今回は挿絵投稿機能のテストも兼ねています。
香霖堂に戻ると、魔理沙が戻ってきていた。顔色は白く、立ち尽くして勘定台を見つめていた。
妖怪の少女は途方にくれた様子だった。
浩平が声を掛けると、魔理沙は振り返った。黒い三角帽子が頭の上で傾いて、彼女の左目を隠していた。見えている右目はすりガラスのようにくすんでいた。
浩平は、魔理沙に霖之助の容態を聞いた。
「あんまり良くないみたいだ。永琳は傷の手当てをして、しばらく様子を見るしかないってさ。目が覚めるかどうかも分からないって」
「で、君は堪えられなくなって逃げてきたのか」
魔理沙は一瞬顔を硬直させ、彼から目をそらして俯いた。
「ジョークにしちゃ、面白くないな」
そういって、彼女は顔を上げた。帽子の位置を直すと、人差し指で鼻の下を擦った。
「お姫様は柄じゃないのさ。私は悪い魔法使いだぜ。それっぽいこと、しなくちゃな」
「犯人に呪いでもかけるのか」
「まさか。直接ぶっ飛ばすんだよ。魔法はパワーだぜ」
「まあ、君がやられっぱなしが性分じゃないことは、知ってたさ」
「利いた風なこと、いいやがって」
彼女は笑った。いつものように、口の端を吊り上げて、不敵に。
「だったら、頼りになるナイトさん。ささっと犯人を捕まえとくれよ。腹いせにあんたがぶっ飛ばされる前にね」
浩平は妖怪の少女に、魔理沙にどこまで話したか訊いた。
「まだ何も。彼女、ついさっき帰ってきたのよ」
浩平は血に汚れた商品目録を見せて、アリス・マーガトロイドが『鏡の悪魔の書』を先日まで所有していたこと。そして、あの魔導書を魔理沙からもらったと証言していることを話した。
「私がか。アリスが嘘ついてるんでもなけりゃ、やっぱりそういうことだよな」
「一応確認するが、君が最近ミス・マーガトロイドに本をあげたことは」
「ないよ。そもそも、私が読むような本をあいつが読むなんて思えない。同じ魔法使いでも、興味の範囲が違う」
「ミステリが好きか、恋愛モノが好きかの違いみたいなものかしらね」
妖怪の少女が頷いた。そして、紙と鉛筆を取り出し、手近にあったテーブルに広げて書き始めた。大きな丸を描いてその傍に『魔法の森』と書き、その丸の中に『魔理沙の家』と『アリスの家』を小さな丸で書き加えた。そして『魔理沙の家』から『アリスの家』に向かって『→』を引き、さらに『アリスの家』から線を『魔法の森』の大丸の外へと伸ばした。線の先にくの字を加えて矢印にすると、小さな丸を加えて『香霖堂』と書き入れた。少女は一瞬手を止めて、最後に香霖堂から小さな矢印を斜めに走らせて『不明』と殴り書きした。
「これが大雑把な、悪魔とやらのルートかな」
「別に込み入ってもないし、変なところはなさそうだけど」と魔理沙。
「そうかな。変なところはあるだろう」
浩平は矢印を指で辿りながら、喋った。
「まるで不規則な動きだ。魔理沙という魔法使い相手に姿を写し取るのに失敗した直後に、また魔法使いであるミス・マーガトロイドの家に転がり込んでいる。これだけでも危険な行為だ。失敗したら、ミス・マーガトロイドに封じられるかもしれないのに、あえてその危険を冒している。その後は香霖堂だ。しかも、どうやらまた失敗している。あの血文字がその証拠だ。乗っ取られていたなら、あんなメッセージは残せないし、魔導書も傍にあったはずだ」
「私達が探したときは、なかったわ」
妖怪の少女も同意する。
「つまり、そのまま逃げたんだろう。あいつの動きに目的が感じられない。どこに行きたいのかも分からない。ちぐはぐで、まるで道に迷った子供のようだ」
「アリスが嘘をついている可能性は。あいつは私から魔導書なんて受け取ってなくて、悪魔はそのまま香霖堂に向かったってのはどうだ」
「それは不自然よ。貴女の家からここまで、三日もかからない。子供の足でも、せいぜい丸一日あれば足りるわ」
「それに、ミス・マーガトロイドに嘘を吐く理由がない。彼女は三日前まであの魔導書と接点がないんだからな。あれはノーレッジ女史の本であり、魔理沙、君が持ち出したんだ」
「分かってるよ。ちょっといってみただけさ」
魔理沙は肩をすくめて、唇を尖らせた。
「なんだよ。あんたまでその妖怪と一緒になって。あんただって今朝までアリスを疑ってたじゃないか」
「偽者の方をな。今日、本物に会ったから、二日前に会ったのが偽者のミス・マーガトロイドだったと確信できた。偽者はまるで犯罪者タイプだったが、本物の彼女は素晴らしく知的でミステリアスだな。まさにクールビューティって感じだった」
「慧音にチクるぞ、この浮気野郎」
浩平の背後で、来客を告げる鈴の音と共に、玄関扉が吹き飛んだ。思わず振り返ると、扉は蝶番から外れ、宙に浮いたと思ったらそのまま床に落ちた。地震のような音が足を伝わった。
「邪魔するわよ」
それだけいって、博麗霊夢が落ちた扉を踏みつけて香霖堂に入ってきた。誰かが何かをいう前に、彼女は浩平に歩み寄った。彼女の端正な顔が近づくにつれて、彼の上体が後ろに仰け反る。霊夢はお構いなく、手に持っていたお札を彼の額に貼り付けた。浩平の視界が赤と白二色だけになる。
「霊夢さん。これは一体」
「ふむ。どうやらあなたは大丈夫みたいね」
霊夢はお札をはがした。額に粘着テープが剥がれる時のような痛みが走る。
霊夢は同じことを、魔理沙と妖怪の少女にも行った。妖怪の少女は舌の根が痺れたようになって「あにするのよ」と声を上げていたが、それ以上のことは何もなかった。
「あんた達は本物ね。ねえ、木口さん。アリスの奴を里に寄こしたのは、あなたよね。私に、変装する悪魔を退治してほしいって、伝えるようにいったそうじゃない」
浩平は頷いた。
「おかげで、あの変なのの正体が分かったわ」
「ということは、霊夢さんはあの悪魔と会っているんですか」
「まあね。最初は訳分かんなくて、取り逃がしちゃったけれど。あいつは今、人間の里にいる」
霊夢はそっけない口調で、そういった。
浩平は妖怪の少女と別れて、霊夢・魔理沙のふたりと人間の里へ戻ってきた。
里の中心にある龍神像へ続く大通りで、藤原妹紅がこちらに気づいた。彼女は片手をズボンのポケットに突っ込みながらもう片方の手を頭の高さに持ち上げた。
その影に隠れるように、アリス・マーガトロイドが屈み込んでいて、通りがかりの子供相手にシャンハイという名の人形を操って見せていた。シャンハイが宙返りする度に赤や青や黄色の光の玉が生まれ、シャボン玉のようにはじけた。きゃっきゃと笑って立ち去る子供を、アリスは微笑んで見送った。
「巫女さん、こっちは進展なしだ。この魔法使いに魔法で探ってもらったけど、特に分かることはないってさ」
「悪いわね。里にはいろんな妖怪が出入りしてるから、紛れが多いのよ」
「そう。お疲れ様」
「探偵。そっちは」
「ミス・マーガトロイドに伝えた以上のことは、分かっていない」
「おいおい、これだけ雁首そろえて打つ手なしって訳じゃないだろうな」
「私たちはやれることをやるだけよ。そういう魔理沙はどうなのよ」とアリス。
「そうだな。とりあえず、もう昼だから飯にしよう」
魔理沙は自分の胃の辺りに手を当てた。
「それがアイディアなの」
「腹が減っては何とやらさ。浩平、奢ってくれ」
「経費で落としても良いなら」
「よし、割り勘だ。文句ないな」
五人が屋台のそば屋に入ると、紅魔館の小悪魔が掛そばを啜っていた。
「何か分かりましたか」と浩平。
「私に分かったのは『鏡の悪魔』が魔法の森を出て、何人かの妖怪を取り込んだらしいということだけです。その足取りを追っていたら、里に入り込み、博麗の巫女に追われていると知りました。だから、ここで皆様をお待ちしてたんです。少々危険ですが、紛れ込んだあれを探すには、人海戦術しかないだろうと思いまして」
霊夢は浩平の前に出て、小悪魔の額に札を張った。
小悪魔は「あいたっ」と悲鳴を上げたが、それだけだった。彼女は結論だけを伝えた。
「魔導書を持っている人間を探すんです。博麗の巫女があれを取り逃がしたのがついさっきなら、まだ誰かを乗っ取るには時間がかかります。体から追い出すのも難しくないでしょう」
誰もこの意見には異論を挟まなかった。
「小悪魔さん、鏡の悪魔の目的とは、何だと思います」
「あれに目的なんてありません。ただ生きて存在するために、手当たり次第に喰らってるんですよ」
腹を満たしてそば屋を出ると、霊夢は全員に二枚ずつお札を渡した。ただし、一回だけ効果がある、使い捨てだと説明した。
「体の中にいるんなら、これで叩き出せるわ。一枚は自分で身に着けておきなさい」
浩平は一枚を懐に入れ、もう一枚は袖の裏に隠した。
全員がその場で解散した。
彼は大通りを歩きながら、里の人間を観察した。夏に合わせた薄い着物姿がほとんどで、本を隠して持ち歩けるような格好をした人間はいない。農地や牧場から一休みしに戻ってきた者たちも多く、そのほとんどは服に乾いた泥や埃、雑草の切れっぱしを飾っていて、温かい土や乾草や牛の糞(ふん)が発する匂いを香水のように身に着けていた。
鈴奈庵の前を通ると、本居小鈴が打ち水をしていた。浩平を見て、目をしばたかせる。
「あれ、もう探し物は見つかったんですか」
「いや、まだなんだ。この近くにあるらしいのは、分かってるんだけどね」
「大変ですね。いくつも探し物を抱えてると、何から探せばいいか分からなくなるんじゃないですか、お仕事だから仕方ないのでしょうけど」
浩平は苦笑した。
「そういうこともあるけど、最近は探し物がひとつだけだから、楽といえば楽さ」
「でも、妖魔本は見つかったんでしょう。今は何を探してるんです」
彼の表情が固まりそうになり、ぎこちなくも笑みを深めようとした。
「同じものだよ。そういえば、君のところに新しい入荷はあったかい」
「ありませんね。まだ2、3日しか経ってませんし」
「実は、依頼人がご執心の本があるんだ。もし見かけたら、押さえておいてほしいんだけど」
「そうなんですか。どういう本なんです」
『鏡の悪魔の書』の特徴を説明すると、小鈴は小さく首を傾けた。
「それって、さっき探偵さんが持ってた本じゃありませんか」
「そうだったかな」
「そうですよ。というか、さっきもその話しましたよ」
「暑さにやられたのかな。ちょっと覚えていない」
浩平は肩を落とし、麦藁帽子のつばに陽光をひっかけるようにして太陽を仰ぎ見た。袖から手ぬぐいを取り出して、額の汗をぬぐった。
「働きすぎは体に毒ですよ。ちょっとはお休みを入れないと」
「きっと明日には休めるさ。恥をかいたついでに訊くけど、さっき俺はどっちに歩いていったかな」
「本当、しっかりしてくださいよ」
小鈴は呆れながら「あっちです」と指差した。龍神像のある広場の方だった。
「ちゃんと体を大事にしないと、慧音先生にしかられますよ」
「やあ探偵の兄ちゃん。さっきは慧音先生にこっぴどく怒られてたみたいだけど、もうお説教は済んだのか」
龍神像の前で出会ったノッポの通行人に、そんな冷やかしを受けた。話を聞くと、二人は広場で言い争いをして、慧音が浩平を連れて行ってしまったらしい。
「上白沢先生は何ていってたんだ」
「覚えてないのか、薄情な奴だな。お前さんがしょっちゅう里の外に出るから、それを苦言したんだろう。あんま先生に心配かけるもんじゃないぞ。さっさと帰ってやれ」
「どこに」
「自分の家に決まってるだろう」
浩平の事務所兼自宅は、里の東地区にある長屋にあった。看板には「調査、鑑定、相談その他」とだけ書いている。立て付けが悪くなっている戸を開くと、むっとする熱気が室内から溢れてきた。四畳半には箪笥ひとつに畳んだ布団、卓袱台しか置いていない。その卓袱台にメモが一枚あった。慧音の筆跡だった。
『授業をしよう。ひとりで来ること』
メモを袖に突っ込んで、浩平は寺子屋に向かった。
通りの角で霊夢に出くわした。彼女は普段と何も変わらない平静な顔と声で訊いた。
「そっちは」
「いいえ、霊夢さんの方は」
「ハズレよ」
「そうですか。じゃあ、またあとで」
浩平がすれ違おうとすると、霊夢が彼の袖ごと腕を掴んだ。少女とは思えない腕力に、彼の足が止まる。ふたりの視線が交わった。彼女の瞳は鏡のように彼の顔をくっきりと写している。写り込んでいる顎は、歯を食いしばっているように見えた。
霊夢はいった。
「もし、あなたがあの悪魔を見つけたら、必ず他の誰かを呼びなさい」
浩平は自由な方の手を頭にやり、麦藁帽子をずらしてふたりの視線を遮った。
彼が頷くと、霊夢は手を離した。
浩平は踵を返して、歩き出した。
寺子屋に使っているお屋敷の門が見えると、彼は懐から香霖堂で手に入れた拳銃を取り出た。銃口は下ろしたままにした。半開きになっている門を窺うと、書院造のお屋敷は真夏の太陽の熱の中で微動だにしていなかった。縁側に下げた風鈴がそよ風に揺れて、彼の神経を凍りつかせようと音を立てていた。
教室に使われている広間を目指してまっすぐ歩いた。広間は縁側の廊下のすぐ向こうになる。縁側に回りこむと、そこが教室だった。上白沢慧音が教卓の前に立っていた。彼女は浩平を見て、薄ら笑いを浮かべた。
「君が外の世界で授業を受けたのは、いつ以来かな」
「十年ぐらい前です。そういう貴女は」
「私はついぞ、そんなものは受けたことがない」
浩平が廊下に立つと、慧音は教卓から降りて彼を迎えた。彼が握っている物を見て、破顔した。
「おいおい、ここは神聖な教育現場だぞ。そんな物騒なのは遠慮願いたいね」
「貴女こそ、いつから教科書に妖魔本を使うようになったんです」
浩平も、慧音の手に握られている本を見た。茶色の革装丁には開かないように金属の鍵を掛けており、表紙には銀の筆記体で『The evil of mirror』と書かれた本だった。慧音はその本を持ち上げ、目を細めた。
「これはな、面白い本なんだ。『鏡の悪魔の書』というんだが、これの中にはある悪魔が封じられている。だが、おかしいとは思わないか。本当にこれが悪魔(Devil)の本なら、題名に偽り有りということになる。『The devil of mirror』が正しい題名のはずだ。この本を書いた者は何故、そんなミスをしたのだろうね」
「もしミスじゃないとしたら、その中身は悪魔に劣ると、いいたかったんでしょう」
浩平は慧音に近づいていった。拳銃は下げたままだった。
「ふん。まあ、いいさ。君の気持ちも分かる。今の君は、さぞ怒り心頭だろうからね」
彼が黙っていると、慧音は自分の胸元に手を当てた。その顔が哄笑で歪む。
「この女、よほど君の事を大事に思ってるようだ。里の広場で遭遇したとき、彼女はすぐに私が君の姿をしているのを見破った。香霖堂の店主も霧雨魔理沙の姿をした私をすぐに見破ったけど、半妖というのはそういうのに敏感なのかな。この女は君を解放するように迫ってきた。面白かったから、その勘違いは正さなかったが、私が君の姿を捨てないのを見て、自分が身代わりになるといい出した。こっちは笑いをこらえるのに必死だったよ」
「あまり長々喋ってると、怖い人たちが来るぞ。皆、お前を探している」
慧音から表情が消える。浩平はいった。
「お前は用件があって、俺を呼び出した。そうする必要があったからだ。だったら、ぐずぐず喋ってないで、本題に入ったらどうだ。俺に何をさせたい」
「理解が早いのは助かるけど、拍子抜けだね。まあ、いいか。君には、彼女と同じことをしてもらいたいわけだ。彼女の場合は勘違いだったが、今回は本当だ。君は、彼女の身代わりになって、私に体を寄越せばいい。そうすれば、彼女は助けるよ。約束しよう」
「皆がお前を探している状況で、そんなことをしても逃げ切れないぞ」
「逃げるつもりはないんだ。私を探している連中に君の姿で近づけば、博麗の巫女の体を手に入れることも出来るだろう。私の目的はそれさ」
「無謀だな」
「そうでもない。彼女が一番やっかいなんだ。霊夢の眼力だけは侮れない。けど、それ以外は大したことはない。修行不足だし、他の連中も似たり寄ったりってところだ。内在している力はほとんど手付かずで、もったいないくらいさ。魔理沙のおかげで封印が解けたとき、私はまだ大した力も使えなかった。そのために未熟な魔女ひとりすら御せなかったが、いくつか姿を写し取り、力が戻り始めた今なら強い存在を喰らうぐらい何とかなるだろう。あとは芋づる式に、姿と力を手に入れていけば良い」
「上手くいくわけがない」
「やってみなければわからないさ。それに協力してくれるなら、君にも良い思いをさせてあげられるんだが」
慧音の顔がにやりを笑い、右手を彼の首にそえ、首筋に指先を這わせた。薄い髭が生えかけた顎先に、彼女の人差し指が止まる。慧音の顔が、彼の顔に近づく。
「君はまだ、この体を味わったことがないんじゃないか。もし君がその気になってくれるなら、君の体を貰う前にお互いに楽しい思い出を作るのも、悪くないと思うよ。何たって君の最期の日だし、それぐらいの美味しい思いをしてしかるべきだろう」
慧音の全身から甘い香りがした。彼女の指が触れる顎先からじわりと快い波が体に伝わってくる。その波で、足元の地面まで揺れているようだ。
「なあ、私だって君のように一途な奴は嫌いじゃない。君みたいな捻くれ者の気持ちはよく分かるんだ。君が他の女に目移りしているような態度を取るのは、彼女に自分が相応しくないと思ってるからだ。彼女はこの里の有力者だし、ちゃんとした仕事につく立派な人物だ。一方、君はその日暮らしのやくざ者だし、蓄えもない。そんな女性が選ぶ相手としては良い人間じゃないと考えるのも分かる。だから、興味もないのに他の女を見ようとする。けど、それはお互いにとって不幸というものだ。彼女は君を求めてる。この体にいるから分かるんだよ。女の情は、時に男の思惑なんて及ばないものだ。君が気持ちに素直になれば、彼女は喜ぶと思うけどね」
浩平の手から力が抜ける。拳銃が滑り、畳の上に落ちた。
慧音は彼の脇を通して、背中に腕を回した。小柄な体が浩平の胸を抱きしめた。
「大丈夫。そんな不器用なことを繰り返す必要はないさ。これからはふたりとも、悩むことなく一緒にいられる。私の中で、ふたり仲良くいられるさ」
そのとき、屋敷の庭に駆け込んでくる足音がした。
浩平の背にかかった声は、霊夢と魔理沙のものだった。
「ああ、やっぱりこうなったか」
「浩平、すぐそいつから離れろ!」
浩平は魔理沙の言葉に反するように、慧音を強く抱きしめた。
「ふふ、無駄だ。博麗霊夢、霧雨魔理沙。どうしても私を退治するというなら、このふたりごと私を葬るしかないね」
そして、浩平は袖から霊夢に貰ったお札を取り出して、慧音の後頭部に押し付けた。
慧音の体が一度大きく震え、見開いた目で彼を見つめた。
「参考になるご意見だったが、俺と先生に対する見立ては見当違いだよ」
慧音の口から、断末魔の叫びが溢れた。
彼女の体から白い靄のようなものが噴き出し、空に上っていく。
だが、靄の行き先に四角い方陣が二重になったものが壁となって遮っていた。
「この私が、二度も逃がすと思ってたの」
霊夢の言葉に合わせるように、壁にぶつかった靄を包み込むように四方を同じ方陣が取り囲む。靄はどこにも行き場がなく、壁を伝わるようにして結界の中を回っていた。
「私もだ。やられた借りはきっちり返しておくぜ」
強烈な光が収束しレーザーとなって、結界ごと中の靄を吹き飛ばす。
靄は光の中で散り散りになり、跡形もなく消えてしまった。
慧音の体から力が抜ける。
『鏡の悪魔の書』が手からするりと落ちた。
浩平は、彼女の体を抱き留めていた。
落ちる本を目で追うと、足元を見覚えのある影が蛇が波打つように横切った。
鼻につく獣臭を残して、魔導書は影と共に消えていた。
二週間ほど経ち、里で夏祭りが始まった。戌三つ時には霧雨魔理沙の花火ショーがある。
魔理沙はこの日のために、二週間を霧雨魔法店で缶詰になって過ごしていた。
日が暮れると、浩平と慧音は連れ立って博麗神社へ向かった。眺めの良い場所を確保するためだ。
慧音は青地に白い芍薬をあしらった浴衣を着ていた。
浩平は慧音の姿を横目に、彼女の手を引いて暗い石段を登っていった。
鳥居を抜けて、ふたりは幻想郷の境目から人間の里を見下ろした。淡いオレンジ色の提灯が飾られ、里を照らし出している。
「花火、もうすぐ時間ですね」
「ああ」
慧音の表情はどこか冴えない。
「どうかしたんですか。先生がそれじゃあ、せっかくの浴衣が台無しですよ」
「うん。分かってるんだが」
「どこか調子でも悪いんですか」
二週間前、鏡の悪魔に乗っ取られかけた後、後遺症が残っていないかパチュリーや永琳に診察してもらったが、異常はなかった。
慧音は首を横に振った。
「そうじゃないんだ。体は何ともない。ただ、最近少し気になることがあって」
「俺が相談に乗れることなら乗りますよ、先生」
「ああ、それだそれ」
浩平は首を傾げた。
慧音は浩平を指差した。
「君、ちょっと私の名前を呼んでみなさい」
「上白沢慧音先生ですね」
「で、君は私をなんて呼ぶ」
「上白沢先生」
慧音は眉間に皺を寄せた。
浩平は思わず、一歩後ずさった。
「私と君が知り合って、そろそろ一年ぐらいか」
「俺が幻想郷に来たのがちょうど去年の今ぐらいですね」
「それ以来、君はずっと私を先生と呼んでくれた」
「まあ、先生ですからね。寺子屋の」
「だが、私は君の先生じゃないぞ!」
「今更、それを指摘するんですか」
「私は君の」
「先生じゃないなら、何です」
浩平が訊くと、慧音は言葉に詰まった。
浩平は溜息を吐いた。
「呼び方が気に入らないのなら、素直にそういえばいいでしょう」
「だって、それじゃあまるで子供が駄々を捏ねてるみたいじゃないか」
「今だってそう変わりませんよ。それに、別におかしな事じゃないでしょう。呼び方を変えてほしいってのは。それで、なんて呼んでほしいんです」
慧音は固まった。
「先生が嫌なら、なんて呼びます。上白沢さん」
「なんだかそれ、他人行儀だな」
「先生が先生は嫌だと、いったんでしょうが」
「それはそうだが、何もそんな呼び方しなくても良いじゃないか」
境内で騒いでいると、社務所から霊夢が出てきた。
「やかましいわよあんた達、痴話喧嘩なら他所でやりなさい!」
霊夢が飛び出してきたのとほとんど同時に、空に向かって火の玉がひとつ飛び出していった。やがて、巨大な花火が空を埋め尽くした。それは一発だけではなく、その後に続いて何発も打ち上げられた。色とりどりの光の花が、闇夜を照らせとばかりに輝いて満ちた。
浩平は何気なく慧音の横顔に目を移し、彼女の手を握った。
「なら、慧音。君も、俺の事をちゃんと名前で呼んでほしいな」
「え」
「だってさ、君は今まで、俺に名前で呼んでくれたことなんてないだろう」
「そうだったか?」
「そうさ。いつも『君』だったからね」
慧音は苦笑した。
「ひどい奴だな、私は」
「ひどい人だよ、貴女は」
浩平は彼女の手を引いて、自分の胸の内に抱きしめる。彼女の顎に指を当てて、顔を上向かせた。
「だから慧音、今この場で俺の名前を呼んでほしい」
慧音の顔が赤く染まるのが、花火の輝きの中で見えた。密着した体から、ふたりの鼓動が大きく重なっていくのが分かる。慧音の唇は、いつかのように赤い口紅で色づいている。一際大きな花火の音に掻き消される様に、慧音の口が彼の名前を呟いた。
浩平は、慧音の唇に自分の唇を押し当てた。彼女の瞳が閉じられると、彼も目を閉じて互いの唇だけを味わっていた。
ふと花火の音が収まったとき、ふたりは目を開いた。
慧音の潤んだ瞳が彼を見つめている。
「あんたら、人前でいちゃつくにも限度ってもんがあるでしょうが」
霊夢は拳を握り、わなわなと身を震わせていた。顔が赤いがそれが怒りのためなのか、羞恥のためなのか判断がつかない。
浩平は悪戯っぽく笑った。
「これぐらい、大人ならごく当たり前のスキンシップですよ。霊夢さん」
「嘘吐け嘘を!」
「あ、ああそうだな。なあ、浩平。これはちょっとやり過ぎというか、霊夢はその、まだ子供だし」
浩平は慧音を見て、霊夢に目をやった。そして、慧音に視線を戻した。
「いや、慧音。彼女はもう大人の女性だよ」
浩平はもう一度、慧音の唇に口付けた。
里の上空で、その夜最後の一発となる特大の花火が打ち上がり、花開いた。
これで終わりです。
ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。