深淵とは何処にあるだろう。
そもそもにして深淵とは、深い淵や水の深く澄んだ場所を差す。また、様々な宗教観を踏まえてみればそれらは地下深く……詰まる所、地獄と関連付けられた場所に位置するそうだ。天国の外側である闇。それこそが深淵だと。それはつまり、我々の世界を示しているのだろうか。
悪魔学では人間の進化の終着点を示し、人間がいつか行き着く先であるとも。
これらの少ない要素から鑑みても、人間とは深淵とは切っては切れないもの。いや、もしかすれば人間こそ深淵と同一のものなのかもしれない。あの悪魔のようにしぶとい男やその周りの人間達を見る限りでは、その業の深さはもはや深淵そのものだったが。
……いや。俺もその枠から逃げてはいけないだろう。なぜならばこの俺も、あの河原郁葉という名の悍しい深淵の化身の肉親なのだから。
この俺もまた、深淵に身体を浸け己が欲のために人を殺し続けたのだから。愛してくれた人を殺し、その人の身体を奪ったのだから。
それでも。
「ねぇ、礼。私、綺麗かしら」
美しい魂に人の身体。目の前にそれはある。
惚れるくらいの銀のセミロング。紅くて深い、それでいてどこまでも澄んでいる煌びやかな乙女の瞳。肌は雪のように白くて無駄なんてものがありもせず。握れば折れてしまいそうな指はきゅっと胸元で握られて。俺よりも数センチ長い身長なのに、胴は短くて足は長くて。
漆黒の翼が、一糸纏わぬ彼女の肢体を隠す。それは恥ずかしさの表れで。ド変態な上にあんなに肌を重ねていて今更何を隠すのか。俺はそんな彼女がおかしくてはにかんでしまった。
「綺麗だよ」
━━でも、それは私の身体よ。
分かってる。それでも俺は、水銀燈と生きたいと願った。だからこうして倫理的に許される事ではない行為をしているのだ。
深淵とは深く、底が無い。あったとしてもそれを観測できるものなどありはしないのだ。
深いが故に、底が無い故に。何者をも受け入れる。際限はなく、人はそこに浸かっていく。欲も全て。深淵とは、欲とは。深淵そのものだ。
少女は踊る。嬉しさと渇望に身を悶えさせ、来たる時を大きな大きな花畑でくるりくるりと踊り過ごす。
白薔薇が咲き乱れ、太陽の陽を受けて眩く光る薔薇乙女。在りし日のように美しく。それでいて鬱くしくもあり。少女は舞い踊る。
片方の金色の瞳に宿るはいつしかの狂気。少年の下へ届いた直後まで宿り、それ以降は必要以上に表に出さなかったものだ。
顔は笑い、ひまわりのような笑顔なのに彼女は、彼女のは……異常なのだ。あれほどの笑顔に不釣り合いな狂気がひしひしと伝わるこの花畑に、人は耐えられないだろう。
並の人間には理解が出来ず、押し寄せる狂気に脳が耐えられず発狂してしまうに違いない。少女は歌う。
「だぁれが殺した駒鳥さん」
いつしか歌ったあの歌だ。うさぎはそれを眺めながら、振動する電話に応答した。
「お久しぶりーふ(レ)」
電話の主は機嫌が良さそうに彼の言葉を流した。
『やぁ、ラプラスの魔』
「あ、店長!ご無沙汰じゃ無いですか〜」
『君がそのやかましい口調をどうにかすれば僕ももっと電話するんだけどね』
辛辣な言葉だが、いつものように罵倒で返されないだけマシだろう。機嫌がいい理由は分かっている。彼の望むものが、もうすぐ手に入るのだ。何百年もかけたんだ、そりゃ嬉しくもなるだろう。
「まま、そう焦んないで。用件を言って、どうぞ」
『雪華綺晶を動かせ』
そしてこれも、概ね予想通り。このタイミングで電話が来るであろうことも理解していた。だから何も躊躇わず、ラプラスは従う。
「ん、おかのした。手筈通りにやりますんで」
電話を切る。そして一つ溜息。同志のためとはいえ、骨が折れる仕事だと思う。だがそれでいい、もうすぐ終わるのだから。
だからそれは、突然過ぎた。ここ数週間何もなかったのだから、それは仕方がないと言えば仕方が無いだろう。
必死に路地裏を走る。学生服にローファーという品のある格好で、金髪のポニーテールを揺らしながら全力疾走する。運動には適さない格好だが、アリスに一番近い少女が走ればどんな格好でも陸上の世界チャンピョンよりも早く走れる。
というか、もはや走るだけには留まっていなかった。
「たぁッ!」
アリスのような少女琉希は、小さな足場に飛び乗ったかと思えば高く跳躍し、一気に3階程度の小さなビルの屋上へ駆け上がった。
屋上を駆け抜け、隣のビルへ飛び移り、道を挟んで反対側のビルにすら飛び移る。そして走り跳躍しながら片手に握りしめた携帯電話のスピーカーを耳に当てる。
『琉希!今どこですぅ!』
甲高く愛らしい声が響く。彼女の緑の友、翠星石だ。
「南町の、ビルの上ですッ!」
『まだ追って来てるですか!』
言われて後ろを振り返った。そして振り返ったことを後悔してしまった。
白くて太い蔦が追って来ている。とんでも無い量……ではない。一本だけだがその殺意は凄まじい。確実に彼女を追って来ていることだけは分かった。
「めっちゃ追って来てますッ!早く来て翠星石ぃ!」
あの頃の勇ましい少女はどこへやら。今は身体能力と煌びやかな金髪が目を惹く女子高生だ。
『今主途蘭とそっちに行くです!それまで持ち堪えるですぅ!』
電話を切る暇すらない。琉希は逃げる。必死に逃げる。
━━妬ましい、口惜しい、恨めしい。
一度でも人ならざるものだったせいか。頭に響くような思念が聞こえて来る。あの、マスターである青年のことが大好きな少女……雪華綺晶の声であることは言うまでもなかった。
「どこだってッ!」
車を走らせる。正確には運転しているのはみっちゃんだ。隆博は電話片手に助手席から、外の風景を探すように見ていた。
電話の相手である主途蘭が怒鳴る。
『ビルの上飛び回っとるじゃろ!お主が一番近いんじゃ、はようなんとかせい!』
「わかったわかった怒らないでよッ!(ひで)」
言われるがままに上を見上げるが何も怪しいものはない。
電話が来たのはついさっきだった。前みたいに四人で買い物に出ていたら急に主途蘭から電話が来て、琉希ちゃんが一人で雪華綺晶に襲われていると言われて……
マスターはおらず、彼女が活動していた形跡もない。なのにも関わらず、雪華綺晶はどこかからか力を得て、ボディが無いのに現世で動いている。
「あのクソロリコン野郎めぇ〜ッ!余計なもん残しやがってッ!」
かつての友に激怒しながらも彼らは急ぐ。すべては終着点へと。
深淵へと。