蓬莱の薬の一件から数年。人外者の感覚ではあっという間に過ぎ去る程度の時間だが、人間にとっては決して短くはない時間が過ぎていた。都を離れた狭間達は、西へ西へと歩んでいた。海に向けて、正確にはその向こうの大陸目指して。
「海の向こう、か。オレ様海外旅行なんて経験ねェぞ?」
「私も旅行の経験はないわね。まぁ、あまり心配しなくても大丈夫でしょう」
「言葉……はお前の能力でどうとでも出来るのか。ホント便利だよなァ……」
「そうねぇ、水と油を分けるのも容易く異国の言葉を学ぶ必要もなく応用が効き過ぎる。我ながら反則地味た能力……いえ、反則そのものよね、これ」
狭間の懸念の一つであった言語の壁は、紫の境界を操る能力によって容易く打ち崩された。彼女の力を以てすれば、バベルの塔にてバラバラにされた言葉を一つに纏め直すなど息をするように容易なことなのだ。第二の懸念であった文化の違いは、そもそもこの時代においてそれは今更だという事でスッパリ片付けられてしまった。
そもそも何故、この国を離れて大陸に足を運ぼうというのか。
それは、ある日の紫の言葉が切っ掛けだった。曰く、“もしかしたら未来に帰る方法などこの島国にはないのではないか”。本人としてはらしくもない弱音を吐いたつもりだったのだろう。が、相棒はそれならばとこう言った。“じゃあ海の向こうにでも行ってみるか”と。
紫は当惑した。もう未来には帰れないのではないかと暗に言ったつもりだったのに、この男は大真面目に実際に渡る場合どういった行路を通るか、などと呟いていた。理解した上でそう言ったのか、それとも微妙に勘違いしての言葉なのか、とんと見当がつかない。何せ狭間の場合、どちらの可能性も十二分にあり得るのだ。そこらのチンピラ程度の頭かと思えば不意に賢しらな事を言ってみせ、実は賢者かと思えば苦笑を起こすような事も言う。そんな男だから、紫は何とも言えなかった。
そうしてあれよあれよという間にこうして海に向けて進路を取る事になってしまっていた。まぁこういうのもいいか、と思いながら紫は彼の後ろを歩く。確かに、ひょっとしたら諸外国になら何か近しい物が見つかるかもしれない。そう考えるのは間違いではないだろう。半ば心が折れかけていたというのに、狭間の飄々とした一言で容易く持ち直せてしまった。本当に、彼には頭が上がらない。妖怪の根幹を成すのは精神だという。ならば自分が今尚マエリベリー・ハーンでもいられるのは彼のおかげに他ならないだろう。
「この時代ならパスポートだなんだとメンドくせェもんもないだろうしな、のんびり船旅を楽しむのもアリだと思うが」
「そうねぇ、適当に交渉して乗せてもらうのもいいとは思うわ。でも海で妖怪にでも出くわしたら面倒じゃない?」
「ンなもん食えばいいだろ」
「私はグルメですわ」
「それはオレが悪食ってことか」
「否定できるの?」
「いや、しないが」
他愛ない会話を交わしながら山道を歩く。やがて視界の果てに、美しい蒼が見えてきた。
「おっ、見えてきた。どうせだから釣りでもしないか?」
「途中で飽きる方に2ポンド賭けるわ」
「んだよ、ツれねェなァ」
「釣りもいいけど、少し運動ができそうよ」
「今正にウォーキングしてるじゃないか」
「あのね、そういうことじゃなくって。アレ、船よね?」
「それ以外には見えねェな」
「じゃあアレは?」
「……残骸、だな」
紫が指し示す先には小さめの漁船、その直ぐ近くに積み重ねられた大小さまざまな木材の破片。有り体に言って船の残骸だろうものがあった。
嵐にやられたというなら分かる。だが、唯の嵐だけであんな壊れ方になるものなのか?そう思わせるような破壊の跡だった。
「ま、いいじゃねェか。何にせよ行ってみようぜ」
「ええ、それもそうね」
そうして少しペースを上げ、その小さな漁村にたどり着く二人。村に踏み込むと、暗い顔をした村人が声をかけてきた。
「……アンタ達、旅の人か?悪いことは言わん、早くここから立ち去りな」
「何やらただならぬ事とお見受けしますが、一体何事でしょうか?」
紫がそう問いかけると、村人は弱弱しい声で答えた。
「最近、この辺りの妖どもが凶暴で。漁に出れば巨大な蛸に船が壊され、かと言って山で山菜でも採ろうとすると鳥妖の群れに襲われ……どうにか蓄えで食いつないでるが、このままじゃ飢えて死ぬか妖の餌になるか二つに一つだ。奇跡的に導士様が来てくださったが、お一人じゃどうにも……」
どうやらそういった手合いに悩まされるのはいつの時代もどこの人間も変わらないらしい。憔悴しきった顔で語る村人を安心させるように、紫は優しい声で語りかける。
「実は私共、都では少々有名な退治屋でして。良ければ協力させていただけないでしょうか?無論、報酬は頂きますが」
「おお、アンタら退治屋だったのか!奇跡だ、こんな時にやって来た旅人が三人ともそのような方とは!ささ、こちらへ!」
パアッと顔を輝かせた村人が慌てて紫達を招く。行きましょう、と後ろに声をかけるが返事がない。訝しんだ紫が振り返ると、そこには。
「……何やってるの?」
「……オレ、猫苦手なんだよ。助けてくれ」
大量の猫に囲まれ冷や汗を垂らす狭間の姿が。成程ここは漁村だ、漁師の獲ってきた魚を頂く為にこの辺りで群れているのだろう。近頃漁に出れていないとなると、腹を空かせているのだろう事は想像に難くない、それで食べ物の一つも持っていないかと囲まれて狭間は困っているのだ。だからといってこの愛くるしい生物達を力で無理矢理追い払うというのもどうなのだろうか。そんなわけで。
「……置いて行くわよ」
「待て!コイツらどうにかしてくれ、これじゃ動け……オイ待て、待ってェー!」
いつになく悲痛な声で懇願する狭間に溜息を残し、紫は村人の後を追う。急がなくては置いていかれてしまうと早足で歩く紫。後ろから猫の鳴き声と聴き慣れた声の悲鳴が聞こえてきたがそれを無視し、漁村の中でも一際大きい家に入る。と、先程の村人が大声で要件を伝えるのが聞こえた。
「村長!今さっき退治屋のお二人が来てくれた!導士様、これでどうにかなりますか!?」
部屋の前まで歩いていくと、村長らしき老人と何事か会話を交わしていた山吹色の衣の女性が振り返る。見た所、中華系とでもいおうか、そういった雰囲気の女性だった。傍らに大きな箱が置いてあるのが気にかかったが、村長に促され、部屋に入り床に座り丁寧に礼をする。
「お初にお目にかかります。私は八雲紫と申しまして、都の方からやって来た者です。先程こちらの方からこの村の置かれている状況をお伺いしまして、何か力になれればと思い至った所存」
「ご丁寧な挨拶痛み入る。儂がこの村の長をさせてもらっているジジイだ。有難い事だが、生憎とこんな状態だ。礼もろくにできないが構わんのかね?」
「私共は金銭や物品には然程興味がなく。ある術を求めて世界を彷徨い歩いているのです。ですから、船の一つ……いえ、残骸でもお譲り頂ければ、それで」
「ふむ……そんな異なことを要求するのは他におらんと思うたが、まさか日に二人も見るとは」
「というと……」
横に座る導士の女性に目を向けると、彼女は笑顔でヒラヒラと手を振った。
「私も大陸の方に用があってね、海を渡ろうと思って来たら……ってとこ。どのみちどうにかしなくちゃいけないし、アナタも手伝ってくれる?」
「奇遇ですわね、私も大陸の方に渡ろうかと思っていましたの。これも何かの縁、お力添え致します。ではまず、鳥妖を片付ける算段を付けたいと思うのですが……」
「うむ、奴らは……」
紫が導士と村長と計略を練っている頃、狭間はというと。
「あー、そこのお嬢さん。どうかこの毛玉の群れをどうにかしてくれないでしょうか?」
「おじちゃんだれ?」
「お兄さん、です。決して怪しい者じゃあないのでご安心を」
「おかあさーん、変な人がいるー」
「ちょっ、待っ!たすけてー!」
あちらこちらを猫に噛み付かれ、どうにか取り繕った慇懃な口調で子供に助けを求めた所を変人扱いされて逃げられていた。
「で、まずは村の人達が安全な所に避難してから迎え撃つ手筈よ。結界に一箇所だけ穴を開けるから、そこで待ち構えましょう。ちょっと、聞いてるの狭間?」
「……もうそんな気力は消え失せましたよ」
「あの……大丈夫なの?アナタの相方なんでしょ?」
「ああ、大丈夫大丈夫。本当に気力が消えてたら死んでいますもの」
結局紫は助けてくれず、導士が猫を追い払ったことで緑と黒の猫じゃらしは救出された。猫の毛が付いた帽子を被り、恨みがましい眼でジトっとした視線を向けると、あんな様子初めて見たから新鮮でついつい放置してしまった、と宣う。ご丁寧にコツンと自分の頭に手を当て、可愛らしく舌を出した上にウインクまでして。ぼそりと一言、似合わねェという音が発せられた瞬間、紫の右ストレートが元猫じゃらしの真ん中を突き抜けていった。
「これ、仲がいいって言っていいのかな。微妙な所よね」
「まぁ、悪くはないですね」
「嫌だったら直ぐにでも離れてるものねぇ」
「……訂正。アナタ達夫婦か何か?」
「まぁずっと二人でやってますし、似たようなものかと。ところで一つ聞きたいのですが、何故わざわざ村人の避難を?」
「確かに結界を張るのなら避難する必要はまずないでしょうけども。あまり見られたくはないでしょ?」
「成程、要するに厄介払いですか」
歯に絹着せぬ物言いに導士がやれやれと肩を竦める。紫も苦笑するが、狭間は先程の猫の件をまだ根に持っているのかぶすっとした表情だった。
そんな雑談を交わしながら移動を開始し、村人の避難が終わった頃を見計らう。まずは紫が村全体に結界を貼り、次にその外で鳥妖を引き寄せる為に特殊な香を焚いて誘き寄せる段取りだ。準備をする紫の傍らで、導士はゴソゴソと荷物を弄っているようだった。何をしているのかと目を向ければ、村長の家でも見たあの大きな箱の封を解いているようだった。今にして思えば、箱という表現は相応しくない。この箱の大きさは人間大。つまり、これは棺桶だ。
「……なんです、それ?」
「私の商売道具って所かな。正確には違うけど」
そう言って棺桶の蓋を開けると、まず目に付いたのは青だった。死人のような、という比喩をよく聞くが、それは正しく死人の色。青い肌をした中華系の少女の死体、それが棺桶の主だった。導士とよく似た顔、よく似た背格好の少女がそこで静かに眠っていた。
「ま、これが私達の見られたくない理由ってワケ。キョンシーって知ってるカナ?こっちじゃあまりいい顔されないのよね」
「ま、死者への冒涜だなんだと煩い連中も少なくありませんし?どう受け取るかなんて死者次第なのになんで生者がとやかく言うんですかね。しかし、キョンシーといったら制御用の札が額に貼られているものと記憶しているのですが」
「ありゃ、お兄さん詳しい人?」
導士はキョトンとした顔を見せたあと、ケタケタと笑った。
「そうだよ、まぁ札はここにあるんだけどさ。そんなに心配そうな顔しなくても暴走したりなんてことはないよ。普通のキョンシーと一緒にされちゃ困るからネ!」
そう言って導士が何かの印を切る。それが術の引金なのだろう、導士の姿が一瞬で変化する。見慣れた人間の姿から、別の意味で見慣れた札の姿に。その二つの姿に似通った点など、唯一その色彩だけだった。導士が着ていたのと同じ、山吹色の札。御札と化した彼女はヒラリと浮遊し、一直線にキョンシーの額へと飛び、ペタリと張り付いた。瞬間、キョンシーの眼がパチリと開かれる。
「ちょっと、誰が商売道具よ!私が道具ならそっちは小道具じゃない、御札のクセに!」
「まぁまぁ、それより挨拶よ。会話、ちゃんと聞こえてたんでしょ?」
「おっとそうだった」
騒がしく起き上がった彼女は、おおよそ狭間の、そして紫の知るキョンシーとは掛け離れていた。通常キョンシーとは死体を素材として造る、いわば操り人形のようなものである。会話もままならない場合が多く、身体も硬直していて飛び跳ねて移動するものが殆どのはずだ。それがどうしたことか、この暫定キョンシーはよっこいしょと言いながら棺桶を普通に跨ぎ、狭間の目の前まで歩いてきた。おまけに饒舌で、生きている頃と変わりないであろう調子だった。
「えーと、コンニチハ!で合ってたよね?見ての通り私はキョンシー、よろしくねお兄さん」
「……えー、様式美としてまず一言言わせていただきたい。お前のようなキョンシーがいるか……と、それはさておき私は悪霊なのでそこの所はお間違えのないように、お嬢さん」
「あ、何か私に近い気配してると思ったらお兄さんも死人なんだ。ちょっと親近感」
へへへ、と見た目相応の笑みを浮かべる彼女がキョンシーだと言って一体誰が信じるだろうか。少なくとも肌の色さえ度外視すれば生きていると言っていいのではないか?狭間はそう感じていた。若干ぽかんとしているように見えなくもない表情を浮かべていると、紫が会話に混ざり始めた。
「いやぁ、まさかこの場に人間が一人もいないとは思わないわよね」
「御札と死体と悪霊と妖怪……ホラー系のラインナップにしか思えませんね」
準備を終えて和気藹々とした雰囲気の雑談が始まる。
「さっきお兄さんはお前のようなキョンシーがいるか、って言ったけどさ。多分他にはいないんじゃないかな?私らはこうなる過程がちょっと特殊だったからさ」
「へぇ、どう特殊なのかしら?」
「一言で言えば生きたままキョンシーとその制御札になった、ってとこね。私達の一族に伝わっている中にそういう……異種族になる術があるんだけど、あの時はそれを使わなきゃどうしようもない状況だったからね」
「本人の力量でどうなるか変わるって話だったよ。私達がこうなったのは姉妹二人でやったから、っていうのもあるんだろうけど」
私達のお母さんなんて龍になったんだよ、と自慢げに話すキョンシー妹。御札姉は額に張り付いたまま会話しているが、見えない筈の表情がなんとなく浮かぶような声だった。糸のように細めた眼をほんの僅かに見開きながら、感心したという風に狭間は呟く。
「……いやぁ、世界は広い。そんな術聞いた事もありませんでしたよ」
「ま、中国と言えばとりあえず4000年だから。探せばもっとトンデモな術もあるかもねー。そういえばアナタ達の探してる術って……」
どんな術?と。キョンシー妹がそう続けようとした瞬間、キィキィと耳障りな声が聞こえ、言葉はそこで途切れた。そういえば既に香を焚いていたんだったな、と思いだす。
「おや、獲物がやって来たようで。話の続きはまた後でと行きましょうか」
「そうね。行くよ!」
「では、結界に穴を開けますね。討ち漏らしは私が処理しますのでどうぞ遠慮なく」
村を覆う巨大な結界、その一部分にだけ穴が開く。それを見た鳥妖の群れは、高笑いのような声を上げながらそこに向かって飛来する。それが罠とも知らず、自分達が常に狩り続ける側だと思い込んで。人と似た形をしているものの、それが人間でないと決定的に理解させる翼をはためかせながら、鳥妖達は空を飛ぶ。
いちはやく穴に滑り込んだ一匹は、眼下に見える三つの人影を見とめると、他の者に取られまいとして降下を開始し、その最中に自慢の翼が根元から引きちぎられた。
「グエェェッ!?」
「耳障りだなぁ、もっと良い声で鳴いてくださいよ」
無論それはウロボロスを伸ばした狭間の仕業である。何をされたかは理解できずともアイツが犯人だと理解した鳥妖だが、翼が無くては飛ぶ事もできず、無様に地に落ちた。その瞬間彼の頭上から降ってきた刃物がいくつも突き刺さり、既にウロボロスによって生命力を奪われていた彼は呆気なく息絶えた。
その様子を見ていた何体かは結界に入らず踏みとどまったが、血気盛んな若い個体は気にもとめずに突撃する。
「全く、馬鹿の相手はやりやすい。今日は鳥肉にしましょうかね?」
「え、食べるの?悪食―……」
「失礼な」
会話を交わしつつも既に何羽かはウロボロスの顎に捉えられ、骨の砕ける音を立てながら咀嚼されている。グロテスクな状態になっているそれを見てキョンシー妹はちょっと引いた。紫はよくある事と気にせず、スキマも駆使して縦横無尽に弾幕を放っている。
「……マズっ」
どうやら鳥妖の肉はお気に召さなかったようだ。
「何やってんだか……ほら、どんどん来るわよ」
呆れつつも着々と撃墜数を増やす紫。負けじと袖口から大量の暗器や鉄球を飛ばす妹キョンシー。やっぱり焼き鳥の方がいいかなぁ、と呟きながら暴れまわる狭間。今度は鳥妖も引いた。
「ま、食う食わないに関わらずとりあえず皆殺しですかね。今まで散々殺して来たんでしょうから、文句はないでしょう?」
「それが通じちゃうのが私達の生きる世界なのよねー。世知辛いわー」
「殺しているから殺されもする、なんて頭のネジが足りてない人間の台詞にしか思えないけども大体その通りだから困るわ。ま、私達がここに立ち寄ったのが貴方達の運の尽きって事で」
そうして飛ぶ鳥を落とし続けると、最後に残ったのはどうやら群れの頭に当たる個体だったようだ。敵わないと見たか既に飛び去って空の彼方、丁度太陽の方向に小さな影が見える。
彼に取って何よりも不運だったのは、狭間という怪物がいた事ではなく、元気な死体がいた事でもなく、八雲紫という存在が敵だった事だ。何故なら、彼女を敵とした時点で逃げ帰るなんて事が出来るはずもないのだから。突出した飛行能力を駆使し、例え空の彼方にいたとしても、境界を操る力はそれを容易く捉える。彼は最期に、真っ二つに避けた太陽のスキマから青白く光る無数の弾丸が飛来する、そんな幻想的な光景を見た。
「片付いたわよ。思ったより楽だったわね」
「お疲れー。楽勝楽勝」
「焼き鳥はやっぱり塩ですかねえ。タレも捨て難いけど塩をパラッと振り掛けた方が……」
コイツまだ言ってるよ、という眼で見られた狭間は我に帰って咳払いをし、では次は大蛸ですねと誤魔化すように明るく声を上げる。今度は蛸焼きでも食べたいの?と紫が茶化す。
「で、蛸って事は海に出ないとダメだよね。船どうするの?」
「借りるしかないんじゃないかしら。空飛んで襲撃してもいいけど、誘い出すなら船よね」
「うーん、何かの神話に大蛸とかそんな感じの神格がいたような……それはともかく海中から一気に船破壊されたらちょっと厄介ですね。いっそ私に乗ってみます?なーんて」
そんな訳ありませんが、そう続けようとした瞬間紫は、それだわと手を叩く。
「……あの、ちょっと?」
「狭間がウロボロスの要領で大きな海蛇にでもなればそれに乗っていけるじゃない。船を借りなくて済むわ」
「……お兄さんも結構トンデモなのかなー……私達と比べて規格外すぎない?」
「いや、あの」
「何よ、まさか無理なんて言わないわよね?」
「いやいや、できますとも。そのくらいお安い御用ですって。ただ……いえ、やめましょう」
じゃあ別に依頼受けて船の残骸貰ってそれ直したり、とか手間暇かけなくてもいいんじゃないか。とは言えず、狭間はただ頷くだけであった。気づいているのかいないのか、紫はいい案だと満足気に一人頷いていた。
さて、その後であるが。
大蛸はやはりというべきか、あっさり討伐された。というより、食われた。紫の言ったようにウロボロスを形作る要領で大蛇と化した狭間に、パクリと一口で。紫は焼かなくていいのか、と笑い。キョンシー妹と札の姉は考えるのを辞めてただ笑っていた。三人分の笑い声を聞きながら、狭間は一人、蛸の刺身は食った事ないなぁ、とか、さっきの鳥肉と違ってそれなりにイケるな、などと考えていた。肩透かしというか拍子抜けというか。殺伐としているようなほのぼのとしているような、そんな一幕。
村に帰還し、依頼を完遂したことを告げる紫達を村人達が歓声を持って迎える。キョンシー妹は既に棺桶に戻っており、札の姉は人間の姿に戻っているが。村人達が精一杯宴を開き、村を救った英雄達を称える。見目麗しい女性が二人に、性格が悪いとはいえ顔立ちは整っている狭間。おまけに村人達を絶望の淵に叩き込んだ憎たらしい妖怪共を一蹴できる程の強者とあれば、酒の肴には充分だろう。酔った男達による女性二人へのお世辞二割本音八割といった美辞麗句が贈られる中、狭間は再び天敵である猫の群れに囲まれていた。今度はちゃんと助けられたが。導士姉に。紫は既に盃を傾けていた。
その日は蛸を討伐もとい食べてきた時点で日が傾きかけていた為、そのまま夜通し酒宴が続き、朝日が昇る頃には二日酔いを量産していた。勿論狭間と紫はピンピンしているが、導士姉は酒に強い訳ではないらしく力尽きている。
気晴らしにと海辺に向けて歩むと、何人かの少なくない数の村人達が船の残骸を修理していた。話を聞くとどうやら酒宴に参加しなかった者達が恩人達の為にと徹夜で修理していたらしい。これでやっと猟に出れると息巻く漁師達は、勢いのままに譲る分どころか自分達が使う漁船の何隻かまで修理してしまっていた。人間やれば結構な事ができるものだな、と人間の強さの一面を再確認した狭間であった。
「さ、忘れ物はないわね?」
「こちらはオーケーです」
「こっちも大丈夫よ。操舵は任せてね」
修理され、ある意味では破壊前より強靭になった船に乗り込み一行は漁村に別れを告げる。大きく手を振る漁師や、キラキラとした瞳でこちらを見つめる子供。にゃあにゃあと鳴く狭間の天敵達。村の全てが、彼らとの別れを惜しんでいた。猫から目を逸らしつつ手を振り答える狭間。そんな狭間を微笑ましげに見やる紫。船の操縦の為にこの場を離れている導士姉。そんな光景に混じれない事を、キョンシー妹は棺桶の中でぶつくさ言っていた。
「いやぁ、悪くない所でしたね。老後はああいった所で暮らすのも悪くないかも……なんて」
「貴方老後なんてないでしょう?ふふっ」
そう会話しながら、徐々に小さくなっていく漁村を見つめる。その影がどんどん小さくなり、やがて見えなくなった頃。キョンシー妹が棺桶の蓋をどけながら不満げに会話に混じる。そのまま流れで
「私も老後なんてないけどさ、これ永遠の16歳って言っていいと思う?」
「どちらかというと享年16歳でしょうか?というか貴女、札もないのに起きてていいんですか」
「あーダイジョブダイジョブ、お姉ちゃんが付いてるのって基本的に能力向上と記憶やら人間性やらの保持の為だもん。ちょっとくらいヘーキヘーキ」
「それはそれで興味深いのだけれど。聞けば聞くほど私が知ってるキョンシーとは掛け離れてるわねぇ……」
「人生なんてそんなものじゃない?可能性の否定なんてできやしないんだし。そういうのもいる、それだけの話でしょう?」
「まぁそうなんだけどねぇ、どうにもイメージが固定化されちゃってて。こう、体が硬くてピョンピョン飛び跳ねるアレが」
「一般的なキョンシーはそんな感じネ。喋れる個体もいないワケじゃないだろうし、言う程特異じゃなかったり?」
「それはないと断言させてもらいますが」
「逆に考えるのよ、世のキョンシーが皆こうなれば特異じゃなくなると」
「それを実現するのには途方も無い可能性が必要そうね」
「なによぉ。大体それ言ったらそっちのがよっぽどじゃない、今まで見た中で一二を争うくらいだよ?……ところでさ、さっきから気になってたんだけど」
「何かしら?」
そこで言葉を切ると、狭間がナイフを、紫が扇子を、キョンシー妹が爪状の暗器を三方向から一斉に向けた。いつの間にかそこに存在していたその女は涼しげな態度を崩さず、漆黒の扇をひらひらとさせながら言葉の続きを待った。
「……アナタ、誰?」
黒い女はクスクスと笑い、扇で口元を隠して言った。
「名前は秘密。今は名乗るべきじゃあないもの」
「じゃあ、何者?」
「んー……そうねぇ、メリーちゃんがこうなってる原因ってとこかしら?」
その言葉を聞いた瞬間、狭間から放たれた力の奔流が、貪るように黒い女に食らいついた。キョンシー妹も、紫ですら反応できない程の速度で、喉元どころか身体の半分以上を飲み込みながら。しかし、そんな状態で尚女は笑い声をあげる。悍ましい程美しく。
濃密な殺気と“死“の波動に当てられ、死体でありながら死の恐怖を感じたキョンシー妹は動けなくなってしまっている。そんな彼女には目にもくれず、黒い女は哄笑する。
「アッハッハッハッハ!短気ねぇ、いい男が台無しよ?見方によってはその怒り一色の顔も素敵だけど!」
「テメェ……!!」
黒い女は、メリーと言った。つまりそれは、この時代に生きる者ならば記憶を盗み見でもしない限り知り得ない名前。その名を知り得るのは彼女が八雲紫である前から知っている狭間、当の本人であるマエリベリー・ハーン、そうして最後に残るのは元凶。悪意を以て彼女を陥れた張本人のみ。
それはつまり、即ち。狭間が最も強く殺意を抱く対象に他ならない。以前聞いた純粋な神霊にとっての怨敵のような、そんな存在を前にして彼は冷静さを完全に失った。帽子と猫を被って尚取り繕う事ができない程に。
しかし、メリーは。紫はあくまでも冷静であった。
「落ち着いて、狭間」
「落ち着いてられるかッ!コイツが……!」
「だから落ち着いてと言ってるんじゃない。貴女、私をこうした原因が自分だというのなら戻す事も可能なのかしら?」
いきり立つ狭間を手で押さえながら、八雲紫が問う。
頬に指を一本当て考える仕草をしながら、黒い女が答える。
「
「……そう。なら今すぐ戻しなさい……と言った所で聞く訳もないわね」
「当然。だってつまらないじゃない、まだまだ物語を続けてもらわなくっちゃ」
狭間とは違った方向に飄々としている黒い女。ケラケラクスクスと笑いながら、紫を見やる。“死”に蝕まれているというのに、それを微塵も感じさせない態度で。
「ここで仕留められれば良かったのだけど。どうやら貴女を消滅させたとして解決できる訳ではないようね」
「そりゃそうよ。実行したのは私じゃなくて僕だし。念の為言っておくけど、私とは関係ない方法で戻る方法もあるわよ。タイムリミットは元の時代になるまで、ってとこかな?」
「それは違うわね」
「お?」
既に身体の大部分が死んでいる黒い女に、一筋の亀裂が入る。頭の天辺から爪先まで、一直線に。スキマに吸い込まれるようにして消滅していく黒い女に対し、紫は冷たく言い放つ。段々と消えていく身体を気にもとめず、黒い女は笑う。
「私達に負けはない。タイムリミットなんてのも存在しない。そして貴女に――貴女達に勝利はない。戻れないというなら受け入れる。戻れるというなら足掻く。どの道私達は何があろうと前へ進むしかないもの。でも、アナタ達の求めるものなんて一片たりともくれてやらない」
最早顔だけとなって尚歪んだ笑みを浮かべる黒い女を見下ろし、八雲紫は、マエリベリー・ハーンは。全ての始まりであったあの日、その元凶と語るソレに対し毅然と言い放つ。
「――絶望なんて、絶対にしてやるものか」
その言葉と共に扇子が振り下ろされ、黒い女は霧散した。楽しみにしているとも、不愉快だとも取れる笑い声だけを残して。