艦隊これくしょん The Bridge 君でないとだめなんだ 作:Piyodori
メジロ泊地、昼下がり。基地の最高責任者であるマツエダ提督が留守であっても、基地ではいつも通りの日常が続く。那智は午前の仕事を終え、非番となった。今日も日差しが強く蒸し暑い。寮の自室に戻りすぐにガラス窓と鎧戸を開け放つ。部屋に籠もった熱気を追い出すため扇風機の電源を入れた。
上着を脱いでから、窓の外の遠い水平線へと目をやる。
――トビウメ、一体貴様は……
「いや、今そんな事を考えていてもなんの役にも立たない」
しばしぼんやりしてからはっと我に返った那智はそう独り言ち、無意識に手は棚のダルマに伸びかけて、すぐ手を引っ込める。
「違う! 今は酒ではない……。まったくどうしたことか……」
――ヤムヤム泊地に居たときは、こんなにだらしなくはなかったぞ……
那智は自分自身に呆れながら、なにか生産的な用事を見つけようと殺風景な室内を見回し、ふと視線は洋服ダンスの前にかけられた真新しいワンピースに向かう。しばしワンピースを眺める。今更ながら、那智は自分がマツエダに買ってもらったこのワンピースをとても気に入っていることに気づいた。不意にマツエダ提督の自分を見るやさしい眼差しを思い出し、那智は今更ながら頬が赤くなった。那智は一部の艦娘のように提督との色恋に強く興味を持つ性格ではなく、これまで共に戦ってきた多くの提督とはさばけた付き合い方をしてきたが、そんな那智でもマツエダ提督から普通以上の好意を寄せられていることに気付いた。
那智は困惑して姿見に映る自分の顔を確認する。顔を赤らめつつも唇は困ったように歪んでいるが、目尻はやや柔和に下がり、どこか毒気が抜けたような眼差しの色白の女が強がった表情でこちらを見つめている。まさに那智の心中がそのまま顔に出ていた。
那智は居住まいを正して、再び姿見に向き直った。那智は妹の足柄のように、あまり濃い化粧はしない。してもしなくても面貌がほとんど変わらないため、軽く紅をさす程度で済ませてしまうことも多い。足柄は、そんな那智を妬んで、いつもああだこうだ言うのだが、那智から言わせれば足柄も本来、ベタベタ塗りたくらなくても素顔は殆ど変わらない。ただ、足柄には自分のメイク手法にこだわりがあるようで、なかなか厚化粧をやめようとしないのだ。
ただ鏡の中の那智の顔は、慣れない環境での新生活と心労で、頬にやつれの筋が浮いている。
「何を呆けているんだ、お前は……」
那智は姿見に向かってつぶやくと、自分の最大の自慢である、サイドテールにしている足元に届かんばかりの艶のある黒髪を掴んで鼻元に近づける。
――この暑さだ。そろそろ洗髪しないとな……
那智は腕時計を見る。哨戒に出ている駆逐艦たちが帰る前に入浴する時間がありそうだった。那智は一念発起し、着替えや洗面具を準備すると艦娘用の浴場に向かった。
艦娘用の浴場は寮の同じ建物内の一階にある。まだ昼間で、非番の艦娘が入っている様子もなく。面倒な洗髪をしても迷惑になりそうになかった。
那智は入り口にかかっている暖簾をくぐり六畳ばかりの脱衣所で衣服を脱ぎ始めた。衣類を畳んでかごに入れ、体にタオルを巻いてサイドテールを束ねていたゴム紐を解く。黒髪がマントのように後頭部全体からゴザ敷きの床にまで広がった。このままでは自分で踏んづけかねないので後頭部でまとめようとしていると、洗面器や衣類袋を手にした高雄が暖簾をくぐって入ってきた。
「あら、那智さん。那智さんもこれからですか?」
「ああ。哨戒中の皆が帰ってくる前に済ませてしまおうと思ってな」
すると高雄は朗らかに笑い、わたしもですよと答え那智とは反対側の棚の脱衣カゴに服を入れるとブラウスを脱ぎ始めた。
那智は急いで自分の髪をまとめて浴室へ入ろうとしてふと、上着とスカートを脱ぎ、ガーターベルトに繋がったストッキングと下着姿なった高雄の肢体を一瞥する。上下とも緻密な装飾の入った黒い下着が、色白で肉感的な体を覆っている。女性である那智から見ても、魅力的であることはわかる。人に見せるわけでもない物のデザインには頓着しない、質実剛健を旨とする那智はまず選ばない種類の下着だ。
――そういえば、色こそ違え足柄が似たようなのを選んでいたな……
以前、似たような下着を足柄から勧められたことがあったが、自分には不似合いに思えて断ったこともあった。
――高雄のような大人しい艦娘でも、ああいうデザインを好むんだな……
那智はそう思いながら板戸を引いて湯気で曇る浴室の洗い場に入った。ヤムヤム島泊地と異なり、立派な浴室だ。那智は左壁に面したシャワーと蛇口の前に腰をおろし、ヘチマで体を洗い始めた。
那智と高雄。妙高型と高雄型。実際の巡洋艦としては親戚とも姉妹とも言える間柄だが、いざ艦娘として会ってみると、容姿も物腰もかなり異なると那智は改めて感じた。妙高型はどちらかといえばスレンダーで、「日刊青葉」では以前「連合艦隊最強のスーパーモデル姉妹」などとおちょくられたこともあった。そんな中でも足柄は姉妹の中でもっとも凹凸のある恵まれた体型で、実際に多く男たちの視線を一身に集めることも多い。一方、那智は姉妹の中でもっとも背が高く(といっても姉妹間での差は三センチ程度だったが)で無駄を削ぎ落としたようなすらっとした体型で、ことさら男性陣の視線をさらうようなことはなかったが、その事を不満に思ったことはない。自分は戦い義務を果たすことを何よりの喜びとしてきた。
――そういえば、あいつとはそんな艶めいた話をすることはなかったな……
那智はそう思いつつ体を洗い終え、髪を洗うことにした。解いた長い髪を平安時代の姫君よろしく洗面器にためて、シャンプーで毛先から根気よく洗っていく。
いつの間にか高雄も湯気の向こうの反対側の洗い場で体を洗い始めていた。那智は黙々と髪を洗いながら高雄型姉妹のことを考えた。確か妹の二番艦、愛宕も高雄同様、人を魅了するプロポーションで、確か写真集を出しているという噂を聞いたことがある。先の作戦で一緒に戦った三番艦の摩耶も姉ゆずりの魅力的な体型をしていたことを思い出した。
那智は髪を洗いつつ、肩越しに高雄を一瞥した。提督と指揮下の艦娘の関係は艦隊ごとに様々だ。那智から見て、高雄とマツエダ提督の関係は非常に良好に思える。二人はいったいどういう関係なのだろうと那智は考えた。上官と部下の間の忠誠心、ともに敵と戦うパートナーとして戦友愛、男性と艦娘としての異性愛、もしくはそのいくつかを含んだもの……。実際、那智の姉である妙高は、自分が仕える提督の公私に渡るパートナーとなり、指輪を交わし内縁関係にある。海軍内でも妙高は実施的にその提督に「嫁いだ」こととして扱われていた。
――わたしと貴様は一体、どういう関係だったのだろうな……
那智はそんな事を考えつつ長い髪を石鹸でこすり続ける。すると体にタオルを巻いた高雄が近づいてきて遠慮がちに声をかけた。
「あの那智さん……。もしご迷惑じゃなかったら、髪を洗うの、お手伝いしましょうか?」
すでに高雄は体も髪も洗い終えていた。どうも余計なことを考えていて手を動かすのが遅くなっていたようだ。
「え? あ? いや……」
那智は一瞬戸惑ったが、長居をしていては哨戒中の艦が帰ってきてしまうかもしれないので、やむなく毛先からリンスがけを頼むことにし、那智は急いで自分の頭を洗う。
まるで貴重な博物標本を扱うような丁寧さで、那智の髪をさすりながら高雄が言う。
「妙高さんの黒髪も本当に綺麗ですが、那智さんの髪も本当に艶があって綺麗……。憧れちゃいますね」
うっとりとした表情でそう言う高雄の顔を那智は思わず見上げた。この髪が自慢でないと言ったら嘘になる。那智は照れくさくなり、返答に窮した。
「いっそ高雄も伸ばしてみればいいではないか」
「確かに妹たちはロングにしていますが、わたしはきちんとお手入れできるかしら……」
高雄はそう言って、洗面器にためた那智の髪を優しくこすった。
高雄の手助けもあり、なんとか洗髪を終えた那智は再び髪をまとめてタオルで巻くと、高雄と並んで湯船に浸かった。
熱帯地域なので浴槽の湯はややぬるめに調整されている。それでも色白の高雄はすぐに上気して顔が赤くなりはじめた。
「立派な風呂場だな」
那智が浴室を見回しながら言うと、高雄は少し嬉しそうに笑う。
「ラボールやローリーの基地のようにはいきませんが、提督が艦娘の福利厚生は大事だとおっしゃって、予算を多く融通して建ててくれたんです」
那智は納得してうなずいた。
「高雄はマツエダ提督のもとについてもう長いのか?」
「二年になるくらいでしょうか? わたしは元々本土の連合艦隊直属だったのですが、技術部からもう少しでこの島に新しい提督が着任する模様だからと通達があって、それで派遣されてきたんです」
この不可解な世界の大きな謎の一つが提督の着任に関するものだった。新たに「前の世界」から提督が飛ばされてくる際には事前に軍令部隷下の技術部から着任見込みの知らせが発せられ、命令を受けた艦娘、泊地がその受入準備をすることになる。もっとも、どのような人物が来るのかは誰にもわからない。どうも部分的には妖精が関係しているとも言われているが、全ては理解の及ばない謎のベールにつつまれている。実際に那智もこれまで複数人の提督をそうやって迎えてきた。これまでの提督達のことを思い出し、那智は自身の心の古傷が痛むような感覚に襲われ、無意識に下唇を噛んだ。
――トビウメ……。貴様も、きっとわたしから去っていった大勢の提督の一人になるのだな
「高雄にとって、マツエダ提督は初めての直属の提督となるわけか?」
「ええ、そうなんですよ。実はわたし、着任するまで自分が秘書艦と旗艦として任務をこなせるか不安だったんです」
高雄はそう言って一度言葉を切った。
「わたしは前の世界で大きな作戦中に、眼の前で妹の愛宕と摩耶を潜水艦の雷撃で失いました。同じ時にわたしも魚雷を受けてしまって艦隊から落伍してしまったんです。ただ一隻残った鳥海は、その後間もなく進撃先で戦没し、結局わたしは最後の一隻となって戦闘不能な状態で敗戦の日を迎えたんです。お姉さんの妙高さんとはその時ずっと一緒だったんですよ」
そのことは那智も妙高から少しだけ聞いたことがあり、軽くうなずいた。
「わたし、その事がずっと負い目になっていて、時々塞ぎ込んでしまいたくなることがあったんです。それに引き換え妙高さんは、いつも凛としていて、前の世界でも今でも、わたしにとって憧れの先輩なんですよ」
那智はそれを聞き、自分の前世を思い出した。自分は姉妹の中で一番早くに戦没し、結局敗戦を見届けたのは長姉の妙高だけだった。自分も、姉に高雄と同じ重荷を背負わせたことはわかっていた。
「わたしは精一杯頑張るつもりで提督をお迎えしても、この不安と後ろめたさが消えなくて、提督が着任してからしばらくして、わたし、提督に自分の不安を話したんです。そしたら提督は『君はちゃんと乗っている人みんなを守りきったんだ。それはとても誇るべきことなんだよ』って、提督は私の前世のこともわかった上でそう言ってくれたんです。それを聞いて、わたし……」
高雄は頬を赤くしてうつむいた。
「こんな素敵な提督がわたし達の艦隊に来てくれて、ほんとに良かったって……」
そう目を逸して赤くなる高雄を見て、那智にもようやく高雄がマツエダ提督に対して、上官としてだけでない特別な感情を抱いていることがわかった。そして自分が再び良い提督の指揮下に入ることができたことを嬉しく思ったのだが、一方で自分が実は非常に難しい立場に置かれているのではないかという懸念も頭をもたげてきた。
「そうか……。高雄がそう言うなら安心だ。わたしも良い提督と艦隊に巡り会えてありがたく思う」
那智が言葉を選んでそう言うと。高雄は顔を赤くしたままにっこりと微笑み返した。
「ただいま~、衣笠さんのご帰還だよ~」
「衣笠さんおかえりー」
陽気な声とともに司令部の建物に戻ってきた艦娘の衣笠を清霜が迎えた。
「今日も暑いね~。みんなまだ係留作業中だけど、先にお風呂いただいちゃおうかな?」
衣笠が仰ぎながら言うと、清霜はうなずいた。
「大丈夫だよ。今、高雄さんと那智さんも入ってるみたい」
「ええっ?」
衣笠は思わずギクリとして浴場の方へ目をやった。
――あの二人が一緒に? だ、大丈夫かな?
とうてい、そんな気まずそうな場所に一人で乗り込んでいく勇気はなかった。
「あ~そうだ、いっけなーい。衣笠さん、もやいをちゃんと縛ったか確認してなかった。ちょっと見てくるね」
この艦隊でおそらく一番察しが良く、目端が利く艦娘の衣笠はいらぬ苦労を一人背負いつつ、不思議そうに目をパチクリさせる清霜をおいて再び桟橋へ戻っていった。
タロタロ泊地。上空の雲の流れが早く、泊地でも風がではじめた午前。錨泊中の艦の艦尾に掲揚された旭日旗がひっきりなしに揺れている。陸地に身の置所がないトビウメ提督はずっと湾内に停泊した重巡加古の士官室こもって、ただ時間が過ぎていくのを待っていた。
無事に修理が完了した長良、初風、早霜は近海の哨戒・警備の当番に加わり、誰かしら数日に一度、泊地から外洋へ出撃することになった。連合艦隊司令部は本土の軍令部に戦闘詳報の第一版を提出し、今後の方針について指示を仰いでいる最中で、泊地ではその返答までに急ピッチで損傷艦の修理が始まっている。
トビウメ提督は泊地から出ることが許されていないため、哨戒任務の監督に就くこともなく加古で過ごしていた。当初は秘書艦の不知火の艦で過ごしていたが、艦隊により居住性に優れる巡洋艦があるにも関わらず、無理に駆逐艦で過ごす事もないため、提督、不知火、加古の三人で話し合い、当面は加古で寝起きすることになった。不知火は提督が生活の拠点を移してしまうことに内心不満を抱いたが、不知火自身も秘書官の業務として恒常的に重巡加古に滞在することを加古に認めさせた上で承知した。
この日、日がな一日、廃人のように過ごしているトビウメ提督に動く機会を与えたのはジョギングから戻ってきた長良だった。
「朝のジョギングで山の上の中央病院まで行ってきたよ。山城さんと扶桑さんもあそこにいるんでしょ? 気晴らしにお見舞いに行ってきたら?」
昨日もらった戦闘詳報の写しを読んでさらに気落ちして、加古の士官室のソファから動こうとしなかったトビウメ提督は長良の声で身を起こした。
「じゃあ二人に会ったの?」
「ううん、外を一周して戻ってきただけだよ。わたしの足で二十分ぐらいだから歩ける距離だよ」
――絶対歩ける距離じゃない。くろがねを手配しないと……
長良あっけらかんとした様子で言うが、病院は島の山の上にあり、歩くにはちょっと骨が折れそうだ。
長良には、目が覚めたら考えると適当な返事をしてトビウメ提督は隣のテーブルで黙って麦茶を飲んでいた不知火にどう思うか尋ねた。不知火はしばらく考えてから言う。
「そうですね。司令も不知火も、今ここでじっとしていても、できることはありません。治療経過を把握するためにもちょっと見に行ってみるのも良いかと」
トビウメ提督はあまり気乗りしないものの、管理者としての責任もあるので、結局それを受け入れ、立ち上がった。
「司令官……、軍装では目立ってしまうわ……。平服で行かれたらいかが?」
不意にソファの後ろから低い声が発せられ、驚いて振り組むと薄暗い室内の影から実体化するように早霜が現れた。
――またか……
相変わらずぎょっとさせられるものの、最近ではトビウメ提督も早霜の『急襲』に随分慣れてきた。
「そっか……。それがいいかもしれないね」
トビウメ提督は身支度をするため居室として加古からあてがわれた艦隊司令室で外出用の防暑衣に着替えてから、加古の私室となっている艦長室のドアをノックした。
「加古、ちょっと山城さんの様子を見に、中央病院まで行ってくるけど、加古も行く?」
もう一度ノックしたが返事はない。どうもまだ寝ているようだ。
トビウメ提督は綿のサファリ帽を片手に甲板へと降りていった。内火艇へつながる舷梯の前には、不知火とともに早霜もそろいの麦わら帽子を被って待っていた。
「あれ? 早霜ちゃんも行くの?」
「ええ、お邪魔でなければ……」
「もちろん、いいよ」
そうして三人は内火艇で陸地の桟橋まで向かい、すぐに不知火が司令部庁舎へ行ってくろがね四起を運転手ごと調達してきた。桟橋で警備していた憲兵の一人がすぐにトビウメ提督に外出場所や目的を詰問してきたが、提督が事情を話した上に、不知火が恐ろしい顔で詰め寄ったので、憲兵はすぐに逃げていった。
三人は小さなくろがねにすし詰めになって乗ると、車はすぐに検問ゲートを越え市街地に出る。
タロタロ島は決して大きな島ではない。五分もせずくろがねは市街地を抜け山へ通じる未舗装のガタガタ道を登り始めた。
トビウメ提督は、ここしばらく海軍の仕事に追われて周囲に目を配る余裕が無かったが、この島も自然豊かで、カメラ片手散策に出かければ疲弊した精神も少しは癒やされそうに思った。両側が熱帯性の森林におおわれた山道をガタピシと十五分ばかり登ってくろがねはようやく白くきれいに塗装された木造の三階建ての洋館風の病院の前にたどり着いた。
運転手に礼を言って、三人は病院の正面玄関に向かう。後ろを振り返ると軍港や街が一望できた。
「結構登ったね。やっぱり歩く距離じゃないよ……」
――いい眺め。良いところにあるなぁ……
不知火によると、市街地や基地が爆撃にあった場合でも病院が巻き込まれないよう、あえて辺鄙なところに大きな病院を移したという。元は結核患者用のサナトリウムで、今でも一角が専用病棟になっているらしい。
「くれぐれも、サナトリウム病棟には近づかないでくださいね」
病院に入る前に、不知火は強くを念を押した。
「うん、わかってるよ」
トビウメ提督の生前の世界では、結核で死ぬことなど聞いたことがなかったが、この世界では依然、罹患すると重篤化する可能性もある深刻な感染症として恐れられていた。この世界の人々の食料事情や栄養状態は、艦娘達が活躍していた昭和初期の世界よりは良好のようだが、医薬品や医療の発達は追いついていないようで、特効薬のストレプトマイシンの供給が十分ではない。そのため提督らは艦娘から、結核にかからないようきつく注意されていた。
「ところで、艦娘も結核にかかるの?」
「当然です」
「でも人間と違って死んだりしないでしょ?」
不知火は呆れたように首を振った。
「確かに聞いたことはありませんが、第一号になるつもりはありません」
そりゃそうだねとトビウメ提督は納得した。
病院の受付で山城が入院している精神病棟の場所を聞き、閉鎖病棟となっている別棟の二階に向かった。厳重に施錠されたドアを何枚かくぐって閉鎖病棟へやってきた。出入りが規制されているだけで、特に変わった病棟ではなかったが、入り口越しに見えた男性向けの病室にはベッドに座りながら痙攣が止まらない者や寝転がったまま奇声を上げている者の姿が見えた。トビウメ提督はおぞましさにおもわず顔を背けた。
――あの人達には一体何が起きたのだろう?
早霜がどこかで聞きつけてきて判ったことだが、その病室に収容されていたのは、連合艦隊司令部付きで軽巡大淀に乗艦していた参謀などの司令部要員で、幸い命は助かったものの、大淀被弾の際の惨事を目の当たりにして精神にダメージを受けてしまった者達だった。
一行は看護師の先導で山城の病室へやってきた。そもそも山城に身体的なダメージはない。山城はベッドの上で背を丸め親指の爪を噛みながら、体育座りをしていた。
「くれぐれも刺激してはだめですよ」
看護師のおばさんはそう一同に念押しした。
「姉様……。姉様……。姉様……。」
光を失った濁った瞳で何処か一点を凝視しながら、相変わらずぶつぶつ呟いてる。
「チっ……。 ほとんど回復が認められませんね? ちょっと叩いてみましょうか?」
不知火が苛つきも隠さずそう言うので、トビウメ提督は慌てて制止する。
「や、山城さん……。わかるかい? みんなでお見舞いに来たよ。お土産にモモ缶を持ってきたから、あとで看護師さんに開けてもらって食べてね? !」
提督が小さい声で山城に恐る恐るささやきかけると、突然、山城の目に鋭い光が宿り、提督を睨みつけた。
「どこだ! 姉様はどこだ! もう騙されないぞ!」
「ちょっと! ぎゃあ!」
突然叫びだすなり、山城は狂犬のような表情でトビウメ提督の襟元に掴みかかった。恐れをなしトビウメ提督は派手に床に転倒した。それでも山城はまだ手を離さない。
「し、司令! 離せメンヘラ戦艦が! 早霜!」
不知火はそう叫ぶや山城を提督から引き剥がそうとし、すぐに早霜も加わり山城をベッドに押し戻そうとする。叫び声を聞いた看護師たちも駆けつけ、トビウメ提督はなんとか絞め殺される前に山城から解放され廊下に避難した。
「だから刺激しちゃだめって言ったでしょ!」
「いや、僕らは別に……」
看護師に怒られ、三人は得るものもないまま、ぐったりしながら閉鎖病棟をあとにした。
「開襟シャツのボタン二つもとれちゃった……」
「司令官、あとで付け直して差し上げます」
シャツをつまんでそう言う提督に、早霜はやさしくそう言って笑った。
三人はその後、一般病棟にいる扶桑を見舞った。扶桑は一見、ケガも無さそうなのだが、相変わらずベッドの天井に向かって一人で何やら話しかけている。
「山城ったら、駄目よ。缶詰はちゃんと缶切りできれいに開けるのよ。缶切りはどこにいったかしら~」
「扶桑さんも全然良くなってないね……」
もはや話しかける勇気も湧かず、トビウメ提督はげんなりした表情で言った。一方不知火はベッドに横たわる扶桑の様子をじっと観察してから首を振った。
「いいえ、少しずつですが回復しているようですね。見てください、あの艦橋、事故時より歪んだ角度がかなり小さくなっています」
「ええ? そうなの?」
「そういえば、昨夜から艦の修理が始まったそうよ……。船の修理が終わると、扶桑さんも良くなるかもしれないわ」
「そういうものなの?」
扶桑にもお土産の缶詰を持ってきたのだが、看護師や艦娘専門の医官によると、扶桑はまだとても物が食べられる状況ではないとのことで一行は病院を後にし、くろがねで港へと戻った。
内火艇で三人が重巡加古に戻ってくると、モップを手にした加古が血相を変えて上甲板へ駆け上がってきた。
「やっと帰ってきた! 提督、ぬいぬい! 士官室の舷窓、開けたまま出かけちゃ駄目って言ったじゃん! 士官室、波が入り込んでびしゃびしゃになっちゃったよ!」
「ぬ!?」「あ! そうだった!」
珍しく感情的に怒る加古を前に、不知火とトビウメ提督はしまったという表情で顔を見合わせた。
「この艦は喫水線から上の舷側が低いから、窓開けるときは注意してってあれほど言ったじゃん!」
万事ズボラな加古も自分の艦の窓の開け閉めだけは厳格に守っていた。というのも、舷側が低く設計されている古鷹型重巡は、ちょっと海が荒れるだけで窓を越えて海水が流れ込んでしまうため、開ける際は天候や周囲の状況に注意が必要だった。どうも加古は艦長室で寝ていたため、留守中に舷窓が開けっ放しであったことをしばらく把握できなかったようだ。
提督と不知火は深くため息をついた。
「ごめん加古……。ぬいぬい、モップを持ってきて」
「はい、司令……」
トビウメ提督と不知火は肩を落として士官室へ向かう昇降扉へ歩き出した。
「ねぇ、シモっち? あの二人どうかしたの?」
意気消沈した二人の背中を見ながら、怒りの鎮まった加古が早霜尋ねる。
「労多くして、実り少ない半日を過ごしてしまっただけですよ。もし加古さんが情けをお持ちなら、今日だけはお二人に優しくしてあげてくださいね……。フフフ……」
「あたしも、そんなに怒ってるわけじゃないし、これから気をつけてくれれば良いんだけど……」
加古は少し戸惑いつつ言った。
甲板を再び少し強い風が吹き抜けた。早霜の黒髪が一時的に風に翻弄される。
「昨日は窓を開けていても平気だったのに。少し時化てきたのでしょうか?」
「そうかなぁ? あたしの艦はちょっとの波でも水かぶっちゃうから、どうだろう?」
――湿った風……。嵐が来るのかしら?
早霜はそう思いながら外洋の方へ見つめた。
その後、四人はモップを手に海水が入り込んだ士官室の掃除に励んだ。
メジロ泊地。その日のローリー島からの定期便は定刻より三十分ほど早く泊地の上空にすがたを見せ、軍港に隣接した砂浜にある飛行艇用桟橋に着岸した。九七式飛行艇が白波を立てて着水するのを見て、秘書艦の高雄と、一緒に執務室で仕事をしていた那智は慌てて砂浜まで迎えに出た。
第三種軍装を着たマツエダ提督が手提げかばんと紙袋を両手にハッチから桟橋へと降り立つ。砂浜で高雄が深く礼をし、那智は敬礼して出迎えた。
「お疲れ様でした、提督!」
マツエダ提督は返礼しつつ大きな紙袋を二つ、那智へ手渡す。
「ただいま。これは向こうでクスミさんから頂いた間宮羊羹とクッキー。食堂の主計科に渡しておいて。那智君、すぐに呼ぶから、しばし食堂で待機していてほしい」
「承知した」
「高雄ちゃん、ちょっと一緒に来て……」
マツエダ提督は終始真顔を崩さずそう言うと、高雄を伴い執務室の方へ歩いていく。当然、那智は戦闘詳報に内容が気にって仕方がなかったが、言われたようにお土産が詰まった袋を手に食堂へ向かった。
そして十数分後。執務室で黒表紙綴じの戦闘詳報を手にしていた高雄は辛そうな表情で思わず口に手をやる。
「こんな事が本当に起きるなんて……。そんな……。これを那智さんに伝えるんですか?」
「そこなんだよ。どうするべきだろう? ここに書かれていることは、私はほぼ真実だと思う。ただ、那智君はこれを知ったらどう思うだろう」
執務机の向こうで、マツエダ提督は困った表情で言った。
「きっととても悲しむと思います。でも……いつまでも隠しておけることではないですし、そのまま知らせるしかないのではないでしょうか?」
「やはり、そうだな。私達は山城君がどういう性格か知っているから、こういう事が起きても、ありえない話じゃないと思えるが、原因があまりに突飛なんで、『実はトビウメ提督が航海中、山城へ良からぬいたずらをしたんじゃないか』などという悪い噂も出ているみたいだ」
「酷い……。もしもマツエダ提督にそんな噂が立てられたら、わたしとても耐えられません。でも、後で変なかたちで知るよりも、やはり今の状況をありのまま伝えるのが、那智さんにとっても良いのではないでしょうか? 艦娘と提督の間でもっとも大切なものはやっぱり信頼だと思っています」
マツエダ提督はうんと深くうなずいた。
「わかった。知っていることを全部伝えよう。那智君を呼んできて」
すぐに高雄が那智を伴い、執務室に戻ってきたので、マツエダ提督は戦闘詳報を那智へ手渡した。
那智は硬い表情で頷き、自分の机でゆっくりとページをめくり始めた。それからの数十分、マツエダ提督と高雄は固唾を飲んで、戦闘詳報を読み進める那智を見守っていた。あるページに入ってから、急に那智の額にじっとりと汗が浮かび、表情がひきつり始めた。顔色はみるみる紅潮していく。マツエダ提督にも高雄にも、それが恥じらいなのか怒りなのか、判別できなかった。さらに二ページほどめくると、那智の顔は急速に青ざめはじめた。黒表紙を掴む手もかすかに震えている。それを見守る二人も気が気ではない。その後那智は血の気が抜けたような白い顔で、淡々とページをめくり、報告書を最後まで読み終えて冊子を閉じた。
視線を落として深い溜息をついてから那智はいつにも増して硬い表情で立ち上がり提督の執務机の前にきて冊子を返した。
「全て承知した。わざわざのご配慮に心から感謝する」
那智はそう言って深く頭を下げた。
「私はこれが、この戦闘詳報がある程度、現場の真実を伝えていると考えているが、君はどう思う」
「わたしもこれは真実だと考える。実際、トビウメ アツオ提督は着任時から非常に船に弱く、未だ克服できていなかった。乗り慣れない山城艦上でこのようなことが起きることは、容易に想像できる」
「そうか。私達も山城君の性格を知っている。些細なことで人事不省に陥る可能性が大いにある。ただ……、なかにはその事を想像できない者もいるみたいだ」
マツエダ提督はそう前置きして、山城が行動不能になったのはトビウメ提督がなにか不道徳なことをしたからだという噂があることを伝えると、那智は顔を赤くし、初めて感情を顕にして大声をだした。
「そんなことはありえない! あの男は決してそんな真似できる男ではない。それだけは保証する!」
「那智さん、落ち着いて。わたし達もわかっているから……」
――まぁ那智君ならそう言うだろう
マツエダ提督は心の隅に起こった、トビウメ提督へのかすかな嫉妬心を払いのけてうなずいた。
「私はトビウメ提督のことを詳しく知っている訳では無いが、そう思う。それに山城君の扱い辛さもよく解っている。だから連合艦隊司令部と軍令部宛に、今回の事故は予見が難しく、避けられない不幸な事故で、決して提督が艦娘に狼藉を働いて起きた事件ではないと訴える上申書を提出しておいた。どこまでの意味があるかはわからないが、少しでも彼の助けになればいいのだけど……」
那智は少し驚いたような顔をしたが、すぐに真剣な表情で提督を見据えた。
「貴官のご配慮に心から礼を言う。また、今回わざわざこういう形で状況を伝えてもらい、御礼の言葉が見つからないくらいだ。本当に感謝する」
そう言って那智は深々とお辞儀をした。
「那智さん、そんな大げさなこと……」
那智は頭をあげると無理やり、辛そうな笑顔を見せた。
「着任以来、色々、前の艦隊に関して気を使ってもらい恐縮するばかりだ。ただ、わたしの今の居場所はこの泊地、艦隊にある。特別なご配慮は、これきりにしてもらいたい。わたしはこの艦隊のために全力をつくす」
那智はそう言って敬礼をすると退出を求めた。提督が許可すると那智はそのまま執務室を後にした。
「那智さん、ちょっと心配です。わたし見きます」
高雄がそう言って立ち上がった。
「提督、上申書の件、やっぱり提督はお優しい方ですね……」
高雄は顔を赤らめてそう言うと那智を追って出ていった。
一人残されたマツエダ提督は椅子の背もたれに深々と身を預けた。どっと疲労感が押し寄せてきた。これが最善の対応だったと自分に言い聞かせた。
那智は足早に自分の宿舎まで戻ると乱暴にドアを閉めて鍵をかけた。急いで鎧戸と窓を閉めてからベッドにある枕をひっつかんで思いっきりベッドマットに叩きつけた。ボフっと鈍く揺れるベッドマットに向けて、那智はあらん限りの声で叫んだ。
「あの……、大馬鹿者がぁぁぁぁ!」
那智はがっくりと床に肘を付きマットに苛立ちと羞恥心で真っ赤になった顔を押し付けた。
ドアの外では、心配になってついてきた高雄と、那智のただならぬ様子を目撃した衣笠が、突然のドア越しの絶叫に身をすくませて顔を見合わせる。
那智は荒く肩で息をしながら怒りの波の第一波が引くのを待って棚のダルマの瓶へ手を伸ばしかけるが、栓を開ける前に乱暴に瓶を棚に戻した。那智はしばらくベッドに身を預け、感情の波が凪ぐのを待った。動揺がおさまれば次やるべきことが見えてくる。
那智は一時間後、ようやく身を起こし、新呼吸をしてから机に向かった。そしてデスクライトをつけ、便箋と封筒、万年筆を取り出し、便箋にゆっくりと、言葉を選びながら筆を走らせ始めた。二時間後、ようやく手紙を書き終えた那智は茶封筒に糊を塗り、丁寧に封をする。
「トビウメ提督、無力なわたしがしてやれることは何もない……」
封筒を握りしめて、絞り出すような声で言った。
二日後。定期便の飛行艇が来る前に、軍用郵便と一般郵便の目録を高雄がクリップボードへ挟んで持ってきた。島の防衛の最高責任者である提督には、島と外部とのあらゆる私信や通信を検閲する権限があった。提督がその気になれば手紙や電話にプライバシーはない。もっとも今まで一度もその権限を行使したことはなく、その必要もなかった。ただ毎回、外部への郵便を送るのに提督の決裁が必要とされ、毎回機械的に印を押すだけだった。この日もそうだったのだが、マツエダ提督はその日送り出す軍用郵便の一覧の一行に、重巡那智の名前を見つけた。決裁印を押す手が一瞬止まる。
――那智君、まさかトビウメ提督に……
心中がざわついた。宛先は元々秘密でもなんでもなく、一覧表にすべて併記されている。那智の私信の宛先はタロタロ泊地にいる妹の重巡足柄宛となっていた。自分がちょっとホッとした気持ちになっていることに気付いた。正直なところ、手紙の内容がとても気になったが、このようなことで検閲なんてもってのほかだと自分に言い聞かせ、マツエダ提督は書類に決裁印を押した。仮に手紙がトビウメ提督宛だったとしても、中身を見ることは人として許されない。もやもやした気持ちにならずに済んだことにマツエダ提督は安堵しながらクリップボードを高雄の執務机に置いた。
その日の午後、メジロ泊地に飛来した二式飛行艇は那智の封書を収めた郵袋を積み、再び離陸すると東方のローリー泊地へ向けて飛んでいった。
なんか独りよがりなシーン展開が続きますが、とにかく話を進めます。
いやらしい雰囲気にならない色気のあるシーンってどう書けばよいのか、難しいですね。
古鷹型重巡は、実は居住性があまり良くなかったという話もあります。そういえば、舷窓のネタは公式4コマ「吹雪がんばります!」にも取り扱われていましたね。
次回は「(仮題)牡蠣と写真室」。