5.
十数分ほどの髪梳きを終え、キューブの髪はすっきり下へと伸びたロングヘアに整えられた。
角田がキューブの前に大きな鏡を差し出し「どうかな?」と聞き、キューブはこれで良いと答える。ミサカネットワークからも否定の声は返ってこなかった。
キューブの答えに満足した角田は、手持ち式の小さな掃除機で髪の切れ端を吸い取り、髪を編もうと手櫛を入れたところで、ふと壁の時計を見上げた。
「所長遅いですね……」
ミーティングの予定時間は既に過ぎていた。
「
キューブの様子をずっと観察していた布束が答える。
調整番号五七号の学習機械による知識インストールを前にした定期ミーティングだ。
実際にインストールを行う布束としては欠席できないミーティングであり、まだ来ていない所長はこの研究所が
研究所の『外』に各種作業工程の認可を貰うのも所長であるため、所長を抜きにミーティングを開始することはできない。
所長への文句を言う声を背後に聞きながらキューブはリフレッシュルーム内の面々を見渡した。
布束は何を考えているのかじっとこちらを見つめている。特徴的な三白眼がどことない迫力を感じさせた。
部屋の壁に取り付けられた会議用ディスプレイの横に立つ軍人、ダース伍長は何もせず佇んでいるのみ。
軍服の上からも解る筋肉と姿勢の良い立ち方がまさに学習機械で植え付けられた知識通りの軍人のイメージ像に重なった。
部屋にBGMと不規則な電子音を提供しているのがレイチェル。会議用ディスプレイより一回り小さいゲーム画面を特に面白くもなさそうな顔で眺めながら、手元のゲームパッドを操作している。
そして会議用の長机に着席してずっと本を読み続けているのが芳川だ。
キューブからはゲーム画面を見ることが出来たが、芳川の読む本の内容は見えなかった。
「先ほどから何を読んでいるのでしょうか、とミサカは世間話を試みます」
キューブの問いに、芳川は本に向けていた視線を上げる。
眠たげな印象を覚える垂れた目が無表情なキューブの視線と交差した。
「……ああ、書架にあったエッセイよ」
そう言いながら芳川はキューブに本の表紙を向けた。
『二年B組月詠先生』と書かれたタイトルの下に、高学年の小学生らしき子供の写真が印刷されている。
「少し貸してもらってよろしいでしょうか、とミサカは訊ねます」
「ええどうぞ」
背後で角田が髪を編んでいるため動けないキューブの代わりに芳川が席を立ち、目の前まで歩き本を差し出してくる。
どうも、と本を受け取ったキューブは表紙をめくる。
角田もキューブの右肩から首を出して本を見下ろす。
裏表紙には著者の情報が書かれている。
月詠小萌という心理学と
学園都市の教師らしいので、自分のような特殊な生命体なのだろうか、と思いながらキューブはぱらぱらとページをめくって内容を流し読みしていく。
教師視点での学園都市の問題点や、市街での問題児との関わりについて書かれている。
「それにはとある高校教師の実体験が綴られているわ。わたしは生徒のために働く学校の先生の話が好きなの」
「芳川さんには向いてなさそうですよね、そういう先生って。生徒をはっきり区別するお堅い教員って感じです」
そう告げる角田の指摘に、芳川は「自覚しているわ」と冷静に返した。
自分を挟んで交わされる会話を横にキューブは流し読みでページをめくり、中程のあるページで手を止める。
そしておもむろに本に顔をうずめた。
「え、ど、どうしたの?」
突然の奇行に驚いてキューブを覗き込む芳川と角田。
横から眺めていた布束も学習機械の入力内容に何かバグがあったのかと慌てた。
だが、キューブはそんな三人の困惑をよそに、本に埋めていた顔を上げ、言った。
「この僅かに鼻腔に触れる香りが紙とインクの匂いなのですね、とミサカは本の感想を述べます」
彼女は単に己にない知識を得るために本の匂いを嗅いだだけであった。
学習機械によって入力された知識や記憶の多くは文字と映像の情報であり、それについで言語の聴覚情報だ。嗅覚、味覚、触覚、痛覚といった情報は数値が入力されているが、それはあくまでデータ上の感覚である。
新しく生まれた御坂キューブという個人の感覚器官が感じ取れる生の情報は、実際に体験してみるまで解らないことが多い。
例えミサカネットワークで脳に受ける刺激を共有したとしても、自分の体細胞が受ける刺激とは異なる価値を持つ。
その思考は、
そんなキューブの行動理由に三人の研究者達の中で一番最初に辿り着いたのは、芳川であった。
芳川はキューブに告げる。
「……そうね、あなたは生まれたばかりなんだから、何にでも興味をしめした方がいいわ」
調整は学習機械で記憶を入力して終わりではない。
生活資金は学園都市から支給されるが、労働や研究、あるいは就学等何らかの形で自発的に社会に参加するのが推奨されている。
「所内を見て回ってごらんなさい。人から教わるのもいいけれど、まずは自分でやってみる事よ」
そう締めくくって芳川はキューブが既に閉じていた本を受け取り、元の席へ戻っていった。
そしていつの間にかキューブの髪を長い一本の三つ編みに結い終え、自分の三つ編みに付けていたヘアゴムを代わりにキューブの髪に結んでいた角田が、芳川の言葉に続く。
「ミーティング終わるまではここにいなくちゃいけないけど、それまでお茶でもどう?」
と、角田は長机に置かれていた手提げ袋に手を伸ばす。
長机の上にはメモ帳やペン、ファイルフォルダーなどが置かれているが、ミーティングに持ち込んだ角田の私物は全てこの手提げ袋に入っていた。
「じゃん! 私、部屋で淹れたミルクティーを持ってきてるの」
と、袋の中から取りだしたのは750ミリリットルサイズの魔法瓶。
熱を逃さない素材と構造でできた学園都市謹製のそれを机の上に置き、角田はキューブの返事も聞かずにリフレッシュルーム内にある流し場に向かう。
流し場には陶器の食器が置かれており、他にもコンロや湯沸かし器、コーヒーマシンなども設置されていた。
紅茶用のカップを取り出しながら、角田は今も一人ゲームを続けていたレイチェルに向かって言った。
「レイチェル先輩もゲームなんてやってないで、一息いれましょうよ。この茶葉、紅茶専門店で飲んで美味しかったから、最低限の嗜好品としてなんとか持ち込ませて貰ったんですよ」
減刑のための入所にあたって、未成年者もいることもあり酒類や煙草の持ち込みは禁止されていたが、食中毒の危険性のない保存の利く食料品の持ち込みはさほど厳しくなかった。
ただし、入所後の物品注文は先の染髪剤のように制限が多く、持ち込めた物でやりくりしなければいけない事が多かった。
「ゲームなんてって、元々このゲーム機持ち込んだのも貴女でしょう……」
レイチェルはゲームの進行状況をセーブすると、ゲーム機とモニタの電源を切って長机へと向かった。
このゲーム機も魔法瓶と同じように学園都市で作られた製品で、『携帯可能な据え置き機』が売り文句だった。
本体はポータブルCDプレイヤーに似たサイズと重さをしており、モニタは巻き取り式の有機ELだ。
角田は手荷物としてこのような軽量コンパクトな物品をこの研究所に多く持ち込んでおり、レイチェルはそんな彼女の行動を「中学生の修学旅行」と称していた。
リフレッシュルームにいる人数分のカップを用意した角田は、もう一人会話に参加していなかった人物に声をかけた。
「伍長もいかがですか?」
研究職とは明らかに違う雰囲気を一人身にまとっているダース伍長に、角田は怯えることもなく紅茶を勧めた。
角田は特別気を使ったというわけでもなく、この部屋にいたからという理由だ。角田は物怖じしない性格だった。
「……いただこう」
ダース伍長は表情を変えずにゆっくり壁から離れ、長机の椅子へと向かう。
壁から一番近くの席はキューブの対面。見た目十三歳の少女と太い口髭を生やした軍人と対照的な二人だが、表情から感情を読み取れないという共通点があった。
表情の変化に乏しいことは
感情が希薄なのではないか、という疑問も出たが、感情と表情の関連づけが発達していないだけ、と先に調整を行った研究者達は結論づけている。
知識や記憶を脳に入力したといっても、発生した人格はまだ〇歳児なのだ。
必要とされる運動に対する肉体の精密な動かし方は完璧であるが、感情と表情の関連と言った曖昧な部分までは学習機械では再現が困難であった。
その証拠に、無表情ままのキューブは初めての紅茶という期待でそわそわと身体を揺らしていた。
内にある感情が顔ではなく身体の動きに現れているのだ。
そんな様子を見て苦笑を浮かべた角田は、人数分注ぎ終えたものからまず最初にキューブにカップを差し出した。
「はい、どうぞ」
受け取ったキューブは早速カップに口をつける。
湯気のたつ紅茶に初めてのことながらしっかりと息と共に吸い込み、音を立てて口の中へと入れた。
「どう? 一缶二万もする高級なヤツなのよ」
皆にカップを配りながら自慢するかのような声で味を訊ねる角田だったが、返ってきた答えは。
「不味いです」
「なぬっ!」
不味いの一言で断言されてしまった。
自信満々で出した紅茶を正面からけなされ、引きつった声で角田は返す。
「ち……ちょっとクローンにこの味は難しかったかしら?」
その言葉を発した瞬間、研究者達の視線が一斉に角田に集まった。
気まずい雰囲気がリフレッシュルームを満たす。
今の角田の一言は明らかな禁句であった。
そして、味覚への文句は、発言をした角田自身を含む、生産・調整を行った研究員達への「不完全なものを作った」という蔑みの言葉になる。
「え、えっと今のは……」
明らかな失言に気づいた角田は弁明しようと呻きながら言葉を探す。が、そこへキューブの声が割り込んだ。
「この紅茶はきちんと蒸らしましたか? とミサカは問います」
「え? いや……」
「紅茶の旨みを引き出す基本です」
ミルクが混じったカップの中の紅茶を見ながらキューブは言葉を続ける。
「また使用したお茶の温度が低く新鮮でないとミサカは推測します。電気ポットのお湯は紅茶に向きません」
紅茶の表面から立ち上る湯気を鼻に当て香りを感じ取る。
「ミルクは熱湯で温めたミルクピッチャーに注いで準備する。茶葉の量は1.7倍にするべきでした」
キューブの説明に割り込む者は一人もいない。
各人が配られた紅茶に口をつけてその言葉が正しいかを確認する。
「……あらゆる意味で配慮が足りないため素材の良さを殺してしまった失敗作である、とミサカは断言します」
「う、うう…」
不備を正確に言い当てられ角田が涙目になっていく。
「初めて飲んだ紅茶がコレかよとミサカは嘆息します」
「初めて飲んだヤツに失望されたー!?」
頭を抱えて角田は叫んだ。
とんだ恥をかいてしまったと紅茶を出したことを後悔する角田だったが、先ほどの失言がうやむやになってくれたことをこっそり喜んだ。
「アッハッハ。確かに不味いな」
うえ、と紅茶を口にしたレイチェルが舌を出す。
「
と答えたのは布束。
「一缶二万円って高いのかしら」
と味の答えを濁す芳川。
ろくでもない評価の嵐に、角田はすがるような目でダース伍長を見る。
「……コンバット・レーションの紅茶よりはマシだがね」
軍事用の携帯食糧を胃に流し込むための温水よりはマシ、という褒め言葉とは思えない答えが返ってきた。
笑みの一切感じ取れない厳つい表情のままなので、冗談ではなく事実を言っただけなのだろう。
「キューブ、その紅茶知識はミサカネットワークとかいうものの引用?」
流し場にカップの紅茶を捨てながらレイチェルが訊ねた。
明らかに一般常識を越えた、紅茶を趣味にするレベルの知識量だった。
「いえプリインストールされた記憶です、とミサカは返答します」
その答えに、レイチェルは布束を見た。
この偏った紅茶知識は彼女の趣味なのだろうか、と。
レイチェルは以前別の研究所で布束の私服姿を見たとき、黒くてフリルのたくさん付いた西洋人形のような服装をしていたことを思い出す。
この研究所では洗濯のしやすい支給品の服と白衣を着ているが、少女趣味なのは間違い無い。
「
布束はそうさらりと言葉を返した。
「学園都市の外に出て御坂家に行く場合、学生として学園寮に入る場合、花屋の住み込みバイトとして働く場合、など様々なケースを想定して入力知識をピックアップしています」
「卸売市場の品物注文の仕方から新興科学宗教の断り方まで習得済みです、とミサカは自己の優位性をアピールします」
えっへんと己を誇るキューブ。
「私達が長寿細胞培養している間にそんな偏った知識の構築してたのぉ」
呆れたような顔で角田が布束に言った。
実はこの研究所での業務は暇が多い。
元は十四日で完成するという即席クローンの寿命を延ばすために、数ヶ月かけて臓器や骨格の入れ替えし投薬を行ってきたのだが、細胞を培養したり臓器を馴染ませたりと待ちの時間が多かった。
布束もこの研究所に入ってからはそういった
他の精神面での専門は所長がいたが、所長は研究所の外との連絡のやりとりに従事していたため学習装置構築のほとんどが布束の手で行われていた。
他にも学習装置の構造に詳しい研究者は芳川がいたが、芳川は自分がやるより布束に任せた方が良いと判断していた。
その結果がこの知識の偏りだが、芳川は特に問題はないと思っていた。
「キューブ、代わりにコーヒーを淹れてもらえるかしら」
紅茶を飲み干した芳川は、流し場のコーヒー・マシンを指さしながらそう言った。
先ほどは紅茶の感想を濁した芳川だったが、代わりにという言葉が口に合わなかった事実を示していた。
6.
コーヒー・マシンを前にして、キューブは固まった。
見たことも聞いたことも記憶にもない機械。全くもって使い方が解らなかった。
誰かに使い方を聞けばいいのだが、先ほど自己の優位性というものを誇ってみせたばかりだ。
それなのにいきなりそれを言った相手に助けを求めるのは情けない行為だと、入力されたばかりの常識が告げていた。
――教わるより、まずは自分でやってみろと先ほどヨシカワも言っていた、とミサカはチャレンジ精神を働かせます。
そう己を鼓舞して機器や豆の入った缶をいじってみるが、特に何も得る情報はなかった。
マニュアルらしきものも置かれていない。
八方塞がりであった。
『お困りですね、とミサカは助け船を出します』
と、缶を開けたところでミサカネットワークから念話が届いた。
『コーヒーの事なら学園都市第一位のコーヒー担当の御坂ファーストをお頼りください、とミサカは個性をアピールします』
明らかにこのタイミングを狙って出された助け船だ。キューブからは何も発信していない。
確かにミサカネットワークは常時接続がされているが、個人個人が何をしているか常にやりとりしているわけではない。
となると、この御坂ファーストはミサカネットワーク越しにキューブ個人を観察していたことになる。
確かに先ほど髪型のことで注目された立場である、が。
『暇なのですね、とミサカはファーストの午後のアンニュイを心配します』
調整番号一号ともなればもう既に研究所の外で生活を開始してしばらく経つ個体だ。
所属先は孤児院。別に
その孤児院には
『現状最も興味深いこと』として学園都市最強の保母の行動原理を思い浮かべたファーストは、調整後の所属先として真っ先にその孤児院をあげたらしい。
『年少の子達のお昼寝の時間です、と御坂ファーストは答えます』
『出席番号三十番御坂美雪も授業が簡単すぎてちょーひまなんだけどー、とミサカは中学ライフを報告します』
調整番号八号の美雪は一月の新学期から中学に通い出した個体だ。目標は
元々
『暇人ばかりですね、とミサカ三四号は調整器の中で呆れました』
忙しいのであろう、言葉にしないまでも三四号に同意する感情を送る個体が数名ほど続く。
生まれて数時間だがこの中で個性を出すのは苦労するかもしれない、とキューブは思いつつファーストに助力を願った。
記憶の共有をすればすぐにでも作れるようになるのだが、キューブはあくまで教えて貰うことにとどめた。
どこまで記憶を共有し、どこまで自分だけの記憶にするか、その線引きはキューブにはまだ掴めない。
なので、キューブはしばらくは芳川の言ったとおり、自分でできることは自分でやってみようとひとまずの結論を付けた。
ファーストの指示に従いコーヒー・マシンを動かす。
どうやらこのマシンは一人用であるようで、一度に人数分のコーヒーを作ることは出来ないようだった。
カップと豆をセットし、スイッチを押す。
ゆっくりとカップにコーヒーが注がれていき、苦みのある香りが鼻を刺激した。
『砂糖と粉クリームもあるようですが、とミサカはファーストへ助言を仰ぎます』
『研究者はカフェイン中毒と相場が決まっているのでブラックで、と御坂ファーストは
なるほど、とキューブはコーヒー・マシンからカップを取り出した。
芳川桔梗は
ファーストとの面識もあるだろうが、その点については彼女から特に何も言っては来なかった。
カップを持って長机へ戻り、芳川の前にカップを置いた。
ありがとう、と礼を言って芳川はカップを手にとってコーヒーへ息を吹きかける。
お湯の温度はコーヒー・マシン頼りなので飲むのにちょうど良い温度か解らなかったが、どうやらできたては熱いらしい。
何回か息で表面温度を下げた後、芳川はコーヒーをすすった。
すると、わずかに顔をゆがめる。
「に、苦いわね……」
『苦かったそうです、とミサカは初めての挑戦を報告します』
『豆の適量はカップの大きさと豆の質で違うので責任は持てません、と御坂ファーストは今更ながらに言います』
もう一度挑戦してみよう、とキューブはコーヒー・マシンへと向かう。
豆とカップをセットすればあとはボタンを押すだけなので、苦いと言うことは豆の量が多かったということだ。
減らしてみよう、と考えたところでキューブは先ほどどれだけ入れたか覚えていないことに気づいた。
初めての挑戦で内容全ては覚え切れていなかったらしい。
仕方なく目分量で豆を入れ、カップをセットしてボタンを押す。
ゆっくりとカップへコーヒーが注がれていき、やがて止まる。
キューブは完成したコーヒーを今度は布束の元へと持って行った。
「
そう言って受け取った布束は芳川と同じように息を吹いて飲み、そして苦いと呟いた。
また豆が多かったらしい。
今の量は覚えているのでもう一度やればちょうど良くなるだろう、と思いレイチェルにコーヒーはいかがですか、と訊ねた。
「コーヒーは苦手なの。私はアップルティーが好きなんだけど……。私以外に欲しい人がいないからって申請が通らないのよ」
「あ、じゃあキューブ私に淹れて」
立候補したのは角田だ。
それを受けて再びコーヒー・マシンに向かうキューブ。
豆の量は気持ち少なめでスイッチを入れ、コーヒーを用意する。
漂ってくる香りは先ほどとの違いが感じられない。キューブは特別超嗅覚を持ったクローン体というわけではない。
用意したコーヒーを角田へと渡し、キューブは感想をじっと待つ。
コーヒーを口にした角田はうんうんと頷いた。
「確かに苦いけど、私はこれぐらいがちょうどいいよ」
要するに苦いということだ。
また失敗したようだ。コーヒー・マシンという機械の力を借りているのに失敗続きで、キューブは上手くいくまで挑戦してみよう、と意志を固める。
とはいえ、コーヒーはそう何倍もがぶがぶと飲むものではないと、入力された知識が告げている。
まだ飲んでいないのはダース伍長だ。飲んでくれるかどうかキューブはダース伍長の元へと行く。
「あの……」
「向こうへ行け……」
言葉の途中でそう返ってくる。
向こうへ行けとはどういうことだろうか、とキューブは考え、コーヒーを作ってこいという意味だと思いつく。
軍隊式に、言われずともさっさと作ってこいということであろう。
そしてまたコーヒー・マシンの元へと戻る。
四杯目のコーヒーだが、カップが不足するということはない。先ほどの紅茶を入れたカップは、全自動食器洗いロボットにより既に食器棚に収められている。
豆の量をさらに減らしたコーヒーを作り、カップを持ち長机へと向かう。
そして、ダース伍長にカップを渡そうと近づいたときのことだった。
「私に近寄るな!」
突然ダース伍長が立ち上がり、キューブを壁へと突き飛ばした。
カップが地面へと落下し耳障りな音を立てて割れる。
飛び散ったコーヒーが数滴背を壁に打ちつけたキューブの服を汚す。
熱い、とキューブが思った瞬間、目の前へとやってきていたダース伍長に三つ編みを掴み上げられた。
――何を。
「何するんです!」
と、キューブの代わりに叫んだのは布束だった。
他の研究員達は驚いた顔でダース伍長を凝視している。
「あいにく私は君達と違って、戦闘クローンに関してはロクな目にあってないんでな」
掴んでいた髪を手放し、背後へと振り返らずにダース伍長は言った。
床へとへたり込むキューブ。視線を上げてダース伍長と視線を合わせると、キューブの背筋に寒気が走った。
怒気を含んだ目がキューブを睨み付けている。
こんな目は今まで見たことがない。学習装置の記憶にもない。ネットワークの共有記憶にもない。
未知の感情がキューブに恐怖を与えた。
「で、でもそれはキューブには関係のない事でしょう……?」
そう言ってキューブとダース伍長の間に入り、キューブを助け起こしたのが芳川だ。
ダース伍長は芳川の言葉にただ、ふん、と呼気を返した。
ダース伍長がゆっくりとキューブから離れる。その姿を芳川はコーヒーを飲んだときよりずっと苦い顔をして見つめた。
それは
二万体のクローンを用意し、
戦うための動き、銃器の扱い方、戦闘向けの能力の使用法、市街戦時の隠蔽マニュアル。それらは今でもミサカネットワークの中にある。
そしてそれは学園都市の軍部に所属するダース伍長も知っているだろう。
そういう風に
この研究所にやってきてから今初めて、芳川は自分の過去の研究に嫌悪感を覚えた。
ダース伍長にも、キューブにも何を言っていいのか彼女は解らない。ポケットからハンカチを取り出し、芳川は無言でキューブの服についたコーヒーをぬぐった。
その横で布束がキューブに怪我や火傷をしていないか訊ねる。
問題ありません、とキューブが答えた後のこと、部屋の壁に備え付けられている会議用ディスプレイの電源がついた。
「あれ、所長?」
そう角田が呟く。
ディスプレイには白衣を着た中年の男が映し出されていた。
『遅くなってすまない……』
彼がこの研究所の臨時所長。
この二つの計画を巡って最も罪が重くなるだろうと言われている被疑者、