一子が目を覚ますより早く異変に気づいた俺は、穏やかな表情で横たわる婆さんの体がひやりと冷たくなっている事実に、覚悟はしていたものの暫し呆然とした。
昨晩の和やかな思い出話がまるで遠い過去のように感じる……婆さんは最後の思い出を………一子の心に残される自分の最後を、暗く悲しい物にしたくなかったのだろう。燃え尽きようとする命を悟りながら、最後まで一子の親たらんとして、その役目を全うしたのだ。
「全く、最後まで格好いいじゃねえか…婆さん」
どこか満足げにも見えるその死に顔を眺めながら、一子のこれからについて考えを巡らせる…婆さんの心意気を無駄には出来ない。兄貴分として俺には一子を守る義務がある。次第に登り始めた日の光を背に受けながら、俺は早速行動を始めた。
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「………では、私はこれで。この度はお悔やみ申し上げます。」
「ありがとうございました、先生。」
診断書を受け取ると、改めて婆さんがもうここに居ないという事実が突きつけられたように思える。無論医師だってこれが仕事なのだから、仕方ないと言えば仕方ないのだが。
身辺整理やら何やらは駆けつけた親父と共にある程度済ませた。こんな事で“前”の知識が活かされるのには複雑な感覚だが、今はなるべく一子に負担の無いように最善を尽くさなければならない。
一番意外だったのは婆さんと川神院の鉄心さんに繋がりがあった事だ。遺言状には全ての支度が済ませてある事と、“鉄心に頼れ”という伝言が残されていた。早朝訓練に励んでいた鉄心さんに事情を伝えた所、葬式を始めとした様々な手続きを進めてくれた。
「今夜…通夜を執り行うでの、しっかりと準備しておきなさい。しかし…鶴ちゃんの奴、葬儀社まで選んどった。最後まできっちり支度しおるとは…」
「流石婆さん、どこかの親父とは大違いだ。」
「はっきり名指ししないでくれ忠勝…お年頃のガラスのハートは取り扱い注意なんだぞ…」
こんな時にも変わらず何時ものポーズを決める親父。その姿は傍から見れば情けない限りだが、事態が発覚してすぐに電話を掛けた時は、ボケッとした態度から一転、ものの数分で岡本家まで駆けつけて整理を手伝ってくれた。
「一子の負担にならねえようにってのもあるんだろうな…ホント、良い親しやがるぜ婆さんはよ。」
「…そんで、どうすんだ忠勝…一子ちゃんは。」
それ迄とは打って変わった神妙な顔で、親父はそう切り出した。こちらに向けた真っ直ぐな瞳は、“必要ならウチに連れてきても良いんだぞ。”と、そう告げている。
「それなら心配いらんわい、ウチが預かる。」
「……へえ、あの川神院で、ですか。」
「…婆さんの遺言にもそう書いてあった。こうなる前から既に話はつけてた…ってな。そうなんだろ?鉄心さん。」
「うむ。もう一月も前になるが、鶴ちゃんから手紙が届いての…お主らが居らん時を見計らって話をつけに行ったんじゃよ。一子ちゃんの今後と、自分の最後と…な。」
その時の事を思い出しているのだろうか、客間の窓から遠くの空を眺めて、ため息混じりに語った鉄心さん。婆さんとの交流はかなり長いようで、最近では合うことはめっきり減っていたものの、たまに手紙を送り合う仲であったとか。少し暗くなった空気を掻き消すかのように、親父はニヤニヤと性の悪い笑みを浮かべて俺の方を向いた。
「…残念だったな、忠勝。マジもんの妹に出来なくてよ」
「るせぇよ!………婆さんが決めた事だ、俺は何も言わねぇ。それに川神院なら俺らの所に来るよりも、よっぽど安全だ。モモ先輩も居るし、一子も全く知らない場所じゃない。」
「ワシとしてはモモが一番不安なんじゃがのう…」
話を聞くに、鉄心さんは実の孫であるモモ先輩の戦闘衝動を危惧しているようだ。だからこそその気質が巡り巡って一子を傷つけないか、不安が過ぎると言う。
「まあまあ、案外姉として一皮むけるかも知れないですよ?妹に恥ずかしい所は見せれない…ってな感じで」
親父もさり気なくフォローを入れるが、その顔は微妙に引きつっている……なにせこの川神では、モモ先輩の伝説的(悪い意味で)な噂に事欠くことは無いからだ。
「ふぉっふぉっふぉ……だと良いがの。」
独りごちる鉄心さんの背中は、やけに煤けて見えた。
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アタシが起きたのは、もう全てが終わった後だった。目を覚ましたら、布団が2つ足りなくて、寝ぼけ眼をこすって部屋を見ていたら、なんでか無性に胸がざわついて、居間に駆け込んだら、たっちゃんが驚いた顔でこっちをみて、台所から何時ものお婆ちゃんの声が…………聞こえなかった。
「たっちゃん…………お婆ちゃんは?」
「………一子。まずは座れ。」
「うん……それで、お婆ちゃんは…?」
たっちゃんは今まで見た事ないような複雑な顔をすると、意を決したように目を細め、顔を引き締めた。そして、アタシの肩を掴み、しっかりと目を合わせて、こう言った。
「良いか、一子。婆さんは……婆さんは、死んだ。」
その言葉を聞いた瞬間、頭の中が真っ白になった。縁側で私の話を聞いてコロコロと笑うお婆ちゃんの顔が頭に浮かぶ。アタシは数秒固まった後、弾けるように立ち上がろうとする。それを抑え込むように、たっちゃんはアタシの頭を胸に押し付けた。
「落ち着け!一子!」
「いや!離して!お婆ちゃんは!お婆ちゃんはどこ!?」
「落ち着け!一子………“シャンとしろ!!”」
「……!!」
その言葉は、お婆ちゃんが落ち込むアタシに、張り手とともに送ってくれた言葉だった。“良いかい一子、シャンとしな!”と、目が覚めるようなお婆ちゃんの声がが頭の中で響いたような気がした。暴れる鼓動を無理やり抑えて、たっちゃんの胸の中で荒い呼吸を続けたアタシは落ち着きを取り戻し、さっきより幾らか力を抜いた逞しい腕の中からたっちゃんを見上げた。
「…落ち着いたか?」
「…うん」
「話、聞けるか?」
「…うん!」
「そうか、じゃあしっかり聞け一子。婆さんは………」
話し合いの後、アタシは客間で眠るお婆ちゃんと対面した。その顔はあんまりにも穏やかで、まるで今すぐ起き上がって挨拶してくれる気さえしてくる。でも、握った手は冷たくて、たっちゃんの言葉が頭をグルグル回って、アタシはお婆ちゃんがもうここに居ないって事を思い知った。
「お婆ちゃん、アタシがこの家に来てから、色んな事があったよね……昨日もいっぱい話したけど、話尽くせなくて、アタシついうっかり寝ちゃったんだよね、てへへ」
「お婆ちゃんってば、はじめてアタシが家に入るとき何度もやり直しさせたよね、“お邪魔しますじゃなくて、ただいまだろう?”…って。遠慮がちなアタシの手を強く握って、目線を合わせてさ……嬉しかったなぁ」
「お婆ちゃん、2週間に一回は必ずアタシの嫌いなピーマンのお料理作ってくれたよね、“ちょっとでも残したら次の日ご飯抜きだからね!”…って、おかげで嫌いなものなんて直ぐになくなっちゃった…」
「お婆ちゃん、様子見に来てくれたたっちゃんの事、いっつもからかってたよね、“おや、一子のボーイフレンドじゃないか、よく来たね”…なんて、アタシまで恥ずかしくなっちゃったじゃない!」
「お婆ちゃん、遠足の時すっごく可愛いお弁当作ってくれたよね。みんなと仲良く楽しめるようにって…わざわざ金柳街でレシピ本なんて買っちゃってさ…おかげでアタシのお弁当みんなに食べられちゃったじゃない」
「お婆ちゃんてば………お婆ちゃんてば、いつも笑ってるんだもん………アタシこんな時でも……お婆ちゃんの笑顔しか……思い出せないよ…ズルい……ズルいよ、お婆ちゃん……」
溢れ出す思いを抑えきれなくて、アタシはお婆ちゃんの眠る布団に顔を押し付けて、声を殺して泣いた。
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それから暫く経って、初七日を終えた俺達は川神院にて話し合いをする運びとなった。葬式を終えて数日の間一子と二人で過ごした岡本家は、婆さんに身内が居なかった為、このまま引き払う事になっている。
名残惜しげに引き戸を閉めた一子の背中を見ていたら、あの縁側から風鈴の音が聴こえてきたような気がした。驚いた顔の一子を見るに、アイツにも聴こえたようだ。婆さんに“辛気臭い顔すんじゃないよ!”と叱られた様な気がして、俺達は顔を見合わせてクスクスと笑った。
川神院の門前には既にそうそうたる面子が並び、俺達を待ち構えていた。川神院総代である川上鉄心とその孫娘、川神百代。師範代のルー・イーと釈迦堂刑部の4名が腕を組んで立ち並ぶ光景は、その身から溢れ出す気迫さえ感じ取ることが出来た。その姿を見た一子がビビって気後れしているのを見て、俺は一子がここでやっていけるか少し心配になってしまった。
「では、一子殿……いや、一子。これからこの川神院がお主の帰る家じゃ。不安や迷いもあるだろうが、ワシを始め皆お主が家族になるのを歓迎しておる。寄る辺を失い心が折れそうならばワシを頼れ。どうしようもないほど心細くなれば姉であるモモに精一杯甘えるが良い。ワシ達は、家族じゃ。」
「…はい!これから、宜しく……お願いします!」
「此方こそ、だ。ワン子……いや、一子よ!今この時よりこのワタシがお前の姉だ!何かあったらすぐお姉ちゃんを呼ぶんだぞ?すぐに駆けつけて一切合財一撃必殺で解決してやるぞ!」
「アタシもお姉様に負けないくらい立派な女になるわ!お姉様……これから宜しくお願いします!」
“よし〜よし、一子はカワユイなぁ〜”と猫なで声で一子を姫抱きしたモモ先輩を見て、俺のちょっとした不安はたち消えた。妹を可愛がる姉と言うよりはペットを可愛がるそれのような気がしたが、まあそこは置いておこう。
「うンうン、仲良きコトは美しキコト!これナラあの娘モ上手クやっていけそうダ」
「…………ハン…あの程度の才じゃ、どうなる事やら……面倒な事にならなけりゃ良いが……」
「コラー!釈迦堂!今はそういうコトは言わなイ!」
「へいへい、こりゃ悪うござんした……」
こうして、岡本一子は川神一子になった。