ほろ酔いの現実に
その『家』は、雪深いアラスカの某所にある。
彼らは赤き帝国が東の盟主であった頃、世界に耳や目を向けていた組織の生き残りであった。
『家』が産まれてしまった理由は偏にBETAが地球へと降りてきたことにある。
BETA大戦勃発後、カシュガルから伸びた侵略者たちの凶悪な進撃力は
当時のソビエト連邦を分断するには十分すぎる破壊力を持っていたのだ。
東西に分断されたソビエト軍は自らを犠牲にしながら自由主義国の盾になるという、
あまりに皮肉な後退によって、その殆どの戦闘能力を失っていった。
ソビエトは東のアラスカ州(アメリカより租借)へ遷都を余儀なくされ
西は衛星諸国を盾としながらもヨーロッパの果ての果てまで追いつめられたのだ。
そして人は。
たとえ異星起源種との絶滅戦争中であろうと、いまだに同族への疑いの目を捨てられずにいた。
ソビエト連邦・アラスカ租借領においては、その傾向が強い。
数が少なくなったからこそ、余った目は他所へと配りやすいのだろう。
ゆえに組織は、無残な身を忍ばせながら今日まで生き延びていた。
そんな『家』の一角で、溜息をつく男がいる。
アレクサンドル・ロトキンは一般的な職員として務めていたが、彼の革命的精神は最近に至って減少傾向にあった。
自らの地位と業務のために公私において熱心な共産党員を演じている程度ではあったが、
元々少なかったものがごっそりとなくなっていると自覚してしまうほど、赤い炎は燻っている。
もちろんそれに焚べるべき燃料とも言えるウォッカは常に『品薄』であった。
そして競争相手を減らそうと目を光らせている同僚たちが、
今の彼を見れば即座に蹴落としに掛かるほど深刻に彼の燃料は不足していた。
しかし防諜の行き届いたこの部屋は、彼にとっての一種の聖域でありその目が届くことはない。
だが、そうだったとしても聖域には問題が存在している。
そう大きくない作業机に広げられた複数の書類と写真。そのすべてが世界を揺るがすであろう特大級の資料。
彼の精神というものは、現実逃避のために尚の事、火の着くようなアルコールを所望した。
彼はこの資料の関わった事柄を、初めからふざけた仕事だと思っていた。
祖国のため――もう滅んでいるも同然のこの国だがアメリカの深部と関わるのは良くない。
そう思いながら、肉壁と化してしまったソビエトを生かすにはアメリカが必要だと痛感して、この任を請け負うことになる。
それはアメリカ側と場を作り、非公式の意見交換を行うというものだった。
未だにイデオロギーに固まりきった、融通の利かない一部上層部をごまかす苦肉の策。
所属するハト寄りの派閥からの要請であり、現場の将兵とこの国の延命に繋がるなら――と。
だが切り捨てられた場合、スパイとして銃殺刑は免れぬうえ、対抗者にバレたら豚の餌にされるだけでは済まされないだろう。
かつてモスクワに巣食っていた、必ず送り先を間違えるような怠惰な郵便局員よりも頼りにされない仕事だ。
労働讃歌を歌おうと同国人とすら認められなくなるだろう。
こんな行動しか取れないほど我が祖国は淀み、雪深い白色の時代に暮れていると彼は心の中で何度も嘆いた。
いっそ歩兵をやっていたのなら、何も考えず分かりやすい祖国の敵がうち滅ぼせていたのかもしれない。
だが、そうはいかない。
なぜなら彼は『家』の一員であったし、祖国を自分なりに愛していたのだから。
だが、その結果がこれか!?
叫びだしたくなる衝動を、ロトキンは理性によってねじ伏せた。
敵は外部にいる、しかし内部にもいることを彼は知っている。
それも大量に、肥え太りながら人民から生き血を今も啜っているような悪質なものが。
だからこそ、自分一人でできることならと。
彼はそう思って身を粉にする気持ちで、今日までアメリカとソビエトアラスカを何度も渡った。
待ち合わせ場所を変え、受け渡し方法を変え、追手を撒くしっぽを増やしてはちぎってきた。
まるで自分が人間ではないように振る舞わなきゃいけない苦しみは、想像以上に堪えることだった。
忌々しげに向かった視線の先には、例の資料がある。
アメリカの友人たちはこれが事実だと言い張り、突き出してきた。
恐らく上から圧力を掛けられたのだろう、有無を言わさない態度だった。
双方理解の上、通されてしまった物、誰もこれを幻ということはできない。
だが、これは。
狂っている、それは率直な感想だった。
何をもってこれを真実とするのか、奴らの意識の不在証明はこの国がしたというのに……。
写真に書かれている幾つかの文字、外国を主として活動していた彼にはそれが日本語だとわかった。
なぜここで日本が関わってくる、悲鳴を上げたいのをこらえながら何度目かになる解読をする。
交渉の内容が見て取れる、まるで神経質な党員を思わせる文章。
極めつけに、”和平を望む”。そんな笑ってしまう言葉が並べられている。
この現実はくるってしまったのか、冗談にしては笑いは起こらない。
古来より露西亜において、アルコールというものは人間の精神安定剤と酔いによる現実の忘却に役立ってきた。
俺の目がアルコールによる幻覚を見ているのなら、それほどのアルコールを摂取できる此処は天国だろうか?
確かなことは、こんな工作を仕掛けようとする側は、間違いなく人間ではあるまい。
足の指の先から、その精神体まで確実に。
この党員バッジに賭けて、断言できる。
「……」
思考の迷路から抜け出すために、彼は手を伸ばす。
机の下にはもう滅多にない本国産のウォッカがあった。
上等なグレードの、もう作れないであろう洒落たデザインが気に入っていた。
激務と途方もない苦悩にそれは少なくなって、中身よりも重い瓶の感触でさらに悲しむことになる
チャプっと音を立てグラスに注がれる。
一杯、仕事中は飲まないという誓いを破り捨てて呑んだ。
そして資料を見る、変わらない、一切現実は変わらない。何度目かになる瞬きを繰り返しても尚。
写真の文字は、日本の言葉をもって語る。
「会いましょう、カシュガルで」
彼は情報を上に持っていく決意を決める
精一杯残った忠誠の使い道はもう決まっているのだ。
俺が気狂いになったとしても、現実はもっと狂っている。
なんてことはない、くたばっちまえ、BETAの野郎め。
平和になったらユーラシアを埋めるほどのウォトカでも賠償してもらおう。
そうだ、それがいい。
この一連の顛末は、後に喜劇として見られる。
こうして合衆国政府はソビエトに対する、まるで正気の沙汰とは思えない工作を行った。
杜撰であったかもしれない、しかし、それしか手段はなかった。
と、ある諜報組織が個人に代弁させるならそう言わせるしかない所まで追い詰められていた証拠だった。
当時、カシュガル一帯の荒野は連絡板となっていた。
BETAが地表に文字を書いていくさまを、監視衛星部隊の面々が信じられない気持ちで眺めていたことがそれを証明している。
コピー不可能な写真や映像として白き家や国防総省に届けられたのだから、国が事実だと認めなければ誰が世界の正気を証明すればいいかという話になる
ファースト・メッセージからそう時間の経たない内に書かれ、用いられた言語は日本語であった。
米国に勤めていたブレーンやインテリジェンスたちは今度こそ混乱を始める。
BETAが人類の言葉を模倣し始めたのなら、それは光線属種などに見られる適応進化と苦しい言い訳が通じた。
だがソレが、英語のみならず日本語まで? 疑問は当然であった。
そのせいで、米国内の知日派にまで動員が掛かることになった。
かつて日本帝国軍の暗号を解いたと言われる高名なチームの生き残りまで根こそぎである。
新しくハイヴが作られ、現在では最前線となった日本帝国にまで通告が行われたのは当然のことであっただろう。
もし、コレが、かの悪名高き横浜基地の雌狐が押し進める計画によるものであったのなら……
研究の一端を知るアメリカ政府高官の者達の藁にもすがるような思いを抱いていた。
しかし、その雌狐を持ってして、私は無関係と、バッサリとサムライソードに切り落とされたのだから、
米大統領は常に最善の策を取ろうと必死で努力していたのに対し、成果が実るのは未だに先であった。