魔理沙が気を失っている霖之助を抱えて永遠亭へ飛び立つと、浩平は名前を知らない少女と香霖堂の中へ戻っていった。
店内は荒らされていない。が、霖之助が寄りかかった際に勘定台の上に乗っていた品物がいくつか足元に落ちており、台の上と床に点々と血痕が残っている。
少女の表情はまだ固いが、血の気は戻っていた。浩平は手近な椅子に腰掛けて、少女にも座るよう促した。彼女は何も言わずに背中の羽をたたんで、座り込んだ。
「大丈夫かい」
彼女が頷いた。
浩平は、それを真に受けたふりをした。
「茶でも出したいところだが、茶葉の場所も知らなくてね」
「気を遣わなくていいわ、私も知らないから」
彼女自身、出てきた言葉が意外だったかように目を見開いた。苦笑が漏れた。
「知らないのが当たり前なのに、ね」
「そうかもしれないな。すまない、このまま話をさせてくれ。君が森近さんを見つけたらしいが、そのとき何か変なことに気づかなかったか」
「何も。本当に、何も分からないの。どうして、店主があんな目に」
「それを、俺も知りたいんだ。だから、協力してほしい。質問を変えよう」
浩平は、目の前の少女が今日、目覚めてから香霖堂に来るまでのことを訊ねた。
「ゆっくり、順々に思い出してほしい。君は今朝、自分の住処で目を覚ました。それから、何をしたか。水を飲んだり、顔を洗ったり、そういうことからでいい」
少女は考え考え、口を動かした。
「朝起きて、着替えて、それから朝食を食べて、家の外を歩いたわ。日課なの。朝の冷たい空気の中で歩くのが好きなんだ。いろいろ考えてた。昨日の夜読んだ本の内容とか、今日は何をしようかとか、どうやったらあの店主から本を買い取れるだろうかとか。そういうこと。あなたも見てたでしょう、あのときのやり取り。店主って結構ごうつくばりなのよ。なかなか本を譲ってくれないの」
「彼も商売だからね。物々交換なら、それなりに良い物じゃないと」
「うん。だから、何か良い物が手に入らないかって、その辺りを注意深く見てたわ。私ね、家が魔法の森の近くにあるの。だから、あの森の外側ぐらいまでは歩くのよ。中は駄目。あんなの妖怪でも好んで入るような場所じゃないわ。あの魔法使い、どうしてあんなところに住んでるのか、いつも不思議。でね、良さそうな物を見つけたのよ。文字が分からなくて読めなかったけど、変な気配がする本。ほら、貴方が来た時、しゃべってたからピンと来たの。ああ、これは妖魔本だなって」
浩平がメモ帳に当てていたペン先が、わずかにぶれた。白い紙面に点とも線ともつかない黒い染みが滲んだ。
「それはどんな本だった」
「そうね。黒い革張りの立派そうな本よ。頁も文字と挿絵のところ以外は真っ白で、手垢もついてなかった。綺麗で不思議な本。だから、きっと店主も気に入るんじゃないかと思ったのよ」
『鏡の悪魔の書』の特徴とは食い違っていた。
浩平は、一度目を閉じ、眉間の皺を伸ばすように指を当てた。
「失礼。それで、君はそれを香霖堂に持ってきたのかい」
「そう。店に入るまで、こんな風になるだなんて、想像もしなかった」
「君が持ってきたという本はどこにあるの」
「あのときは慌ててたから、えっと、ほら、あそこよ」
店の入り口付近に、彼女がいう通りの特徴を備えた本が転がっていた。
「店に入ったら店主が倒れてて、動転しちゃって、きっとそのときに手放したのね」
「君が来たとき、森近さんは床に倒れこんでいたんだね」
そういって血痕の残る勘定台と物品の散乱した床の方を指差すと、少女は唇を噛んで頷いた。肩が震えていた。
「駆け寄ったら、血が見えたの。何かあって、あの台に必死に、寄りかかったのね。でも、掴まり切らなくて、床に倒れたに違いないわ。額の上の方が、血だらけで、眼鏡も鼻掛けの辺りで折れ曲がってて、右の耳に弦が引っかかってた、ぷらーんって猿の腕みたいに。そうよ、あの時そう思ったんだ。変だなぁって、私、馬鹿みたいに。でも、声を掛けても、揺すっても、目を覚まさなくて、頬の色も真っ青で血の気がなくて、いき、息の音もぜんぜんしなくって、私、どうしたらいいか分からなくなっちゃって、あの人に、何もしてやれなくて、何もせずに、飛び出してた」
彼女は一語一語を搾り出し、膝の上で組んだ両手に力を込めた。交差した左右の親指の上に、透明な雫が一滴二滴と、鼻先を伝って落ちてきていた。全身が震えていた。
ふと、彼女は顔を上げて、浩平を見た。赤らんだ頬に流れる涙と、鼻水が彼に訴える。
「馬鹿みたい、じゃない。馬鹿だ、私。どうして、あのとき、何もしなかったんだろう」
浩平は立ち上がり、彼女の頭を肋骨の下辺りに抱き寄せた。少女の両手が彼の着物を引っつかむ。嗚咽が伝わってくる。震えも激しくなったが、彼は黙って白い髪を梳き、彼女の頭を撫でていた。
彼女が落ち着くと、浩平は店内の様子を調べ始めた。妖怪の少女も、常連の立場から変な場所がないか、見てくれた。だが、店内で荒れていたのは霖之助が倒れ掛かった際に落とした勘定台の上の品物だけで、他の商品には傷もなければ、動かした形跡すらなかった。
浩平は勘定台の上も調べたが、血痕以外に目立って気になるものはなかった。
次に、落ちている品物を見ていった。まず目に飛び込んできたのが、この店に不似合いな品物だった。それは拳銃だった。年代物のリボルバーで、フレーム部分に若干錆が浮いているが、ひびも歪みもない。白い銃身の32口径だった。
シリンダーを開けると、6つの穴に薬莢が3発入っていた。浩平は薬莢を掌に落とした。綺麗な薬莢だった。シリンダーだけを戻して、引き金を引いた。撃鉄が後ろに起き上がり、勢い良く前に倒れた。カチリと固い音がした。
改めて薬莢を込めて、シリンダーを戻した。そのとき、最初の3発が空砲になるように入れた。彼はそれを落ちないように腰帯の右腰側に挟み込んだ。
「それ、持っていくの」と少女が訊いた。
「借りていくだけだよ」
「まるであの巫女か魔法使いみたいね」
浩平は勘定台の上のメモ帳に一筆、リボルバーを借用し、後日支払う旨を記した。
「ほら、俺の方がよほど良心的だ」
「五十歩百歩でしょうね」
「見逃したんだから、君も従犯だよ」
「じゃあ、これは私とあなたの仕業ね」
浩平が笑みを浮かべると、彼女も笑った。今日はじめて見た笑顔だった。
次に目に入ったのは、開いた状態でひっくり返った商品目録だった。先日、霖之助が見せてくれたものだ。他の本も一緒に落ちていたが、皆閉じてある。その本だけが、まるで栞を挟む余裕もなかったかのように、床に伏せてあった。
持ち上げようとすると、頁の端にインクのように染みた血が見えた。そして、その下には容疑者が隠し持った血糊のついたナイフのように、筆が一本隠れていた。白い毛筆が粘りのある赤黒い色で汚れていた。血はまだ乾き切っていない。
目録を表に返すと、最後の行に血の筆跡で売買記録が書き加えられていた。品目は『鏡の悪魔の書』、取引相手は空欄だった。
「鏡の悪魔の書って何。どうしてこんなのが血で」
「なあ、君。頼みがあるんだ。茶色い革装丁に金属製の鍵が付いた本が店にないか探してほしい。表に『The evil of mirror』と銀色の文字で書かれているはずだ。もしあったら、絶対に開かないようにして俺に渡してくれないか」
「それが鏡の悪魔の書なの。その本が店主とどう関係が」
「本当に、俺にも分からない。だから、調べたいんだ。頼む」
販売スペースは妖怪の少女に任せて、浩平は霖之助の私室を調べた。店の奥が彼の私室になっていて、相当数の本やガラクタがコレクションのように展示してある。そこには、鏡の悪魔の書は見当たらなかった。床下収納や金庫の類もない。しばらく調べて、浩平は販売スペースに戻った。
妖怪の少女は作業をやめていた。新たに現れた人物と口論になっていたからだ。
「話が見えないわね。ここの店主が怪我をしたのは分かったけど、それと貴女が商品を引っ掻き回してたのと、どう繋がるのかしら」
「私は、店主を傷つけた犯人の手がかりを捜してるだけよ」
「どうして貴女がそんなことをする必要があるのか、分からないわ」
「それこそ、貴女には関係ないじゃない」
妖怪の少女は決め付けた。
アリス・マーガトロイドは何処吹く風で、不審の目で少女を見ていた。その横に護衛のように浮いている人形も、顔をしかめて少女を睨み付けている。先日出会った時とは違う本を小脇に抱えている。
浩平が出てくると、疑いの目はそのまま彼に向いた。彼は出来るだけ柔らかい口調で話しかけた。
「こんにちは、ミス・マーガトロイド。先日振りだね」
「誰、あなた」
不審の視線がますます強くなる。人形が彼とアリスの間を遮る様に、前に出た。
「私、あなたとは初対面のはずだけど」
「そんなことはないさ。魔法の森のご自宅で、お会いしたよ。つい二日前のことだ」
「だから、覚えてないわ。貴方達、ここの店主はどこに行ったの。それに、主人のいない店で家捜しなんかして、何が目的なの」
浩平は霖之助が何者かに襲われて怪我をしたこと、魔理沙が彼を永遠亭に連れて行ったこと、自分は魔理沙に雇われている探偵であることを説明した。
彼は妖怪の少女を指して「彼女が第一発見者だ」と付け加えた。
「俺達は、魔理沙が戻ってくるまでこの店を預かって、森近さんが誰に襲われたのかを調べていたわけだ」
「貴方の話は分かったけど、そのまま信じるのは難しいわね。何か証拠になるようなものはあるかしら」
浩平は血で塗れた商品目録を見せた。アリスは目録に残った赤い筆跡と、他の筆跡を注意深く見比べていた。しばらくすると、浩平に目録を返した。
「確かに、ここの店主の字みたいだし、彼に尋常じゃないことが起こったのは間違いなさそうね」
「俺もそう思うね。ところで、ここに書かれた鏡の悪魔の書という本に、心当たりはないかな。これが犯人に繋がるヒントになると、そう考えてるんだが」
アリスは肘を抱き、思案するような顔つきをした。浩平は彼女の目の前に浮かぶ人形を見た。人形は、相変わらず厳しい顔つきで浩平達を警戒するように身構えていた。
浩平はいった。
「ミス・マーガトロイド。君、この魔導書を見たことがあるんじゃないか」
彼女は答えない。
「この魔導書は、最初はパチュリー・ノーレッジ、その次は霧雨魔理沙の元にあった。そして、今は行方が知れない。ノーレッジ女史も魔理沙も、この本の行方を追っているんだ。そして、何故か探している本のタイトルがこの目録に書かれているが、この店を探しても出てくる様子はない。もし知っているなら、是非教えてほしい」
「貴方は、この魔導書についてどの程度知っているわけ」
「その前に、君が持っているかどうかだけ、教えてくれないか。君に関係のない話なら、わざわざ君を巻き込むこともない。俺達だけで何とかするよ」
「持っているわ。確かに、あの本は私の家にある。でも、あれは」
アリスが口ごもる。
浩平は彼女の目を見て、頷いた。
「その先は、俺の話を聞けば理解できるかもしれない」
浩平は、小悪魔から聞いた『鏡の悪魔の書』について、アリスに説明した。
「今のところ分かっているだけで、魔理沙の偽者がどこかをうろついているはずだ。他の誰かに会っていれば、その人物にも姿を変えている可能性がある」
「深刻ね。貴方は、その悪魔がここの店主を襲ったんだと考えているの」
「まず間違いない。森近さんは、誰からもあの魔導書のことは聞いていないはずだ。俺も話していないし、魔理沙や小悪魔さんから聞いたとも考えづらい。魔理沙はずっと家に缶詰だったし、小悪魔さんは聞かれない限り、自分が探している物のことを軽々しく喋るとは思えない。それでも、森近さんがこの名前を書き残したということは、彼はその時に『鏡の悪魔の書』を見ているんだ。彼の能力は、道具の名前と用途が分かるらしい。なら、犯人のことは知らなくても、その犯人が持ち歩いている魔導書の名前は分かったはずだ。辻褄は合うじゃないか」
「どうやら、そのようね。でも、まだ確定じゃない」
アリスが店を出ようとすると、浩平は彼女を呼び止めた。
「どこに行くんだ」
「自分の家よ。あの魔導書があるか、確認するの。もしなければ、貴方の話の裏づけになるでしょう」
「俺も連れて行ってもらえないかな」
アリスは頷いた。
浩平は、妖怪の少女に店を預かってもらい、アリスと一緒に店を出ようと歩き出した。
ふと、目に留まった商品棚に、丁寧に畳んだハンカチが並んでいた。色とりどりのハンカチから、浩平は空色のハンカチを一枚、抜き取った。
「あら、また借りていくつもり」
妖怪の少女が微笑んだ。
浩平は振り返り、至極まじめな口調でいった。
「いや、買っていくよ。女性の涙は、俺の服には重すぎる」
少女が頬を赤らめて顔を伏せた。白髪に混じった紫色の前髪が、潤んだ瞳を覆い隠してしまう。
浩平はハンカチがあった場所に小銭を置いて、アリスと一緒に香霖堂をあとにした。
アリスが右手の中指に填めた指輪を掲げると、マーガトロイド邸の玄関扉が風に靡く暖簾のように動いた。岩戸の魔法は消えていた。
「そういえば、二日前だったかしら。家に戻ってきたら、鍵が開いていたの。確かに出る前に閉めたと思ったんだけど。それから、家の鍵とは別に魔法で鍵を掛けることにしたのよ。自分でもやり過ぎじゃないかと思うけれど」
「最近は幻想郷も物騒だからな。その方が良い」
アリスは浩平をじっと見たが、すぐに部屋の中に入ってしまった。浩平も彼女の後に続いた。アリスは部屋のあちこちに座り込んでいる人形達を一瞥して、両手の指を宙でふった。それだけで、人形達に命が吹き込まれた。神経が通い、熱い血液が通い、魂が通ったようだった。彼らはそれぞれ目を見開き、思い思いに立ち上がり、アリスを注視した。
「貴女達、私の魔導書を探してちょうだい。この間、魔理沙からもらった本よ」
人形達が動き出した。彼らは部屋中を漁り始めた。本棚から本を抜き取り、一冊ずつ丁寧にテーブルへ置いていく。棚という棚は花瓶から小物まで一つひとつ動かして、隙間を確認していく。カーテンの裏やテーブルの下は勿論、カーペットまで引っぺがして探していた。
「魔理沙からもらったのか。あの本を」
「ええ。だから、はじめは貴方の話を信じなかった」
「今も半信半疑なんだろう」
「だから、確かめているのよ。私なりにね」
浩平が一時間かけて行った作業を、人形達は数分足らずで終わらせた。魔導書は出てこなかった。人形達は、どこか意気消沈したような顔や、主人を窺うような顔をしていた。
アリスは柔らかに表情を緩めて、いった。
「お疲れ様。もう良いわよ」
彼女が再び指を振ると、人形達は元の場所に座り込んで、その目を閉じた。それっきり、動かなくなった。浩平は傍に佇む人形に触れた。熱も鼓動も眠りの気配さえもなかった。
「見事な人形捌きだ。感心するよ」
「伊達に人形遣いを名乗っていないもの。これぐらいなら訳もないわ」
浩平が振り返ると、アリスが訊いた。
「貴方、二日前に私に会ったって、いっていたわね」
「ここの玄関先でね。君はどこかに出かけようとしているところだった」
そのときのことを、浩平は説明した。アリスに覚えがないのは変わらなかった。
「その私は、どこか変わっていたかしら」
「君のように、人形を連れていなかったし、本を小脇に抱えていたよ」
「これかしら」
アリスは自分が持っている本を差し出した。色は焦げ茶色で、鍵は付いていない。表題も書いておらず、一見してどういう本なのか分からなかった。だが、それが先日出会ったアリスが持っていた本とは、違うことだけは分かる。
浩平は首を横に振った。
「違うみたいね。でも、私は最近はずっとこれを持ち歩いていた。これはネタ帳なのよ、人形劇のね。思いついた端から書き留めているの」
「ありがとう。次は俺が質問しても」
「どうぞ」
浩平が訊いたのはひとつだけだった。
「君は魔理沙からあの本を何時もらったんだ」
「三日前よ。もう読まないから、興味があるなら読めって渡されたわ」
それは、魔理沙が何者かに襲われた日だった。
次がクライマックス。
ここまで来たら最後まで書き上げたいです。
頑張ります。