ある韓国海軍退役士官の回顧録
私は、韓国海軍に奉職していた。
そこで経験した事件を語ろうと思う。
その最後、退官するまで私は海軍虎の子のイージス艦の艦長として、韓国の敵に対して、抑止力の一角を担っていた。
独島の奪還のための作戦は、当時は
仮想敵国海軍だった日本皇国海軍は、世界三大海軍として名高い日本帝国海軍の末裔であり、今でも日本皇国海軍は世界三大海軍の1つに数えられている。
韓国が敵対している国家は、これほどまでに巨大なのか、そう考えさせられることが人生のなかで、数度あった。
まず1回目が、1990年に
我々、韓国海軍の参加艦艇はフリゲートが2隻、当時の我々、韓国の海軍力からすれば、これが限界だった。
当の日本海軍は、5個の外洋作戦艦隊のうちの1個艦隊を構成する12隻全てを、さらには潜水艦3隻、後方支援艦艇2隻、揚陸艦艇3隻とそれに乗る陸軍部隊、6000名を、航空部隊としてP-3C哨戒機を3機、他にも駆逐艦や海防艦十数隻を派遣してきていたのです。
到底、国自身の地力では叶わない。
そう思わされたのです。
その数年後に、韓国海軍は絶望的な戦いを日本海軍に挑むことになるとは、そのときの私は予想だにもしていませんでした。
(中略)
丁度その頃、まだ中尉だった私はフリゲートの"ソウル"に砲雷士として、乗り込んでいました。
今では退役したフリゲートですが、その当時では主力艦として、大切に扱われていました。
竹島奪還の命令を受けた我々は、駆逐艦数隻とフリゲート数隻の艦隊で、独島に接近しました。
砲雷士として、CICに詰めていた私は、レーダーの画面越しに信じられない光景を目にしたのです。
「旗艦、被弾。
反応、消失」
レーダー員の報告は、驚きだった。
旗艦だった広開土大王級駆逐艦は、ブリキ缶のような、軽装甲ではありましたが、新造艦で簡単に沈むような船ではありません。
そのはずだったのですが、それが一瞬で消失したことが、私たちにもたらした衝撃は大きかったのです。
「敵艦よりの再度の通告。
転針せよ、さもなくば撃沈する」
その報告を持ってきた通信士の顔が青褪めていた。
あとからわかった話でしたが、そのときには艦隊司令官は戦死していました。
そんな状況では、誰も動けません。
軍人というものは、命令がなければ動けません。
部隊の最高指揮官である艦隊司令官は、海軍の軍令機関である海軍本部からの命令を海軍作戦司令部を通じて受領しています。
その命令の範囲内において、艦隊司令官は自由な裁量を認められているのです。
それは私たちも同じでした。
命令が下されることもなく、屠殺されるのを待つ家畜のように、誰もが静かだったのです。
そういつもは、反日、反日と五月蝿い砲雷長が、黙ってしまっていました。
それでも誰かが命令を出さずとも、艦は進み続けていました。
しかし、そんな隙も見逃してくれるほど、甘い敵ではありませんでした。
次の瞬間、左舷側を航行していた僚艦が、消滅したのです。
「"
本艦にミサイル接近」
報告と同時に、3回の衝撃が、"ソウル"の船体を襲いました。
驚く間もありませんでした。
艦橋直下に据えられたCICにも、容赦なく爆風は吹き寄せてきました。
高温に熱せられたその風は、CICのなかにいた全員の身を焦がし、吹き飛ばしました。
斯く言う私も、その1人でした。
「朴中尉、朴中尉。
しっかりして下さい」
爆風に吹き飛ばされた私は、頭をどこかに打ち付けたのでしょう。
気を失っていました。
微睡みのなかで、誰かの声が聞こえ、頭の痛みを認識した私は目を覚ましました。
そばには、CIC付きの砲雷員だった李上士(一等軍曹)がいました。
「艦長以下、ほとんど全員の幹部が戦死しました。
幹部は朴中尉しか生き残っておりません」
そばにいた李上士から告げられた事実は、非情とも言うべきものでした。
ということは、この艦は戦闘能力を喪失したと、そう判定できるのです。
「今、指揮を執っているのは?」
「ダメコン室にいる先任伍長の指揮のもと、応急運転を開始しています。
朴中尉、指揮をお願いします」
李上士の言葉に、私は頭に残る鈍痛に、顔をしかめながら、頷いた記憶があります。
立ち上がって周りを見渡しても、使えるものがありません。
電話機もコードが焼き切れたのか、繋がりませんでした。
こんな状態では、CICでは指揮の執りようがない。
そう判断しました。
「CICは、もう使えない。
ダメコン室に移る。
いいな?」
李上士に、そう伝えると、CICを出て、ダメコン室に向かいました。
途中の廊下には、焼け焦げた死体、腕や足などが欠損した死体、首のない死体、肉片と血塊だけが残っているような、これは死体なのかさえ疑いたくなる死体など、見るに耐えない死体ばかりが並んでいました。
そんな凄惨な死体の並ぶなかを、私は駆け足で駆け抜けたのです。
吐き気がしました。
胃から昼食が逆流して、口のなかが酸っぱくなりました。
足元に並んでいたのは、昨日まで、いや今日の朝まで、互いに冗談なんかを言い合えていた仲間だったんです。
確かに、気の合わない奴もいました。
それでも、一緒の艦に暮らしていた家族同然の存在だったんです。
このときに死んだ仲間には、同じ場所に産まれた幼馴染みもいました。
軍の士官学校の同期、先輩、後輩、さらには、私の教官だった人もいました。
誰にでも死ぬときは来る。
それを私は強く感じましたし、次は自分の番かもしれないとも、感じました。
「艦隊の指揮は、どこの艦が?」
ダメコン室に辿り着いた、その瞬間に出た最初の台詞でした。
「不明です。
指揮権の委譲等は明言されておりませんので」
ダメコン室にいた先任伍長は、そう答えました。
私としても、予想していた通りでした。
「仕方がない。
先任伍長、浮いている艦すべてに打電。
"我、損傷甚大なり。
これより後退せんとす"
これを繰り返せ」
「了解」
ダメコン室の計器類、さらには機関室や水線下に異常は認められなかったこと、それが幸いでした。
「取り舵いっぱい」
上部構造物は焼け落ち、艦橋に据えられていた自動操舵システムは使用不能になっていました。
それによって必然的に、艦尾にある舵機室では、人力舵による操舵が行われていました。
艦内の各所においても、指揮系統の崩壊によって、大なり小なり混乱は発生していました。
「舵機室、取り舵いっぱい」
電話機越しに、舵機室に命令を下しました。
そのときに、返事は返ってきたのですが、中々実行される気配がありませんでした。
仕方なく、李上士を伝令として向かわせたところ、舵機室の乗員は皆、死んでいました。
李上士からの報告によると、数人は頭を強く打ち付けて死に、残りは頭を撃ち抜いて死んでいたのです。
そのなかのある死体の傍らには、拳銃が落ちていたそうです。
後に、大宇DP-51だと判明しましたが、そんなことはどうでもよかったのです。
新たに操舵室に人を配置する必要が出た。
そのことだけが、私の頭を支配していたからです。
「朴中尉、指揮権を掌握した金中領(中佐)より電話です」
金正成中領、骨董品の忠武級駆逐艦の艦長。
どちらかと言うと地縁や縁故で出世したとも思える、その幼稚な人間性。
下には強く、上には弱い、そんな彼を私は嫌っていました。
『誰が"ソウル"の指揮を執ってるんだ?』
「はっ、自分であります」
『即座に艦隊に合流せよ。
本艦隊は、当初の指示通り、独島奪還を目指す』
「申し訳ありませんが、それは不可能であります」
軍隊において抗命、つまり命令を無視することは、重大な軍規違反として処理され、即座に指揮権は剥奪されて、軍刑務所に送られることになる。
しかし、合理的な理由があれば、命令違反は問われることはありません。
『なぜだ?』
「自動操舵システムが破壊され、人力舵による応急運転を開始しようとしています。
ですが、今現在は漂流中なのです。
よって、即座の合流は不可能であります」
そう言いながら、金泳三大統領もとんだ見込み違いをしたものだと思っていました。
この攻撃で韓国は、駆逐艦を、フリゲートを失いました。
国民の税金をつぎ込んだ艦艇を失ったのです。
これは大きな損失でした。
守るべきは、最前線である38度線であり、海は二の次であるべきでした。
陸軍の予算はギリギリであり、国の防衛も危うくなっていると聞いていたからです。
『そうか…』
その声も途中で途切れ、雑音ばかりとなり、それもすぐに消えました。
静寂が艦を包みました。
遠くでは爆発音が聞こえ、そして消えました。
幸運だと思いました。
彼らの目に、我々は入っていない。
退避するチャンスだと、そう考えました。
攻撃が来ないなら、ちょうどいいと。
その頃には、舵機室に人員を割り振り終わり、改めて人力舵機による応急運転を開始できるようになった。
その報告を受けて、私は撤退することを決意しました。
「機関始動、出力絞れ。
取り舵いっぱい」
それが私の精一杯の指示です。
下級士官に過ぎない当時の私には、戦略何てものは分かりません。
生き残った部下を、生きて田舎に帰すこと、それが私の仕事でした。
そこに伝令が走ってきました。
甲板から上には、敵の対艦ミサイルがもたらした破壊の痕跡しか残っておらず、電話すらも不可能だったのです。
仕方なく、見張り員には一人ずつ伝令をつけさせました。
そこからダメコン室に、報告を持ってこさせるのです。
「見張り員より、周辺海域に友軍水兵の漂流者多数。
どうしますか?
との問い合わせです」
「救助せよ。
生存者はできる限り、救助するのだ」
そう命令すると同時に、機関を止めさせました。
艦が完全に停止した時点で、艦内に置いてあったゴムボートを下ろして、出来る限りの水兵を救助しました。
けれども、それをしている最中に、敵艦からの攻撃は、不思議とありませんでした。
「全員の救助完了。
重傷者はありません」
「分かった。
救助した者から、機関科か航海科に応援をまわしてやれ」
"ソウル"艦内には、敵から加えられた攻撃によって、戦死者が続出していました。
だからこそ、生存者の加入は艦の運航上、問題がないだろうと判断しました。
「針路284、鬱陵島に戻る。
取り舵15」
数日かけて鬱陵島に戻った"ソウル"は、数日の応急修理のあと、数日かけて本国の造船所まで曳航され、ドックに入渠しました。
やっと私は、肩の荷が下りた気がしました。
緊張の糸が解れ、その場に尻餅をついた覚えがあります。
そのときに聞いた話ですが、失脚したのは大統領ではなく、海軍首脳部だったようです。
そんなことは私にとっては、どちらでもよかったのです。
なぜなら、部下たちは全員、親日と見られかねなかったからです。
ただでさえ、何かしらの理由をつけて、罰せられる可能性もありました。
だから私は、上層部が何か言ってくるのを待っていました。
部下に責任を押し付けるつもりは、毛頭ありませんでした。
数日が過ぎ、私は軍法会議に呼び出されました。
「君と君の部下たちを罪に問うつもりはない。
これはあくまでも、状況を把握するための審問会なのだ」
その言葉を聞いて、安堵しました。
2日間続いた審問会のなかで、私はこの十数日の状況を、洗いざらい話しました。
無罪放免となったことで、私は軍歴に終止符を打つことなく、海軍勤めを再開しました。
その20年後に、あのような事態になるとは思いもしませんでしたが……