お待たせいたしました!
一週間以上も間を開けてしまい申し訳ありません!
――さて、第七章もいよいと最終話となります。
前話では謎のファンタジー展開へと乗ってしまいましたが、これから美雪ちゃんはどうなるのか――。
それでは本編、どうぞm(_ _)m
周囲は真っ白な霧の壁に全て覆われ、視線の先に見えるは踊り続ける九人の人影。
先程まで、現実の光景とは思えない現象を、目の当たりにしていた。
天空からの謎の演奏に、億千万の星々が夜空を駆け回り、四季の織り交ぜられる星座が浮かび、満月がその姿を分身させたかと思うと、急激に真冬以上の体感気温を味わわされる。
この世の終わり。
最後の審判の日。
そんな言葉が脳裏に浮かんだと同時に全てが濃密な白に覆われ、裸体の女の影が霧の奥で見えている。
挙げ句の果て――。
「『A・M』……だと」
背中合わせに、背後に立っていたはずだった。
いつの間にか、生暖かい感触は消え、その実態を俺の目の前へと晒している。
その存在。
その総身。
「けれど、そう呼ばれるのは慣れていないのよ。私のことはやっぱり、『ネフティス』と覚えてちょうだい」
全てを支配する分厚い霧へと浸透させるかのような、澄明を感じさせる声。
その魅惑的な声により、背筋に感じていたわずかな戦慄感が肥大化する。
煌びやかな粒子を纏わせる長い黒髪。
瞼の裏側から光沢の輝きでもって照らされたかのような漆黒の瞳。
純白の白粉を塗っているかのような艶めかしい透明な肌。
豊満に盛り上がった両の胸と、引き締まる腰回りから誘うような肉付きの尻を際立たせる、蜘蛛の巣柄と透明仕様の漆黒ワンピース。
大人びた端麗な容姿に似合い、妖しく媚態な身体付きは人に純血を望ませ、しかし豊かに成熟しているような裸体を隠す誘惑的な衣装。
相手を陶酔させる性的な色香と匂いを漂わせ、それでいて、いつ消えてしまってもおかしくないような透明の美しさと清純さが見えながら、不用意に近づく人に悪寒を走らせる薄い刃物のような鋭さ。
「改めて――お久しぶりね、夜伽ノさん」
こちらの名を呼ぶその桃色の唇の動きは妙にいやらしく、また声には、己の立場が上位であると知る余裕さと、暖かさがある。
微かに微笑むその表情が、愛らしくさえ感じる。
同じ波の強さで、食い尽くされるような底知れぬ闇や恐怖も感じた。
口の中で舌を上下の歯に噛ませる。
取り戻された日常風景の中、唯一の異端の存在を目の前に膝が笑ってしまうのを、どうにか耐えようとした。
「ハッ――はッ……、ハッ―――」
呼吸が酷く乱れ、額から頬、首筋にかけて脂汗が滲んでいる。
恐怖に身体が凍り付き、開かれた瞳や口内もカラカラに干上がり、満足に声すら出せない。
それ程のオーラ。
目の前の、ネフティスと名乗る黒髪の少女から、人間離れした神話的雰囲気というものが、聳え立つ塔が倒れ込んでくるように、壮大だとさえ感じられた。
「あら……、どうしたのかしら夜伽ノさん」
クスリと。
黒髪の少女は卑しく微笑む。
「随分と顔色が悪いわ。もしかして、熱でもあるのかしら?」
挑発的な声の響きはそれでいて甘美なもので。
嘲笑うかのように斜めに倒された顔に映る、相手を小馬鹿にする表情も絵になり、こちらに喜びすら与える心地を放つ。
両足が地に根を張った。
喉奥の扉が固く閉ざされたかのように、声はおろか呼吸すらままならない。
言いたいことはあった。
クエスチョンマークが大量に浮かんだ。
『そいつは数年前にすでに死んでいるがな』
幼馴染みとの会話が思い出される。
存在してはならないはずの人物を目の前に、霊的な冷たい空気を感じた。
『昔、よく一緒にその少女と遊んでいたよ』
統堂英玲奈はそう言っていた。
やはり目の前の存在と英玲奈は知り合いで、もしかしたら――。
『あたしが小学生の頃にここに来た時、その一日だけだったけど、その子と会ってこの場所を案内してくれたのよ』
もしかしたら俺自身、消失した過去の記憶の中に、西木野真姫に案内されたあの洞窟へと一緒に行ったことがある、というものが残されている可能性だって浮上している。
『これね、当時にあたしとその女の子が彫った……この場所に来た記念の印なの』
あの時に目にした、黒髪の少女が刻んだと思われるイニシャル。
そのイニシャルを自らの本名であると、今現在に俺と対峙しているその存在は確かに言った。
「まるで、本当に幽霊でも見てしまったかのような表情ね」
黒髪の少女は、抑揚の効いた調子で言う。
一流のアニメ声優にも不可能とも思える、歌うように奏でられる声は非常に魅惑的で、耳の奥まで優しく撫でられるようだった。
だが、考えられない。
可能性の有無を逡巡させる訳ではなく、単に右脳も左脳もその機能を停止し、全ての光景と発言を受け付けない状態を作ったようだった。
この黒髪の少女はどこから来たのか、とか。
自分と少女が立っているお互いの間だけはなぜ霧が薄いのか、とか。
死んでいると聞かされたはずの人間が、どうして目の間にいるのか、とか。
自分が今立っている場所は、本当に現実の世界――生者が行進するこの世の舞台なのだろうか……なんて。
「ねぇ、ご覧なさい夜伽ノさん」
自分の名を呼ぶ声。
なぜだろう――それだけで、体内の血液が沸騰したようにカッ、と熱くなり、巡りが高速化され、器官や神経、脳の働きまでも活性化された。
いや、感覚や自我を強引に引き戻された――という表現が正しいようだった。
黒髪の少女は、一歩。
黒一色であるワンピースの長い裾を揺らし、ライナー部分に恐ろしい程の急角度を持ったハイヒールをカツン、と鳴らして、横にずれた。
俺の目の前に先程の光景が広がる。
濃密に広げられた雪景色よりも奥の深い霧の中で、薄影の九人の女達が踊っている。
「ムーサ達よ」
……?
唐突に、黒髪の少女はそう告げた。
意味を捉えられなかった俺は、内側のみ起動される身体を硬直させたまま、呆然と正面を向いたままだった。
「あら……。まさか、知らないなんてことはないでしょう?」
視界の隅に映る黒髪の少女が、今度は不思議そうに尋ねる。
「世の芸術……主に文芸と歌唱を司る、ギリシャ神話に登場する九柱の女神」
説明を加えられた言葉に、俺はようやく思い出す。
我らがスクールアイドルグループの名前の起源ともなった、神話とその物語を。
「あ……」
微かな空気が漏れただけの声は、俺の口からかろうじて発せられたものだった。
黒髪の少女にばかり気を取られていたうちに変化があったのか、俺は瞬きの後に凝視する。
翼が生えていた。
九人の人影の背中から、大きな両翼が。
これも薄い影として映っているが、一人一人に羽毛の毛先まで繊細な造りをされた、立派に上を向いた翼が生まれていたのだ。
そして相変わらず、白一色の世界の向こうでは、彼女達が互いに相容れない様子でもって、踊り続けている。
「ギリシャはパルナッソスの山……そこの舞踏場を構える大きな館に住んでいる美しい姉妹達。オリュンポスでの神々の宴の席では、輪舞を舞う三美神カリス達と共に、世界の全てに癒しをもたらす美しい歌声を披露した九人の女」
神話に関して博識な奴だとも思ったが、それは俺が個人的に調べてみたものと同様の内容であった。
メンバーの一人がその神話に目を付け、自らも所属することになるグループに、その名を引用した。
よくできた話だと、その時は思った。
メンバーの総数はぴったり九人。
また神話に登場する姉妹達と同様、彼女らの仕事も歌を歌い、踊りを披露するものなのだから。
故に、俺もその名は気に入ってはいる。
九人の歌の女神。
その名も、『ミューズ』。
「よく考えてくれたわね、東洋の魔女も。最初から九人が揃うことを予知していなければ、絶対に『ムーサ』の名前を引っ張り出してはこなかったでしょう」
感心するように黒髪の少女は言う。
彼女の視線はすでに俺から外されていて、俺と同じように、霧の中で舞い踊る九人の人影へと向けられていた。
「けれどね、夜伽ノさん」
接続に使われるのは否定的なもの。
背筋に濡れた氷を這わされた嫌な感触が感じられた。
「数を揃えただけでは、彼女達を完全に『救済』したことにはならないのよ」
「……救済――?」
無意識にも俺も呟いたその単語。
『救済』という言葉が、妙に引っかかった。
黒髪の少女は続ける。
「やがて、仲の良い幸せな姉妹達の間にも亀裂が入り、闇へと堕ちていく未来がある」
同時、俺の目は変化を捉えた。
髪を振り乱して踊り、裸体のまま両手を広げて舞うだけであった彼女達の影に、別の動きが見られた。
「愛らしい女『エラト』は、一世一代の決断をした後に大空へと旅立つも、大きな翼は過度の疲労でもって、壊れはじめる」
黒髪の少女の言葉と同時に、霧の中の人影の一人に特に大きな異変が起こった。
まるで文字通り。
大きな翼を懸命に羽ばたかせるも、宙を叩く両翼は歪にひしゃげ、根元からパキンと折れると、たちまち翼を失った人影は真っ逆さまに、真っ白い霧の中へと溶け込むように姿を消した。
「…………」
今のは。
なんだ。
「讃美する女『クレイオ』は、いつの日からか夢を追いかけることを、大空へと飛び立つ術を忘れ……使い道を失った翼は力を必要としなくなり、やがて朽ち尽きた」
すると一人の人影はペタンと座り込み、上を向いていた両翼までも力なく折り畳まれ、やがてその姿全体を風で散らされる砂のように消していく。
「多くの讃歌を記憶する『ポリュムニア』は、犯した己の罪の意識に押し潰され、自らその翼を棄て、地上さえにも拾われず、奈落へと堕ちていった」
また一人の人影では、霧の中で宙を舞いながらも突然として背中の両翼が剥がされ、頭を真下にして落下するような絵でもって、白の世界へ溶けていった。
「これ、は……」
一人の人影は巨大な両翼を乱暴に振り回し、やがて激しい頭痛に苛まれるように頭を両腕で押さえ、そして霧へと消える。
一人は威風堂々と翼を横へと大きく広げ、口を大きく開けながら仰け反り返り、狂うように笑いながら身体を揺らし、背景に呑まれた。
また一人は一度も翼を広げることなく、踊るのをやめるとただひたすらに何処かへと向かって走り出したかと思うと、何事もなくそのまま姿を薄くさせていく。
そして一人は大きく弧を描くように宙を飛び回っていたが、やがて方向を見失ったかのように頭を四方に彷徨わせ、そのまま逃げるように上方向へと飛び去っていった。
二人。
仲睦まじく手を繋ぎながら踊っていた、あの二人の人影だった。
残された二人は天を仰ぎながらペタンと座り込み、互いに相手の身体を抱き合うと、大口を開いて何かを喚いているような――酷く泣き叫んでいるように見えた。
やがて、それも消えた――。
「……、…………」
結局、何だったのか。
彼女達の行動は何を意味していたのか。
今のは誰で、何の演出だったのか。
それに、先程から説明口調でる少女の言葉の意図も、理解できていないのだ。
「これが、『女神の堕天』」
影を失い、今度こそ正真正銘の銀白世界と化した中に存在するは二人だけ。
再び黒髪の少女が俺の正面――その距離わずか五メートルといった所に立ち塞がる。
「そして、あなた達『μ's』の未来よ」
俺は圧されるように後退った。
激しい地震に足を取られ、必死にバランスを保ち立ち続ける至難。
この女は――。
俺達、μ'sを知っている――。
「ッ……」
ネタが尽きない不可解な現象。
また追加されるそれに、俺は見上げた。
ブゥン、と。
黒髪の少女の頭上――真っ白い霧の中で、緑色に点滅したモニタが映し出される。
「何だ、あれ……」
「まぁ見ていなさい」
今の時代には珍しいテレビ画面の砂嵐が流されているかと思うと、縁の緑色に囲まれて、電源が付けられたかのように白い光が瞬くと、長方形の広い画面に、ある光景が映し出される。
これは――。
『海未ちゃ~ん……明日までの宿題写させて~』
『またですか穂乃果ぁ! あなた、次やる次やると言いながら、一度も実行したことがないじゃないですかっ!!』
『あ……、じゃあことりは、海未ちゃんの家にお菓子持っていこうかな』
『やったばんざーいっ! それなら宿題を写すのも頑張れるよ! ことりちゃんだ~い好き!!』
『ことりぃ! あなたがいつまでもそう穂乃果を甘やかすからこれが駄目になるのです! それと穂乃果は自分で宿題を終わらしなさい! 今回ばかりは絶対に見せませんよっ!』
「なァ……ッッ!?」
久々に、俺は自分の声を聞いた気がした。
恐ろしい程に低く、獣が呻るように圧されながら喉奥で息が詰まる声は、かなりの驚愕の色の帯びたものだった。
画面に展開された場面は、見覚えのある光景と見慣れた顔ぶれ。
高坂穂乃果。
園田海未。
南ことり。
普段の練習着を着た二年生組の三人が、屋上にある鉄棒のフェンス近くで会話をしているものだった。
「どういうことだ、これ……いつの間に――ッ」
すでに冗談という類では済まされない状況下でさらに追い打ちをかけられ、俺の頭は恐ろしさを忘れ、声を荒げるものとなる。
すぐ、画面は切り替わった。
『かよちーん! これからラーメン食べに行こーっ!』
『えぇええっ!? り、凛ちゃ~ん……私達、昨日もご飯屋に行ったよぉ。た、体重がぁ……』
『へーきへーき! 凛達って毎日のように練習で身体を動かしてるんだから、ラーメン一杯分のご褒美で罰は当たらないにゃ!』
『で、でもぉ……』
『ふ、二人とも……これから食事に行くのかしら? へ、へぇ、そう……』
『あっ! もちろん真姫ちゃんも一緒にゃ! 一年生組集合ーーーっ!!』
『ヴェェエ!? べ、別に誘ってほしかった訳じゃないんだから!』
今度は制服姿で廊下を歩く、一年生組の三人だった。
星空凛。
小泉花陽。
西木野真姫。
これは俺ですら見たことがない、放課後に部室へ集合する前の時間帯のものだと窺えた。
「馬鹿なッ……何で、……」
この映像。
決してPV動画に使用されたものではない。
『あっ!』
『急にどうしたのよ、希』
『……今日、まだ一回もにこっちにわしわししてへんやん!』
『にこぉ……っ!?』
『……はぁ。美雪、メンバーが堂々とセクハラ発言をしているわよ』
『もう今更だろォ』
東條希。
矢澤にこ。
絢瀬絵里。
スポーツドリンクを片手に、後輩達を眺めながら話す三年生組。
少し離れた所に、身体の半分だけ映る俺の姿もあった。
そうなのだ。
その場には俺もいた。
だからはっきりと覚えている。
この時にカメラを回して撮影していた者など、絶対に存在しなかったはずだ――!!
だが明らかに、映像を見て分かるが、角度的に隠し撮りをしている様子じゃない。
真正面から、俺達に撮影していることを隠すことすら必要としない距離でもって撮られている。
さっきも言ったが、こんな場面、PV動画の編集に使われはしない。
何でもないような、一般の高校生達が見せる日常風景のコマに過ぎない。
「なら、この映像は何だ……どこから持ッてきた、誰が撮影していた……」
いや、そもそも俺自身、目の前の黒髪の少女の存在を人間ではないのかもしれないと思っている時点で、その考えは意味を成さないのではないか。
人間以上の知的存在と赤子の間に、端から優勢も劣勢も存在するはずがないと――。
「そうね……。言うのなら、万物を見通す目。または神の全能の目を意味する、『プロビデンスの目』――それが、あなた達を見ていたのかも」
また、少女は奇怪なことを言う。
同時にその奇妙な発言からは、宗教じみたものを臭わせた。
「あら、今ので分かってしまったかしら」
察したのか、俺の様子を。
黒髪の少女は妖しく微笑むと、真っ白く磨かれた上下の歯を見せるまで唇を歪める。
「今の発言から汲み取れるように、私は『自由な石工達』の一員であったわ」
「ッ……」
そして明かされる、一つの真実。
彼女の頭上に浮かぶ緑色のモニタには、再び雑音混じりの砂嵐が流されている。
「知っているかしら、この名前」
「……あァ、名前くらいわな」
自由な石工達。
彼女が口にしたそれは、俺が思い浮かべた通りのものであるのならば、とある結社の名前だろう。
近代の国家革命やら世界大戦などを引き起こした核であり、金融危機や王室支配などで世界を裏で牛耳っていると陰謀説を唱えられながら、病院や福祉施設などに多額の寄付を続ける慈善団体とも噂されている、謎の多い秘密結社。
時には宇宙人とのコンタクトが経験済みだとか、悪魔を使役するとのことでローマのカトリック教会と対立しているなどの話が持ち上げられているが、かのローマ教皇やアメリカの歴代大統領までもがその会員として名の知られている、世界で最も名の高い団体。
「けれど私の場合、正式な『自由の石工達』のメンバーという訳ではないのよ。最も、通過儀礼は執り行われた訳なのだけれど」
黒髪の少女は続ける。
「自由な石工達から独立しつつある、過激派組織の『光に照らされた者』――私達は、その対極の位置に立つ存在」
私達――。
つまり、この黒髪の少女が所属している結社というものは、全く別にある訳で――。
「私が所属する、自由な石工達から分離された穏健派組織――それが、『アルファルド』」
その名前。
アルファルド。
確かアラビア語で、『孤独である者』……であった気がする。
黒髪の少女は大きな胸を前へと突き出す格好で、霧の中に浮かぶモニタの画面を見上げた。
「『アルファルド』も当然、『自由な石工達』や『光に照らされた者』と同じように、プロビデンスの目を司る。故に――」
微かに、少女はまたも薄く笑う。
「九人の歌の女神の主宰者であるあなたも知らないようなことを、私は見渡すことができる」
ブゥン、と――また上空に浮かぶモニタの画面に光が走る。
そこには――。
『できないよ……』
流された音声。
落ち込んだ声が聞こえた。
映し出されるのは、見覚えのある部屋。
いつだったか、俺はこの場所に招待されたことがあった。
自室のベッドに仰向けで寝転がる、我らがリーダー。
我らグループの発起人。
常日頃からやる気と溌剌とした元気に満ち溢れる彼女の顔には、小さな明かりが点けられた部屋で、やけに影が浮かんでいる。
『はは……もう、ほんと……大きすぎるよ……』
現実に嘲笑するように。
何もかもを諦めてしまったかのように。
腕で目元を多いながら、口元に微少な笑みを浮かべて彼女は呟いている。
高坂穂乃果のこんな顔を、俺は見たことがない――。
また、画面が切り替わる。
『ほんっと、どうしてでしょうね……こうも、うまくいかない……』
数多くの本やら薄型のモニターなどが置かれた大きな机に両肘を置き、髪の毛を頭皮から引っ張るようにグシャッと掴みながら項垂れる、椅子に座った医者の卵が映し出された。
一本のスタンドの蛍光灯の明かりだけが頼りの薄暗い部屋の中、一人の空間でブツブツと呪文を唱えるように呟き続ける、不気味な絵面だった。
『絶対に手に入れるわ…………なんとしても……今までの分は絶対…………必ず……逃がしたら……』
何かに悩んでいるのか。
得体の知れないものに葛藤しているのか。
ここまで追い詰められた様子でいる西木野真姫を、俺は見たことがない――。
三度、画面が移り変わる。
『……お姉ちゃん?』
聞き慣れない、だがどこか覚えのある声だった。
画面に表示される映像に、俺はすぐにその人物を思い出し、特定できた。
そういえば、一度、会ったことがある。
その金髪の少女は四面のわずかな隙間から明かりの漏れる部屋の扉を開け、中へと顔を覗かせる。
その視点からは、少女より一段階、金色の髪に濃密度を増したような髪色を後ろで縛る、姉と思われる人物の後ろ姿が見えた。
生徒会長。
全校生徒から尊敬される、羨望の的。
さすがだと、思わず感嘆する。
パジャマ姿などから察するに、きっと時刻は夜中なのだろうが、彼女はそれに関わらず、姿勢正しく椅子に座り机と向き合っている。
『まだ、寝ないの……?』
妹が、本当に心配そうに声をかけた。
姉は振り向かない。
『まだ、この案件が解決していないからね』
『……それ、明日学校でやれば――』
『駄目なのよ。学校じゃ学校で、別にやることがあるの』
『でも、お姉ちゃんここの所、毎日遅くまで起きてるから――』
『私は全然平気よ。それより、もう一二時を回っているわ。亜里沙は早く寝なさい』
『で、でもわたし……』
途端。
眼をギラリと尖らせ、鬼の形相でもって姉が上半身ごと振り向いた。
『うるっさいわね!! こっちは身を削る思いで孤軍奮闘してる最中なのよ! 私に時間がないことはあなたも分かりきっていることでしょうっ!?』
怒涛の渇。
妹は怯み上がって、部屋から後退るように遠ざかった。
身の毛もよだつような迫力でもって、ここまで声を荒げる乱暴な絢瀬絵里の姿を、俺は見たことがない――。
テレビ画面の電源を落とされたかのように、プツンと白い瞬きを見せながら、モニタの画面は真っ黒に染まる。
それはやがて、さらに濃厚に凝縮される霧に埋もれるかのように、形を消していった。
先程の映像とは打って変わるもの。
それぞれの笑顔や困惑した表情の中にも、全てに楽しさや喜びが詰まっていたものとは違う――あの三人の暗い、また恐怖を感じさせる表情に、いっさいの希望もなかった。
「今のは……何だ……」
俺は尋ねる。
視線を交差させる前方の少女に。
聞かざるを得なかった。
どうしても自分では処理ができなかった。
黒髪の少女は口を開く。
「言うなれば、『女神の堕天』へと近づき始めた第一歩、かしら」
言葉の直後、唐突に。
「ぐッ……!?」
凄まじい突風が吹き荒れた。
上空から叩き付けられるように薙ぎ払われた風は身体を叩き、その威力に俺は腕で顔を覆いながら目を瞑る。
「そして今も、女神達は誰かによる『救済』を求め、『理解者』を探し続けている」
その言葉に、ハッとして目を開き、正面を見る。
北国の猛吹雪を超越する白の世界は消え去っていた。
あれ程の霧は一瞬にして晴れ、景色は人気のない夜の公園に戻されていた。
思い出して上空を見上げるも、すでに夜空には数えられる程の銀河の輝きが細かく瞬いているだけで、小さく映える満月が一つ、ポツンと浮いているだけの、平凡な景色となっていた。
そこに音楽はない。
すぐ背後には木製の長いベンチ。
正面を見据えれば、噴水からの水を溜め込む溝を囲む縁の石段の上に直立で立つ、黒髪の少女の存在があった。
全てが戻される。
非現実から、現実へと転移された。
「私達、『アルファルド』のことについて、もう少し詳しく教えてあげるわ」
黒髪の少女は言う。
穏やかな夏の風にワンピースの裾と長い髪を揺らし、俺を見下ろす格好でもって。
「アルファルドが掲げる基本理念――それは『贖罪』と『自由』。そして、『救済』の三つ」
俺からの発言を待たないまま、少女は続けた。
「深い悩みに苦しまされる人や、長く続く因縁に苛まれる人。過去に犯した罪をどうにかして償いたいと思いながら、耐えきれない重さの十字架を抱える人。――そんな人達に『救済』の手を差し伸べる。それが、私達『アルファルド』の使命」
そして、黒髪の少女は動く。
細長い人指し指の爪先を立て、その右腕を天空へ掲げる。
思わず、誘われるように俺も、その方向へと見上げた。
周囲から逸脱する大きな輝きを点滅させる一つの星が、夜空にあった。
そして――。
「いつの日か……必ずあなたを救済してみせる。――それじゃあね夜伽ノさん。また、会える日が来るわ」
言葉がかろうじて耳に届く。
その明星を中心に、三六〇度方向へと瞬く間に広げられた真っ白い閃光に、視界全体が包まれて――――――。
ーーーーーーーーーーーーーーー
誰かに名前を呼ばれる。
身体を揺らされている感覚がした。
フッ、と目を開ける。
小さな星屑がまばらに散りばめられるだけの夜空の景色に、ぬぅっと、別の影が覆い被さってきた。
「やっとお目覚めかい、美雪ちゃん」
聞き覚えのある声だ。
それは、男のもので――。
「……柊か」
「ピンポーン。君の愛しの蒼太郎くんで~す。そして、美雪ちゃんは一人で何をしていたのかな?」
言われて、気づく。
どうも俺は、公園のベンチの上に、仰向けで寝転がっていたようだ。
「あれ……おかしいな……」
ズキン、と頭痛が走る頭を押さえながら、俺は上半身を起こし、片膝を立て、片脚をベンチから降ろした。
目の前に、至近距離ではなるべく見たくない憎たらしい顔がある。
「…………?」
しかし、俺の顔を覗き込む柊蒼太郎。
その表情に、いつもの気持ち悪いニタニタとして笑顔は浮かんでいない。
「いくら夏でも、こんな所で寝ていたら風邪引くよ?」
「……あァ、俺のことはいいンだよ。なァ、柊」
すでに、俺はそれを見つけた。
寝起きの頭が直後に覚醒することではなかったのだが、明らかな緊急事態を要するものだと分かるものが、俺の視界に入っていた。
「その、顔面痣だらけの男はどこで拾ッてきたもンだ」
冴えた声。
感覚も覚めた。
柊が肩を貸すような格好で、その背中に力なく倒れ込んでいる――。
顔に痣と、口から赤い血の筋が垂れる、私服姿の水浦竜三の姿を見た上で、俺は尋ねる。
柊蒼太郎は、呆れるように溜息を吐いた。
「ほんと困ったもんだよ。話は後でするから、ひとまず、君の家に入れてくれないかい? そろそろ、この男を抱えているのも体力的な話で限界でね」
すぐに、俺も立ち上がる――。
次話からは第八章です!
それでは、次回もよろしくお願いします!