或いはこんな織斑一夏 IF Blade for Mysterious Lady (更新凍結中) 作:鱧ノ丈
そしてご新規の方々、『或いは~』本編共々、今後おつきあいをよろしくお願い致します。
これは夢なんだと分かった。
別に特別どうという確証があったわけではない。ただ、景色というものが見えているのにどこか朧であり、自然とそうだという認識が頭に染み込んできたのだ。
そこに自分が居るのかは定かではない。あるいは、物語で時折ある自分が幽霊になったかのように、姿の無い存在となっているのかもしれない。
だが、彼の意識は確かにその場所にあった。
その場所は一つの道場の中だった。極々ありふれた内装でありながら、その実各種建材が通常より頑丈な物になっている道場には一人の少年、一人の少女、一人の男が居た。それを見て彼は理解する。これは己の過去の一幕だと。
道場には一人の少年の姿があった。年相応の背丈をしているが、佇まいは未だ十を数えて長くはない彼の年齢を鑑みれば不自然なほどに落ち着き払っている。
それは紛れも無く、かつての自分だった。未だ少年と呼んで差し支えない年齢の少年の更に昔の頃の姿だ。
実際には五年そこら程度の昔であり、人生を生きていれば本当に短い僅かな年月だが、それでも十代半ばからしてみれば決して短くない時間である。
「ねぇ、君が先生のお弟子さんなんでしょ? 名前、教えて?」
明朗快活を表すかのように明るく、張りのある言葉が少女の口から出る。
別段、断る理由も無かったはずだ。だが、少年は否と答えた。ひねくれ者だったのか、それとも少女の何となく上から目線のように感じる言葉が癪に障ったのか。
とにかく少年はただ答えることを是としなかった。
先にそっちが名前を言え。仏頂面で言った少年に少女は眼を丸くするとそれもそうかと言ってあっさり納得する。
その余裕そうな態度が余計に気になったが、それでも自分が聞いたのだからちゃんと聞かなければならない。
舌打ちをしたそうな顔でその後の言葉、少女の名乗りを待つ少年を見て二人から少し離れた所でやり取りを見守っていた男は「仕方のないやつ」と言うように苦笑していた。
「あのね、私の名前は――」
そこから先は言われずとも言われなくても分かる。
その後に続く言葉を、少女の名前を夢の主は、少年はもう分かっていた。自分の夢、自分の記憶の一欠片である以上は分かっていて当然だ。
だが、そういうことではないのだ。忘れるはずもない。その名前はずっと……
不意に場面が移り変わる。
否、場所そのものは先ほどの道場から変わってはいない。だが、状況が違っているのだ。
道場の隅には主であり、少年と少女の師である男が腕組みをしながら道場の中央を見ている。
そこには、胴着を身にまとった少年と少女の姿がある。
倒され、起き上がったことにより尻餅をついている少年と、その目の前で得意顔をしながら仁王立ちをする少女。
少年の顔には心底腹立たしいという怒りが如実に表れていた。しかし、その怒りも無理なからぬ話である。
凡その事柄において比較的凡庸と言える少年だが、ただ一つ、武芸に関しては他者に比べ抜きん出た才覚があった。フィジカルは鍛える度に力強さを増し、教えを受けた技は水を吸う真綿のように次々と会得していった。
そして類稀なる武芸の才とそれを伸ばすことへの強い意志を幼いながらに持っていた少年が、自身と波長が合い、なおかつ最高峰と呼べる師を得ることができたことはまさに僥倖以外に表現のしようがないだろう。
才覚を、優れた師の下でより効率的に伸ばすことができたならば、その結果は自明の理。
少年の武芸の腕前は大の大人すら組み伏せることが可能な域に達していた。なればこそ、同年代でもまず敵はいない。明確なその自負があったゆえに、自身より一つ年上の少女に敗北を喫したのが、彼には心底腹立たしかったのだ。
「フフッ。悪いけど、私もそう簡単にやられてあげないわよ? だって、私だっていっぱい鍛えてるもの」
だからどうしたと少年は吠えた。だったら今まで以上に厳しい修業をして、もっと強くなってやると。絶対に負かしてやると。幼いが故の意地で答えた。
「いいわ、楽しみにしてあげる。ねぇ、どうせ強くなるなら、私を守れるくらいに強くなってよ。おとぎ話の王子様みたいに」
少女はからかうつもりだったのだろう。裏と言うものをまるで感じさせない、本当に屈託のない笑顔がそう物語っていた。だが、意外なほどに少年は真面目な顔で頷いた。
面白いと。何かあったら俺が守ってやると。自分の出る幕なんてないと痛感させて、負けた気分にさせてやると。
そう言って立ち上がると、少年は道場の隅に立ち続けていた師に更なる修業を望んだ。
それから数分後の後、師が課した苛烈な修業により断末魔のごとき少年の悲鳴が道場から響き渡った。
そして再び場面は移り変わる。今度は場所も変わっていた。
周囲に生い茂る木々。起伏の多い地面からそこが山中であるということを想像することは決して難くない。
緊迫とした雰囲気がその場には立ちこめていた。
数多に生える植物が発するフィトンチッド、揮発性物質から成る森林特有の空気に鉄の匂いが混じりこんでいる。
地面に倒れ伏す巨体があった。全身を硬質な毛で多い、鋭い牙と爪を持つそれは全長2mはあろうかという巨大なヒグマだった。
倒れ伏すヒグマの前には刀を手にした男が、少年と少女の師が立っている。刀によるただの一突きで心臓を貫き、ヒグマを絶命たらしめた男はしかし、自身が為したことになんの感慨も湧かせずに険しい表情をして、背後を見る。
仰向けに倒れる少年と、その体に縋って涙を流しながら声を上げる少女の姿がそこにはあった。少年の顔には大量の血が付いており、その体に縋ったことで少女の手にも幾分かの血液が付着している。
その血は心臓を貫かれたことにより地面と草木を濡らし、鉄の匂いを撒き散らす大量の熊の血とは異なる、少年自身の血であった。
その出来事は言ってしまえば不幸な事故であり、決して誰に非があるなどと責めることはできないものだった。だがそれでも、起こってしまったことに対して男は刀を握る手に込める力を強め、浅慮をした己自身に怒りを向けるように眉根に皺を寄せる。
修業の一環、足腰やバランス感覚を鍛えるための山中ランニングの最中だった。もはや慣れた修業のために少年と少女の二人だけで山中を駆け巡っていた時にそれは起きた。不意に耳朶を打った草木が踏みつぶされるようなざわめく音。何かと思い音の方を見た二人の視界に飛び込んできたのは、四足で歩く巨大な影だった。それは一頭のヒグマだった。
いかに鍛えていようが二人は未だ10の齢を少し超えたばかりの子供。どうあがいても熊などに太刀打ちできることなど叶わず、それは二人も重々承知していたため、すぐに踵を返して脱兎のように逃走を図った。
だが、それが間違いだった。背を向けた人間に対して熊は四足で追いかけ始めた。強靭な四本の手足を駆使しての疾駆は速く、すぐに二人との距離を詰めていく。
右へ左へ、無数の木々という障害物と子どもゆえの小柄を活かしてなんとか撒こうとするが、その逃走も止まらざるを得なくなる。
たまたま地面からむき出しになり小さなアーチを作っていた木の根。それに足を引っ掛けられた少女が転倒。さらにその際に足を挫いたことで、これ以上の逃走が不可能となった。
地面に倒れたまま少女は震える。目の前に迫った明確な死の存在に、ただただ恐怖するしかなかった。
一歩一歩、その重さを感じさせる足音と共に熊が迫る。振りあげられた前足。その先にある鋭い爪が陽光を照り返して輝く。
眼を固く閉じて声に出さずに心で叫んだ。助けを求める声を。直後、その体に軽い衝撃が走り、少女の体は横に突き飛ばされていた。
「え……?」
そんな小さな声が少女の口から洩れた。開かれる目。その視界には先ほどまで自分が居た場所が遠のいていくのが見えた。
代わりにそこに立っている少年。そして、振り抜かれた熊の爪が少年の顔を切り裂き、赤い血をその場に飛び散らした。
神の視点と言うのだろうか。あるいはテレビに映る映像を見ているかのように、その光景は他人事のように見えた。
だが、それはかつての自分が確かに経験したことなのだ。何より、己が顔の横に走る縦の傷跡がその記憶を物語っている。
顔を切り裂かれ、苦悶の呻きを共に地に倒れた少年の姿に少女が悲鳴を上げる。
直後、血相を変えて駆けてきた二人の師が手にした刀を鞘から抜き放ち、絶対零度のごとき殺気を熊に向けて叩きつける。監督者として離れた所から二人を見守っていた彼も、予期していなかった緊急事態に咄嗟の対応がわずかに遅れた。そんな自身の不徳へのいら立ちも、放たれた殺気には込められていた。
動物としての本能故か、二人の子供から目をそむけて殺気の源、男の方を向いた直後、熊の命運は決した。
鈍い音と共に放たれた一太刀は毛皮を切り裂き、体表を貫き、骨の隙間を縫って心の臓を正確に貫いた。
唐突に叩きつけられた死に、断末魔か、あるいは怒りだろうか。熊は咆哮を上げる。だがそれに取り合うこと無く男は突き刺した刀を熊の胸から引き抜くと、溢れる血にも構うことなく、下段から顎に向けて脳天を貫くように止めの一突きを放つ。
それで終わり。山中で人が出くわせば脅威そのものでしかない熊は、あまりに呆気なく散った。
倒れた少年は上半身だけを起こすと、切り裂かれた部分に手を当てる。幸いにして目などに傷は無いが、間違いなく大怪我と呼べるものだった。
痛みゆえか表情を歪ませる少年に少女が足を引きずるようにして駆け寄る。その顔は少年以上に歪んでおり、目には大粒の涙が浮かんでいる。
「なんで!? なんで!?」
泣きじゃくりながら問い続ける少女。そこには少女が生まれた家の、そうあれかしと教え育てられた結果の名家の跡取りたるの姿はなく、ただただ年相応の一人の子供がいるだけだった。
その様子を男は黙って見つめる。恐らく、男を知る者が今の彼を見れば驚きを隠さずにはいられないだろう。
何事においても高い能力を持ち合わせるがゆえに常に不遜とも呼べる自信に満ちあふれている彼の目には、ある種の迷いが浮かんでいたからだ。
悩む。今すぐにでも怪我をしている少年を、弟子を治療すべきだと分かっているが、泣きじゃくりながら縋りつく少女の姿にまだ待つべきとも思えることを。
今この瞬間、今この時は慎重な扱いを要すべき時だと、直感的に悟っていた。
「何で……ねぇ、どうしてかばったの……。どうして君が……」
泣きじゃくり続けたことやそれまでに溜まった疲労からか、少女の声から段々と力が抜けていく。
少年は俯いていた顔を上げると、少女を真っ向から見据える。そしてゆっくりと口を開く。
また随分懐かしいなと思った。この時に思っていたことは今でもよく覚えている。あの時に喋った言葉も、一言一句違えることなく諳んじることができる。
あの時、少女をかばった時、自分の思考はただ一つに支配されていたのだ。
約束だったから。何かあれば守ってやると。そう約束したから。
どうだ、これで俺の勝ちだと。自分は笑って言ったのだった。
「馬鹿……馬鹿っ!! こんな……こんな風に守られて……嬉しくないっ! だって君が傷ついたら意味が無いっ!!」
その言葉に少年の表情が固まった。未だ涙が止まらないまま、少女は震える声で言った。
「ごめんね……! 私のせいで……ごめんね……! 私も……強くなるからっ、絶対に、もう、こんなことにならないようにするからっ……!」
あの時、泣きじゃくっている少女の顔を見て、無性に胸が痛んだのを覚えている。
あの時は分からなかったが、しばらくしてから理解をした。自分は、彼女が泣いているのが嫌だったのだと。
かばったのだってそうだ。別段、勝負なんて関係ない。ただ、彼女が傷つくのが嫌だったのだ。
初めて会ったあの日から修業をして、一か月かそこらの短い間だったが、それでもその間に積み重なっていたのだ。
確かに彼女への対抗心があった。だが同時に、自分は彼女という存在に―――
「おい、起きろ馬鹿弟子」
聞きなれた声と共に耳に入ってくる水の音。顔に叩きつけられた冷たさと、髪の毛が張り付くような感覚に水を頭に掛けられたことを理解する。
同時に一気に覚醒する意識。仰向けに倒れた状態から上半身を起こし、左手を頭に当てる。どうにも夢を見ていたらしい。
少年、織斑一夏は沈黙していた意識の残滓を振り払うように頭を軽く横に振ると、黙って立ち上がる。
立ち上がった目の前には一人の男が居た。夢にも出ていた男、190は超えようかという長身は鍛え抜かれた鋼のごとき筋肉に覆われ、肩口よりやや伸びた硬質な黒髪はその中ほどで一つに束ねられている。
一夏を見据える眼光は鷹のごとく鋭く、しかし同時に不思議と恐怖は感じずに畏敬を抱かせるような超然とした存在感を放っている。
名を海堂宗一郎と言う。
戦国の末期から江戸初期に実在した剣豪である伊東一刀斎が興し、現在では溝口派や小野派などの多数流派に別れた「一刀流」などと同様の、現代に生き残った殺人剣としての側面を強く持つとある古流剣術の使い手。
同時に、学生身分からの卒業と同時に世界各国をめぐり歩いた際に会得した各国の武術にも通じ、自身もまたその各々において猛者と呼べる使い手たるという、武芸百般の達人と形容するのに相応しい超人的な実力者である。
そして、一夏にとってもっとも重要な彼の肩書き。それは、彼が一夏の師であるということだ。
「すみません、またですか」
「あぁ。また、だ」
何のことは言うまでも無い。修業の最中、師との組み手により叩きのめされての昏倒、そこから師に叩き起こされるまでの一連の流れ。
諸事情あって実家を離れ、師の下で内弟子として住み込みで修業を受けている彼にとってはもはや日常茶飯事である。ちなみに今回はバケツに入った水を顔にぶっかけられる形で起こされた。当然、後始末は一夏の仕事だ。
「夢を、見ていました。昔の夢を」
不意にそう呟いた。その言葉を、宗一郎は静かに聞く。全てを聞くでもなく、弟子が語る内容を彼は把握していた。
「あいつか」
「えぇ。あの時からずっと、ですよ。みみっちく、後生大事に抱え込んでる」
「正直に言えば、お前がそこまであいつに執心するのは俺にとっても意外だったのだがな。とは言え、以前に話したな。あいつは、そう安々とは会えない。あいつにもあいつの立場がある」
「分かってます。ただ、俺がいつまでも振り切れないってだけの話です」
自嘲気味に呟く一夏だが、それを笑いも咎めも宗一郎はしない。ただ静かに、目の前の少年の心に染み込ませるような重さを含めて諭す。
「別段、気にすることでもない。お前にとってあいつのことが、今の強さの根源になっている。ならばそれは軽んじるものではないし、切り捨てて良いものでもない。
せいぜい、励むことだな。……構えろ。続きを始めるぞ」
師の言葉に一夏は黙って頷くと、床をしかと踏み締めて立ち上がる。
立ち上がった一夏は軽く周囲を見回す。夢の中でも出てきた道場。そこに立つ己は昔と比べて背丈を始めとしてだいぶ変わったのに、この道場はまるで変わらない。
ただの建物でありながら年月を感じさせずに悠然とあり続けるその様に、どうにも人たる身の己の矮小さを感じずにはいられない。
(柄でも無いな……)
心中で呟きながら一夏は倒れたことで僅かに崩れた胴着を整える。師と寝食を共にして一年以上が経つが、彼の影響かどうにも自分も色々と妙な物の考え方をするようになっているらしい。
手早く着衣を整えなおした一夏は、倒れても手放さなかったのだろう、利き手である右手に握られたままの練習用の模擬刀――特殊合金製で高い頑強さを持つソレ――を改めて握りなおす。
両者の構えは正眼だ。剣術の基本にして王道、同時に強力無比な構え。
宗一郎が伝承し極め、一夏が弟子として受け継ごうとする剣術は、いくつかの技を奥伝とする以外は極めて無機的だ。
即ち、いかに効率的に敵を屠るかのみを主眼に据えた『人斬り包丁』と呼ぶのが相応しいものだ。
しかしながら極めた武術が時に「殺人芸術」とも称されることを表すかのように、刀を構えて立つ二人の姿は不思議と魅入るような洗練さを持っており、特に宗一郎のソレは名工の手になる芸術品がごとき美しさを持っている。
宗一郎に関してはキャリアが相応にあるため当然と言えば当然であるが、相対する弟子の一夏はその半分程度の年齢、十代半ばを数える程度の齢でしかない。
そんな若さでありながら、師には遥か及ばずとも一端と呼ぶに十分な佇まいでいることができるのは瞠目に値する。だが、そのことに一夏自身は自負を持てども未だ不十分と思っている。その要因の大半は、目の前に存在している。
先に動き出したのは一夏。上段からの一撃を皮切りに、流れるような連続攻撃を宗一郎に向けて放つ。
常人であれば初撃すら反応できるかも確約できない鋭い太刀筋の連続を、宗一郎は眉ひとつ動かさずに悠然と受け流す。
そうして攻撃を捌いていくなかで、時折見つけた一夏の動きの粗を、それによって生まれた僅かな隙を小突くように指摘するという形で修正していく。
一夏自身の、宗一郎ですら思わず目を見張った才覚と、面白がり半ば興味を刺激されるような形で次々と技を伝授していく彼の指導によって、流派の技の大半は既に成っている。
後は、叩きこんだ技を、動きを、更に練磨し続ければいいだけの話だ。ここ数カ月、体づくりのための走りこみや筋トレなどの基礎修行と、技を錆びさせないための反復を除けば二人の修業は実戦形式の立ち合いが専らであった。
とはいえ、未だ技の総伝にまでは至っていないのも事実だ。残すとすればほんの一握りの技だが、それは今後追々というものだ。
立ち合いを始めて僅か数分、すでに斬りこんだ回数も百で数える頃合いに達した時、一夏が大きく動いた。
左下から斜めの切り上げ。柄を握る両手であったが、切り上げの途中で左手が柄より離れる。
右手のみで切り上げた一夏はその勢いを利用して接近。空いた宗一郎の胴に向けて左手で拳を放った。
だが、その一撃を宗一郎はあっさりと流す。ならばとばかりに膝蹴り、肘打ち、さらに斬りかかりも含めて剣拳混合の連続攻撃を仕掛ける。
無手による徒手格闘術。それらもまた、一夏が宗一郎より学んだ武技であった。
剣を取れない状況への対応、剣士としてだけでなく、数多の武芸を学んだ自身の後継たるべくと宗一郎が考えた結果である。
そしてその中には彼が世界を渡り歩きその身で取り込んできた数多の武術を更に彼自身が纏め上げた、もはや我流と呼ぶに相応しい技の数々もある。
もっとも、ただでさえ既に教えた格闘技が十全とは言えない現状では、その秘伝も一部しか伝えられていないのが現状ではあるが、これもやはり追々というやつである。
斬撃と打撃の混成連続攻撃はもはや嵐のごとき激しさを纏って宗一郎に襲いかかる。心得のない者ならば何をされているか分からないままに打倒されるだろう。多少心得があろうと、真っ向から飲み込まれ潰されるだろう。まずもって同年代で、それこそ喧嘩になれた不良から真っ当な少年少女の格闘家まで、相手取ってほぼ負けは無いと自負する自分の、全力での攻撃だった。
だが、その悉くをあっさりと受け流している様を見ると、彼にはそよ風とでも受け取られているかのようにも見える。あるいは、事実そうなのかもしれない。
そして、動きの中に一つ見出された隙を付いて宗一郎が鉄拳を振るう。下顎に強かに打ちつけられた一撃はその体をあっさりと吹き飛ばし、彼にとっては本日27回目のふっ飛ばされと相成った。
夕刻、一度修業を切り上げて道場と直結している宗一郎の本宅で二人は夕食の準備を始める。
道場と隣接した家は田舎と呼んで差支えない町の、さらに山中というより人里から離れた場所にありながら地上デジタル放送対応や電磁加熱調理機など家電類充実などが最新のレベルで充実している。こうした料理にしても比較的行いやすい環境となっている。
材料を切っている一夏に、不意にフライパンで炒め物をしている宗一郎が尋ねた。
「そういえばもうすぐ受験シーズンだが、確か高校は一度戻るのだったか」
「えぇ。家の近くに良い高校があるんで。そこを受けようと」
「確か藍越だったか。まぁ、流石に高校は重要だからな。俺も引きとめるわけにもいかん。近く、荷物や修業のまとめをするとしようか」
「はい」
自身への配慮を欠かさない師の言葉に、一夏は素直に感謝の念を込めた礼を言う。どちらかと言えば厳しい方である師だが、自分と居る時は常に自分のことを考えてくれている。それが嬉しくあり、彼にとっては師に全幅の信頼を寄せる要因でもある。
そこで、宗一郎は懐かしむような声で一夏が住み込みを始めたばかりの頃を語りだした。
「しかし、一年と半年か。存外早いものだな。実を言えば俺も驚いていてな。今まで長期休暇に纏めて来ていたお前が、いきなり住み込みをさせろときたものだ。
全く、中学を転校手続きまでするのだから。俺も千冬も、随分と振り回されたぞ」
時を遡ること約一年半前、それまで夏休みなどのまとまった休暇に師の下へ修業に来ていた一夏であったが、とある事件をきっかけに更なる実力の向上を求めて、住み込みでの内弟子となることを望んだのだ。
通っていた中学を、宗一郎が居を構える山の麓の町にある小さな公立中学校への転校という形で離れ、同時に級友たちとのしばしの別れすらも厭わないその姿勢に、宗一郎と一夏の実姉であり保護責任者の千冬も折れ、結果として一夏の望む形でことは運んだのだ。
「挙句、転校した中学にもろくに通わず。お前、勉強面まで俺を当てにしていたな?」
呆れるような半眼で自身を見る宗一郎に一夏は明後日の方向を向きながら、飄々と答える。
「いやだって、旧帝大卒業してる師匠なら、中学の勉強くらいどうということはないでしょう?」
「まぁそれも事実だが……。しかしな、いくらなんでも週に三日程度しか出ないのはさすがに問題だろう」
実際一夏の言うとおりであり、それなり以上の学歴も保持している宗一郎の手にかかれば中学レベルの勉強を教えることなど造作もない。
ないのだが、それをいいことに肝心の学校にあまり行かずに自分と修行三昧だったことには、今思い出しての何とも言えない顔をせざるを得ない。もっとも、同時にそれに付き合った自分も大概だとも思っているが。
「卒業できればそれでいいです」
「そうか」
真顔できっぱりと言い切る一夏に宗一郎は思わずため息を吐きたくなった。
どうにも弟子は要らないところまで自分に似てしまったらしい。武芸を極めんと貪欲になるのは大いに結構なのだが、そのためにそれ以外をあっさりどうでも良いと言えるあたり、本当に自分と似てしまっている。
とは言え、高校進学については真面目に考えているだけ、まだ救いはあるだろう。ひとまずは、弟子の今後の進退が修業よりも重要になるかもしれない。そんなことを考えていた。
深夜、国内某所にある一つの邸宅の一室。部屋の奥に設けられた意匠の凝らされた木製の机の上にあるランプのみが煌々と明かりを放っている室内には、一人の少女が立っている。
常ならば、都内の某臨海部近くの海上にある人工島の上に作られた全寮制のとある学園に在籍し、その寮に住まう彼女であったが、その日は個人的な所要のために一人の友人を連れだって実家へと赴いていた。
既に目的となる用事は済ませたため、後は明朝に元の学園へと戻るだけなのだが、不思議と彼女はその晩に寝つけずにいた。
月明かりが差し込む窓の前に立ちながら、少女は手にした一枚の紙をみる。それは写真だった。
映るのは未だ幼い頃の少女自身と、一人の男と少年。まだ、少女がただの少女自身であることができた時の記憶を司る、大事な一枚だった。
写真を見ながら、少女の表情に影が一つ落ちる。写真に映る少年。自身にとっても忘れることのできない、ある出来事の当事者であり、数少ない少女が心を開いた外部の人間。
不意にノックの音が響いた。振り向かずに少女は入室を促す。挨拶の言葉と共に木製の扉を開き入ってきたのは、眼鏡を掛けた部屋の主と同年代の少女だった。
「お嬢様、そろそろお休みになられた方が……」
「ありがとう、
虚と呼ばれた少女、部屋の主である少女の幼馴染にして従者である彼女は、主の言葉を受けてもなお、案ずるような表情を崩さない。それは、一重に虚が己の主の身を案じているからに他ならない。
そんな虚の思いを悟ったからか、少女は振り向くと柔らかい笑みと共に言った。
「大丈夫。ただ、ちょっと昔を思い出していただけよ」
そう言って彼女は手にしていた写真をかざして見せる。その写真が何なのか、とうに知りえていた虚は納得したように頷く。
「懐かしい話ですね。確かもう五年程になりますか」
「そうね。まだまだ私が未熟、ううん。今もまだまだだけど、もっと未熟だった頃ね。けど、なんだかんだであのころが一番楽しかったかもしれないかも」
月日というものは残酷だ。否応なしに流れ過ぎていき、その渦中に生きる人々に変化を強制する。
それは彼女もまた例外では無く、写真という形で固定化された昔に比べれば背負うものを多く負わされ、かつてのような無邪気でいられるわけにもいかなくなっていた。
「心中、お察しします」
虚は従者としての姿勢、主を慮りながらも過度に関わろうとせずに一歩引いた立ち位置を取り続ける言葉で少女を気遣う。従者の、幼馴染のさりげない気遣いに彼女は緩やかな微笑を浮かべる。
「けど、これが私の選んだ道なのよね。もう、あぁいうのは嫌だから。だから頑張って。私、強くなれたかな……」
最後の呟き、それは己に向けられたものではないと虚は悟っていた。言った本人自身か。否、それも違うだろう。
おそらくは写真に映る過去の自分、あるいは少女と共に映る一人の少年かもしれない。
「お嬢様。既に時間も遅いです。これ以上はお体に障りますから、そろそろお休みになられた方が良いかと」
左手にはめた腕時計が示す時刻に、改めて虚は主に早めの休みを勧める。承諾の返事を受け取った虚は一言挨拶を述べると、静かに部屋を辞す。
残された少女は側にあった机の引き出し、三つある引き出しの内の一つであり、唯一鍵のついたそこに写真をしまう。
引き出しを閉じようとする直前、少女は改めて写真を見つめると静かに言った。
「ねぇ、君は今どうしてるの。――」
最後に呟かれた誰かの名前のように聞こえる一つの単語。それはあまりに小さく微かであった。
それからしばらくの後、四季豊かな日本では春を迎え桜真っ盛りの季節に、世界を駆け巡る一つのニュースが生まれた。
『世界初の男性IS操縦者登場。日本在住、織斑一夏氏』
あ、当面は本編の方の執筆が優先になります。あしからず。