今回はASなのに珍しく三人称の地の文です。
そこは、夕霧靜霞の自宅。
夜伽ノ美雪という少女が音ノ木愚音隊という組織と決着をつけるために家を出る、その前日の夜のことだ。
いや、正確には同日か――午前〇時を数分回った頃の話だから。
ベッドに腰掛ける魅惑の黒髪少女――ネフティスは常備品でもあった漆黒のワンピースを脱ぎ去っていた。
その代用品と言う割には比較すると質の差が目立つ、ヘソが丸見えのトップスとジーンズ革のショートパンツを身に纏っている。
それは夕霧靜霞の普段着だった。
外出用の私服でも部屋着でも通用する彼女の衣類を着込むことに、いったい何の意味があるのか。
無論、下着も同様であった。
多少に差異が感じられるサイズ感は否めないが、形から入るという執拗以上の徹底ぶりはさすがと言うべきか。
あるいは、それが『救済者』としての基本でもあるのか――。
「他人の下着を穿くっていうものは、何度やってもどうも馴染めないわね……」
ボソリと呟いたネフティスは、窓から差し込む月光の中、同じベッドの上で毛布を被りながら安息の寝息を立てる全裸の少女に視線を移す。
背中を向けて顔だけを動かし、大胆にさらけ出される胸元に毛布が山を張っているのを見て、そういえば彼女はレズビアン気質だったと思い出した。
「自分の衣服や下着を他人が身に纏っている……この状況、もしかしてあなたなら興奮してしまうのかしら」
夕霧靜霞。
何も知らずに眠る彼女は、ドラマ撮影で演技をこなす女優よりも遥かにリアリティを醸し出す死人のように、すやすやと寝息を立てながらなぜか微動だにしない。
仰向けで、枕に乗せた頭をごろんと転がすことも、寝返りをうつこともしなければ呼吸にお腹を膨らますこともしないのだ。
本当に死んでいるのではないか?
だがそれを絶対的に否定する条件が、この夕霧靜霞の自室には存在する。
『救済者が隣で眼差しを向ける時、その者の死は運命すら避けて拒絶される』
ネフティスとは、そういった人物なのだ。
天空の神から授けられた恩寵の恵みだとか、泉の女神から微笑みを受けた寵愛の刻印だとか――そんな神話たる物語はいっさい踏まずとも、ネフティスにはそういった『力』があると信者達の誰もが信じている。
その時、ベッドの枕元でマナーモードに振動する携帯がバイブ音を鳴らした。
夕霧靜霞の耳元で鳴り続けるそれ――彼女が音に反応して起きてしまうのではと危惧する様子すらなく、冷静にネフティスは腕を伸ばし、携帯を手に取った。
それはネフティスのものではなく、夕霧靜霞が普段から使用している携帯電話。
受信メールの表示がある。
誰に教えられたものでもないが、ネフティスは躊躇いなくディスプレイに指を滑らせるとロック画面を解除し、メールボックスのページを開いた。
「なるほど……これが琴菊美紗の正体、ということね」
暗闇で覆われる部屋の中、真っ白に光る画面に表示された一つのメールの文面に、ネフティスは目を這わせた。
『必見! 出願締め切り間近! 今年度最初の××大学AO利用入試のお知らせ! 就職率九三パーセントの講義はここでしか受講できません!―― ――××大学はこのように設備が充実されており、サークル活動も大きな盛り上がりを見せています! ××大学を受験して充実した大学ライフを送ろう!!』
それはつまり宣伝だった。
受験料はコンビニ払いで簡単ですとか、成績優秀者には特別奨学金最大九十万円の支給だとか、一般試験と全国統一試験の併願は大幅割引ですとか――大学受験に関する、ただし合格させられる保証はどこにもありませんの告知だ。
受信履歴を調べると、やはり大学や企業からの宣伝で埋め尽くされていた。
化粧水の販売宣伝だとか、通販商品の入荷告知だとか、会員制のポイントカードによるポイント倍増期間のお知らせだとか――。
閲覧するだけで半年間、受信記録にはそういった類のメールしか残されていない。
もしかしたらこのまま一年前、二年前の記録をあるだけ見続けてみても、似たような企業名やらが羅列しているのではないか。
「本当に凄いのは、夕霧さんがそれに返信している、という点ね……」
受信メール一覧に掲載されるそれぞれの差出人記載欄の隣には、返信済みの証拠である『Re.』の文字がある。
さて、次にネフティスは送信メール一覧のページを開いた。
適当に選んだ一通の送信メール――送り先の名前には返信記号の付いてある、とある書物店舗のアドレスが載っていた。
『そうよ! デート! ついに私もお祭りデートすることになったのよ! あ、相手は教えないわよ? でももしお祭り会場で美紗とばったり会っちゃったら、紹介してあげてもいいわ。すっごいイケメンだから!』
また画面を親指でスクロールし、ネフティスは一通の送信メールを開く。
『了解、日曜日にいつもの喫茶店ね? 何度も言ったと思うけど、絶対に遅刻はしないように。美紗ってば、待ち合わせ場所に私より早く着いた試しがないんだから』
それは近所のレンタルビデオショップから送信された新着DVDの宣伝に返信したメールだ。
次に開いたのは、ある雑貨店がポイントカードを制作しましたという告知メールに、返信されたものだ。
『まーたセフレを増やしたの? 美紗、あなた本当にいい加減にしないといつか背後から刺されるわよ? どうして一人の男を愛するってことができないのかしら……。いえ、まあ私も別に好きな男がいる訳じゃないけど』
ネフティスはプライベートの覗き見を躊躇することなく、ましてや罪悪感なんてものも一切感じないままその作業を続ける。
どれもこれも友人やクラスメイト、ましてや親でもない――コンピュータから配信される意志の持たないメールマガジン相手に返信されたメールばかりを閲覧する。
『はぁ? 街で逆ナンパ? 嫌よ絶対、何のエロ動画に影響されたのよ。確かに私の大人の美貌と美紗の幼い可愛らしさが揃えば男なんて大量に釣れるだろうけど、あなたみたいに軽い気持ちで身体を売るなんて行為、私はしたくないの』
『美紗みたいに私も髪を染めてみようとは思ってるのよ? でも校則とかあるし、何よりうちの学校のお堅い生徒会長様にうるさく言われるからね……』
『そんなことより美紗、音ノ木坂学院から少し歩いた所に新しくオープンしたクレープ屋さんがあるんだって。良かったら一緒に行ってみない?』
『そうね、あのアイドルグループは私も好きよ。というかCDとか持ってるし、今度貸してあげよっか?』
順番に見ていくと、一つ前の返信文章から話題が繋がっているのもあれば、突拍子もなく話題が変換されていたりするメールもある。
まるで『琴菊美紗』という相手から返信の言葉があったように、一方的なメールの会話が夕霧靜霞の携帯から送信されているのだ。
『そうね、私だって同じ気持ちよ。美紗が友達でいてくれて本当に良かったって思ってるわ』
その琴菊美紗とは、いったい誰なのか?
広告メールを相手に、夕霧靜霞はなぜ琴菊美紗という少女の名前を出すのか?
「嫌になるわ、本当に……」
ただ、ネフティスはボソリと呟く。
忌々しく……目の前で車に轢かれた猫の死骸を見ながら、なぜ助けられなかったのかと唇を強く噛んで悔やむように。
携帯を枕元に置いたネフティスは次に、足下のフローリングに投げ捨てられたように敷かれた一枚の新聞紙を拾い上げる。
どこの会社の新聞かなんてものに興味はないが、一箇所だけ、端に記載されたものだが最も奇妙に感じられる表記があった。
日付が、現在から二年前のものだ。
二年前の新聞紙を未だに保管してある一般家庭など、果たしてあるのだろうか。
もしくはネフティスが、『救済者』の特権として何かしらのルートから用意したものなのか。
よれよれにしわが集まる一面だけの新聞紙を両手で広げ、ネフティスはその記事を見る。
『狂気の女子高校生、実の弟を彫刻刀で殺害――「殺意はなかった」』
見出しにそう取り上げられていた。
隣のスペースには一軒家のモノクロ写真と、それについての記事内容が細かい文字で書かれてある。
『都内某所で高校一年の姉が中学三年の弟を刺殺した事件が発生。母親の通報から現場に駆けつけた警官に現行犯逮捕された姉は、署の取り調べに眼球や喉、額など数カ所を彫刻刀で刺したことについて「弟が襲ってきたから身を守ろうとした。殺意はなかった」と供述していることが今月××日に判明した』
とある一家で起こった殺人事件についての記事だった。
被害者も加害者も学生であるため名前は公表していないが、子供同士が巻き起こした事件にしてはなかなか濃厚な残酷さが伝わってくる内容だ。
しかし、なぜネフティスはこの記事を読んでいるのか?
夕霧靜霞の家で。
夕霧靜霞の自室で。
夕霧靜霞の服を着ながら。
夕霧靜霞が寝ているベッドに腰掛けて。
彼女は新聞紙を裏返した。
同じく二年前のものだが、なぜだか裏面は月日が表と異なっている――どうやら一般に発行される新聞紙とは何かが違うようだ。
『弟殺害容疑の女子高生、正当防衛で釈放――父親の証言が有力か』
見出しはそうだった。
添付写真はないものの、細かい文章の羅列にネフティスは瞬きを多くして目を這わせる。
『実の弟を彫刻刀で刺殺した女子高生だが、父親の証言の元に正当防衛が認可され、釈放が認められた。事件当時、姉は自分の身体を目的に深夜自室へと訪れた弟に襲われ、身を守ろうと学生鞄の中にあった彫刻刀を取り出し、無我夢中で振り回したのだと供述した。父親は事件当時以前に、弟が抱いている姉への異常な感情には嫌な予感がしていたと述べている。事件当時には自室から、「やめて」「お願いだから」という姉の叫ぶ声も聞こえていたと供述していることが判明した』
読み終えた途端、ネフティスは丁寧に新聞紙を半分に、また半分にと畳むように折り曲げると、原型の三分の一程度にまで小さくなったそれを部屋のゴミ箱へと適確な狙いで投げ入れる。
「だいたい話は読めてきたわね。問題が沸き起こった源泉は見つけられたけれど、ここからどうやって夕霧さんを救済するのか……」
今までも、ネフティスは幾人ともなく迷える子羊たちを元の牧場に誘い、救済活動を続けてきた。
彼らに比べると、確かに夕霧靜霞は『重い方』であることも事実だ。
だが、見捨てることは絶対にしない。
一度目にかけてやったのに匙を投げるなんて行為は、救済者として死刑にも匹敵する禁忌である。
「さてと、その場合には『目を覚まして』あげないと……まずはどの方法から実行していくべきかしら」
退屈そうに。
面倒臭そうに。
その表情は、依頼人が眠っている今だから見せるものなのか。
飽きるほど何十回とやり込んだゲームのストーリーを、また初めからプレイすることを余儀なくされた子供が憂鬱に溜息を吐くような表情。
ネフティスはやがて、立ち上がる。
「私も、ちゃんと朝は起きられるようにならなくてはいけないわね」
さて、夕霧靜霞の物語もだいたい読めてきたのではないでしょうか。
推理するだけは簡単です。
その後の物語は、どういった形で夜伽ノ美雪やμ'sへと関わってくるのか。
例えば、夕霧靜霞と矢澤にこ――。
この二人なんて、ちょっと重そうですよね。
いずれにせよ、一筋縄ではいかないでしょう。
それでは次話からもよろしくお願いします!
とうとう、美雪達が愚音隊の潜む敵地へと乗り込みます!