十分に備えたつもりだった。耳当てが付いた合成毛皮の帽子をかぶり、合成毛皮のコートの下には厚手の服を五枚も重ね着し、ズボンを二枚重ねて履いた。首の回りにはマフラーを重ね巻きにした。分厚い防寒手袋を手にはめた。重ね着のせいで体が丸っこく見える。それなのに寒いのだ。
「寒がりすぎ」
イレーシュ・マーリア准将は呆れ顔で俺を見た。俺と同じような格好だが、体の輪郭はほっそりしている。
「あなたがおかしいんですよ。コートの下、二枚しか着てないんでしょう?」
「十分だけど」
「シロン生まれじゃないですか。俺より寒さに弱くないとおかしいですよ」
俺はイレーシュ准将が寒さに強いなんておかしいと力説する。茶産地なんて熱帯か亜熱帯だ。
「とりあえず、そばでも食べようか」
そう言ってイレーシュ准将は歩き出した。俺は後を付いて行く。階級が三つ上になっても、プライベートでは教え子のままだ。
売店でインカダそばを三杯食べ、体を温めてから駅を出た。雪色に染まった街並みが目の前に広がる。建物にも道路にも雪が積もっていた。ブーツが足首まで埋もれるほどだ。年末だというのに人通りが少なく、活気が感じられない。
「ホーランドはこんな街で生まれ育ったんだねえ」
イレーシュ准将は感慨深げに呟いた。以前と比べると、ホーランド予備役中将に対する反感は薄れたようだ。だからこそ、会いに行くのだろう。
ホーランド予備役中将が住む退役軍人向けの星営住宅は、寒い街の郊外にあった。大きな川のほとりに古びた長方形の建物が連なる。薄汚れた建物の外壁は白い。氷が浮いた川の水は暗色だ。空はどんよりとした灰色に染まり、真っ白な雪が地面と建物を覆う。白黒写真のような光景だ。見ているだけで気分が暗くなってくる。
「ここです」
俺は「F棟」というプレートがかかった建物を指さした。だが、イレーシュ准将は入ろうとしない。
「一人で行ってきな。私は街に戻るから」
「ホーランド提督に会わないんですか?」
「明日にするよ。こういう話は二人きりの方がいいでしょ」
「確かに」
イレーシュ准将に頭を下げると、俺は一人でF棟に入った。昼の一三時だというのに、やたらと薄暗い。壁はひび割れており、手すりはさび付きがひどく、メンテナンスされていないことが一目でわかる。隙間から入り込んでくる寒風が共用廊下を吹き抜けていく。
「こんなところに住んでいるのか……」
ホーランド予備役中将が気の毒になった。宇宙軍のエースだった人の住まいとしては、あまりにみすぼらしすぎる。
俺は首を横に振った。気を抜いてはいけない。不遇だからこそ、俺を騙すのに必死だとも考えられるからだ。追い詰められると人間は何でもする。そのことを前の人生で嫌というほど思い知らされた。
エレベーターらしき扉を見つけたので近寄ってみると、「故障中」と書かれた紙が貼ってある。貼り紙はかなり黄ばんでいた。長い間修理されていないようだ。
「仕方ない。階段を使うか」
階段を一つ一つのぼっていく。こんなに寒い建物の中を歩くのは嫌だ。それでも、エレベーターが使えないのだから仕方がない。
六階に上がり、「六〇五号室」と書かれたドアを控えめに叩く。アポを取った時、「インターホンが壊れているから、ドアを直接ノックしてくれ」と言われたからだ。
「どちらさんだね?」
「フィリップスです」
「入ってくれ」
二年八か月ぶりのホーランド予備役中将は、別人のようだった。金色の髪は長めでぼさぼさ、端正な顔は肉付きが薄く、平凡な優男といった感じだ。透き通るような青色の瞳には、穏やかな光が宿る。着ているネルシャツは見るからに安っぽい。体は一回り細くなり、かなり痩せたように思われる。かつての覇気はまったく感じられない。
俺は呆然とした。以前とまったく別の人間になってしまったように思えたのだ。見た目は多少変わっているが、俺の知っているホーランド予備役中将なのは間違いない。しかし、中に入っている魂が別物だと感じる。
「ご無沙汰しておりました」
内心の動揺を隠し、背筋を伸ばして敬礼をする。
「よく来てくれた」
ホーランド予備役中将は敬礼を返すと、俺を室内に通した。足がややふらついている。怪我の後遺症だろうか。
キッチンとリビングを兼ねる部屋を通り抜け、個室へと入った。両側には本棚が並び、正面には大きな窓がある。白一色に統一された壁紙と家具は、病室のような印象だ。明るい感じがするのは整頓されているからだろう。写真がたくさん飾ってあるが、ホーランド予備役中将が一人で写った写真はなく、すべて他の人と一緒に写った写真だ。勲章や賞状は一つも飾られていない。
「飲み物は何にする? コーヒー、紅茶、グリーンティーがあるが」
「コーヒーをお願いします」
「砂糖とクリームは?」
「砂糖を六杯、クリームを五杯入れてください」
俺は笑顔を作り、心の中で「あなたはこんな人じゃないだろう」と呟いた。誰に対しても熱いグリーンティーを出し、「私が入れたんだから、うまいに決まってる」と胸を張るのが、ウィレム・ホーランドではないか。
出てきたコーヒーは意外とうまかった。酸味が強くていかにもインスタントといった感じだが、濃度がこれ以上ないほどに適切だ。
「味はどうだね?」
「おいしいです」
「気を使わんでもいいぞ」
「本当です。工夫なさったのですか?」
適当にいれても、おいしいコーヒーは作れない。ビューフォート准将あたりは、「砂糖を六杯も入れたら、誰が作っても同じだ」と笑うだろう。だが、単純な味だからこそ技量が物をいうのだ。二年前に亡くなったマーキス兵長が作るコーヒーは、おそろしくまずかった。
「何もしていないが」
「感覚でわかったんですね」
「昔から要領をつかむのはうまいんだ」
「あなたは戦場でもそうでした。一目で敵の弱点を見抜いてしまう」
「要領がいいだけだがね」
ホーランド予備役中将の痩せた顔に、自嘲の色が浮かぶ。
「そんなことはありません」
俺は即座に否定した。こんな顔をするウィレム・ホーランドなど見たくない。「私がナンバーワンだ」と高笑いしてほしかった。
「フィリップス君は優しいな。第一一艦隊はみんな優しい」
「先日は葬儀にメッセージを送っていただき、ありがとうございました。ストークス提督のご遺族も喜んでおられました」
「ストークスさんには世話になった。これぐらいのことはしないとな」
ホーランド予備役中将は小さく笑うと、グリーンティーに口をつけた。ゆっくりと味を噛み締めるように茶をすする。
「ホーランド提督らしいですね。安心しました」
俺は本心と嘘を同時に言った。英雄的精神の良い面が残っていたことには安心した。だが、茶の飲み方を見て不安になった。以前なら、二年前なら煮えたぎるような茶を一気に飲み干していたはずだ。
しばらくの間、茶を飲みながら雑談をかわした。政治や軍事の話を振っても、ホーランド予備役中将が乗ってこないので、日常的な話に終始する。「身寄りがないから星営住宅に住んでいる」とか、「病院代で年金の半分が消える」とか、「金がないから酒をやめた」とか、そういう話は聞くことができた。だが、本当に知りたいことは聞き出せない。
俺は切り札を出すことに決めた。ホーランド予備役中将の本心を確かめるには、最適の話題であろう。
「第二艦隊司令官に内定しました。第一辺境総軍司令官と兼任ですよ」
「第一一艦隊じゃないのか?」
予想通り、ホーランド予備役中将は乗ってきた。
「ドーソン提督に頼まれまして」
「なぜだ? フィリップス君は第二艦隊と縁がないだろう。再建される艦隊の司令官は、OBから選ぶと聞いたぞ」
「ドーソン提督は旧第二艦隊が解散した時の司令官だったでしょう? 第二艦隊を譲ることで、エリヤ・フィリップスが自分の後継者だと示したいんです」
俺は詳細な説明を付け加えた。
「ああ、なるほどな」
ようやくホーランド予備役中将は気づいたようだ。政治音痴は以前と変わらない。
「そういうわけで、第一一艦隊司令官は未定になったんです」
俺は「未定」を強調し、「第一一艦隊司令官のポストが空いてるぞ」と遠回しに伝える。ホーランド予備役中将に野心が残っているなら、興味を示すはずだ。
「ペクさんがいるだろう」
ホーランド予備役中将は、旧第一一艦隊の元B分艦隊司令官の名前をあげた。
「ペク提督は『自信がない』といって辞退しました」
「生え抜きから出せないとなると、よそから呼ぶことになるな」
「トリューニヒト派はマスカーニ提督、良識派はアッテンボロー提督を第一一艦隊司令官にしたいようです」
「どっちに決まっても嫌だな」
「第一一艦隊OBはみんなそう思っています。いっそ、予備役のOBを推薦しようって意見も出てますよ」
俺はさらに餌を追加した。
「OBにそんな権限はないだろう」
「今回はOBの意見が重視されるんです。伝統ある艦隊が復活したと印象付けるには、旧艦隊の伝統を引き継ぐ人材を司令官にしないといけません」
「しかし、モディセレさんが復帰しても、一年しかやれんぞ。来年で定年だからな」
ここまで言われても、ホーランド予備役中将は「私がやる」とは言わない。あまりに反応が鈍すぎる。頼まれなくてもやりたがるのが、ウィレム・ホーランドという人なのに。
「あなたがいるじゃないですか」
「私はやらんよ。メールに書いただろう? 復帰する気はないと」
ホーランド予備役中将は静かに言い切る。
「よそからちゃんとした人を呼んでくれ。第一一艦隊は思い出の部隊だからな。めちゃくちゃにされたくない」
「努力いたします」
「パエッタさんを呼んだらどうだ? トリューニヒト派でもあの人だったら構わんぞ。あれほど軍人らしい軍人は滅多にいない」
「お嫌いではないんですか?」
俺は目を丸くした。ホーランド予備役中将とパエッタ中将の不仲は有名だ。
「嫌いじゃないさ。相性は悪いがね。あの人は自由にやらせてくれなかった」
「パエッタ提督はうちの副司令官になりますよ」
「艦隊司令官にしないのか? トリューニヒト派では数少ない実戦派じゃないか」
「良識派が認めません。現役復帰に反対する人すらいます。花形の正規艦隊司令官は無理です」
俺はため息をついた。軍部良識派やリベラル勢力から見れば、パエッタ中将は『政治屋と組んで無用の戦を起こした男』だ。レグニツァの大敗が未だに尾を引いていた。
良識派の勢力は今もなお強大である。イゼルローンを攻略したヤン元帥は、俺と並ぶクーデター鎮圧の功労者だ。セノオ少将のように市民軍で活躍した人もいた。自派の不始末を自ら片づけた形になる。反戦・反独裁市民戦線(AACF)とは、講和・軍縮の理想を共有する盟友であり、人脈的な繋がりも強い。以前ほどの力はないものの、トリューニヒト派と拮抗しうる存在だ。
派閥の勢力よりも厄介なのが個人的な名声だった。市民は発言内容よりも発言者の名前を重視する。良識派には市民から英雄視される人物が何人もいた。「ヤン提督が反対している」と聞けば、市民は無条件で「あの件は間違いだ」と考えるだろう。「ビュコック提督が反対している」と聞けば、市民は「あの件は間違いかもしれない」と疑問を抱くはずだ。トリューニヒト議長は世論を気にする人なので、鬱陶しいと思っても、無視することはできない。
こうした背景があったので、俺はパエッタ中将を副司令官として引っ張ることができた。良識派は当然のように反発した。だが、市民は「フィリップス提督の人事」というだけで納得するので、政治的な障害にはならないのだ。
「頭の固い連中だ」
ホーランド予備役中将は苦笑いを浮かべた。以前なら豪快に笑い飛ばしただろう。
「彼らのおかげでパエッタ提督を登用できました。感謝したいぐらいです」
「フィリップス君は前向きだな」
「突撃ばかりしていましたから」
「総軍司令官になったらそうもいかんぞ」
「ワイドボーン中将を参謀長にして、チュン・ウー・チェン副参謀長との二頭体制にしました。作戦能力がぐっと上がりますよ。参謀の智謀は掛け算ですから」
俺は右手の拳を握って親指を上に向ける。
「そんなことができるのか? ワイドボーン君は統合作戦本部の作戦部長じゃないか」
「俺とワイドボーン提督は友人です」
「なるほど」
ホーランド予備役中将はこの説明で納得した。頭は切れるが単純なので、複雑な話は苦手なのである。
参謀長人事の裏には複雑な事情があった。ワイドボーン中将は俺の友人であり、国家非常事態委員会(SEC)メンバーとして功績をあげた人物だ。彼を作戦部長に留めておくと、ドーソン・ワイドボーン・フィリップスのラインが、トリューニヒト議長を凌駕しかねない。ワイドボーン中将を外に置きたいトリューニヒト議長の思惑と、優秀な参謀がほしい俺の思惑が重なり、大物参謀長が誕生した。
「しかし、大丈夫なのか?」
「何がです?」
「君は揉め事が苦手だろう。パエッタさんとワイドボーン君を用いたら、良識派を刺激するぞ」
「構いません。どう転んでも仲良くできない相手です。だったら、とことんやりますよ」
俺は涼しい顔で答えた。良識派と敵対することは織り込み済みだ。自分なりの計算はあるが、ここで話すことではない。
「フィリップス君、コーヒーのおかわりはどうする?」
「お願いします」
「甘いものも持ってこよう」
そう言ってホーランド予備役中将は出て行った。この部屋に入った時と同じように、頼りない足取りだ。
俺は目をつぶって考えた。今のホーランド予備役中将には野心が感じられない。「復帰を考えていない」というのは事実だろう。ほっとする一方で、寂しいとも感じる。「反省してほしい」「元気でいてほしい」という相反する感情があった。
ホーランド予備役中将がキッチンから戻ってきた。カップ二個と大きな蒸しパンが乗った皿二枚を、不慣れな手つきでテーブルに置く。
「甘い物は好きだろう」
「はい」
「この蒸しパンはジャンボ・マンジューといってな。インカダの銘菓なんだ。甘ったるいぞ。小豆のペーストがぎっしり詰まっているんだ」
「おいしそうですね」
俺はジャンボ・マンジューを見た。小豆のペーストは大好物だ。
「ゆっくりしていってくれ。せっかく来たんだ。すぐ帰るのもつまらんだろう」
「お言葉に甘えさせていただきます」
俺はうれしそうな表情を作り、ジャンボ・マンジューにかぶりついた。だが、心の中は沈み切っていた。ホーランド予備役中将の柔和さの中に、不吉なものを感じる。エネルギーが尽きかけているように思えてならない。
ジャンボ・マンジューを食べる俺に対し、ホーランド予備役中将は優しいまなざしを向けた。老人が孫を見るような目だ。三九歳の壮年とは思えないほどに枯れ切っている。
「ホーランド提督」
俺は空になった皿を置き、姿勢を正した。
「何だね?」
「妻の最期についてお話しいただけませんか」
「それが本題かね」
ホーランド予備役中将の表情が引き締まる。
「はい」
「メールに書いたとおりだぞ」
「同じ話を聞かせてください。直接話さないと、伝わらないものがあるでしょう」
俺はまっすぐにかつての上官を見つめた。
「わかった。私は好きなように話す。判断は君に委ねよう」
ホーランド予備役中将は軽く目をつぶった。脳内に散らばった記憶の断片を集めているように見えた。一分ほどの沈黙の後、目を開けた。
「今日は八〇一年一二月二八日か。あれから二年が過ぎたのだな――」
七九九年五月五日一六時四八分、ホーランド機動集団の旗艦ディオニューシアは、至近距離からの直撃弾を受けた。炎と衝撃波が艦内を蹂躙した。
気がついた時、ホーランド中将は崩れた機材に埋もれていた。体中が激しく痛むものの、致命傷ではない。
「生存者はいるか!」
返事はなかった。部下は即死したか、致命傷を負ったかのどちらかであると思われた。壁面を炎が覆う。破壊された電子機器から火花が散る。赤色灯が視界を真っ赤に染める。ディオニューシアは巨大な火葬場と化しつつあった。
「本艦の核融合炉で爆発が生じました。乗員は直ちに避難してください。繰り返します。本艦の核融合炉で爆発が……」
核融合炉の爆発を伝える機械音声が響いた。脱出できる見込みは薄いだろう。死は間近に迫っている。
「これも天命か」
ホーランド中将は小声で呟いた。死ぬことが恐ろしいとは思わない。ずっと生死のぎりぎりで戦ってきた。勝者が生き残り、敗者が死ぬのが戦場の摂理だ。ラインハルト・フォン・ローエングラムに敗れたのは天命である。ならば、敗者は潔く死のう。天命を受け入れるのも英雄の度量というものだ。
死を受け入れる気持ちになった時、炎の中から人影が現れた。副参謀長ダーシャ・ブレツェリ代将である。
「司令官閣下! ご無事でしたか!」
ダーシャが機材を動かそうとしたが、ホーランド中将は首を横に振った。
「私に構うな。生存者を連れて逃げろ」
「司令官を助けるのが幕僚の仕事です」
「ハイネセンを出発して以来、私は一〇〇度戦って一〇〇度勝った。それなのにこのざまだ。天命としかいいようがない」
ホーランド中将は差し伸べられた手を振り払う。己の生涯を英雄らしく終える。その以外のことは頭の中になかった。
「戦いはまだ終わっていません! 味方がまだ戦っているじゃないですか! この戦いが敗北に終わったとしても、再戦の機会がめぐってきます! その時にローエングラム大元帥を討ち果たせばいいんです!」
ダーシャはホーランド中将の両肩をつかみ、必死の形相で訴えた。騒ぎを聞きつけた生存者が集まってくる。
「もういいんだ。私はローエングラム大元帥には勝てない。天がそう定めたのだ」
ホーランド中将は力なく息を吐いた。終わりにさせてくれと言いたかった。肉体の傷は致命的ではない。だが、心が完全に折れてしまった。折れた剣に存在価値などない。潔く死ぬのが筋ではないか。
「何が天命ですか! あなたは指揮官なんです! 勝利の栄光も敗北の不名誉も背負う! それが指揮官の務めです! 勝てないなら、生存者を一人でも多く収容しましょう! 敵の追撃を防ぎましょう! できることはたくさんありますよ!」
ダーシャの言葉は諫言というより、叱責であった。普段の礼儀正しさをかなぐりすてるほどに、彼女は必死だった。他の部下もすがりつくように懇願する。
「卑怯者にならずに済んだ。感謝する」
ホーランド中将は自分の逃げを自覚した。敗北を受け入れたつもりだった。しかし、潔く死ぬことはできても、敗者として生き延びることはできなかった。常勝のプライドがそれを許さなかったのだ。
ダーシャと部下五名がホーランド中将を引っ張り出し、航行可能な唯一のシャトルに乗せた。シャトルが飛び立った直後、ディオニューシアは大爆発を起こし、宇宙の塵と化したのである。
話し終えた後、ホーランド予備役中将の視線が動いた。そして、一枚の写真の前で止まった。移ってる顔ぶれから、ホーランド機動集団司令部の集合写真であることがわかった。
「ダーシャ・ブレツェリ、リュー・メイユ、アントニア・ノールズ、ネーメト・エルジェーベト、マレナ・メサ、カール・フォン・グリンメルスハウゼン……。この六人が命の恩人だよ」
この人の悲しむ顔を見るのは初めてだった。夜の水面のように静かで穏やかだ。
「フィリップス君、あの辺りにある写真は機動集団の写真だよ。懐かしい顔ばかりだろう?」
「はい」
「みんな、私が殺したんだ。写真に写っている連中だけじゃない。ホーランド機動集団の戦死者二一万三〇〇〇人も私が殺した。帝国領遠征軍の戦死者三七二六万八〇〇〇人を死なせたのも私だ」
ホーランド予備役中将は申し訳なさそうに目を伏せる。肉付きの薄い顔には深い苦悩があった。細くなった体には罪悪感が張り付いていた。戦後の二年をどんな思いで過ごしたのかは、想像するまでもなかった。
「私は英雄になりたかった」
ホーランド予備役中将はため息とともに声を吐き出す。
「私は何でもできた。私の頭は教えられたことをすぐ覚えた。私の体は教えられた動きを完璧にこなした。私の直感は要点を一瞬で見抜いた。何をやっても一番だった。競争で負けたことは一度もなかった。自分は選ばれた存在だと思ったよ。『人にできることは何でもできる。ならば、人にできないことをやるために生まれたに違いない』と信じた」
自分を誇る様子はまったくなかった。あまりに自然すぎるからだろう。世の中には、食事をとるような感覚で一番になってしまう人種がいる。人から評価されることに慣れているので、自慢する必要もない。アンドリュー・フォークやマルコム・ワイドボーンがそうだった。
「とんだ勘違いだったがね。本物を目にすればわかる。ラインハルト・フォン・ローエングラムの前では、私などちっぽけな存在だった。人より要領がいいだけなのに、自分を特別だと勘違いしていたんだよ」
「…………」
「私は英雄ではなかった。三七年かけて幻を追いかけてきた。幻のために大戦を起こし、多くの人間を死に至らしめた。弁解のしようもない」
それは悲痛な告白であった。生涯をかけて追い求めた夢は幻だった。多くの犠牲を出したのに、何一つなしえなかった。そんな事実を認めるのは死ぬよりも辛いことだ。
「ありがとうございました」
俺は頭を下げると、ぬるくなったコーヒーに口をつける。糖分ではなく水分がほしかった。話を聞いているだけだったのに、のどが乾ききっていた。
「許してくれとは言わんよ。私にはそんな資格はない。君の妻と部下を死なせたんだからな」
ホーランド予備役中将の表情は恐ろしく柔和だった。俺が罵ったとしても、甘んじて受け入れそうな雰囲気がある。
何かがおかしいと思った。心から後悔しているのは間違いない。だが、彼の柔和さには後悔と別の成分も混じっている。その成分がどういうものなのかは想像できた。気分が重くなってくるのを感じた。
「どうした? そんなに私の顔が気になるのか?」
「いえ、あれが気になりまして」
俺はとっさにホーランド予備役中将の背後を指さす。
「ただの本棚だぞ」
「本が入っていないでしょう」
話題を逸らすために指さした本棚は、よく見ると変だった。本は一冊もなく、同じ形のクリアファイルが隙間なく詰まっていた。どのファイルにも、「GO-二」「FA-四」など二文字のアルファベットと数字が記されており、名前順に並んでいるようだ。
「あのファイルは何です?」
「戦死した部下の名簿だ」
「そうでしたか」
俺は納得した。戦死者の名簿を手元に置く人はいる。ホーランド予備役中将のように、部下と親密な関係を築くタイプならあり得ることだ。
しかし、そうなると別の疑問が生じてくる。他の本棚も名簿がぎっしり詰まっていた。一〇万人を超える戦死者のデータをなぜ紙で保管するのか? これほど膨大なデータを保管する場合、普通は電子化するものだ。狭い船室暮らしに慣れた艦艇乗りなら、間違いなくそうするだろう。この家の間取りは一DKと思われる。唯一の個室の収納スペースを無駄遣いするなんて、非効率としか言いようがない。
「電子化なさらないのですか?」
「手書きだからな」
「どういうことです?」
「戦友会から借りた電子名簿を手で書き写した」
ホーランド予備役中将が一冊のファイルを開いた。
「凄いですね」
俺は目を大きく見開いた。戦死者の姓名、階級、所属部隊、役職、年齢、戦死場所、戦死年月日などがすべて手書きで書かれている。
「別のも見るか? 好きなのを取っていいぞ」
「ありがとうございます」
俺は「BU」と書かれたファイルすべてを取り出す。
「あった」
姓名:ダーシャ・ブレツェリ 階級:代将たる宇宙軍大佐 ※死後、宇宙軍准将に昇進 所属部隊:ホーランド機動集団司令部 役職:副参謀長 年齢:三〇 戦死場所:ヴァルハラ星系 戦死年月日:七九九年五月五日
胸の中が熱くなった。ただの文字列のはずなのに温もりを感じる。手書きの文字が生命を吹き込んでくれた。そんな錯覚を覚える。
「手書きはいいぞ。『こいつはこういう奴だったな』とか、『こいつはここで死んだのか』とか、そんなことを思いながら書く。そうすると、そいつが側にいるような気持ちになるんだ」
ホーランド予備役中将が微笑んだ。とても穏やかで儚い微笑みだった。
「他のも読ませていただいてよろしいですか?」
「構わんぞ」
「遠慮なく読ませていただきます」
俺は次々とファイルを取り出し、必死になってめくる。懐かしい部下がそこにいた。頼もしい戦友がそこにいた。
「フィリップス君、ずいぶん嬉しそうだな」
ホーランド予備役中将が読み終えたファイルを片付けながら笑う。
「嬉しくないわけがないでしょう」
俺は笑顔で返した。この部屋で初めて心から笑った。
「喜んでもらえて何よりだ。まだ半分しかできてないがね」
「半分でも一〇万人です。ここまで書くのは大変だったでしょう。なぜ手書きの名簿を作ろうとお考えになったのですか?」
「忘れないためだ」
ホーランド予備役中将の顔から笑みが消える。
「私は根っからの軍人だ。だから、軍人としてのやり方を貫く。部下のことを絶対に忘れない。寝ても覚めても部下のことを考える。最後まで彼らを背負い続ける」
「あなたらしい答えだと思います。部下は上官に自分を知ってほしいと願うものです。彼らを気にかけ続ける。それこそが何よりの供養になるでしょう」
俺は納得した気持ちで頷いた。
「遺族には自己満足だと言われるがね」
「遺族と交流なさっておられるのですか?」
「部下を知るためには欠かせんだろう。君にメールを送ったのもその一環だ」
「批判の方が多いでしょうに」
「返事の九割以上は批判だ。それで構わない。勝って称賛を浴びるのが当然なら、負けて批判を浴びるのも当然だろう」
ホーランド予備役中将は事も無げに言い切った。当たり前のように聞こえるが、誰にでもできることではない。
「あなたはやはり英雄です。英雄としての名声は失いました。しかし、心の持ちようは英雄そのものです」
「私は普通の人間だよ。ローエングラム大元帥と戦ってわかった。あれが本物の英雄なんだ」
「選ばれた者でなくても英雄になれます。少しの責任感、少しの勇気、少しのプライド、少しの向上心さえあれば、誰だってなれるんです。あなたには英雄たる資格があります」
俺は「誰だって」を強調した。二か月前、ハイネセンに大勢の英雄が現れた。非凡な者も平凡な者も英雄になった。誰の中にも英雄的精神の卵が眠っているのだ。
「フィリップス君、君は私の責任を問いに来たんじゃないかね?」
「俺が責める必要はありません。あなた自身より厳しい批判者はいないでしょうから」
「私が私を責めたところで、自己満足にすぎんぞ」
「責任を取ってほしいというのも俺の自己満足です。少なくとも、俺はあなたのやり方に満足しています。それに……」
ここで言葉を一旦切った。続きを言うべきかどうか迷ったが、思い切って言うことにした。
「長くないんでしょう?」
「わかっていたのか」
ホーランド予備役中将は暖かい表情になった。その暖かさはかつて燦然と光り輝いた太陽の余熱だ。
「放射線障害ですね?」
「核融合炉の爆発に巻き込まれたんでな」
「どうしてそこをぼかしたんです? 隠さなくてもいいでしょう」
俺はほろ苦い気分になった。放射線障害とわかっていたら、反省していなくても許せた。他の遺族だって批判の手を緩めるはずだ。
「手加減されたくないんでな」
「普通は病気のふりをしてでも、憎まれたくないと思うんですけどね」
「多くの兵士が私を英雄だと信じて散っていった。みっともない真似をしたら、そいつらが『自分はこんなくだらん奴のために死んだのか』と嘆くだろう」
ホーランド予備役中将はすべてを失ったのに、矜持だけは失っていない。勇気や智謀よりずっと貴重な資質ではなかろうか。
「余命はあと何年ですか?」
「二年前、医者に『余命五年』と言われた。今は余命三年ということになる」
「どう答えればいいんでしょうね。良かったというべきなのか、残念だというべきなのか」
俺は判断に困った。助かったのは幸運だった。しかし、余命が三年しかないのは不幸だ。西暦二三〇〇年代に癌の治療法が確立されると、放射線による病気は著しく減少した。だが、一度に大量の放射線を浴びてしまうと、手の打ちようがない。余命を伸ばすのがせいぜいだ。
「私は運が良かったと思っているよ」
そう言うとホーランド予備役中将は立ち上がり、窓の前で足を止めた。
「来てくれ」
「はい」
俺も窓の前に立つ。気づかないうちに日光が強くなっていた。
「あの川はリオ・ブランコ川だ。古代スペイン語で『白い川』という意味でね。雪が降ると真っ白になるんだ」
ホーランド予備役中将が窓の外を指さす。雪景色の中を大きな川が流れていた。氷の浮いた水面に冬の日光が反射し、白銀色の輝きを放つ。まさしく「白い川」である。
「きれいな眺めですね」
俺はリオ・ブランコ川を食い入るように眺めた。雪とは縁のない人生を送ってきた。故郷パラディオンは雪が降らない街だ。ハイネセンポリスやオリンピアは、年に数回しか雪が降らないし、真っ白になるほど積もることもない。それ以外の勤務地は温帯か亜熱帯だった。氷の浮いた川を見るなど初めてだった。
「私は一五歳までこの街で過ごした。いつもうんざりしていたよ。リオ・ブランコなんて、ちっぽけな惑星の地べたに貼りついた小川だ。こんな川のほとりに住みたくなかった。天空に飛び出したかった。星の大河を自由に泳ぎたかった」
ホーランド予備役中将は、リオ・ブランコに優しいまなざしを向ける。
「しかし、すべてを失った時、リオ・ブランコがどうしようもなく懐かしくなった。だから、この部屋にしたんだ。川沿いは家賃が安いしな」
「よくわかります」
「君にはわからんだろう」
「知り合いにお爺さんがいましてね。故郷にいられなくなった人なんですが、いつも帰りたいと言ってたんです。不思議ですよね。いい思い出がないのに帰りたいなんて。でも、そういうものなんだと思います」
俺は自分の経験を架空の「お爺さん」の話として語る。前の人生で年老いた時、故郷パラディオンに帰りたいと思った。家族に裏切られ、友人に見捨てられ、逃げるように出て行った街なのに、それでも懐かしくてたまらなかった。
「地に落ちて初めて分かることもある。地べたに貼りついて生きるのも悪くない。そのことを知っただけでも、生き延びた甲斐はあった」
ホーランド予備役中将はとても満ち足りた顔をしていた。それが何を意味するのかは明らかだった。彼の人生は本当の意味で終焉を迎えつつある。
この人を失いたくないと痛切に思った。ダーシャが生かした人だ。ダーシャを知る人だ。上官だった人だ。同じ戦場を生き抜いた人だ。過ちを率直に認めた人だ。誇りをもって敗北に向き合った人だ。俺が前の世界で見た物を見た人だ。ようやく真情に触れることができた人だ。それなのに死ぬなんて寂しすぎるではないか。
「ホーランド提督」
「なんだね?」
ホーランド予備役中将はこちらを向いた。窓から入ってくる日光のせいで、表情は見えない。
「第一一艦隊司令官をやってみる気はないですか?」
「やらないと言っただろう」
「一期二年で構いません。ホーランド機動集団のような精鋭を作ってください。次の戦争は早くとも五年後ですから、実戦はたぶんありません」
「余命三年というのは、『三年以内に死ぬ確率が五〇パーセント』という意味だぞ。明日死ぬかもしれないんだ」
「逆に言うと、三年以上生きられる可能性も五〇パーセントなんですよ。医学は日々進歩しています。一世紀前なら一年以内に死亡するほどの被ばく量が、今なら一〇年は確実に生きられる水準になっています。正規艦隊の艦隊病院なら、公費で最先端の医療が受けられます」
「何が言いたいんだ?」
「俺はあなたに長生きしていただきたいと思ってるんです」
「なぜだ?」
「ダーシャが命と引き換えに助けた人だからですよ」
俺は機動集団司令部の集合写真を指差した。中央の一番目立つ場所で、笑顔のダーシャがピースサインをしている。
「ダーシャの分も戦ってください。そういう責任の取り方もあるはずです」
「しかし、私は……」
「ジェリコー参謀長の分も戦ってください。ソリアーノ大佐の分も戦ってください。ソレル中佐の分も戦ってください。ラヴィルニー中佐の分も――」
旗艦と運命を共にした幕僚の名前を片っ端からあげる。
「彼らは戦いたくても戦えないんです。彼らが守ろうとした国を代わりに守る。どうです?」
「…………」
「見てください」
俺は別の写真を指差した。機動集団の部隊長が集まった写真だ。
「写っている七人のうち、生き残っているのは俺とあなただけです。他の五人はヴァルハラで死にました」
「…………」
「俺たちが頑張らなくてどうするんです! ハルエル提督の代わりに戦いましょう! エスピノーザ提督の代わりに戦いましょう! バボール提督の代わりに戦いましょう! ヴィトカ提督の代わりに戦いましょう! オウミ提督の代わりに戦いましょう!」
「ハルエルたちの代わりか……」
「そうです! そして、戦死者二一万三〇〇〇人の代わりです!」
俺はホーランド予備役中将の仲間意識に訴える。
「凡人には凡人のやりかたがあります。軍人なんてほとんどは凡人です。凡人だけど必死で戦ってるんです。あなたが英雄でなくても、できることはいっぱいありますよ」
むしろ、英雄でないウィレム・ホーランドにこそ期待したかった。前の世界では敗北と同時に死んだが、この世界では生き残った。敗北を知ったウィレム・ホーランドは、より大きな提督になるかもしれない。天の頂上と地の底を両方知っているのは稀有なことだ。
「私は冬バラ会だぞ。戦犯中の戦犯だ」
「流れは変わっています。中心メンバーでなかったあなたなら大丈夫です」
「少し考えさせてくれ。いろんな人に相談したいんでな」
ホーランド予備役中将が承諾したのは、三日後のことだった。ルグランジュ大将の一言が決定的だったようだ。
英雄になれなかった男は、第一一艦隊司令官として現役に復帰する。奇しくも前の世界で率いた艦隊と同じ艦隊を率いることとなった。違うのは敗北を知り、地の底を知っているということだ。翼を失ったグリフォンは四本の足で地を歩く。その先に何があるのかは誰も知らない。
新版を作った最大の理由の一つは、このエピソードでした。本来は要塞VS要塞の後に入れるはずだったのですが、伏線が足りなさすぎることに気づき、ホーランドとの絡みを増やす必要を感じました。また、要塞VS要塞の後では遅すぎました。長年温めていたエピソードを披露することができ、喜びに堪えません。