000
湖は欠けた月の光で照らされて微かにきらめいていた。
私は霊圧で足場をつくり、夜風に撫でられて静かに波打つ湖面の上を歩いた。遮蔽物のない湖の上にひとりでいると、まるで世界から取り残されてひとりぼっちになってしまったかのようだった。
湖の中央まで来ると、私は腰に下げた刀を抜き、解き放った。
瞬間、世界が炎に包まれた。
001
「やあ、沙耶ちゃん」
京楽隊長に声をかけられたのは隊首会からの帰り道だった。
「鬼厳城君の代理、ご苦労様」
「いえ、仕事ですので……。京楽隊長も隊首会、お疲れ様です」
私はぺこりと頭を下げた。そのまま京楽隊長と並んで歩く。
「十一番隊の様子はどうだい?」
「よくないですね。隊では鬼厳城に対する不満がくすぶっています」
鬼厳城が十代目剣八を襲名し、十一番隊の新しい隊長になってからそろそろふた月になる。剣八の名を得た鬼厳城は毎日したい放題だった。連日、街へ繰り出し遊びほうけている。仕事はしない。隊首会にすら出ようとしない。けれど、剣八である彼のやることに口を出せる者は一人としていなかった。
鬼厳城がそんな風だから、私は副隊長の仕事に加えて隊長がすべき仕事まで一人でやっていた。でも本当のことを言えば、私は鬼厳城から正式な副隊長への着任要請を受けていないため、隊長どころか副隊長の仕事すらする必要のない身である。それでも私が仕事をしているのは、私が仕事をやめてしまえば本格的に十一番隊が回らなくなってしまという理由からだった。さらに付け加えるなら仕事に追われているうちは余計なことを考えなくてもすむから楽だという私個人の事情もあった。
「そうかい、困ったもんだね」
「鬼厳城の態度に問題があるのだから仕方ありません。まあ一番の問題は隊員の多くが鬼厳城を剣八とは認めていないことですけど」
「認めていない?」
「ええ。先代は自分のことを偽物の剣八だと言っていました。先々代の痣城剣八を斬り伏せたわけでもなく、副隊長から繰り上がる形で剣八を襲名したことを気に病んでいたようです」
「それは仕方がないことさ。先々代の痣城君は無間に投獄されたんだから」
「私もそう思います。……私は彼のことを立派な剣八だと思っていましたが、彼にそれを言うと、彼は決まって私がそう思うのは本物の剣八を知らないからだと言いました」
「確かに彼の前の剣八――七代目の刳屋敷君や八代目の痣城君は別格だった。刳屋敷君は卍解が強力すぎて使用を四十六室に制限されるほどだったし、痣城君も一人で護廷十三隊を相手取ろうとするくらいだからね。強いのが剣八だって言うなら彼らはまさに剣八だった」
「先代はどうでしたか?」
「さすがに刳屋敷君や痣城君と比べるとね……。御免よ」
「いえ、聞いたのは私ですから。それに彼自身よくわかっていたようで彼はいつも口癖みたいに言っていました。自分は剣八の代役だ。自分は自分に代わる本物が現れる時をずっと待っているんだと」
剣八は剣八を斬ることでしか生まれない。彼に代わる剣八が現れるということは、彼が死ぬのと同じことだというのに、彼はいつも笑いながら私にそう言った。それが私にとってどれだけ残酷な意味を持つことか知りもしないで。
「じゃあ京楽隊長から見て鬼厳城はどうですか? 刳屋敷剣八や痣城剣八と遜色ない力を持っていますか?」
京楽隊長は答えなかった。それが答えだった。私はそのまま話を続けた。
「刳屋敷剣八や痣城剣八を見てきた隊員たちは先代を心の底から剣八とは思っていなかった。剣八でない彼がそれでも隊長として隊をまとめることができたのは彼に人望があったからです。あんな人でも一応、隊員から好かれていましたから」
「妙に人好きのする性格だったからねえ、彼」
「鬼厳城は確かに剣八を斬りました。けれどそれはそもそも本物の剣八じゃない。かといって鬼厳城には先代のように一応の隊長として認めてもらえるだけの人望はありません。隊員が不満を持つのはつまりそういうことです」
そこで会話は途切れた。私と京楽隊長はしばし無言で歩いた。そのうちに八番隊舎に続く曲がり角が見えてきた。
「京楽隊長は隊舎に戻られるんですか?」
「まあね」
「珍しいですね」
「ボクだってたまには仕事くらいするさ」
「隊舎に帰ったからといって隊長が仕事をするとは限りません。私は隊舎に居ても仕事を怠ける隊長をたくさん知っています」
「これは参ったね」
苦笑いしながら京楽隊長は八番隊舎への角を曲がる。去り際、「あんまり無理しなさんな」と京楽隊長は言い残していった。
002
異変に気がついたのはちょうど十一番隊舎のある轡町に入った時だった。隊舎の方からいくつかの霊圧がぶつかるのを感じた。感じる霊圧のうち最大のものは鬼厳城の粗雑で癇に障るそれだった。嫌な予感がした。
私は瞬歩で隊舎に戻った。隊舎の入り口をくぐり霊圧の発生源である修練場の方へ急ぐ。修練場の入り口には隊士が群がっていた。私に気がついた隊士の一人が「副隊長、鬼厳城が――」と焦った表情で声をかけてきたが、私は無視した。自分で状況を確認した方が早い。入り口の隊士たちを押しのけて修練場の中を見た時、私は目の前に広がっていた光景に呆然とした。
修練場の中央で隊長羽織を着た大男――鬼厳城が血で汚れた斬魄刀を握って立っており、その前に一人の上位席官が膝をついていた。二人の周囲には十数人の隊士が倒れている。
まさに惨状だった。私は何が起こったのかをすぐに理解した。鬼厳城に我慢できなくなった隊士たちが鬼厳城と衝突して斬られたのだ。
鬼厳城はなおも斬魄刀を振り上げて席官を斬ろうとしている。鬼厳城の前に膝をついている席官は刀を弾き飛ばされたのか無手だった。このままではいけない。
私は瞬歩で鬼厳城とその席官の間に割って入った。斬魄刀を抜いて鬼厳城の一撃を受ける。軽く振りおろしたかに見えた鬼厳城の刀は予想外に重く、私は鬼厳城の馬鹿力に顔をしかめた。全身を使って何とか鬼厳城の一撃を横に弾く。
「ああ? 何やってんだ、てめえ」
突然、割って入った私に鬼厳城は不満げに言った。
「何をしているか聞きたいのは私の方です」
鬼厳城に言葉を返しながら私は倒れている隊士たちの魂動を探った。中には重傷の者もいるようだが、魂動が消えている者はいなかった。私は修練場の入り口に居る隊員に負傷者を救護詰所に運ぶよう指示を飛ばしてから、鬼厳城に険しい視線を向けた。
「これは一体何の騒ぎですか?」
「こいつらが俺のことを気に喰わねえだの何だのと言いやがるから隊長として身の程を教えてやったんだ。それよりおめえこそどういうつもりだ。副隊長が隊長の剣を止めるなんてよ」
「止めるに決まっています! あの太刀筋なら最悪――」
「死んでいたかもな」
鬼厳城がこともなげに言った。私は絶句した。
「そんな……それがわかっていたならどうして!?」
「そいつは見せしめだからだよ」
「……見せしめ?」
「ああ、これ以上俺にたてつく塵屑が出たら邪魔くせえからな」
「そんなことのために……」
「ああ? てめえの判断なんざ聞いてねえ。俺は剣八。俺が絶対だ。その俺が必要だと思ったことに対して余計な茶々をいれんじゃねえよ」
「剣八……ですか?」
俺は剣八、鬼厳城のその一言が頭に反響する。剣八――この男が剣八だって? 気がつくと私は鬼厳城を睨んでいた。
「そのくそ生意気な眼は何だ? そりゃ、俺が気に入らねえって眼だぜ」
「……刀を鞘に納めてください」
「ふざけたことぬかすんじゃねえ。そいつへの処罰がまだだ。斬られたくなけりゃ、さっさとそこをどけ」
「どけません」
「あぁ?」
声とともに鬼厳城の霊圧が膨れ上がった。鬼厳城の荒々しい霊圧で一気に周囲の霊圧密度が濃くなり、息苦しいまでの圧迫感が私を襲った。
「ふ、副隊長……」
鬼厳城のあまりに大きな霊圧に後ろに立つ席官が震え声を上げた。私は鬼厳城の挙動に警戒しながら、席官に声をかけた。
「私が彼の相手をしますのであなたは下がってください」
「む、無茶ですっ! それにこうなったのは俺のせい――」
「なら上官の私には部下の責任を取る必要があります。大丈夫ですから早くここを離れてください。他の隊員たちに漏れなく避難するよう伝えてくださいね」
私は彼が安心するよう笑いかけた。席官は私に頭を下げると瞬歩で修練場から出て行った。他の隊員たちによって怪我人はすでに運び出されていたため修練場に残っているのは私と鬼厳城だけになった。席官を逃がした私を見て鬼厳城が口を開いた。
「おいおい、副隊長ごときが隊長の俺に楯突く気かよ」
「副隊長だからです。私には隊員の命を護る義務があります。縛道の七十七 天廷空羅」
縛道の使用とともに空中に二重の正方形の紋様が浮かび上がる。天廷空羅は、霊圧の網を張り巡らせて対象を検索・捕捉し、こちらの声を届ける情報伝達の鬼道だ。
「副隊長松実沙耶より隊舎内にいる全席官に通達。これより十一番隊舎修練場を中心として大規模な戦闘が予想されます。危険ですので、十一番隊舎内にいる全員の隊舎敷地外への避難誘導を行ったのち、各自避難してください」
私が避難勧告を出すのを聞いて鬼厳城は舌打ちした。
「どうやら本気みてえだな。残念だ。俺はこれでもおめえのことは気に入っていたんだぜ? 俺のやることに口は出さなかったし、めんどくせえ仕事も全部片付けてくれてたしなあ」
「なら、刀を引いてください」
「それはできねえな。おめえはたった今、俺に指図した。上官である俺にだ。それは立派な反逆行為だ」
「そうですか……なら仕方ありませんね」
私は霊圧を解放した。完全な臨戦態勢に入った私を見て、鬼厳城も口の端を歪めながら霊圧を高める。膨れ上がった霊圧同士が激しく衝突して、大気を揺らした。
「呑み込め――
斬魄刀を解き放つ。直後、刀から溢れ出た炎で修練場が赤く染まった。
003
鬼厳城という男は本物の剣八ではないのかもしれない。しかし彼が護廷十三隊の隊長級の強さを持っていることは本当だ。なにせ先代の彼が剣八としては不十分だったとしても、護廷十三隊の隊長としては十分な実力を持っていたことは事実で、そして鬼厳城はその彼を実力で斬り伏せたのだから。
だから今のこの状態は当然と言えば当然なのかもしれない。私と鬼厳城の戦闘によって崩れ落ちた十一番隊舎の瓦礫に囲まれた空間。そこで鬼厳城は力なく地面に横たわる私を見下ろしていた。
勝負と言えたのは途中までで、鬼厳城が卍解をした瞬間から勝負は一方的ないたぶりへと姿を変えた。卍解により数倍に跳ね上がった霊圧を纏う鬼厳城を相手にした私には成す術がなかった。
最初に私は斬魄刀を失った。鬼厳城の卍解の一撃を受けた火蓮は攻撃の圧に耐えられず、真っ二つに折れて、私の手からはじき飛んだ。その後、私は鬼道で応戦したが何一つ問題にならなかった。縛道での拘束は呆気なく引きちぎられ、破道は正面から叩き潰された。
いつでも私を殺すことができるはずの鬼厳城は、しかし私をすぐには殺さなかった。鬼厳城は抵抗する私を嬲って楽しんでいるようだった。肩、腕、脚――鬼厳城は少しずつ私の体を壊していった。今の私はもう鬼厳城に抵抗するどころか自分の体を動かすことさえできない。意識を保っているのがやっとだった。
「副隊長ごときがこの俺に手間かけさせんじゃねえよ」
鬼厳城の声が降って来る。鬼厳城はすでに卍解を解いて刀を解放前の状態へと戻していた。
「おめえにとどめを刺すのは簡単だが、俺に忠誠を誓うなら命だけは助けてやる。おめえはこれまでどおり従順に俺に尽くせ」
鬼厳城の言葉に私は思わず笑ってしまった。まったく何をこの男は勘違いしているのだろう。
「何がおかしい?」
「私があなたに尽したことなんて一度もありません。私が尽くすのはたった一人だけ。誰があなたなんかに――」
続きは言葉にならなかった。鬼厳城に腹を蹴飛ばされて私は血を吐いた。
「ふん。そうかよ。そんなに死にたきゃ殺してやる」
鬼厳城は私のぼろぼろになった死覇装の襟元をつかむと、私を引き摺って隊舎の外に向かって移動し始めた。私は鬼厳城がこれからしようとしていることに見当がついた。鬼厳城は隊士たちの目の前で私を殺すつもりなのだろう。鬼厳城の言葉を借りるなら私は見せしめだった。
鬼厳城の歩みが止まったかと思うと。不意に体が地面から浮き上がるのを感じた。複数の息を呑む音が聞こえた。かすみがかった視界の端に人の顔が見える。鬼厳城は動かなくなった四肢をだらりと下げた私の姿を隊員に見せつけるように掲げていた。鬼厳城が叫ぶ。
「見ろ! そして記憶に刻み込め! 俺に――剣八に刃向う奴はこうなるんだ」
私の体にほんの少しの力が戻ったのはその時だった。剣八――鬼厳城のその言葉が切れかけた私の意識を繋ぎ止めた。
私は剣八をわかっていない。他ならぬ彼が私にそう言った。じゃあ、私の目に映るこの男は剣八ですか? こんな男が剣八ですか? あなたの望んだ本物の剣八ですか?
答えは返ってこない。私の問に答えを返してくれる彼はもういない。この男が私から彼を奪ったからだ。どろり。これまで経験したことのないどす黒い感情が私の心に流れ込み、心の奥で燻っていた炎に触れて一気に燃え上がる。お前なんか剣八じゃない。鬼厳城が大声で喚き散らす中、私は呪詛の言葉を囁き始めた。
「十一番隊は俺のもんだ。この塵屑みたいにされたくなけりゃ誰も俺に逆らうな。わかったか、屑どもぉ!」
「手――落とす――風」
「――あぁ? 何か言ったか」
鬼厳城が私の唇が微かに動いているのに気がついた。私はかまわず続けた。
「集いて――光弾……八……経――大輪――の砲塔……」
「何だこりゃ、鬼道……おめえの仕業か?」
鬼厳城が怪訝な表情でつぶやく。私の後ろに光が収束していくつもの巨大な鏃の形を成していた。私は最期の力を振り絞って言葉を紡ぎきる。
「――皎皎として消ゆ 破道の九十一
瞬間、光の矢が鬼厳城に降り注いだ。矢の群れは鬼厳城に直撃し、轟音とともに炸裂、爆発を引き起こした。至近距離にいた私も当然ただでは済まなかった。爆風をもろに受けて、鬼厳城の手から吹き飛ばされた私は、背中から地面に叩きつけられた。鬼道の余波で体の至る所が焼け爛れていたが、痛みはなかった。すでに体の感覚なんてなくなっていた。
破道の九十一 千手皎天汰炮。鬼道は九十番以降、威力も難易度も桁外れになる。それだけに九十番台の鬼道は扱いが難しく、私の力では万全の状態でちゃんと詠唱しても、本来の威力を出すことも制御することもできない。今回も例にもれず暴走気味だったが、しかしそれでも威力的には十分のはずだ。これなら――。遠のく意識の中で私は鬼厳城の死を祈った。
けれど、私の捨て身の攻撃も駄目だったようだ。視界が暗転する直前、私が見たのは爆煙の中、憤怒の形相を浮かべて立つ血だらけの鬼厳城の姿だった。
仇、討てなかったな。ぼんやりとそんなことを考えながら私は意識を失った。
004
目を覚ます。正確な時刻はわからない。私は寝台の上に寝かされていた。どうやら私は死に損ねたらしかった。
寝台の横には少女が立っていた。少女は燃えるような紅の髪をしており、それを豪奢な簪で留めていた。身には艶やかな色の着物を纏っている。彼女は私に背を向けて、窓から夜空に浮かぶ欠けた月を見上げていた。
「火蓮」
私はその女の子の名を呼んだ。彼女が振り返る。月明りに照らされた少女の顔は美しく、見た目相応のあどけなさと不相応の儚さを合わせ持っていた。
「起きたのね」
「ここは四番隊の救護詰所?」
「ええ。あなたは三日も意識を失っていたわ。何があったか覚えてる?」
「途中までは」
卍解した鬼厳城にあっさりやられて嬲られた。その後、暴発覚悟で撃った九十番台鬼道も鬼厳城を倒すには及ばなかった。そこで私は意識を失った。
「その後、激昂した鬼厳城が動かなくなったあなたにとどめを刺そうとしたのだけれど、駆けつけた京楽春水が止めに入ったの」
「京楽隊長が?」
「瀞霊廷内部で許可なく隊長格が暴れ回っていたら誰だって止めるでしょうよ。京楽春水に続いて他の隊長たちも駆けつけて来たし、鬼厳城も複数の隊長格を相手にしてまで暴れるほど無鉄砲じゃなかったってわけ」
火蓮はつっけんどんにそう言った。彼女は怒っているようだった。心当たりはあった。
「あの……ごめんなさい」
私は彼女に謝った。
「あら。
「痛かったよね」
鬼厳城によって火蓮は真っ二つに折られた。修復は可能だが、それには相応の霊圧と時間が必要だ。火蓮は誰かが回収してくれたらしく、寝台の横の壁に立てかけられていたが、鞘の中身はまだ折れたままだろう。
「そうね。すーっごく痛かったわ。わたし泣きそうになったもの」
手ひどく非難されるかもと思ったけれど、火蓮は袖を目元に持っていってわざとらしくしゃくりあげただけだった。私が安堵の息を漏らすと、おどけた仕草を止めて火蓮は柔らかく微笑んだ。
「わたしには主さまの方が重症に見えるけど」
「大したことないよ。ほら」
私は身を起こした。それだけで全身に激痛が走り気絶しそうになったが私は火蓮に心配をかけないよう平気なふりをした。そんな私を見てなぜか火蓮は意地悪そうに目を細めた。嫌な予感がする。そう思っていると、火蓮は突然、私の肩をとんと叩いた。途端に私は痛みで呻いた。滲み出る涙で視界がぼやける。
「ふふっ、やっぱりやせ我慢だったわね」
「な、なんてことするの……火蓮のいじわる……。やっぱり怒ってる?」
「それはもう。主さまがあんな無茶したら怒るわ。わたしはあなたの斬魄刀だもの」
彼女の言葉に私はばつが悪くなってうつむいた。すると火蓮の気遣うような優しい声が降って来た。
「大丈夫?」
「……大丈夫」
「うそね。あなた、きっとひどい顔してるわ」
火蓮は私の顎に手を添えると、くいっと上を向かせた。火蓮の髪と同じ色をした紅い瞳が私を見つめる。
「ほら。やっぱりひどい顔」
「ほっといて」
「そうはいかないわ。あなたの悲しみはわたしの悲しみなのよ。彼がいなくなってからずっと我慢していたみたいだけれどもういいんじゃないかしら?」
火蓮は傷が痛まぬようにそっと私を抱いた。そして幼子をあやすように優しく頭を撫で始めた。すると途端に涙が溢れ、嗚咽が止まらなくなった。大丈夫なんて嘘だ。全然、大丈夫なんかじゃない。彼がいなくなってから私はずっと悲しさでどうにかなりそうだった。
「ひとりで泣くこともできないなんてわたしの主さまは本当に不器用ね」
「ごめんなさい……」
「謝ることじゃないわ。そのためにわたしがいるのだもの」
私がこうして火蓮に泣きつくのは幼い頃からの悪癖だった。
幼い頃、流魂街の治安の悪い地区に放り込まれた私は死に物狂いで生きてきた。私だけじゃない。あそこは生きるために誰もが必死で、裏切りや騙し合いなどは日常茶飯事で、信頼できるのは己だけという世界だった。けれど私にはたった一人だけ信頼できる人がいた。火蓮。夢の中だけで会える優しい女の子。私は眠りに落ちる度、彼女に泣きついていた。
霊術院に入り、彼女が斬魄刀と呼ばれるものの核になる存在だと知って私は驚いた。おかげで始解だけはやたら早く習得できた。始解に必要なのは対話と同調により斬魄刀の名を知ることだけど、私はそれを気付かぬうちに成し得ていた。私が火蓮に泣きつくことが、すでに対話と同調になっていた。
火蓮を斬魄刀と認識してからも私は彼女に頼り切りで、辛い時はいつも慰めてもらっていた。護廷十三隊に入って席官になり火蓮に甘えることからもようやく卒業できたつもりでいたのに、また頼ってしまった。
「私はダメだね」
「なあに? そんなのいまさらじゃない」
「うん、いまさらだ」
私は笑った。
「少しは落ち着いたみたいね」
火蓮が離れようとしたので私は彼女の着物を掴んだ。もう少し抱いていてほしかった。
「まあ。主さまは甘えんぼうだわ」
火蓮がくすくす笑った。私は少し恥ずかしかったけど今さら気にしないことにした。火蓮に包まれながらゆっくりと時間が流れてゆく。
「ねえ、主さま」
不意に火蓮が言った。
「ふと思ったのだけれど、死神にとって斬魄刀は自分の分身みたいなものよね」
「うん」
「となるとこれは自分で自分を慰める行為ということなのかしら。そう考えると、あらやだ。急に主さまがいやらしい子に思えてきたわ」
「……どうしてかな? 今の今までこの上なく愛しく思っていたはずの斬魄刀に対して殺意が湧いてきた」
私は火蓮から体を離して彼女をにらんだ。けれど火蓮は自分の両頬に手を当てて
「きゃあ、面と向かって愛しいだなんて。この子ったらもうっ、照れるじゃない」
「昔からそうやって都合の悪い部分だけ聞き流すんだから」
「そりゃそうよ。わたしは自分にとって大事なものにしか関心を払わない性分だもの。それに今あなたが殺意を向ける相手はわたしじゃないわ」
「……どういう意味?」
「わかってるくせに」
火蓮の言葉に私は口をつぐんだ。火蓮が続ける。
「ねえ、主さまは鬼厳城を憎んでいるわ。殺してやりたいと思っている。好いた男を殺されたのだもの。当然だわ。わたしは主さまのことなら何だってわかるのよ」
知っている。九十番台の鬼道を放つ力を私に与えた黒い感情。あの時感じた、熱く、重く、暗い気持ちは私の鬼厳城に対する憎悪と復讐心に他ならなかった。私は副隊長として鬼厳城を止めるために刀を抜いたはずだったのに、あの瞬間の私は副隊長ではなくただの復讐者だった。今にして思うと、気がつかなかっただけで鬼厳城に対する憎悪の感情はずっと前から私の心の奥底で息をひそめていた。
「わかっているはずよ。主さまは空っぽなんかじゃない。あなたの内には復讐の火が燃えている。それは今に劫火となってあの男を焼き尽くすでしょう。ためらうことはないわ。主さまは心のままに進めばいいの」
火蓮が私の頬に手を添えて、私の眼をまっすぐに見つめた。火蓮の炎のように妖しく輝く紅の瞳が私を捉えて離さなかった。ねえ、主さまと彼女がささやく。
あなたの本当の望みは何かしら?
それを成す為に必要なものは何かしら?
わたしはあなたの何かしら?
火蓮の問いかけの一つ一つが頭の中で反響する。私の望みは何なのだろう。そのために必要なものとは何なのだろう。私がこれから成すべきことは――? やがて答えは出た。
「私は――」
火蓮に向かって私は望みを口にした。火蓮がそう、と口を開く。
「それが主さまの望みなのね。なら主さまはそれを成すだけの力を手にしなければならないわ」
火蓮がそっと呟いた。私の頬に添えられた彼女の手が離れる。彼女の姿が炎のように揺らめき薄れてゆく。消える間際、火蓮は言った。
「卍解に至りなさい、沙耶」
005
火蓮と言葉を交わした翌日、京楽隊長がお見舞いに来てくれた。そこで私は京楽隊長から今回の騒動の処罰を聞かされたが、その内容は隊舎を半壊させた割にはずいぶん軽かった。剣八がらみの事件だから、誰も大きく口を出さなかったようだ。私はとりあえず牢獄行きを避けられてほっとした。
とりとめのない世間話をして、帰り際、京楽隊長から八番隊に戻ってこないかと言われて私は頷いた。十一番隊にはもういられなかったし、京楽隊長の申し出はありがたいものだった。
傷が癒えると、私は八番隊に籍を移した。そしてひたすらに卍解の修業に励んだ。
卍解の習得は難航した。具象化はすでにできていたが、火蓮は意地悪でおいそれと屈服してくれなかった。私が卍解の修練に身を置いているうちに時は流れ、世界は少しずつ変わっていった。
十一番隊は鬼厳城によってすっかり粗野な荒くれ者の集団へと様変わりした。華のある武人の集まりだった十一番隊の姿はもうどこにもない。刳屋敷剣八が去り、短い痣城の代を経た後、九代目の彼が守って来た十一番隊は失われてしまった。
瀞霊廷を震撼させる事件が起こった。流魂街での魂魄消失に端を発したその事件によって尸魂界は隊長六名、副隊長三名、大鬼道長および副鬼道長を失った。犠牲者の一人は八番隊副隊長の矢胴丸リサだった。私はその後任として副隊長になってくれないかと京楽隊長に頼まれたが固辞した。京楽隊長には恩があるので断るのは心苦しかったが、私は彼以外を心の底から自分の隊長として認めることはできそうになかった。京楽隊長はそんな私の心の内を察してくれたのだろう、すいませんと頭を下げた私を見るとそれ以上は誘ったりはしなかった。
それから数年して私はようやく卍解を習得した。実戦で使える水準まで鍛え上げるのにはもうしばらく時間がかかった。鬼厳城を殺せると確信するのにはさらに時間がかかった。
ようやくすべての準備が整った時、私は鬼厳城を斬りに十一番隊舎へと向かった。ところが先客がいた。流魂街からやって来た更木という男が先に鬼厳城と死合うことになっているということだった。
鬼厳城と更木の果し合いが行われる場には私も立ち会った。鬼厳城の前に立つ更木を見た時、私は果し合いの結末を直感した。
鬼厳城は敗れるだろう、と。
私は更木を見て息を呑んだ。その男が立っているだけで、単純な霊圧の大きさだけでは語れない規格外の異常性を感じた。本能がこの男は化け物だと告げていた。自分は偽物だ。昔、彼がそう言っていたことの意味がその時になってようやく理解できた。
果し合いが決着するのにそう長くはかからなかった。鬼厳城は倒れ、十一代目の剣八が誕生した。
006
新しい剣八が生まれたその晩、私は八番隊舎を抜け出した。
最初に寄ったのは彼が眠る墓所だった。私は彼の墓を掃除して花を添えると、線香をあげた。最後に彼がくれた簪を髪から外し墓前に置いた。
墓参りを済ませると私は瀞霊廷を出た。簪がなくなって解けた髪を夜風になびかせながら瞬歩で移動した。そして流魂街の外れに広がる森まで行くと、その深くに入って行った。この森の奥には小さな湖がある。昔、虚の討伐でこの森に入った時に見つけたものだ。
しばらくすると、風が木々を揺らす音に混じって水音が聞こえてきた。空気が水際のひやりとした感触に変わり、やがて木々の間から湖が見えてきた。
湖は欠けた月の光に照らされて微かにきらめいていた。
私は霊圧で足場をつくり、夜風に撫でられて静かに波打つ湖面を歩いた。そうしてゆっくりと湖の中央に向かった。遮蔽物のない湖の上にひとりでいると、まるで世界から取り残されてひとりぼっちになってしまったかのようだった。
湖の中央まで来ると、私は腰に下げた斬魄刀を抜き、解き放った。
「卍解
私を中心として炎が大きな円を描き、夜空に向かって煌々と燃え上がった。それは炎で作られた壁だった。炎壁によってまるく切り取られた世界は、水面の上に蓮のように美しく咲いたいくつもの炎の塊によって彩られている。
劫火ノ蓮池は円形に展開した炎の壁の内側に閉じ込めたものの霊圧を喰うことで存在を保つ卍解だ。けれどこの卍解は維持に膨大な霊圧が必要とするため、炎壁内部の霊圧をすさまじい勢いで喰い尽くしながら、それでも足りずに、少しずつ収縮してゆく。そうして最後には迫る壁の炎に呑まれて蓮池の中にいる者は一人残らず焼滅する。それは卍解の使用者とて例外ではなく、本来なら私は自らの身が焼かれる前に敵を殲滅して卍解を解除しなければならない。けれど今この蓮池の中には私しかいなかった。
「主さまは死ぬのね」
いつの間にか私の傍らに火蓮が立っていた。彼女の声は不機嫌そうだった。火蓮の言う通り私は死ぬつもりだった。
「ごめんね」
「主さまはどうして謝るのかしら」
「火蓮は私を生き永らえさせようとしてくれていたから。あの人が死んで空っぽになった私に復讐という目的を与えて命を延ばそうとしてくれたのに、私は死のうとしている。だからごめんなさい」
「そうね。彼が死んでからずっと主さまの心の奥底に死を望む気持ちがあることをわたしは知っていたわ。だからわたしは主さまに復讐を囁いた。結局、主さまは復讐を選ばなかったのだけど」
「結果的に鬼厳城を斬ろうとしていたのは同じだよ」
火蓮に私の望みを聞かれたあの晩、私は火蓮にこう言った。私は彼が望んだ本物の剣八になりたい。そのために鬼厳城を斬る、と。
私は彼が復讐なんて望む人ではないことを良く知っていた。彼が望むことはいつも一つだけ、自分に代わる新しい剣八がその名にふさわしい者であることだけだった。彼は私になんて見向きもしないでいつもそのことだけを考えていた。
だから私は彼の望みを叶えることを望んだ。必要なら私自身が剣八になってやると、あの時私は決意した。けれど考えてみればおかしな話だ。私は彼の言う本物の剣八とやらが何なのかもよくわかっていなかったというのに、それになろうとして今日まで足掻いていたのだから。
鬼厳城が更木に斬られた時、私はこれで良かったのだと心の底から思った。更木剣八を見た今ならはっきりとわかる。私が鬼厳城を斬ったとしても私は彼の望んだ本物の剣八には決してなれなかった。後に残るのは私というやはり偽物の剣八だけだ。それよりも今の結末の方が彼はずっと喜ぶ。更木剣八はおそらく彼が望んだ本物に違いなかったから。
彼が去り、彼の望みも成就した今、私がこの世界に留まる理由は一つとしてなくなってしまった。
彼はまるで徒夢のように私の傍からいなくなってしまったけれど、それでも私の彼への恋情が消えることはなかった。それは時に儚く揺らめき、時に激しく燃え立つ炎のように私の心を焦がし続けた。たとえどれだけの時が過ぎようとも、どれだけ愚かなことだとわかっていても、私は彼への想いを無いものにはできない。だから――。
気がつくと炎の壁はずいぶん近くまで迫って来ていた。私は傍らに立つ火蓮に問いかける。
「ねえ、火蓮。私、間違ってるかな?」
「さあ? でも主さまにはもうこうすることしかできないのでしょう? 主さまにここまでさせるなんてあの男は憎たらしい女たらしだわ。本当に憎たらしい。わたしはただあなたに生きていてほしかった。これがわたしの望んだ結末でないことを主さまは知っているのでしょう?」
「うん、知ってる。本当に……ごめんね」
私の言葉に火蓮はため息をついた。
「謝らないで。わたしは主さまの斬魄刀。主さまはわたしのすべてよ。だから主さまが死を望むと言うのならわたしの手で逝かせてあげる」
火蓮は私の腰に手を回して、私を抱き寄せた。火蓮が耳元でそっと囁く。
「それなら最期までこうして主さまの傍にいてあげられるから」
「ありがとう、火蓮」
世界は燃える。劫火がすべてを焼き尽くしていく。蓮池の真ん中で火蓮に抱かれながら私は終わりの時を待つ。
「さようなら、主さま。不器用なあなたを愛していたわ」
最期に火蓮の声を聞き、炎が私を包みこんだ。