出会いは八月の暑い夏の日の朝だった。
彼が舞鶴に着任して数日が経った日の朝、目を開けるとカーテンの隙間から光が射し込んでいた。起き上がろうと床に手を付こうとして、ふわりとした柔らかい弾力が返ってきた。
「ん……?ああ、そうか……」
確か新しく新設された舞鶴の鎮守府、その提督に任命されたんだった。寝ているのも、今までとは違い柔らかなベッドの上だった。
「意外……だったな。てっきり海で死ぬものだとタカをくくってたのに」
言葉が、八月の海に消えていった。気温はこれから午後になるにつれドンドン暑くなるはずだ。今の内に出来るだけの事をしてしまわないといけない。
「えっと……まずは何をするかな……」
確か元帥殿の話によれば、そろそろ初期艦を一人、呉から寄越してくるとのことだった。ならば、まずは……まずは……
ダメだ、頭が回らない。ここしばらく船に乗っていないせいだろうか、妙に頭が重たい。そんなときだ。ぐぅ~と間の抜けた音が聞こえてきた。
「何の音だ?」
耳を澄ましてみる。また聞こえてきた。音源は……
「私の腹だ」
はて、なんで腹からこんな音が……そんな簡単な答えに行き着くのに、大分時間を使ってしまった。
「取り敢えず、朝飯でも作るか…」
弱りすぎだろ、私。
※
この土地にやってきて一週間。手続きやらなんやらで誰もいない鎮守府で、誰とも喋らない日が続いた。今のところは、鎮守府に予め備えてあった備蓄で命を繋いでいる。しかし、
「そろそろ補給をした方がいいか……」
冷蔵庫にはロクな物が入っていなかった。卵とベーコン、それに牛乳。後はカビが来ないように入れておいた食パンが二切れ。
取り敢えずベーコンと卵取り出す。そして、フライパンに入れて適当に焼く事にした。
「確か塩は……」
厨房の棚を適当に開いていく。が、塩どころか調味料の「ち」の字すら見つからない。
「拙いな……このベーコンあんまりいいやつじゃないから、染み出る脂で焼いてもあんまり味が付かないんだよな……」
棚をひっきりなしに開けていく。彼女がこの鎮守府に着任したのは、そんなときだった。
「あ、あの……」
背後から声をかけられた。振り返る。そこには、黒髪の少女がいた。
「あなたが司令官ですよね?」
「そうだが……」
「私、本日付けで呉から異動になった--」
「ふーん……あっそうだ、丁度良い。君、塩を探すのを手伝ってくれないか?」
すると、何か戸惑ったような声が返ってきた。
「し、塩ですか?」
「ああ、一応最低限の調味料は揃えてあると言われたのだが見つからない。早くしないと卵が鶏の餌になる」
「あ、え、えっと……解りました!」
突如現れた見知らぬ少女と塩を探すこと三分、
「有りましたよ、司令官!お塩です!」
「ん、ありがと」
塩の詰まった瓶を受け取ると、フライパンに向かう。
「じ、じゃなくて!あの司令官、私は呉鎮守府から異動してきた--」
「ふーん」
話半分に卵に塩を振りかける。
「ん、いい塩だ。君も舐めてみるか?」
「結構です!それより私の話を聞いてください!」
話……ああ、そうか。うっかりしてた。
「ごめんごめん、大切な事を聞くのを忘れてた。君、朝ご飯は和食派、洋食派?」
「へ?」
「今作れるのがベーコンエッグしかないんだけど、和食派なら卵焼きに変えようかと思って。いや気が回らなくてごめんね」
幸いなことに牛乳だけはある。
「そう言うことじゃなくて……い、いえそれ以前に司令官の手を煩わせるなんて出来ません!」
「へ?何か問題ある?」
俺は真顔で聞いていた。なぜか、俺の隣にいる少女も真顔になる。
「……あなたはこの鎮守府の司令官ですよね?」
「ああ、そうだけど?」
「つまり鎮守府で一番偉い人ですよね?」
「そうなるな」
「……。部下の食事の為に上官の手を煩わせるなんて出来ません!」
「おお!」
今気付いた。
「今気が付いたんですか!?」
愕然とする黒髪の少女。
「いや、すまない。どうも低血圧なもので……後で冷水浴でもすれば頭がシャキッとするはずだから。今は勘弁してくれ」
「は、はぁ……」
「で、話を戻すけど。和食派?洋食派?」
暫く黙っていた少女だが、一度諦めたような溜め息を吐くと「和食でお願いします」と答えた。何やら「これが噂の死神ですか……」と落胆していたが……何かあったのだろうか?
「ん?そう言えば……」
ふと気になって、俺はその少女の方を向いた。
「君は……誰だ?」
※
二人で食事を終えた後、司令官は「冷水浴してくる」と言って執務室に消えていった。少女は10分後に執務室に来るように言われて、自己紹介もそのときにとのこと。
「なんと言うか……噂と大分違う方ですね……」
誰に言うでも無く、と言うか司令官がいないので独り言を言う。
「死神のように強く、恐ろしく頭の切れる人と聞いていたのに……」
実際は、せっかくの綺麗な銀色の髪をボサボサの延ばし放題にした、だらしない青年風の提督だった。ただ、彼が作った卵焼きは、材料が無いにしては良く出来ていた。中は少しとろみがあって、甘くて美味しかった。思わず「お代わり!」と言いかけてしまった。
「い、いけない!こんなことじゃ!」
私がしっかりしなきゃと頬をぺちぺち叩く。
そして、そうこうする内に約束の時間になった。提督の執務室は鎮守府の奥にある。少女は真っ直ぐ鎮守府の廊下歩いていった。舞鶴の鎮守府はまだ提督と少女以外の人間がいないので、不気味なくらい静かだった。
「ふふ……確か呉でもお姉ちゃん達と一緒に歩きましたっけ」
初めて歩く鎮守府の廊下。なのに、少し前まで少女が歩いていた鎮守府の面影が重なる。
「っ……!駄目だ、私がしっかりしなきゃ!」
おまじないのように頬を叩く。そして、遂に執務室のドアの前に辿り着いた。
「えっと……ここでいいんですよね?」
扉には「執務室」と書かれたプラカードがぶら下がっている。まず間違い無いだろう。
コンコンとドアを叩く。直ぐに声が返ってきた。それは
「うむ。入れ」
と、呉で聞き慣れた横柄な声ではなく、
「うん、ぴったりですね。入って大丈夫ですよ」
「……へ?」
さっきまでのだらしない司令官のものとは思えない、涼やかな声だった。
そこにいたのは、キリッとした人物だった。ボサボサの髪は上手い具合に整えられていて、顔にへのへのもへじを書いたような表情は、
「立ち話も疲れますし、ソファーにでも座って下さい」
柔和なお面が被さっていた。
「あ、あれ……?」
そのあまりもの変貌に声を挙げる。
「どうかしましたか?」
「いえ、その……最初見たときより大分印象が違っていて……」
そこまで言ったあとに、それが失言だと気付いた。
「す、すみません!」
「いえいえ、良く言われますよ。寝ぼけている状態だと、どうやら私はただの自堕落な若造にしか見えないらしいです」
朗らかに笑う提督。それはさっき少女が食堂で見た人物とは、似ても似付かなかった。
「よっ」
と、少女の対面に座る提督。
「さっきは恥ずかしい所を見せてしまいましたね」
改めてと、提督が自己紹介する。
「私が当鎮守府の司令官兼提督を任された者です。階級は少将……と言っても実質的権限は大佐止まりですが」
それから彼は、少しだけ自分の身の上を話した。山奥で育ったこと、目がいいこと、自分が物凄く朝に弱いことなど。
「もしかしたらそれで何か迷惑をかけてしまうかもしれませんが、その時はフォローして下さいね」
「……」
「あの、もしもーし?」
何やら上の空でボーと上官の顔を見つめる少女。暫く提督が笑いながら少女の目の前で手を降り続けて、
「……はっ!う、うわわわわすいませんすいません!」
漸く意識を取り戻した。
「気にしなくていいですよ。呉から舞鶴まで結構距離が在りますし、疲れてしまっても仕方ないですからね」
ごめんなさいごめんなさいと謝る少女を笑って宥める提督。
「まあ、この件はこれまでということにしましょうよ。それより私にばっかり喋らせないで、君の事も話してくれませんか?」
その言葉に頷く少女。その口から少女の名前が放たれた。
「三日月です。どうぞお手柔らかにお願いします」
それが、彼が初めて手にいれた、最初の家族だった。
三日月、三日月と言葉を口の中で確かめる。それにくすぐったさを感じて、思わず頬を赤くする。
「三日月……確か二水戦にも属した……」
「そうです!」
どこか誇らしげに頷く。でも直ぐに顔を曇らしてしまった。
「二度目の生を受けてからはあまり活躍出来ていませんが……」
前に三日月が居た呉の提督は睦月型駆逐艦よりも特駆の錬度を上げることに集中していて、三日月達睦月型駆逐艦は基本的に遠征にしか出たことがない。
(う……がっかりさせちゃいました?)
顔を伏せ、恐る恐る提督の顔を見る三日月。提督は……何かを考えるように少し指を口に当てていた。暫く無言の時間が続く。やがて、
「つまり……まともな実戦訓練は受けていない、ということですか?」
「はい……睦月型駆逐艦は性能が低いから幾ら育てても無駄だと言われて……」
「うん、そうか……」
また少し考え込む提督。
(また……この鎮守府でもお役に立てないのでしょうか……)
その口から次なる言葉が出るまで暫く時間がかかった。
「えっと、三日月」
「は、はい!」
「良ければ私の戦闘訓練を受けてみませんか?」
その言葉に、暫し三日月は固まってしまった。
「訓練……私が、ですか?」
「ええ、一応私もある程度の海戦は渡ってきたので、少しは力になれると思いますが……」
これでも死神と呼ばれてるんですよと、細い腕になけなしの力こぶを作ってみせる。
「いえ、それはっ……その……嬉しいのですが……」
少しなんて悪い冗談にしか聞こえない。死神の名前は艦娘達の間でも驚く程に広まっている。呉に居た頃は、戦艦の長門が楽しそうに彼の戦果を数えていた。もっとも、その分彼女の上官の顔も渋くなっていったが。
「何か問題でも?」と不安げに三日月の顔を見る提督。
「あの……私、特型駆逐艦の皆さんみたいには戦えませんよ?」
「そうですね」
「だったら……他の、吹雪さんみたいに高性能な艦娘を優先した方が……」
そこまで言ったとき、提督が困ったような顔をしているのに気付いた。
「いえ、その嫌というわけじゃなくて!」
途端にぱあっと表情を明るくする提督。
「ほ、本当にいいんですか?」
「ええ、呉の下手くそに汚されてない艦が一人手には入って嬉しいばかりですよ」
「下手くそって……」
確かにあそこの提督の評価は低かった。呉の提督が「戦果を挙げられない役立たずのお前は舞鶴の地に左遷だ!」と言った日には青葉が「三日月ちゃんまさかの栄転!?新しい提督はなんと“あの”死神か!?」という見出しの新聞を発行していた。
(お陰で長門さんが“私も行きたい!”ってだだこねてましたけど……)
「あんな艦娘との適合数が高いだけが取り柄の飾り物と一緒にしないで下さいね」
(仮にも中将まで登りつめた人に対する発言じゃないですよ!?)
「大体あいつは軍学校時代から父親の階級を盾に威張り散らして、挙げ句の果てに……」
何やらぶつぶつ怖いことを言い始める。
「……おっと。ごめんなさい、怖がらせてしまいましたか?」
「いえ……その、胸がすっとしました」
「すっと?」
その予想外な言葉に、眉を寄せる提督。
「ええ……私や姉妹達は、その……性能が低くて……それで大分苛められていましたから」
その言葉に、痛ましげに顔を歪める提督。しかし直ぐに、顔にいつもの笑顔を無理やり貼り付けた。
「成る程……なら、他の姉妹艦のみんなも近々舞鶴に来るかな?楽しみですね」
「そうなのですか?」
「私にしてみれば横須賀の提督も呉のと見分けがつきませんし。どうせ、あそこの提督も睦月型を使いこなすだけの器は持ってないですよ」
「それ、外で言っちゃ駄目ですよ?」
そうたしなめる三日月。
「なら私と三日月だけの秘密ですね」
いたずらっ子のように笑う提督。その笑顔に、三日月は自分も笑っていることに気付いた。
(何日ぶりでしょうか……こんな風に笑ったのは……)
ダンボール箱から本と紙を取り出す提督を見る。
(死神……名前に反して凄く優しい方です……)
少なくとも、呉に居た提督より物腰も柔らかくて、些細なことも笑って許してくれた。試しに聞いてみる。
「司令官?」
「はい?」
「司令官は部下にもこんな風に話しかけるのですか?」
「ええ、あんまり女性や子供、部下は怖がらせたくないんですよ」
相変わらずの優しい笑みを浮かべながら三日月に話しかける。
(この司令官……本当に上官らしくないです)
だが、その分だけ優しさが滲み出るようだった。
(きっと、死神というあだ名も何かの誇張表現何でしょう……)
が、後に知る。死神という表現は何の誇張でもなかったことを。そのあだ名は見た目や風貌ではなく、純粋に戦果を評価されただけのことだということを。
「それじゃあ早速訓練……と言っても、まだ艦がいないので座学になりますけど」
「はい、お任せ下さい!」
「では……
ありとあらゆる陣形、細かなモノも入れますが取り敢えず300パターンほど覚えて貰いましょうか」
はい?と笑顔のまま固まる三日月。
「あの……司令官?」
「ん?」
「6の間違いですよね?」
恐る恐る尋ねる三日月。
「いえ、輪形陣一つとってもその時の状況……例えば潮の流れの向きや強弱、波の高さ、天候、敵の構成、こちらの構成、もしくは損害状況など加味すれば対処マニュアルは300では効きませんよ?」
彼は言う。300など序の口だと。
「取り敢えず300覚えれば敵の一手先までは読めますからね」
「へ、へえ……因みに司令官は何パターンほど覚えているのですか?」
「さあ……800までは数えたことがありますけど……」
800…八百……はっぴゃく……頭の中でそいつらがステップダンスを踊る。
「もしかして、司令官って敵の行動をマニュアル化してたり……」
「いえ、何回か闘ってたら深海のしたいことがなんとなく解るようになってきて……それで試しにマニュアル化してみたんですよ」
今では、いつどこで、どんな目的で敵が砲撃したり魚雷を打つのかが解ると話す提督。
「ああ……この人、やっぱり死神です……」
机に連行される傍ら、それが三日月が思った最後のことだった。
その晩、執務室の灯りが消えることは無かった。