テキトーさん家冒険録   作:rairaibou(風)

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 どのくらい眠っていたのだろう。視界は薄暗く、夜の帳は開かぬままのようだった。ラートは一人部屋で覚醒し、思考を並べる。敵陣はどうなっているのだろう。偵察隊は向かったのだろうか。思案の隙間、風に流れて飛んできたのは、鼻孔を擽る料理の匂い。意識を向けると、窓の外では民の楽しげな声と、唄が響いて来る。七番、喜びの唄。宴を、しているだろうか。

 

 

 精霊と共に帰還したラート。その名を最初に呼んだのは、息子の無事を祈り謡い続けていた、彼の母親だった。

「ラート!」

 叫び声にも似たその声。朝日で眩い視線の先を見やって彼は微笑み、母とその後ろの恩師、サカモトを目視してから、大きく手を振った。両手で大きく振り返したサカモトの姿を見て思わず、ふう、と安堵の吐息が漏れる。駆け寄って来る男共と、謡い手の女達。労いと無事を喜ぶ声を掛けられながらラートはそこで、自分がこの集落に、一先ず生きて帰って来たのだと確信する事が出来た。

「ただいま戻りました、母さん。お怪我の具合は」

 歩み寄り、言いかけたところで、ラートは母に抱きしめられた。首元で、嗚咽の孕んだ吐息を感じる。「良かった、本当に良かった」と、しゃくり声のたどたどしさで以て繰り返した。そんな母に、そして長である父親に、良い状況とは言えないのだと、今すぐ報告しなければならない。敵陣の殲滅をまだ確認しきれていない事を。明日また偵察しに行かねばならない事を。まだ、安心しきれないという事を。しかしラートは、その華奢な両手をすぐに取り払う事が出来なかった。

 

 廊下側の庇を開ける音。光源である蝋燭を持って、彼の部屋へ入って来たのは。

「起きていたのか」

 彼の、父親だった。机の下から椅子を取り出し、そこに腰かける。蝋燭を机に置いたのを確認したラートは、部屋に充満するスープの匂いに気づいた。

「何か腹に入れなさい」

 蝋燭の明かりで湯気が浮かび上がる、その食器を父はラートに差し出した。

「うん」

 寝床から出て、彼はそれを受け取る。絨毯に座り込み、匙を手に取った。なんだか、懐かしい匂い。一口啜ってみる。オアシスに生る木の実が沢山入り、味付けがしっかりした、これは母の味だった。普段は召使達が全ての調理を担当するのだが、息子が風邪をひいた時だけは、母が調理場に立った。そして、決まってこのスープを作るのだ。身体が怠いはずなのに、このスープが出てくると、なんだか気分が高揚した。食欲が無いはずなのに、何度もお代わりをして苦笑いされた。母の料理を食べる機会が少ないから、という理由もあるし、なんだか、特別に愛されているという実感が湧いたものだ。

「お前はこのスープが好きだったよな」

「うん」

 ラートは、短く答えた。父と二人で居る時間なんて、久しぶりだ。長としての父に敬語を使わない自分も、母の作ったこのスープも。そういえば、父に大きい声で非難した事を、謝っていなかったっけ。侵攻という言葉に怯えて、無茶苦茶な反論で返して、それきりだった。

「母さんの手作りだぞ」

 黙々とスープを食べ続けるラートに、父は語り掛ける。

「うん」

「さっきまで作っていたみたいだ。出来立てほやほやだぞ」

「うん」

「サカモトも手伝っていたみたいだ」

「うん」

「父さんは飲んだからいらないぞ」

「うん」

「久しぶりだな、母さんのスープは」

「うん」

 

 外では依然、民達の賑やかな声が響いている。最後の一口を飲み干して、ラートは一息をついた。それを待っていたのだろう。父は、息子の名前を呼んだ。

「敵陣は、壊滅していたようだ。偵察隊が知らせてくれたよ。もう宴も始まっている。闌の頃には、陽が昇っているだろうな」

「ああ、良かった」

 ラートは安堵した。良かった、という言葉を、ようやく口にする。自分の覚悟が、それに答えて下さった精霊の恩恵が、無茶ともいえるプランが、結果的に上手く行ったのだ。

「詳しく、聞かせてくれないか」

 長には帰還後すぐ、当時の状況を報告していたはずなのだが。父は、あえて息子にそう聞いた。息子は同じような報告を、一層詳しく繰り返した。精霊が、一緒に来て下さると言ってくれた事も。安寧を護る覚悟、犠牲という事も。あの時感じた、炎に飲み込まれる断末魔への恐怖も。上手くいくなんて、という素直な驚きも。そして、帰還途中に出会った、他の精霊達の群れとの遭遇も。

「精霊達が?」

「そう。共に謡う事を許されたんだ。なんだか、歓迎されているみたいだった。先生にも詳しく話すつもり。夢を見ているんじゃないかと思った。いっそ、俺は死んでるんじゃないかとも思った。だから、母さんに抱き付かれて、そこでやっと、生きてるって確信した」

「そうか」

 一呼吸を置いて、父は返す。

「大きくなったな、お前も」

 父は、心底後悔していた。あの時、精霊という存在が居たからとて、侵攻を許可してしまった事を。恐怖を、覚悟の重さを、幼き息子一人に押し付けてしまった事を。その罪は自分からは消えないだろうし、自分自身も忘れてはいけないのだろう。しかし息子は、自分が思うよりも、ずっと成長していた。精霊の庇護で以て、精霊からの歓迎をも受けた。つい最近まで、その庇護を否定していた息子が。引っ込み思案で内向的だった息子が。

「父さん」

 考えが途切れた。息子に視線を返す。

「ありがとう」

 父に多くを語るのも、改まって過去の謝罪をするのも、なんだか気恥ずかしくて、絞り出した言葉。父はそれを微笑みで返して。

「スープ、おかわりするか?」

 息子に対する気恥ずかしさを隠すようなニュアンスで、そう切り出した。

 

 

 敵の壊滅を確認し、この集落に平穏が戻ってから、十を数えた朝の事だ。サカモトは、リングマとフライゴンが木の実を分け合うその横で、ラートに語り始めた。

「わたし、明日にこの村を出るわ」

 彼女はそう言ってから、続けた。自分が持つ医術は、全てラートに教えつくした事。これ以上、同じ場所に留まる事はできない、むしろ、長居しすぎたという事。そして。

「この子が仲間に認められたって事を、知る事が出来たしね」

 彼女はフライゴンへ視線を流しながら、そう付け加えた。

 敵陣を壊滅した、その帰り道。ラートとフライゴンは、他のフライゴンと出会い、共に謡う事を許された。その状況をサカモトは、フライゴンが同種の仲間に歓迎を受けたのだと推測していた。この種族は、その羽根が奏でる音色で以て仲間との意志疎通を測るのだ。サカモトに以前聞いていたラートは、それに同意する。彼の体験したあのメロディは、歓迎以外の何物でも無いと言い切れる程に美しく、明るい音色だったのだ。

「良かったわよね。掠れたこの子の声を聴いた時には、本当に心配しちゃったわ」

 薄暗く、涼しい半地下の広間。彼女はそう言って、風に流される髪を手櫛でかき上げた。そろそろ嵐が来るのだろう。ラートはサカモトから視線を逸らして、フライゴンへと向く。それから「そうですね」とだけ返した。

「寂しい?」

 サカモトが、擽るようにそう言った。

「そりゃもう」

 おどけるように、ラートが返す。一呼吸置いて続けた。

「俺達にとって、先生方の仰るフライゴンという種族は、この上なく聖なる存在なのです。人間の家畜に成り下がっちゃいけない。この地に縛る事は、精霊がそれを求めたとしても、出来ません」

 サカモトは、不意に噴き出した。小さく、意地悪な笑い声を立てる。

「この子との別れが寂しいだなんて、そんなの分かり切ってるわよ。わたしとのお別れは寂しい? って事を聞いたんじゃない」

「そっちか」

 わざとらしくため息をついて微笑むサカモトに、ラートはもう一度「そりゃ、もう」と言って、笑った。

 

 

 次の日。

 ラートは、目を覚ました。窓にかけられた庇をめくりあげ、ラートは外の様子を確認する。外は相変わらずの日照り状態だった。目下では今日も民が、オアシスの恵みに感謝を捧げている。

「――」

 十番。ラートはその曲名を思い浮かべながら、女達が謡うハーモニーに耳を傾ける。

 平和だ。彼は今日もそう思った。ふいに見上げた一人の民がラートに気づき、彼に声をかける。彼はにこやかに手を振り返して、民達の歌声に微笑み、そして。美しい歌声だなと、そう素直に思った。

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