「お疲れ様―――悠、大和」
王宮から
ニブルに狙われている彼女は王宮で待機するように言い渡されていたのだが、そんな命令に従う理由はない。悠と、単身でドラゴンを圧倒できる力を誇る大河大和の戦いを見られるのであれば、多少の危険などどうでもよかった。
「おい、貴様! これを解け!」
すると彼女の足元から憤りに満ちた声が響く。キーリは水を差されたという表情で、視線を下に向ける。そこには全身を縄で縛られたスレイプニルの狙撃兵―――ジャン・オルテンシアの姿があった。
「うるさいわね、ちょっと黙ってなさい」
キーリが睨むとジャンの口元に
「うー、うーっ!」
声が出せなくなったジャンは
「あのね、言っておくけど……私はあなたを助けてあげたのよ? もし彼女を狙撃していたら、あなた―――彼らに殺されていたかもしれないわ」
キーリは屋上の端に転がったスナイパーライフルをちらりと見て、深々と嘆息した。
彼女は大河大和が警告したにも
しかしフレイズマルを一蹴し、音速で放たれる銃弾を指で掴む出鱈目な力量、波導も使え、一キロ以上の距離を容易に視認できる彼ならば、狙撃態勢に入った時点でジャンの存在に気付き、容赦なく攻撃するだろう。
最も、キーリが「殺されるかもしれない」と言った事から、大和が人間を殺さない人物だというのが既知の事実であったため、悠が介入しない限り殺害まで及ぶ事がないと思ったのだ。
「んーっ!」
「あら、怖い顔。まあ確かに、あなたと彼女を助けたのは、ただのついでだけどね。私はあなたに、聞きたい事があったの」
「んぅー!」
「―――フレイズマルって、いったい何?」
キーリがそう問いかけると、ジャンはぴたりと呻くのを止めた。その表情に恐れの色が浮かび、体が微かに震え始める。
「その様子だと、あなたも見ていたみたいね。彼の
「…………」
ジャンは肯定に等しい沈黙を返した。
「あれを使っていたのはあなたの上官なのよね? そいつは何者? 私の悠に、何をするつもり?」
顔を
「んんー!」
そして何か文句を言うような感じで呻く。
「―――ふふ、悠は私のものじゃないって言いたそうな顔ね。嫉妬かしら?」
「んぐぅーっ」
顔を真っ赤にし、ジャンは縛られた体をじたばたさせた。
「ふふ、可愛い反応。ちょっとだけあなたの事が気に入ったから、一つ忠告してあげる。あなたがフレイズマルの事を何も知らないなら、知るべきではない立場だという事。けれどあなたは……優秀過ぎるその目で見てしまった」
表情を固くするジャンに、キーリは
「こういう場合、大抵は不幸な結末が待っているものよ。悪い事は言わないから、上官の元へ戻るのは止やめておきなさい」
「…………」
ジャンは視線を逸らし、沈黙した。
「あらあら、途方に暮れた顔をしちゃって。察するに、ニブルの他には居場所がないって感じかしら。仕方ないわね―――じゃあ私があなたを
「っ!?」
目を見開き、ジャンは驚いた表情を浮かべる。
「ここ数日
「んー!」
全力で頭を横に震る。
「そんなに嫌? 悠のためだと言っても?」
「———?」
どういう事だとジャンはキーリに視線で
「今回の件で確信したわ。彼はあなたの上官をはじめ、複数の得体が知れない何かに目を付けられている。このままだと彼は―――その
キーリの瞳に狂おしい光が宿った。
「私は、そんなの嫌。あなたもそうでしょ?」
「…………」
「だから、共通の敵を排除するまで協力しようって事。殺し合いは、またその後で」
キーリはにこやかに微笑みながら、ジャンの猿ぐつわを外す。
「そういう事で、自己紹介してくれるかしら? ジャンって呼ばれてたみたいだけど、本当の名前があるんでしょう―――
そう問われたジャンはひどく動揺した表情を浮かべたが、やがて小さな声で答える。
「……ジャンヌ」
「あなたらしい名前ね。高潔で勇敢で―――幸が薄そう」
キーリはくすくすと笑って身を
◇
プルルルル———。
個人端末から鳴り響く電子音で目が覚めると、そこは悠にあてがわれた王宮の部屋だった。手を伸ばして枕元に置かれていた個人端末を探り当て、画面を見る。
時間は午後七時。フレスベルグとの戦いから十二時間以上が経過していた。そして今彼を呼び出している相手の番号は非通知。最も、誰なのかは大体予想が付くが。
ベッドに寝転んだまま、悠は仰向けの姿勢で応答ボタンを押す。すると画面にニブルの少佐である―――ロキ・ヨツンハイムの顔が写し出された。
『―――ようやく繋がったか。その様子だと今目覚めたところかな、物部少尉』
「はい……できればもう少し眠っていたかったですが」
対竜兵装を二基も物質変換し、さらに砲弾が精神エネルギーを用いるものだったため、疲労はまだ完全に抜けていなかった。
『それは悪かったな。だが、まずは君の勝利を祝わせてくれ。おめでとう。あのフレスベルグを打倒した君の功績と、人類への貢献は、言葉では言い表せない程に多大なものだ』
「フレイズマルをフィリルに差し向けておいて、よく言いますね」
顔を顰め、俺は皮肉交じりに言い返す。
『そうかね? あれは妥当な判断だったと思うが。
「…………」
―――相変わらずだ。この男は、何も変わらない。
どう運命が転ぼうと、
『それはそうと、目覚めたばかりというなら教えておこうか。キーリ・スルト・ムスペルヘイムが姿を
「まあ、そうなるとは思ってましたよ」
悠は大して驚きもせず、溜息を
『あともう一つ、我がスレイプニルの隊員―――ジャン・オルテンシア軍曹も姿を消した。状況から考えて……キーリに
「なっ……」
流石に今度ばかりは驚きの声を漏らす。悠としては全く予想もしていなかった情報だった。
(どうしてキーリがジャンを―――)
『本当はこの件について君へ訊ねるのが目的だったのだが———寝起きの君に問うても仕方がないだろう。もしも何かジャン軍曹の情報を得る機会があれば、教えて欲しい』
「……はい」
頷きながらも、彼は内心で考える。ジャンの居所が知れた時、ロキにそれを知らせるのは本当に正解なのだろうかと。
悠はロキが何を考えているのか、全く分からなかった。正体を語ってくれたキーリよりもずっと、彼は得体の知れない存在だった。
『用件はそれだけだ』
「待ってください。最後に一つだけ聞いてもいいですか?」
『……何だね?』
目を細め、ロキは悠を促す。
「ロキ少佐は、この機会に俺を
ロキがキーリを殺すように言った時の言葉。
『いや―――それについては思った程の成果は得られなかったよ。フレイズマルより性能が上である事はほぼ確定であるものの、君はまだ不完全な"
「邪魔な……モノ?」
鋭いロキの眼差しを浴びて、冷や汗が頬を伝う。
『まあ―――邪魔なのは
ロキはまるで悠以外の誰かに語りかけるような口調で言い、通信はプツンと途切れた。
個人端末をベッド上に放り出し、悠は大きく息を吐く。
彼の言葉はいつも俺を不安にさせる。
―――ガチャ。
扉の開く音が、静かな室内に響いた。
「―――良かった。起きてたんだね。モノノベ」
部屋の中に入ってきたのは、制服姿のイリス。彼女は部屋の明かりを
見れば彼女の後を続く形で深月、大和が悠の自室に入ってきた。夕食を終えて戻ってきたのだろう。
「ようやっと起きたか悠。心配したよ」
「兄さん、大丈夫ですか?」
大和と深月は心配そうな表情を浮かべながら近づいてくる。
単身でドラゴンを圧倒する、楽観的で
ミッドガルの生徒会長であり、竜伐隊の隊長。そして―――悠の義妹。
そういう情報と知識は持っている。忘れてはいなかった。共に同じ宿舎で暮らし、朝と夜は一緒に食事をし、強大なドラゴンへ共に立ち向かった記憶もある。だが―――。
「……兄さん?」
深月が表情を曇らせ、ぼうっとしている悠の額に手を当てた。
ひんやりとした小さな手。女の子の細い指。しかしそれ以上の事は何も感じない。
他人に体を触れられるのは、少し緊張する。
「熱は―――ないようですね。お腹は空いていますか? 食欲があるなら、食事を運んでもらえるよう頼んでみます」
「いや、大丈夫だ。まだ何かを食べたい気分じゃない」
悠は自分の喉から出た固い
これまで悠は、こんな声で深月と会話をしていなかった。
あまりにも大きなズレを感じる。今、深月と話すのはあまりよろしくない。
「そうですか。では飲み物だけでも―――」
「ありがとう、深月。でも今はもう少し休みたいから、しばらく一人にさせてくれ」
「は、はい―――分かりました」
深月に促され皆は部屋を出て行くが、イリスは表情を曇らせたまま悠に視線を向けていた。
―――パタン。
扉が閉まるとすぐに悠はベッドを飛び降り、扉に鍵を掛ける。そしてそのまま窓へ向かい、中庭に面したテラスへと出た。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
胸が痛い。心が苦しい。この状況で頼れるのは彼女のみ。
助走を付け、隣のテラスへと飛び移る。その勢いのまま窓を開けてイリスの部屋に飛び込むと、部屋に戻ったばかりの彼女が目を丸くした。
「モノノベ?」
「―――イリス!」
悠は彼女に駆け寄ると、その
「頼む、教えてくれ! 俺に物部深月の事を……頼む!」
「お、落ち着いてモノノベ―――い、痛いよ……」
「あ……わ、悪い」
謝り、腕から力を抜く。イリスは
「何を、忘れたの? もしかして……あたしの事も、ホントは憶えてない?」
悠は奥歯を噛み締め、首を横に振った。
「いや―――イリスの事はちゃんと憶えてる」
「よかった、それじゃあ、何を―――」
「……三年前より昔のこと、全て」
失ったものを、俺は言葉にする。
「―――え?」
「ニブルとミッドガルでの記憶は、はっきり思い出せる。けどそれ以前の記憶が、全て
「そんな……」
「分からないんだ。深月がどんな妹だったのか。兄妹になる前の深月を忘れてしまった挙句―――今度は、妹だった深月まで忘れた」
「モノノベ……」
涙を浮かんだ瞳で悠を見つめるイリスに、彼は訴える。
「深月を見ても、妹だって思えないんだよ。手が触れても、安心しないんだ。俺は……俺は、深月の―――家族ですらなくなった」
「っ……大丈夫、大丈夫だから!」
見兼ねたイリスが悠の体を抱きしめて言う。
「モノノベは、まだミツキちゃんのお兄さんだよ! だってこんなに悲しそうで、辛そうなんだもん! 家族じゃない人のために、こんなに苦しんだりしないもん!」
「イリス……けど、俺は―――」
「大丈夫、あたしは憶えてるから! モノノベにたくさん話してもらったミツキちゃんの思い出―――一つも忘れてない! これから全部、モノノベに伝えるから……ミツキちゃんの事、家族じゃないだなんて言わないで」
彼の背中を撫でながら、イリスは強い口調で告げた。
「…………ありがとう」
ぐっと拳を握り、彼は感謝の言葉を口にする。
イリスは悠が落ち着いたのを見ると体を離し、これまで聞いた事のないような決然とした声で言った。
「安心して。あたしが何とかしてみせるから」
真っ直ぐ俺の目を見つめるイリス。
「あたしね、今……生まれて初めて本気で怒ってる。モノノベをこんなに傷つけた相手を―――モノノベの大切な思い出を奪ったユグドラシルを、憎んでる」
イリスの透き通った瞳の中に、激しい感情の炎が揺れている。
「待ってくれ、イリス。ユグドラシルは———」
悠は反論しようとするが、彼女は強い口調で彼の言葉を遮ってしまう。
「―――分かってるよ。ユグドラシルは、他のドラゴンを倒すために協力してくれているんだよね。フィリルちゃんを守れたのも、あたしが今こうしていられるのも、そのお陰。でも……」
彼女は小さな拳を握りしめ、鋭い敵意を込めて、こう宣言した。
「あたしは、絶対にモノノベの記憶を取り戻す。ユグドラシルを―――倒してでも」
後一話でようやっと四巻が終わります。