「終わったぁ~。」
大きく伸びをするとポキポキという小気味のよい音とともに、凝り固まった体が解されていくような心地よい疲労感が脳から四肢へと拡がっていく。そのまま机に倒れ込むとひんやりとした感覚が良い感じに体を冷ましてくれる。
空気が抜けた風船のように机に突っ伏す俺に若干の呆れを籠めた視線を寄越しつつ、三十分後に運動場で実技試験を行うので遅れないように言い残して試験教官だった金髪の若い教師は退室して行った。
机の冷たさを感じながら隙のない後ろ姿を見送りつつ、ぼんやりと考える。
──しかし、あの教師……この国の軍服を着ていたが、アレは、相当のやり手だな。
確か、軍事学の担当と言っていたが、むしろ
「……ただの超人だろうが」
「チョージン?」
誰も居ないはずの前の席から唐突に聞こえた可愛らしい声に萎んだ状態からビクリと覚醒する。
「……会長さん、驚かせないでくださいよ」
「へへ、ゴメンね。疲れて眠っちゃったんじゃないかと思ったけど、ちゃんと起きてて良かった」
安心したように顔を綻ばせる少女に、改めて感謝の気持ちを伝える。
「会長さん、本当に助かりました」
あの後、会長さんの協力の下で筆記試験の『軍事学』と『帝国史』の対策に取り掛かった。基礎内容だけとはいえ、簡単な教科ではなかったが、会長さんのポイントを絞った解りやすい指導もあり試験開始までの一時間の間に文字通り死に物狂いで頭に詰め込むだけ詰め込むことができた。その甲斐あってクロスベルでは、軽く触れた程度だったにも拘わらず『帝国史』と『軍事学』両科目ともに合格ラインを越えることに成功した。
「えへへ、よかった力になれて」
「力になれたもなにも……『帝国史』のあんなマニアックな論述問題や機甲戦術の問題なんて俺一人では、手も足も出ませんでしたよ」
「うーん、馴れって言ったら変な話だけど、『歴史学』のトマス教官も『軍事学』のナイトハルト教官も何となく毎回、特定の問題を出題する傾向があるの」
ナイトハルト教官…―先程の金髪の軍人の纏う雰囲気を思いだし、軽く身震いする。熱さと寒さの両方が体から湧き上がるのを自制しながらも先程もふと気になったことを尋ねる。
「ナイトハルト教官って、俺の試験官をしていた軍服を着た若い方ですよね?」
「うん、帝国正規軍第四機甲師団からの出向という形で『軍事学』の教官を勤めているんだけど、第四機甲師団のエースとして若くして少佐の地位に就いているスゴい教官なんだよ」
それは、もはや《スゴい》という領域を越しています、と内心で突っ込みつつ本題を尋ねる。
「すみません、少し疑問に感じたんですけど『武術・実践技術』っていう教科も確かあったじゃないですか。正直、ナイトハルト教官以外にもアレ程の腕前の方っているのですか?」
薄暗い青さを帯びてきた空が一日の終わりを告げる。五月に入り、夜が日毎に短くなっていくのを日々感じる。
自分の故郷では既に星が瞬いている時間であったからか、目に見えて変わっていく空が風が全て新鮮で眩しい。
「あら、リィン?」
背後から呼ばれた自分の名前に振り返る。太陽の光ような黄金色の髪に炎のような強さを感じる深紅の瞳、頑なにファミリーネームを明かそうとしないが、どこか気品を感じるクラスメイト―アリサに気付いて軽く会釈する。
「やぁ、アリサ」
「ふふ、いつもは、ボーッとしているようでも、すぐに気付くのに今日は珍しいわね」
「あ、あぁ」
空に見とれていて……など恥ずかしくて告白できるはずもなく、曖昧に言い澱む。しかし、アリサの方は特に気にする様子もなく、まぁ、そんな日もあるわね、と小さく微笑んだ。
「それにしても、珍しいといえば、貴方がこんなに遅くに残るのも滅多にないわね」
「あぁ、トマス教官とナイトハルト教官に少し用事を頼まれたんだけど、ちょうど終わった所なんだ。あれ、アリサの方も部活はどうしたんだ?」
彼女の所属するラクロス部は、熱心な部長、副部長の存在もありわりと遅くまで部活を行っている。さすがに薄暗くなるような今の時間まで練習をすることは無いにしても用具の後片付けに運動場の整備、そして、今日一日の汗をキレイに洗い流すべく―……まぁ、男子が想像するべきではない諸々を終えて、寮へと帰ってくるのは18時を大きく上回る時刻になるのが常である。しかし、現在目の前にいる少女は、18時前にして既に真紅の学生服姿で帰宅の道中にいる。
「サラ教官が編入試験に使うみたいで、運動場を使う部活は今日は早めに切り上げることになってるのよ。多分、ユーシスもそろそろ帰ってくるんじゃない?」
「ユーシスかぁ、悪いやつじゃないんだけど、そろそろ何とかならないかな……」
現在、自分達のクラスが抱える最大の問題の当事者を思い出し、小さく溜め息をつく。しかし、最近では、さらに厄介なことに──
「貴方も立派な当事者の一人よ」
「………重々承知しております」
入学オリエンテーションのときに曖昧に身分について誤魔化したことがマイナスに働き、前月末の特別実習の後、改めてクラスメイトに自分の身分―ユミルを治めるシュバルツァー男爵家の養子であると告げたところ、何かにかけて貴族に悪感情をぶつけるマキアスにすっかり目の敵にされてしまった。
──まぁ、地道に溝を埋めていくしかないか……
再び、盛大な溜め息もこぼす姿を見て、アリサが小さな苦笑をこぼす。
「まぁ、転入生も入って来るんだから、少しは彼らの雰囲気も変わるんじゃない?」
「……だといいけど、俺には何か嫌な予感がするんだ」
そう、明確に言葉に出来るわけではないが、胸の奥が何処と無く落ち着かないような感覚。小さな骨が引っ掛かったような違和感。理由もない不安というものが胸で燻り続ける。
「うーん、気にしすぎじゃないの?貴方って人一倍に色々と気にする性質だけど、あまり張り詰めちゃってばっかりだと体が持たないわよ」
顔では小さく笑いながらも深紅の瞳に心配の色を浮かべる。入学オリエンテーションでの『不幸な事故』が原因で余分な気を揉ませてしまったという思いが未だに彼女のなかにあるのかも知れない。その姿にいつも自分の身を案じてくれた妹の姿が重なり、小さく口を弛める。
「ありがとう、アリサは、優しいな」
「なっ!、と、突然なに言ってるのよ!」
良かれと思って言った言葉が何故か怒りを招いたことに困惑を覚えながらも、どこか、ホッとした気持ちで彼女の言葉を胸に自分の内にある不安に蓋を被せる。
──彼女の言う通り杞憂に違いない。ようやく、学院生活に慣れてきて、溜まった疲れが一気に噴出したせいで悪い方ばかりに考えるんだ。
その時、この出会いが俺逹の、《エレボニア帝国》の、そして、この世界の運命すら大きく変えるものになるなんて知りようもなかった。