かつての合衆国は、激しい人種差別と同時に、ヒューマニズムと義侠心を併せ持つ国だった。
とくに人命を大事にすることは、他のいかなる国の及ぶところではなかった。
戦時にあっても、可能な限り人命を救う努力を尽くし、初めから犠牲ありきの戦闘など決して行わなかった。
「命より重いものはない」ということを、かつての合衆国は体現していた。
であるから、その一つしかない命を引き替えにして人を救った者に対する畏敬の念は、日本人には思いも寄らぬほど大きい。
サダオ・ムネモリの死後、合衆国は日系兵士にずっと出し渋っていたメダル・オブ・オナーを彼に授与する事を決めた。反対する者は誰もいなかったという。
これが、第442連隊戦闘団初のメダル・オブ・オナーであった。
受章者には、たとえ元帥であっても先に敬礼しなければならないといわれる勲章。
そして長い間、彼が唯一の受章者であった。
勲章を受け取ったのは、収容所から解放された彼の母。
サダオが出征するときに「日本人として恥ずかしくないよう、あなたの祖国アメリカのために戦いなさい」と言って送り出した彼女は、どのような思いで合衆国軍の最高勲章を受け取ったのであろうか。
この日、エバーグリーン墓地を散策していたのは、くだんの老人一人だった。
彼は墓地の中心地に歩いて行った。
そこには兵士たちの親である一世たちが建立した「殉国碑」がある。
中央の太い大理石の柱に行書体の漢字で『殉国碑』と書かれ、左右に元大統領、故ドワイト・アイゼンハウアー陸軍元帥と、故マーク・クラーク退役陸軍大将がしたためた碑文を彫った黒曜石がはめ込まれている。
とくにクラーク将軍の追悼文には、彼個人としての感謝の心情が綴られている。
中央の柱の頂点には、ライフルを携え歩哨に立つ兵士の像が置かれている。
老人は、その像に語りかける。
彼は戦時中何度も語学兵に勧誘されたネイティブ・スピーカーだったが、戦後は公用で日本に赴いたときですら英語を話し、通訳を介していた。
しかしこのときは、長らく使う事のなかった「日本語」で語りかけた。
「よお、久しぶりだなあ。
スパッド、あんたはずっと22歳のままだねえ。
俺なんかもう88だぞ。あんたの四倍生きてしまったよ」
石像はサダオのものだった。
晴れた空の元、戦友たちの眠りを守るかのように立ち続けている。
「ふふふ、パープル・ハートはどうしたと言いたそうだな。
ちゃんともらったよ」
老人は左手でスーツの右の袖を指さした。
彼の右腕は、肩から先がなかった。
老人は、ダンだった。
サダオの死後2週間ほどのちの、1945年4月20日。
ダンは例の「幸運の銀貨」をふたつともなくしてしまった。
翌21日も、彼はいつもと同じように先頭切って突撃し、いくつもの機銃座をつぶし暴れ回っていた。あいかわらず敵の弾を器用によけながら。
しかしこのとき銃撃で倒せないダンに業を煮やした一人のドイツ兵が、小銃用擲弾器に対戦車成形炸薬弾頭を装着し、ダンにそいつをぶっ放した。
とっさに対戦車弾をよけたダンだが、爆風をよけきれず、右腕がズタズタにされてしまった。
それでもダンは右手が握っていた手榴弾を左手に持ち替え、自分を撃った敵兵をそれで倒すとすぐに身を隠して、医学の知識ですばやく右腕の止血をすませ、左腕だけで銃をかまえて終日戦い続けた。
だが腕の傷は深く、この日の終わりにダンは重体に陥った。
彼は直ちに後方の病院に搬送される。
南部戦線のドイツ軍が降伏するわずか10日ほど前だった。
現地で、そして本土の病院で何回も手術を受け、右腕をすべて失っても彼はベッドから起きることもできなかった。
戦争が終わって数ヶ月後、そんな彼を見舞いにきた男がいた。
当時予備連隊となっていた第442の指揮官の一人になっていた、サカエ・タカハシだった。
「どうだ、ハワイから政界に出てみないか?」
それは、サカエがシェラビーにいたころからずっと考えていたことだった。
ハワイ政界はずっと白人保守の共和党に牛耳られていた。
それが頭数では圧倒的に少ない白人によるハワイ支配につながっている。
サカエは最終的に民主党の公認を得て、下院、上院にまで日系市民の代表を送り込もうとまで考えていた。
ダンは、きき腕を失った身体ではもう医師にはなれないとわかっていた。
陸軍も軍病院から退院すると同時に名誉除隊になってしまう。
しかし、これから何をしてゆくかはまったく考えていなかった。
ダンはサカエの計画に乗る事にした。
ダンの第二の人生が、このとき始まった。
そして必死のリハビリと同時に片腕で暮らす訓練、それにピジン英語を精算してワシントンで話されるきれいな言葉を習得した。
彼が退院するまでに1年8か月もの時間がすぎていた。
ダンは再び大学に入りなおし、政治学、経済学を修めるとサカエやスパーク・マツナガらとともに、まずハワイに拠点となる銀行を建てた。
それを足がかりに州政界を手始めに日系政治家を送り込み、ついにサカエ・タカハシが1954年に上院議員に当選、1962年にマツナガが下院議員となり、翌1963年にダンが上院議員となった。
サカエは20年、上院議員の座にあった。そしてダンは……
「なあ、スパッド。
この俺が今じゃ上院の最長老だとよ。
今、9期目だ」
ダンは88歳のこのときまで、上院の重職を歴任し、民主党内においても重鎮となっていた。
それだけではない。最長老の上院議員は「上院仮議長」に任命される。
上院仮議長は名誉職であるが、非常時の大統領権限継承順位は副大統領、下院議長に次ぐ第三位である。そして88歳のこのときもずっと元気に皆勤賞だ。
彼だけではない。このときまで生きている日系兵士の生き残りは80、90になっても皆元気だ。
ダンはさらに、合衆国の歴史を大きく変えるできごとにかかわっている。
ウォーターゲート疑獄のさなか、ダンは民主党を代表して共和党の大統領と戦っていた。
このとき家族でハワイから本土に遊びに来ていたアフリカ系の少年が、上院特別委員会の中継をじっと見ていた。そしてダンがハワイ選出の上院議員であり、戦場で片腕を失ってもなお政治の場で戦い続ける、なによりも有色人種の政治家だということに感動した。
彼は思った。たとえ有色人種でも立派に政治家になれるのだ。
彼はその夢を抱き続け、2004年にイリノイ州選出の上院議員(民主党)となった。
上院議員となった彼が真っ先に訪ねたのは、ダンのオフィスだった。
ダンは彼に先輩として「上院議員のお仕事」についていろいろレクチャーした。
それだけではなく、二人してとても人には聞かせられないような話にも興じたという。
……つまり、彼らは似たもの同士だったのだ。
彼は1期だけ上院議員を勤めると、2008年の大統領選挙に出馬して選挙戦を制し、合衆国初のアフリカ系の大統領になった。2012年現在、彼、バラク・オバマJr.は、2期目の大統領に就任している。
ダンが急にしんみりとした表情になった。
「なあ、あんた。
そっちは賑やかかい?
……みんなさあ、そっちに行っちまったよ。
こっちは寂しいぜ」
戦後、第100、第442の生き残り、あるいは彼らに関わった人々も、次々と亡くなっていった。
ファラント・ターナー 1954年逝去 享年59歳
ジェームズ・オークボ 1967年逝去 享年46歳
カツミ「ドク」コメタニ 1979年逝去 享年72歳
マーク・クラーク 1984年逝去 享年87歳
ミツヨシ「ミッツ」フクダ 1988年逝去 享年71歳
スパーク・マサユキ・マツナガ 1990年逝去 享年73歳
カオル・モト 1992年逝去 享年75歳
イスラエル・ヨースト 2000年逝去 享年84歳
ジェームズ・ラヴェル 2001年逝去 享年94歳
サカエ・タカハシ 2001年逝去 享年81歳
エイキ・コバシカワ 2005年逝去 享年87歳
ヤング・オーク・キム 2005年逝去 享年86歳
「すまんな、スパッド。
ヤングはロサンゼルスに身寄りがなかったからな。
だったら第100のみんながいる、ハワイのパンチボウル国立軍人墓地に連れてってあげるのがいいんじゃねえかって、生き残ったみんなで思ったんだ」
ビフォンティーヌで重傷を負ったヤングはロスの病院に入院し、退院したときにはもう第2次大戦はすべて終結していた。
韓国独立運動の活動家だったヤングの両親始め一族はすべて、リーダーの李承晩とともに日本の統治から独立した韓国に帰ってしまい、ロスには彼だけが残された。
だが、ヤングだけはロスを出ようとはしなかった。彼の祖国はあくまで合衆国だから。
そういう事情で、彼の墓所はこの墓地ではなくハワイにある。
「ヤングは、死ぬまで第100の、第442の一員でありつづけた……」
第442はトルーマン大統領から8枚目の大統領感状を授与され、「諸君はナチスのみならず、差別にも勝利した」と賞賛されたが、「ジャップ」に対する攻撃はやむことはなかった。
ダンも退院後、ハワイに帰る途中で散髪屋に入ったとき「ジャップは出て行け」と叩き出されてしまった。軍服を着用し、4月21日の戦いで授与された特別勲功十字章を佩用していたにもかかわらず。
第442がハワイの予備役部隊になったため、退院したヤングは陸軍から復員し、ロスで洗濯機をいくつか集めて、今で言うコインランドリーの手動式のような店を始めた。
依然として有色人種に対する差別が激しく、戦後の景気の悪化から満足な職につけなかったためだった。
ヤングはこの商売でそこそこの成功を収め、生活の不安はなくなったが、何か満ち足りないものをいつも感じていた。
だから1951年に朝鮮戦争が勃発したとき、ヤングはつてを頼って陸軍に復帰、大尉に戻ってシーソーゲームの繰り返しの末韓国側不利となった戦場に赴いた。
むろんヤングは、朝鮮語をまったく話せないふりをして実戦部隊へ配属された。
彼がそこで任されたのは、今度は「だめの子大隊」だった。
ヤングがS2として赴任した第7歩兵師団第31歩兵連隊の第3大隊は、言ってしまえば「落ちこぼれ」ばかりが集められた弱くて士気もふるわない部隊だった。
結局、この部隊にろくな任務が与えられることはなく、ほぼ遊兵といって良かった。
逆にいうならヤングにとっては、完全なフリーハンドを与えられたに等しい。
無茶振りになれているヤングは頼りにならないS3、それどころか大隊長のかわりまでこなしながら、損害をほとんど出さず美味しいところだけ持っていく戦いを続ける。
初めは突然送り込まれてきた東洋人の将校が立てる奇妙な作戦にとまどい、いつのまにか勝っていることに理解の追いつかない第3大隊の面々だったが、ヤングが特別勲功十字章に柏葉2つのパープルハートを持つ歴戦の猛者であり、さらに「第442の第100」の作戦将校だったことを知るに及んで、徐々に信頼を寄せるようになっていった。
元がどうだろうが、勝ち続ければ自信も湧く。
第3大隊はアメーバーのように動きまわっては決定的な瞬間で効果的な一撃を加え、味方の勝利に貢献するようになっていく。
いつしか「ダメの子」は「やればできる子」を通り越して頼られる存在となり、味方の危機を何度も救援するに至って、連隊単位で書き込まれる総司令部の作戦地図に、特別に第3大隊だけその動向が記載されるようになる。
そして二回目の38度線越えの先鋒に選ばれたのは、この第3大隊だった。
ヤングはこの戦いで2つめの特別勲功十字章を受章、少佐に昇進し、さらにアジア系としては第1期第100歩兵大隊の最後の大隊長になったミツヨシ・フクダ(1945年10月)に続いて2人目、韓国系としては初の大隊長に就任した。
朝鮮戦争が停戦となる数ヶ月前に本土に呼び戻され、引きつづき陸軍に残ることになったヤングは、自分の天職はやはり軍人だったのだと理解する。
ヤングは1959年に中佐、1965年に大佐に昇進して、1972年に退役した。
その間西独駐留軍で大隊長、歩兵学校の教官、陸軍幕僚大学教官、韓国陸軍軍事顧問を歴任し、大佐昇進後は欧州、ハワイに赴任することが多かったという。
二等兵で始まり大佐で終わった彼の軍歴は30年に及んでいた。
しかし、ロサンゼルスに戻ってきたヤングは、がく然とする。
日系市民が強制収容された歴史も、第442連隊の奮戦も、合衆国で忘れ去られようとしていたのだ。
依然として市民権を得られない一世も、日系二世たちも、あの当時のことをただ「つらい思い出」として口にせず、忘れようとしているかのようだった。
強制収容のことも、誰も責任を取ろうとしていない。
そのなかでダンやサカエたち日系議員が孤立無援で戦っている。
ヤングには、こんな現状は許せなかった。彼は再び、そして最後の戦いを始めた。
彼は全米を精力的にまわり、日系市民たちの受けた迫害と、日系部隊の犠牲を省みない献身と戦果について語り続けた。
ここで彼が韓国系だったこと、すぐれた軍人だったことがプラスに働いた。
すべて信憑性のある、事実に基づいた話と認められたのだ。日系と韓国系の仲の悪さは昔も今も全く変わらない。
ダンたちにとってもヤングの「援護射撃」「直協支援」はありがたかった。
かつての「サムライ・キム」を知る戦友たちもまた立ち上がり、三世、四世は自分の父、祖父が並ぶものなき英雄であったことを初めて知った。
それだけではなくヤングは全米日系人博物館、Go for Broke教育センターなどの設立に参加、日系部隊の事実を知るに至った日本を含む各国のジャーナリストのインタビューにも積極的に応じた。彼はしかし、作戦や戦闘の経緯などについてはいくらでも語ったが、自分自身のことについてはあまり語っていない。サダオの生い立ちはよく知られているが、ヤングの陸軍入隊以前のこと、なぜ彼だけが日系部隊に参加してともに戦おうとしたのか、誰も書いていない。
例の「敵兵誘拐作戦」にしても、くわしく証言したのは生きて帰国できたアービング・アカホシだった。
彼らの戦いが報われたのは1976年、時の大統領ジェラルド・フォードが強制収容を誤りと認めたことに始まる。日系アメリカ人市民同盟は合衆国政府の謝罪と不当な仕打ちで受けた損害の償い、そして強制収容に関する教育を実施させることを求めた。
次のカーター政権下で政府による詳細な調査が行われ、その後を受けたロナルド・レーガン大統領は公式に謝罪し、強制収容された生存者に対して一人当たり2万ドルの損害賠償を行った。そして日系市民と強制収容についての教育が、全米で実施されることとなった。
そしてクリントン政権下で、第二次大戦における有色人種将兵の叙勲について人種による差別がなかったか再調査され、ダンたち19名の特別勲功十字章がメダル・オブ・オナーに昇格、さらに申請がありながら手違いにより銀星章を授与されたジェームズ・オークボに議会の議決によりメダル・オブ・オナーの追贈が行われ、第442全体で当初のサダオのものも含めて、メダル・オブ・オナーは21個となった。
ブッシュ大統領(父)も公式に謝罪し、生存者に対する賠償を行った。
ヤングが最後に行ったのは、ロサンゼルス日本人街の中央に「ゴー・フォー・ブローク・モニュメント」を建立する計画を立ち上げたことだった。彼はロサンゼルス市当局との交渉、募金活動の中心者となって運動を進めた。
リトル・トーキョーのど真ん中に完成したモニュメントは、「記念碑」というのはあまりにも巨大な物だった。
まるで丘のようなモニュメントの前にはサダオやダンらメダル・オブ・オナーを受章した21名の名を刻んだ銀柱が立ち並び、その壁には第二次大戦に出征したすべての日系兵士の名が刻まれている。そう、日系兵士だけ。この碑の発起人であるヤングの名はどこにもない。
ヤングはメダル・オブ・オナーを受章することはなかったが、2005年にフランス領事から「黒い森」での奮戦により、モニュメントの前で「レジオン・ド・ヌール騎士勲章」を受章した。
ヤングは晩年、戦傷の後遺症に苦しみ、最後はがんにより亡くなった。
「ヤングは最期まで『サムライ・キム』で居続けたよ」
ヤングの訃報に接したダンは、すぐに新聞に弔意文を掲載させた。
「恐れを知らぬ指揮官にして、第100歩兵大隊の本当の英雄だった」と。
そして第1期の第442連隊戦闘団は「アメリカ陸軍最強部隊」と呼ばれ、連隊として最多の勲章を受けた部隊となり、陸軍すべての教育課程で第442についての授業は必修とされている。
2004年に、第442歩兵連隊は麾下に第100歩兵大隊のみをもつ部隊として、現役に復帰した。
ハワイで再結成された第100であるが、かつてのような日系兵のみの部隊ではなく「虹の州」と呼ばれるハワイらしく、さまざまなマイノリティにより構成されている。
そしてイラク、アフガニスタンでやはり危険な戦場で先陣を切る戦いをしている。
「議員、時間です」
ダンの秘書が、「殉国碑」の前にたたずむダンを呼びに来た。
ダンはもう一度サダオの像を見上げる。
「ふふ、もうホテルに帰って寝なくちゃならんのさ。
夜中の0時からどうしても見たいテレビがあってな。
日本からの衛星中継さ。
国家に自分たちの場所をつぶされそうになっている女の子たちが、居場所を守るために戦い続け、ついに決勝戦に臨むんだそうだ。
虎が出てくるかも知れねえな。
……あんたも、その空の上から、応援してやってくれねえかな」
ダンは迎えに来た秘書に手を引かれ、エバーグリーン墓地を後にした。
最後に彼はもう一度殉国碑をふり返った。
「おい、俺はまだまだそっちには行かねえぞ。
第10期も必ず当選して、いや100歳になっても議員やってやるからな!」
メダル・オブ・オナーが軍人の最高勲章ならば、軍民問わずの最高勲章は議会黄金勲章と大統領自由勲章である。
2006年にタスキーギ・エアメン、第332戦闘航空団の全員が、2010年に第二次大戦に従軍したすべての二世兵士(第100、第442、陸軍情報部)が、2015年に第1特殊任務部隊の全員が、それぞれ議会黄金勲章を受章した。
2012年12月。
それまで元気に第10期目指してがんばっていたダンは、急に体調を崩してワシントンの病院に緊急入院した。
容態はどんどん悪くなり、本人の闘病も薬石も効なく、ダンことダニエル・イノウエは同年12月17日に逝去した。
彼は最期まではっきり意識を持っており「まあまあ、上手くできたと思う」と言い残した。
死去の直前にのこした言葉は「アロハ」だった。
バラク・オバマは「ハワイに生まれ育ったものなら、『アロハ』とは単なるあいさつではなく、『愛している』という意味だと知っている」と説いた。そして「真の英雄を失った」と悼んだ。
12月20日に、彼の遺体を収めた棺が合衆国議会大広間に安置され、追悼式が行われた。
これまでに棺が大広間に安置された人物はダンで32人目、アジア系としては初だった。
そのあとワシントン大聖堂で国葬が営まれた。その席上で当時のバラク・オバマ大統領は15分にもわたる長い追悼演説を行い、涙ながらに別れを惜しんだ。
ダンは翌年、大統領自由勲章を追贈された。(ただし叙勲自体は生前に決定していた)
またアーレイ・バーク級イージス駆逐艦、DDG-118の艦名が「ダニエル・イノウエ」となることが決まった。(2018年就役予定)
軍艦の艦名に大統領、長官職、海軍軍人、海軍に特別の功績のあったもの以外であり、アジア系、とくに日系市民である人物の名が冠せられるのは初めてのことであった。
2017年6月、ホノルル国際空港は「ダニエル・イノウエ国際空港」と名をあらためた。
第442連隊戦闘団、メダル・オブ・オナー受章者
バーニー・F・ハジロ
ミキオ・ハセモト
ジョー・ハヤシ
シズヤ・ハヤシ
ダニエル・イノウエ
エイキ・コバシガワ
ロバート・T・クロダ
カオル・モト
サダオ・ムネモリ
キヨシ・K・ムラナガ
マサト・ナカエ
シンエイ・ナカミネ
ウィリアム・K・ナカムラ
ジョー・M・ニシモト
アラン・M・オーハタ
ジェームズ・K・オークボ
ユキオ・オクツ
フランク・H・オノ
カズオ・オータニ
ジョージ・T・サカト
テッド・T・タノウエ
(順不同)
※ なお2018年現在、全員が鬼籍に入っている。