イエロー・フラッグの血まみれ妖精   作:うみ

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就活をやり、授業を休み、取るべき単位も、納めるべき論文も、卒業まで危うくしてもまだ足りぬ。俺もお前らも全く以って、度し難い就職難(アイスエイジ)だな同志。




どうにかなったからこうして舞い戻って来たんですけどね。
ただいま、読者(はくしゃく)


ちょっとエロス重点で書き足した(2/2 1:25)
誤字の修正と後書き追加(2/2 21:30)


海賊酒場の夕暮れ

 ロックを含むラグーン商会の一行がイエロー・フラッグに乗り込んだのは、利権を求めて暴走した間抜けの陳と、まんまと乗せられた挙句に地獄への直行便に乗り込む羽目になったルアクの襲撃を退けた、その日の暮れも間近な時だった。

 ダッチ曰く「雇用主として娯楽提供の義務を果たす」ものであるらしい。ロックはともかく、レヴィは水を得た魚のようだった。ダッチから「朝までコース(ティル・ドーン)」の約束を取り付けてからは特にそうで、上機嫌に鼻歌を歌っていたほどだ。

 新米の荒くれとはいえ、ロックも奢り酒に喜ばない理由がない。

 ないのだが、喜べない理由が他にあった。

 

「……はあ」

 

 哀れな男は、自分の奇天烈な服装を思って、ロードランナーの車内で溜息をついた。

 ピンクの生地に、青と緑のコントラストのアロハシャツ。レヴィが余計な気を回して買ってよこした、露天の安売り商品だ。悪趣味とまでは言えないが、進んで着るものでもない。ロックの若さで着るのは、なにかファッションを勘違いしているかのような印象が否めない。もっと年配の、服装へのこだわりが一週まわって薄くなったような男が着ていればそれらしくも見えるのだろう。

 少なくとも、日本の一流商社でサラリーマンをしていた岡島緑郎のファッションセンスは、こう叫んでいたのだ。「成程、いかにもだ。タンクトップとホットパンツにトライバルタトゥーを合わせて着こなし、おまけに拳銃までブッ放す女の選んだアロハとしちゃピッタリだ。でもダッサイね」

 これさえなけりゃあ。ロックは、口の端から零れ落ちそうになった文句をすんでのところで抑え込む。レヴィに聞かれればなにをされるかわかったものではない。

 しかし、無意識の内にこぼれた溜息を聞く者が隣にいた。

 

「あァ? おいロック、なにシケた面してやがンだ」

 

 レヴィがロックの肩に手を回し、訝しむ。

 ロックはそっと目を逸らし、窓の外にある明後日を見つめる。

 

「……別に」

「なんだなんだ、女みてェな野郎だな」

「こんなダサいアロハ着て来ちまったからに決まってるだろ」

「ンだと手前ェ! 喧嘩売ってんなら買うぞ!」

「なんだよ!」

 

 反射的に本音をぶちまけたロックと、その言葉に脊髄反射で喧嘩を売るレヴィの組み合わせは、いつも通りの平常運航である。額がぶつかりかけるほど顔を近づけ、互いにガンを飛ばすのも、前部座席に座る二人にとっては見慣れた光景だ。

 運転席のダッチは吸い終わりの煙草を窓から放り捨て、鼻を鳴らした。助手席のベニーも我関せずの姿勢を崩さず、車載ラジオの番組を好みのものに変える。

 

「飲む前から喧嘩っ早いとは、まったく」

「二日酔いの神様がブラッディ・マリーのついでで作った街には相応しいんじゃないかい、ボス」

 

 ベニーの軽妙な相の手を受けて、ダッチは悦に入る。

 

「ハ。そりゃ道理だ――おいレヴィ!」

「ンだよ」

 

 ミラー越しに見えるレヴィは、ロックと睨み合ったまま答える。

 喧嘩するほど仲が良い――新入りに対して妙に気が合っているとしか思えないその姿に、ダッチは口の中で笑った。笑って、アメリカン・スピリットを吹かしながら、後部座席の二人をからかう。

 

「今からボスの奢りで飲み潰れようってやつが、アロハシャツなんぞでもめるのはおかしいだろうよ。新婚夫婦じゃあるめえし、素面でやり合うにゃあ、馬鹿馬鹿しい話題ってもんだ。お互い言いたいことがあるんなら、酒入れてから存分にやりな」

「やけに気ィ回すじゃねえか、ボス。新入りだからって贔屓しようってか?」

「妬くなよレヴィ、ジェラシーは女を下げるぜ。雇用主が新入社員に気を使ってやるのは当然の義務だろう?」

「……けっ」

 

 レヴィは特大の苦虫を噛み潰して、舌打ちしながらも黙って自分のシートに収まった。ロックもレヴィが引いたことで大人しくなるが、肝心のアロハは解決していないことに気付いて目が虚ろだ。

 ふと前を見ると、バックミラー越しにダッチと目が――サングラスなので、視線の向きはよくわからないのだが――合った。

 

「ロック。俺に言わせりゃ、服なんてもんは着てるやつの気合が重要ってもんだぜ。そういうシケたツラしてるから見るに堪えねえのさ」

 

 人生の年長者による有難い忠告に対し、ロックはぐうの音も出せなかった。

 

 そんなこんなで、ロックとしても趣味の悪いアロハシャツを着るようレヴィに強制されたこと以外は文句などなく、かくしてラグーン一行は勢揃いでイエロー・フラッグに向かうこととなった。

 到着するやいなや、レヴィがすこぶる楽しげに扉を開ける。

 

「バオ! 元気してっか?」

 

 いつも通りの喧噪の先、カウンターの中に立っていたのはふたりだ。ひとりは営業スマイルだが、もうひとりはあからさまに眉をひそめた。

 

「ラグーン商会のご一行で。ようこそお越しくださいました」

「また手前ェらか。今度はレンジャー部隊でも引きつれてきたのか?」

 

 挨拶もまた対照的だ。ロックは苦い笑みを浮かべた。

 特に目を引くのは、礼儀正しく頭を下げている少年、ミハイルである。ロックより少しだけロアナプラの先輩であるらしい彼は、この町でも異彩を放っていた。それも、まだまだ日ノ本の常識人であるロックからすればなおさらだ。サラリーマン時代に上司との付き合いで飲みに行くことが多かったロックには、彼の立ち居振る舞いが手慣れたバーテンダーとそん色ないものだとわかるからだ。

 その彼は、やはり手慣れた様子でシェイカーを振っている。滑らかな二段振りを何度か繰り返し、そっとグラスに注ぐ姿はそれらしく見える。

 

「見ての通り、テーブルはほとんど埋まっちまってる」

「なに、遅すぎるってこたないだろうよ」

 

バオがカウンターを軽く叩いたのに応え、ダッチが真っ先にカウンター席に着く。

 残る三人もそれに倣い、かくして宴が始まった。

 

「さて諸君、楽しもうぜ」

「よっしゃあ!」

 

 真っ先にグラスを空けたのはやはりレヴィだ。バカルディを勢いよく注ぎ、ぐっと飲み干して、ロックを見るや否や失笑した。シン・ハーをわざわざグラスに注いでちびちび飲む姿は、ラムを嗜む海賊女からすれば、いかにもなよっちい飲み物と飲み方だ。

 

「ロォォォック、まだそんなもん飲んでンのか? こないだ、ちっとは骨があるとこを見せたってのにさ」

「……朝まであるんだぞ、最初からそんなに飛ばしてどうする」

「へッ。これだから制服さんはつまんねえ。ここはどこだ? トーキョーか? オーサカか? 違うぜベイビー、ここはロアナプラだ(・・・・・・・・)!」

 

 快哉を挙げたレヴィは一息でラムを飲み干し、ご機嫌な笑い声を響かせる。

 俯いたロックの頭が、アルコールの助けを借りずして痛みを覚えた。恐怖と心労によってだ。たかだか一か月ほどの付き合いではあるが、レヴィが上機嫌になるタイミング程度は既に心得ている。この女はつくづく救えない人種で、彼女の心を真に満たす偉大なる音楽は、この世にたった二つっきりなのだ。9mm弾の指揮による銃撃多重奏は言うまでもない。残る一つは、アルコールの天使たちが吹き鳴らすラッパだ。運が悪ければ、二曲同時に聞きたいという気分になるかもしれない。そしてルアク一行の血の味を思い出したレヴィがそうならない保証もない――ダッチ曰く、イカれちゃいるが分別はある女、だそうだが、ロックはその言葉を少しも信用するつもりはなかった。

 とにかく、そうなれば、やるべきことはそう多くない。テーブルの下に隠れ、レヴィが仲間の顔を見間違えない程度の酩酊状態でいてくれることを神に祈るのだ。ロアナプラが神の実在を疑うほど穢れている現状についてはともあれ、少なくとも、動く的のひとつとして背中を撃たれるよりは、遮蔽物の影でじっとしているほうがいくらかマシというものである。

 ――尤も、肝心の神の家がどんな有様なのかロックはまだ知らないのだが、それはかえって幸せなことだったと後に気付くことになる。祈りの家の惨状をまだ知らないからこそ、祈る気にもなろうというものだ。

 

「自由なる人間よ、君は常に海を愛するだろう。……どうぞベニー、ミントジュレップです」

 

 涼やかに言い放ったのはミハイルだ。詩に特有な独特の言い回しだったが、ロックの脳内書庫に合致する文言は存在しない。資材調達部のしがないサラリーマンには外国の詩を学ぶ必要などなかったのだから、当然と言えば当然だが。

 

「それは……」

「『悪の華』か」

 

 割り込んだのはダッチだ。ひどく楽しげにふたりのやり取りを見ている。

 ミハイルも視線に気づき、軽く頭を下げた。

 

「ご明察です。博識でいらっしゃいますね」

「俺は知識人を自称してるんでな。坊主こそ大したオツムだ」

「少々齧っただけですよ。以前の雇用主が気取った方でしたので」

 

 ロアナプラで交わされているとは思えない高レベルな会話に、ロックは目を白黒させた。まさか一流企業出の自分が、ヤクザと少年バーテンダーの会話に、しかもよりによってまともな話題に付いていけないとは思わなかったのだ。はっきり言って、こと教養という点についてはそれなりの自負が、あくまで周りの荒くれ者と比べてだが、あった。

 故に、興味がわいた。

 

「随分と詳しいんだね。かなり若く見えるけど、幾つだい?」

 

 ロックはそれなりに社交的だ。しかし、これまで幾度かイエロー・フラッグに来た時は、ラグーン商会内部での親交を深めること――あるいは、レヴィと意地を張り合うこと――が主目的であったので、ミハイルと顔を突き合わせて話したことはない。

 だからミハイルも、自分について問われるとは思っていなかったのだろう。少し戸惑って、ゆっくりと答える。

 

「十五です。今年で十六になります」

「若いな。それに、かなりバーテンをし慣れてる」

「バーマンとして修業を積み始めたのは十二の頃でしたから。少々、マフィアの方々とご縁がありまして」

「へえ。詳しく聞かせてもらって」

 

 唇が閉ざされる。

 ロックの唇が、次の音を紡ぐべく閉ざされた瞬間、ミハイルの人差し指がそっと乗せられたのだ。水を扱う仕事のはずだが、伝わる感触からすると乾いても傷ついてもいないようだった。

 呑気に考えたのは、思考が停止したことの表れだ。この時、ロックは思わず固まっていた。いつの間に指が接近したのかわからなかったからだ。気づけば唇に指が添えられていた。

 レヴィのような「速さ」でなく、西部劇のガンマンのような「疾さ」でもなく、むしろ意識の陥穽を突く「早さ」。圧倒的な初動の差を生む、純然たる技術だ。

 無論、ロックの理解はそこまで及ばない。ただし隣席のレヴィは、その技術がどれほど殺しに類するものであるかを認識する。肉食獣を思わせる敏感さで、その動きを追尾していた。

 ミハイルはレヴィに視線をやり、手を引っ込める。

 

「申し訳ありません」

 

 にこやかな対応に対し、ロックは頷いて沈黙するしかなかった。

 ミハイルは両手を組み、十五歳という年齢に似つかわしくない穏やかな声を紡ぐ。

 

「ミスター・ロック。貴方はこの町に……いえ、この世界(・・・・・)にまだ不慣れでいらっしゃるご様子。そのことについて僕から、ひとつだけ忠告をさせていただいてもよろしいでしょうか」

 

 させていただいてもよろしいでしょうか、という言葉とは裏腹に、ミハイルの目は「聞かないわけがありませんよね、死にたくないなら」と語っている。ロックは否応なく頷いた。ミハイルの指も取り去られる。

 常の笑顔が、いつもより少し冷たく見えたのは気のせいか。

 

「安易に他人の懐に手を突っ込む人間は、長生きできません」

「え? それってどう、いう……」

 

 ロックの言葉を断絶させたのは、レヴィの瞳だ。どんよりと濁り、まるで死人のような腐った色合いを帯びた目。そんな目で睨まれたせいで、ロックの舌は完全に凍り付いた。

 レヴィは瞬きの間にいつもの色を取り戻す。が、発する空気はドブ溜めのそれだ。

 

「前にも言った通りさ。詮索屋は嫌われる。手前ェ、小便小僧(ジュリアン坊や)が相手じゃなきゃ、鉛玉で体の嵩を増やすことになってたっておかしかねェんだぜ」

 

 ロックは唾を飲みこむ。尤も、自分の体重を増やしに来る相手と言われて想像できたのは、笑顔で銃を向けてくるレヴィの姿だけだった。だからこそ恐怖もひとしおだ。なにせ、初対面の時は勝手に攫われて勝手に殺されかけたのだから。

 焦るロックを見かねたのか、ミハイルがそっと水入りのコップを差し出した。小便小僧呼ばわりされたことを気にする様子は全くなく、ただ困ったような配慮の色がある。紛れもなく、ロックに対するものだ。

 

「僕は構いません。ですが、ロックさんは貴重な善人のようですから。そこらのチンピラの手で死なせるには忍びありません」

 

 ホワイトカラーばりのスーツを着てはいても、ミハイルの親切らしきものを感じ取れる程度には、ロアナプラに馴染んでいる。素直に頷いてコップを受けとった。

 

「ご忠告、感謝するよ。でも」

「ロック! その脳みそはクソと鉛玉を入れるためにこさえたわけじゃあねェだろう?」

 

 うんざりだ! 今度はレヴィが頭を押さえた。実際、近しい思考を辿っていたことは疑いなかった。

 もしレヴィがミハイルの立場であれば、この世の掃き溜めに相応しい罵詈雑言とソード・カトラスによる示威行為がロックを襲ったことは間違いない。それはロックにもわかっていた。

 ロアナプラにおいてはレヴィ側が多数派であり、ひょっとすると示威では済まないものがより多数を占めるかもしれない、ということも。

 

「ミスター。平和な地で育った貴方には、命の危険という実感はないのかもしれませんが……ここで素性や由来を聞くというのは、「お前、オナニーのオカズはなんだよ」と聞くくらい不作法で不快なことなんですよ」

「お……じ、自慰?」

 

 俗な淫語だが、ミハイルが口にすると妙にエロスがある。彼の放つ、熟練の男娼に勝るとも劣らない艶がそう感じさせるのか。あるいは、単純に彼の体に魅力を感じたのか。場違いとは承知しながらも、ロックの胸は一瞬跳ねた。

 そう意識してしまうと、自然と視線は随所に向いた。まず引き締まりつつも女体を思わせる肩から腰にかけてのライン。次に、中性的な神秘性と、少年の無垢さと、そして色を知悉した者に特有の淫らな柔らかさを兼ね備えた紅顔。そこから、水仕事で傷つきながらも白さと細さを失わない指先に至って目が釘付けになる。その指先が唇に添えられたことを思い出し、危うくその指がナニかする場面を連装しかけたのだ。

 慌てて妄想を振り払い、俺はホモじゃない、と自分に言い聞かせるが、我ながら説得力は皆無である。

 ミハイルが赤い顔のロックに怪訝そうな顔をしたのは一瞬で、追撃はすぐだった。

 

「それを知らないままこの街で過ごすおつもりなら、僕が賭けるとすれば一週間以上には賭けません。ミス・レヴェッカだって常に子守をしている余裕はお持ちになられていないでしょうし」

「おい、子供扱いはよしてくれ。君の方が年下だろう――でっ!」

 

 プライドを傷つけられたロックの反撃に割り込むように、レヴィがグラスの底でロックの頭を小突く。

 

「あんまり笑かすなよ、ホワイトカラー」

 

 ロックは骨髄から震えが走るのを感じていた。レヴィはとうとう我慢の限界に達したようで、その眼は完全に殺気立っていた。駄々をこねる子供を、最初は優しく宥めていたのが、苛立ちのあまり怒り始めたのと同じだ。

 レヴィからすれば、ロックが未だに日本の常識に従って振舞おうとしている姿は非常に腹立たしいに決まっている。彼女の立場は非常に面倒で、彼がなにかもめ事や問題を起こした場合、それを仲裁し、あるいはロックを守ってやらねばならないのだ。それが、ロックをラグーン商会に勧誘した者として、またラグーン商会のガンマンとしての義務だからだ。ゆえに、ロックの物わかりの悪さを目の当たりにして苛立たないわけがなかった。

 そして、それはロックにもわかっていた。だからこそ言い返さず、口をつぐむ。

 

「今のお前ェがガキじゃなきゃなんだ。アジア観光に来た大学生? それとも呆けたジジイか?」

「なんだって?」

 

 しかし聞き逃せないこともある。

レヴィの言葉はいちいちロックの戦意を煽った。しかも男の沽券に係わるタイプの罵詈雑言は、撤回されるか空気に流されて霧消するまで心に食い込むものである。そんなものを抱えたまま楽しめるほど、ロックは飼いならされていなかった。

 剣呑な目つきになった男を前にして、ロアナプラ指折りの女ガンマンは動じない。自分より弱く、無知な者の怒りを恐れる理由はどこにもない。喧嘩を売られるなら割高でも買ってやろう、それがロアナプラの心意気だ。怒れる女豹は、ロックのプライドに配慮してやる必要性を全く感じなかった。

 

「大変失礼いたしましたお大臣。安心しな、ドル建てで気前よく払うんなら、汚れたパンツの面倒まで見てやるよ」

「おい、俺のことバカだと思ってるだろ、バカ」

「あ? なんだやっか?」

「やるさ!」

「上等だ!」

 

 ヒートアップして睨み合う二人の前に、バオが無言でバカルディと替えのグラスを置いた。目に浮かんでいるのは明らかな諦観の色だ。

 レヴィとロックは、息をするようにそれぞれ自分のグラスを取り、なみなみとラムを注ぐ。

 交差する視線、散る火花、取り囲む野次馬たち。

 見つめ合う二人が、宣戦布告を交わす。

 

「調子乗んな、モヤシ野郎!」

「そっちこそ、暴力女!」

 

 かくしてグラスとラムが打ち鳴らされ、ラグーン商会の内紛が再び始まった。

 

 

 

 

 

 いつものように始まった、ラグーン商会の内紛ショーはイエロー・フラッグの喧騒をより酷いものにしていた。騒乱にかこつけて、殴り合いが始まるほどだ。

 ミハイルはこの喧しさが嫌いではない。ないが、店の治安が著しく乱れるというデメリットを考えると頭が痛むのも事実だった。人の命に十ドルの価値もつかない町であまりバカ騒ぎを繰り返されては、調子に乗って一線を越える輩も出てくることが容易に想像できるからだ。

 ミハイルの物言いたげな空気を感じたのか、仏頂面でグラスを洗うバオと目が合う。

 

「いいんですか、バオさん?」

「じゃあてめェはどうすんだ。こいつら相手に「喧嘩はやめて!」ッてか? ほっとくしかねえんだよ」

 

 道理である。内輪の飲み比べで済んでいるからまだいいが、店にイチャモンをつけられてはたまらない。銃を抜かない内に酔いつぶれてくたばってくれることを期待するべきだ。

 尤も、鉄の肝臓を持つと噂の二挺拳銃が前後不覚になるまで飲むところなど、ミハイルはこの半年で一度も見ていないのだが。

 

「やってらんねえ。俺もよ、地下酒場でギムレットでも飲みながら安楽椅子探偵になりてえやな」

「ホームズとマーロウの良いとこどりはやめましょうよ。大体バオさん、あなたマーロウよりは金持ちやってるでしょ。人間所与って言葉があるんですよ」

「ンだ、そりゃあ」

「人にはそれぞれ与えられたものがあるから、その中で頑張りなさいってことです」

「けッ。今度のスポーツくじに期待するか」

 

 どれほど高配当で当たったとしても店の修繕費で全額が吹き飛ぶ未来が見えたが、ミハイルはあえて言わなかった。お互いがわかりきっていることを言葉にするのは、時間と口の無駄遣いというものだ。

 会話を聞いていたのか、カウンターの端に座る客からギムレットの注文があり、くだらない会話は終わった。ミハイルは粛々と道具を用意する。

 

 カクテルとは難儀なものだ。ミハイルは常にそう考えているし、一度たりともこの飲み物を片手間に作ったことがない。

 たとえばショートカクテルの話をしよう。シェイクの力が弱ければ、中身がしっかり冷えないし、混ざらない。それに、細かな空気を含んだカクテルにならないので柔らかさが失われる。しかし、強すぎれば氷が砕けて味が薄まるし、混ぜすぎれば味が平凡になって飲む価値が消える。

 

 ミハイルは、こういった技術面に関してはそれなり以下でしかない。十代になる前の彼には、セルビア・マフィアの地下酒場と、そこで働く借金漬けのバーテンダーによる教練しか与えられなかったからだ。

 ロックの目――然程、肥えているわけでもないのだが――から見ても一流のバーテンダーと遜色ないのは、そういった経験を、鍛えられた肉体がしっかり支えている結果だ。

 

 幸いだったのは、ここロアナプラでそんなものを本当に気にする連中は、わざわざイエロー・フラッグになぞ来ないということだ。サンカン・パレス・ホテルのメインバーや、お抱えのバーを贔屓にするようなお偉い方々(・・・・・)が来ない以上、ミハイルの腕の稚拙さを嘲笑うような輩は存在しないも同じである。

 おかげで、こうして日々の糧を得ている。

 

 ミハイルは考える。

 未熟な自分の未熟なカクテルを心底嬉しそうに飲んでくれるベニーや、ビールがあればゴキゲンで乱痴気騒ぎを起こす人間が溢れるこの職場は、なんと居心地が良いのだろうと。過去の人生を基準とするならば、ここに辿りつけたことは、ナショナル・ロトに当たったような幸運だ。

 人にはそれぞれ、あるべきところがあるということなのかもしれない。自分にとっては、イエロー・フラッグがそれなのだ。今まで不幸と辛酸を舐めつくした分の幸せを、この穢れた街の片隅で手に入れていくのだ。

 

 きっと、それは美しく正当な主張で、そして、なかなかに気分が良くなる考えだった。

 不幸と幸福の量は等分であるという絵空事を遊ばせて、ミハイルは静かに微笑んだ。

 穏やかに、慈愛を込めて。どうか今日のような平和が、いつまでも続きますように、と。

 今まさにジョッキを相手の頭頂部に叩きつけたり、マウントを取って鼻の骨を殴り砕いたりする男たちを見ながら、彼は心底、そう祈るのだった。




 今回の更新は自信ないんじゃ。なぜなら、筆が進まないのを酒とジャズで勢いつけて書いたから。後日、加筆しないとは言い切れない。
 今日の後書きも控えめなんじゃ。なぜなら酒が入ってるから。
 これ教えて! とか、これ書いて! とか感想やらメッセやらで言ってくれれば、そこは加筆する。
 R18版の第一話はあらかたできてるけど、もっとできるだけねっとり濃厚に書くべきか、まあまああっさりめでいくか悩んでるから、そこの路線が決まったら手直しして投稿しますぞい。ぞいぞい!



以下、いつもの

ブラッディ・マリー
=トマトジュースとタバスコという謎カクテル。筆者は苦手。酔いに効くトマトと刺激のあるタバスコの組み合わせなので、酔い覚ましに飲む人もいる。筆者は苦手(大事なことなのでry)

ホームズとマーロウ
=ホームズはイギリスの高等遊民で、クトゥルフでいうならディレッタントが趣味で私立探偵をしている、いわゆる安楽椅子探偵の代名詞。たまにヤクもキメている。比べると、マーロウは生活のために探偵をやる貧乏人で、しかし自分の信念と男の生き様を貫く、市民的ハードボイルド探偵。まさにイギリスとアメリカの縮図、というのは言い過ぎか。
 ちなみに「ギムレットには早すぎる」だけでなく、「撃っていいのは撃たれる覚悟のあるやつだけだ」とかもマーロウのセリフ。


人間所与
=知り合いの牧師さんが言ってた造語。人にはそれぞれ所与がある、みたいに使ってた。それを自分なりに解釈した。所与って言葉を調べてみると理解しやすいと思われる。



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