失われた約束の地   作:米山ともき

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 閑話 The Longest Day in HONEST JOHN's lifetime

 

 

 

 

 

 例の事件が僕らにもたらした影響は、戦車道全国高校生大会の第二回戦以降の日程が2週間ずつ延期になったことぐらいだった。

 

 会場の多くは自然地形のため封鎖しておいても問題はなく、日付が変更になっただけで多くはそのまま開催できる模様だ。

 決勝戦は陸自と共用している『北富士戦車道演習場』であり、これについては陸自の方が譲歩した。この事件で借りができたからとも言える。

 ただし、Aブロック準決勝の会場だけが『未定』になってしまった。

 ここだけ問題が起きたようだ。

 

 

 

 僕たちは、第一回戦で本当に奇跡的に『四強』の一角、サンダース附属に勝利した。

 これは、大会開始前からなぜか僕たちを取材しているマスコミ関係の人たちから、テレビ局、それもローカルじゃなくキー局のニュースで、小さい扱いだったけど報じられた。

 それによって、いろいろな反響があったけど、大統領がプロジェクトPZのサイトで、

『望外の幸運であり、まったくのフロックだったと考えています。

 このようなことは、おそらく二度とないでしょう。

 わたしたちのような『超』がつく初心者相手に、真剣に戦ってくださったサンダース大学附属高校戦車道チームの皆様に、心より深く御礼申しあげます。

 戦車道関係者のみなさまには、またつたない戦いをお見せすることになります。

 しかし、せっかく戦わせてもらえることになった第二回戦です。

 対戦相手は伝統のある古豪ですが、ご教示を賜るつもりで、真摯に試合に臨む所存です』

という会長談話を掲載し、しおらしい(まったく大統領らしくない)メルマガを出したので、とくに荒れるとか、騒ぎになるとか言うことはなかった。

 

 

 

 そして、試合の前日。大洗艦は神戸港に入港した。

 試合会場は六甲山のふもと、第一回戦と似たような地形の場所だった。

 大洗艦の接舷作業が終わると、生徒には2日間の休暇があたえられた。

 できるだけ、生徒は試合を見に来るようにと学園長から話があったが、ここは神戸。

 大洗とは比べものにならない大都会の港町だ。

 当然みんなきゃっきゃうふふしながら、どこにいこうか情報誌を広げてる。

 やれやれだなあ。

 

 僕らはとうぜん、移動準備と最後の追い込み。

 今回は、試合場の下見は西住先輩みずからⅣ号に乗ってやってくるという。

 アンツィオがなんとか自力でも勝てそうだから、落としたくないらしい。

 高橋先生も今回はシミュレーションやらないで「楽しんでこい」と言ってる。

 

 まあ、それは昨日の話。

 さて、追い込みと言っても西住先輩たちがいないのでは、ろくすっぽ練習にならない。

 だからといって、いま筋トレやって疲れるわけにもいかない。

 だから大統領が追い込み練習を打ち切り、半日ほど自由時間にしてくれた。

 すると歴女4人衆が「どうしても行かねば」とかいって、出かける準備をしている。

 

「松本さん。みなさんでどこにお出かけですか?」

「山本、ここは神戸だぞ。戦勝祈願にいい神社があるだろう」

 

 ああ、なーるほど。

 

「アキラくん。ここにそんな霊験あらたかな神社があるの?」

 

 ウサギチームの6人が僕を呼びに来て、松本さんの話を聞いたようだ。

 正直微妙なんだよね。

 その祭神様が戦争で一敗しかしてない名将だけど、その敗北で亡くなったから。

 そしてその場所が、このあたり。

 

 歴女衆は、霊験より歴女魂を刺激されたんじゃないだろうか。

 

 どのみち中途半端な時間だし、神戸港からはすぐの場所だから行ってみるのもいいかも。

 もしかしたら、こういう機会はそうないだろうから。

 

「じゃ、行ってみる? 僕らの住んでるあたりとも縁のある場所だから」

 

 こっちも正直微妙なんだよね。本当は縁があるどころのさわぎじゃないんだけど。

 

「じゃ、みんな着替えて行ってみる? アキラくん。場所はわかるの?」

「いや、すごく近くだから、スマホのナビで行けるよ」

「じゃ、いってみよーか」

「うんうん」

 

 こうして僕たちは歴女組の後を追って、湊川神社に詣でることにした。

 

 

 

 本当に湊川神社は近くだった。

 みんなして45円ずつお賽銭にして(始終ご縁がありますように)本殿に参拝したあと、僕が即席ツアーコンダクターになってみんなを引率して、神社の入り口近くのエリアに行く。

 

 いたいた、歴女軍団はやっぱりアレを眺めて何か言っている。

 

「と、いうわけで我らが天下の副将軍、水戸光圀様がここをご建立されたのだ」

「佐々木助三郎と渥美格之進をともない、この地に『大日本史』全巻を奉納されたという」

 

 やっぱりだ……。

 冬戦争うんぬんを真に受けた僕がそのことをElle çaさんに聞いたら、フィンランドでⅢ突が活躍したのは、冬戦争じゃなく継続戦争だって笑われた。

 

「あっ、ご老公様がいるー」

 

 それでもみんなは、素直に感心している。

 

 でも、少しは考えてほしい。

 本殿があるのに、なんで祭神様のお墓がここに建っているのか。

 

 

 

 お墓に詣でた歴女組は、歴史的好奇心を満足させてここをはなれた。

 

 墓碑には、光圀公の自筆で「嗚呼忠臣楠子之墓」とある。

 僕はいままで話にしか聞いたことのないお墓の前に立って、90度の最敬礼をした。

 

「アキラくん。このお墓の人って、そんなえらい人だったの?」

 

 梓ちゃんが知らないのもムリもない。

 でも、いえばわかる。

 

「これは、楠木正成様のお墓。

 といってもご遺骨があるわけじゃなく、亀の形をした石の下に鏡が置かれてるの」

 

 みんな、「ふーん、そうなの」って顔をしてる。

 歴史の授業で南北朝時代の人物として、名前だけは覚えさせられる。

 でも、どんなひとなのかまでは知らないよね。

 

『忠臣橘姓楠氏諱正成之霊 元禄五年壬申某月某日 源朝臣光圀謹修墓碑』

 鏡にはそう刻まれていた。

 橘姓は、後付けだ。

 

「アキラくん。さっきの話、いろいろとちがうんでしょ。

 実にびみょーな顔してたもんね」

「そーだよね。アキラくん、ムダにいろいろ知ってるから」

「役に立ったことはないけど」

 

 なんですかその「何とかの知恵袋」みたいな扱い。

 でも、僕も考えてることがすぐ顔に出るってことだなあ。気をつけよう。

 

「うん、そうなんだ。

 まず、ご老公はあんなかっこうして、日本中なんか歩いてません」

 

 光圀様は僕らの年代のころはどきゅんもいいところで、ブイブイいわせていた。

 数え18歳のころ司馬遷の『史記』伯夷伝を読んで感動して更生した。

 そのころから歴史が大好きになったという。

 

「それとおー。大日本史が完成したのって、明治になってからです」

 

 水戸人ならみんな知ってることです。

 隠居した光圀様は、いまの常陸太田市にある西山荘にこもって、大好きな歴史にのめり込みました。

 実は藩主になる前から厳密な考証のもと、紀伝体の歴史書を編纂しようとしたんですけど、スケールがでかすぎて存命中に終わりませんでした。

 それが後の『大日本史』です。

 歴史学の助手になったのが、僧侶出身の佐々宗淳さんとか儒学者の安積覚兵衛さんとか、光圀様にラーメンの作り方を教えた明の遺臣、朱 舜水先生などなど。

 

「もちろん、『漫遊記』は幕末モンスターダディの徳川斉昭さんが慶喜さんを将軍職に就けるため、講談師たちにつくらせたものだってことは知られてますけど、あのイメージが広まっちゃったんで、水戸には観光客向けのあの銅像がいっぱい建ってます」

(※:ここでは「斉昭黒幕説」を採用しています。もちろんちがう説もあります)

 

 天下の副将軍ってのも、うそでーす。やっぱりダディ斉昭が捏造した役職です。

 こうして水戸の都市伝説は一人歩きをはじめます。

 まず、助さん格さんというオリキャラが登場するのが明治時代。

 そして偉大な二次創作ドラマ「水戸黄門」が放映されたのが、前世紀後半から最近まで。

 そんなかで「印籠」という必殺兵器が発明された。

 それまでは講談含めて全部「顔パス」だったんだけど、「下っ端まで顔知ってるのは変だ」ってことで、あの印籠を振りかざすという演出ができた。

 そして、オリキャラが山ほど増えた。大所帯で旅行するようになっちゃった。

 なりすましのニセモノさんと知らん顔でいっしょに旅したり。ムリでしょそれ。

 

「じゃあ、水戸藩らーめんってのも後世の創作なの?」

「いや、そっちは歴史的事実です。光圀様は日本初のラーメン職人です。

 ……で、このお墓ですけど、光圀様が立てたのはお墓だけです。

 それもここには来てません。資金は用意したけど。

 ここでお墓を建てたのは、助手の佐々宗淳さんです。

 ここが神社になったのは明治になってからです」

 

 それまで大楠公は水戸藩以外では逆賊扱いだったからね。

 明治維新やった人たちが水戸学が好きだったことと、王政復古論に「南朝正統論」が

都合がよかったから。天皇陛下が逆クーデターで幕府を倒すのは正しいと言えてしまうから。

 徳川を逆賊扱いするために、皇居前広場に楠木正成の騎馬像があるようなものだわ。

 光圀さんが「あっぱれ、武士の鑑」とほめ称えてからは、一般庶民の間では人気があったけどおおっぴらにほめることはできなかった。

 徳川家も足利家と同じく源氏の子孫ということになってるから。

 光圀公も存命中から人気者だったから楠木人気が起きたけど、他の人ならスルーだったかも。

 

「……じゃ、じゃあアキラくん。松本先輩たちって」

「マニアなら、別にいいと思います。

 それに、いまの伝承がかならずしも正しいとはかぎりません。

 といっても僕にしても、あのElle çaさん仕込みの知識ですけどね」

 

 ほんとうにあの人、どこで勉強してきたのかわからないってレベルで、歴史にくわしい。

 僕は、レシプロ機関ってタービンより前にできたと信じていた。

 家電電力関連の発明は、いまでも半分以上エジソンだと思ってた。

 サリエリはモーツァルトに嫉妬して、いびり殺したと信じていた。

 張飛は呑んべの酒乱で、頭の残念な人だと信じていた。

 ジャンヌ・ダルクは、みずから剣や槍をふるって戦っていたと信じていた。

 

 

 

「ねえアキラくん。それならなんでご老公はこの人のお墓を建てようと思ったわけ?」

「それを話すとちょっと長くなるかも」

「じゃあ、手短にねー」

「手短っていってもぉ……」

 

 

 

 楠木左衛門尉正成。

 そもそも、彼が何者であったのか。

 人によって唱える説がちがうのでわからないが、河内にいた御家人じゃない武士のようだ。

 少なくとも所領安堵を受けていたなら、彼の性格なら鎌倉に弓を引けなかっただろう。

 荘園を侵略して自領にした「悪党」だというのが、いちばん有力な説だ。

 

 ただ彼が飢饉、天変地異、元の侵略にさらされて乱れた世や、得宗家北条氏のやりたい放題に憂いを持っていたのは事実だろう。

 とくにこのときの執権、高時は遊興三昧で政治を顧みず、災害や疫病、重税が庶民を苦しめ、武士たちも元寇で手ひどいありさまだったのに、何の褒賞も与えない北条家を恨んでいた。

 そして、執権の疑心暗鬼のもと反乱と粛正と内乱ばかりがつづいていた。

 

 太平記なんかでは、後醍醐帝が夢のお告げで正成を召し抱えたみたいなことを書いてるけど、これは講談の脚色。

 ただ、刑死した日野資朝と同じく帝の最初の同志の一人であったことはまちがいない。

 

 後醍醐帝らはひそかに倒幕計画を練っていたが、1331年8月、計画は露見し、後醍醐帝らと正成は挙兵した。

 準備不足はいかんともしがたく、翌月、後醍醐帝は笠置山で幕府軍に敗れる。

 正成は河内国に自分で築城した下赤坂城に笠置山から落ち延びてきた帝の子、護良親王を奉じて、わずか兵力500人で立てこもる。

 鎌倉幕府は、このとき数万の軍勢でこの山城を取り囲んだ。

 その中には足利高氏、後の尊氏の手勢も加わっていた。

 それがこの二人のいわば初顔合わせだった

 

 平家討伐以来最強をうたわれし板東武者の集団にとっては、山上とはいえ急造の小城で武具甲冑もととのわぬわずかばかりの地侍の集団を悪党風情の小物が率いているような弱敵は「一日持てば御の字」「このていどでは手柄にもならぬ」でしかなかった。

 だから彼らは先陣争いとばかり、てんでに勝手に城壁にとりついた。

 だが、先鋒隊が城壁を登り切ろうとするとき、突如その城壁が倒れてきた。

 二重の城壁だったのだ。登っていた攻め手は全部地べたに叩きつけられた。

 そして楠木勢は、城の上から岩を落とし、大木を切っては放り投げ、煮立った熱湯を

鎌倉勢にぶっかける。(ついでに、びろうなものも)

 この日だけで鎌倉勢は何の攻撃もできぬまま、あたら700人の武士を失った。

 そして楠木勢は、夜のうちに兵に見せかけたワラ人形を城の外に並べた。

 楠木勢が城を出て攻勢に出たものと信じて、ワラ人形の軍勢に殺到した鎌倉勢が、それらが人形にすぎないと知ったときはもはや遅かった。

 城にこもる楠木勢の放った弓矢や岩石が、またも鎌倉勢に迫っていたのだ。

 寄せ手はまたも大損害を被った。

 

 尊氏が「楠木なるものはなかなかの出来物」と思ったのは、このときだった。

 

 こうして楠木勢は20日のあいだ圧倒的多数の鎌倉勢相手に持ちこたえたが、依然として包囲されたままであり、とうとう兵糧が尽きてしまった。

 さらに悪いことに、敗れた後醍醐帝がついに捕まったという。

 ここで正成は一計を案じた。弟、正季を呼んで手はずを整え、夜になるのを待った。

 

 その夜半。突如下赤坂城が炎上する。

 楠木勢がみずから城に火を放ったのだ。

 鎌倉勢は、万策尽きた正成が首を取られるよりはと自害を選んだのだと考えた。

 そして、あっぱれな戦いの末のみごとな最期であったとたたえると、あとを検分しないで帰途についてしまった。

 それを遠くから見送ったものたちがいた。

 それはひそかに城を抜け出し、一人の死者も出さなかった楠木兄弟以下、一族郎党だった。

 たった500人ということを逆手に取ったのだ。

 

 正成は、断固としてあきらめを拒絶する人間だった。

 味方皆無の状況でも、再起に備えてひそかに軍勢をととのえていった。

 この乱れた世を救うには、武家政治を廃し天皇親政にするしかないと、彼は信じていた。

 たとえ後醍醐帝がとらわれの身で、隠岐の島に流されていようが。

 自分が低い身分の、たかが一土豪の田舎侍にすぎなかろうがなんだろうが。

 彼を慕う領民たちの協力のもと、正成はいよいよ再起を図る。

 後醍醐帝は配流される前に、彼に「左衛門尉(さえもんのじょう)」の官職を与えていた。

 武士にとっては朝廷の武官は名誉称号だが、名門どころか土豪の自分に帝自ら授けてくれたことに、彼はいたく感激した。

(左衛門尉の有名人といえば江戸末期の南、北町奉行歴任の遠山金四郎景元、金さんがそうだが、彼はいまで言えば警視総監と東京都知事を兼務しているようなエリート武士だ)

 

 翌1332年、近隣の土豪や住民たちの助力により正成は軍勢を整え、再び決起した。

 千早城を本拠に摂津や和泉で「とことんこそこそ作戦」をやって地頭どもを一掃すると、都を望む四天王寺を占拠した。

 怒った鎌倉は宇都宮公綱率いる紀清両党という武士団、陸自でいえば空挺団レベルの

精鋭を差し向ける。

 正成は決して自分の実力を過信しなかった。

 敵が宇都宮とわかると自軍の内容は地侍の寄せ集めとみきわめて、いままでの勝ち戦の勢いに乗って交戦を主張する配下を制すると、さっさと千早城にひきあげてしまった。

 講談ではこのあと「夜になると何万というかがり火が」ってお話になるが、それはない。

 

 そして千早城にこもる正成たちを攻めあぐねた鎌倉幕府は、8万と号する大軍を河内に送り込む。

 このころ、正成だけではなく帝の子である護良親王と播磨の土豪の赤松円心もゲリラ戦を展開していた。彼らに同調する者がないうちに、急いで正成を始末する必要があった。

 対する楠木軍は家の子郎党かき集めて千人の手勢のみ。

 もちろん正成は自分から討って出ようとはしない。

 幕府軍も何をするかわからない正成に力攻めは愚策と、包囲してひからびるのを待っている。

 

 しかし、この場合は損害は覚悟の上で強襲に出るべきだっただろう。

 

 正成は下赤坂城の反省から、地域住民の助力を得て極秘の補給ネットワークを構築していた。

 しかも養うのはたった千人だ。

 

 一方幕府軍は8万が事実かどうかわからないが、過剰な兵力を投入した。

 しかもその兵力は毎日何もせず、本拠地から離れた所で莫大な兵糧を消費するだけだった。

 

 先に参ったのは幕府側だった。

 とうとう戦費と補給が追いつかなくなったのだ。

 脱走する者が相次ぎ、討伐軍は戦わずして瓦解してしまった。

 

 翌1333年。

 後醍醐帝は名和長年ら伯耆国で海運業を営んでいた名和一族によって隠岐の島から脱出。

 伯耆国で挙兵する。

 鎌倉幕府は、これに対して源氏の一族である有力武士の足利高氏(尊氏)を向かわせた。

 

 しかし、正成の孤軍奮闘が「もはや執権おそるるにたらず」という認識を、御家人たちにまであたえてしまった。

 すでに人心を失っていた北条家を見限った足利、新田ら源氏の流れをくむものが、執権に反旗をひるがえす。

 高氏は後醍醐帝を討伐するどころか、いっしょになって京都の六波羅探題を攻め落とす。

 同時に正成攻めに加わっていたものの、3月には仮病で今の群馬県太田の領地に戻っていた新田義貞が挙兵した。1333年5月8日のことである。

 彼の領民たちに執権が戦費のためとして無理な重税を課し、ついに堪忍袋が破けたのだ。

 新田が進撃するにつれ執権の暴政に怒るものたちが加勢し、足利高氏の嫡男も合流。

 多摩川を渡ったところで幕府軍主力と決戦となり、勝利を収めると一挙に鎌倉に突進する。

 しかし鎌倉は三方を山に囲まれた要害の地であり、切り通し(トンネル)を抜けるしか侵攻の方法がない。

 当然この3カ所の切り通しは幕府軍によって封鎖されている。

 

 しかし新田勢は片瀬江ノ島方面から引き潮に乗じて、西浜、七里ヶ浜といった海岸を

駆け抜けて(現在の江ノ電や国道134号線)稲村ヶ崎の防衛線を突破するや、由比ヶ浜で

ここを守る最後の守備隊を壊滅させ、北条高時を東勝寺においつめ、自害させた。

 こうして1333年5月22日、ついに鎌倉幕府は滅亡した。わずか2週間の戦いで。

 

 このときは、これで平和と安定がもたらされると誰もが信じた。

 

 正成は十分に報われたと言える。一土豪にすぎなかった身が「三木一草」と呼ばれる重臣の一人に取り立てられ、朝政を担うこととなる。

 

 しかし、彼の憂いが晴れることはなかった。

 

 後醍醐帝は再び武家に政治を壟断されることがないよう公家に厚く報い、武家をなおざりにした。

 公家たちはただ、平安期の貴族の時代の復興だけを夢見ていた。

 民を放置し、自分たちの栄華だけを追い求めた。

 帝は帝で、政治権力、実権を自分一人で握ろうとする。

 隋唐の皇帝のような絶対権力者になることだけが、彼の念願だった。

 

 まともな政治が行われるはずもなかった。

 人々は鎌倉時代以上の重税にあえぎ、権益を侵害されただけの武家は不満をため込む。

 そして、足利と新田の派閥抗争が起こる。

 北条を滅ぼした武家団のなかでは足利家は新田家より家格が上であり、帝も自分の諱から「尊」の一字を与え、尊氏と改名させるほど足利を重用していた。

 武士団の論功行賞も帝が京で直々にとりおこなったため、鎌倉にとどまった義貞の影響力は下がる一方だった。

 そして尊氏が鎌倉にいる長子の支援に有力な家臣団を送り込み、新田との抗争が激しいものとなったため、義貞は京に去る。

 

 そして、正成にとっての苦悩の日々が始まる。

 

 後醍醐帝が実子、護良親王を尊氏と義貞によって排除、幽閉したところから、雲行きが悪くなっていく。

 帝は、護良親王の次に自分の立場を脅かすのは人望の厚い尊氏と疑心暗鬼に陥る。

 また彼が武家政治を再興するのではないかという懸念から、義貞に権勢を与え、対抗させようと考えるようになっていく。

 これに旧護良親王派の公卿たちまで乗っかっていき、派閥争いが激化する。

 

 正成は天皇親政が行われれば公平な政治になると期待していた。

 しかし彼の望みは公卿たち、そして当の帝のそれではなかった。

 帝は自己を絶対権力者にすることをのみ考え、自分の理想を押しつける。

 公家たちはただ書物で伝わる藤原時代の雅な生活のみに心奪われ、政をかえりみない。

 武家の気持ちはわかる。ただ戦わされただけで何も報いてもらえない。

 それでも正成は帝、公家たち、武士たちの間でなんとか新政権を維持するため必死の努力を払っていた。

 だが、彼は出自が低すぎた。能力はあっても、公家や名門の武家たちからは軽んじられた。

 武士たちからは、お前ひとりが出世して帝の犬に成り果てたと憎まれた。

 ある意味では彼の理解者は有能でまともな人物の尊氏、ただ一人だったかもしれない。

 それに引き替え新田義貞という人物は、帝が足利から新田に乗り換える意味など考えない。

 彼はただ単純に、自分の官職が左衛門佐(さえもんのすけ)→左衛門督(さえもんのかみ)→左兵衛督(さひょうえのかみ)と上がっていくことを単純に喜んでいた。

 今で言えば「脳筋勇者」そのものの武辺者にすぎなかった。

 彼は鎌倉での勝利が尊氏の息子の威光のたまものなどと思いたくなかった。

 自分の人望で味方が集まり自分の力で勝ったのだ。そう信じたがっていた。

 都に上った義貞は弟はじめ一族を武門の要職に就け、彼自身は武者所の頭人に就任する。

 そうすることで競争相手にすぎなかった尊氏を、完全に宿敵としてしまった。

 その尊氏は、当事者能力の欠如と理念先行によって建武新政がもはや破綻状態にあることを完全に理解している。だから自分自身は朝廷の役職をうけなかった。

 新政に不満を抱く有力武家たちは、建武政権から距離を置き始めた尊氏にすりよっていく。

 しかし後醍醐帝に尊氏を御することなど不可能だ。武士たちの不満を取り除くことも。

 なぜなら帝も公家たちも、武家など貴人の列に入らぬ亜人としか思っていないから。

 そんな平安朝の『常識』は平清盛がとっくに壊してしまったというのに。

 また、戦争が始まる。

 正成は天を仰いで嘆いた。しかし、もはや彼にはどうにもできなかった。

 京の都で、彼はただただ孤独に戦っていた。

 

 そんなとき、北条の残党が最後の執権北条高時の遺児を奉じて乱を起こす。

 尊氏の弟直義と鎌倉にいる足利勢だけではそれを鎮圧できず、鎌倉が奪われてしまった。

 このどさくさに足利直義は幽閉されていた護良親王を殺害したのち、鎌倉から撤退する。

 

 尊氏にとっての好機がめぐってきた。

 

 彼は北条残党の討伐のため、帝に征夷大将軍、武家の棟梁の地位を要求した。

 幕府の再興を恐れる後醍醐帝は、これを当然拒絶する。

 返答を聞いた尊氏は帝の命令を待たず、勝手に鎌倉に向けて出撃した。

 北条の残党はあっけなく撃破され、関八州は尊氏の掌握するところとなった。

 尊氏は弟直義の意向をくみ、鎌倉の地で独自に恩賞を与えるなどして武士たちを掌握する。

 これを見た帝は尊氏に対し都への召喚命令を出したが、尊氏は逆に新田義貞が君側の奸であるから、自分に討たせろと進言する。

 まだこのときまでは尊氏も、本格的に離反する気はなかった。

 しかし帝は新田義貞に尊良親王をともなわせて、足利討伐を命じた。

 同時に奥羽の有力武家の北畠顕家も北から鎌倉を攻める。

 尊氏は剃髪し、寺にこもって許しを請うもききいれられず、直義と側近の武将、高師直が朝廷方を迎撃する。しかし尊氏が態度を明らかにしなかったため士気は低く、押され続けた。

 ここにいたって尊氏は「直義が死んでしまうなら自分が生きている意味はない」と宣言し、ついに自ら総大将となって後醍醐帝と戦うことを決めた。

 意気上がる板東武者たちは新田軍を箱根で撃破、負けて逃げる彼らを追って京に迫る。

 

 帝や公家たちは恐れをなし、思い出したように正成を召し出して対応を迫る。

 正成は帝に朝廷の比叡山への行幸をもとめた。

 都を戦場とするために。

 

 敗走してきた朝廷軍を掌握した正成は、足利軍と正面切って戦わず、あえて彼らを誘い込む。

 都は京都盆地の真ん中にあり、外部への交通路は限られる。

 しかも都は生産力がなく消費人口ばかり多い大都会だ。

 足利軍はあっけなく都を掌握したが、彼らが地獄を見るのはそれからだった。

 都の出入り口にかんぬきをかけられた状態で彼らは弱っていった。

 奥州から北畠顕家の軍勢も加わり、足利勢の劣勢は決定的となった。

 

 ある日、京の都に異変が起こる。

 僧侶たちが、正成が死んだので葬儀を行うとふれてまわったのだ。

 その直後、朝廷側が総力で決戦を仕掛けてきた。

 尊氏は正成が亡くなったので、思慮のない新田が力攻めに出てきたのだろうと考え、

応戦した。しかしこれは正成の情報操作だった。

 糧食もなく弱っていた足利軍は、正成、北畠らのしかける組織的戦闘に次々撃破されていく。

 尊氏はとうとう都を放棄することに決め、都からの撤退路に全軍を集中して包囲網を突破し、そのまま彼らは西へ逃亡した。

 そのとき正成は見てしまった。

 味方勢から多くの武士が集団で脱走し、逃げる足利側に加わって都を去っていくのを。

 負けたはずの足利側に付いて。

 ……そこまで、帝は人望を失っているのか。

 勝利したはずなのに正成は、むしろ暗澹たる思いに駆られた。

 

 尊氏は九州まで逃げ延びた。

 しかし、彼を捕らえて朝廷からの恩賞にあずかろうとするものは誰もいなかった。

 武士も民衆も、みな彼が来るのを待っていた。

 尊氏はいつのまにか自分が人々の希望となっていたことを知った。

 

 西国の武士たちもつぎつぎ朝廷に反旗を翻し、尊氏に加勢する。

 短期間に再び京に攻め上ることのできる軍団ができあがる。

 しかし、尊氏には解決しなければならない大問題があった。

 ……楠木正成を、いかにして倒すのか。

 

 もし籠城戦、市街戦、持久戦に出られたら、自分の作戦能力では倒すすべはない。

 彼は戦略的不利すらひっくりかえす将器の持ち主だ。

 またぞろ都で焦土作戦をやられれば同じことの繰り返しだ。

 勝ち目があるとするなら、陣地を組めない野戦の遭遇戦のみ。

 それでやっと五分五分。もし軍勢が同数なら負けるのは自分だ。

 尊氏は、正成を卑しい悪党武者風情などと決して思っていなかった。

 一方で、朝廷側にかの人物を正しく評価する者がいるだろうか? とも思う。

 いや、後醍醐帝初めとして身分というものが壁となり、正しく評価できている者はいない。

 尊氏はそのことをよく知悉していた。

 そして、公家どもがどれほど身勝手で先の見えない連中なのかも知っていた。

 

 ならば、賭けに出よう。皆もそれを待っている。

 

 九州の天皇方を完全に制圧し、足元を固めた尊氏は、ふたたび都をめざす。

 その途上で味方につく者を糾合し、彼の軍は大きくなっていく。

 後醍醐帝と対立する持明院統の光厳上皇から院宣を得て、大義名分もととのった。

 このとき進撃路の途中にある播磨で、かつて後醍醐帝を救った赤松円心が帝に反旗を翻し、義貞に城を攻められて窮地に陥っていた。

 尊氏は軍団を二分し、弟の直義に陸路播磨へと向かうよう命じ、自分は瀬戸内海の水軍により海路で東進することとした。

 形勢が逆転し、直義軍と城内の赤松軍に挟撃された新田義貞は城の囲みを解き、

兵庫まで後退する。

 尊氏はこれを、陸と海から同時に叩くことに決した。

 

 正成は尊氏が弱っている今こそが彼との和議を結ぶ唯一の機会とみて、帝らに上奏する。

 しかし帝も公家たちも「なぜ我らが勝っておるのに和を乞うのだ」と拒絶する。

 これで不興を買った正成は尊氏討伐軍から外され、河内に戻っていた。

 

 しかしその新田が出鼻をくじかれ、兵庫まで退いた。しかも大量の離反者を出して。

 もはや新田の軍では単独で足利軍に対抗することはできない。

 泡を食った朝廷は、あわてて正成を召し出す。

 

 しかし、召し出された正成は後醍醐帝に向かい、自分と新田の首を差し出しても尊氏と和睦するよう強く具申する。

 むろん、これは帝と取り巻きの公家たちの拒絶に会う。

 お前らのような狗にあてがい扶持を与えて飼っているのは、斯様なときに戦わせるためだと。

 

 ならばと正成が進言したのは、次善の策である都を舞台とする焦土作戦。

 しかし、公家たちはもう動座はいやだとゴネまくる。

 公家たちの上座、坊門清忠など、自らは戦わぬにもかかわらず正成を臆病者と罵る。

 後醍醐帝は「同じ年の二度の動座は、天皇の沽券に関わる」といい、出戦を命じる。

 

 正成は悟る。自分がいる限り戦はつづくと。

 

 正成は出撃のために近隣の土豪たちに加勢を依頼する。

 しかし、もはや誰も応じる者はなかった。

 天皇方の敗北は歴然。なら足利につこうというのだ。

 帝の求心力は地に落ちていた。

 

 正成はやむなく一族郎党わずか数百人を引きつれ、兵庫に向かう。

 ここで正成は、帝に当てて最後の書状を書く。

 書状はこう結ばれていた。

 

「正成存命無益なり」

 

 通説では進軍途上の桜井の駅で11歳の嫡子、正行に老幼の者を託して河内に戻らせたとある。

 しかし幼名が明確に伝わっていないことからもわかるとおり、この時彼は元服していた。

 やはりこの手の美談には多いことだが、後世の創作であろうと思われる

 

 彼の弟、楠木正季は命令を無視して河内に戻り、ゲリラ戦に出ることを勧める。

 しかし正成は、自分は後醍醐帝に恩をこうむりすぎた。命にしたがって戦い死ぬつもりだ。

 自分が死ねば、帝も尊氏と和睦し、平和が来るだろうと答えるのみだった。

 

 封建制度化の主従関係は一種の契約関係だから、義務を果たさぬ主君に仕えるいわれはない。

 彼が離反しても、それは当時の常識では何ら責められることではない。

 皆、生活がかかっているんだから。

 しかし彼は最後まで後醍醐帝を裏切らなかった。いかに人望のない主君とは言え。

 

 たけど正成も一途な忠義者だから、死ぬとわかっている戦いに臨んだわけじゃない。

 ――彼にはもう、戦って死ぬしか道がなかったのだ。

 

 

 

 

 

 

「というわけで、この地で楠木正成の最後の戦いが始まるんだ」

 

 僕はここまでのことを、5分ぐらいに端折ってみんなに聞かせていた。

 僕は話に自信があるわけじゃない。講釈師でもない。このくらいが限度だろう。

 

 忠義者と言うだけなら、新田も北畠も、他にも後醍醐帝に殉じた者はあまたある。

 光圀公はそれも知ってて、それでも彼を忠義の鏡にしようとした。

 いや、石田三成のことも人物だと賞賛していたのだから、不器用な生き方しかできない清廉な人物が誤解されたまま埋もれるというのが許せないのかもしれない。

 

 

 

 足利軍が迫る兵庫の地では、新田義貞が尊氏の予想上陸地点であろう湊川流域、のちの神戸で迎撃準備を整え、陣を組んでいた。

 正成が彼と自分を殺してでも尊氏と和睦せよと言ったことなど知らない彼は、鷹揚な態度で正成を出迎えた。

 

 新田殿の脳天気とつきあうのも、明日で終わりだ。

 ここまでいろいろなことがあった。新田殿、地獄でまた会いましょうぞ。

 それがいつになるか、存じませぬが。

 

 

 

 翌朝、正成は本陣の西、今は公園になっている会下山に陣を張る。

 神社から真西に1km行ったところだ。

 

 尊氏の旗指物をかかげる軍船を先頭に、彼直率の艦隊が水平線から姿を見せる。

 陸路大将足利直義の軍はいまだ着陣していないが、やがて姿を見せるだろう。

 

 足利軍、総勢三万五千騎。

 新田軍、総勢二万騎。

 

 楠木勢、わずか七百騎。

 

 楠木正成にとっての「いちばん長い日」が、いま始まる。

 

(To be continued)

 

 

 

 

 




 
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