「……いってェな、オイ。生きてるか?」
「……なんとか……」
「一応ね。で、あの子は……いないみたいね。最初からこれが目的だったのかしら」
地面に転がっているのはいつもの黒一色の衣装を纏った狭間。その上に折り重なるように、紫と男が倒れている。山を下りようとした際、一人の少女に突き飛ばされて三人は山道を転げ落ちていったのだ。咄嗟に狭間が自分の身体を使い、二人の身体を覆い込むようにして守った為二人に大きな傷はない。狭間もその程度で支障が出るような身体ではなく、ピンピンしている。やがて勢いが弱まり、今ようやく滑落が止まった所だ。二人がどくのを待って立ち上がると辺りを見回す。紫の言葉通り、件の少女はいない。男が持っていた荷物と共に、消え失せていた。
「さてな。直接聞かねば分からぬだろうが、既に影も形もないときた。……やれやれ、帝に何と言って報告すればよいのだ」
「オレ達も説明しなきゃだよなァ……ああメンドくせェ、やっぱりアイツ殺してすぐさっさと下山しておくべきだったか」
「今更そんな事を言っていても何も変わらないわよ。兎に角今は都に帰りましょう、二人とも」
三人がこうして重い身体を引きずりながら帰路に着く数時間前――
「蓬莱の薬?」
「ああ、永琳が残した不老不死の薬らしい。使わないのが分かっていても、もしかしたら……って思ったのかもな。で、案の定輝夜に会えないのでは意味がないといって受け取り拒否だとよ。その薬を処分する為に霊山の火口に投げ入れて来て欲しいって依頼だ」
「山の火口にねぇ。映画であったわね、そういうの」
「ありゃ確か指輪だったか?道中で一大スペクタクルが巻き起こる訳でもねェだろ。それにいざとなったらオレ達だけで空路で運べばいい……と言いたいところなんだが、帝直属の者に運ばせるから護衛だけでいいそうだ。運んで処分するのもオレらだけでいいのによ」
「まぁ、そうしたら事情を知らない者がとやかく言うんじゃないかしら。途中で逃げて自分達が飲んで不老不死になるつもりだー、とか言って」
「無為に不老不死なんざ得たって一銭の得にもならねェっつの。人間辞めて初めて浅ましさが分かるっつゥのもなァ」
「……そうねぇ、人間なら兎も角私達が飲んでもあまり意味はないものね」
何か引っかかるものを感じた狭間は一瞬眉を顰めたが、直ぐにそれを消して言った。
「んじゃ、依頼受諾してくるぜ。それと……調子悪いなら言えよ、オレ様一人でも充分なんだからな」
「はいはい、私は大丈夫だからいってらっしゃい。……全く、心配性なんだから」
親しい仲でなければ分からない程度だが、微かに心配そうな顔をした狭間は帝の所に戻ろうとローブを翻して歩き出す。その背を見つめながら、紫はポツリと呟いた。
「……人間なら、か……そういえばあの子は、もし不老不死になれる薬があったら飲むって言ってたっけ……」
数日後、蓬莱の薬の運搬を任されたという男が挨拶に来た。男は岩笠と名乗り、ある程度の事情を知っている事を語った。岩笠と共に都の外へ出ると、岩笠の部下が数人壺と共に待っていた。部下達は狭間と紫に怪訝な眼を向けたが、岩笠に二人の立場を説明されると、幾人かはそれを改める。が、「そこらのごろつきと変わらん癖に」と呟いた者が居たのを、二人は聞き逃さなかった。帽子に手を当てつつ、あまり歓迎されていないようで、と狭間が冗談めかして言うと、岩笠は部下の非礼を詫びた。岩笠はある程度は信用できるな、と考えた狭間は気にしていないと告げた。
さて、到着までに数日掛かったものの、山までは大したアクシデントもなくたどり着く事ができた。問題はその山道だ。当然ながらこの時代、道がアスファルトで舗装されたりはしていない。つまるところ例え荷車を引いて進むにも道がデコボコしていたりして非常に進みづらい。薬の入った壺が落ちたりしないようにしっかりと抱え込みながらゆっくりと坂を進み、獣が飛びかかったり妖者がちょっかいをかけてこないよう気を配る。困難というよりも、ひたすらに面倒なのだ。そもそも登山という形式上、この霊山の急な勾配を進まなければならない。そう簡単に身の危険が訪れない狭間達と違い、岩笠達はふとした弾みで命を落とすかもしれない恐怖に怯えているのかもしれない。そういったところも含め、こんなのよりも暴れまわっている方が気が楽だ、と狭間は周りに聞こえないようにぼやく。狭間にこういった事は向いていないと思うのだが、と紫は呟く。しかし、考えてみればあの頃からずっと紫を護ってきたのだ。向いていなくとも、面倒であろうとも。なんだかんだ言ってやると決めたなら最後までやり通す男だ。狭間のそういった所を、紫は何となく嬉しく思っていた。
ある程度山を登ると、段々と木々も低いものばかりになり、更には植物すらなくなって岩ばかりとなっていった。身を隠す物が殆どなくなりようやく。事ここに至って狭間はようやく、背後を尾行している何者かの存在に気がついたのだ。最初こそ警戒していた狭間だが、その何者かが少女だと気づくと、加えて言うなら妖怪の類ですらないただの人間の少女だと気づくと、チラチラと気がかりそうな表情で背後を伺うのだった。トゲトゲした態度を見せつつもなんだかんだ子供に甘いのがこの男だ。普段の依頼でも子供の妖怪などは殺したがず、追い払って済ませる。これがあの傍若無人な蛇だったか、と笑い転げたくなるくらいだ。
そして、そんなに分かりやすく気にするものだから紫や岩笠も気づいてしまった。
それは山を八合程登った頃だった。
疲れ果てて座り込んでしまった少女の下まで引き返した岩笠は、水を彼女に手渡した。少女は酷く驚いた様子だったが、ごくごくと心底安心したように水を飲み干した。岩笠は静かに、笑顔でそれを見ていた。そしてその少女を連れ立って戻ってくると、部下を鼓舞しながら先へ進もうと促す。兵士達と励ましあいながら、狭間はいつもの軽い調子で主に紫と少女の空気を和ませ、ゆっくり、着実に山頂へと進んでいって。
やがて一同が疲労困憊ながらも山頂にたどり着くと、岩笠は兵達に命じて壺を地面に置き、紐を括りつけ始めた。少女は不思議そうにしながら、何故わざわざここまで登ってきたのかと岩笠に尋ねた。
「勅命である」
短い言葉だったが、岩笠は少女の問いにはっきりと答えた。すると少女は自嘲した。自分は山賊で貴方達を付けていたが、とんだ失態を見せてしまったと。兵達や狭間は笑っていたが、狭間はその貼り付けた笑みの奥で薄く眼を見開いていた。
そして火口に壺を投げ入れる為兵達が近づいた時、それは現れた。
「その壺を火口に入れてはいけません」
静かな口調で恫喝したそれは、火口で燃え尽きるのではないかという儚さとこの世のものならざる美を纏っていた。その女神は咲耶姫と名乗り、この山の噴火を沈める女神であると言う。兵達は動揺し、ひれ伏す者すらいた。そんな中、紫は扇子で口元を隠しつつ袖に仕込んである札に意識を向け、狭間は見るからに不機嫌そうな顔に変わっていた。
しかし岩笠は動揺することもなくはっきりと女神に向けて言い放った。
「私は壺をこの霊力のある神の火で焼かなければならない。これは帝の勅命である」
それに対し、咲耶姫は儚げな、しかしはっきりとした軽蔑の視線で彼を射抜いた。
「その壺をこの山で焼かれてしまうと、火山はますます活動を活発にし、私の力では負えなくなってしまうでしょう。その壺は神である私の力をも上回る力を持っています。貴方達はその壺に入っている物がどのような物なのか理解しているのでしょうか?」
兵達は沈黙した。狭間達はてっきり、兵達にも中身が知らされているものだと思い込んでいた。信頼できる者だけを遣わせたのだろうと。だがそれは岩笠だけで、兵達は中身の事など何一つ知らされていなかったのだ。
「その壺に入っている物は」
と、咲耶姫が言うと、岩笠はそれを静止した。言ってはならぬと。しかし咲耶姫は、ここまで担いできた兵士達には知る権利があると言い、その中身を暴露した。即ち、お前達がここまで運んできたのは不老不死の薬だと。
兵達と少女は動揺した。理由は様々あっただろうが、全く動じていない狭間達を見ると問い詰めた。知っていたのか、と。
「知っていました。それが何か?服用する者のいない薬なんて毛ほどの価値もないでしょう、それを処分するだけの話ですよ。むしろ何故貴方達が知らなかったんですかねぇ。余程信用されてなかった、とか?」
狭間がそう言い放つと、何人かの兵は何事か叫ぼうとした。それを先んじて制するように、岩笠は壺に近寄って壺を焼却しようとした。しかし、いくらやっても火が付く様子はない。狭間がギロリと咲耶姫を睨みつけると、女神は声を立てずに薄く笑った。狭間が舌打ちして苛立たしげにその辺に転がっていた石ころを蹴りとばすと、岩笠は仕方ないからこの場で一晩過ごしこれからのことを考えようと発言した。皆の精神状態を案じたのだろう。狭間は一瞬逡巡したものの紫や兵達が賛同すると渋々従った。皆で円陣を組み、中心に壺を置く。狭間が不寝番を申し出ると、何人かの兵も自分も不寝番を務めると言った。寝ている隙に狭間に取られるのではないか、とでも思ったのだろうか。先の彼の発言を聞いていれば、彼が心底不老不死に価値を感じていない事が、或いはその薬によって齎される利益について考えようという意思すら湧かない程興味がないことが分かるだろうに。
少女が何故、不老不死の薬をわざわざこの山に上ってきて処分しようとしているのか、と聞く。岩笠は重苦しい声で語りだし、兵達はそれに耳を傾けていたが、狭間は火口に鋭い眼を向けたまま押し黙っていた。
睡眠を必要とせず精神的になら兎も角肉体的な疲れとは最早無縁な狭間を除き、少女や紫達も次第に眠っていった。
そうして殆どの者が寝静まり、狭間と他に僅か一人だけが不寝番として壺を眺めていた時。
狭間は殺気を感じ、咄嗟に紫と少女、ついでに近くにいた岩笠を自分の身体で覆い包んだ。瞬間、唯一目覚めていた兵が力の奔流に飲み込まれた。兵は悲鳴を上げる間もなくその神力に焼き焦がされ、屍となった。ついで他の寝静まった兵達にもその力が降り注ぎ、あるものは腹に大穴を開けられ、あるものは身体の四割を失い、またあるものはバラバラに砕け散った。その神力の雨は狭間にも容赦なく襲い掛かり、その怨念の一部を塵と変えられた。帽子はどうにか無事だったが、お気に入りの服に穴がいくつも空いてしまった。激昂した狭間が憎々しげに目を見開きながらこの惨状の犯人を睨みつけると、血を吐くような声で叫んだ。
「クソがッ!だから神ってのは嫌いなんだ!平気で人を切り捨てやがる、これが神のすることか!」
「悪霊が神の是正を問うのは滑稽ですね。私は争いの種を無くそうとしているだけですよ」
「その為にガキまで殺そうとする神なんざ誰が求めるってんだ?」
「放っておけば彼らは不老不死の薬を巡って争う。人間は浅はかで欲深い。いずれ薬を自分のものにしようと殺し合いを始めていたことでしょう」
「ハッ、起きてもいねェ事を憶測で言いやがる。仮にそうだとしても、わざわざ皆殺しにする必要があンのかァ?」
「貴方がいなければ、そこの男と少女は見逃す予定でした。あの薬をここに捨て置かれても困りますから、八ヶ岳にでも持って行かせるつもりでしたとも。他の者は生憎と信用できませんでしたので」
「つまり紫は見逃さねェって事だな……なら、オレ様がテメェを殺る理由は充分だ!」
狭間がそう吐き捨てると、咲耶姫は嫌悪感を顕に顔を顰めた。
「私が貴方を滅する理由も充分だということをお忘れなく。穢らわしい悪霊が、よくもぬけぬけとこの私の前に顔を出せたものです。貴方がここにいるだけでこの霊山が穢れてしまう」
「嫌なら出てくんじゃねェよワガママ駄神」
「さっさと絶えなさい悪霊」
これ以上言葉を交わす気はないとでも言うように、咲耶姫は神力を弾幕状にして放った。自身の一部を切り離し、盾代わりにと未だ眠っている三人を護る形にすると、狭間はひょいひょいとステップを踏んでその弾幕を回避しつつ咲耶姫に近づき始める。
「ケッ、引きこもりのクソ駄神にオレ様が滅ぼせるかよ」
「減らず口を。貴方とてこの私を滅ぼせるものですか」
「できるさ。オレ様だからな」
「言葉も解さぬ獣が……疾く去ね!」
憎々しげに端正な顔を歪めると、咲耶姫は神力の一部をレーザーのように集束させ、それを何本も狭間に向けて解き放った。それは狭間の持つナイフに当たると、彼が愛用していた得物を一瞬で砕いてしまった。咲耶姫は一瞬で融解させるつもりだったのか、眉間の皺が更に深くなったが。
「随分上等な得物を持っているのですね、悪霊の癖に」
「テメェこそ引きこもりにしちゃァよくやるじゃねェか……だが、オレ様の武器がこれだけと思うなよ!」
ニヤリと笑って言った狭間は、大きく腕を振るうと共にその懐からウロボロスを伸ばす。咲耶姫の首筋目掛けて放たれたそれを小さく横に飛んで回避すると、ウロボロスは空中に向かって喰らいついた。レーザー状の弾幕を放って迎撃しようとする咲耶姫の真横を黒と緑の一陣の風が吹き抜ける。空中に固定したウロボロスを即座に縮める事で高速移動を可能とした狭間はすれ違いざまに咲耶姫を思い切り蹴りつけ、不定形のまま纏わせた怨念を叩き込む。吹き飛ばされたもののくるりと体勢を立て直した咲耶姫は先程よりも強い嫌悪感を顔に浮かべていた。
「つっ!よくもこの私に……」
「蹴られるのも殴られるのも嫌だってか。ふざけんなよクソッタレ」
火口の直上に浮遊する狭間は心底腹が立つという風に吐き捨てた。その相貌を睨みつけようとした咲耶姫は息を飲んだ。顔の半分が無くなっている。先程迎撃しようとしたとき、直撃していたのだろう。しかし、生物であれば重症或いは即死するような傷も意に介さず、ただただ不愉快げな表情を浮かべているソレに、神は恐怖を覚えた。この程度の事は痛手の内にも入らない、というのだろうか。本来精神体である筈の彼に、自分の攻撃が物理的にも精神的にも通じていないという事実に、咲耶姫は震えた。
「殺しているんだから殺されもする、それが当たり前だ。退治屋が退治しようとした妖怪に返り討ちに遭って年に何人死んでるか知ってるか?殺される覚悟もない癖に手にかけてんじゃあねェぞ」
「ッ……私は神なのですよッ!」
「だからどうした。テメェは神とやらの自尊しかねェ。テメェにゃ誇りがねェ。敬意もねェ。おまけに人心が分からんと来た。人間よりも妖怪よりも、悪霊よりも。テメェは薄っぺらいんだよ、“神”」
その言葉を最後まで聞く事もなく、憤怒の形相を浮かべた咲耶姫が神力を手当たり次第に放ち出す。必死に狭間を遠ざけようとしているようにも見えるその弾幕を、彼は対照的に冷静に淡々と回避する。反撃をすることもなく、宙に浮いたままただ淡々と。
「ハァッ、ハッ……ハァッ……」
やがて息が切れ、放つ弾幕も数が少なくなる。それでも必死に放とうとし続け、やがては弾としての体すら保てなくなった。そこまで消耗して漸く、狭間は動き出した。
ゆっくりと前進し、神に近づく。咲耶姫は思わず短い悲鳴をあげた。今の今まで、自分を害せるような存在に出会った事はなかったのだ。人間は畏怖し、崇めた。妖怪は恐れ、牙を向ける事もなかった。同じ神だろうと、自分の美しさに見惚れるような者ばかりだった。咲耶姫は凍えるような恐怖というものを、今初めて感じていた。目の前の蛇の顎から逃れられないと分かった時の蛙というのは、こんな気分なのか。或いは、もっと深い恐怖なのだろうか。
「……情けねェ面しやがって。チッ、興が削がれた。ぶっ殺そうかと思ってたがやめだ。んなメンドくせェ事してられッか」
その言葉に、咲耶姫は安堵した。命を脅かさないと、その独白を聞いた咲耶姫は無意識ながら、確かに安堵した。僅かな希望を見出した咲耶姫の視界にいつの間にか存在していた緑の輪が映る。なんだろう、とそれに焦点を合わせると、その輪は狭間を中心にゆっくりと回っていた。紋様か何かのある輪だ。輪に見えたけど、ひょっとしたら球体かもしれない。
「……殺しはしねェが。ケジメはつけてもらうぜ」
一瞬呆けた。咲耶姫はその言葉が理解できなかった。殺しはしないと言った。ケジメとはなんだろう。近づいてくる狭間から目を背けられずに震えていると、緑の輪がより鮮明に映る。よくよく見てみると、それは蛇だった。己の尾を噛む、一匹の大蛇。狭間の纏っている力の流れが、そう形作っているのだ。目の前まで近づいてきた狭間の纏う輪の中に、咲耶姫もすっぽりと入り込む。
「……ぁぇ?」
踵を振り上げる狭間の姿が、とてもゆっくりに見える。自分の力が失われていくのが分かる。先程闇雲にばら撒いた故の疲労や消耗とは違う、身体から抜け落ちる感覚。まるで何かに吸われるかのような――
そこまで思考した瞬間、邪霊の振り下ろした踵に打ち据えられ、霊山の火口に叩き込まれる。力を多少失ったとはいえ、火口の内部に落とされる程度で命を脅かされる事はない。もしそんな事があったなら彼女はここに住まわなかっただろう。しかし、その踵の威力よりも、火口に叩き込まれた事による衝撃よりも、ほんの一瞬だけ入り込んだ輪によって奪われた神力や生命力の消耗によって、彼女は意識を失う。神は邪霊に落とされた。
「……テメェが殺した分にゃこの程度じゃ足りないが。精々良い事でもして贖うんだな。背負う覚悟もないなら償いやがれ」
未だにその相貌の半ばが存在しない彼はそう火口に向けて吐き捨てる。聞こえていないであろう事を予想しながら。
そしてこれだけ騒いでも目覚めない同行者達に呆れながら、その下まで飛来する。この惨状をどうやって説明しようか、と溜息を吐きながら。
三人を揺り起こした狭間は、三人が完全に覚醒する前に帽子で顔の半分を覆い隠す。少女と岩笠への配慮だ。直ぐに治さないのには訳がある。この惨状が起きた事実をただ伝えた所で、狭間が彼らを襲って皆殺しにしたのではないかと疑われるのではないか。そう考えたからだ。無論紫なら信じてくれるだろう。だが付き合いの浅い二人はどうだろうか。先程起こった事をありのまま話したとして、身体に一片の傷もない男の言葉はどう映るだろうか。一つの傷もないのに、三人を庇って助け、惨劇を起こした犯人である咲耶姫という神を打ち倒したなどと言われても信じがたいだろう。酷い手傷を負わされてしまったもののどうにか撃退できた、そう伝える方がまだ受け入れやすかろう。少なくとも自分はその方が理解できる。狭間はそう考えた。
慇懃な口調で事態を説明すると、岩笠と少女は言葉を失った。血の海に動揺し悲鳴を上げなかっただけまだ大人しい反応だ。紫は顔を俯かせて何事か考え込んでいる様子であったが。
「兎にも角にも一度下山しましょう。咲耶姫は八ヶ岳にでも持って行かせるつもりだったそうですし、ここが駄目だというのならそちらに持っていくのも手かと」
「そう……だな。そう、しよう」
岩笠は憔悴しきった顔で頷く。自分が眠りこけている間に部下が全員物言わぬ屍と化し、雇われとはいえたった一人に神を相手取らせたと感じているのだから無理もない。狭間にとってはむしろ大人しく寝ててくれたのは有難いのだが。
そうして足取り重く下山を始める四人。自分は疲れていないからと壺を後ろ手に抱える狭間。紫はまだ余裕がありそうだったが、岩笠と少女は思いつめたような顔をしていた。やがて木々が再び疎らに見えるようになった頃だった。急な下り坂で一瞬バランスを崩しかけた狭間が、背に抱えた壺を抱え直そうと少し持ち上げた時。後ろに立っていた少女が狭間の背を蹴りつけた。
「あ?」
「な」
「ちょ」
バランスを整える為、壺に対して上方向にのみ力を込めていた狭間はそれだけであっさりと壺を取り落とした。次いで狭間の身体が前方に向けて倒れ出す。前を歩いていた岩笠と紫が振り返った時にはもう遅い。何事か言おうとした二人を巻き込み、狭間は急勾配を転がり落ちていった。
「おうああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ…………」
そして冒頭へ至る。
「ガキのやる事にあんま言うのも大人気ないとは思うが、オレ様は兎も角岩笠が死んだりしたらどうすんだまったく」
「狭間、帽子帽子」
「お、すまん」
紫が狭間に帽子を手渡すと、彼は礼を言って受け取る。ポンポンと汚れを払い、穴が空いたりしていないかチェックする。自身の顔の傷はいつの間にか消えていた。
「いやちょっと待て、今どこから取り出した」
「スキマからよ?さっき転がり落ちた時に置き去りにされてたもの」
「ああそうかそうかそんじゃあスキマ使って蓬莱の薬取り返せるんじゃねェのかよ」
至極最もである。先程までは急勾配を滑落していた故にそんな余裕はなかったが、今なら問題ないだろう。そう思って言った狭間に対し、紫は溜息を吐いて頭を振った。
「無理よ」
「あァ?」
怪訝な顔をする狭間だったが、ハッと何かに気づくと呆れたように顔を顰めた。
「おいおい、まさかたァ思うが」
「そのまさかよ」
「すまない、どういう事だ?話が見えないのだが」
困惑する岩笠。彼は紫の能力を知らない故、この反応も当然だろう。
「あの子、もう飲んじゃったのよ。蓬莱の薬」
「……な」
「やっぱりかー……んじゃあ仕方ねェか」
「ええ、仕方ないわ」
仕方ない仕方ないと言って溜息を吐く二人に対し、岩笠は狼狽する。
「待ってくれ、あの少女が……蓬莱の薬を飲んでしまったと……?それはつまり」
「ええ、残念ながら。彼女は不老不死ね」
「何ということだ……」
ガックリと膝を付く岩笠。その心情はいかなるものだろうか。
「で、どうする岩笠。帝に包み隠さず報告するか?」
「その場合……どうなるのだろうな。あの少女を重罪人として捕らえるのだろうか」
「それだけで済めばいいけどね」
「どういう事だ、紫殿」
簡単な問題よ、と指を一本立てて講釈する紫。岩笠は神妙な顔つきで耳を傾けるが、狭間は分かりきっていると言わんばかりにガリガリと頭を掻き毟っている。
「罪人として捕らえるだけならいいわ。でも、彼女が不老不死だと知れたらどうなるのかしら。何をしても死んだら蘇るなら何をしてもいいと考えるのか。都合のいい道具として扱う?それとも化物として遠ざける?……その辺は個人によるでしょうけども。パッと思いつく限りでもひたすら神風特攻させる事くらいはできるでしょうし、誰かがやるでしょうね。死なない怪物ならばどう扱っても罪には問われないと欲の捌け口にするとか、薬の実験台か何かというのもあるかもしれない。どのみち彼女はもう人の世では生きられない、ということよ」
サッと青褪める岩笠。その表情を見て狭間が言葉を繋ぐ。
「かと言って妖怪の世で生きるのも難しいだろうな。不老不死以外何も持たないガキだ。しかも食い殺しても何度だって蘇る。多少知恵の回る小物でも考えつく下策だが、自分の棲家に幽閉して気の向いた時に食う、なんて使い方もされるだろう。どこに行ったって道具か餌か化物扱い、それがアイツが送るこれからの人生だ」
「もしも優しい人達に会えたとしても、彼女が不老不死である以上必ず死という別れが訪れる。一時の安寧を得ても、その後に訪れるのは絶望……自業自得という言葉で片付けるにはあまりに重いわ」
岩笠は地面に俯き、肩を震わせている。強く握り締めた拳がぎちぎちと音を立てる。絞り出すように吐き出す言葉は、この男の人間性を理解するに充分な言葉だった。
「そんな……そんな事はあんまりではないか。あの娘だって、不老不死にならなければ人並みに……生きる事もできたのに……あの薬さえ、処分できていれば……ッ。私の、私のせいだ……!」
「……違ェよ。あの駄神のせいだ。テメェは悪くねェ」
「それでも、私が何かしていれば変えられたかもしれないのだ!」
「結果としてこうなった。それだけだ。たらればなんて言っても意味はねェんだ、たらればは現実にできない。幻想のままだ」
「私は……ッ」
最早言葉を吐き出す事も出来ず、岩笠はただ肩を震わせるのみ。狭間も紫も言葉をかける事は無く、ただ彼の無言の慟哭を聞くばかりだった。
狭間は思う。死を受け入れ、邪悪な悪霊となった自分が目の前の生者に何を言ってやればいいというのだ。死人に口なし、死者である自分に生者の人生を語る資格があるのかと。自分が口を出さなければいけないというような事象ではないというのに、知ったふうな口を利いていいものなのか?不老不死は、死が無くなるのではなく生と死の境界が無くなって生きても死んでも居ない状態だという。完全な死人の癖に未練がましく現世に留まっている己の出る幕なのだろうか。
紫は思う。人間として死に、妖怪となって生きる自分が何故人間を語れるのかと。人間が、先程自分が言ったような者ばかりだと言うのか。そんな筈はないと思いたくも、この数百年で人間の浅ましさや醜さは嫌というほど見てきた。目の前の男はそうではないが、それでもこの善人を慰める言葉は紡げない。空虚な言葉で飾る事はできない。
そうして暫し佇んだ頃、岩笠はポツリと呟いた。
「……決めたぞ」
「……」
「私は都へ帰ったら暇をいただく。そして、あの少女を探し出す」
「探して、どうするつもりだ」
「私が死ぬまで、彼女と共に生きる。例え不老不死という人の身を超えた者となっても、受け入れてくれる者はいるんだと、彼女に伝えたい。私が死んでも、彼女が無事に……平穏でなくとも、人並みに幸福な人生を送れるように。例え一時でも、穏やかに。幸せになってもいいのだと。ただそれだけを、私の生涯を以て伝えたい」
「……チッ、このお人好しが。好きにしやがれ」
「ああ、そうする。誰に頼まれたもでなく、他ならぬ私自身がそうしようと思い至った事だ。……感謝する」
礼に舌打ちで答えた狭間に対し、岩笠は微笑を浮かべる。止めろとは言われなかった。無駄だとも、愚かな事だと笑う事もせず、お前の好きにしろと。そう言ってくれた狭間の湾曲した善意が、それでも暖かかった。
「その事でお二人に頼みがある。……お二人は人外の者なのだろう?」
「……あー」
「……狭間……」
隠していたつもりだったのだが。そう顔に書いてある狭間とは違い、紫は心底呆れたような顔で狭間をジト目で見つめる。
「……えーと」
「顔を見れば分かる」
「顔……あ、あー」
そういえばもう既に顔の傷を治して、それを晒していた。帽子をどうやって回収したのかが気になって、それを隠すのを忘れていたのだ。それを気づいていたのに、流石にこの短時間で治癒するのはおかしいだろうと指摘しなかった紫もそうだが、妙に間が抜けている。見れば岩笠も若干生暖かい眼でこちらを見つめている。狭間は帽子で顔全体を覆ってしまった。
「……それでだな」
空気を誤魔化すように咳払いしたあと、岩笠は言葉を繰り出した。
「もし、これから先。あの少女に出会う事があったら、彼女に良くしてやって欲しい。恐らくその頃には私は既にいないだろうからな……」
「……おう、それくらいなら任せとけ」
「感謝する。欲を言えば、都に帰り着いたら帝への報告の際に同行してもらいたいの所だが」
「そのくらい構わないわよ。私達も一緒に頼み込んであげるから、それまでよろしくね」
幸いというべきか、急勾配を転がり落ちた事により麓まではかなり近い。まずは山を降り、都に帰り着く為に三人は歩き出した。