「……こんばんは、皆さん」
わっ、びっくりした!
だって何の気配もなしにいきなり背中から声かけられたんだもの。
んなことするのは連盟試験部隊の大河真琴さんぐらいだよ。
とりあえず敵意がないことを示すために手を開いて顔の高さまで上げて、後ろへはゆーっくり向かないと。
どんな人かわからない以上。
そして、そこにいたのは……
「あら……」
女性と呼ぶべきか、ご婦人と呼んだ方が良いのか。
いままでの女装で積んだ経験からすれば、この人、見た目とおりのお歳ではない。
たぶん、高橋先生と同世代だ。
でもなんでこんな女性がこんな時間にこんな場所に?
昼間観光に来て、これから山を下りるから美味しい店でも教えてっていうのかな。
「よう、ちよきち」
「久しぶりだな」
へ?
この人が「ちよきち」さん?
うそぉ! 頭が混乱する~。
たぶんあだ名なんだろうけど、こーゆー人がなんで男みたいなあだ名なの??
高橋兄弟は平然としている。たぶんご本人で間違いないんだわ。
でもちょっとひどくない~?
「ホント、久しぶりね。
元気してた?
けーちゃん、ついに一本もなくなっちゃったのね」
「そ・っ・て・る・ん・だ」
なんかドゥーチェの「自・毛・だ!」みたい。
「妙な風の吹き回しだな。
どうしたんだ?」
「ええ、やっと御殿場から横須賀に転勤になったので、めったに会えない娘とふたりで那珂湊に泊まってるの」
「お前も大学卒業から激務だからな」
「お医者さんさんほどじゃないわよ、高橋さん。
そういえば、あれほど吸っていたタバコは?」
「もう20年も前から、病院は駐車場まで全部禁煙だ」
ちよきちさんは「うふふ」と、ころころ笑う。
ますますわかんなくなる。
なんでこの人が「ちよきち」なんて剣呑なあだ名なの?
僕からみればうらやましいくらい女性らしいじゃない。
「おお。娘って、あの無愛想なガキか?
幼稚園の頃、好きだというぬいぐるみ持っていってやったら、ひったくって逃げてったぞ。
かわいい盛りのはずなのに、ぜーんぜん可愛げっていうものがなかったぜ」
ひどいわ。けーさん、悪オヤジオーラで幼稚園児怖がらせて何をいってる。
「あら、母親の私にもなついてないわ。
紋切り型で必要なことしかいわないの」
「そりゃあ、お前が怖いからだよ!
いくら猫かぶってても、俺たちには通じねえーよ」
え? けーさん、なんつーことを。
いくら何でもこの人にそれはひどいわ。
「そう? うふふふ」
ちよきちさんが、僕の背後で低い声で笑う。
なんか怒ったみたい。
そのとたん高橋兄弟が、何か恐ろしいモノを見たような顔になった。
いや、城島先生や星野社長まで、少し遠くで凍り付いた。
「で、出た! ちよきちの由来」
「久しぶりに見たが、いつも驚かされるな」
何があったの? あわてて後ろのちよきちさんを見る。
しかし、ちよきちさんは穏やかにほほえんでるだけだ。
僕は肩をすくめた。
「先生、けーさん。
おーげさですよ。何があったというんですか?」
「ちよきちは昔からちょっとでも怒ると、すさまじく恐ろしい顔になるんだよ!」
うーん。
たぶんこの人が怖い顔になっても、僕はきっと驚かない。
だって……
「たとえそうでも、僕には弁天様が怒ったぐらいにしか感じないでしょう。
僕は怒ってなくても鬼が泣いて逃げるくらい怖い顔の女の人を知ってます。
そしてその人が『この世界には地獄のえんま様がおしっこ漏らすぐらい』怖い顔の女性がいるっていってました。
この人をその人らと一緒にはできませんよ。おーげさもいいところです」
「そ、そうか……」
「それは是非会わずに済ませたいものだな」
「あら、こちらのお嬢さんは、高橋さんの娘さん」
え?
どこにその年頃の女の子がいるの?
と思ったら、ちよきちさんは僕を見ていた。
「お、オホン。いや、俺はいまだ独り者だ。
こいつは訳あって預かっている養『女』のようなものだ」
え? 僕なの? 僕なの?
わーい!
やっと女の子あつかいしてもらえたー!
先生も話を合わせている。
そりゃそーだ、さっきみたいに面倒くさい話を繰り返すのはもうイヤだろう。
星野社長を見ると、「大人の対応」って表情だ。
「……そうなの」
なんかちよきちさんは悲しそうな顔になった。
「北条先輩も、そうなのよ……」
そうか、御殿場にいたなら死神先輩の職場も近い。
チームにいた時期からすれば、当然『あの事件』もご存じなんだ。
おっと、表情を全力で制御しなきゃ。
僕は部外者なんだから、訳知り顔な表情をしてはいけない。
必死で無表情を取りつくろう。
でも、間に合わなかった。
「あらあなた、北条先生をごぞんじなの?」
やってもーた。何とかしなきゃ。
「あ、じ、実はやっかいな病気でお世話になってます。
高橋先生のところにいるのも、先生の紹介で」
これは全くの事実だから、そのままいってかまわない。
病気ではないんだけどね。
「ああ、そうだったのね」
かんじゃったけど、納得してもらえたようだ。
死神先輩は僕に限らず、難しいケースの子どものケアをいっぱい手がけている。
「で、あなた。
私たちはこれから『軽く』走るわけだけど、ここで待ってる?」
うーん、どうしようかな。
初めは高橋先生の928の助手席かリアシートに座るつもりだったけど、けーさんのSUPER-GT級のデモカーや、NSX-Rにも興味はあるし。GT-Rだけはなしっ! あの昭和臭い4連ドーナツテールライトだけでもキショい。だいたい星野社長も「男」と思ってる相手に同乗されたらイヤだろうし……
「何に乗ってらっしゃるんですか?」
「ジー・ティー・アールよ」
まさか、いまだにBCNR33を後生大事に乗ってる……、ってわけではなかった。
クルマはシルエットしか見えないけど、どう見ても日産に見えない。絶対外車。
興味に勝てず、思わず近くまで行ってしまった。
あれ?
「ね、そうでしょ?」
「いやいやこれは、GT-RじゃなくてGT Rじゃないですか。AMGの」
「なんだ、知ってたの。ちょっとがっかり」
いやいやいやぁ~。メルセデスAMGのロードゴーイングレーサーですよ。
すっごいロングノーズ。いかつくてどう猛そうな巨大フロントグリルにはでっかいスリー・ポインテッド・マークが鎮座してる。4リッターツインターボは軽く500馬力オーバー。
でもこういうマッシブなのって、ちよきちさんのフェミニンなイメージには合わないな。
島田たいちょーの愛車といわれれば、あっさり納得するけど。
そーいえば、西住先輩に「AMGってドイツ語でなんて読みます?」と聞いたら、「あーえむげー」と正しく答えた。お父さんのお仕事がそっち関係だそう。
「うーん。あなたは去年のモーターショーで展示されたBMW i8コンセプトの方が似合うような気がしますけど……」
「あら、うれしい。
でも私は筋骨隆々な方が好きなのよ♪」
(※イニD時空は20世紀にZ34フェアレディが走ったり安倍総理がいたりするのでAMG・GT Rぐらいなら誤差の範囲)
「そんなにクルマがすきなら、今日は乗る気で来たのよね?
──ねえ、高橋さーん。この子借りて良いでしょ?
どうせ私が一人旅になっちゃうから、となりに誰かいてほしいの」
なんか、お気にいられたみたい。
僕も「女の子」って思ってくれる人といっしょの方がいいわ。
「ああ、そいつなら走り屋の車に乗せたくらいで死んだりしないからかまわん。
思い切り振り回してやれ」
「え、いいのおー?
知らないわよ」
そうはいっても女子高生と思ってるなら手加減するだろうね。
僕は手加減なしでもいっこうにかまわないけど。
「おい、山本。これ持って行け」
けーさんが何か放り投げてきた。結構大きい。
両手で受け止めると、フルフェイスのメットだった。
骨振動ヘッドホンと、短距離無線の受信機がついてる。
双方向通話が可能なやつだ。
メットわたすってことは、軽く流すなんてつもりは最初からないんだね。
知らないよ~。みんなでリバース大会になっても……
歳を考えようよ。
まあ、パープルラインなら高速コースだし、どうということは……
「あなた、山本さんっていうの?」
「ええ、そうです。
……んーと、僕はあなたをなんとお呼びすれば」
「ふふふ、『ちよきち』でかまわないわよ。みんなそう呼んでるし」
「えー、AMG以上に似合いませんよ」
「うふふ」
なんか意味深だな~。
って、道をそれていく。なに? パープルライン外れて、まさか。
「フルーツライン行くんですか?」
「そうよ」
えー! 20年前のバトルのコースじゃないですか。
ヘアピンとS字と複合コーナーといろんな長さの直線が組み合わさった道幅の狭い難コース。
そして「溝落とし」や「溝またぎ」ポイントがいっぱいある。せっかくの高いクルマがこわれちゃう~。
「その方がおもしろいでしょ」
「た、確かにそうですけど」
道幅が狭いから、5両の車は横一列ではなく、縦に並んでアイドリングしている。
5人とも骨伝導のヘッドホンとチョーカースタイルのスロートマイクをトランシーバーにつけて、マイクテストしている。
いまは指向性が極端に高いマイクもあるから、機甲部隊ではスロートマイクをつかっていないけど、ツーリングライダーが風切り音に左右されずに通信できるスロートマイクを使い出して、いまではネット通販でも買えるアイテムになっている。
この人たちは大馬力エンジンを戦車の4~5倍の8,000回転以上でぶん回すので、車内は会話もできないほどうるさくなるのでこういうことをしてる。骨伝導ホンも同じ。
そして先頭の車から5秒ずつ時間差をつけて道に出て行く。
みんなさすがに上手い。駆動力を落としもロスさせる事もない。タイヤも消耗させない。
ちよきちさんはというと、ショックもムラもない。実にきれいにスタートした。
タコメーターはパワーバンドをキープ。早めにシフトしているように見えるのは、タコメーターの針の遅延を織り込んで、オーバーレブを回避してるのね。
それでギアの歯の表面が見えるかのようにスルスルシフトしていく。
車がとんでもないじゃじゃ馬なのに信じられない。先生と同じレベルじゃない?
梓ちゃんでも泣き叫ぶレベルの加速G。どーやらちよきちさんは遠慮なんかかけらもするつもりはない。容赦ないね。このクルマのシートはバケット状でサポートが良いからどーということはないけど。いいとこ3Gかしら。
一人旅になっちゃうっておっしゃってた割に、あおってますね。
先頭の高橋先生は一番非力なのにまだまだ引っ張ってる。あんなプレッシャーを受けてもタイヤマネジメントが上手いから簡単にはダレないだろう。
登りからブラインドのS字が続く。みんなライン取りがバラバラなのにタイム的には同じ。
そのあとストレートがある、でも終わりがタイトなヘアピン。
なれてる先行4両はともかく、ちよきちさんはここで乱れるわね。
やっぱりインにつくタイミングが遅い、と思ったらステアをガッとインに切り、すぐに逆ハンで猛烈なドリフト。インに付きすぎ、ふたのない側溝が! でも前輪が落ちない。
うわっ、「溝またぎ」やってる。ステアいっぱいに切ってるからアクセルだけでコントロールしてる。なんつー荷重移動。出口でフロントに荷重をかけてカニ走りから復帰、そのままスロットル全開。前の社長のGT-Rにテールトゥノーズしてる~。
ハンドル握ると人が変わる人なのかな。いちおうシロウトっぽい「女子高生」がパッセンジャーにいることなんかガン無視。そのちよきちさんが一瞬僕を見た。のびていないのを見て一瞬目を開き、すぐにっこりと笑う。汗一つかいてない。僕もそう。
アクロの複葉機にくらべれば、いちおう地面にタイヤが着いてるだけよほど安心。左右のGはあっても上下のGとのちゃんぽんはないから目が回るわけがない。インメルマンやバレルロールにくらべればどうということはない。
「ふふふ、のびても失禁しても止めないわよ」
うーん、この人実はいじめる気満々だったのか。ドSだなあ。
たしかにウサギの誰かならそうなってるだろう。でもこれでもアクロ機より遅いし。
「こんな高いクルマにお漏らししたりする度胸はありません」
ジェット戦闘機なら確実にお漏らしするから、おむつあててるけどね。
「あらあら、うふふ」
などと意味深に笑いながら、モンスターマシンをガンガン振り回してる。
たしかに「ちよきち」さんと呼ばれるだけのことはありそう。並みの女性ではないわね。
僕に悲鳴の一つもあげさせたいのだろう。でも荷重移動が上手すぎてS字だらけの登りをスムーズにクリアするから全然怖くない。顔色一つ変えないもの同士のチキンレースになってる。
登りの頂点を過ぎると長い橋からしばらく緩い下りのストレート。ここで先行するGT-Rより脱出速度が10km/hは早い。並んで頭を押さえた。
あっというまに200超え。国内版のGT-Rはサーキット以外ではリミッターを外せないから、社長のは逆輸入品ってことね。GT Rの方も250km/hでリミッターがかかるそうだけど、こっちは自分で完全にメンテする覚悟があれば外すことができるって。
社長もすばやくエンジンをパワーバンドいっぱいに引っ張ってるけど、このスピードでの10km/h差はひっくり返せない。
橋が終わった所でGT RがGT-Rを抜き去った。ゴッドフットも歳には勝てないらしい。
前を行くのはゴッドハンドのNSX。性能は互角。
ストレートが終わると変則7連S字コーナーが待っている。入り口のヘアピンは急な下り坂。
思い切り減速Gがかかるから足は踏ん張り、口はかまないようにしっかり閉じる。
フルーツラインは二輪通行禁止だけど、偵察車もどきで何回か来ている。
ミッドシップのNSXでセオリーにとらわれないそのときそのときで最適化されたラインを走る城島医師。あいかわらずステアリングは右手だけで握っている。
ちよきちさんは、なんと左手だけでステアを握り、右手はシフトレバーに起きっぱなし。
なるほど、左ハンドルならシフトは利き手だ。
そして城島医師のライン取りをきれいにトレースしてみせるちよきちさん。
いや、これはプレッシャーかけまくって遊んでるのね。みかけとちがってエグいわー。
『やれやれ、今日は遊びですますつもりだったんだがね』
これでも20年前から見たら、タイムで数秒は縮まってるはず。
アベレージスピードがとんでもないことになってる。
飛行機の対気速度を基準にしてる僕だから何も言わないけど、普通の人なら「やめてー、停めてー、降ろしてー」とでも叫んでるんだろう。ちよきちさんがちらりと僕の顔を見て、また走行ラインに視線を戻した。
後ろから更にヘッドライトが迫ってくる。GT-Rが追いついてきた。
『1、2、3、せーの、それええええ!』
星野社長がひとりで絶叫してる。冷静になるために。
本当にあわ食ってるときは黙り込む。
「きゅうりははさまれた方が良い味出すんですって? 本当かしら」
ちよきちさんはニコニコ笑いながらそんなことをいう。
余裕じゃん、みんな。
928とセブンはといえば、30mと離れていない。
変則7連S字コーナーが、迫る。
真ん中の4つがくせもの。ほんとうにパイロンスラローム状態。
ここでガクッとスピードが落ち……ないじゃん。
なんとみんな、コーナーの頂点の溝を跳び越してほとんど直線で抜けていく。
恐ろしいスピードで。いやむしろここでビビったらタイヤが溝に落ちて大クラッシュだ。
「ふふ、楽しいです」
僕も頭のネジが飛んだらしい。勝手に笑ってる。
ここで崖に刺さったら、死んだことも知らずに死ぬだろう。
自分が死ぬかも知れない。その場に身を置かないのなら戦う資格などない。
犠牲なくして勝利をつかむことはできない? 至極ごもっとも。
ご自身を例外としなければの話だけど、西住しほ先生。
少なくともあの島田一等陸佐は、自分が殺されることも承知で戦っていた。
だから僕は、あの人を断罪しようとは思わない。
「そう、楽しいの? うれしいわ」
ちよきちさんは、無邪気に喜んでいる。恐ろしいスピードと慣性とGをコントロールし、ステアリングとブレーキとアクセルの芸術的な操作だけで車の荷重の中心を自由自在に操りながら、そんなこと何もしていないかのように、忙しく静謐でいる。
エンジンの悲鳴とスキール音がとどろくせまいグリーンハウスに、不思議な静けさが漂う。
いまこのときに、この人がモンスターマシンと格闘しているのが信じられない。
5両のハイパースポーツはずっとテールトゥノーズのまま、麓まで駆け抜けていった。
ものの10分もかかっていない。だが1時間は走っていたかのようだ……
二回目をやろうとは、誰も言わなかった。
20年前ならともかく今のこの人たちの年齢を考えれば、こんなこともう一回やったら誰かがクラッシュするだろう。クルマも物騒だし、20年前よりすっ飛ばしてるんだから。
折良くちよきちさんの携帯が鳴った。ちよきちさんだけ離れて電話を受けている。
どうもお子さんと話しているらしい。
高橋先生と城島医師に押されるようにして、星野社長が僕のところにやってきた。
「……君、知らないこととはいえ済まないことをした」
「いいえ、わかれというのが無理な話ですから。
それに汚装子(おそこ)と言われなかっただけ良いですよ」
もう、仕方がないことだと思ってる。
早く大人になってホルモン治療受けたいなあ。
未成年だと成長に副作用が出るからね。
「だがな、今が今だから、将来は決まっている。と言う考えはしない方が良いな。
俺みたいなジジイになると、若い姉ちゃんを振り向かせるのに……」
「中年の時以上に、身を削るような努力が必要なんですか?」
だからやせたのかも知れないわね~。本当は。
「いや、あまり苦労しなくなった」
え?? どゆことっすか???
「今時の若い奴は、顔の良い奴は傲慢だし、そうでないやつは自分を磨かない。
つまり、本当の意味で男らしい男がいないのさ。。
そんなわけで『優しくて余裕のある大人のおじさま』って、割と人気があるんだよ。
なんとン十歳差のカップルさえいるんだぜ」
まあたしかに、あのバブル時代にさんざんもまれた男性なら、女性ってものがよくわかっているといってもいいかもしれないわね。
年取ってると言っても昭和みたいな封建主義丸出しの頑固ジジイなんてもういないし。
あ、ジジイじゃないけど父は頑固ジジイのテンプレだわ。
今の世代が女性に過度に粗野に振る舞ったり、逆に現実の女の子に無関心になってしまったのは、何もしないでもハーレムの主人になれるウルトラレアなラッキーイケメンや、女性に一生懸命媚び売ったあげく、フラれてすべてを失った大量の屍の山を見ているからでもあるけど。
目の前の「おじさん」は、努力と優しさで何とかなった最後の世代だね。いまや、格差社会は階級社会に変貌しようとしている……
「だからな、君の場合も必ずしも弱みになるとは限らないぞ。
今感じている『つらさ』が永続するとも限らない。
明日のことさえ、誰にもわからないんだ。俺の歳になってもな。
だから、悲観的にだけ考えるのはやめなさい」
ふう。
たとえばこれから僕が外見上も「女」になったときがきたとして、それですべておわりってわけじゃないな。それから先も僕の人生は続く。
確かに「女」になってからあと、それで僕の心が完全に平穏になるとは限らない。しょせん女の「まがいもの」になるだけかも知れない。子どもも産めないし……
逆にいまだって、大統領たち三人衆以外は僕のことを「女」として扱っている。いや、三人衆も別に男扱いしているわけじゃない。もちろんそれはありがたいし、いまの状態が続くというなら、僕は不幸とは言えないかも知れない。
それに今時の女性たちは昔なら「間違って女に生まれた」だの「男女」だの、よくて「女傑」呼ばわりされるような人が多いよね。そういう世の中で「100%女である」ことにこだわる意味ってあるんだろうか? 僕にはわからない。僕は目の前の社長以上に女性ってものがわかっているんだろうか?
「……ありがとうございます。
いまは素直に『わかりました』とは言えませんが、社長のお歳の頃には答えが出ているように努力します」
「ほう、だが遅すぎないかな」
「いえ、死ぬまででも良いと思います」
まあ、僕に言う分には「説教」にはならないからいいけどね。
正直そこまでポジティブになれませんから、すべて認めるわけには……
……え? うしろから僕の背中を指でつつく人がいる~。
いつの間にかちよきちさんにまた後ろ取られてました。
「ねえ、あなたってどんな高校生なの?
あれだけ振り回せば、大の男でも悲惨なことになるわよ」
「いーえ、フツーの高校1年生です」
思いっきりにっこりと笑う。
どーもちよきちさんは確信犯的に僕をゲロゲロドロドロで気絶させるつもりだった、のではなく、僕のことなんか忘れて走りに熱中したということらしい。
「どこがフツーなのかしら。
バケットシートに収まったまま、首だけ動かして走行ラインをしっかり追っていたじゃない。
怖いと叫んだり、泣いたりもしないし」
「泣き叫んだら停めてくれましたか?」
いや、たぶんそんな気は全然ないだろう。
「ふふふ、……おかげで思う存分飛ばせて楽しかったわ。
実は娘とはある建物を探して茨城じゅうを走り回ってるんだけど、住所までわかってるのに全然見つからないの」
ちよきちさんはその建物の名前をいったけど、ずっと水戸住まいの僕も聞いたことがない。
「ごめんなさい。お役に立てませんで」
「あーあ、地元民にもわからないんだ。
娘から電話で、明日も朝早くから探すから早く帰って来いって。
でも、私のパッセンジャーシートで無言をとおせるのが娘以外にいたなんてね」
うーん。
それはすごい走り屋、どころか女流レーサーになれそうね。
末恐ろしいわ。
「またいうけど、本当に面白かったわ……
……じゃあ、ひとつだけ私にも言わせて」
ちよきちさんは笑顔のままだが、目が笑っていない。
「……君が義をもって信に生きるならば、君が望むものを得る事ができるかもしれない」
……? なんだろう?
どういうことを伝えたいのだろう?
この人は僕について何かを知っているのだろうか。
ちよきちさんは一瞬後にまた目が笑った。
「じゃあね。あなた、たぶんいいオンナになれるわよ。期待してるわ。
私は高橋さんたちにあいさつしたら、このまま帰るわ。
……また会うときまで、元気でね」
確かにああいう物腰でも、「ちよきち」さんと言われる事だけはあるように思った。
女性らしくても、十分男勝りな人だった。
彼女は高橋兄弟と二言三言言葉を交わすと、GT Rの車中の人となって、ハイパワースポーツのタイヤをスピンさせる事もなく、実になめらかに走り去っていった。
「先生、やっぱり面白かったです」
僕はにっこり笑って先生たちを見た。
「いくら若いといっても、てめえが一番元気だってのは、実にしゃくだな」
けーさんもまだ若いつもりらしい。
「君たち、私らも帰るよ。
もう休日ぐらいのんびりと過ごしたいからね」
「おいおい城ちゃん、俺はいまからきれいな姉ちゃんのいる店で呑みまくるからな」
「……好ちゃん、ほどほどにしないと余命宣告するよ」
還暦コンビのスーパーカー2両も、誰も走ってない峠道を流して帰って行く。
20年前なら、後輩たちとにぎやかに峠を攻めていたんだろう。こんな夜は。
「じゃあ兄貴、これから51号線でちーば県まで行ってくる。
こいつをさっさと返さないと雨○の社長が切れる」
「けーさんはそのあとどーするんですか?」
「ちーば県は交通アクセスが悪いからな。どこに行くんでも一回東京に出なけりゃならない。
千葉に泊まって、明日帰るわ」
三代目RX-7のSUPER-GT仕様も、51号を通って土浦からちーば県に去っていくようだ。
「先生、またこんな事があったら誘ってください」
「いや、つくづく歳を感じた。もうないだろう」
「えー? ちよきちさんは汗ひとつかいてませんでしたよ」
「だからあいつは『ちよきち』なんだ」
こうして独身主義者とあしゅら男爵の奇妙なカップルも、大洗めざして帰途につく。
どうせ51号線をくだるんだから、けーさんと途中まで一緒だ。
帰ったら、次の試合の事も決まっているだろう……。
「ん? 着信か」
ナビの画面に「携帯着信中」の表示が出ている。
クルマは速度をゆるめ、ハザードを点灯させつつ路肩に駐車する。
「ああ、私だ。
夕餉は部屋まで運んでもらう事にしたのか?」
『ええ、お母様。
お母様が着くまで待っているわ』
「なに、もうすぐそっちに着く。
……ん、まだそんな事を言っているボンボンがいるのか」
『うん、理事会から連絡があったの。
タヌキ親父でもどうにもならない相手が「忖度」をちらつかせてるわ』
「ふふふ、自分は戦車に乗せれば女よりもずっと優秀だから、女に混ぜて戦車に乗せろ。か?
そんなことはアスリートの世界では常識だ。女が男に勝てるわけがないだろう。
だから戦車は男子禁制なんだ」
『どうするの?』
「勝手にさせておこう。そのどら息子が父親の脚をつかんで引きずり降ろさなければいいが。
好きこのんで『女性専用車』に居座る男が、どういう扱いを受けるか知ればいいのだ。
今度は半月持つかな」
『ええ、女子大は楽しいところよ。……本当に』
「……ふん。
信義を踏みつけ誠実をどぶに捨てるような奴が、戦車道に何を求めても何も得られまいに」
『……。それはそうと。
お母様、明日は大洗の方に足を伸ばしましょ。
もう行っていないの、あの周囲だけだから』
「……ああ。明日こそ見つけないとな。
私もそろそろ職場にもどらなければならないからな」
もうハーメルンを読んでらっしゃらないかもしれませんが、数年前、私がとある作者様から半分罵倒の長文批判感想をいただいたとき、小説についてイロハから何年も教えてくださったKさん様、本当にありがとうございました。
私にとってこのハーメルンで「恩人」といえるかたは、Kさん様です。
ありがとうございます。