東方邪霊蛇   作:悪霊さん

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3月中に間に合わなかった……




「あれから何年経ったっけ?」

 

「三年……いや四年だったか?最近時間間隔曖昧で駄目だな、これも長生きの弊害って奴か」

 

「あなた生きてないでしょう?」

 

「んじゃなんて言えばいいんだ?」

 

「……現界?」

 

「なんか違う気すんだよなァ……」

 

「……随分と余裕そうね、あなた達」

 

「余裕を持つに越した事はないわ」

 

「そうそう、そっちの連中みたいに脂汗流して怖がる趣味はねェしな」

 

「だ、誰が怖がっているか!」

 

「お前」

 

悪びれもせずにそう宣う狭間。言われた退治屋の男は顔を顰めて睨みつけているが、黄土色のフードを目深に被っている狭間は何処吹く風。そんな様子を見てかぐや姫と紫の二人は額に手を当てて溜息を吐く。

 

「一応協力体制なんだからそういうのは止めなさいな。後ろから斬られても知らないわよ?」

 

「ヒヒッ、んな度胸がありゃいいがな!」

 

「やめなさい」

 

言っても効かないのが分かっている紫はペシリと扇子で狭間の頭を叩く。軽く叩いただけに見えたが、妖力が込められており、基本的に物理攻撃が効かない狭間でも痛みに蹲る程だった。

 

「ってぇ……わーかったわかった、止めりゃいいんだろ、ったく……このくらいでカッカしてたらキリねェだろ、そういう隙を突くのは定石なんだ、慣れるに越したこたぁねェだろ」

 

「だとしてもよ。事を起こす前に要らないいざこざを起こすのは良くない……んだけど、あなたいつもそうだからねぇ……」

 

諦めたように溜息を吐く紫。

 

「この数年であなたの性格は分かってたつもりだけど……何もこんな時にまでそうしなくてもいいじゃないの……」

 

同じく溜息を吐くかぐや姫改め蓬莱山輝夜。姫の言うとおりだとしきりに頷く退治屋の者達。

今現在、彼らは姫の住まう屋敷に集まっていた。それというのも、いよいよ月からの使者がやってくる事が分かったからだ。ある日姫宛に届けられた手紙には、姫の贖罪は終わった、次の満月に迎えに行くというようなことが書かれており、翁や既に姫と懇意にしていた帝を青ざめさせた。その手紙には八意と名が記されていた。その八意こそ月の頭脳と呼ばれる存在なのだと姫は語っていた。帝は兵を集め、その使者を追い返そうと画策した。それに伴い、優秀な退治屋の面々も集められたのだ。兵が二千人ばかり、それと合わせて選りすぐりの退治屋が五十。これだけいれば月の民といえどもと彼らは笑う。だが、その笑いが精一杯の見栄なのは明らかであった。地上の人間を明らかに超えた技術力を持つ月の民を敵に回そうというのだからその畏怖も仕方ないのかもしれないが、戦う前からこれじゃ当てにならねェな、と狭間は独り言ちる。

 

「とりあえず頭潰すのが手っ取り早いか……いや、まずは雑魚を瞬殺してみるのもいいか」

 

「なんでいきなり殺意に塗れてるのよ?」

 

「……物の例えだ。指令役の奴を潰せばちったァ楽に戦りあえるんじゃねェかと思ってな。一番弱い奴を潰して戦意を挫くってのもよくある手だろ?……っつか、いくらオレでも会話くらいできるんですけどねェェ?」

 

「ああ、そういうこと……私はてっきりまたいつものかと」

 

納得したように頷く輝夜。心外だとばかりに狭間は肩を竦める。

 

「さ、お喋りはこれくらいにして。そろそろ準備するわよ、狭間」

 

「おう、任せろ」

 

そう言ってローブを翻し、狭間は屋敷の奥へと消えていった。紫はそこに座したまま何事か考えこんでいる。扇子を閉じては開き閉じては開き、視線は月に固定されている。輝夜は暫くそれを眺めていたが、邪魔しても悪いかと思い立ち上がり、他の退治屋や兵達に声を掛けて回る事にした。

 

 

そうして日付が変わろうかという頃、狭間は黒いコートを翻して戻ってきた。紫はチラリと眼を向けるとまた考え事を続けたようで、時折何かを描くように指を動かしている。隣に静かに座ると、狭間はポツリと呟く。

 

「そろそろですかねぇ」

 

「ええ」

 

紫も静かに返す。満月を見ると、小さな粒のような影が見えた。その影こそ、ここに向かってきている月の使者なのは明らかだった。

紫と翁は姫と共に家屋の中に入り、兵達と退治屋は屋外で待機し、月の使者を迎え撃つ体制を整えた。使者が近づいてくるに連れ、その数も把握できた。遠目から見ても別格な気配の女性が一人、他は大したことのない者が数人程度のようだ。最も、大したことのないと言っても狭間に取ってであり、他の退治屋や兵達には脅威であろうが。気圧されつつも兵達が各々の武器を構える。

しかし、弓を携えた銀髪の女性を中心にゆっくりと降下してくると同時、屋外にいた者は狭間を除いて全員が倒れてしまった。驚いた輝夜が思わず声を上げると、狭間は変わらぬ調子で返す。

 

「狭間!」

 

「私は問題ありません。が、これは……何かの薬でもバラ撒かれましたかね。生きてはいますが戦力としては期待できませんね。ま、元から宛にしてませんが」

 

「あら、地上の民ならこれで十分昏倒するはずなのだけど……おかしいわね?」

 

「おやおや、月の頭脳とやらにも計算ミスはあるようで。高い所から見下ろしてばかりいるからモノが良く見えてないんでしょうねぇ?」

 

口の端を歪め、毒々しく挑発する狭間。事前に輝夜から聞いた特徴から鑑みるに彼女が月の頭脳こと八意永琳なのだろう。狭間の言葉にさほど反応も見せず、八意永琳は顎に手を当ててブツブツと呟いていた。

 

「……なんですかねぇ、もしかして聞こえてません?やだなぁ、若々しいのは見た目だけって事ですか?」

 

「……随分と舌が回るのね。貴方、何者?」

 

「はて何者と言われましても私は私、それ以上にも以下にもなく」

 

「……今の地上にはこんなのがウヨウヨいるのかしら。ちょっと鬱陶しいわね」

 

そう呟いて弓に矢を番えようとすると、取り巻きの月の民が永琳の前に躍り出た。

 

「八意様、下賤な地上の民如き私めで充分にございます。この者は私にお任せを」

 

「そう。お好きなように」

 

その月の民は羽衣を纏っていて、武器も短刀を一つ腰に着けているだけのようだった。何か隠し玉があるのかと警戒したのは紫のみで、狭間には目の前の男は本気でその短刀でどうにかできると思っているようにしか見えなかった。

 

「……はあ。月の頭脳とやらは兎も角、取り巻きの雑魚がこれじゃあ月の民とやらもたかが知れてますね。あ、もしかしてわざと弱いのだけ連れてきました?それなら納得納得、有能な者が無・駄・死・にしても困りますからねぇ?」

 

「なんだと貴様ァ!」

 

「あらら、怒っちゃいました?そうですよねぇ、いくら木っ端のようなお馬鹿さんでも自分の弱さを晒されるのは嫌でしょうからねぇ?」

 

「貴様……これが見えんのか!?」

 

そう言って男は短刀を抜き放ち、狭間に向けて驚かすように向けられた。どうでもよさそうな顔をしながら狭間は笑う。

 

「見えますよ、チャチな玩具がね」

 

「フフン、減らず口もここまでだ。安心しろ、殺しはせん。少し眠ってもらうだけだ」

 

狭間の思惑通り、挑発に乗って怒った男が短刀を狭間に向かって突き出した。殺しはしない、と言っていた割には殺意が出ているような気もするが、突き立てたと思っているのは男だけなので問題はないだろう。実際にはその短刀は刺さりもせず、ウロボロスの顎であっさりと止められているのだ。

 

「フン、所詮穢れた地上の」

 

「あ、もういいんで黙っててください」

 

「たガッ!?」

 

得意そうな顔をして何事か宣っている男の顎に蹴りを入れ、ついでに爪先に引っ掛けて邪魔にならない位置へと吹き飛ばす。男は一撃で昏倒したようで、ピクリとも動かない。

 

「あらら、だーいじょーぶでーすかー?まさか月の民ともあろうものがあんな軽く蹴られただけでおねんねとは……些か過大評価しすぎでしたかねぇ?」

 

永琳以外の月の使者は、ぽかんと大口を開けたまま呆けていた。仲間があっさりとやられた事に動揺が隠せないのだろう、吹き飛ばされた仲間の方へ視線を向けたまま固まっている者もいた。そんな大きな隙を晒している者は皆同じように狭間に蹴り飛ばされてあっさりと沈められた。瞬く間に取り巻き達がやられても、八意永琳だけは顔色一つ変える事がなかった。

 

「で、あなたもやるんです?力づくで姫を連れて行くっていうんなら相手になりますよ、それが依頼なので」

 

「……いいえ、戦闘の意思はない……と言いたい所だけども」

 

いつの間にか番えていた矢を狭間の頭に向け、月の頭脳は静かに呟く。

 

「彼らとて曲がりなりにも月の民。唯の地上の人間如きにどうにかできる程柔ではないはず。それに貴方、最初に私が散布した薬も効いていないようね。一応あれは人間が僅かでも吸えば即座に意識を奪う、殺さずに無力化するのにもってこいの薬品だったのだけれど」

 

「あぁ、それなら簡単ですよ。吸ってませんから」

 

「呼吸をしていないと……?……自分は神だから、とでも言うつもりかしら?」

 

「神?」

 

キョトンとした顔をした狭間は、一種の間を置いてクックッと喉を震わせて笑いだした。その不気味な気配に気圧されたか、それとも単に警戒しただけか永琳は数歩の距離を開ける。

 

「神……神と来ましたか、フッククク……」

 

蛇のような眼を見開きながら狭間は低い声で呟いた。

 

「私はね、神というものが嫌いなんです。農耕の神とかそういうのならまだいいんです。でもね……こう、例えるのもなんですが聖書に出てくるような唯一神とか、ああいう傲慢な手合いが大嫌いでして。自分を最上位に据えてそれ以外を貶めたり自分の信徒だけに良い顔をするようなカミサマって奴が嫌いなんですよ」

 

「……理由を聞いても?」

 

「神話なんか見てても結構マッチポンプが多いじゃないですか、神ってのは。横暴だったり傲慢だったり……いやまぁ、一概には言えないってのは分かりますよ?でもねぇ……どうしても思ってしまうんですよ」

 

そこで言葉を切り、月を見上げると一段と低い声で呟いた。

 

「全知全能のカミサマとやらはなんで救える筈のモノを救わねェんだ、ってなァ。カミサマがもっとしっかりしてりゃァ今オレがこうしている事も、アイツがこんな目に遭う事もなかっただろうによォ!だからよ、八意永琳だったか?神なんかとオレ様を一緒にするんじゃァねェよ」

 

「貴方……霊なのは気づいていたけども、これは……」

 

「あァ?どうかしたのか月の頭脳さんよォ」

 

密かに永琳は冷や汗を流していた。確かに狭間は脅威ではあるが、自分が全力を出せばどうにかできる範疇だ。八意永琳はそれ程の力を持っていた。

故に狭間の異質さに気づいた。唯の悪霊の持ち得る悪意や怨念では、これほどドス黒い気配を放つ事はないだろう。その時点で規格外の霊だということは把握できた。問題なのはそこではない。

月の頭脳とも呼ばれる程の八意永琳をして驚愕せしめるのは、狭間がこれ程の怨念や悪意を内包してなお、その奔流に飲み込まれていない事である。例えば低級な霊は殆ど自我を持たず生前の行動を繰り返したり、命を落とした場所に留まっている。ある程度格の高い霊でも、それが悪意ある霊なら誰かを道連れにしようとしたり、文字通り悪霊と言える行動をする。彼らがそうしているのは、自身の感情に飲み込まれているからだ。だからこそ、そこから掬い上げて諭す事で成仏させたりその感情の奔流ごと滅する事で退治ができるのだ。

しかし狭間は、常人ならまず間違いなく飲み込まれ、吹き荒れる嵐となるであろう感情を制御しているばかりか自分の力としている。悪意を以て敵から某かを奪い、怨念によって存在を固定化している。もし本気で相手をするとなったら、常に精神を貪られるかのような感覚に耐えつつ戦わねばならない。いくら蓬莱人とはいえ、核である魂を潰される、或いは喰われる可能性を考慮すると月の都を度々襲撃する彼女よりも遥かに厄介だ。他の悪霊とは一線を画す、というような優しいものではない。月の頭脳をして規格外と言わざるを得ない怪物だ。例え月の科学力を用いた兵器を持ち出したとしても、この存在を完全に抹消できる未来が全く見えない。これでは最早悪霊などではなく――

 

「邪悪の結晶……邪霊とでも呼ぶべきかしらね、これは。貴方、本当に元人間?」

 

「ええ、元人間でしたとも。で?私の正体か何か、分かりました?」

 

「貴方は危険だという事が良く分かったわ。それも、ここでどうにかするより関わらない方が懸命だということも」

 

「……自分で言うのもなんですが、そこまで警戒する程ですか?私からすれば貴方も敵に回さない方がいい類の相手なんですよ」

 

「なら、今のこの状況は何かしら?」

 

「私はこう見えてもお人好しなのでね、友人からの頼みとあらば可能な限り聞き入れてやるのが人情ってものでしょう?」

 

「……霊が人情を語る時代なのかしら。なら、輝夜と話がしたいからそこをどいてちょうだい」

 

「だそうですが。どうします?」

 

顔を向けずに声を張り上げる狭間。少しの間を置き紫と帝が傍に付きながら、輝夜はゆっくりと歩み寄ってきた。二人は明らかに警戒していたが、輝夜は警戒というより、申し訳ないといった浮かない表情だった。一緒に月に帰ろう、そう話すつもりだったけどこれは断られるだろうな、と永琳は少しだけ悲しそうな顔をした。狭間でなければ分からない程度のごく小さな変化だったが、輝夜にも何となくそれを感じとる事ができた。短くはない時間を共に過ごしてきたからだろうか。

 

「……姫。やはり、私と共に月に戻る事はできませんか」

 

「……ええ。私はこの地上で過ごす内に、いつの間にか情を抱いてしまっていた。……確かに地上の人々は月の民と違って寿命がある。それでなくとも蓬莱人となっている私は、いつか彼らに置いて逝かれるのは分かってた。だから情なんて抱けない、抱いてはいけないと思っていたの。なのに、月の民が穢れていると断じるこの地上をどうしようもなく愛してしまった。愛してしまったのよ、永琳」

 

「……」

 

恋情を告白する少女のような表情で輝夜は語る。

 

「私達が無くしてしまった何かを、地上の人々は今も持っているの。……人間の生は短い。短いからこそ、一瞬の輝きが美しいのよ。まるで闇の中の一筋の閃光のような、その命の輝きに魅せられてしまった私はもう月に戻る事なんてできない。できないのよ、永琳」

 

「姫……いえ、輝夜。貴女が地上に残るというなら、私も残ります。貴女は贖罪が終わったけれど、私は罪を贖っていない。だから……ううん、詭弁はやめましょう。貴女の言う命の輝き、私も見てみたい。それに、また貴女を一人にしたくない、する訳にはいかない。ごめんなさい、輝夜。貴女だけに罪を押し付ける形になって、貴女が月から追い出されるのを止められなかった。ずっと悔やんでいたけど、ようやく伝えられる……お願い、輝夜。貴女の傍に居させて」

 

「永琳……」

 

ぎゅっと、輝夜が永琳を抱き締める。少し驚いた顔をしたものの、永琳は特に抵抗しなかった。

 

「謝るのは私の方よ、永琳。そもそも私が蓬莱の薬を作ってなんて永琳に頼んだのが全ての始まりじゃない。地上に来たのだって元々望んでいた事だし、貴女が謝るような事なんて何もないわ」

 

「輝夜……私は、あなたの傍にいてもいいの?」

 

「勿論。なんなら嫌でもいてもらうわよ」

 

そう言って輝夜が見た目相応の笑みを浮かべると、永琳も釣られて薄く笑みを浮かべた。おずおずと輝夜の背に腕を回すと、遠慮がちだがしっかりと抱き返した。

 

「でも輝夜、貴女がここに居続ける事は難しいわ。ここは既に月にバレているから、追手が来る筈。今すぐにこの地を離れるべきなのよ……」

 

「そう……よね。やっぱり、もうお別れしなきゃいけないのよね」

 

輝夜が寂しげに俯くと、帝は悲しげに顔を歪めた。引き止めては輝夜の為にならないと分かっているからこそ、何も言えなかった。自分が喚いても、兵を掻き集めても、先程いとも容易く月の民数人を戦闘不能に追い込んだ狭間の力を借りたとしてもどうしようもないのだと、帝は悟った。輝夜の言う通り、もう別れの時なのだ。

 

「……永琳、せめて皆に別れの挨拶をさせてちょうだい。何も言わずに去るのは、嫌」

 

「分かっていますとも。私もやることがあるから、しっかりと伝えてきなさい。……ごめんなさいね、輝夜」

 

「もう、さっきから何回目?謝るの禁止するわよ」

 

寂しげではあるものの、確かに輝夜は笑顔だった。別れが寂しくない訳ではない。辛くない訳でもない。辛いからこそ、寂しいと思うからこそ、笑顔で去りたいと輝夜は考えていた。今まで、この地の人々に沢山の笑顔を貰ったからこそ。

帝と共に、輝夜はゆっくりと地を踏みしめ、皆の所へ回っていった。その背を眩しそうに見た後、永琳は狭間に向き直った。

 

「貴方にも謝らないとね。地上の民だと見下した物言い、ごめんなさい。それと……あの娘と仲良くしてくれていて、ありがとう。……また、どこかで会えるといいわね。そうしたら、きっとあの娘も喜ぶわ」

 

「……まっ、そうですね。個人的にはそこまで嫌なタイプじゃないですし。せいぜい再会を楽しみにさせてもらおうじゃないですか。さ、行きますよ紫」

 

そう言って紫に向き直る狭間。紫からの返事はない。

 

「……紫?」

 

再度声を掛けるも返事はない。様子がおかしいと察した狭間は紫の肩を掴んで軽く揺さぶる。

 

「おい紫……紫!」

 

何度も呼びかけるが、返事はない。紫は青白い顔で、何かを思いつめるような表情だった。

 

「おい……チッ、おい……メリー」

 

メリー、と小声で呼びかける。懐かしい名だ、と僅かな感傷に浸るが、そんな場合ではないと思い直す。

先程よりも小さな呼び掛けだったが、果たして紫は反応した。

 

「あ……狭間?ごめんなさい、少し考え事をしていたわ」

 

「考え事ってお前……顔真っ青だぞ。大丈夫かよ」

 

狭間は珍しく焦っているようだった。紫も大妖怪として大成してきて、こんな状態に成るのはここ数百年で一度もなかったほどだ。それ故に紫の状態は狭間に取って見過ごせない程酷いものだった。

 

「大丈夫……大丈夫だから。心配しないで」

 

「……大丈夫なら、大人しく休んどけ」

 

ポスンと自分の帽子を紫の顔に被せ、ぶっきらぼうに言う。紫からは見えなかったが、永琳には狭間がとても心配そうな顔をしているのが見えた。逆立った髪も心なしか力を失っているようだった。

 

「体調が悪いなら適当な薬を処方するから、欲しいなら私達が発つまでに言ってちょうだい」

 

「ああ、悪いな。ほれ紫、とりあえず横になってろ。歩けるか?」

 

「大丈夫だってば。まったく、心配性ね」

 

「んな死人より青い顔されてたらいくらオレだって心配するっつの」

 

そう話しながら歩いていく二人を見送ると、永琳は踵を返して歩き出した。向かう先は、他の月の使者達が吹き飛ばされた方向。狭間は全員を同じ方向に向けて蹴り飛ばしていた。これからすることを思えば、若干ありがたく感じる。

人目につかない位置までやってくると、使者達の姿を探す。が、どういう訳だか一人も見つからない。

 

「おかしいわね……全員気を失っていたなら動く筈はない。一人でも目が覚めていたなら他の者を起こすなり私の下へ戻ってくるなりする筈」

 

永琳が連れてきたのは、月の民の中でも特に傲慢で、今回連れ帰る対象であった輝夜に対しても、罪人が月の都に戻ってくるな、など散々罵倒しているような連中だった。それだけでも許しがたい事だったが、彼らはそれに加え他者を貶めたり足を引っ張るような行動が目立つ、分かりやすく言えば厄介者達だった。

実を言うと、永琳は始めから月へ戻る気などなかった。月は最早自分がいなくとも回っていく。自分にばかり頼っていては、何らかの事情によってその頼りがいなくなった場合、どうにもできなくなる。自分の重要性を理解している永琳は、だからこそ月から去る事にした。このまま八意永琳という個人に頼りきりでは月は永い永い年月を掛けて腐っていくだけだと思ったから。既に教えを授けた弟子達も頭角を現し始めている。だから、永琳は彼女達を信頼して身を引く事にした。

彼らを連れてきたのはついでに不安の芽を摘み取る、その程度の理由だった。彼らを殺害する事で八意永琳を明確な離反者と理解させる為、そして月の膿を始末する為。故に永琳は明確な殺意を持って、彼らを探している。輝夜や弟子達の未来と天秤にかける必要もないほど、永琳は彼らにとって何も感じていなかった。

だが、その殺害対象がいない。これはどういうことだ、そう永琳が呟くと同時、ほんの僅かな血の匂いが鼻をついた。

 

「……向こうね」

 

音を立てないよう静かに匂いの元まで走っていくと、そこにいたのは一人の男だった。黄土色のローブを纏っていて、覚えのある気配の男。

 

「待ちなさい」

 

「あん?」

 

声に振り返った男の顔を見て、永琳は戸惑った。先程紫と一緒に歩いて行った筈の狭間と全く同じ顔だったからだ。

 

「よう月の頭脳さんよ、何かお探しかい?」

 

「貴方……さっき向こうにいなかった?」

 

戸惑いと警戒を含んだ疑問に対して、狭間は肩を竦めて答えた。

 

「向こうにいるのもオレ様で、ここにいるのもオレ様だ。どっちも正しく狭間だよ」

 

「……分霊、のようなものかしら?興味深いけど……今はそれよりも、他の月の使者を探しているのだけど知らない?」

 

「月の使者?ああ……」

 

探している理由を言わずに問いかけると、狭間の身体に黒い蛇状の怨念が纏わりつき、血のように紅い舌をチロチロとさせながらそこから声を発した。

 

「食っちまったよ、一人残らずな」

 

「……食った?」

 

「ああ、ごっそさん」

 

酷薄な笑みを浮かべて嗤う狭間と対照的に、安心したというような笑みを浮かべて笑う永琳。

 

「そう、ありがとう。始末する手間が省けたわ」

 

「ってーと、わざと弱いのを連れてきたってのは間違ってなかった訳だな」

 

「ええ。いても他者の邪魔をするだけ、研鑽を積むでもなく誰かに媚びへつらい、その誰かがいなければ陰口を叩く。これからの月には必要のない膿よ」

 

「……膿なんざ食っちまったのかオレ。吐き出そうかね」

 

うげぇ、という顔をする狭間。思わず吹き出すと、狭間はローブを目深に被り背を向けた。

 

「……お前に一つ聞きたい事があるんだ」

 

「……何かしら。私に答えられる事ならいいけど」

 

「月の頭脳なら知ってるんじゃないかと思ってな……未来に行く方法はないか」

 

「……何故かは聞かないでおくわ。可能よ。理論上は、という但し書きが付くけれども」

 

「……理論上か。卓上の空論ってワケか?」

 

「少なくとも私は未来に行った事はないもの。同様に過去に行った事も。でも、だからと言ってそれが不可能な理由にはならない。可能性がゼロではない以上、理論上は可能というだけなのよ」

 

「……そうか。残念だ。だが、希望はあるって事は分かった。それで充分だ」

 

「そう……ごめんなさい、あまりお役に立てなくて」

 

「謝ってばっかだなお前……気にすんな。それよりオレはもう戻るぜ。ああそうそう、紫は薬要らないって言い張ってるが一応風邪薬みたいなもんもらえるか?」

 

「はいはい。えーと代金は……どのくらいが相場かしら?」

 

「金取るのかよオイ」

 

「勿論。これから旅をするにもお金が必要だもの」

 

「……ちゃっかりしてんなァ」

 

がくっと項垂れると、屋敷の方へ向けて歩き出した。永琳もそれに続く。

屋敷へ戻ると同時、ローブを纏った狭間は姿を消した。入れ替わるように黒コートに帽子を被った狭間が歩いてくる。

 

「ほら、前払いです。これだけあれば暫くは大丈夫でしょう」

 

「あらありがとう。貴方、そうやって紳士的にしてる方が女性に好かれるんじゃないの?」

 

「生憎とそんな欲は数百年以上前に忘れてしまいましたよ」

 

「あら、あの紫って妖怪と仲睦まじくしているようだったけど?」

 

「……そりゃ、彼女には恩がありますからね」

 

「……そうらしいわね。でも、たまにはそういうの抜きでも接してみてもいいんじゃない?」

 

「はぁ?ちょっと、そりゃどういう……」

 

言い終わる前に永琳はスタスタと歩いて行ってしまった。なんなんだと首を傾げながら紫の所へ戻ると、ちょうど輝夜がやって来る所だった。瞳の下に涙の跡が残っていたが、狭間はそれには触れなかった。

 

「狭間」

 

「ああどうも、どうかしました?」

 

「もう皆に別れの挨拶をしたけれども、出発する前に貴方にもお礼を言っておこうと思って。貴方のおかげで初めて友達ができた。この数年間、本当に楽しかったわ。最初は怪しい人だって思ったけど、本当は優しい人だっていう事が分かった。ぶっきらぼうだったり皮肉を言うのは、心配している姿を見せたくない気持ちの裏返しだっていうことも。狭間、本当にありがとう。いつか、また会いましょう」

 

「ええ、また……ってかなんでそんなに高評価なんです!?ムズ痒くなるからやめてくださいよ!ああ、鳥肌が!」

 

「……そういうとこ、相変わらずね。褒められるのに、いえ……人の好意に慣れてないからついそういう反応をする。案外子供っぽい所もあるのよね」

 

「だぁー!もう、行くならさっさと行ってください!ほら、しっしっ!」

 

「ふふっ!別れの時も湿っぽくさせないのはそういう空気が嫌いだからかしら?……さよなら、狭間。またね」

 

「……ああ、またいつか」

 

多くの人々が悲しむ中、輝夜と永琳はどこかへと旅立っていった。人目もはばからず号泣する翁、静かに涙を流す帝。陰のある顔ではあったものの、別れを惜しみ笑顔で送る紫。そして狭間は、珍しく、本当に珍しい事に誰かを嘲る類ではない、心からの笑みを浮かべていた。

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