見上げればそこにあった青空が、
今は海面を隔てて色褪せてる。
手を伸ばして、微かな力で藻掻いても、
波1つ立てない。
出たい。
この海から出たい。
帰るんだ。
皆のいる場所へ。
そう願ってもう一度藻掻く。
光は手繰り寄せるどころか、
するすると指の隙間を抜けていき、
遠く儚い存在にその姿を変えていく。
沈みゆく彼女は、
声にならない水の泡を吐いて、
静かに目を閉じた。
闇が訪れた。
青空の下にある海は、
空の青さよりも深い海色をしていて、
日差しを反射して煌めいている。
打ち付けた波は砂浜ではなく、
防波堤にぶつかって波飛沫をあげた。
比較的穏やかな日和。
鳥が飛び交い、潮風が駆け抜ける。
どこにでもありふれた海の景色。
船の一隻でもあれば、更に絵になっであろう風景。
だが海上に、船の姿はなかった。
日本の横須賀だけではない。
全世界の領海に、船はもうなかった。
いつの頃か突然現れた漆黒の艦艇群。
所属する国も、規模も不明。
数も機動力も、
当時存在した軍艦に劣ることはなく、
唯一負けている装備の質ですら、
数を武器に勝っていた。
漆黒の艦艇軍は、海洋の版図を広げていった。
命がけで戦う人類の海軍。
しかし、幾度何隻沈めようと、
彼らは無限にわき出てくる。
一度の交戦で船は一隻以上沈んでいく。
人類は終わりなき波状攻撃に耐え続けた。
いたずらに死者と鉄屑を増やし続けた。
結果、人類はシーレーンを完全に掌握されたのだ。
深き海から訪れた何か。
海に潜み棲む何かによって。
いつの頃からか人類は、
漆黒の艦艇群を『深海棲艦』と名付け、恐れるようになった。
光り輝く海の青さは、
人類には眩しい。
二度と立ち入れることの出来ない、
深海棲艦の住処と化した海。
その版図をもう一度、人の手に取り戻すこと。
それは全人類最大の悲願となった。
そしてその対抗策は、
想像よりも早く訪れたのである。
――赤レンガの外壁が印象的な造船施設。
……だった場所。
船舶が使えなくなったこの時代において、
造船施設ほど無用の長物はなかった。
しかし施設自体は取り潰されるわけでも、
役に立たなくなったわけでもない。
そこは今、深海棲艦打倒のための、
鎮守府として使われていた。
軍人の姿はない。
学生服や水着、巫女服などを着た、
可愛らしい少女たちが、
鎮守府内で生活をしている。
傍から見れば異様な光景だが、
彼女たちこそが、深海棲艦に立ち向かう、
『艦娘』と呼ばれる存在であった。
キリキリと弓を引き絞る音がする。
鎮守府にある空母専用の演習場。
長い黒髪を腰まで伸ばし、
凛々しく美しい顔立ちをした女性が、
目に目標を映して矢を放つ。
矢はそのまま真っすぐ飛び、
目標を射抜いた。
中心を貫けはしなかったが、
誤差の範囲である。
「……慢心ですかね」
息を整えて、矢筒から矢を抜き、
もう一度構え直す。
紅い袴が絹ずれの音を立てるが、
それ以外の音はしない。
完全な静寂。
構えた瞬間、女性は矢を放った。
射抜かれた的。今度は中心。
それでも喜ぶことはなく、
女性は次の的を求めた。
一心不乱にその後も矢を抜いては射り、
貫いては次を求めていく。
まるで迷いを晴らすような、
静かな執念すら感じる。
十七つ目を射抜こうとしたとき、
彼女は動きを止めて、気配のした左を向いた。
女性と比べて頭一つ分は小さい少女が、
尊敬と畏怖の眼差しを向けている。
いつの間にか険しくなっていた顔をすぐに打ち消し、
笑顔を向ける。
「ごめんなさい。夢中になっていました」
「あ、あの、こちらこそすみません!
折角演習中なのに邪魔しちゃって!
え、ええっと、あの……」
しどろもどろな少女の頭を、
女性は優しくなでた。
「自己紹介がまだでしたね。
私は赤城。正規空母、赤城です」
「あ、ああ、ええ、えっと!
駆逐か、じゃなかった、
特型駆逐艦の吹雪です!
本日付でこちらの鎮守府に配属になりました!」
そう言って吹雪は敬礼をした。
赤城はその姿を見て、ホッと胸をなでおろした。
「緊張しているのですね。
わかりますよ。私も最初はそうでしたから」
「あ、あの、えっと……」
「……いつか、貴女と一緒に戦える日を、
待っています。
精進して下さいね」
「は、はい! 光栄です!」
紅潮した頬を抑えながら、
逃げるように吹雪は演習場を去っていった。
その後ろ姿を赤城は、
優しく見送った。
特型駆逐艦と言えば聞こえはいいかもしれない。
自分でわざわざ駆逐艦ではなく、
特型駆逐艦と強調して自己紹介したことを、
吹雪は若干後悔していた。
完全に名前負けをしている。
かつて世界を驚嘆させた、
栄えある特型駆逐艦一番艦の名を冠しながら、
その実力は座学以外見るところがない在りさまである。
派手な見た目で威嚇するでもなく、
性格も適度に丸く真面目で、
多くの女性の中に紛れてしまえば、
たちまち影になりそうな容姿をしている。
新たに転属が決まったこの鎮守府で、
上手くやっていく心づもりではあったが、
吹雪の内心は穏やかではなかった。
「大丈夫……じゃなさそうだね、吹雪ちゃん」
吹雪の旅行(鎮守府案内)に付き合うのは、
ショートカットの少女と、
甘い匂いのする少女である。
二人共、睦月型駆逐艦であり、
姉妹艦に当たる存在である。
ショートカットの少女は睦月。
甘い匂いのする少女は、如月。
睦月は演習場に足を運んだ吹雪の様子を見て、
心配になった。
が、如月が吹雪にスキンシップを仕掛けるのを見て、
大丈夫そうだと安心した。
「大丈夫よぉ。その顔、恋でもしちゃったぁ?」
「こ、っこ恋じゃないよ!!?
赤城先輩かっこいいなって思ってなんかな、
いや思ったけどお!」
「可愛いなぁ吹雪ちゃん。
まるで睦月ちゃんが初めてここに来た時みたい」
知り合って間もないというのに、
如月のスキンシップは積極的だった。
吹雪は次の旅行先を2人に求めると、
入渠ドックへの案内を始めた。
「入渠する時はここにね。
誰か怪我した時に担いでいくの」
中に入ればそこは脱衣場。
奥に風呂がある。
「小破くらいなら手前の広いお風呂に。
奥にある個別のお風呂は、
中破大破とかの時に入るんだって」
小型船であればあるほど、
修復にかかる時間は少ない。
吹雪は、奥の風呂は縁などないだろうと思っていた。
そんな中破や大破になるほど、
激戦には出ない。
どころか、戦闘にも参加しないとわかっているのだから。
「ここではシャンプー持ち込みオッケーなの。
吹雪ちゃんも今度、売店で買ってみない?
如月とっておきのシャンプーがあるの」
「如月ちゃん、髪にはうるさいもんね」
「そうよぉ睦月ちゃん。
髪は女の命なんだから」
誰も入っていないドックを抜けて、
一通り済ませた旅行。
その締めを、睦月と如月は決めていた。
「疲れた時には甘いものが一番よ」
「吹雪ちゃん、どうぞ!」
甘味処間宮。
給糧艦間宮が切り盛りする、
甘味専門の店である。
様々なメニューがあるが、
アイスとモナカ、パフェが人気である。
そんなに食べたら太ると言いたくなるほど、
盛りに盛られたパフェ。
吹雪はそれを見て大いに驚いた。
「すっごい……前の鎮守府の時には、
こんなすごいのなかった……」
「間宮さんのパフェは絶品だからね」
「そうよぉ、お肉がついちゃうけど、
この美味しさの前には勝てないわぁ」
パフェに舌鼓を打ちつつ、
吹雪は先程の、赤城のことを思い返していた。
凛々しい眼差しと、
類まれなる実力、
近付くことさえ躊躇いそうになる雰囲気。
そして、いつか一緒に戦おうという言葉。
「赤城先輩……」
自分が矢面に立って赤城を守る図を思い浮かべて、
吹雪は緊張の顔を軟弱にした。
「ふ、吹雪ちゃん?」
「あら、何だか桃色の雰囲気ね~」
しばらく睦月と如月は、
吹雪のだらしない顔を眺めることにしたのであった。
『正規空母』や『戦艦』の名を冠した艦娘は、
非常に強力で、戦闘の華と言って差し支えない。
ただし、彼女たちだけを酷使することは出来ない。
理由は2つあり、
1つは疲労の蓄積。
もう1つは資源の枯渇である。
前者は気合いでどうにか出来るとしても、
後者は捻出するために相当の苦労が必要なのだ。
もしも酷使するとすれば、
資源の大量確保が必要となる。
黙っていても増えないため、
海洋の資源を確保する必要がある。
その際、遠征部隊を派遣し、
少量づつ運ぶ。
本来は輸送艦などを使い大量に確保したいところであるが、
海の事情があるためそれは出来ない。
遠征において主に活躍するのは、
吹雪や睦月、如月などの、『駆逐艦』の名を持つ、
艦娘である。
比較的小柄で、海上での速力が総じて高い彼女たちに、
深海棲艦をかわしながら遠征をさせるのだ。
吹雪の配属された『第三水雷戦隊』には、
軽巡洋艦『神通』を旗艦とし、
駆逐艦『吹雪』『睦月』『如月』『夕立』『島風』。
この6人で1つの、遠征特化部隊である。
6人は海上出撃のための港に集まっていた。
「初めまして、吹雪さん。
私は神通です。
旗艦として貴女を指導していきたいと思います」
「夕立だよ!
新しく来たっぽい?
うーん……ま、よろしくね!」
「貴女、速いの?
今度かけっこしない?
ま、勝つのは私だけどね!」
初対面ながら特徴のハッキリした3人に、
吹雪は挨拶を交わした。
『旗艦で優しげな人』『語尾が変な子』『かけっこ好き』。
それ以外の特徴は追々覚えていこうと吹雪は考えた。
「ところで、吹雪さんは遠征か戦闘、
どちらでもいいのですが、
海上に出たことはありますか?」
穏やかに聞く神通に、
吹雪は目を泳がせながら、
「0です」
消え入る声でそう答えた。
「え、吹雪ちゃん、海に出たことないの!?」
「あらぁ、意外。演習で1回くらいは出てると思ってたのに」
「ちゃんと走れる? 駄目っぽい?」
「ぶー。かけっこどころか競歩でも勝てそう」
それぞれの反応が出た頃合いを見計らって、
神通は咳払いをした。瞬時に場が静かになる。
「皆さん。初めての子です。指導は優しくお願いいたします。
……今日、姉と那珂ちゃんが戦隊にいなかったのは、
そういう理由だったのですね」
「練習っぽい?」
「吹雪ちゃん、危なくなったらすぐに言ってね!」
「心配しなくても大丈夫じゃない?」
「しょうがないな~。走れるように教えるからね」
「ど、努力します……」
港には出撃を知らせるタイルが6つ存在し、
足を踏み込むことで出撃を決定する。
皆が躊躇なくタイルを踏むのを見て、
吹雪もそれに習った。
誤作動なく出撃が承認され、
客員に適正の艤装が装着されていく。
この艤装こそが、
彼女たちが艦娘と呼ばれる理由の1つである。
身に付けることで、
人が数人か数十人かで動かしていたであろう船の、
出力、装甲、速力などを全て身に付けることが出来る。
生半可攻撃は服の繊維を傷めることも敵わない。
ただし、出力が0になり、破壊されるなどしてしまうと、
彼女たちはその艤装の重みに体を、
海の底にまで連れて行かれてしまう。
恐ろしいながらも、これこそが、
数を武器に出来ない人間に残された切り札。
恋を知り始めるころの少女ですら、
戦火にその身を捧げる。
「……あれ?」
神通、島風、夕立、睦月、如月。
全員が艤装を装着できた。
が、吹雪だけは、出撃の反応が鈍い。
「壊れてるっぽい?」
「今までこんなことあったかしらぁ?」
「全員水戸?! 私一番乗り出来ないじゃん!!」
「島風ちゃん、前人未踏だよね?!
それだと皆納豆好きになっちゃう!」
「ええっと、な、何で!?
実力不足なのかな私!?」
「……いいえ、大丈夫ですよ。
もう一度、自信を持って踏んで下さい」
えいやと気合を入れて吹雪は踏み付けた。
すると、全員と変りなく艤装が配備される。
ハンドガンの要領で渡されたのは12.7cm砲。
手の甲で照準固定し、目標を撃つ。
戦艦の積む砲に比べれば脆弱極まる装備だが、
急所を狙えば遜色なく活躍できる。
太ももに装着されたのは魚雷発射管。
本物と比べればまるで玩具のような装置だが、
威力は本物と変わりない。
この砲と魚雷は全員に支給されているが、
島風のみ、4連装酸素魚雷を支給されている。
活躍の機会が多いため、
特別待遇を受けているのだ。
「このタイルMっぽい?」
「可愛い子に踏まれたら興奮しちゃう?
いいわねぇそういうの。
龍田さんとか喜びそう」
「Mでもなんでもいいよ、
良かった、出撃できるよ私!」
吹雪が喜び勇んでいたのはほんの数分前。
まだ鎮守府が目視可能な海上で、
神通たちは足止めを食らっていた。
「おっそーい!」
「島風ちゃん速い! 速いよ!
吹雪ちゃん頑張っているんだから待って!」
睦月が必死で島風を制しようとしても、
ずば抜けた速さゆえにそれは困難を極めた。
「ふぅあああ~……これ、遠征失敗っぽい?」
「吹雪ちゃん早く~。海風って髪に悪いの~」
「落ち着いて、まずは、浮かぶことから!」
神通は、艤装を装着しているにもかかわらず、
海に沈みかけている吹雪にエールを送る。
「あ、はい……わかっています……
わかっているんですけど……あ~……
海って、気持ちいい~……」
諦めの境地に入ってしまいそうな吹雪を、
島風はじれったげに引っ張りあげた。
「神通……さん!
私が担いでいくからさ、もう行こうよ遠征!
待ってばかりじゃ日が暮れちゃうよ!」
「そうはいかないんです。
さぁ吹雪さん、もう1度。
浮かぶ、それだけを考えて。
海に引っ張られる気持ちを抑えて!」
「……あ、はい」
心ここにあらずな吹雪は、
海に立ち上がって、座学のことを思い出し、
慎重に艤装を操る。
今度は上手くいった。
海上に立ち、滑るように走る。
波飛沫が白く立ち上がり、
島風が目を見張った。
彼女のライバルが増えるかもしれない。
「凄い! 吹雪ちゃん、やれば出来る子!」
「飲み込みが早い……のかしら?」
手放しに喜ぶ睦月に、
少し疑念を持った如月。
「最初から出来るんだったらやってほしいっぽい」
「ごめん皆、でもここから、ここから頑張るから!」
これで遠征に出れる!
吹雪は2度目の歓喜で先ほどの流れをなかったコトにした。
「……ところで吹雪さん。
問題です」
右耳を抑えて瞑目する神通は、
静かな、だがしっかり聞こえる声を発した。
「私は主砲と偵察機以外に、
電探を装備しています。
戦闘能力はなく、索敵が武器と言ってもいいでしょう」
何が言いたいのか。吹雪と睦月は考えあぐねていたが、
「ぽい!?」
すん。と、海風に混じった異質な匂いに、
夕立が警戒の構えを見せた。
つられて島風も戦闘態勢をとる。
彼女だけが装備している、連装砲を、
自立思考マスコットにした傑作、
連装砲ちゃん。
それを2機、海上に浮かべて警戒させた。
可愛い目で威嚇している。
「……ですので、頼りは皆さんの頑張りにあります。
初の海上、遠征。初繋がりで」
にっこりと笑う神通。
吹雪は嫌な予感がした。
「艦娘としての初戦闘も、
経験しておきましょうか」
海が盛り上がって、割れる。
そこには漆黒の艦艇群。
『深海棲艦』が単横陣をしいていた。
急所に当てればいい。
その急所が存在すればの話だがな(にやり)