その言葉が発せられたのは、緊急会議での事だった。
軍服を着込んだ彼の友人の口から発せられた物であり、
掛かって来るならさっさと来ればいいものを、と彼は友人と話し合った。
このやり取りが、ある種の強がりであることは自他とも承知しているだろう。
現在信じられているBETAの侵攻法則とは、巣から溢れ出る余剰分の放出である。
戦場が華々しいのはハリウッド製のプロパガンダの中だけで、
現実では熾烈な間引き作戦によって兵士たちが命を散らしながらも現状を押さえ込んでいる。
個体数を減らすことによってBETAのこれ以上のハイヴ建設を抑制し、戦線を維持しているのだ。
そこに今も続く沈黙が訪れる。
BETAのあらゆる活動が停止し、少なくとも地表上にその姿を晒すことが無くなった。
それにより強行偵察や挑発行動は、その魔力を失ってしまったのだ。
この奇妙な戦線の停滞によって、幾つもの間引き作戦が失敗に終わっていた。
ユーラシア奪還に燃えるソビエト軍の攻勢は頓挫してしまい、彼らも情報の収拾に追われている。
だがこの静寂の隙に、各国は疲弊しきった戦線の綻びを補強し整えている。
彼にとって考えたくないことだが、その逆もまた然りである。
もし、この静寂がBETAの大規模侵攻の前触れであったのなら?
沈黙と同じように侵攻が一斉に起こった場合、
まず、対処は不可能であると
彼らの予想は、人類の破滅と言っていいほどの残酷さを持っていた。
掻い摘んで言ってしまうのなら――まず24時間以内に前線国の幾つかが破綻する。
光線属種の進出によって地中海とインド洋の海上交通網は遮断され、
ヨーロッパ、アフリカ、アジアはそれぞれに分断され、BETAにとっての各個撃破の様相を示すことになる。
そこからはドミノのように人類の脆い共同体は崩れ去っていき、ユーラシアから人類は瞬く間に駆逐される。
数カ月後、人類が存在し得る場所は東南アジアの脆弱な島国たちと北南アメリカ大陸のみとなっていた。
この情報を伝えることになった彼らは、相当の勇気を要求されたに違いない。
ありえないことではない破滅の未来を、形にするのと同じであったのだから。
本当に由々しき問題だった。
間引きが出来なければ、BETAの個体数は天文学的な数にまで増え続けるだろう。
予想にある通り沈黙が破られたとして、最悪、起こるのは各戦線の一斉破綻だ。
それだけは何としてでも阻止しなければならない。
自らの国が、世界最大の後方国家としてあらゆる前線と密接に介している故に。
汚染された北部を除き保持されている工業力と余裕のあるマンパワーがあるといえども、
全世界規模に派遣できる軍事力などは有していないのだ。
彼は思考する、戦術機の36mm砲にも耐えられる防弾ガラスに囲まれた部屋にて。
灰皿から葉巻の焦げる匂いを感じ、故郷の子供達からのプレゼントである椅子に深く座りながら。
瞳は、今から続く未来と同じように瞼の創りだした暗闇の中にあった。
「……何がしたい」
椅子が軋んだ、彼の心を代弁するように。
まるで神にでも問いかけるような言葉を発して、彼の脳内では守るべきものが一周りしていく。
国、自由、正義、人類、命、難民、赤ん坊、大切な妻と子供たち、主。
ありとあらゆる人々、宇宙に浮かぶ方舟、忌むべき力を使った爆弾。
残された選択肢はたったの2つだけ、無限の枝を持ちながらも根はそれだけだった。
逃避か、抵抗か。
いや……もう我々に選択できるものなど、残されていないのかもしれない。
彼は全てを守ると宣誓した、聖書を持ち、自らを支持する多くの国民の前で。
その風景を、彼は昨日のことのように思い出せる。
色褪せない、この職における数少ない栄光の記憶として。
もしかしたら、これは諦めの気持ちというのではないのかと記憶たちが彼を小突いた。
東部標準時間の午前三時、彼の目は僅かな明かりの下、開かれた。
激務の中の僅かな睡眠時間は、束の間の休息と悪夢を彼に提供していた。
そして青褪めた連絡官の姿を見た時、彼は幾つかの最悪を想定し行動しなければならない。
事によっては、軍が全力出撃に備えているのかもしれないし、
遠く異国の地で、大切な子供たちが直接的な危機に晒されているかもしれなかった為に。
最低限の身なりを整え、真夜中の異常事態に怯えた傍らの妻を安心させ地下の司令室へと急ぐ。
彼はエレベーターで降りる際に、それ特有の沈みゆくような重力によって
子供の頃の苦い思い出を連想していた。
この記憶というものは、状況を改善するため脳が対象法を探す行為だと担当医から言われていた。
党の仲間が肉体派女優との不倫疑惑で新聞の一面を賑わした時も、
趣味の一つである乗馬中に転落しあわや大惨事という時も、
東欧州戦線で撤退する際に搭乗していた
何時も子供の頃、我が家が鉄砲水に巻き込まれ死にかけたことを思い出すのだ。
今この時もそうだった。苦難は迫っていると直感する。
だが彼は、苦境を跳ね返す力を持っているとも自負している。
あの惨事から、命と共に抜け出せた時のように。
そこに何者かの意思が絡んでいようとも、投票者たちの代表である自らは行動を起こさねばならないだろうと。
その強固な意志と力強さは、それ故、彼を今の地位に押し上げたのだった。
長く折れ曲がった司令室への道を早足で進む、分厚い防護扉の先にこの国の頭脳の中心部が存在する。
自由と正義で形作られた建物の中で最も堅牢であるとされる部屋であり、国防総省と並ぶ最重要施設。
そこには、モニターが塡め込まれた巨大な円状のテーブルが有った。
皮肉にも、それは円卓と呼ばれている。
「失礼致します、つい先ほど、宇宙軍が軌道上から撮影したものです」
彼が決まった席に腰を下ろすと、側で佇む細身の男が震える手で写真を渡した。
横目に映る緩んだ皺くちゃのネクタイが、困惑と疲労を語っている。
心のなかで労いの言葉を掛けながら、彼は写真に視線を落す。
言葉を発する時間すら、惜しかったのだ。
10cm四方の切り取られた赤茶けた風景の中には、
忌々しい巨大な巣と銀色に光る幾つかの物体があった。
ハイヴは凶悪な外観を以前見た時よりも、一層肥大化させているように見えた。
だが、問題はそこではない。銀色の物体にあった。
信じがたいことに、それは人類の文字であり、こちらの公用語を使っている。
デタラメではなく、確たる意味を持ったものとして。
言葉を理解したと表しているのだろうか。瞬間的に熱を持った額を右手で支える。
文字の意味を瞬時に読み取り、内心では愕然とした気持ちで神への祈りを捧げる
これが試練というのなら乗り越えましょう、と。
そして自らの名前が、如何に歴史へと刻まれるかに対しての責任と覚悟を彼は感じ始めていた。
「今はまだ我々でしか知り得ませんが、
宇宙からは、誰もが視ることが出来てしまいます」
細身の男、ドイツ系移民を祖先に持つ補佐官、レオンハルト・ウォーレスが彼の瞳を見つめ言った。
その言葉は最もだった、そして同時に思い浮かんだことがある。
奴らは、コレを、世界各国に見せるためにこうしたのではないのか?
唐突に浮かんだ疑問を脳内に留めながら、彼は口を開いた。
「まずは皆の到着を待とう、私だけが動かすには……この問題は手に余る」
「わかりました、20分後には全員が集まるはずです」
彼は同僚の到着を待つ間に、マグに注がれた冷水を嚥下し、喉を潤す。
恐らくこの会議は長く、長く続くことになるだろう。
写真をもう一度見る、そこには銀色の物体によってハッキリとこう書かれていた。
『 Hello world. 』 と。
今の彼なら、この部署の人々の手によってクラッカーが盛大に鳴らされ、
風船を括りつけたウォーレスが騙された!と書かれた立て看板を持とうと笑顔で許す気持ちすらある。
だがそんなことはついぞ起こらなかった。あっという間に円卓には何時もの面子が揃う。
写真を見る彼らの表情は実に様々でありながらも、驚愕の一点においては誰もが共通していた。
自分もそれと似たような顔をしていたのだろうと、彼は一種の冷静さを取り戻しつつ思った。
齎された衝撃の大きさに崩れ落ちないよう、彼は民衆に言い聞かせた時のように声を張り上げ、言った。
「さあ諸君、会議を始めよう、大事な地球の未来について」
彼、アメリカ合衆国大統領の声は、円卓上のすべての人々にこうして届けられた。
例えどんな未来であろうとも、義務を果たすために、精一杯の希望を伴って。