この話は気絶中のアキラが見ている夢であり、史実を元にしたフィクションです。
「私は日本国籍だけど、あなたはアメリカ市民です。
日本人として恥ずかしくないように、あなたの国、アメリカのために戦いなさい」
マムは、戦地に赴く僕を、そう言って送り出した……。
日本からの合衆国への初めての移民は、明治初期に滅亡した会津藩の遺臣たちが合衆国に「新たな会津藩」を立ち上げるべく渡った者たちだったという。
合衆国の「帰化法」は、白人とアフリカ系の出身者に帰化の権利を与えていたものの、アジア人を含む黄色人種には認めていない。(南欧、東欧の白人とユダヤ人にも同様:後述)
またこの国では公然、または非公然に異人種間の婚姻を認めていない。
(※ 戦後になっても州法で禁止している州もあった)
明治時代の間、貧しい日本に見切りを付けて永住のつもりで移民した日本人や、一旗揚げて故郷に錦を飾るべく合衆国に渡ったものの、貧困で帰ることのできない者など数万人の日本人が合衆国にやってきた。
その数倍の日本人が、経由地であるはずのハワイ準州にとどまり、住み着いた。
それ以前に低賃金労働者の主力であった中国人が完全に移民禁止になった事、日本が列強の末席に連なっていたことも、日本人の合衆国移住を促進させる。
日本移民たちは極めて勤勉であり、低賃金でもよく働いた。
ために他の人種を職から追う羽目になった。
また、彼らは爪に火をともすようにして倹約を重ねてまとまった金を作ると、それをすべて日本の親族に送金してしまい、住んでいる場所で金を使わなかった。
白人たちの黄色人種に対する亜人間扱いはもちろんあったが、在米日本人のそういう
ふるまいと、ロスのように日本人だけで固まって暮らす閉鎖性(ダンに言わせれば島国根性)のため、ことにアジア人の中でも日本人は憎まれるようになってくる。
そして、どのような意味でも向上心があったため、白人たちからは「競争相手」とも思われるようになり、日本人排斥の機運は高まっていった。
それまで憎悪されてきた中国人労働者が「苦力」の地位にとどまったのに比べ、日本移民は努力の結果、その社会的地位をどんどん向上させていったことが、かえって憎悪された。
1908年に「米日紳士協定」が締結され、第三国経由の日本人の入国禁止、日本側からの自主的な旅券発給の自粛が決まる。
1913年、カリフォルニア州他の西海岸の州で、外国人土地法が制定され、帰化できない日本人などの土地所有が禁止される。
1922年、ケーブル法が制定される。これにより帰化権のない外国人と結婚した米国女性は市民権を失うこととなる。
そしてとどめに1924年、移民法が制定される。
これは「帰化権のない外国人の移民禁止」を定めたもので、南欧、東欧人種、アジア人、ユダヤ人の締め出しを図ったものだった。しかしこれらの人種中、この時点で移民を続けていたのは日本人だけだったため、日本では「排日移民法」と呼ばれる。
そしてそれっきり、十数年の間新たに日本人が合衆国に住み着くことはなくなってしまった。
その間に日本では改元して「昭和」という時代が始まり、日本人自体が変化してゆくが、在米の日本人とその家族は、ある意味「明治の日本人」そのままの気質を保っていた。
マムが僕に言ったことは、まさにそういう素地があってのことだった。
矛盾していることを言っているかに思えるけど、つまり僕たちが思う「日本人」は、つまりサムライのことだから、サムライとして生きろということと、アメリカ市民としての自分の道は自分で切り開けということだ。ニッケイニセイのサムライの矜恃を見せてやれと言うことだ。
僕が生まれた時代は、白人たちによる日本出身者への迫害が出そろったころだった。
まだ日本でも、デモクラシーを目指す社会運動が残っていた。
僕が小学生のころ、日本は満州に侵攻。
その後はテロの横行を経て、軍事政権の国に変貌していった。
しかし、僕は日本を知らないロスっ子として育つ。
僕の意識では、日本は世界地図で巨大な太平洋をはさんで180度向こうにある国だった。
僕は勉強より野球やフットボールで遊ぶ方がすきな、「やんちゃ」な子どもだった。
ロサンゼルスのダウンタウン、非白人の居住地が、僕らのテリトリーだった。
ヤング少尉も、そのダウンタウンの住民だった。
僕たちは互いに互いの家に呼んだり呼ばれたりしたが、ヤングは僕らを家に上げることはなかった。
僕たちもその理由は知っていたので、別に気にしなかった。
僕は地元の学校の他に、日本人学校にも通っていた。
そこで日本の子どもたちが学ぶであろうことを勉強する。
日本語も、武道も、武士道も、その他の稽古事も。修身という科目もあった。
だけど「日本人になれ」と教育されたわけではない。
僕は次男だったが、両親と日本語で不自由なく話せたのは僕だけで、姉さんなんか五十音がやっとだった。ニセイには「ニッケイ」という意識と「アメリカ市民」という意識がある。
僕らにとって日本は、海のかなたの「外国」だった。家に天皇の「ご真影」はあったけど。
姉さんにとっては学校の勉強だけでいっぱいいっぱいなのにという気分だったようだ。
親の世代の一世には、二種類いた。
あくまで日本国民だと思い、米語も話さず、日本そのままの暮らしをしていて、いつかは祖国日本に帰ると思っている者。逆に合衆国になじんでしまった者。
一世は帰化することを許されなかったから、両者とも日本国籍のままだ。
帰化することが許されたなら、どうなっていただろうか。
前者の中には子弟に日本の教育を受けさせるため、日本に「帰国」させるものもいた。
彼らの一部は、再び合衆国に戻ってきた。僕らは彼らを「帰米二世」と呼んだ。
帰米は、合衆国にいれば「ジャップ」といわれて迫害を受けるので、日本に渡れば同胞として扱われると期待して渡日していった。
しかし、その日本では「アメリカ人」と呼ばれて迫害された。スパイ扱いまで受けた。
アメリカにいたとき、白人でさえ僕らをかばってくれる人はいた。
なのに、日本では誰一人帰米たちをかばうものはいなかった。同じ人種民族なのに……。
その頃のヤングは、自分はできが悪いといって、勉強とかはなまけている少年だった。
しかし、こんなことがあった。
僕たちだけで、親にも内緒でダウンタウンの北、僕の家があるグレンデールの近くにあるグリフィスの山に登ったとき、道がわからなくなって降りられなくなった。
夜になり、周囲はまっ暗だ。僕たちは身動きもできずかたまって泣いていた。
そこに来たのが、ヤング兄ちゃんだった。
彼はふもとで親たちが、警察を呼ぼうかどうか話しているところで、そこに広げられていた地図をチラ見して、僕らのいそうなところのあたりをつけたらしい。
さらに今度は、まっ暗な中を僕らを率いて、コンパスもないのに迷わず山を下りていく。
どうしてルートがわかるのかと聞くと、地図を覚えているから大丈夫、という。
そして本当にあっという間に、僕らは親たちのもとに着いてしまった。
親たちが怒ったり泣いたりしているのを尻目に、いつの間にかヤングはいなくなっていた。
あれだけは、いまもよくわからない。
……いや、今はわかってる。
当時の戦略兵器は、巨大な戦艦だった。
20世紀は、まさに戦艦の時代だった。
20世紀初頭に地球の反対側で起きた、ロシアン・ジャパニーズウォーの決着は、ツシマ沖で起こった戦艦艦隊同士の壮絶な撃ち合いでついたといってもいい。
コンバインド・フリートのコマンダー・イン・チーフ、アドミラル東郷は、ロシアの2個艦隊を1個艦隊で、しかもほとんどワンサイドゲームで破った世界史のヒーローになった。
この時代、アメリカのエスタブリッシュメントたちの世論は二分されていた。
州でさえ、ロシア派と日本派がいた。
白人国家のロシアを応援しろという者たちと、義侠心からか大国ロシアに戦いを挑まれて一歩も引かずに受けて立ったアジア人の小国、日本を応援する者たちがいた。
こういうところが、完全でないにせよ民主国家の代表だということなんだろう。
当時の大統領、シーアドア・ローズヴェルトは自他共に認める「日本びいき」だった。
たが、すべての国際紛争に一切関わらず、が当時の合衆国の国是だった。
しかしシーアドアは、彼にできる限り日本を応援した。
このことについては、これまで反目を繰り返したイギリスとも組んで、ロシアを圧迫した。
もちろん、ロシア帝国が共通の敵だったから、というリアルな理由もある。
イギリスは中国利権を脅かされたくなかったし、アメリカは門戸開放を求めていた。
しかし、彼らの知っているアジア人は皆、欧州列強が力を見せると、簡単に軍門に下った。
日本だけがひとり意気地を見せ、清帝国の化けの皮をはがし、いままたローマの末えいであるロマノフ朝ロシア相手に、自分たちの存立を賭けて戦うことを選択した。
暴虎馮河のたぐいかも知れないし、一歩間違えれば存立どころか滅亡してしまう賭けだ。
しかし、当時の日本高官たちは、勝算を立ててから戦いに望んだ。
長きにわたる国内闘争の末、戦理に長けた者たちが国を掌握していたからだった。
彼らは何と、その勝算を世界の雄、大英帝国と眠れる獅子、合衆国に求めた。
同盟国イギリスは日本に惜しみなく最新鋭戦艦を売り、大陸国家のロシアが持たない制海権を駆使して、ロシアの海上交通を妨害しまくった。ロシアはスエズ運河を使えなくなった。
シベリア鉄道ありといえども、陸路で物資を輸送することは海路の何十倍も効率が悪い。
海を制する者は世界を制する。
だからイギリスも合衆国もロシアに「不凍港」を持たせることは、断じて認められない。
合衆国、というよりシーアドアは、この国のとんでもない金持ちたちに、赤字覚悟の日本国債、いや紙切れ同然にしか見えない戦時国債を、何とか買わせようと尽力した。
シーアドアの日本びいきは、イナゾー・ニトベがこのカリフォルニアで著した「Bushido:The Soul of Japan(日本版は「武士道」)」の影響もあった。
この有名な本の原著は流麗な英文だった。日本版は逆に翻訳本になった。
シーアドアはおそらく「武士道」をOne for All,All for One=「一人は皆のために、皆は一人のために(または同じ一つの目的のために)」と理解したのだろう。
この戦争の日本人は、まさにその通りに戦った。
兵士は皆のために命を投げ出し、ヒロセはただ一人の兵士を捜して自爆装置の仕掛けられた船の中を探し歩く。
コンバインドフリートは皆の献身と東郷の数理で、ロシアの海軍すべてを撃滅した。
そして、捕虜となった者たちを手厚く遇した。「自国と家族のために戦った勇士」として。
合衆国での日本の人気は上がっていき、日本は戦費の多くを合衆国から調達した。
ツシマ沖で日本艦隊がバルチックフリートを一方的にたたきのめしたとき、シーアドアは「合衆国艦隊が勝利したというくらいうれしい」と、ホワイトハウスの前で日の丸の小旗を持って集まった群衆に言った。
そして、日本もロシアもこれ以上戦う力を失ったとき、ポーツマスに両方の代表を呼んで講和させることになる。
しかし、合衆国の厚情もそこまでだった。
合衆国は日本が恩義に感じて「門戸開放政策」に協力してくれると思っていた。
だが、日本はそれを無視して大陸権益の掌握に走ってしまう。
合衆国も別に慈善行為で日本を応援したわけでもない。
合衆国は典型的な資本主義の国だ。出資したのに利益がなければ、それは怒る。
そして、シーアドア・ローズヴェルトも日本びいきをやめてしまった。
だからといって、一気呵成に戦争前夜になったわけでもない。
黒船でびびったのだから、白い船ならどうだろうと、当時真っ白に塗られていた太平洋艦隊の全力で「表敬訪問」しに行った。
日本は恐れおののくどころか、「友好国がはるばるやってきた」とばかりに朝野をあげてホワイト・フリートを大歓迎した。まだまだ日本のトップはまともだった。
これでは、「おびえてください」とはとてもいえない。
やがて海のヒーロー、アドミラル東郷が合衆国を公式訪問した。
意地の悪い新聞記者が彼に「もし貴国と合衆国が戦争になったら、あなたはどうしますか?」とインタビューしたという。
彼の答えは「I shall run away.」だった。かなわないから逃げるというのだ。
そこに居合わせた者は、外交辞令混じりのジョークと受け取った。
ネルソン以来の大提督が、本気でそんなこと言うはずがないと思うのが普通だろう。
しかし、アドミラル東郷は、決してウケ狙いで発言するような人物ではないそうだ。
ただ、ロシアが大打撃を受けた今、日本海軍は増強予算を獲得するため、代わりの仮想敵国が必要になった。そのため、今度は合衆国海軍に備えて戦争計画を立てるようになってしまった。
合衆国はそうなってしまって、引くような国ではない。
第一次大戦で、日本はさらに海外領土を得て、ハワイの近くにまで進出。
そうなるともうさすがにお人好しはやってられないと、イギリスは英日同盟をやめた。
この戦争でこれまでの戦艦が旧式化したことから、かつての英独間のような建艦競争が勃発。
こうして海軍国同士による、国家破綻の一歩手前でのチキンレースが始まった。
だが僕が生まれたころ、ワシントンで軍縮会議があって、英米10に対し日本6と決められた。
これがまた遺恨になる。
さらに1924年移民法が制定され、ニトベも落胆して日本に帰る。
こうしてお互い予算のための仮想敵国だったのが、ガチの仮想敵国へとなっていく。
それから後はもう、満州やら中国やらの利権で対立がひどくなり、その上合衆国が目の上のたんこぶの蒋介石を支援したために、戦争5分前ぐらいまで険悪化した。
もし日本がデモクラシーを放棄していなければ、まだマシだったかも知れない。
しかし、相次ぐ軍部クーデターの末、軍事政権がデモクラシーまで禁止してしまう。
満州問題で全世界から非難を受けた日本は国際連盟を脱退し、国家社会主義ナチスのドイツ、その元祖のファッショイタリーへと接近し、ついに同盟に至る。
ここに自由主義陣営の米英仏VS全体主義陣営の独伊日の対決構造が完成する。
そして世界は、2度目の世界大戦に進撃する。戦場が遠すぎて蚊帳の外の日本と「若者の血を外国で流すこと」が許されない合衆国をのぞいて。
このときの日本は、生存のための資源をすべて合衆国から買っていた。
そして、合衆国が「大陸の占領地の原状回復」を実施しない限り、石油と鉄の禁輸制裁実行と国内の日本資産を凍結実施を宣言したとき、日本には三国干渉のときのように「臥薪嘗胆」へと国論を持って行ける政治家はいなかった……。
ヤングはヨーロッパで戦争が起こったとき、ロサンゼルス市立大学をやめて陸軍を志願した。
彼は勉強が苦手だと自分で言っていたし、いっちょうやったるかと思ったのかもしれない。
しかし、このときはアジア系市民すべてが兵役の対象から外されたままだったので、当然ヤングの志願は拒否された。
その後も彼はいろいろな仕事に就いたが、人種差別が立ちはだかって長続きしなかった。
1941年当初にアジア系市民も徴兵対象になったことから、ヤングはようやく兵役に就くことになった。
彼はこのロサンゼルスの守備隊に配属されたが、車両の整備係に回された。
これは彼だけではない。アジア系の兵士はみな武器を渡されず、後方支援に配備された。
そして僕らの周囲も18歳に達した者が、ある者は召集令状で、ある者は自ら志願して、陸軍に入隊した。
彼らが入営のため列車に乗るとき、「祝、○○君御入隊」と日本語で書かれた横断幕を掲げ大人も子どもも万歳三唱で見送った。
日本ではそういう風景が、すっかり日常化していたらしい。
1941年12月、パールハーバーで真の意味での「第二次世界大戦」が始まった。
このときハワイの州兵隊には、1個大隊に相当するニッケイ・ソルジャーがいた。
彼らは白人兵たちに銃を突きつけられ、オアフ島のスコフィールド駐屯地に閉じ込められた。
日系市民の徴兵適格は「1A」から「4C(敵性外国人)」に落とされた。
ハワイのニセイたちも、他民族の友人が軍隊を志願したときに一緒に志願するが、ニセイたちだけが門前払いされた
ダンたちハワイの大学生は、同級生たちが次々徴兵されていくのを見るたびに、自分たちだけが居残ることに、何とも言えない情けなさを感じていた。
その頃のハワイでは日系社会の指導者格のなかで親日と思われた者がすべて逮捕され、残った者は「自分は合衆国市民」という意識が強くなった。
何しろ彼らは「日本」に「平和な日常」を破壊されたのだから。
日系市民たちは和服だった者も洋装に変わり、「アメリカ人」として生きる覚悟を固めた。
ダンたちニセイの大学生は「大学必勝ボランティア」を組織して、土木工事を買って出た。
僕が陸軍に志願したのは、兵役適格が4Cになる寸前、1942年2月のことだった。
入隊した僕は、サンフランシスコの陸軍日本語学校に配属になった。
もちろん「あいうえお」から日本語を教える学校ではなく、尋問役の通訳を育成し、あるいは日本文化について研鑽する情報兵育成のための学校だった。
このころ、ヤングが上官の推薦を受けてフォート・ベニング幹部育成学校行きを命じられた。
彼は「どうせ知能テストで落第になって、すぐ帰ってくるよ」と言って、列車に乗った。
将校になるためには、知能テストでIQ110をたたき出さなければならない。
……しかし、ヤングはそのまま帰ってこないで、幹部育成学校に入校してしまった。
ヤングが何をして推薦を受けたのか、人づてに聞いたときはあぜんとした。
彼は部隊の対抗演習で攻撃側にいたが、地形図だけで防御側の配置を全部当ててしまい、攻撃側が圧勝してしまったというのだ……。他にもいろいろやらかしていたようだ。
そして、フォート・ベニングで知能テストの結果を聞いて、仰天したのは本人だった。
自分って、残念な男じゃなかったんだと初めて知ったらしい。
……その後彼は手紙で、教わることやることすべてが楽しい。と書いてきた。
ヤングって、「やればできる子」だったんだ……。
僕の入隊の翌月、1942年3月に合衆国はとんでもない暴挙に出た。
ローズヴェルト大統領が「大統領令9066号」を公布したのだ。
これは、陸軍長官と現地指揮官が「国防上危険とみなす人物」を強制的に立ち退かせることが可能になるという、とんでもない政令だ。
合衆国の太平洋側に「移住キャンプ」と言う名の強制収容所10カ所が突貫工事で建てられた。
収容可能人員、合計で12万人分。
そして陸軍第4軍司令官は、太平洋岸の諸州からの日本人、日系市民「だけ」の立ち退きを命ずる。応じなければ強制収容するという。
僕の幼なじみたちも、その中にいた。
4月、ロスの日系市民たちは、トランク1個に入りきるもの以外、家も財産もすべて没収されてシェラネバダ山脈近くのへんぴな砂漠のど真ん中にある、マンザナ収容所に送られる。
僕は、幼なじみたちが列車に乗りこむ前に、息せき切って駆けつけた。
「どうして、……こんなことに」
信じられない話だ。
ここはヒトラーが好き勝手やっているナチスドイツ帝国じゃないんだ!
罪無き人々が、たったひとつの大統領令で、刑務所同様の収容所に送られるなんて。
絶望した一世の中には、自死してしまったものもいる。出発の直前に。
これが、自由と民主主義の守護天使、アメリカ合衆国のやることなのか?
「おーい! 待ってくれ」
僕以外誰も見送りに来ないはずのホームを、誰かが走ってくる。
フォート・ベニングから急を聞いて駆けつけてきたヤングだった。
彼は、憤懣やるかたないという形相で、悔し泣きしていた。
「みんな……、こんな事は間違っている。たとえ大統領でもこんなことをする権利はない!
ドイツ系やイタリア系で、敵国人扱いを受けている者がどこにいる。
今度ヨーロッパ連合軍最高司令官に就任するアイゼンハワー将軍も、太平洋艦隊司令長官ニミッツ提督もドイツ系市民だ。なのに彼らはドイツに内通するなどと思われていない。
彼らだって、自分は合衆国市民だというだろうし、皆もそう思うだろう。
それは、みんなだって同じじゃないか。
合衆国陸軍の将兵の4割はドイツ系だぞ。それなのに、同じ合衆国市民なのに、なぜだ!」
顔を上げたヤングはさらに叫んだ。
「この国は、自由と民主主義の国だ。
この国にも、心ある人はいる。こんな事は間違っていると言う人は出てくる。
いつかはみんな、間違いに気がつく日が来る。
だから腐ったり、荒れたりしないでくれ。
私とスパッドも、みんなの権利のために戦う。そのためには何でもする。
だからみんなも、自由と権利を取り戻すまでがんばれ」
皆も泣いていた。僕もヤングも泣いていた。
もう誰も、言葉が続かなかった……。
「これからが、私たちの長い戦いになるだろう。
スパッド、覚悟を決めようぜ」
「ああ、そうだね。
今日のことは絶対に忘れないよ」
僕たち二人は、みんなを乗せた列車が見えなくなるまで、ずっと見送った。
ハワイ社会には、今に続く「アロハスピリット」というものがある。
日系市民は全ハワイの4割を占めていたこともあったが、彼らに強制収容の手が伸びなかったのは、「すべてを受け入れる」このスピリットゆえでもあった。
ハワイの日系兵たちは、コフィールド駐屯地の監禁からとかれ、軍務に着いていた。
しかし6月、日本海軍のファースト・モビル・フリートがミッドウェイを攻撃しているさなか、彼らは「ハワイ緊急大隊」と名付けられ、民間船「マウイ号」に乗せられて、本土に送られた。
大隊長はハワイ国土防衛軍のターナー中佐。50歳目前のロートル将校だったが、誰よりもニセイたちを理解していた彼は、自ら志願して大隊長になった。
ニセイたちも彼を国土防衛軍時代から「オールドマン(親父)」と呼んで慕っていた。
マウイ号がサンフランシスコに入港したとき、緊急大隊は「第100大隊(セパレート)」と名付けられた。
そしてこの大隊は、指揮下に置かれる師団も連隊も持たなかった。
歩兵大隊は他の兵科とちがって固有の通し番号を持たない。第1から第3しかない。
それなのに100などという番号を付けるのは「お前たちは必要ない」ということでしかない。
おまけにセパレートなんて言葉まで付いている。
ざっくり言ってしまえば「いらん子隔離大隊」だ。
さらに上級司令部を持たないがために、バスタード(私生児)大隊とまで言われた。
つまり彼らは、ハワイに日本軍が攻めてきたとき、彼らと見分けが付かないかもしれないから本土に送られた「厄介者部隊」ということなのだ。
しかし鉄道路線3つに分けられて、キャンプ・マッコイに到着した彼らは、これが強制収容でなかったことにほっとした。
彼らは自分たちの部隊を、ハワイ語混じりで「ワンプカプカ」と呼ぶ。
ビシンは本当にハワイアンにしか通じず、しかも柄が悪く聞こえる。
だが、彼らの平均知能はIQ103だ。通常の歩兵大隊を上回る。
彼らは高卒以上が当たり前で、大学生や大卒までいるどっかの陸上自衛隊みたいな部隊だ。
日本移民がどれだけ子弟の教育に努力したか、このことが示している。
日系の将校は皆、学校の教員だ。
彼らはアメリカ北部のマッコイで、気候のちがいに悩みながらも訓練を続けた。
そこにテキサス出身者だけの部隊がやって来た。
どこの国でも、師団規模の部隊は同郷人で固められる。
この部隊は大柄な白人のテキサン(テキサス野郎)と、メキシコ系市民からなっていた。
テキサンどもは、ワンプカプカの日系兵を侮蔑していたので、両者はよくケンカになった。
だが、幼少時から柔道に励んでいたニセイたちは、巨漢のテキサンたちをボロクソにした。
メキシコ系とはケンカにならなかった。ニセイはメキシコ系がすぐナイフを抜くことを知っていたし、メキシカンたちは有色人種どうしで、ニセイたちにシンパシーを持っていた。
ハワイで歯科医をしていた「ドク」ことカツミ・コメタニ大尉は、こういう暴れ者を回収に警察まで出向くのが日課になっていた。年長者の彼にとって見知った顔の連中ばかりだった。
翌年、1943年正月に、彼らは酷寒のマッコイから、暑くて湿度の高いミシシッピ州のキャンプ・シェラビーに移された。
2月のある雨の日、シェラビーに赴任する軍人たちを乗せたバスがゲートをくぐる。
一番奥まったところにある、雨漏りがする粗末なバラック群がワンプカプカの住まいだ。
バスの終点は、そこだった。
ここで降りたのは、少尉になり立ての若い将校ひとりだった。
「第100歩兵大隊……」
彼は大隊本部の建物を確認すると、雨漏りだらけの建物に入っていく。
大隊長に着任のあいさつをしたいと当番兵につたえるが、演習中で今日は戻らないという。
彼はとりあえず、留守番役のドク・コメタニにあいさつし、大隊長が戻るのを待った。
彼は2週間前に養成学校を卒業したばかりの新品少尉だった。
辞令には師団名も連隊名もない「第100歩兵大隊」に着任せよと書かれていた。
この部隊が日系兵の部隊だと聞いたのは、着任の途中、友人からだった。
2日後、大隊がキャンプに戻ってきた。
少尉はさっそくターナー大隊長に呼ばれた。
ターナーは、少尉の引き継ぎ書類を見て、難しい顔をしている。
少尉の姓は「キム」、韓国系の将校だ。
ターナーにはそれが分かる。日系との付き合いが長いから。
しかし陸軍の人事部には、アジア人の民族のちがいはわからない。
だからしょっちゅう中国系や韓国系の将校を送り込んでくる。
そして彼らは、第100が日系兵の部隊とわかると、必ず怒って転属を迫るのだ。
だからターナーは、即座にこう言った。
「陸軍省がまたやってくれたな。君たちも日系だと思っている。
すまなかったな、すぐ転属の手続を取ってあげよう」
少尉は、けげんな顔をした。
「なぜ、私が来た早々転属するのですか?」
今度はターナーが「はぁ?」という顔になる。
「君は知らないかも知れないが、この部隊は日系兵の部隊だ」
「存じておりますが」
ターナーの頭の疑問符がふえていく。
どうしてこうなるという顔になる。
「君たちと日系は、不倶戴天の仇敵みたいなものだろう」
「たぶんそうです。私の両親もそう思っています」
ターナーはますます混乱した。いったいなんなんだこいつ?
「ここに来た中国系や韓国系将校は、みんな来るなり転属させろといった。
君はちがうのか?」
少尉は真剣な顔で、こう答えた。
「サー、イエス・サー。
――ここには韓国人も日本人もおりません。
ここにいるのはただ同じ志を持ち、自由のために戦うアメリカ人、合衆国市民だけです。
私は転属を希望しません。ここに残ります」
その少尉こそ、誰あろうヤング。
ヤング・オーク・キムその人だった。