【TS】ソードアート・オンライン - ブラッキーの秘密 -   作:みいけ

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第2話「異変」

1.

 

クラインが一歩しりぞいて、右手の人差し指と中指をまっすぐ揃えて掲げ真下に振った。

ゲームの《メインメニュー・ウインドウ》を呼び出すアクション。たちまち、鈴を鳴らすような効果音とともに、紫色に発光する半透明の長方形が現れる。

 

私も数歩下がって、そこにあった手頃な岩に腰掛けてウインドウを開いた。これまでのイノシシ相手の戦闘でドロップした戦利品(アイテム)を整理しようと、指を動かしかける。

 

直後。

 

「あれっ」

 

クラインの頓狂な声が響いた。なにごと?

 

「なんだこりゃ。……()()()()()()()()()()()()

 

その一言に、私は手を止めて、顔を上げた。

 

「ボタンがないって……そんなわけない、よく見てみなよ」

 

呆れ声でそう言うと、クラインは悪趣味なバンダナの下の目を()いて顔を手元に近づけた。

 

横長の長方形をしたウインドウには、初期状態では左側にいくつものメニュータブが並んで、右側には自分のアイテム装備状況を示す人型のシルエットが表示される。そのメニューの一番下に、《LOG OUT》ボタンが存在する、はずだ。

 

視線を再びアイテム一覧に戻そうとした私に、クラインがややボリュームを上げた声を浴びせてきた。

 

「やっぱどこにもねぇよ。おめぇも見てみろって、キリト」

 

「だから、そんなわけないって……」

 

そう、そんなわけない。クラインはVRが初って言っていた。きっと、慣れない操作で見当違いのところでも見てるんだろうな。

 

私はため息混じりに呟いて、自分のウインドウの左上、トップメニューに戻るためのボタンを叩いた。

 

今開いていたアイテム欄(ストレージ)が滑らかに閉じて、ウインドウが初期状態に戻る。

 

「メインメニューの一番下に────」

 

画面の左側に並ぶメニュータブの上を、慣れた動作で一番下まで指を滑らせ────

 

 

無い。無かった。

 

 

そこにあるはずの──いや、今日の午後1時にログインした直後には確かに、絶対にあったログアウトボタンが、綺麗に消滅していた。

 

なんで?

 

思わず、空白となった場所を見つめて固まってしまう。そして、ボタンの位置が変更になったのでは?という可能性に思い至り、もう一度メニュータブを上からゆっくりと眺めて、それも違うということを認識させられた。

 

視線を上げると、クラインの顔が、な?というふうに傾けられた。

 

「……ねぇだろ?」

 

「うん、ない」

 

少し癪な気もしたけれど、素直に頷いてみせるとクラインはにんまりと頬を吊り上げて、逞しい顎を撫でた。

 

「ま、今日はゲームの正式サービス初日だかんな。こんなバグも出るだろ。今頃、GM(ゲームマスター)コールが殺到して、運営は半泣きだろうなあ」

 

のんびりとそう言うクラインに、私はやや意地悪な声をつくってツッコミをいれた。

 

「クラインも半泣きにならないとね。今、五時二十五分だけど。五分後にピザの配達頼んであるんじゃなかった?」

 

「うおっ、そうだったっ!!」

 

眼を丸くして飛び上がるその姿に、つい口を緩めてしまう。

 

「やべえオレ様のテリマヨピッツァとジンジャーエールがぁああ!?」

 

「とりあえずクラインもGMコールしてみなよ。システム側で落としてくれるかもよ」

 

「試してみたけど、反応ねぇんだよ。ああっ、宅配がぁああ……。なあキリトよう、他にログアウトする方法ってなかったっけ?」

 

情けない顔で両手を広げるクラインの言葉に、私はふと顔を強張らせた。

 

 

……何か、嫌な予感がする。

 

 

「ええと……ログアウトするには……」

 

呟きながら、考える。

この仮想世界(ゲーム)から離脱し、現実世界の自分の部屋に戻るためには、メインウインドウを開き、ログアウトボタンに触れて、右側に浮かぶ確認ダイアログのイエスボタンを押すだけでいい。とても簡単だ。

 

けれど────

 

同時に、それ以外の方法を、私は知らない。

 

自分よりかなり高いところにあるクラインの顔を見上げて、私はゆっくりと首を左右に振った。

 

「いや……ないよ。自発的ログアウトをするには、メニューを操作する以外の方法はない、ね」

 

「んなバカな……ぜってぇ何かあるって! 」

 

私の答えを拒否するかのように喚いて、クラインは突然大声を出した。

 

「戻れ!ログアウト!脱出ーっ!!」

 

でも……それは、無意味でしかない。

 

案の定、何も起こらない。

SAOに、その手のボイスコマンドは実装されていないのだから。

 

 

 

遠くで、夕焼けに照らされた雲が流れていくのがちらりと見えた。さっきから感じる嫌な予感が、その様子すらもどこか怪しく感じさせる。

 

尚もあれこれ唱え、しまいにはぴょんぴょんジャンプまで始めたクラインに、私は押し殺した声で呼び掛けた。

 

「クライン、無駄だよ。マニュアルにも、その手の緊急切断方法はまったく載ってなかった」

 

「でもよう……だって、馬鹿げてるだろ!いくらバグったって、自分の部屋に……自分の体に、自分の意志で戻れないなんてよ!」

 

信じられないという表情で叫ぶクラインに、まったく同感だった。

そう、馬鹿げてる。こんなのおかしい。けれど────確かな事実でもある。

 

「おいおい……嘘だろ、信じらんねぇ。今、ゲームから出られないんだぜ、オレたち!はは……あり得ねえ……そうだ、マシンの電源を切りゃいいんだ。それか、頭から《ギア》を引っぺがすか 」

 

見えない帽子を脱ごうとするような動きをするクラインに、私は再びかすかな不安を覚えた。

 

「……できないよ、どっちも。俺たちは今、現実の体を動かせないんだ。《ナーヴギア》が、俺たちの脳から体に向かって出力される命令を、全部ここで……」

 

指先で後頭部の下、延髄をとんとん、と叩く。

 

「……遮断(インタラプト)して、このアバターを動かす信号に変換してるんだから」

 

クラインは押し黙ってしまい、のろのろと手を下ろした。そして、自発的ログアウトは現状不可能であると受け入れたのだろう、呆然とした声音で呟いた。

 

「……じゃあ、結局のとこ、このバグが直るまで待つしかねぇってことかよ」

 

私は無言で頷いて肯定を示し、付け加えた。

 

「もしくは、向こうで誰かが、俺たちの頭からギアを外してくれるまでだよ」

 

「でも、オレ、一人暮らしだぜ。おめぇは?」

 

少し迷ったけれど、素直に答える。

 

「おか……母親と、妹がいる。だから、晩飯の時間になっても降りてこなかったら、強制的にダイブ解除されると思うけど……」

 

「おぉ!?き、キリトの妹さんていくつ!?」

 

え、なに、何!?

 

クラインが突然目を輝かせて、身を乗り出してきた(!?)。

 

……なんか、こわいんですけど。

 

「うわぁー……」

 

あと素で引いたよ。

 

「あ、いや。こ、この状況で余裕だねクライン。でも(あいつ)、運動部だしゲーム大嫌いだし、わ、俺たちみたいな人種とは接点皆無だよ。……そんなことよりさ」

 

無理やり話題を変えるため、私は右手を大きく広げた。

 

「なんか……変だとは思わない?」

 

「そりゃ変だろさ、バグってんだもんよ」

 

「ただのバグじゃない、《ログアウト不能》なんて今後のゲーム運営にもかかわる大問題だよ。実際こうしている間にも、クラインの頼んだピザは刻一刻と冷めていきつつあるわけだし、それは現実世界での金銭的損害になるよね?」

 

「……冷めたピッツァなんてネバらない納豆以下だぜ……」

 

クラインの意味不明な呻き声は無視して、私は言葉を続ける。

 

「こんなの、運営サイドは何はともあれ一度サーバーを停止させて、プレイヤーを全員強制ログアウトさせればいいのに……私たちがバグに気付いてからでさえもう十五分は経ってるのに、切断されるどころか、運営のアナウンスすらないなんて……」

 

「む、言われてみりゃ確かにな」

 

ようやく真剣味の増した表情で、クラインが顎をごしっと擦った。

 

「SAOの開発運営元の《アーガス》と言やぁ、ユーザー重視な姿勢で名前を売ってきたゲーム会社だろ。その信用があっから、初めてリリースするネットゲームでもあんな争奪戦になったんだ。なのに、初日にこんなでけえポカやっちゃ意味ねぇぜ」

 

「まったくその通りだよ。それに、SAOはVRMMOってジャンルの先駆けでもあるし……ここで問題を起こしたら、ジャンルそのものが規制されかねないよ」

 

私とクラインは、仮想の顔を見合わせて、同時に深く息を吐いた。

 

 

 

アインクラッドの気候は、現実の四季と同期している。つまり、11月の今はこちらも初冬ということになる。冷たく乾いた仮想の空気を深く吸い込み、肺に仮想の冷気を感じながら、私は視線を上方に向けた。

 

遥か百メートル上空には、第二層の底が薄紫色に霞んでいる。そのごつごつとした平面を目で追うと、遠方に巨大な塔──上層への通路となる《迷宮区》がそびえるのを見てとれる。

 

時刻は午後五時半を回った。細く覗く空は真っ赤な夕焼けに染まり、 差し込む夕陽が、広大な草原を黄金色に輝かせている。

その光景はどこか、''世界''というものの凄惨さや儚さを思わせるようで、私の第六感にまたも不吉なものを感じさせた。

けれど同時に、まったく反対の性質を感じて。

 

私は言葉を失った。

 

まるで''現実''であるかのような────

 

 

この、仮想世界の美しさを。

 

 

この、異常な状況にもかかわらず。

 

 

 

そして直後に。

 

 

 

世界はその存在と意味を、永久に変えた。

 

 

 

2.

 

──ゴォーン──ゴォーン──ゴォーン──……

 

突然、鐘を鳴らすような大音量のサウンドが空に響いた。私とクラインは同時に街の方向へと顔を向けて、しばらく棒立ちになっていた。

 

ようやく運営側で何らかの対処がされるのか。はたまた、謝罪と説明のアナウンスでも始まるのだろうか。

 

──けれど。今もなお鳴り響く鐘の音は……私にまたも嫌な予感をよぎらせた。

これから何か、ただならない、尋常でない、とんでもないことが始まるような────

 

その時。

 

「うおぉ!?」

 

隣にいたクラインの体が、突然青いライトエフェクトに包まれた。

 

これは……《転移(テレポート)》?

 

でもそれは、結晶アイテムや街の《転移門》を使って移動した時に発生するものだったはず────

 

「わぁっ!?」

 

数瞬遅れて、私の体も同じ光に包まれた。私もクラインも、転移アイテムを握ってもいなければボイスコマンドも唱えていないというのに。

そして、体を包む光が一際(ひときわ)強く脈打ったと思うと、私の視界は途切れた。

 

 

***

 

 

青の輝きが薄れると同時に、風景が再び戻った。けれどそこは、夕暮れの草原ではなかった。

 

視界に飛び込んできたのは、大勢のプレイヤーたちの姿だった。どよめく人混みの隙間に、次々と新たなライトエフェクトが発生し、そしてプレイヤーを出現させる。

 

様子を見る限り、今SAOにログインしているプレイヤー全員がこの《はじまりの街》中央広場に集まって、いや集められている。

 

「強制転移(テレポート)……?」

 

「お、おーいキリト!こりゃあ一体……」

 

少し離れたところに転移させられたらしいクラインが、周囲をキョロキョロと見回しながら駆け寄ってきた。周りのプレイヤーも、口々に疑問の言葉を口にしている。

 

「どうなってるの?」「これでログアウトできるのか?」「早くしてくれよ」

 

 

──ゴォーン──ゴォーン…………

 

やっと鐘が鳴りやんだ。全員の転移が終わったということかな?

 

「ふざけんな」「GMはよ出てこんかい!」なんていう声が散発し始めると、ざわめきは次第に苛立ちの色合いを増してきた。そして、不意にそれらの声を押しのけて、誰かが叫んだ。

 

「あっ……上!」

 

私とクラインは、反射的に視線を上に向けた。 そして、そこに異様なものを見た。

 

「あれは……」

 

百メートル上空、第二層の底を、何やら赤い市松模様が点滅している。よくよく見てみると、【Warning】【System Announcement】と、二つの英文が交互に表示されている。

 

驚きはしたけれど、ようやく運営のアナウンスがあるのか。

 

無意識に肩の力が入っていたことに気づいた。やれやれ。

 

良かった、嫌な予感なんて、ただの杞憂────

 

 

 

ゾクリとした。

 

 

 

何故なら。その表示が一面に拡散したかと思うと、蜂の巣のようになった模様の隙間のいたるところから、巨大な血液の雫のようなものがどろりと垂れ下がり、空中で一ヶ所に集まると、真紅のフードつきローブをまとった身長二十メートルはあろうかという巨大な人の姿が現れたからだ。

呆然としていると、隣のクラインが呟いた。

 

「なんだ……ありゃあ……」

 

巨大な人────いや、正確には違う。地面から見上げると、顔がない。本来、あるべき場所に。顔だけではなく、だらりと下がる裾の中も同じく空洞だ。

 

「あれ、GM?」「なんで顔ないの?」というささやきがそこかしこから沸き起こる。

と、それらの声を抑えるかのように、不意に巨大なローブの右袖が動いた。

ひらりと広げられた袖口から、純白の手袋が覗いた。けれど、袖と手袋もまた明確に切り離されていて、肉体はまるで見えない。

続いて左袖もゆるゆると掲げられた。

 

一万のプレイヤーの頭上で、中身のない白手袋を左右に広げて、巨大ローブの中身の誰かが口を開いた、ような気がした。そして、低く落ち着いた、よく通る男の声が響いた。

 

 

『プレイヤーの諸君、私の世界へようこそ』

 

 

私は、この言葉にかすかな疑問を覚えた。

 

「《私の世界》……?」

 

あの赤ローブが運営サイドのGMだというのなら、確かに世界の操作権限を持つ《神》のような存在だけれど、今更それを宣言してどうしようっていうんだろう。

 

クラインと共に顔を見合せて唖然としていると、赤ローブは両腕を下ろしながら言葉を続けた。

 

『私の名前は茅場晶彦(かやばあきひこ)。今やこの世界をコントロールできる唯一の人間だ』

 

「え……!?」

 

驚きの余り、私は一瞬喉を詰まらせた。

 

茅場晶彦。

 

私はその名前を知っている。知らないはずがない。

 

数年前までただの弱小ゲーム開発会社だったアーガスが、最大手と呼ばれるまでに成長した原動力となった、若き天才ゲームデザイナーにして量子物理学者。

 

彼はこのSAOの開発ディレクターであると同時に、ナーヴギアそのものの基礎設計者でもある。

 

私は、一人のコアゲーマーとして、茅場さんに深く憧れていた。彼の紹介記事が載った雑誌は必ず買ったし、数少ないインタビューはそれこそ暗記するほどに繰り返し読んだ。ログイン前に読んでいた雑誌にも、彼のインタビューが載っていた。

 

けれど、今まで裏方に徹して、メディアへの出演を極力避け、もちろんGMの役回りなど一度たりともしたことはないはずの彼がなぜ────!?

 

 

『プレイヤーの諸君は、既にメインメニューからログアウトボタンが消滅していることに気づいていると思う。しかし、これはゲームの不具合ではない。……繰り返す。不具合ではなく、《ソードアート・オンライン》本来の仕様である』

 

「し、仕様だと……?」

 

クラインがかすれた声でささやいた。

 

『諸君は自発的にログアウトする事はできない。また、外部の人間の手によるナーヴギアの停止、あるいは解除も有り得ない。もしそれが試みられた場合────』

 

 

わずかな間。一瞬の静寂。

 

 

『────ナーヴギアの信号素子が発する高出力マイクロウェーブが、諸君の脳を破壊し、生命活動を停止させる』

 

私とクラインは、たっぷり数秒間、呆けた顔を見合せ続けた。

茅場さんの宣言、脳を破壊するということはつまり────。

 

 

 

殺す。

 

 

 

ナーヴギアの電源を切ったり、ロックを解除して頭から外そうとしたら、装着しているユーザーを……殺すと。そういう、ことだ。

 

ざわざわと、集団のあちこちがさざめく。けれど、叫んだり暴れたりする人はいない。私を含めた全員が、まだ伝えられた言葉を理解できないか、あるいは理解を拒んでいる。

 

「な……何言ってんだ、あいつ。頭おかしいんじゃねぇ?なぁ、キリト」

 

クラインが若干ひきつった顔で私に同意を求めてくる。けれど、私は知っていた。

 

「……信号素子のマイクロウェーブは、確かに電子レンジと同じ……。リミッターさえ外せば、脳を焼くことも可能では、ある、ね……」

 

私の言葉を拒否するように、クラインが反論する。

 

「じ、じゃあよう、電源を切れば────」

 

「いや……ナーヴギアには内蔵バッテリーがある」

 

私自身も否定したくはなかった。けれど────それは、事実だ。

 

「ぐ……で、でも無茶苦茶だろそんなの!瞬間停電でもあったらどうすんだよ!!」

 

と、まるでクラインの叫び声が聞こえたかのように、上空からの茅場のアナウンスが再開された。

 

『より具体的には、十分間の外部電源切断、二時間のネットワーク回線切断、ナーヴギア本体のロック解除または分解、破壊の試み──以上のいずれかの条件によって脳破壊シークエンスが実行される』

 

『この条件は、既に外部世界では当局及びマスコミを通して告知されている。因みに現時点で、プレイヤーの家族友人などが警告を無視してナーヴギアの強制除装を試みた例が少なからずあり、その結果』

 

『────残念ながら、既に二百十三名のプレイヤーが、アインクラッド及び現実世界からも永久退場している』

 

……なんて、ことだろう。

 

「二百……十三人も……?」

 

 

怖い。死にたくない。膝が震える。

 

 

数歩よろめいたけれど、なんとか倒れずに踏みとどまった。隣のクラインも、驚愕しているようだった。

 

「……信じねぇ。信じねぇぞオレは!」

 

私だって、頭の奥では、同じことをわめき続けていた。

けれど、冷たい声のアナウンスは続く。

 

『ご覧の通り、多数の死者が出たことを含め、この状況をあらゆるメディアが繰り返し報道している』

 

ご丁寧にも、茅場は空中に様々なニュースを映したウインドウをいくつも出現させた。

 

『よって、既にナーヴギアが強制的に解除される危険は低くなっていると言ってよかろう。諸君らは、安心してゲーム攻略に励んで欲しい……』

 

この状況で呑気にゲーム攻略をしろ……?馬鹿げてるよ、こんなのは……!

 

『しかし、十分に留意してもらいたい。今後、ゲームにおいてあらゆる蘇生手段は機能しない。ヒットポイントがゼロになった瞬間、諸君らのアバターは永久に消滅し、同時に……』

 

続く言葉は、もう予測できた。

 

 

 

 

『諸君らの脳は、ナーヴギアによって破壊される』

 

 

 

 

けれど。実際にそう宣告されることで、私の中の恐怖はより高まった。

 

いま、私の視界左上にあるヒットポイントバーは、

342/342という数字を表示している。

ヒットポイント。命の残量。

これがゼロになれば────その瞬間、私は本当に死ぬ……?

 

『諸君らが解放される条件はただひとつ。このゲームをクリアすればよい』

 

『現在君たちがいるのは、《アインクラッド》の最下層、第一層である。各フロアの迷宮区を攻略し、フロアボスを倒せば上の層へ進める。第百層にいる最終ボスを倒せばクリアだ』

 

「クリア……第百層だと?……できるわけねぇだろうが!ベータテストじゃろくに上がれなかったんだろう!?」

 

クラインが叫ぶ。

その通りだ。ベータテストの時でさえ二ヶ月間でクリアされたのはわずか十層だったのに、本物の命がかかるとするなら、第百層に到達するまで一体何ヵ月……いや、何年かかるのだろう。

私は、今茅場が宣言していたことに、必死で認識を調整しようとした。けれど──でも────……。

 

 

もう、あの場所には戻れない?ほんの五、六時間前にはお母さんの作ったお昼ごはんを食べて、直葉と短い会話をした、あの家に?これは────、本当に、現実なの?

 

 

────嫌、だ。死にたくない。認めたくない。こんな、こんな────

 

 

 

『それでは最後に、諸君にとってこの世界が唯一の現実であるという証拠を見せよう。諸君のアイテムストレージに私からのプレゼントを用意してある。確認してくれたまえ』

 

それを聞いて、私はほとんど自動的に、メニューを呼び出していた。アイテム欄のタブを叩くと、表示された所持品リストの一番上にそれはあった。

アイテム名は────

 

「《手鏡》……?」

 

どうしてこんなものを?

 

そう思いながらも、私はその名前をタップして、浮き上がった小ウインドウからオブジェクト化のボタンを選択した。

たちまち、きらきらという効果音とともに、小さな四角い鏡が出現した。

おそるおそる手に取ってみたけれど、何も起こらない。

何の変哲もない、ただの手鏡、に見える。

 

鏡には、こちらを見つめる《キリト》の顔があるだけだ。首をかしげて、私は隣のクラインを見やった。彼も同じく、呆然とした表情をしている。

 

────と、そこで。

 

突然、クラインや周りのプレイヤーを白い光が包んだ。

 

「クライン!?」

 

そして次の瞬間、私も同じ光に呑み込まれて、視界がホワイトアウトした。

 

「え……ひゃあ!?」

 

 

ほんの二、三秒で光は消え、元のままの風景が現れ……。ん?

 

何やら、違和感がある。

いや、むしろ、普段のように自然な感じが────。

 

普段? ……そこで私は気がついた。 自分の身長が縮んで────いや。()()()()()()()ことに。

 

景色が低くなっているんだ。

 

と、そこで、背中を向けた方向から私の名を呼ぶ声があった。

 

「大丈夫か、キリト……? って」

 

……え? クライン、なの?

 

「あ、あぁ……!?」

 

……!?声が……。それに、目の前のこの人は誰……?

 

よくよくみれば見覚えのある装備のその人を見上げながら、私は尋ねる。

 

「だ、誰……?」

 

すると、

 

「お、お嬢さんこそ一体ど、どちら様で……?」

 

お嬢さん!?ば、バカな……。でも、やっぱり────

 

私はその瞬間、ある種の予感に打たれて、同時に茅場のプレゼント、《手鏡》の意味を悟った。さっと持ち上げて、食い入るように覗き込んだ鏡の中には────

 

「うわ、私だ……」

 

危惧した通り、現実での私の顔が、そのままに写っていた。

 

それだけじゃない。

 

ご丁寧にも、現実で私が忌避してやまない、150センチにも満たない身長(チビさ加減)まで再現されてる(!)

直葉(いもうと)と並んで歩いていると、いまだに私の方が妹に間違われるほどの。

 

数秒前まで《キリト》が備えていた、勇者然とした逞しさや身長なんてもうどこにもなかった。

 

隣で、同じく鏡を覗いたクラインがのけ反った。

私たちはもう一度お互いの顔を見合せて、同時に叫んだ。

 

「あなたがクライン!?」「おめぇがキリトか!?」

 

どちらの声もどうやら現実のものに戻っているようだけれど、そんなことを気にする余裕はなかった。

 

双方の手から鏡がこぼれ落ちて、地面に落ち、ささやかな破砕音とともに消滅した。

 

改めて周りをぐるりと見渡すと、存在したのは、数十秒前までのいかにもファンタジーゲームのキャラクターめいた美男美女の群れではなかった。

例えば、現実のゲームショウの会場にひしめく客にそのまま鎧や兜を着せたような、リアルな若者たちの集団がそこにはあった。恐ろしいことに、男女比まで大きく変化しているけれど、これについては私も人のことは言えない。

 

「へ……え?な、何でだ……?」

 

クラインが疑問を口にする。それはそうだ、現実の自分の姿が(あらわ)にされてしまったのだから。

 

一体どうやって現実の姿を────?まるでスキャンにでもかけたような……。スキャン?

 

「そうか!」

 

私はクラインの顔を見上げて、今閃いたことを話す。

 

「ナーヴギアは、高密度の信号素子で頭から顔全体をすっぽり覆ってる……。だから、顔の形も把握できるんだ……」

 

「で、でもよ。身長とか……体格はどうなんだよ?」

 

いっそうの小声で言いながら、クラインはちらりと周りを見た。

 

周囲で、唖然とした表情で自分や他人の顔を見回しているプレイヤーたちの平均身長は、《変化》以前よりも明らかに低下している。……私もだけれど。

 

それだけではなく、体格の方も横幅の平均値がかなり上昇しているように見える。

 

これは、頭に被るだけのナーヴギアではスキャンのしようがないはずなのに。

と、そこでクラインが思い出したように言う。

 

「あ……待てよ。確か、ナーヴギアを最初に装着した時のセットアップステージでよ、なんだっけ……キャリブレーション?とかで、自分の体をあちこち自分で触らされたじゃあねぇか。もしかしてアレか……?」

 

「あ、あぁ……そっか、その時のデータを元に……」

 

納得した。そして、このSAO世界において、全プレイヤーのアバターを、現実の姿そのままを詳細に再現したポリゴンモデルに置き換えることが可能であるということも、理解した。

 

こんな状態はもう────

 

 

「……現実」

 

そう。現実と変わらない。

 

「あいつはさっきそう言った。これが現実だって。……それを私たちに強制的に認識させるために、茅場はわざわざこんなことをしたんだ……」

 

その言葉に、クラインはガリガリと頭を掻きながら、尋ねるように言う。

 

「でも……でもよぉ、キリト……なんでだ!?そもそも、なんでこんなことを……!?」

 

私にはわからない。見当もつかない。だけど。

 

「……どうせ、それもすぐに答えてくれる」

 

私の予想通り、茅場は再び声を発した。

 

 

『諸君は今、何故、と思っているだろう。何故、 ソードアート・オンライン及びナーヴギア開発者の茅場晶彦は、こんなことをしたのか? と。これは大規模なテロなのか? あるいは身代金目的の誘拐事件なのか? と』

 

そこで初めて、これまで一切の感情をうかがわせなかった茅場の声が、ある種の色合いを帯びたように感じた。

 

これは────そう、いわば《憧憬(しょうけい)》とでも言うような────。

いや、そんなはずはない、と思う。

 

『────私の目的は、そのどちらでもない。それどころか、今の私は既に、一切の目的も理由も持たない。なぜなら……この状況こそが、私にとっての最終的な目的だからだ。この世界を創り出し、観賞するためにのみ私はナーヴギアを、ソードアート・オンラインを造った。そして今……全ては、達成せしめられた』

 

短い間。一瞬の隙間。

 

『……以上で《ソードアート・オンライン》正式サービスのチュートリアルを終了する』

 

思い出したように、声が無機質さを取り戻す。

 

『プレイヤー諸君の────健闘を祈る』

 

 

最後の一言が、わずかな残響を引いて、消えた。

 

真紅のローブ姿が音もなく上昇し、フードの先から、空を埋めつくす赤いシステムメッセージ群に溶け込むように消えていった。

 

広場の上空に並ぶメッセージもまた、現れたときと同じく唐突に消滅した。

 

 

 

 

 

元通りの空。

 

NPC(ノンプレイヤーキャラクター)の楽団が演奏するBGM。

 

ゲームは本来の姿を取り戻していた。

 

そして。

 

約一万人のプレイヤーも、この状況における然るべき反応を、今、取り戻した。

 

 

「嘘だろ……なんだよこれ、嘘だろ!!」

 

「なんでや!ふざけるなやぁ!!はよこん中から出せっちゅうねん!!」

 

「こんなの困る!このあと約束があるのよ!」

 

「嫌ぁあ!帰して!帰してよぉおお!!」

 

 

悲鳴。怒号。絶叫。罵声。懇願(こんがん)。そして咆哮(ほうこう)

たった数十分のうちにゲームプレイヤーから囚人へと変えられてしまった人間たちは、頭を抱えてうずくまり、抱き合い、あるいは罵りあった。

 

けれど不思議なことに────私の思考は、徐々に落ち着いていった。

 

 

これは、現実。

 

 

茅場晶彦の宣言は全て、真実だ 。

 

彼の天才性に魅了されていた私には、わかる。

 

私はもう、当分の間──数ヶ月、もしかすると数年にわたって、現実世界には帰れない。

お母さんや直葉の顔を見ることも、会話することも出来ない。

ひょっとしたら、その時はもう永遠に訪れないかもしれない。

 

この世界で死ねば────

 

 

 

私は本当に死んでしまうのだから。

 

 

 

けれど。

 

そんなのは嫌だ。

 

家族との間に溝を作ったまま、何の解決もしないままに終わるのは嫌だ。

 

 

────負けない。絶対に、諦めない。諦めてなんかやらない。生き残って、必ず現実世界に帰ってみせる。

 

 

そうと決心したら、膝の震えもいつの間にか止まっていた。

 

これから生き残っていくためには、まずは行動を起こさないと。

 

ゆっくりと息を吸って、吐いて、私は口を開いた。

 

「クライン、ちょっと来て」

 

現実と同じ背丈となった今、かなり上にあるクラインの顔を見ながら私は言った。

 

「うぇ!?お、おう!」

 

呆然としていたクラインの腕を掴み、私は荒れ狂う人垣の波を縫って足早に歩き始めた。

 

 

 

3.

 

他のプレイヤーが全くいない路地に出て、私はようやく足を止めた。

 

「な、なぁキリトよ、確かに今こんな状態で気が動転してるのはわかるけどよ、そんな成り行きみたいなのは……そういうのには手順ってのがあってだな、いや、オレは一向に構わねぇんだけどよ────」

 

「クライン!」

 

なぜか顔を赤らめながら意味不明なことをまくし立てるクラインに、私は告げる。

 

「いい、よく聞いて。私はすぐにこの街を出て、次の村に向かう」

 

私の言葉を聞いて、なぜか少し落ち込むクラインを無視して、続ける。

 

「クラインも一緒に来て」

 

と、ここでまたなぜか少し嬉しそうな顔をするクライン。……ちょっと気色わるいなぁ。

 

「……マジメに聞いて。あいつの言葉が全部本当なら、これからこの世界で生き残っていくためには、ひたすら自分を強化しなきゃいけない。クラインも重々承知だろうけど、MMORPGっていうのはプレイヤー間のリソースの奪い合いなの。システムが供給する限られたお金とアイテムと経験値を、より多く獲得した人だけが強くなれる。

……この《はじまりの街》周辺のフィールドは、同じことを考える人たちに狩りつくされて、すぐに枯渇するはず。今のうちに次の村を拠点にした方がいい。私は、道も危険なポイントも全部知ってるから、レベル1の今でも安全に辿り着ける」

 

はあはあと息を切らしながら、私にしては随分と長ったらしいセリフだったな、と思う。

 

クラインもよく黙って聞いてくれたよ。

 

けれど彼は、数秒後に、わずかに顔を歪めた。

 

「でも……でもよ。前に言ったろ。おりゃ、他のゲームでダチだった奴らと一緒に、徹夜で並んでソフト買ったんだ。……あいつら、もうログインして、さっきの広場にいるはずなんだ。……置いて、行けねえ」

 

 

 

この人は────強い。

 

 

 

「……」

 

私は息を詰めて、唇を噛んだ。

 

ただ陽気なだけじゃない。どこか人懐っこく、恐らく面倒見もいいのだろうこの人は、芯が、とても、強い。

 

クラインは、その友達全員を一緒に連れていくことを望んでいる。だけど────

 

いや、だからこそ。私はどうしても、頷くことができなかった。

 

クラインだけなら、レベル1の今でも好戦的(アクティブ)モンスターから守りつつ次の村まで連れて行けるという自信がある。

でもあと二人────いや、一人増えただけでもう危うい。

 

仮に。もしも道中で死者が出たとして、結果、茅場の宣言通りそのプレイヤーが脳を焼かれて現実でも死んだ時。

 

その責任は、当然、安全なはじまりの街の脱出を提案し、しかも仲間を守れなかった私が負うこととなる。

 

そんな途方もない重みを背負う覚悟を持つことなんて────私にはできない。絶対にできるはずがない。

 

その迷いを、クラインはまたも敏感に感じ取ったみたいだ。無精ひげの浮く頬に、強張りつつも太い笑みを刻み、ゆっくりと首を左右に振ってみせた。

 

「いや……、おめぇにはこれ以上世話んなるわけにゃいかねえよな。だから……おめぇは気にしねえで、次の村に行ってくれ。

オレだって、前のゲームじゃギルドのアタマ張ってたからな。大丈夫、今まで教わったテクで何とかしてみせら。まだ……これが全部悪趣味なイベントの演出で、すぐにログアウトできるっつう可能性もあるしな。それに……」

 

……?

 

「それに、なに?」

 

なぜか、少し照れ臭そうにためらってから、クラインは言った。

 

 

「……それに、よ。おめぇみてえな……その、か、カワイイ女の子に、ンな重みを背負わせられっかよ。そんなことすりゃ、仲間にも怒られっちまう」

 

 

な。……え!?

 

「そういえばおめぇ、狩りの時からなんか女の子みてえなしゃべり方してたけどよ、こうしてみる納得だわなぁ。こんなにカワ──」

 

「ちょ、ちょっと!!待って!いいから!それ以上言わなくて!」

 

不思議そうな顔をしないでほしい。

 

……恥ずかしさで死ぬかと思った。いきなり何を言い出すのこの野武士は。

 

 

そんなこと────生まれて、初めて言われた。

 

 

「すー……はー……んんっ!……ま、まぁそれは置いといて、だ!」

 

無理やり話をもとに戻し、耳に熱を感じながらも私は言う。

 

「……そういうことなら、ここで別れよう。何かあったら、メッセージ飛ばして」

 

「おう!」

 

……そうだ、大事なことを言っておかないと。

 

「そ、それと!……私が女だってこと、絶対、絶対!誰にも言わないでよ!……理由は言わなくても解るよね?」

 

「おう、キリトがカワイイ女の子だってことは、誰にも言わねぇよ。おめぇもバレんじゃねえぞ?」

 

またこいつは……!そのニヤニヤ笑いがムカつく……。

 

「──っ、……調子に乗らないで!私──''俺''、結構演技力には自信があるほうなんだ、ぜ!……じゃあ、またな、クライン」

 

眼を伏せ、振り向こうとした私に、クラインが短く叫んだ。

 

「キリト!」

 

「…………」

 

視線で問いかけたけど、頬骨のあたりが軽く震えただけで、続く言葉はなかった。

 

私はもう一度ひらりと手を振って、体を北西に──次の拠点となるべき村があるはずの方角へと向けた。

 

五歩ほど離れたところで、背中にもう一度声が投げ掛けられた。

 

「おい、キリトよ!おめぇ、ホントは案外カワイイ顔してやがんな!結構好みだぜ、オレ!」

 

今度は顔全体が熱くなっていくのを感じながら、私は苦笑し、肩越しに叫んだ。

 

「……アンタも、その野武士ヅラのほうが十倍似合ってるよ!」

 

 

そして私は、この世界で初めてできた友人に背を向けたまま、駆け出した。

 

角を曲がる前に、もう一度路地を振り返ったけれど、クラインはもう行ってしまったようだった。

 

胸を突き上げるような奇妙な感情を、歯を食いしばって呑み下し、私は再び駆け出した。

 

夕陽が世界を紅く染める中、はじまりの街の北西ゲートを抜けた私は、広大な草原と深い森、それらを越えた先にある小さな村──そしてその先にどこまでも続く、果てしない孤独なサバイバルへと向かって、必死に走り続けた。

 

 

 

少しだけ感じた頬を湿らせた温かさは、きっと気のせいに決まってる。

 

 

 


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