艦隊これくしょん The Bridge 君でないとだめなんだ 作:Piyodori
寝苦しい夜だった。普段から朝の寝起きが良くないトビウメ提督も、なぜか日の出間もない早朝に目が覚めた。狭い士官用個室では扇風機が回っているが、蒸し暑さは変わらない。そして湾内に少しうねりが出てきたのか、寝ている間に軽く船酔いしたような心持ちであまり気分がすぐれなかった。
昨日は楽しい夜だったはずだ。丸一日写真室で現像作業に明け暮れ、夜は絶品の貝料理尽くしの晩餐だった。トビウメ提督自身は腹七分目程度にしか口にしなかったが、自分の艦隊やナス、カメヤマ両提督指揮下の艦娘達は楽しい時間を過ごしたようだった。実際、夕食会が終わった時には、加古は完全に酔っぱらって寝てしまい、内火艇までトビウメ提督が加古を担ぎ、不知火が後ろから支え、なんとか重巡加古まで連れて帰る破目になった。担がれながら酒臭い息を吐いて寝言を言う加古を酔い醒ましに海へ投げ落とすよう、不知火は三度もトビウメ提督に意見具申したくらいだ。
加古を艦長室のベッドに放り出してから、トビウメ提督も個室に戻って床についたのだが、理由のない不安にさいなまれて夜更けまでなかなか寝入ることができなかった。
そしてこの朝は総員起こし起床ラッパが鳴る少し前に不知火も内火艇で重巡加古へとやってきた。
「おはようございます、司令。加古さんはまだ寝ているのでしょうか?」
甲板に立った不知火は敬礼すると、怖い顔をして艦長室がある艦橋構造物を見上げた。
「今日は荒潮と早霜が島の南方海域の警戒当番で〇九〇〇に出航予定です。また工廠で山城、扶桑の実質的な修理が今日から始まる予定です。司令は終日泊地待機で特別な予定はありません」
「はーい、了解。じゃあ九時になったら荒潮達を見送りに出よう」
「朝食がまだでしたらご用意します」
「じゃあ僕も手伝う」
二人が下甲板の厨房へ降りようとしたところで、不知火は陸の異変に気付き足を止めた。トビウメ提督が振り返り、どうかした?と尋ねる。
「なんか陸の上が騒がしいですね」
トビウメ提督も再びラッタルを上って甲板から顔を出した。
見れば、岸壁の上を多くの人々が慌ただしく行き交い、数両のくろがねが連なって大ドックのある方角に走っていくのが見えた。
「何事でしょう? 様子を見に行ってきます」
「うん、変なことじゃなければいいけど」
早朝で未だ頭がはっきりっしていないトビウメ提督はそううなずいた。
不知火が舷梯に足をかけたところで、重巡加古のそばに新たに内火艇が一艘近づいてきた。操舵席の風防の上から長良が顔を出す。
「大変! 大変!」
「長良さん……。お早いですね」
不知火が足を止め、トビウメ提督も声に気づいて左舷のヘリまでやってきた。
「ぬいぬい、提督、大変だよ! 工廠で集団食中毒だって! 陸では大騒ぎになってる!」
「しょ、食中毒?!」
提督と不知火は一瞬顔を見合わせてから、はたと思い当たり、みるみる表情が凍り付く。
――山城牡蠣!
二人は同時にそれを連想した。
「ああ~! だからあんなもの食べちゃいけなかったんだ!」
トビウメ提督は頭を抱えて叫ぶ。
「し、司令、落ち着いてください! まだ牡蠣が原因と決まったわけではありません。不知火は昨夜たくさんいただきましたが、異常はありません。長良さんも具合は大丈夫ですか?」
「ちょっと食べすぎちゃっただけで、わたしは平気だよ!」
長良が内火艇を加古の船体に沿わせながら叫ぶ。
「そうだ、間宮さんやカメヤマ提督達は大丈夫かな? お裾分けした牡蠣で具合が悪くなったら大変だ! 長良ちゃんは艦隊のみんなに異常がないか確かめてきて! 僕とぬいぬいは間宮さん達に会ってくる」
トビウメ提督の指示に長良は了解と敬礼すると内火艇のスロットルレバーを倒して駆逐艦たちの錨泊地へ向かった。トビウメ提督もすぐに制服に着替えると内火艇に飛び乗って、湾の中央にいる給料艦間宮へ向かった。
同じ頃、司令部庁舎の会議室では、朝一番に会議召集依頼で叩き起こされた連合艦隊司令部の幕僚らが不機嫌そうに会議室の机を囲んでいた。
緊急の会議を要請したナス提督とカメヤマ提督は真剣な表情で、潜水艦伊四〇一が晴嵐を使って撮影した偵察写真に写る脅威について説明した。フルカワ司令長官代理をはじめとする幕僚らにモノクロ写真を回しながらナス提督はいつもどおりの淡々とした口調で言った。
「早急に彩雲、もしくは陸軍の百式司令部偵察機による第二次偵察飛行の実施を強く要請します。我々は時間を無駄にしすぎたかもしれません」
幕僚連中の反応はそれぞれだった。写っている物の意味が分からず退屈そうに写真をめくる者もいれば、見るなり顔を青くして事態の深刻さを悟った者もいる。
参謀の一人はナス提督らに食ってかかった。
「カメヤマ提督、情報の抱え込みは控えるように散々申し上げたではありませんか! 何故こんな遅くになって」
逆ギレに近い言いがかりにカメヤマ提督も大声で言い返す。
「お前、今の話聞いていただろ! 写真班がいつまで待っても現像してくれなかったから昨日一日かけて、自力でやっと現像したんだ! 文句は情報部の奴らに言え!」
「情報参謀、一体、どういうことだ?」
フルカワ長官代理はすでに形勢不利を悟り、矛先を二人の提督から、フィルム現像を怠った情報部へと向ける。
「軍令部への報告用と広報部用に、主力艦隊付き写真班が撮ったフィルムの現像を最優先にしており、その……途中から持ち込まれたフィルムは後回しとなっていた関係で……」
情報参謀はしどろもどろにそう答えるしかなかった。主力艦隊の『奮戦』をアピールするための写真の現像を優先するよう指示したのは連合艦隊司令部なのだが、情報部は即席のスケープゴートにされたようだ。
「いい加減にしろ! 済んだことより、今すぐどうするかだ! 滑走路なんか造られたら、ここも毎日空襲されるようになるんだぞ。今の航空戦力じゃとてもここらの制空権、支えきれないぞ!」
カメヤマ提督が司令部内の責任の擦り付け合いを制するように怒鳴る。
「落ち着け、カメヤマ提督。貴官らの申し立ては分かった。すぐに軍令部に報告するとともに、近隣から偵察機を手配するとしよう」
深刻さが一同に理解され始めたようで、フルカワは不機嫌そうな顔をしつつもそう請け合った。それを受けナス提督は静かな口調でフルカワに畳みかける。
「また、これだけの陸上戦力を荷揚げしたとなると、ブ島の残留陸軍兵らもさらに危険な状況に追い込まれたことになります。連合艦隊としても急ぎ対応方針を定める必要があるでしょう」
「当然だ。それも軍令部に報告の上で対応策を練るとしよう。我々としてはこれ以上損害を積み増さないよう、各艦隊にあっては細心の注意をもって警戒活動にあたるように」
フルカワはそう言ってその場を収めた。
その時、会議室のドアが慌ただしく叩かれるとともに、基地の事務要員が慌てた様子で会議室に入ってきた。
「報告します。ただいま基地医療衛生部より知らせがあり、海軍工廠で大規模な集団食中毒が発生した模様です! 現時点で工廠の作業員数十人に深刻な下痢と嘔吐の症状が認められ、工廠はほぼ稼働を停止しています。また患者数が多いため衛生兵だけでは対応できず、市街地の民間医療関係者に支援を求める必要があるとのことです」
「なんだと!」
「おい、こんな時に冗談だろ……」
突然の事態に会議室内は騒然となった。それ以上に驚いたのはナス提督とカメヤマ提督だった。二人は目を丸くしてお互いの顔を見る。
「ナスさん、お腹、大丈夫ですか?」
「ええ、何も……。カメヤマ提督は?」
「いや、自分も平気です……。まさかとは思いますが、艦娘達の様子も急いで確認しないと」
二人は足早に混乱に陥った会議室を後にした。
同時刻、タロタロ島の海軍工廠一帯はある意味で「地獄絵図」のようだった。食中毒の症状を見せたのは工廠作業員全六十余名中、約四十名で、工廠作業員用宿舎の周辺から大ドック建屋までのいたるところで、作業員が寝そべって腹部を抑えながら悶えていた。ドックの周辺で呻きながら寝そべっていている連中は、昨夜深酒してドンチャン騒ぎの会場でそのまま寝てしまい、眠っている間に具合が悪くなって動けなくなった者達だった。主な症状は強烈な腹痛と止まらない嘔吐と下痢で、工廠を「地獄」に変えたの、まさにそれだった……。集団食中毒の罹患者は数十人規模に及んだが、工廠にも作業員宿舎にも患者全員を同時に受け入れられるだけトイレの個室は存在せず、トイレの周辺では人間同士の、最も切実で醜い争いが繰り広げられた。ただ食中毒の病魔はトイレの個室の数など斟酌してくれず、運良く個室に立てこもれた少数の者を除き、ほとんどの者はその周囲で猛烈な腹痛に襲われ、もだえながら悲惨な末路を辿った……。
赤十字マークを付けたくろがねに乗って駆け付けた軍医や衛生兵らは、一目見て事の重大さを認識し、全艦娘に工廠とドックへの立ち入りを禁じた。とても艦娘に見せていい惨状ではなかったからだ。そして関係者は後に語る。艦本体をドックで修理中だった扶桑と山城の艦娘二人が、山上の病院で人事不省であったことは不幸中の幸いであったと……。
軽巡娘の大淀はその朝、昨日より幾分晴れ晴れした気持ちで目を覚まし、起床ラッパとともに自分の艦から内火艇を駆って上陸した。
――明石と話して、少し気が楽なったわ。あとでありがとうを言いに行かなきゃ
「牡蠣も本当においしかったなぁ……」
大淀は久しぶりに表情を崩して、やわらかい笑顔で独り言を言った。
大淀は内火艇を桟橋に付けて、岸に上がったところで周囲の異変に気付いた。
「山之上病院からも応援を要請しろ。体育館と空いてる倉庫も臨時病棟にできないか確認するんだ」
「大量の生理食塩水が必要になるぞ。今から余計に作っておく必要があるな」
周囲では衛生兵や医官、医務員らが右往左往し、赤十字マークを付けたくろがねがサイレンを鳴らして走り回っている。
――大変! 何が起きたのかしら?
大淀はすぐに近くに係員を捕まえて事情を尋ねた。
「どうも集団食中毒のようです。軍医が今、昨夜の食事を確認中です」
大淀はそれを聞き驚いて大ドック建屋の方を振り返る。そしてすぐに昨日明石からもらった牡蠣に思い当たり、思わず自分のお腹に手を当てた。
――わたしはどこも悪くないけれど……。そうだ、明石が無事か確かめないと!
大淀はすぐに桟橋にとって返し、内火艇で工作艦明石へ向かった。
大淀は内火艇の操舵輪を回して、停泊する工作艦明石に近づき、右舷の舷側に張り出した係船丈に内火艇を寄せたが、どういうわけか係船丈は突然、ひとりでに収納状態に折りたたまれてしまった。大淀は眼鏡の奥の目を細める。
――今の何かしら?
まるで自分の乗船を拒むかのようだ。その疑念を裏付けるように、舷側に海面近くまで降ろされていた舷梯も突然、金属のきしむ耳障りな音を立てながら上甲板の高さまで持ち上げられてしまった。これは完全に意図して大淀の乗艦を拒もうとしているのだ。
「一体、何やってるのよ……」
大淀はあきれつつ、舷側に垂れた縄梯子に内火艇を結び付けて、使い古された荒縄の縄梯子をつかむ。素手でつかむとざらざらして少し痛いうえに、無理な姿勢で昇っていると海風でスカートがまくれ上がってしまい、抑えるのに一苦労し、ようやく甲板に這い上がった時には、大淀はすっかり腹を立てていた。
「ちょっと、明石! 一体どういうつもり!」
大淀はそう言って明石の第一甲板から艦橋構造物へと入り艦長室に向かったが、艦長室には布団や制服、作業着などの衣類が乱雑に脱ぎ散らかしてあるだけで、艦娘の明石の姿は見えない。
大淀は怪訝な表情で居住区のある下甲板へ降りていった。薄暗い廊下をしばらく進むと、廊下の角からうめき声とともに、すえた酸っぱい悪臭が大淀の鼻をついた。
「明石! 明石! どうしたの?」
大淀がそう問いかけ近寄ろうとすると、奥から明石の悲鳴が響いた。
「ああ~、大淀、お願いだから来ないでぇ~」
「はぁ? 何言ってるのよ。明石? え?」
大淀は声を無視して廊下の曲がり角を越えて、思わずただならぬ状況に足を止めた。そこには廊下の真ん中にハンモックをつるし、その上で腹部を押さえて身をよじっている寝間着姿の明石がいた。顔は真っ青で脂汗がつたう。ハンモックの下には吐瀉物で一杯のオスタップや洗面器が転がっている。
「明石、大変じゃない!」
「だめ! それ以上近寄っちゃだめ!」
「明石、どうしてこんなところで……」
大淀は困惑を隠せぬまま、明石の強い制止により足を止める。
「その……、じ、自室からじゃ、とても間に合わなくて……」
「え?」
そこがトイレの前であることに気付き、大淀は赤くなった顔を背けた。
「大変、明石もやっぱり食中毒じゃない! すぐに軍医さんに連絡しないと!」
「やめて! 寝ていれば治るから、誰にも言わないでぇ~」
明石が顔を覆って言う。
「だめよ! それにしても、なんでこんなことに……」
本気になって心配する大淀に明石は精一杯の笑顔を作る。
「大淀は無事そうね……。よかった……。昨日の牡蠣どうした?」
「牡蠣? グラタンにして食べたけど。とても美味しかったからお礼を言おうと思ったら、こんなことになってて……。工廠でも大勢倒れて大変なことになってるし」
「くぅ~、何気に女子力高いもの作ったじゃない。こうなるんだったら、あたしも大淀の所にいけば良かった……」
「牡蠣のせい? 明石は、どうやって食べたの?」
「焼牡蠣と牡蠣汁……。あと生でもちょっと……」
大ぶりの牡蠣六個が「ちょっと」かどうかは意見の分かれるところだが、大淀はそこまで聞いて全てを察した。
「生で食べちゃだめって言ったのは明石じゃない! ああ~もうバカ明石!」
「お、おいしそうだったから……」
明石は弱々しくごまかし笑いを浮かべ、大淀は呆れ半分、怒り半分で肩を落とす。
「大淀~、あたし達、親友同士でしょ? 後生だから何も言わずに今はそっとしておいて。お願い~、二~三日寝てれば良くなるから」
「そんなのダメよ! 急いで治療しないと!」
「やだやだ~、こんなの恥ずかしすぎ……うぉぉぉああああ……」
そこまで言い掛けて明石の顔からサーっと血の気が引く。明石は身をよじって床に転げ落ちると床をはうように、目の前のトイレへと飛び込んだ。
明石の悲惨な有様に大淀はしばし絶句していたが、我に返ると、すぐに助けを呼ぶため上甲板へ駆け上がった。
明石の願いもむなしく、大淀の通報により三十分後に衛生兵により担架で仮設病院へ「連行」された。
「山城牡蠣」。食中毒にかかった工廠の作業員の口々から漏れるキーワードから憲兵隊がトビウメ提督へ辿りつくのにそう時間はかからなかった。
内火艇で給糧艦間宮を訪れたトビウメ提督と不知火は、いつも通り甲板上で間宮が主計課の要員らとてきぱき働いている姿を見て胸をなで下ろした。
「あら? トビウメ提督、不知火ちゃん、おはようございます。昨日はごちそうさまでした。主計課の皆さんも大喜びでしたよ」
間宮はいつもと変わらず、二人に優しく微笑んだ。
トビウメ提督は、かくかくしかじか工廠の状況を伝えると、間宮は驚いた表情で手に口を当てつつ首を振った。
「具合が悪くなった人なんて誰も……。ナス提督もカメヤマ提督も、今朝早くお会いしましたが、二人ともお元気そうでしたよ」
「それを聞いて安心しました。もし体調に異変が出た人がいたら知らせてください」
提督と不知火の二人は間宮に、昨日のお礼とお詫びともども何度も頭を下げて内火艇へ降りてきた。
二人はより正確な状況を把握するため、基地の内火艇桟橋へ舳先を向けた。
ポンツーンに内火艇を縛り、二人が内火艇桟橋から司令部へ向かおうとするところでくろがね四起がクラクションを鳴らして近づいてきた。
「トビウメ提督であるか! 汚染された食品を配布した嫌疑で同行してもらう!」
助手席から憲兵が飛び降りて大声で怒鳴った。
一瞬びっくりしたものの、トビウメ提督は空を仰いでため息をついた。
――ああ、またこうなるか……
食中毒発生の報に接して以来、いずれ自分に追及の手が及ぶことは薄々予感していたため、トビウメ提督は半ば諦めの境地で憲兵に向き合った。
「はい、そうですね……。ぬいぬい、すぐ戻るからみんなをよろしく……」
ここ数日で何度目になるかわからない言葉を発したトビウメ提督の両腕を兵士二人が左右から掴む。本来、そこで何も起きてはいけないはずだった。トビウメ提督にも憲兵隊、両者にとって不幸だったのは、その場にトビウメ艦隊の忠実な秘書艦、不知火が居合わせていたことだ。
元来気性の激しいこの駆逐艦娘は、第二次ブーメラン島沖海戦以後の度重なる、憲兵と司令部によるトビウメ提督への狼藉に怒りを募らせてきたが、事ここに至り、これまで抑えてきた怒りを爆発させた。元々ツリ目気味の双眸はさらにつり上がり、口元は左右非対称にゆがみ白い手袋に包まれた両手は固く握り締められた。
「司令に、汚い手でぇ、触れるなぁぁぁぁあ!」
絶叫とともに不知火の肘が、トビウメ提督の右腕を掴んでいた兵士の背中にめり込み右腎臓を押しつぶす。兵士が白目を剥いて倒れる前に、今度は左の兵士の脇腹へ渾身の肘鉄を決め、兵士のあばら骨がまるでスティック菓子のように砕けた。
「ああ~、ぬいぬい止めて!」
トビウメ提督の叫びも空しく、不知火は兵士の手にしていた三八式歩兵銃を奪うと銃身を掴み、リーダー格の制服の憲兵に襲いかかった。
後になって振り返ると、この乱闘(あまりに一方的でそう呼ぶのが適切かどうかはさておき)により幸い死者が出なくて済んだのは、兵士の持つ小銃が前回と異なり、着剣状態ではなかったこと。そして泡を食った憲兵が南部十四年式拳銃をホルスターから引き抜くのが遅かったという幸運によるものだったろう。憲兵が驚愕の表情とともにベルトにとめた革のホルスターの蓋をいじっている間に、小銃を手にした不知火がまるでホームランでも打つように憲兵の側頭部めがけてフルスイングで振り抜いた。ウォールナットの銃床が風を切り、ゴキッという嫌な音をたてて憲兵は人形にように声も上げず転がった。
不知火は、最後に残ったくろがねの運転席にいた兵士の襟首を掴み、その頭を何度もハンドルに叩き付けた。
「ま、間に合わなかった…」
そんな不知火を呆然と見ながらトビウメ提督はつぶやいた。ゴキッ、ゴキッと不気味な音が鳴るたび兵士は悲鳴を上げるが、しばらくすると悲鳴も上げなくなり、不知火はぐったりした兵士の頭を機械的にハンドルへ叩き付け続けた。
一分もしないうちに、血相を変えて駆け付けた日向が、不知火を気の毒な運転手から引きはひきはがした。幸い運転手の頭蓋骨にハンドルがめり込む前に解放されたが、哀れな運転手はぼろきれのように力なくハンドルに突っ伏した。
「トビウメ提督……。ちょっとばかり、困ったことになったな……」
怒り未だ冷めやらず肩を震わせる不知火を抱きかかえながら、日向が気の毒そうに言う。
トビウメ提督は呆然とした表情で死屍累々の状況を見回し、何度かうなずいて見せた。
「これから僕の方から、司令部に出頭します。どうか不知火を頼みます」
「司令、それはいけません!」
「ああ、承知した。不知火はしばらく私が預かろう」
腕の中でもがく不知火を押さえながら日向がうなずくと、トビウメ提督は司令部庁舎の方へとぼとぼ歩き出した。
夕方、足柄が岸壁を歩いていると、先の海戦で重巡足柄に乗艦した若い提督と出くわした。その提督は相変わらず調子の良さそうな口調で足柄に話しかけた。そういうノリが決して苦手ではない足柄もしばし談笑していると、その提督は思い出したように今朝からの工廠の大騒ぎについて口にした。
「そういえば、工廠の作業員の大量食中毒の件、知ってるでしょ? さっき聞いたら、原因はまたあのトビウメっていう提督のせいらしいって言ってました。なんでも傷んだ生牡蠣をあちこちにばらまいて、それを食べた人は皆、体調がおかしくなったって。何考えてるんだか解りませんが、どこまで行っても足引っ張ってばかりの奴ですよね」
足柄は驚きを隠せず聞いていた。朝から工廠が騒がしく、何か事件が起きたことは知っていたが、まさかそんな酷い理由とは思っていなかった。
「おまけに配下の艦娘もイカれてて、事情を聞きに来た憲兵隊員四人を半殺しにしたらしいです」
「ええ~、そ、それで提督はどうしたの?」
「なんか自分から司令部に出頭したみたいですよ。逃げられる訳もないですからね。今は捕まってるみたいですけど」
さすがの足柄も、その悲惨な成り行きに言葉を失う。
――姉さんがそんな話を聞いたら、一体どんな顔するかしら?
足柄はそう思い、思わず心に痛みを感じたが、その痛みは次第に怒りに変わってくる。
「じゃあ足柄さん、今度また時間見つけて美味いものでも食べに行きましょう」
「ええ……、そうね、是非」
足柄は笑顔でそう言って、その提督と別れると湾内の停泊中の艦船群に顔を向けた。
「バッカじゃないの……。姉さんを裏切るからそういうことになるのよ……」
足柄はそう言い捨てると、内火艇桟橋の方へ歩いて行った。
「だからぁ、俺たちは散々っぱらその牡蠣食ったけど、誰もなんともないって言ってるだろ!」
じっとりとした湿気と熱気に満ちた室内で、カメヤマ提督がサングラスをとり、何度目になるかわからないその言葉を繰り返した。
「ですから、工廠の食中毒の症状が出た作業員全員に確認をとってから判断すると言っているんです!」
日も沈んだ頃、連合艦隊司令部とカメヤマ提督、ナス提督は司令部庁舎の大会議室でひとしきり応酬を繰り広げていた。ドックや工場で艦船の整備の一切を預かる工廠部の作業員約六十余名のうち、実にその三分の二に達する四二名の作業員やその管理者が重篤な食中毒により稼働できなくなるという重大事が発生し、どういうわけか、牡蠣の発生元である戦艦山城の現在の指揮官であるトビウメ提督に真っ先に責任追及の矛先が向けられることになった。
トビウメ提督は司令部に出頭後、聴取に応じているが、トビウメ提督の身柄が拘束されたと日向から知らせを受けたナス提督とカメヤマ提督は急ぎ、司令部の事実誤認を正すために庁舎まで詰め寄って今に至る。
司令部とのやりとりは終始食い違いが発生した。工廠が保守点検や修理の際に、牡蠣や貝などの艦底の付着物を優先的に手に入れている慣習は一般的に知られていたものの、今回は食中毒の原因となった「山城牡蠣」の供給元である工廠の責任者達が、工作艦娘の明石を含めて軒並み重い食中毒に罹患してしまったため、司令部も憲兵隊も、工廠の責任ある者から聴取をすることが困難だったため、事実関係の確認ができないでいた。それに、第二次ブ島沖海戦で致命的な失態を演じたトビウメ提督が、事もあろうに問題の戦艦由来の牡蠣で集団食中毒を引き起こさせたというストーリーは、事情を知らない者らには非常に受け入れやすいものだった。
「そもそも、けしからんのは、そんな大量の牡蠣や貝をなぜ我々にも回さなかったのだ。いや、そんな危険なものを貰わず幸運ではあったが、相応の量を司令部にも提供するのが筋ではないのか?」
食い物の恨みは恐ろしい。責任の所在以前に、フルカワ司令長官代理が嫌味ぷんぷんの口調で言った。幸いナス提督もカメヤマ提督もあてつけの矛先の当事者ではないのでシカトを決め込んだ。そもそも、そういう美味しいところは普段、すべて工廠内で消化してしまうのが慣例で、本来司令部が関知するべき事ではない。
ナス提督は続けて言った。
「それはともかく、問題なのは、司令部や憲兵隊による我々提督に対する権限を越えた取り調べや拘束などの行為です。我々は軍隊のようだが、内実は軍隊ではない。司令部や軍令部への隷属は一定の範囲内でのこと。それに、トビウメ提督には先の海戦での行動に一定の瑕疵はあったものの、憲兵隊が問題とするような犯罪行為や背信行為は一切認められなかったはず。行き過ぎた越権行為は、後々、あなた方の命取りになりますよ」
ナス提督はいつもどおりの静かな口調だったが、その言葉には強い非難の刃が隠されており、司令部一同は動揺を隠せなかった
「わ、我々を恫喝するつもりか!」
「そ、そもそも、憲兵隊が同行を求めたとき、トビウメ艦隊指揮下の艦娘が憲兵隊を不当に攻撃し、士官一名が重体、兵三名が重傷を負ったといううではないか! これは明確な反乱と認められるぞ!」
参謀らが苦し紛れに叫ぶ。それを聞いてカメヤマ提督は薄笑いを浮かべて首を傾げた。
「おれのところ艦娘から聞いた話とは違うな。阿保な憲兵が艦娘に因縁つけて返り討ちにあったって聞いたぞ。おれは私闘だと思ったけどな」
フルカワ長官代理は苛立ちを隠さず部下に聞く。
「その容疑者の艦娘はどうしたんだ? 憲兵隊も事情を把握していないのか?」
「軍医によれば憲兵隊員四名は全員、口の利ける状態ではありません。それに被疑者であるトビウメ提督の秘書艦、駆逐艦不知火は姿をくらまし、行方が判っていません。自分の艦にも戻っていないようです」
ナス提督とカメヤマ提督しか知らないことだが、不知火は日向に連れられ今は戦艦日向内に匿われている。
会議室のドアがノックされ、扇風機だけが回る室内に艦娘の間宮と大淀、それに軍服に赤十字の腕章を巻いた衛生部長である軍医が入ってきた。
三人は室内の一同に敬礼する。それから軍医が姿勢を楽にして話し始めた。
「まぁ暫定報告ということになりますが、海軍工廠における集団食中毒事案について、患者や関係者への聴取、また臨床を通じて状況の把握と病因の特定に努めました。その結果、工廠職員六十三名、うち食中毒罹患者、症状の重い軽いは様々ですが何らかの病状を発現したる者四十四名、艦娘一名です。これらの者はいずれも昨夜、工廠内で艦艇修理の際、戦艦山城の艦底から除去した牡蠣をはじめとする貝類を食していたことが確認できました。一方、牡蠣は工廠から工作艦明石を通じてトビウメ艦隊へ、また同提督から主計課やカメヤマ提督隷下の潜水艦隊、ナス艦隊へ、また明石から軽巡大淀にも提供されたことが確認されました。ただ、工廠部以外の人員、艦娘で牡蠣や貝類を食した者で食中毒の病状を示す者はおらず、また工廠部の作業員のうち七名は昨夜、牡蠣などを食したと証言しつつも、現時点で体調異変の訴え出ておりません。当初我々は貝毒の可能性を疑いましたが、それらの事から最終的に、何らかのウィルスに汚染された牡蠣を生食したことによるものとの仮説に至りました。その証拠に、工廠の七名、さらに明石から提供を受けたトビウメ艦隊や主計課など、工廠外の者はいずれも加熱調理した牡蠣や貝類のみを食していたことが確認できました。どうも工廠部は外部へ提供する際、必ず加熱調理するよう注意喚起したようですが、自分達がそれを守らなかったようですな」
軍医が一度言葉を切ると、室内の参謀らは口々に不満や非難の言葉を口にして室内は騒がしくなった。
「戦局が厳しい時に、工廠は何をやっとるんだ!」
「こんなことが軍令部に伝わったら大事だぞ……」
そんな声が漏れる中、フルカワが質問する。
「衛生部長、患者の病状は? 回復にはどれほどかかる?」
「多くが下痢や嘔吐、腹痛、一部で発熱や悪寒などの症状を呈しています。軽い者なら二日から三日、中程度なら五日から七日養生すれば回復すると見ておりますが、一部には重篤な者もおり、より時間がかかるでしょう。また御存知のように、南方地域における下痢は、急速な脱水症状をもたらし命に係わる軽視できない症状なので、集中的な治療や薬剤の投与が求められ、一時的に島内の医療班、衛生部の人員の協力も仰がねばなりません」
「こうなると、工廠は実質、麻痺状態になったと見てよいでしょうね」
参謀の一人が言い添えた。
「お判りのように、今回の事態は一重に工廠部に責任が帰属する者でトビウメ提督には何ら責任は無いことが明かになったと思います」
「もしトビウメ提督に責任があるんでしたら、牡蠣の提供を受け、調理をしたわたくし達主計課も責任を問われてしかるべき事案ですわ」
ナス提督の言葉に呼応して間宮もはっきりとした口調でそう主張するので、司令部要員達は一斉に困惑の表情を浮かべた。いくら連合艦隊司令部といえども、いたずらに間宮と衝突することは避けたいことだった。艦隊のアイドルとして甘味、嗜好品の供給を一手に引き受ける間宮を敵に回して、もしそれらの供給が滞った場合、艦隊は深刻な士気の低下、ひいては艦娘らから司令部が想定外の突き上げを食らう可能性を恐れていた。
「長官、原因は明白です。今は責任追及よりも、迅速な工廠機能の回復を図るべきだと、大淀はここに進言いたします」
いつもは司令部の面々に及び腰の大淀も今日は毅然とした口調で言うので、フルカワは渋い表情ながらうなずいた。
「事情はわかった。トビウメは放してよし。この責任は工廠に帰属するが、事態の深刻さ、また周辺の基地や戦に与える動揺、影響を鑑み、司令部一任で不可抗力的な事故として処理する。また軍令部への報告も同様にし、食中毒の原因、経緯については島外秘でかん口令を敷く」
工廠部の責任は泊地司令部、ひいては連合艦隊司令部の監督責任が問われる可能性があり、スケープゴートのでっち上げに失敗したとあっては、もみ消すほうが楽だと判断したのだ。
話が一段落したところで、間宮が会議室の外に声をかけると、艦娘の伊良湖がおかもちと魔法瓶を手に会議室に入ってきた。
「さぁ皆さん。お疲れになったでしょうからお口汚しに甘いものでもいかがですか? 特別に最中をご用意しました」
間宮は一転明るい声音で室内の面々に言う。これまで難しい顔をしていた司令部連中も嬉しい驚きとともに表情を崩し、室内は急に和やかな雰囲気に変わった。
間宮が一人ひとりに小皿とともに錨のマークが入った最中を配り、伊良湖が魔法瓶から湯呑茶碗へお茶を次いで給仕する。
「今夜も暑いので冷茶にしました。お茶のお代わりが欲しい方はお申し付けください」
ナス提督とカメヤマ提督も会議室の隅にある椅子に腰掛け、最中と茶碗を受け取った。
「間宮さん、ありがとうございます」
最中の乗った小皿を手渡す間宮にナス提督が小声で言うと、間宮はにっこりと笑う。
「いいえ、当然のことをしたまでですわ」
甘い物は人を幸せにする。室内は蒸し暑いながらも一時、穏やかな時間が流れた。参謀連中は冷たいお茶で喉を潤しながらしばし、戦況や先の海戦の分析など、それぞれの世間話に興じた。
「ところで長官代理、今朝依頼した偵察機の件、うまくいきそうですか?」
カメヤマ提督がフルカワに尋ねると、その会話が多くの者の注意を引いた。
「ああ、状況が状況だからな、すでに一番近くにいた陸軍の高速偵察機をこちらに回してもらうことになった」
「そりゃ、ありがたいです」
それを聞いていた参謀の一人が首を傾げながら言った。
「しかし、深海軍はすでにあれだけの兵力をブ島に揚陸しているにも関わらず、北部への総攻撃はまだ始まっていませんし、兵力布陣にもその気配はありません。一体何を躊躇しているのか……。まるで生殺しですよ」
「確かに、先の作戦でも、変な言い方ですが急に力を出し惜しみするように、敵の攻勢の勢いが急に衰えたりと、正直、意図が未だによく判らないな」
「大攻勢の前触れの可能性は? 一挙にブ島だけでなく、シューズ・ベラやここタロタロを含む最前線の島々を一斉に攻撃する準備をしている可能性もあります」
「そのためにも、今のうちに第三次作戦をもって敵に打撃を与えないといけませんね」
参謀連中の会話を聞きながらカメヤマ提督とナス提督は顔を見合わせた。
「もう一度、戦闘詳報や通信記録を整理しておく必要がありそうですね」
「うちの大鯨にうちの潜水艦の通信記録なんかを整理させておきます」
冷茶をすすりながら、二人は口々に言ってうなずいた。
同じ頃、トビウメ提督はGF司令部による聞き込みから解放され、庁舎の玄関からよろよろと歩き出た。度重なる不運にすっかり憔悴しきって
外へでると、出入り口のひさしの下の石段に初風が腰かけていた。
「遅かったわね、司令官。迎えに来たわ」
「あ、初風……」
「しゃきっとしなさい。何にも悪いことしてないんだから、胸張ってればいいのよ」
そう言うと初風は白手袋を外しトビウメ提督の手を握って歩き出した。
「実は荒潮も来たがっていたけど、哨戒任務で代わりにわたしが来ただけだから別に……司令官のこと心配して来たわけじゃないのよ」
「ぬいぬいは?」
「大暴れしたせいで完全にお尋ね者よ。加古さんや私達のところまで捜索隊が来たわ。今は日向さんが匿ってくれてる。……大丈夫よ、死者は出てないからすぐ収まるわ」
それを聞いてトビウメ提督は少し安堵した。
「その後、誰も具合悪くなってない?」
「ええ、問題ないわ。あんなの完全に工廠の奴らのせいじゃないの……」
二人は黙々と桟橋まで歩き続けた。
「ねぇ、司令官、もしかして不知火をきつく怒ったりする?」
「え? いや、まさか……」
それを聞いて初風がトビウメ提督の顔を見上げた。
「荒潮が言ってたわ。もし自分がその場にいてもきっと同じ事をしたって。それを伝えといてくれって。二人とも馬鹿よね……」
トビウメ提督が黙っていると、不意に初風が足を止めた。
「ねぇ司令官。わたしも二人と同じ……。それだけは忘れちゃダメよ」
トビウメ提督は初風の顔を見下ろした。埠頭は暗くて初風の細かい表情まではわからない。トビウメ提督はおもむろに初風の頭をなでた。
「わかってる、初風も荒潮も優しいから……」
しばらくそうしていると、初風は急に恥ずかしくなってきたらしく、提督の手を引っ張って歩き出した。
「へ、変なこと言ってないで、さっさと戻るわよ」
二人は真っ暗な港を、内火艇桟橋へ向かって歩いて行った。