不幸な事故というのは往々にして起こりうるものである。
偶然であろうと誰かの思惑だろうと、災というのは容赦なく降りかかるものだ。例えそれが誰であろうとも。全能の神ですらそれは例外ではない。ヤドリギをぶつけられて死んだという不死の者のように、巨大な狼に食われて散った軍神のように、道化神のような者が裏で手ぐすね引いていようがいまいがその不幸をおっかぶった者にとっては災でしかない。
その少年も勿論例外ではなかった。
よくある若者の悪戯のようなものだった。結果的にその少年は命を落とす事となったが、誰が悪いというわけでもない。強いて言えば、運悪く窓の近くに立っていたという事ぐらいか。勿論押した側には悪意なんてない。それでも災は容赦なく少年の命を掻っ攫っていった。
だが、災が奪ったのは命とその身体だけに留まったようだ。
少年は俗に言う幽霊となった。怨念で動くような悪霊の類ではなく、其の辺にいる雑多な浮遊霊である。
当初少年は己の置かれた状況に首を捻ったが、直ぐに順応した。元々“成るようにしか成らぬ”的な思考だったので、のんびりとすることにした。
とはいえ身体の無い幽霊生活、食事をする事もできず、他者と会話する事もできない。悪霊なんかに下手に近づいたら自分が危ないというのは本能で察した。せいぜいたまに猫や犬に威嚇される程度である。
ここまではよくある話だ。本人たちにとっては笑い話にもならない、三流小説以下の話だ。
いつものようにのんびりしている彼に、ある男が近づいた。
彼は自らをただの暇な霊だと言った。
少年もどうせ暇だからと彼と話をすることにした。
彼が言うには「この退屈を潰したくはないか」、と。
少年はすぐに食いついた。
男は黄土色のパーカーを被っていて表情が伺えなかったが、笑みを浮かべているのは分かった。
男が言うには「幽霊でも生身の人間とコミュニケーションが取れるようになる場所がある」と。
そんな都合のいい話があるか、と一蹴すると、男はこう言った。
「俗に言う心霊スポットという奴だ」と。
成程、確かにテレビでよく見る心霊番組ではそういったものも多い。しかしこの近くにそんな所があっただろうか。
問うと、何やら地元の人間でも知らないようなマイナーな所らしい。
どうせ暇なのだからと少年は行ってみる事にした。
最後に男は「陰陽師には気をつけろよ」とだけ残して去っていった。
今のご時世でもそんな者がいるのか、と考えたが、まぁ会えば分かるだろうと深くは考えず、少年もまた、そこから去っていった。
それを眺めていた、日除けの傘を差した女性が男に声をかけた。
「よかったの?」
男は振り向かずに、何が、とだけ返した。
「あの場所を教えて。あそこが何か分かってるのでしょう?」
「当然。だからこそだ」
男は口元を歪めて笑った。
「下手を打てば取り返しのつかない事になるかもしれないのに?」
「オイオイ、らしくない心配だな。童心に返ったかァ?冗談は置いとくとして、あの程度でどうにかなってりゃ今頃お前はいないだろうな。」
それは貴方もでしょう、と女性が溜息を吐いた。僅かに昔のこと、男が言うような子供の頃ではなくともまだ世の中をよく知らないただの少女だった時の事を思い返した。無論今でも十二分に若いが、普通の人間とは比べようもない年月を重ねてきたな、と思うと若干気が滅入る。
「まぁ、結局はどんな結果になろうともそれも一つの確率事象だ。ところで紫こそいいのかよ、こんな所で油売ってて。そろそろ冬眠の時期じゃねーのか?」
「あら、そういえば。お暇する事にしましょ。……ああ、私も用事があったわね」
扇子で口元を隠しながら、紫と呼ばれた女性は呟いた。その用事が何なのかは気になったが、詮索するのも失礼だろうと思って男はそれ以上何も言わず、歩いて行った。その後ろ姿をしばし眺め、紫もまた何処かへと去っていった。
某所の廃神社、地元の人でも中々知らないというマイナー且つ一部の存在には有名な心霊スポットに、私ことマエリベリー・ハーンは来ていた。隣にいる親友宇佐見蓮子と共に、この神社を調べるためにやってきたのだ。
「いい、メリー?この神社は神隠しで有名な所よ。万が一にも私達がそうならないように、できるだけ離れないでいる事。現在の時刻は15時25分14秒。境界が見えたからって一人で歩いていかない事、いいわね?」
「私より誰かさんの心配をするべきじゃないかしら。何か見つけると興奮して一人で走って行ったり危険な物に首を突っ込みがちな誰かさんのね」
「あら、誰のことかしら?私には分からないわねー」
白々しい、そう思いながらも追求しない。このぐらいは日常茶飯事だ、他愛もない言葉遊び。とはいえ、気をつけた方がいいのは確かだ。
鳥居をくぐって境内に入ると、蓮子が空を見上げ、時間と現在の場所を呟く。蓮子は星を見れば現在の時間が、月を見れば現在の場所が分かるという便利な能力を持っている。ちょっと気持ち悪い眼だな、と思わないでもないけれど多分蓮子も私の結界の境目が見える目を気持ち悪い眼だな、と思っているからお相子だ。
「うん、場所に大きな変化はなし。行きましょ」
「今のところ境界も見えないわね。そういえば神隠しにあったって誰が伝えるのかしら。実際起こったら神隠しかどうかなんて分からないでしょうに。事実だとしてもその本人は神隠しに遭ってるっていうのに」
「簡単よ。神隠しがあった、って言いふらす事ができるのなんて二人しかいないじゃない」
蓮子は得意げな顔で説明する。この表情が好きで、私はよく蓮子に質問を投げかける。けれども一番好きなのは何かを考え込む仕草で、故に私はこれは解けないだろう、という問題を見せたりする。とはいえ、それが上手くいく事は中々ないんだけど。今回はどんな答えだろうか。
「神隠しの実行犯と被害者よ」
「蓮子、なんで被害者が伝えられるの?」
「戻ってくればできるじゃない」
「戻ってこれない前提じゃないの、神隠しって?」
「チッチッチ、甘いわねメリー君。大概の物事には例外ってもんがあるのよ。確かに普通の人間じゃあ戻ってはこれないでしょうね、実行犯の気まぐれでもなければ。でも」
「もし被害者が普通の人間でなかったら?」
「そういうこと。例えば私達のように何か特別な力を持ってたり、とかね」
だからといって私達は戻って来れる、というワケではないのだが。だがそう考えると、少なくとも“普通の人間“ではない存在がこれに関与している可能性は高いのだろう。即ちそういった事に使う境界を見つける可能性も高い。
「って言っても、それが普通の神隠しだったら、だけどね」
「普通じゃない神隠しなんてあるのかしら?」
「さぁ?それは分からないわね。兎も角、この神社は普通じゃないらしいわ」
普通普通と言いすぎてなんだか普通の定義がわからなくなってきた。それは兎も角として、何が普通じゃないのだろう。
「この神社で神隠しに会うと、時間を超えるらしいわ」
「そうなの。それで?」
「時間を超えるらしいわ」
「二回言わなくていいから。それで?時間を超えるっていうのは?」
またも得意げな顔になって、蓮子はこう言った。
「言葉のとおり、違う時間軸に飛ばされるらしいわ。未来か過去かは分からないけれどね」
「……へー」
「あっ、何よその目。信じてないわね?」
「だってそれ、このあいだカフェでたまたま同席した人が言ってた噂話じゃないの。それなら私だって聞いてたわよ」
「あ、そうだった。でもねメリー、噂話の中に真実が混ざってる事は宝くじが当たるよりも多いのよ」
「つまりはそれ程高くも低くもないワケね。そういえば、何て言ったかしらあの人」
「名前までは聞いてないけど、あの格好は特徴的だから覚えてるわ。屋内でも帽子を被ってて、黒いコートを着てて、それから」
「待って蓮子、もしかして貴方私が覚えてないとでも思ってないかしら?」
「念の為よ。仮にあの人が実行犯なら、認識の齟齬がある可能性も否定できないじゃない」
確かにそうなのだが、神隠しを行うようなたいそれた存在がカフェで呑気に食事をするものだろうか。もぐもぐとサラダを食べていた姿からは想像もできない。美味しそうに珈琲を啜って、満足気な息を吐いていた彼が神隠しの実行犯だとしたら、何もかも怪しく見える。
「まぁそれは。兎も角、例え噂話でも、鵜呑みにせず、かといって無視もせずに必要な真実のみを選ぶのは大事な事なのよ。メリーの眼だって万能じゃないでしょ?」
「はいはい、私が悪かったわ。そろそろ行きましょ、いつまでも境内にとどまるのも、ね」
そう言って歩き出すと、蓮子が待ってと声をかけてくる。まだ視界に入っているのだから見失いはしないと思うのだが。一瞬立ち止まって、蓮子が横に並ぶのを待って再び歩き出す。
「賽銭箱は……壊れてるわね。お参りしておけば神隠しに遭う事もないかと思ったんだけど、当てが外れたわね」
「そもそもお賽銭を入れたとして、行き着く先は賽銭泥棒ね」
そう会話しながら辺りを歩くと、いかにも怪しげな森があった。
「あれ、森?地図には載ってないけど……」
「古い地図なんじゃないの?真っ直ぐ歩けば迷う事もないでしょ、行くわよメリー」
「あっ、ちょ、待ってよ蓮子」
スタスタと歩き出す蓮子。慌てて追う私。横に並びながら地図を確認する。別に古くもない、最新版のはずだ。首を傾げながら、何故かポツンと建てられた鳥居をくぐり、再度地図に目をやる。おかしい、やっぱりこの森は地図に載っていない。確かこういうのを知らせたら何かもらえなかっただろうか、そう考えながら視線は地図に向けたまま横に居る蓮子に声をかける。
「何回見てもないわ。この森、地図に載ってない場所よ」
返事がない。考え事でもしているのだろうか、だとしても声が聞こえないぐらい集中する事があるのだろうか。妙に焦燥感に駆られながら、私は横を見て蓮子に声をかけ――
「――え?」
られなかった。先程まで横に居たはずの蓮子がいなくなっている。
「ちょっと蓮子……悪戯にしても度が過ぎるわよ?出てきなさいよ……」
震える声をそう絞り出しても、返事はない。ギャアギャアと鳥の鳴く声と葉鳴りの音がやけに恐ろしく感じる。
「蓮子……蓮子!出てきてよ、ねぇ!」
ここで、ビックリした?などと暢気に彼女が姿を見せたらどんなに良いことか。その場合は蓮子が私に説教されるだけで済む。でももし彼女が――神隠しに遭っていたら?違う時間軸に飛ばされる、という言葉が浮かぶ。もしそうならば、彼女は今頃過去か未来――
「蓮子……出てきてよ、ねぇったら……」
急激に心細くなり、涙声になりながらもそう呟く。ああ、さっきまで楽しかったのに、何故こんな事に。
私の気持ちを代弁するかのように、ポツリポツリと雨が降り出す。激しくはないものの、視界を遮る程度には強く降っている。蓮子を探すにしてもまずは雨宿りをしなければ、そう思って来た道を引き返す。廃神社とはいえ、屋根がある分屋外よりはマシだろう。
先程もくぐった鳥居の下を全力で駆け抜け、神社にたどり着き――凍りついた。
「う、嘘……なんで……!?」
確かに廃墟と化していたはずの神社は、賽銭箱がなくなっているものの、全く崩れていない。おかしい、何かがおかしい。何かが先程までと違っている。
戸惑いと焦りと恐怖が綯交ぜになりながらも神社の中に入ろうとすると、何かの紋様が戸に刻まれている事に気がついたが、そんな細かい所まで気を回せずに急いで中へ入った。
中は薄暗かったが、明かりがなくともどうにか見渡せる程度の暗さだった。そこまで考えて、ようやくポケットの携帯の存在を思い出し、取り出した。
これで蓮子と連絡を取れるかも――その淡い希望は、無機質な二文字に打ち砕かれた。
「圏外、か……」
蓮子と連絡を取れない事がもどかしく感じ、建物の中をうろちょろする――
「あっ!?」
足元に置いてあった壺に気づかず、そのまま転んでガシャーン、と割ってしまう。しかも1つではなく、2つ。怪我はなかったものの、反射的に青ざめた私の顔をふと冷たい風が撫でた。そして。
『ようやく……ようやくだ……!』
「だ、誰!?」
青ざめた私の顔を更に青ざめさせる事が起きた。割ってしまった壺の中から、緑色の光を放つ何かが出てきたのだ。まずい、これは絶対良くないものだ。逃げなければ――
「あー、やっと出られた。ずっと壺ん中いたから肩凝ったな……って身体はないか。……ん?誰だ、お前は」
「ヒッ……!」
逃げられない。逃げたらこの蛇のような印象を抱かせる男は即座に私の首を食いちぎる、そんな予感があった。故に、震えながらも緑の髪をウニか何かのように逆立たせる彼の問いかけに答えなければならなかった。
「ご、ごめんなさい!私が壺割っちゃったんです!」
「……」
もうダメだ、彼が睨んでいる。お父さんお母さんごめんなさい、私はもう――
「……本当にお前が、この壺を壊してくれたのか?」
必死にコクコクと頷く。言い方に若干の違和感を覚えたけど、それについて考える前に、彼が手をこちらに伸ばしてきて――私の手を取り。
「ありがとう、マジで助かったわ」
「……え?」
「いや、だからな?オレ、この壺に封印されてた訳よ、クソッタレの陰陽師どもに。で、アンタが割ってくれたから晴れて自由の身ってワケだ。だから、ありがとう。なんか変か?」
なんだろう、怖そうな雰囲気の割にはどっちかっていうとチンピラっぽいというか、普通というか。兎も角、彼が私を襲う事はなさそうだ。
「あ、あの……」
「なんだ?恩人さんよ」
「貴方は何故封印されていたの?」
そうだ、まずそこだ。彼がもしとんでもない悪党とかだったら、そんな奴を解放してしまった私は一体どうなるのか。そもそも陰陽師ってなんだ、今の時代にいるのか。
「あー……まぁ、話せば長くなるが、聞く覚悟はいいか?」
頷くと、彼は忌々しげな表情を浮かべながら語りだした。
「事の始まりは、オレが知らない幽霊からこの神社の存在を聞いた事なんだが、あ、言い忘れてたけどオレ幽霊な。んで、ここに来れば生者ともコミュニケーションが取れるっていうから来たはいいが、人っ子一人いねぇ。仕方ないからその辺散策するか、と思って森の方を散歩してたら雨が降ってきてよ、慌ててここに引き返したらなんか陰陽師とかその他諸々がいてよ、話しかけようとしたら、禿げたジジイが俺を指して『アイツが禍を呼び寄せるから封印しろー』って叫んでさ。為すすべもなく封印されました、とさ。いやぁキツかったぜ、壺の中は。何もしてねぇのに言いがかりつけられて数百年も壺中生活だぜ?信じられねーわ。当然アイツらの事酷く恨んでな、何回も中で怨念が爆発したもんだ。でもそのやり場のない怨念が結局オレに戻ってきちまうから、どうしようもなくってさ。で、アンタが壺を割ってくれたからこうして出てこれた。いやー、先輩の言う事って聞いといた方いいのかな。マジで陰陽師のせいでこんな事になってるし。陰陽師には気をつけろって言われてたのになー」
「……」
喋りだすと彼はかなり饒舌だった。なんだか色々と急展開すぎる過去を聞かせてくれた彼は思い出したらまた腹が立ってきたのか唸っている。
ただ、私にとって聞き逃せない言葉があった。
「数、百年?」
「おお。時間間隔曖昧だが、少なくともそれぐらいは経ってるだろ。なんか見覚えのない壺とかもあるし」
「ちょっと待って、一ついいかしら。今は一体西暦何年なの?」
彼は押し黙って、考え込んだ。その口から発せられる答えを聞きたいような聞きたくないような、そんな予感がした。
「今が何年かってのも、そもそも――西暦なんてもんがあるかも分からねぇ」
「――」
目の前が暗くなった。なんてことだ、神隠しに遭ったのは蓮子ではなく私の方だったのか――急速に意識が薄くなるが、唐突な頭痛に呼び起こされた。
「痛っ」
「どうした?何か……おっと、そういえばアンタの名前を聞いてなかったな」
「あ、ええ……マエリベリー・ハーン、です」
「固くならなくていいぜ。で、何だって?マエ、ええと」
「マエリベリー・ハーン。メリーでいいわ。私の友達はそう呼んでる」
「メリーね、覚えた。で、どうすんだ?アンタは帰る所があるのか?」
「帰る、所……そんなもの、ないわ。私はきっと神隠しに遭ってしまった。ここが未来か過去かも分からない、いえきっと過去ね。賽銭箱はなかったけど、廃屋だったはずのここが綺麗になっているから。携帯が通じないのもそのせいなんだわ。帰る場所どころか、帰れるかも分からない!ひょっとしたらこのままここで暮らすか、それとも直ぐに死んじゃうかもしれないッ!私はッ……!ッ……どうしたらいいのよ!?」
帰る、と聞いて今の今まで押さえ込んできた恐怖や哀しみが堰を切って溢れ出す。感情は涙となって、言葉と共に止められない流れになって、ただ嗚咽を漏らし続けた。
彼は、それを黙って聞いていた。慌てるでも怒るでも訝しむでも慰めるでもなく、ただ黙って聞いていた。
それから暫く、ひとしきり思いの丈を吐き出した頃、彼が言った。
「ちょっと里に降りて、何か食いもん貰ってくるわ。食って、暫く休んどけ。そうすれば少しは落ち着くだろ、落ち着いたらゆっくり話してくれ。メリー、お前はオレの恩人だ。出来る事はなんでもやってやる、お前が元の時代に帰りたいなら手伝おう。オレに出来る事は何でも言え、オレが力になってやる」
彼は封印された、と言っていた。確かに彼からは邪気がにじみ出ている。だが、彼の身の上話を聞く限り、その変質の原因は封印された事による強い怨みだろう。兎も角、彼が今現在分類されるのは、俗に言う悪霊。強い怨みを持ち、人に害を成すという悪霊。だというのに、彼はそうとは思えないほど優しかった。恩があるとは言っても、たったそれだけの事なのにここまで言うぐらいには。彼の優しい嘘かもしれない、そう思いたくはない。
雨が降る中出ていこうとする彼を見て、私は反射的に叫んでいた。
「待ってッ!」
「……どうした」
ビクリと驚いたものの、優しげな笑みを浮かべて、彼は私の言葉を待ってくれた。
「……私も、私も行く。一人に、しないで」
「……勿論、メリー」
そう言って私の手を取り、彼は歩き出した。
ありがとう、と先程彼に言われたが、今度は私が言う番だな。そううっすらと考える。
それから数十分後、里に降りた私達は民家の戸を叩いていた。家屋の造りを見る限り、やはりここは過去で間違いないようだ。
ただ、妙な事があった。
「おかしい、人がいない」
「雨なのに出歩いてるのかしら、でもこれで4件目だわ」
そう、人がいないのである。今の時間は夕暮れどき、住民が出かけているのだとしても、そろそろ家に帰る子供の姿や食事を作る主婦の姿があってもおかしくないはずだ。
そう考えながら、広場に出ようとした時――正面を歩いていた彼に強く肩を押され、たたらを踏む。そういえばまだ名前を聞いてないな、と思いながら私は声をかけた。
「どうかしたの?」
「……メリー、神社に戻れ、今すぐにだ。こっから先に進むんじゃねぇ」
そう低い声で囁かれ、ちょっとムッとした。一体何があるというのだ。
彼を押しのけて覗こうとするが、やはり阻まれる。よく見ると彼が脂汗をかいている。幽霊でも汗はかくのか、と思いつつどうにか広場を見ると――
「ッ、バカ野郎!」
「――え?」
視界に映ったのは一瞬だったが、一瞬見えたのは、真っ赤な血溜まり、そこら中に転がっているどう見ても生きているとは思えない程度にバラバラになっている人の身体、そして――紅く染まった刀を手に持った、白髪の男の後ろ姿。
「っきゃあああああああああああああああああああああ!!?」
「クソッ!なんで見やがった!」
私の眼を手で塞ぎながら、彼が怒鳴りつける。
「誰だ」
白髪の男、恐らくはこの惨状を引き起こした犯人が振り向いて嗄れた声を発した。その平々とした声が返って恐ろしく、鋭い悲鳴を上げていた私も押し黙ってしまった。
彼が私を後ろに庇いつつ、男に応対した。
「悪いな、アンタをどうこうしようって気はない。直ぐに立ち去るよ、オレ達は旅の者でな、ちょっと立ち寄っただけだ。見逃してくれないかね?」
「否。うぬらは旅の者ではなかろう。そも、剣を極めんがために人斬りとなった我も、悪霊を見逃すワケにはいかぬ。そこな女のみ、見逃そう」
剣を極める?たったそれだけのために、こんな事をしているのか、コイツは。深い怒りに囚われそうになるが、あの剣鬼から滲み出る重圧は半端ではなく、怒りも恐怖も何もかも斬られてしまいそうだ。見逃すと言われた事にも気づかず、私は震え続けた。
「そうかよ。んじゃメリー、オレは見逃せないらしいがお前は大丈夫だそうだ。さっさと行きな」
「待って……待ってよ、貴方はどうするのよ……!?」
「見逃されないんなら、戦って勝つしかねぇだろ。心配すんな、オレ様は幽霊なんだぜ?そう簡単に斬られるワケねーっつの。オラ、行けよ……早くッ!」
「ッ……!」
大声で怒鳴られ、ようやく私は動き出した。神社に向かって、一直線に。
「……それでいい、お前はまだ生きてるんだ。こういうのはオレみたいな奴だけで充分だ。お前は、生きろ」
「別れは済んだか」
「わざわざ待っててくれるたぁ親切だねぇ。親切ついでに見逃してくれると嬉しいんだが」
「それはできん」
「ハッ……そうかよ。だが、オレは幽霊だ。簡単に斬られてはやらねぇよ」
「我は未だ時を斬る事は叶わぬが、実態の無いモノを斬る事は容易い。悪霊よ、名はなんと言う」
「……忘れちまったよ、そんなもんは」
「フ……そうか。奇遇だな、我も剣の鬼として生きている間に、真名を忘れてしまった。名無しどうし殺し合うのも面白かろう……もっとも、うぬでは我に勝つ事は出来んがな」
「ケッ、言ってくれるぜ。言っとくがな、狩るのは俺で狩られるのはテメーだぜ、おっさんよォ!」
「来い、悪霊よ」
私は神社の中でガタガタと震えていた。雨に濡れた事による寒さよりも、強い恐怖によって。
怖い。あの男が、この世界が、蓮子のいないこの世界がどうしようもなく恐ろしい。蓮子がいないというのは彼女にとっては救いだが、私にとっては不安を加速させる要素だ。
一体いつの間にこの時代へと飛ばされていたのだろう。気づかないうちに境界を越えてしまったのだろうか。蓮子、蓮子に会いたい。あの退屈だけど平和な時代へ戻りたい。こんな夢は見たくない、夢であってくれれば目覚める事もできるというのに。
彼はどうなったんだろう。私一人を逃がして、彼は留まった。まだ名前も知らない彼を、私は見殺しにした。幽霊なのだから見殺しも何もない、そう思えたらどんなに楽だろう。
彼もあの剣鬼に恐怖していた。だというのに、私を逃がした。本当は自分も逃げたかっただろうに、壺を割っただけで恩人と呼んで、私の力になると言ってくれた彼を、私は置いてきてしまった。
良いのか?本当に。まだあの剣鬼と相対しているかもしれない彼を本当に見捨てても。
だって、どうしようもない。私がしゃしゃり出た所で殺されるだけだ。それは彼の意思を無駄にする。
本当にそうか?何かできる事があるんじゃないか?
うるさい、私なんかに何が出来るっていうんだ。あの鬼にも彼にも怯えていたちっぽけな自分に何が。何もできないだろう。
何もできない?本当に?せめて彼を応援するぐらいは出来るんじゃないか?
馬鹿か私は。応援なんて言って出て行ったらどの道死ぬ。無駄な事だ。
確かに死ぬだろう、でもそんなのは遅いか早いかぐらいの違いしかないんじゃないか。だったら賭けるのも悪くないじゃないか。
賭ける?何に?
無論、アイツを倒して彼を助け、自分も助かるという最“善”に。それとも賭けずに彼が消え、自分も死ぬという最“悪“を黙って待つのか?
冗談じゃない。そんな最“悪“はごめんだ。しかし、賭けると言っても何を賭け金にしようというのか。
BETするのは自分の命とちっぽけなプライドだ。どうせなら彼と一緒に勝ちの二文字に賭けてみようか。
そう簡単な話ではないんだ。賭ける目を間違えれば最“悪”へと繋がってしまう。それだけはごめんだ。
どの道動かなければ未来はない。
覚悟を決めろ、マエリベリー・ハーン。
たった一人、数百年も一人ぼっちだった彼を。
この時代に投げ出されたちっぽけで愚かな私の助けになってくれると言った彼を。
自らの身も顧みず、私を逃がした彼を。
あの粗暴な雰囲気からは想像もつかないような、優しい笑みを浮かべた彼を。
助ける、否。ただ、共に在るために。
恐怖を乗り越えなければならない。恐怖に打ち克たなければならない。
ふー、と長い息を吐いて、柱に思い切り額をぶつける。痛い。でも、気合は入った。
行こう、彼の所へ。