みんみん蝉の声が聞こえる夏の日のことでした。
熱気で空気がゆらゆらと揺らいでいるアスファルトの道を、一人の少女が歩いています。その子は大きな紫の傘を持って、からからと下駄を響かせながらご機嫌な様子です。太陽もそんな彼女をしっかりと照らしてくれます。
彼女はご存知の通り、多々良 小傘ちゃんです。幽霊なのにお昼からお散歩でしょう。可笑しいことはありません。
小傘ちゃんはるんるんと歌を口ずさみながら歩きます。片手にはビニール袋を持っているようです。その中身こそは「ハーゲンダッツン」という高いアイスです。彼女はそれをお寺で大切に食べる気なのでしょう。
小傘ちゃんが傘の下でぺろっと舌を出しました。本当に小さくです。顔はほころんで、とても幸せそうです。いつもなら人を恐怖のどん底に落とすのがとても得意な彼女ですが、今日は早く帰りたいようです。
「いーざすーすーめやちゅーぼー」
小傘ちゃんは唄います。ご機嫌な時に歌わないではいられません。
でもこのタイミングで人が通りかかりました。年配のスーツ姿の男性です。小傘ちゃんとは全く関係がありませんが、なぜでしょうか彼女は突然鼻歌に切り替えました。
「んーんーんんんー」
彼女の横を男性が通り過ぎます。小傘ちゃんはそれをちらっとみて、それからもう一度ちらっと見ます。
「めーざーすはばーれいしょー」
小傘ちゃんは男性が通り過ぎていってから歌を再開しました。いったい何を気にしていたのでしょうか。ほんのりと顔が赤いようです。彼女は早足で進みます。
「あーげーれーば、ころっけだーな」
この歌はとあるお店の「主人」がよく唄っている物です。それを何度かお店に行った小傘ちゃんが覚えてしまったのです。でも、実は「主人」の方がうろおぼえでそれを覚えてしまった小傘ちゃんはさらに間違っています。
それでも小傘ちゃんはご機嫌です。
「にーんーじゃはーっとりー。あれ?」
布都、いえふと小傘ちゃんはとあるものを見つけました。正確に言えばそれはものではありません。もちろん人でもありませんでした。
道端でしゃがんでいる金髪の少女が一人。リボンで髪を縛っていますが、太陽で金色の髪がきらきらとひかっています。横顔を見ると肌が白く、とても可愛らしい少女でした。
なのに恰好ときたら、工場作業者のような藍色の作業着です。しかも彼女は人間ではありません。過去に大勢の人間を震え上がらせた大妖怪である「土蜘蛛」です。名前を黒谷 ヤマメちゃんといいました。
小傘ちゃんはヤマメちゃんとは殆ど面識がありません。しかし、そのたたずまいからなんとなく幻想郷の関係者だとは分かりました。それに膝を抱えてしゃがんでいるのです。なにをしているのか小傘ちゃんでなくても気になります。
「ふ、ふふ」
小傘ちゃんはこっそりと近づきます。ヤマメちゃんはアスファルトの一点を眺めながら微動だにしません。彼女の近くには電信柱が一本ありますけれど、日陰はありません。
ヤマメちゃんは油断しているようです。ここは小傘ちゃんの本領発揮でしょう。彼女は土蜘蛛の肩をとんとんと叩きました。それでヤマメちゃんがゆっくりと顔を上げます。
「うらめしやー!!」
元気よく小傘ちゃんは言います。下をぺろっと出して、できるだけしゃがんでいるヤマメちゃんを見下ろします、だってそっちのほうが威圧感があるではないですか。小傘ちゃんは「きまった」とジーンと心が震えるのを感じました。
しかし、駄目です。ヤマメちゃんはぼーと小傘ちゃんを見上げたまま何も言いません。
目が濁っています。光がありませんでした。彼女はゆっくりとした動作で先ほどと同じ姿勢に戻りました。
「あ、あの。な、なにしている?」
小傘ちゃんは困惑しながら聞きます。最高のきょうふを味わったはずの相手は、アスファルトの一点を見下ろしながら答えました。
「アリ」
「あ、あり?……蟻?」
そうです。ヤマメちゃんの視線の先には蟻の行列がありました。黒い点が、パンのかけらでしょうか、それに群がっています。
「ふ、ふふふ。食べてる、食べてる」
それを見ながらヤマメちゃんは笑います。彼女の片手にはミルクねじりパンが握られていました。実は彼女はこの近くのパン工場で働いているのです。そこのまかないを心優しい土蜘蛛はアリさんに分けているのでしょう。眼に光はありません。
土蜘蛛も現代社会ではこのざまです。食べるためには働かないといけないのです。それはどこかの世界で強力な力を持っていても変わることはありません。
それでも土蜘蛛ちゃんは楽かもしれません。その職場はミルクねじりパンを八時間ほどねじり続けるだけの簡単なお仕事なのです。難しいことはありません。ただただ、コンベアーから流れてくる生地をねじることが彼女のお仕事です。
「おひるやすみ、あとにじゅっぷん」
呪文のように土蜘蛛が喋ります。いろいろと末期と言っていいでしょう。
「…………」
小傘ちゃんは口を開けて呆けています。しかし、あっと気が付きました。アイスが溶けてしまいそうです。早くお寺に帰って涼みたいと思って、踵を返しました。
それでも彼女はちらっとヤマメちゃんを見ます。このままヤマメちゃんを残して帰っていいのでしょうか。この炎天下です。小傘ちゃんは心配になってしまいました。
――本日の小傘ちゃんクライシスです。ヤマメちゃんの危機を見過ごすことはできません。でも、アイスが溶けてしまいます。小傘ちゃんはどうするのでしょう?
結局、最初から答えは決まっていました。
小傘ちゃんはヤマメちゃんと一緒にいてあげることにしたのです。彼女の傘はとある巫女に茄子のようなデザインと言われたことがありますが、とても大きくてその影でヤマメちゃんを日差しから守ってあげられるのです。
アイスは溶けてしまいましたが、小傘ちゃんを認識する程度に精神を回復させたヤマメちゃんから、ミルクねじりパンをもらってもぐもぐ食べました。ほのかに甘くておいしいのですが、とても暑いです。
小傘ちゃんは空を見上げます。どこまでも続くような鮮やかな青い空。そこに飛行機が飛んでいきます。なぜでしょう、夏の空は眺めるだけで心が晴れるような気が小傘ちゃんにはします。
ヤマメちゃんも座り込んだままですが、小傘ちゃんの視線の先を見上げます。よくわかりませんが、彼女は泣きそうになりました。心の底にいろいろとたまっているのでしょう。でも、もう少ししたら元同僚の赤いほうの巫女に転職の相談をしようと決心しました。
飛行機が遠くて、高い空を一直線に進んでいきます。
☆☆☆
「はーあ……」
小傘ちゃんは溶けてしまったアイスの袋を抱えています。ここは彼女の家、お寺の前です。楽しみにしていましたが、ヤマメちゃんのことを放っていくことは彼女にはできませんでした。
「ただいまー……」
玄関をからからーっと引いて言います。流石に元気はないようです。
小傘ちゃんは傘を閉じてからとぼとぼと中に入っていきます。玄関の先には廊下がありました、そこに立っている一人の影。背が高いエプロンを着た女性です。その髪の頭頂は黄金色で毛先に向かうまで紫になっています。
それは住職代理の女性です。彼女は偶然廊下にいたのでしょう、帰ってきた小傘ちゃんを振り返ってからにこっと微笑んでくれました。そして言います。
「お帰りなさい。小傘さん。住職様からケーキをいただいたので、手を洗ってきてくださいね」
「えっ?」
小傘ちゃんは眼をパチクリさせます。それからだんだんと笑顔になって、小さくガッツポーズをしてから、ぴょんとその場で小さくジャンプして喜びました。