はじまり
前脚を引きずり、唸る子犬がいた。それを見た少女は子犬に駆け寄る。
「私が何とかしてあげる。おいで」
少女はそっと傷ついた子犬に手を差し出した。子犬はさらに威嚇し、歯を剥き出して吠えたてる。しかし少女の慈悲に満ちた碧い瞳に徐々に警戒を緩めた。不思議なことに子犬はとうとう尻尾を振り始め、小さく甘えるように鳴いてみせている。
「怖くないわ。すぐに治すから」
少女は子犬の傷ついた前脚にそっと触れた。少女の手から淡く白い光があふれ、少女の瞳が限りなく白い碧に変化した。
「もう大丈夫よ」
少女が子犬から離れると、子犬は元気よく少女の足元を駆け回る。
「よかったね、ワンちゃん!」
少女は笑顔で子犬に話しかける。子犬も少女に応えるようにきゃんきゃん吠える。
「化け物っっっ!!!」
少女は突然の罵声に身体をこわばらせた。声の主を確認した少女は泣き出しそうになる。
「あんたみたいな化け物、追い出してやる!!!気持ち悪い!!!」
声の主は同じ孤児院のリーダー格であるマリアだった。マリアはその愛らしい容姿とは裏腹の性格であり、目をつけられてはならない最も恐ろしい相手だった。
「マリア、わたし、わたしは、違う!化け物じゃ、ない!」
マリアは、怯えながらも立ち向かってくる少女を不快に感じた。彼女は少女をきつく睨みつけて、女王様に歯向かってはならないことを教えようとした。そのときである。
「セレーン!どこにいるの?セレーン!早くいらっしゃい!」
院長の呼ぶ声がした。マリアはさっそく院長の元へ走る。セレーンもあわてて声の方へ走った。セレーンの心臓はどきどきしていて、とてもじゃないがマリアより先に院長の元へたどり着けそうにない。
「先生!セレーンがおかしなことをしてました!先生、セレーンは化け物です!手から光が」
「お黙りなさい、マリア。それよりセレーン、あなたに訪問者がいます。ついて来なさい」
院長はマリアの言葉など気にもかけず、セレーンの姿を認めた途端に言った。セレーンは軽く息を切らしながら先を行く院長についていった。視界の端でマリアが悔しそうににらみつけてくるのが見えた。また後で意地悪されることを予想したセレーンは憂鬱になる。やっぱり変なことをしなければよかった。可哀想な子犬を放っておけばよかったんだ。そこまで考えてからセレーンは思い直した。いや、助けてよかった。子犬はあんなに喜んでたじゃない。子犬を助けてよかった。考え事に区切りがついたタイミングで院長は院長室の前に立ち止まった。
「お入りなさい。あなたが入学する予定のホーワーズ?とかいう学校の先生です」
そこにはエメラルド色のマントを羽織った、厳格そうな女性が立っていた。セレーンは見慣れない格好をした女性に恐る恐る挨拶する。
「こんにちは。わたしはセレーンと言います。よろしくお願いします…」
女性の名前がわからず言い淀んでいると、女性は優しく微笑んだ。
「こんにちは。私はホグワーツの教授をしているマクゴナガルです。セレーンのファミリーネームは?」
マクゴナガルはセレーンに問いかけた。セレーンは訳がわからずに首を傾げた。ファミリーネーム?わたしはセレーン、それだけじゃなかった?他に名前があるの?すると院長は机の引き出しを開け、大量のファイルの中を探し始めた。
「えーっと、確か聞いたような…。ええ、聞きましたとも。凍りつくような夜にこの子の母親は駆け込んで来ましてね。まあ、よくあることですけど…んー、あ、あったわ」
セレーンと書かれたファイルをようやく引き出しから探し当て、ファイルの中の紙をめくっていく。
「あー!そうだったわ!セレーン・ウォーターフォードですわ。セレーン・ローレライ・ウォーターフォード」
マクゴナガルが突然顔色を変えた。セレーンは初めて聞く自分の名前に気をとられ、それを見逃していたのだが。
「ウォーターフォード…。あぁ、まさか、いいえ違いますとも、ええ、そうですとも」
「何か問題が?」
院長に聞かれ、すぐにマクゴナガルは我に返る。セレーンをそっと見遣ってからマクゴナガルは院長に言った。
「ミス・ウォーターフォードと2人で話しても?」
「もちろんです」
マクゴナガルは院長が立ち去ったことを確認してから困惑しているセレーンに話しかけた。
「あなたは不思議な体験をしたことがありますか。あなたの周りで自分の思ってもみないことが起きたことは?」
一瞬、何を言われているかわからなかった。しかしふと思い当たった。さっきの子犬にしたこと。マリアに頬を打たれた瞬間に突然割れたガラス窓。意地悪のメアリー先生に物置きに閉じこめられそうになったときなんか、物置きがどんどん小さくなった。もしかしてマリアが言っていたみたいに、わたしのようなおかしい人間が入る施設の人がとうとう迎えに来たのかな?泣きそうになりながら、もう一度マクゴナガルを見た。彼女の厳しくも温かい眼差しに出会ったセレーンは素直に話してみてもいいんじゃないかと思った。
「ときどきです、先生。でもわざとじゃないんです」
「わざとでないことは知っています。あなたは魔女なのですから」
セレーンはこの厳格な女性から発せられた言葉を聞き間違えたと思った。魔女だなんてそんなことを言うはずがないじゃない。わたしったらどうしたのかしら。
「あなたは魔女なのです、セレーン。私と同じように」
マクゴナガルはセレーンが理解できていないと察した。セレーンは再び泣きそうになっていた。わたしは魔女?じゃあ、化け物じゃないってこと?違う!わたしはわざと不思議なことをやったことがある!わざとやったならわたしは化け物だわ!セレーンはマクゴナガルに正直に話した。
「わたし、わざと不思議なことをしたことがあります」
マクゴナガルは怪訝そうにセレーンの次の言葉を待つ。セレーンはマクゴナガルの目を見られず、うつむいたまま告白した。
「怪我をした動物の傷を何度も治したことがあります。わたし、そんなことできるのは化け物だって言われてそれで…」
それ以上続けられなかった。セレーンの頬を涙がどんどん伝っていく。マクゴナガルはこの心優しい少女を愛おしく思った。
「あなたは救うために力を使ったのです。何も悪いことはしていません。あなたは素晴らしいことをしたのですよ。さあ、涙をお拭きなさい。あなたは入学するに値します」
彼女はセレーンにハンカチを手渡して落ち着くのを見守っていた。少ししてセレーンは気づいた。わたしにはお金がない。学校に行けない。現実に打ちのめされたセレーンは顔を青白くしてマクゴナガルに言った。
「先生、わたしにはお金がありません。だから…」
マクゴナガルは優しく微笑み、こう述べた。
「大丈夫です。ホグワーツにはそういった学生のための奨学金制度があります。何の心配もいりません。さぁ、これを」
セレーンはマクゴナガルから封筒を受け取った。そこには『セントワード孤児院 セレーン様』と書かれていた。
「そこに入学に必要となるものが書かれています。また、後日買い物をするために迎えを寄越します。いいですね?」
「はい、先生」
セレーンはようやく自分が化け物ではないという喜びと居場所を得られる期待で胸が一杯だった。しかしこれから先、自分の人生が大きく変わっていくことをこのときはまだ知る由もなかった。