笑顔を咲かせた少女は紛れもなく…   作:西部荒野に彷徨う海賊

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 中間が終わりましたーーー!

 次に控えるのは文化祭です。えぇ、別にやりたくありませんとも。
 当日は開会式だけ参加してすぐさま帰ってやりますとも。

 さて、長らくお待たせしました!(待ってくれてた人、いますよね(^_^;))

 今回も過去編――と、少し付けたし内容があります。

 二話も続けばさすがに分かってくる人がいるかもですが、今回のお話にもあの人物が出てきます!
 
 それでは今回もよろしくお願いします!




 ……あ、今回長いです、すみませんm(_ _)m





45話 別荘での夜-才色兼備な彼女

 

「あの子にはできるのに、自分はできないんだなんて卑屈な考えに捕らわれては駄目よ、エリーチカ」

 

 皺の増えた柔らかい手で。

 暖かな温もりがあるその右手で。

 

 叔母はいつもと変わらぬ態度で、背丈の低い少女の頭を優しく撫でる。

 

「ごめんなさ……ヒック、ごめんなさいお祖母様……私、グスッ、私ぃ……」

 

 玲瓏の鏡が映されるような両目からとめどなく溢れ出る涙は勢いを衰えさせる事なく、その大粒の雫を金髪の少女は両手でグシグシと拭っている。

 

「泣いちゃ駄目よエリーチカ、可愛いお顔が台無しじゃない」

 

 叔母の言葉に歯向かうように、少女の瞳からはさらにと勢いを増すように涙が零れる。

 

 金髪の少女は未だ二桁にも満たない年齢で顔にメイクを施し、肩下から身体を覆う水色のドレスは煌めくホワイトの真珠が連なっている鮮やかな魅力満載のものであった。

 

 用意された舞台だって申し分ない。

 普段ならプロの大人達が演技を見せる場であるこの会場に足を踏み入れ、さらに自分の踊りを披露できたのだ。

 

 険しい道のりであった予選をやっとの思いで勝ち抜いて手にした片道切符。

 それだけでも少女は胸を張ってよかったはずだ。

 

 だが、本戦では立ち上がる事すらできない。

 それすら許されなかった。

 

「ほら、良き好敵手達の表彰よ。ちゃんと見ていてあげなきゃね」

 

 叔母の促しの声に金髪の少女――絢瀬絵里は振り向いた。

 

 本番舞台のそれとは違い、ただ光彩一色の単純スポットライトが当たるステージ上には五人の少女。

 全員が年齢なんて二桁に達しているかいないかの微妙なラインで、絢瀬絵里と同い年という者がほとんどであった。

 

 全員が、それぞれの部門で何かしらの賞を獲得できた少女達。

 その場で感じられるあのつまらないスポットライトの光はどれだけ暖かいものか。

 

 絢瀬絵里はグッと下唇を噛みしめ、さっきまで漏らしていた嗚咽を必死に堪えようとする姿勢を見せる。

 

 ライバルだったとはいえ、現在ステージに上がっている少女達は皆、元は絢瀬絵里と同じスクールに通っていた者達ばかりだ。

 

 ちゃんと、祝福してやろう。

 どうやら笑顔でおめでとうを贈る事はできそうにない。

 だが、ここで彼女達に涙を見せる事は、さすがに無礼なものだろうと、見た目幼い絢瀬絵里も理解していた。

 

 だが。

 

 自分は、彼女達に負けたのだ。

 

 本戦の何倍ともいる人数であった過酷な予選を勝ち抜いたとはいえ――。

 

 本戦では、絢瀬絵里は出場選手枠の最下位に降ろされ、上位に跪く結果となった。

 

「うっ……ぐっ、ぅ……」

 

 自分には、実力があると思っていた。

 生まれながらの才能が開花しつつあると思っていた。

 

 そんな過信は、どこから生まれた。

 

 練習を怠っていたつもりはない。

 いつでも真摯に努力し、日々精進の毎日を貫いてきたつもりだ。

 

 過信は時として自分の身体を鎖で縛り上げる事となるが、決して罪だとは言えない。

 

 ただ単純に。

 絢瀬絵里より、ステージ上の少女達の方が、バレエの実力が上であったという事だけ。

 

 同じように努力してきた。

 同じように前進してきた。

 同じように目標を掲げてきた。

 

 なら、彼女らの間に生まれたこの差はなんだ。

 

 それこそ、今の絢瀬絵里にはいくら思考をフル回転させても到底理解できない問いであった。

 

 理解できないからこそ生まれるこの感情。

 

 悔しい。

 あんなに練習したのに。

 なぜ自分は負けた。

 いったい自分と彼女達の間にどんな違いがあり、それはどれほどの深さのある差異なのだろうか。

 やはり悔しい。

 納得ができない。

 

 そして――

 

「あなたはよく頑張ったわエリーチカ。あなたが一所懸命に努力する姿を近くで見てきたからこそ、彼女達も負けまいと必死に研鑽を積み重ねてきたんでしょう」

 

 そして、何より――

 何より一番――

 

 

 叔母の期待に応えられなかった事が最も悲しい――っ!!

 

 

 そう思うと、結果を残せなかった自分が情けなくて。

 期待外れだったと突き放される未来が怖くなって。

 どうして自分はさらに腕を磨いてこなかったのだと後悔が押し寄せて。

 

 そんな感情が連鎖反応を次々と引き起こす。

 そうなるともう、再び流れ出す涙が頬を伝う事は止められない。

 

「ッ――!」

「あ、絵里ちゃん!」

 

 本名で自分の名が呼ばれる。

 

 絢瀬絵里自身が気づいた頃には、彼女は踵を返すようにして走り出していた。

 

 劇場の長い長いフロア階段を肩で息をしながら昇り、両開きの出入り口扉を開けて外へと飛び出していった。

 

 更衣室でドレスを乱暴に脱ぎ捨て、ロッカーから取り出した自分の衣類に袖を通す。

 

 それはかつて、叔母が自分の誕生日にプレゼントしてくれた可愛らしい、水色をベースカラーとした上下の衣服だった。

 

 今回の水色のドレスだって、叔母が自分に似合うように用意してくれた一品。

 粗末なものを扱うように脱ぎ捨ててしまった事をまた後悔しながら、彼女は首元にぶ厚いマフラーを巻いて建物の外に出る。

 

 

 極寒の北国、ロシア。

 都市で言えばサンクト・ペテルブルグ。

 

 

 派手な色彩模様と独創的な構造を描く建築物が多いこの都市の、世界遺産が並ぶ歴史地区から数ブロック距離を置いた街路。

 

 道路は例年通りの白雪で覆われ、行き交う人々はニット帽のようなものを深くまで被って頭部のてっぺんから寒さに防御壁を張っているみたいだ。

 

 この時代のロシアでは、寒波が唸る猛吹雪でも訪れない限り傘などはささない。

 今のような囁かれるような弱い降雪なんかでは、傘をさしている人物はまず見かけなかった。

 

 無論、絢瀬絵里もそうだ。

 

 防寒具などマフラーとコートだけ。

 金髪の頭はそれでも冷たい雪に覆われ、全身から体温が奪われていく。

 

 絢瀬絵里は根っからのロシア人ではない。

 ただ体内にその血が少々混じっているというだけ。

 耐性がまだ浅かった。

 

 歳が二桁にもいかない幼い少女には、その環境は酷く辛いものと感じられた。

 

「うぅ……寒い……」

 

 ブルッ、と身体を足のつま先から頭まで震わす。

 全身の神経が少しでも体温を確保しようと鳥肌を立たせている。

 

 場所は雑踏の少ない大きな橋の上。

 下は舞い降りてくる雪で一面を隠された川。

 

 絢瀬絵里は橋の手すりに両手を組んで乗せ、前のめりになるようにする体勢で体重を任せた。

 

「……グスッ」

 

 まだ、涙は止まってはくれない。

 

 大会の事を考えると。

 叔母の事を考えると。

 やはり悔しくて、自分の無力さが否応にも感じられてしまう。

 

 また自分を今朝、笑顔で見送ってくれた両親や妹にも合わせる顔がない、と。

 絢瀬絵里はまた自らが追い詰められる理由を一つ、見つけてしまった。

 

「うっ……ヒグッ、グスッ……ヒック、……エグ……」

 

 自分の背後では数人の市民達が行ったり来たりをしている。

 橋の上なんて往来のど真ん中だ。

 だが、彼らに背を向けていれば問題はない。

 

 誰にも自分の涙は見せたくない、と。

 絢瀬絵里はそう思った。

 

 単なる羞恥の思いからか。

 それとも遅刻してやって来た小さなプライドがそうさせたのかは不明だが。

 

 とにかく彼女はロシアの郊外で、一人橋の上、小さな背中を誰にも悟られない程の我慢を守った上で小刻みにさせ、嗚咽を圧し殺した。

 

 声を出さない代わりに涙が余計に溢れ出るなんて事があるのだろうか。

 絢瀬絵里の表情はすでに、まるで滂沱の雨に打たれたのかという程までにグシャグシャになっていた。

 

 でも、今は良いんだ。

 

 この場にはライバル達も、両親も妹も。

 自分の世話をいつだって見てくれた叔母でさえ、隣にはいないのだ。

 

 誰にもバレやしない。

 練習中では決して許されなかった涙を枯らす程まで流したって、誰にも責められない。

 

 ならばもういっそ、荒波のように押し寄せてくる感情に従順となってしまおうか。

 

 絢瀬絵里がそう考えていると、

 

 ふと、隣から。

 

 

「雪で濡れてしまった……という訳じゃなさそうね。それならあなたはなぜ、それほどの涙を流しているのかしら?」

 

 

 そんな彼女の姿を見破った人物の影。

 異端とも感じさせる、だがそれは聞き慣れている極東の島国で使用される言語。

 流暢な発音はきっと当地の者だろうか。

 

 絢瀬絵里は身を引くように橋の手すりから離れ、声のした方へ身体ごと向ける。

 

 傘をさしていた。

 何の絵柄もない真っ黒な傘だ。

 

 漆黒に染められた長い髪と大きな瞳。

 東洋の人間だとすぐに分かる。観光客だろうか。

 

 黒髪の少女。

 

「あら、実際に見ると随分と綺麗なお嬢さんね。あぁ、言葉分かるかしら……ロシア語なんてさすがに喋れないのだけれど」

 

 そう言う彼女の格好は面白いものだった。

 上は一見にしてボタンやファスナーが見当たらないほど膨らんだ分厚い真っ白なコート。

 サイズが合っていないそのコートの終端、膝下からは真っ白なブーツが見える。

 

 大きなサイズを無理して着込んだのかというレベルのものは、きっと猛吹雪のロシア高原にでも行けば背景色となって姿が見えなくなってしまうだろうと思わせる。

 

 だがそんな予想を根本から覆らせる黒髪の存在感。

 

 傘を持つ両手には毛糸の手袋。

 

 唯一地肌を晒している顔の肌は恐ろしく白い。

 それが単なる美として映るのか、または健康上に問題があると映るのかは個人の意見だろう。

 

 それらを含め。

 絢瀬絵里は全てを無視した。

 

 思考回路を根底から反転させる。

 オクシデントからオリエントへ。

 絢瀬絵里は涙を拭い、黒髪の少女に問う。

 

「あなたは……?」

「あら、良かったわ、日本の言葉でも通じるじゃない。いえ、まぁ当然よね」

 

 嬉しいわ、と。

 同い年と思わせる相手は親近感を沸かすように笑みを浮かべて一歩近づいて来る。

 

「日本に住んでいた事があるのかしら?」

「え? あ、うん。私、日本とロシアのクォーターなの」

「へぇ、なるほど。あ、わたしは両親も叔父叔母も日本人、ここに来たのは単なる観光なのよ」

「……そんな感じがする」

「ふふ、でしょうね」

 

 自慢するように少女は片手で自分の黒髪を持ち上げる。

 例えそれで白雪が被さったとしても、艶の光る黒と輝く白は不思議と調和している風に見えた。

 

「それで――」

 

 黒髪の少女は尋ねる。

 名前は言おうとしなかった。

 

「あなたはこんな所で何をやっていたのかしら? 涙を流す理由はどこにあったの?」

 

 しかし少女は一方的だった。

 

「――絢瀬絵里さん?」

 

 絢瀬絵里は驚いた。

 なぜ日本からの観光客が自分の名前を知っている。

 もしかすると、向こうに住んでいた頃に出会った事があるのだろうか。

 

「いえ、驚かないで。私はただもらったパンフレットであなたの名前を見ただけよ。ロシア語は読めないから翻訳は他人に任せたのだけれど――あなたって今日、バレエの大会があるのではなくて?」

 

 そういえば、目の前の黒髪の少女は先程から絢瀬絵里の事を知っていたと臭わせる言葉を言っていた。

 

 道理で、と。

 だから絢瀬絵里は素っ気なく返した。

 

「なら、何で私が泣いているのか、予想くらいつくでしょ」

「えぇつくわ。残念な事に、結果が良くなかったのね」

 

 見透かしているように黒髪の少女は言うが、別に誰だってその答えには行き着けるだろう。

 

 だから、少女の本領はここではない。

 

「負けてよかったじゃない」

「……え?」

 

 絢瀬絵里は首を傾げるなんて事はしなかったが、しかし表情は怪訝として、それでも大きく目を見張った。

 

 構わず、黒髪の少女は続ける。

 

「察するに、勝負事に負けたから悔し涙を流して、会場から逃げ出してきたって所でしょう? すると、あなたって今まで試合では負けた事なんてなかったんじゃないかしら? それに思わず会場から逃げ出してしまう程の、敗北に対する恥ずかしさや情けなさが募る程、舞台での披露には自信があったのでしょう」

 

 黒髪の少女はつっかえる事なく、あくまで察した予想にしかないものをすらすらと並べていく。

 

 全て、的を得ていたが。

 

「でも、それだけじゃないわね」

「うっ……」

 

 教師に叱られる生徒のようだ。

 鋭く指摘を告げた黒髪の少女の言葉に、絢瀬絵里は肩を跳ねさせる。

 

「いかなる選手にも逃げ出したいっていう気持ちはある。でもね、それは試合や本番の舞台が始まる前の緊張感がほとんどって聞いたわ。聞いたっていうのは、私の身近にとあるスポーツに打ち込んでいる人がいるのだけれどね」

 

 根拠のない言葉を自信を持って放てる。

 黒髪の少女はまさにそうなのか。

 

「本番が終わった後に残るのは安堵感や達成感――結果がどうであろうと、嬉しさや悔しさ、悲しみなんてものはごく僅かなのだそうよ」

 

 絢瀬絵里は素直に納得しただろう。

 

 フィニッシュの後の拍手喝采。

 ステージを降りた後の出迎え。

 表彰式。

 

 いずれにしても、心にあったのは『やり遂げた』という達成感。『最後まで終わらす事ができた』という安堵感。

 

 スポーツ選手でもそうだ。

 絵描きや小説家、ピアノ伴奏者でもそうだ。

 

 二つの塊は必須として残る。

 他の感情は二の次である。

 

 本能がそうさせるのだ。

 脳から分泌される様々な成分が循環し、司令室から神経からがそう思わせる。

 

 なら、と――。

 

「すぐ近くにあったのではないかしら?」 

「やめて……」

「舞台を降りて安堵や達成で心が満たされて尚、あなたに悲しみや悔しさを感じさせる事を余儀なくとした存在が」

「やめてよ」

 

「きっとそれは、あなたのよく知っている何か――」

「やめてってば!!」

 

 確かにそうだ。

 

 自分はやりきったんだ。

 最後まで誤魔化す事なく終わらせた。

 

 その上で、負けた。

 最下位であったとしても、それが偽りのない自分だった。

 

 さっきも言ったが。

 

 練習を怠っていたつもりはない。

 いつでも真摯に努力し、日々精進の毎日を貫いてきたつもりだ。

 

 それが自分だった。

 過信したっていいじゃないか。

 自分に自信を持ったっていいじゃないか。

 

 そう胸に持っていた。

 だからステージに上がれたし、最後まで踊りを披露する事ができた。

 ステージを降りる事ができた。

 

「何が最も辛かったのか、それはあなた自身がすでに分かっている事でしょう」

 

 追い打ちをかけるように黒髪の少女は言う。

 絢瀬絵里の瞳からはまた涙が流れていた。

 

 さっきよりも、随分と大粒なものが。

 

「あなた……」

 

 二桁にも満たない歳でありながら。

 絢瀬絵里の睨み付けるような表情やセリフには、立派となった『我』が見えた。

 

「あなた、何なのよ……突然、私の目の前に現れたかと思ったら、何もかも見透かしたように言葉を羅列して……」

 

 どうせ言語は通じないのだからと。

 周囲の人々をまったくもって気にしない大声で、絢瀬絵里は噛みつく。

 

「何が面白くて、私の大事なものを踏みつけるようなマネをするのよ!!」

 

 それでもあくまで。

 黒髪の少女は冷静としている。

 

「あなたの言う大事なものというそれこそ、今のあなたを作っているのでしょう?」

 

 例えるなら、自白剤を打たれる事を必死に藻掻こうと暴れる囚人。

 それが今の絢瀬絵里だ。

 

 訓練も何も受けていない彼女は折れる。

 心の内に収めておこうとしたそれを、楽になろうと言葉として外に吐き出す。

 

 

「私だって……私だって、お祖母様の期待を裏切りたくなんてなかったわよ!!」

 

 

 それが本音だった。

 全てはそれが始まりだった。

 

 表彰の舞台に立つライバル達を祝福できなかったのも。

 やり遂げた結果に悔しさと悲しみを感じたのも。

 今、こうして泣き叫んでいるのも。

 

 初期化される事などないセーブデータは、まるまる一箇所に収められていた。

 

「……そう」

 

 黒髪の少女は短く答える。

 

 一歩、また一歩。

 絢瀬絵里に近づく少女は、傘を持ち上げる。

 

「え?」

 

 絢瀬絵里は見上げた。

 

 自分の頭上には、半分だけだが降り積もる雪から守られるには十分の黒い壁。

 

「相合い傘なんて初めてしたわ。てっきり最初は男の子とやるものだとばかり思っていたのだけれど」

 

 背丈が重なっているから無理に腕を上げる必要もない。

 相手に傘を手渡さなければならない事もない。

 

 その行為は慰めの一環か。

 同情の現れか。

 

 結局、黒髪の少女は何をしたいのか。

 

「あなたはどうしてバレエを始めたの?」

 

「……お祖母様に勧められて」

 

「あなたはなぜバレエの練習を続けてこれたの?」

 

「……お祖母様に褒められたくて」

 

「あなたはなぜ今日の大会に出たの?」

 

「……お祖母様に――」

 

 ……結局、そこまでだった。

 

 絢瀬絵里は正面に立つ黒髪の少女の身体――これでもかと言うほど分厚い真っ白コートに顔を埋めるようにして……少女の狭い両肩を掴んで身体を震わせた。

 

「容赦のない言い方だけれど、今のあなたにバレエを続ける資格なんてないわ」

 

 コクリ、と。

 素直に金髪の頭は縦に振られる。

 

「どうすればいいか、分かっているかしら?」

 

 また、絢瀬絵里は頷く。

 

 黒髪の少女はクスリと笑うと、絢瀬絵里の顔を上げさせ、零れる涙を手袋をした右手でそっと拭き取ってやった。

 

「会場まで送るわ、一緒に行きましょう」

「……うん」

 

 二人の少女は歩き出す。

 

 黒髪の少女は前へと。

 絢瀬絵里は来た道を戻るように。

 

 また、これは。

 

 黒髪の少女からしたらただの寄り道だ。

 絢瀬絵里にとって、これは巻き戻しテープの再現だろう。

 

 決して後退している訳ではない。

 

 ただ、前回に記録したセーブデータまで戻ろうとする足跡。

 

 それが橋の上に、点々と続いていった。

 

 

 絢瀬絵里は真っ直ぐ行く先を見つめる。

 

 まずは、お祖母様に言おう。

 

 今までありがとう、と――。

 

 そして、ちゃんと向き合おう。

 

 これからもよろしく、と――。

 

 

 知る由もない未来。

 

 翌年のロシアのレイバード新聞。

 端っこの三面記事だが、そこにはとある一枚の写真と短い大文字文章が載せられる事となる。

 

 

 黄金の舞――翼を授かった絢瀬絵里。

 サンクト・ペテルブルグにおけるバレエ大会。

 笑顔の優勝で飾る――。

 

 

 

ーーーーーーーーーーーー

 

 

 

「小学校の何年生までだったかしら……その頃まではずっとロシアに住んでいて、学校も向こうで通っていたのよ」

 

 合宿初日の夜。

 

 いい加減に寝た方がいいんじゃないかという時間だ。

 かと言って日付を跨いでいる訳ではない。

 

 皆が布団から身体を起こし、その手にはジュースやら炭酸水やらが汲まれたグラスを持っている。

 どうやらまだ寝る気はないようだ。

 

 唯一といえば夜伽ノ美雪は布団の上から大きなソファへと移動していた。

 

 次なる語り手となった絢瀬絵里は、もう他の者達を寝かしつける事は諦めている様子で話している。

 

「向こうではよくお祖母様に可愛がられたものだわ。欲しいものは全部買ってもらえたっていう、少し甘えすぎていた所も私にはあったけど」

「いいなぁ……」

「羨ましいにゃぁ」

 

 ボソッ、と高坂穂乃果と星空凛が声を漏らす。

 

 寒風ともに吹雪く北国では、絢瀬絵里はよほど裕福な暮らしをしていたらしい。

 

「お祖母ちゃんのお家って、お金持ちだったの?」

 

 南ことりが問うと、絢瀬絵里はん~と少し考えるようにして首を傾げる。

 

「確かに家の敷地とかは広くて大きかったけど……どんな企業関係に就いているとかはあまり話さなかったと思うし、そこら辺はよく分からないのよね」

 

 そもそも、日本と外国から見る富豪に対する価値観は根っこから違う。

 自身が富のある生活を送っていたって、国によって意識は様々だろう。

 

「中学に上がってから、私は日本の学校に通う事になったのよ」

 

 自分の成長の軌跡をなぞりながら話の道筋を立てる。

 ここからは、西洋の国から東洋の国へ渡った後の話だった。

 

「妹も一緒に付いてくる形になっちゃったのよね。お姉ちゃんと一緒に暮らしたい~って、妹の亜里沙が駄々をこねて。あの時はさすがに、寛大なお祖母様も困惑している様子だったわ。それでも、可愛い孫の事だから許しちゃったんだけどね」

「へえ~、亜里砂ちゃんがそんな事を……あ、でもそんな感じかもねぇ」

 

 このメンバーの中で、絢瀬絵里の妹の事に関しては最も詳しい高坂穂乃果が言う。

 

「穂乃果の所の雪穂ちゃんとは仲良くしてるみたいだから、私も安心できるわ。長いことロシアにいた亜里沙が日本での暮らしに慣れてくれるかどうか、不安だったから」

 

 姉はもちろん、妹の事を常に気に掛けている。

 

 今回の合宿。

 日本で二人暮らしをしている絢瀬姉妹のうちの妹は、姉が合宿中の期間は高坂家にお世話してもらっているらしい。

 

「まだ亜里沙が小学生だった頃は、私と二人でよく遊びに出掛けていたわ。日本の事についての勉強も兼ねてね。遊園地とか水族館、歴史博物館とかにも行ったわ」

 

 絢瀬姉妹は仲が良い。

 ロシアでも日本でも。

 いつでもどこでも一緒にいるといったような感じだった。

 

 似ていない点と言えばその能力か。

 

 絢瀬絵里は定期考査ではほぼ満点に近い点数を叩き出し、全クラスを総合してもトップの座に君臨しているといった優秀者だ。

 

 反して。

 

 絢瀬亜里沙は毎回のようにテスト前の付け焼き刃体勢。恒例のようにテスト前日に範囲内容を姉のご指導の下で頭に焼き付け、ギリギリの所で赤点は回避する、といった風な感じだった。

 

 才能の面では姉の方が全てを持っていってしまったのだと思う。

 

 そんな姉である絢瀬絵里だからか――

 

「高校で生徒会長になったのも、周囲から強く推薦されたからよ。生徒はもちろん、先生方からも是非にと推されたわ」

 

 それはそうだろう。

 絢瀬絵里ほどの抜群な強みを持っている者を、学校のトップに立たせる事で何ができるか。

 

 それはきっと不可能を可能にする。

 

 実を言うと絢瀬絵里が当時高校二年、生徒会選挙を行う少し前から、音ノ木坂学院の廃校問題は話題に挙がっていた。

 

 教師も誰も。

 皆が絢瀬絵里に頼ろうとした結果、ここで何ができたか。

 

 ……またこの事も絢瀬絵里は知らないのだが。

 他に一人、生徒会長候補として名前を挙げられていた女子生徒がいたのだが――確か名前を夕霧靜霞といったような気がする――彼女は自分からその候補枠から名前を外したらしい。

 

「周囲の期待を裏切るまいと、私は生徒会長という立場から何とか我が校の廃校を阻止しようと努力してきたつもりだったわ」

 

 ただ、壁があった。

 

 元々、絢瀬絵里はμ'sのメンバーに見せるような柔らかい笑みを普段から浮かべているような性格ではなかった。

 

 威厳のある堂々とした立ち振る舞い。

 規則を厳しく律するその姿に圧倒されて遠慮がちに腰を引かせ、その機能の本分を全うできずにいた生徒会。

 UTX学院からの圧力。

 なぜか独断での活動を認めてくれない学院のトップ。

 

 最後の問題に関しては、絢瀬絵里も結局なぜなのか、分からずじまいとなったが。

 

「やっぱり、一人の力で何かを成し遂げるっていうのは難しかったのよ」

 

 そんな時だったわ、と。

 絢瀬絵里はグラスを両手に、メンバーの顔を見回す。

 

「μ'sへのお誘いがあったあの時、凄く嬉しかったわ。一緒に廃校を食い止めましょうっていう穂乃果の言葉、とっても胸に響いた。私もやっと、誰かと協力する事ができるんだなって」

 

 正確には、生徒会長として活動していた頃の絢瀬絵里にも、東條希という理解者、協力者がいたのだ。

 だが東條希――彼女は彼女で何か不可解な事柄を常に頭の片隅で意識しているような気配を感じさせ、そこら辺の事情は絢瀬絵里にも理解できなかったという事もある。

 

「だから、ね――」

 

 一気に増えた仲間。

 また自分が和に加わったそのグループに、それを許容して参加してくれたメンバー。

 

 絢瀬絵里は彼女達に微笑む。

 

「私をμ'sに誘ってくれて、ありがとう」

 

 これで、絢瀬絵里は無事に果たす事となる。

 

 自分が今まで胸に抱いていた――執念とも呼べる約束を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 また。

 

 夜伽ノ美雪はソファの上で。

 

 普段は機転のよくきく冴え渡った脳の回路を、行き詰まる程までに情報収集に機能させながら――それでも片鱗すら見当たらない答えを追い求めながら心で叫ぶ。

 

 ――冗談だろ……こんな、こんな事があってたまるものなのかよッッッ!!

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーー

 

 

 

 ゴトン、と。

 鈍い音がした。

 

 それは布団の敷かれない床にグラスが落ちた音。

 

 今まで語り手であった絢瀬絵里も。

 話を聞きながら何かと葛藤していた夜伽ノ美雪も。

 他のメンバー達も、そちらを向く。

 

 視線が集まる一点には一人の少女。

 

 園田海未。

 

 手から滑り落ちたグラスを拾おうともせず、前髪をだらりと下げる深く俯いた体勢は、どこか震えていた。

 

「う、海未……?」

 

 何かあったのかと心配そうな声で呼びかける絢瀬絵里。

 

 途端、園田海未の身体が激しく揺れ――。

 

「くふっ……くふふ……ふふふふふふふふふふふふふふふふふ…………」

 

 奇妙なそれは笑い声だと分かる。

 

 途端、

 

「はっ……」

 

 高坂穂乃果が気づいたように目を見開かせた。

 

 彼女はすぐさま園田海未が落としたグラスを手に取り、その匂いを嗅ぐ。

 

「……コーラだ」

 

 ボソリと呟いた瞬間には、今度は南ことりが「ひっ」と顔を青ざめさせた。

 

「な、なに? 一体どうしたのよ?」

 

 不安に駆られる声で西木野真姫が尋ねる。

 

 ビクビクと何かに怯える様を見せる高坂穂乃果と南ことりはゆっくりと立ち上がった。

 

「ま、まずいよ……」

「ど、どうしよう……」

 

 ハッキリと物事を喋れないのか。

 それほどこの場は窮屈な状況に追い詰められているのか。

 

 依然として怪奇な笑い声を上げる園田海未。

 

 焦らされた事に苛ついたのか、矢澤にこが大声を上げた。

 

「んもう! いったい何だってのよ!?」

 

「に、にこちゃん……大きな声を出しちゃ――」

 

 南ことりの制止の声がかかると同時。

 全員がギョッとするように息を詰まらせた。

 

 顔を上げた園田海未。

 真っ白に磨かれた歯を見せながら笑う彼女の表情は――。

 

 

 鬼。

 

 

 音速で加速される音を聞いた。

 空気が凪ぐ……という生半可なレベルではない。

 

 空間が裂かれたような斬新な最大出力モスキート音のようなそれを作り出した物体は……モフモフとした柔軟な枕。

 

 それが矢澤にこの顔面にヒットすると、

 彼女の身体は三六〇度回転し、仰向けとなって布団に倒れ込む。

 

 もはや、悲鳴を上げる余地もなかった。

 

「に、にこちゃん!?」

 

 反射的に声を上げる西木野真姫。

 それだけで、次の生贄は決定された。

 

 一瞬後には、彼女の身体も宙を舞い、後方に飛ばされる。

 

 落下地点は背後のソファだった。

 

「ッておい……うおァッ――!?」

 

 回避するように夜伽ノ美雪は床に身体を転がすと、空席となったソファの上に意識を手放した西木野真姫が放り込まれる。

 

「だめにゃ……もう手遅れにゃ!」

 

 すぐさま彼女の元に駆け寄った星空凛は嘆くようにそう言った。

 

 自らの危険を顧みようとせず、高坂穂乃果は修羅場に立たされた主人公の心境で警告を飛ばす。

 

 ……南ことりと共に、仲間を見捨てるようにして他の部屋へと逃げ込みながら。

 

「気を付けてみんな! 海未ちゃんは苦手な炭酸を飲むと人格が変わっちゃうから、今の海未ちゃんからはなるたけ離れた方がいいよー!!」

 

 鬼と化した園田海未。

 その表情は狂笑めいている。

 

 星空凛と小泉花陽は、間に夜伽ノ美雪を挟むように彼女の袖を握って震えている。 

 

 そして絢瀬絵里と東條希。

 

 ケタケタと顎を上下させて笑い続ける園田海未を目の前に、詰まらせた息をやっとの思いで吐きながらそれを言葉にする。

 

 

「……ハラショー」

「スピリチュアルやね……」

 

 その言葉が引き金となった。

 

 絢瀬絵里と東條希はそれぞれ別方向へ。

 

「にゃぁぁぁあああああああああああああああああああああああああ!!」

「ぴゃぁぁぁあああああああああああああああああああああああああ!!」

 

 涙を浮かべて奇声を発しながら一目散に逃げ出す星空凛と小泉花陽は同じ方向へと走り出した。

 

 無論。

 間に夜伽ノ美雪を引き連れて。

 

「あっっっ――ははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは――ッッッ!!!!!!」

 

 楽しいはずの合宿初日の夜。

 

 鬼ごっこスタートの笛が鳴り響いた。

 

 

 

 




 絵里ちゃんがバレエをやっていた時期についてアニメではあまり詳細を乗せていなかったので、今回の過去編を使って少しですが掘り下げてみようと思いました。

 海未ちゃん覚醒(笑)

 
 さて、今回のお話はどうでしたでしょうか。

 次回の事ですが、また少し期間が空くと思われます。
 そろそろASの方も入れていきたいなぁと思う僕――頑張りたいです!

 それでは次回もよろしくお願いします!


 
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