とある夏の日いつも通り家族と食事を食事をとることになった。

いつもの光景―

いつもの食卓―

それがとある少年の日常だった。

1 / 1
三つの言葉から連想された三題話の一つです。
構想執筆時間は3時間ほどだったと思います。


夏・食卓・ネット

うだるような熱帯夜。

外は無風で風鈴の音は聞こえず、気温は体温に追いつけ追い越せと言わんばかりの30度を決して下回ることのない夏の日。

今、晩餐の準備が整った。

箸を手に持ち合掌をする。

 

「いただきます」

「いただきます」

 

目の前のテーブルには4つのお椀。

 

そして温かな湯気を噴出しながらぐつぐつと煮えたぎる

 

――キムチ鍋。

 

「おかしいだろぉーが!」

 

つい叫んでしまった。

 

「あらぁ? 何かおかしなことでもあったのぉ?」

 

間延びした答えを返す義母。年齢不詳。ってか見た目があまりにも若い造りなので本当に年齢が分からない人である。

 

「だって今夏だろ? 何が悲しくてこんなくそ熱いもの食べなきゃいけないんだよ!」

 

「あらあら暑い夏にクーラーを効かせた部屋でこういうものを食べることこそ真の贅沢じゃないかしら?」

 

「ただの環境破壊じゃねえか!?」

 

「でもねぇ夏場、鍋に合うお野菜って少ないのよねぇ?」

 

「論点がずれてきてるし!」

 

「どうしたの? お野菜嫌いだった?」

 

「そういう問題じゃねえだろうが!」

 

にこにこと笑いながらどこかずれた返答をする義母。

 

「それとも隼人さんはキムチ鍋がお嫌いでした?」

 

「だ、か、ら、そういう問題じゃねえって!」

 

「確かに二人でこの量を食べるのは厳しいわねぇ」

 

「人の話を聞けよ!」

 

徹頭徹尾話を聞かない人だが、どこか憎めない人だった。実母とだってここまでフランクな会話はしてなかった。

 

「てか親父とあいつは何してるんだよ」

 

「隼人さん家族の人をあいつなんて言うんじゃありません」

 

「あいつで十分だろあんな奴」

 

「隼人さん」

 

「ちょっと待って、義母(かあ)さん。分かったからにこやかに笑いながら箸を握り締めないで!」

 

丸メガネを光らせ、口元は笑いながら逆手に箸を握り締めた義母を宥める。さすが元ヤンキーというの噂のある人の女性のする行動は怖い。

 

「んで、親父と那岐の奴は何してるんだよ」

 

「亨さんと那岐さんは一緒の部屋でネットをしてますわ」

 

「またか……」

 

胸の中になんともいえないもやもやとした気持ちが広がる。

 

「わりぃ、義母さん」

 

「隼人さんが謝ることじゃありません」

 

「でも……」

 

「さぁ、お鍋が冷めないうちに食べてしまいましょう」

 

そう言って鍋の具材をお椀に取ってくれる。俺は何も言わずそれを受け取り、食事を始めた。

 

 

 

数年前、実の母は他に男を作り出て行ってしまった。

原因は正直よく分からない。親父の何かがいけなかったのか、母がただ尻軽なだけだったのか。どちらにしてもことは起きてしまった。

それが起因となって家族二人がネット世界の住民となってしまった。

 

 

 

「ご馳走様」

 

「お粗末さまでした」

 

そういって二人分のお椀を下げる義母。鍋には半分以上の具材が残っている。元々4人前の用意がしてあったのだろう。

それを見るだけで胸の奥がきりきりと痛む。それを見ていたくなくて、席を立った。

 

「それじゃ部屋に戻るから」

 

「お風呂の用意が出来たら呼ぶわね」

 

「ああ頼むよ義母さん」

 

 

 

そう言って三階の部屋へと上がっていく。

この家は三階建てで一階には客間、ダイニングキッチン、風呂場などが揃っており、二階が夫婦の寝室、書斎、那岐の部屋、パソコン室。三階が俺の部屋と物置、空き部屋となっている。

親父と晴美さんが結婚したとき、晴美さんが住んでいた場所に俺たちが転がり込んだ形だ。

晴美さんの家はどうやら金持ちらしく、晴美さん自身も文壇でそれなりに有名な女流作家である……らしい。現在この家を支えているのは晴美さんだ。

 

「んだこれ!?」

 

ドアを開けて驚いた。部屋に戻ると部屋が整理されていたのだ。

散らかっていた漫画は棚に巻数まで揃った状態で入っており、脱ぎ散らかされた服は洗濯し終わった状態で畳んである。

あるべきものはあるべき場所に配置されており、無駄の無い状況と言っていいだろう。

 

一部を除いて。

 

「なんで俺のお宝が机の上に?」

 

ベッドの下や押入れの中、机の鍵のかかっている引き出し、さらには本棚に納めてあった参考書のカモフラ済みの男子必須のアイテムが机の上に堆く積まれていた。

 

1 俺は本日部屋を掃除していない。

2 親父と妹は一日中パソコンの前に座っている。

3 昼間この家にいるのはもう一人。

 

三段階の思考が刹那の早さで答えを導き出し、

 

「いやいやいや」

 

と思わず呟きをもらさせていた。そして抗議するために部屋を飛び出そうとした。

 

だが――

 

「何……で、これが、ここに?」

 

またも予期せぬアイテムが俺の行動を止めた。

 

――写真。

 

黒髪ロング、背が小さく、か細い体。やぼったいメガネをかけた少女。

短髪で背が中途半端なくせに横にはそれなりの幅を取っている少年。

少年より背が小さく、体は細く、髪の毛の寂しげな中年。

少女はむくれた顔で、少年はちょっと疲れた顔で、中年はにこにことした顔で。

そんな三人が並んで写っている。

すでに数年前の写真。

最後の家族写真だった。

 

 

 

親父と実母が離婚した当時高校生だった俺は割り切ることが出来た。

結婚しようが他人は他人。夫婦なんて関係はいつ切れてもおかしくないとどこかで分かっていたからかもしれない。

だが、小学生だった妹はそれに耐え切れなかったのだろう。元々内気で部屋に篭りがちだった妹はネット世界の住民になってしまった。

小学校にも行かなくなり、不登校となってしまった妹を心配した親父はある夏の日山に遊びに行こうと俺と妹を連れ出した。

最後の最後まで妹は嫌がっていたが、新しいパソコンを買うという条件の元しぶしぶ着いて来た。

 

山の中腹までは車で行き、山頂までのハイキング。

元がインドアな妹は頂上への途中、疲れた帰ると駄々をこねて、親父に負ぶってもらっていたりした。

 

頂上での親父手作りのへたくそなランチ。

正直コンビニとかの惣菜やおにぎりの方が味は良かっただろう。

 

下山途中にあった川での川遊び。

家族全員で水の掛け合いなどをして服はびしょびしょになってしまった。

 

不器用な親父なりの精一杯の家族サービスはそれでもかなりの効果を上げたのだろう。

妹は帰りにはにこにこ笑っていたし、休み明けには学校にも通うようになった。

 

だが、それほど時をおかずにまたも崩れてしまった。

米国の有名企業の倒産。それに伴っての世界的な恐慌の煽りを受けて親父の働いていた会社も倒産してしまった。

再就職しようにも親父の年齢で取ってくれるような余裕ある会社はなかった。

そして親父は現実から逃避するようにネットの世界へと入り込んだ。

リアルでは決して吐露できないような心情を顔も見知らぬ他人に吐露する。それだけで大分心境が楽になるのであろう。

親父にとって幸運だったことはそこで今の義母さん、晴美さんと出会えたことだろう。

そこで一度は立ち直った親父。

さらに派遣という形ではあったが、再就職することも出来た。

就職を機に晴美さんと結婚した親父。

順調にことが運んでいった。

だが、そうなると今度はそれを受け入れられない人物がまたもネットの世界へと逃避してしまう。

 

妹だ。

 

妹がそうなったのは自分のせいだと親父は妹に説得を試みるが失敗。

追い討ちをかけるように派遣の仕事がなくなり、親父もまたネットの世界へと逃避してしまった。

そして今に至る。

 

親父に関しては俺が推し量れる問題ではないかもしれない。家族を養えず、妻の世話になり、家族の一人が自分のせいで引きこもってしまった。

それは俺の立場では体験したことではないから分からない。間違っていると思うが、親父の感じている気持ちは分からないというしかないだろう。

 

けれど、妹に関して納得いっていない。確かに幼かったという事実はあるだろう。

しかし今では当時の俺と同じく高校に入っている年齢である。

ならばいい加減割り切ることができるのでないだろうか?

 

まるで白昼夢にでも襲われたかのような感覚がそこで終わった。

現実から思考だけが乖離し、気づけば俺はベッドに腰掛けていた。そこから部屋唯一の時計、目覚まし時計を見ると部屋に戻ってからすでに三十分以上が経過していた。

何だというのだろう、たかが写真一枚というきっかけで思考に没頭していた自分。

家族関係の不和など何処の家庭にも多少あるに違いない。

そう分かっていても我が身ごととなるとやはり思い悩んでしまう。

大人になりきれていないだけなのか、それともこれが人というものなのか。

 

「俺がこうなら義母さんは……」

 

その心中を想像すると、さらに苦い思いがこみ上げてきた。

そこでふとあることを思い出し、時計を再度確認した。

食事の切り上げから三十分、いつもならもうそろそろ風呂の準備が出来てる時間である。

だが、未だに呼び声が無い。

あんなことを考えていてナーバスになっているのだろうか、何となく不安になって下へと様子を窺いに行ってみることにした。

 

階段を下り、心臓を落ち着け、ダイニングキッチンを覗いてみる。

一瞬目を疑った。

 

義母さんがキムチ鍋を流し台に捨てているのだ。

 

湯気でメガネは曇っており表情ははっきりとはしないが、鼻をすするような音が聞こえる。

あたかも泣いていたかのような感じのそれだ。

この家庭の状況が義母さんの状態を引き起こしたなら、俺の取るべき行動は――

 

乱暴にドアを開ける。

 

今にも爆発しそうな感情を抑え、静かに宣言した。

 

「親父、那岐、話がある」

 

 

 

冷却ファンの音、モニターの明かり、散らかったスナック菓子の袋。

パソコン室。親父が妹を説得するために義母さんに頼み込んで用意した部屋である。

一緒の部屋で他人を装いチャットをして、その相手が自分だと明かすことで説得しようとした親父の策。

失敗して今では二人の居住空間だ。

 

俺が足を踏み込まなかった。

 

踏み込めなかった一室。

 

椅子に座った二人はこちらを見る。

 

「お兄ちゃん……」

 

最初に反応を見せたのは数年間は話していなかった妹、那岐だった。

 

「隼人……」

 

その後悲しげな響きを帯びた声で親父が俺の名前を呼ぶ。

 

「何やってるんだよ」

 

二人の声が何かを刺激したかのように、怒りが徐々に膨れ上がり、怒気を孕んだ言葉が口から出る。

二人は言葉をつむがず黙ったままでいる。

クーラーの静かな音と乾いた風がこの場の雰囲気をさらに冷やそうとしているようだった。

その沈黙に耐え切れず今まで必死で怒りを抑えつけていた理性の鎖が弾け飛ぶ。

 

「いい加減にしろ! いつまでこんなことやってるつもりだ!」

 

堰を切った怒りが止め処なく溢れていく。

 

「こんなことをしていても仕方ないことくらい分かるだろ! いつまで逃げるつもりだ!」

 

「なっ、何!? 急に怒鳴り散らして頭おかしくなったんじゃない!?」

 

「おかしいのはお前らだろうが! 四六時中画面と向き合って現実から逃避してるんじゃねえよ!」

 

「だから急に何よ! 今まで何も言わなかったのに何で急にそんなことを言い出すの!?」

 

那岐が椅子が倒れるほど勢い良く立ち上がり、俺に張り合うように大声で叫び返してくる。

暴れ狂う感情を縛りつけ、少しでも会話の成り立つように論理を組み立てる。

 

「今日義母さんが泣きながら料理を捨てていた。それの意味が分かるか?」

 

親父はびくっと体を震わせ、下を向いてしまった。

 

「はっ、私たちに食べさせるものはないってことでしょう?」

 

「違うだろうが!」

 

那岐のあまりに歪んだ言葉にまたも感情が暴れだす。

 

「何でそう考える! お前らが食べてくれなかったのが悲しいって何で分からない!」

 

「私は作ってなんて頼んだ覚えはない!」

 

「家族の分を作るのは当たり前だろうが!」

 

「あの人が家族!? 冗談じゃない!」

 

那岐は丸い顔を真っ赤にして本格的に怒り出した。

 

「大体なんでお兄ちゃんはあの人のことを母さんなんて呼ぶの!? 信じられない! あの人は本当のお母さんじゃないのに!」

 

ヒステリックに高い声で怒りの丈を吐き出す。

 

「あの人はお父さんを誑かしただけじゃない! お父さんが弱っているのをいいことにつけこんで、私たち家族の中にずうずうしく入り込もうとしただけじゃないの! あの人は私たち家族の絆を引き裂いただけじゃない!」

 

「ふざけるな!」

 

怒りに我を忘れて那岐の元へと近寄り右手を高く振り上げる。

 

――が、

 

「隼人さん。女の子を叩いたりしちゃいけません」

 

という声がして腕を掴まれた。

 

振り返るとそこには義母さんが悲しげな表情をして立っていた。

 

 

 

「大きな声が聞こえてきたから急いでここまできたら、隼人さんが那岐さんを叩こうとしていたから止めてしまいましたわ」

 

ふわふわとした、どこか間の抜けたいつものしゃべり方。

しかしメガネの奥の瞳には悲しみの色が垣間見える。

俺は腕をつかむ義母さんの姿を見て一気に怒りが収束し、頭が冷えていく。

 

「悪かった、心配かけたな義母さん」

 

義母さんはにこりと笑う。

 

「いえ分かってくれたなら構いませんわ。隼人さんには女の子に手を上げて欲しくありませんし」

 

「何よあんた……」

 

俺の後ろから怨恨篭った声が聞こえる。

 

「何勝手にこの部屋に入ってきてるのよ! 出てってよ! あんたなんか大嫌いなんだから!」

 

恨み殺しそうな目付きをした那岐。義母さんは臆することなく正面からその視線を受け止めいつもどおりの表情で、

 

「ごめんなさいね那岐さん。お邪魔しちゃって、でも私はあなたが傷つくのを」

 

「そんなの知らないさっさと出てってよこの偽善者!」

 

義母さんの言葉を聞き終わらないうちに食って掛かるように叫ぶ那岐。

少し困ったような顔を見せ、義母さんは黙ってしまう。

 

「お兄ちゃんも何よ! そんな人にでれでれして! お兄ちゃんもお父さんもその人に騙されてるよ!」

 

俺は軽く深呼吸をして、数年間向き合っていなかった那岐の方へ向く。

 

「那岐」

 

「何よ! お兄ちゃんなんか大っ嫌い!」

 

「那岐、俺だって最初は晴美さんのことを義母さんだと思っていなかった」

 

「……えっ?」

 

妹は意外な一言を聞いたことで言葉を失った。

 

「親父が再婚するって聞いて、親父が立ち直ったのは晴美さんのおかげだし、感謝はしていたよ。でも、晴美さんは親父が選んだ女の人って言うだけで俺たちの血縁者じゃない。それどころか丸っきりの他人だ」

 

後ろで義母さんもこの話を聞いてることを意識しながら話し続ける。

 

「最初はさ。十八歳になったらどこか別のところに住もうと思ってたんだ。那岐もつれて一緒にな。やっぱ親父と晴美さんの生活を邪魔しちゃ悪いって思ってたんだよ」

 

那岐はこの話を何も言わずに聞いている。

 

「だけどさ那岐と親父がこんなになっちまって、俺が出て行ったらこの家崩壊するって思ってここにいたんだよ。家族だからさ。晴美さんの方はそのうち俺たちを追い出すか、晴美さんが出て行くかするって思ってたんだ」

 

親父も俯いたまま俺の話を聞いているだろう。

 

「だけど晴美さんはまだここにいてくれている。こうやって俺たちを支えてくれているんだよ。親父だけが好きなら俺たちなんかどうでもいいだろうに、飯も作ってくれて、こうやって養ってもくれている」

 

そして俺自身も言葉にすることで再確認している。

 

「だからさ俺は晴美さんのことを家族だって思えたんだよ。確かに血は繋がってないけどさ、それでも家族としての絆を感じられたんだよ。その感謝も込めて俺は晴美さんのことを義母さんって呼んでるんだ」

 

そこまで語り終える。

 

初めて吐露した家族への気持ち。

 

ネットではなくリアルでの顔を見て、気持ちを伝える行為。

 

それが俺に出来る精一杯の説得だった。

 

しばらく誰も何も言わない沈黙が続いた。

パソコンのファンの音だけがうるさく響いていた。

 

「……だからって」

 

重苦しい沈黙を破り、那岐が言葉を紡いだ。

 

「だからってこの人を認めろって言うの!?」

 

苦し紛れのような那岐の言い訳。

感情で前に出たからこそ引けないこの状況。それを押し通すための、自分をごまかすための言葉。

俺が言葉を出そうとすると義母さんが手を引きそれを止めた。

俺は義母さんに任せることにした。

 

「今すぐじゃなくていいわ。これからの私を見て判断して頂戴」

 

ありきたりな言葉ではあるが、押してだめなら引いてみる。

今の那岐には一番効果的だったのかもしれない。

 

「……分かったわよ。でもまだあんたを認めたわけじゃないんだからね!」

 

結局はきっかけが欲しかったのだろう那岐はそこで折れた。

 

 

 

「親父」

 

俯いていた親父は顔を上げ、俺たちの方を見る。

そこにあるのは希望ではなく絶望に近い表情をした男の顔だった。

 

「那岐はこの通り立ち直った。親父には今何の責任もない」

 

「…………」

 

「だから親父ももう苦しまなくていいんだ」

 

「……だが俺は家族を養うことを出来てない」

 

親父の感じている責任はやはりそこにもあった。

 

「そんなの関係ないよお父さん」

 

那岐の気遣いの言葉。

 

――だが、

 

「そして今娘の面倒を見ることもなくなった」

 

親父はまるでそれが聞こえてなかったかのようにそう漏らした。

俺は予想外の親父の言葉を理解できなかった。おそらくそれは隣にいる那岐も同様なんだろう。首をかしげている。

 

「こうして用意してもらった場所で娘を見守ることすら出来なくなってしまった……俺の役割は終わったんだ……」

 

そう呟きを漏らし親父はまたも俯いてしまった。

そこまで聞いて初めて親父の気持ちが分かった気がする。

仕事がなく、義母さんに家庭を支えられていて親父は何にも感じないほどの図太い人間ではない。

娘を見守るというただそれが今の自分に出来る役割だと考えたのだ。

家族での唯一の役割、言い訳のようなそれだけが親父の心の均衡を保っていた。

ならば、それを崩した俺もこっち側に立った那岐の言葉も親父には届かない。

親父の気持ちが分かるが、立ちなおさせる術がない。

場がまたも沈黙で支配されそうになった。

 

それを速やかに、静かに義母さんは打ち破る。

 

義母さんは親父へと近づき、椅子から立たせる。

 

「晴美……」

 

親父がそう呟くと、

 

 

 

『パシン』

 

 

 

と平手打ちする音が響いた。

 

「亨さん」

 

その顔にいつもの笑みはなくいつになく真剣な表情が浮かんでいた。

 

「あなたは隼人さんと那岐さんの父親でしょう?」

 

「……そうだ」

 

「いつまで情けない姿晒してるんですの?」

 

「……」

 

「義母さん!?」

 

いつになく辛辣な言葉で親父を責める義母さんに驚き、つい呼び止めてしまう。

それに対し義母さんはこちらに顔を向けにこりとした笑みを浮かべ手を振り、黙っていろと目で要求する。

脳内に食卓での光景が浮かび、背筋に怖気が奔り、動きを止めてしまった。

 

「亨さん。隼人さんはああ言ってくれました。そしてあれは逆を言えばどんな人でも血縁が繋がっていれば家族ということなんです」

 

俺の言った言葉の裏側を突いた発言だった。

 

「亨さんの役割は終わってなどいません。那岐さんや隼人さんが一人の人間として、新しい家族を作るとき、作った後、亨さんが死ぬまで、あなたの役割は二人の家族であり続けることです」

 

「……っ」

 

「亨さんを家族として紹介するときがきっと来るでしょう。そのときお二人が胸を張って家族として紹介できるような人になってください。あなたならきっと出来ます」

 

「そんなことを言っても……」

 

「グダグダ抜かしてねえでシャキっとしやがれ!!」

 

親父の言葉を遮る様に語気の強い言葉を被せる。

 

今確信した。

 

義母さんが元ヤンキーだったと。

 

「私が亨さんと偶然知り合って、顔も見知らぬ私たちはネット上でお互いのことを随分と話し合いましたね」

 

とても優しく、懐かしむように義母さんは話し始めた。

 

「相手のことを少しも疑わない亨さんは私の話を親身になって聞いてくれて、そしてあなた自身のことを話してくれて、私はそれがただ嬉しかった」

 

義母さんは親父に何かを伝えるために自分のことを話していく。

 

「決して恵まれていたと言えない環境にいた私の人間不信を初めて解いたのが、亨さんあなたでした」

 

二人にしか伝わらない曖昧な表現で義母さんは話し続けた。

 

「気づけばあなたを好きになっていた。けれど現実の私を知られて幻滅されるのが嫌だった。だから私は努力をしました」

 

親父が義母さんに会って立ち直ったように、義母さんもまた親父から良い影響を受けていたらしい。

 

「私は口調を直し、髪を染め直し、仕事に真面目に打ち込み始めました。少しでもあなたに似合う女性になりたかった。そして私は昔と変わることが出来ました」

 

義母さんのどこかずれた口調や態度はそういうことだったのかと今更ながら知ることとなった。

 

「だから亨さん。あなたにも出来ます。私を変えられたあなたならきっと出来ます」

 

義母さんは力強くそう告げた。

 

「だが、俺はすでに何度も失敗している……今度も失敗するんじゃないだろうか……」

 

義母さんほど自分を信じられないのか、親父は尚も情けない言葉を呟いた。

何の心配もないとばかりに義母さんは微笑みかける。

 

「失敗してもいいんです。何度もやり直し続けましょうよ」

 

「……分かった」

 

はっきりとした親父の言葉。

義母さんの言葉を受けた親父の顔は今までとは違うものに見えた。

こうして久しぶりにパソコン室は無人となったのだった。

 

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『ドスンッ』

 

 

 

「お兄ちゃん! 朝だよーっ!!」

 

「……いや重い……死ぬぅ」

 

あれから一晩明けた今日。俺の体の上に巨体の象が圧し掛かってきた。

 

「何よーぅ可愛い妹が朝の目覚めを届けてあげたのに何が不満なわけ?」

 

「だぁーもう何が可愛い妹だ! 引き篭もってパソコンばっかりやってからブクブク太りやがって、マジで重くて死にそうだったぞ!」

 

「ちょっとレディーに対して何たる暴言!」

 

そう、写真に載ってる小柄で可憐な妹は年月の経過の残酷さを体現するかのようにその身を野生の牛か、はたまた食肉用牛か、もしくは乳牛のように大きくしたのだった。

 

「るせー。レディーは男の部屋に入ってこねえし、兄貴に対してフライングボディプレスを決めねえ!」

 

「レディーが部屋に入ってこないなんてお兄ちゃんたらまだチェリーボーイなんだ」

 

「何だとこらぁ!」

 

「まあ仕方ないかもねぇ。お兄ちゃんの趣味がこんなのじゃ」

 

そういいながら那岐は俺のお宝をまるで汚物でも掴むかのように見せ付けた。

昨日は疲れていて、あれからすぐ眠っていて出しっぱなしにしていたのだ。

 

「ちょおまっ!?」

 

「『月間ブルマ、体操服娘大集合! 今夜はお兄ちゃんを寝かせないぞ?』 やだーキモーイ」

 

「てめふざけんなっ!」

 

取っ組み合いの喧嘩が始まる。今までではなかった光景だ。

 

「おーい、隼人ー那岐ー飯だぞー」

 

と今度はネクタイを締めながら親父が部屋に入ってきた。

傍目から見るとエロ本を持っている妹を押し倒した兄という図に見えなくもない。

 

「……まぁ、人の趣味をとやかく言うつもりはないから、二人とも過ちを起こさないうちに早く降りてきなさい」

 

親父は俺たちを一瞥してから妙に事務的な早口でそう言いながら立ち去っていく。

 

「ちげーだろ親父ぃー!」

 

「あ、待ってよーお兄ちゃーん」

 

ドタバタと下へと降りていく俺たち。

 

 

 

「はーいもうすぐご飯の用意できますからねー」

 

義母さんは台所で料理の用意をしていた。

久しぶりに3人で同じ席に着いた食卓。

那岐は何が嬉しいのかニコニコと笑っている。

クーラーの効いたダイニングには朝だというのにセミの鳴き声がうるさく響いてくる。

白いワイシャツにネクタイを締め、身なりを整えた親父はまるで出来るサラリーマンのようにやる気に満ちていた。

俺はそんな親父に、

 

「そういえば親父」

 

「なんだ? 馬鹿息子」

 

「何だと馬鹿親父!」

 

「親に向かって馬鹿とは何だ馬鹿とは!」

 

 

 

『ドンッ』

 

 

 

「お食事もうすぐ用意できますから、静かに、待っててくださいねー。二人とも」

 

「「はい」」

 

乱暴に置かれたおかずの乗ったお皿。

ふんわりとした笑顔で絶対零度の雰囲気を醸し出している義母。

迫力に圧倒された俺たちは配膳を待ちながら小声で話す。

 

「んで義母さんのペンネームって何だよ」

 

「ん? お前知らなかったのか。ほら、少し前に芥川賞を受賞した夢野春江っていたじゃないか」

 

「ちょっと待て、その名前聞いたことあるぞ。ってその人、受賞当時二十歳未満じゃなかったのか?」

 

「それが何か問題あるか?」

 

「おいまてこのロリコン変態親父! いくつ離れていると思っていやがる。俺と二、三歳しか違わねえじゃねえか!」

 

「愛があれば歳の差なんて」

 

「ざけんな犯罪すれすれじゃねえかそれ!」

 

「犯罪じゃあないぞ。お父さん昔から18歳未満の女には手をだしたことはないからな」

 

「ちょっと待て、なんだその他にも18歳以上の女になら手を出したみたいな言い方は!?」

 

「ふぅむ。お前はまだまだチェリーボーイらしいからなお父さんのモテテクを伝授してやろうか?」

 

「親父からまでチェリーボーイとか言われたくねえし教わりたくもねえよ!ネットかぶれのせいで変な日本語仕入れてきやがって」

 

「まあ今のお父さんには晴美がいるからモテテクを披露することはないだろうがな」

 

「当たり前ですよね亨さん? もし浮気なんてしたら……どうなるかわかってますよね?」

 

そうこう親父と言い合いをしていたうちに配膳が終わっていたらしい。

配膳を終えた義母は親父の発言を聞いたのだろう、親父の後ろであからさまなプレッシャーを与えている。

ガタガタと震える親父、

 

「さぁて用意が出来ましたよ」

 

「にしても昨日の鍋を捨てたのはもったいなかったんじゃねえか? 義母さん」

 

「あら、捨てたの知っていたの? 隼人さん」

 

「あぁ」

 

「でもあれはねー私焦がしちゃったから気にしなくていいのよう」

 

「はぁ!?」

 

漫画だったら目が点になるか、顎が外れるくらい口を開けるところだ。

 

「だってぇ隼人さんお風呂入る時間ほとんど決まっているし、その間なら大丈夫かなぁと思って火にかけていたら焦げちゃってて、捨てるとき臭いがきつくて鼻にきたわぁ」

 

「……アハハハ……はぁ」

 

それを聞いて乾いた笑い声とため息が漏れる。

昨日のきっかけはどうやら俺の早とちりだったらしい。

ともあれこうやって4人で食卓を囲むことが出来たのはそのお陰である。

 

目玉焼きとウインナー、サラダにコーンスープもついている。洋風の朝食がテーブルに4人分しっかりと配膳されている。

 

外は快晴。入ってくる日差しはダイニングを明るく照らしていた。

 

「では冷めないうちに食べましょう」

 

義母さんの合図にみんな箸を手に持ち合掌する。

 

「いただきます」

 




ご覧いただきありがとうございます。
この物語は10年近く前書いた物語に誤字修正等を加えたものとなっています。


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