遊戯王デュエルモンスターズWD―ワーストデュエリスト―   作:Rさん

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04話
肝要なそれ。


001

 

 

 双橋遊奈は実にさまざまな方法で、僕にアプローチを仕掛けてくる。

 それが求愛行動だったりするのであれば僕は喜んで受け止める気構えでいるのだけれど、残念なことに、彼女がするアプローチは、僕をデュエリストに戻すための行為ばかりなのである。

 あるときはカードショップへ連行したり、またあるときはデュエルモンスターズに関連したキャラクター弁当を振舞ってくれたりする。最近では僕が住んでいるアパートに押しかけて、友人となった生徒会長と共に夜遅くまでデュエルに関する雑談を、僕が勉強に励んでいる真横で興じることが習慣となりつつあるらしい。ひとしきりカード談義に花をさかせたあと、ご丁寧なことに、カードのカタログを置いていく行くという徹底ぶりだった。

 また、それらのアプローチはときに間違った方向に進むこともあり、何を血迷ったのか、露出度の高い女性型モンスターの装いを披露してきたことだってあるのだ。それは唯一、僕にとってのプラスになったので、できることなら彼女には常に血迷っていてもらいたいものである。

 まあ、とにかく。

 そんな過激なアプローチ。言い換えればデュエルモンスターズのステルスマーケットを繰り返す彼女に、僕はいつだって曖昧な返事することでお茶を濁している。

 彼女が掲げている明確な目標は僕をデュエルモンスターズに復帰させることである。

 けれど、僕はデュエリストに戻るつもりが一切ない。

 そもそも僕がデュエルを卒業するに至ったのにはそれなりの理由があったりするわけで、おいそれと美少女に迫られたぐらいで人生の一大決心を曲げることなど不可能なのだ。

『デュエルする気がないのなら、そうはっきりと彼女に言えばいいじゃない』

 いつだったか、生徒会長から言われた言葉だ。

 ありがたいアドバイスであり、明確な事態の解決方をすっぱりと言ってくれたものだ。さすがは生徒会長だ。だが、申し訳ないことに、生徒会長のセリフに、僕はあやふやな応えを返すことしかできなかった。

 我侭だ。

 単なる我侭だ。

 双橋の過剰なステマ行為を時々鬱陶しく思ってしまうことはあるが、それでも頑なにデュエルを進めてくる彼女のことをとても嫌いになんてなれないのだ。そのアプローチの方法は実に陳腐なものではあるけれど、一生懸命何かをなそうとしている彼女の姿が輝いて見えるのもまた事実だった。

 何か目的を持って行動している人は美しい。

 僕はそれを壊したくはない。

 だから、明確に拒否の意を示さず、曖昧なまま、関係性の持続を目論んでいるのだ。

 双橋に希望をちらつかせながら、その実、彼女の要求を叶えてやるつもりが一切ない。

 ――生殺し。

 神路が言っていたことは的を射ている。

 僕は最低で最悪なクズ人間だ。

 より良い未来なんて、望む資格もない。

 

 

  *

 

 

 現状、僕はとても情けない状態に陥っていた。

 昼休み、双橋から渡されたお弁当にはいつものようにキャラクターの装飾が施されており、それが『クリボー』なのか『屋根裏の(もの)()』なのかは定かではないし、肝要ではない。そのお弁当を広げる場所は、双橋の提案で生徒会室になった。そして生徒会室に居合わせた生徒会長と共に楽しいランチタイムを繰り広げたのである。

 そこまでは一見すると穏やかな午後のひと時であり特質して取りあげるようなことでもないので割愛するとして、問題はお弁当を食べ終えたあとの昼休みの後半戦で起こった。

 常日頃から勉強を教えてもらったりと何かとお世話になっている生徒会長に、せめてもの恩返しとして事務仕事を手伝ってあげようと思って、そう提案した。

 青峰高校の生徒会は、生徒『会』というより生徒会長という名目で設けられている。つまり、生徒会長という役割はあれど、副会長とか書記とか会計とかそういった役職が存在しないのである。通常は『生徒会』で行うべき雑務を『生徒会長』という個人が請け負うことになるのだ。だからこそ青峰高校の生徒会長に立候補する人間が現れず、だからこそ木実近恵美は生徒会長の椅子に自ら腰掛けたのである。

 僕がその提案をしたのは、複数人でやる雑務をひとりで処理している生徒会長の負担を少しでも軽くしてあげたかったからだ。

 しかし――

「いえ、結構よ。誰かに手伝ってもらうと自分のペースが崩れて余計に効率が悪くなるから。っていうか、岬野くんは人のことを心配しているような余裕はないでしょ。この間のテスト、酷い点数だったじゃない。あれだけ毎日勉強を見てあげたのに、まったく成果が出てないんじゃ、わたしの教育力が疑われるわ。次のテストに備えて今からでも勉強をしなさい、見ていてあげるから」

 というわけで。

 雑務にプラスして、勉強の面倒を見てもらうことになってしまった。

 生徒会長がてきぱきと雑務を片付ける傍らで、僕は問題集を広げながら、ときおり彼女からの明確なアドバイスによって難問を解き明かしている状況だった。

 少しでも彼女に楽をさせてあげるつもりが、逆に仕事を増やしてしまったのだ。

 我ながら、実に情けない。

「ちょっと何を泣いてるのよ、岬野くん」

「泣いてなんかいない、ちょっと消しゴムのカスが目に入っただけだ」

「それって結構大変じゃないの!?」

 慌てて保健室に連れて行こうとする彼女を何とか押さえて、僕は、問題集に目を戻した。

 外からは微かな爆発音や歓声が響いてくる。

 僕は別にそれを気にしないし、生徒会長だって気にとめた様子はない。

 どうせ、グラウンドではお昼を食べ終えた生徒たちがデュエルディスクを構え合ってソリットビジョンを展開していることだろう。大型モンスターが打ち倒され、観戦している生徒たちが盛りあっている様子を、想像するのは容易い。

 四月の頃にはドッジボールやサッカーなどの遊びをしていた生徒もいたように思うのだけれど、最近の校内はデュエル一色になっていた。

 ゴールデンウィークを過ぎた辺りから、またしてもデュエルブームは加速して、現在ではデュエルディスクを持っていない生徒のほうが圧倒的少数を絞めているようになった。

 勉学に差し支える娯楽のように僕は思うのだけれど、学校側はむしろデュエルが流行ってくれれば生徒間の仲が自然と取り持たれると考えて、それを促進することを企てているようなのだ。

 購買部でカードの販売をはじめたとき、僕は正気を疑ったものだ。

「ねえ、遊奈はどこに行ったの?」

 雑務のノルマを達成したのか、手持ちぶさたになっていた生徒会長が口を開いた。

 僕は問題集から逃げるようにシャープペンシルを放って、その問いかけに応じる。

「担任から、食事が済んだら職員室に来るように言われてるらしい。テストの間違いがどうとかって」

「あー。なるほど」

 生徒会長は双橋が職員室に連行された理由について心辺りがあるようだった。納得したように頷いている。

「きっとあれのことね」

「あれのこと?」

「うん。名前」

「名前って、なんだよ? テスト用紙に名前を書き間違えたとかそんなのか」

「ご名答。そうなのよ。遊奈ってば、しょっちゅう自分の名前を書き間違えるの。ほら、先日の新入生歓迎レクリエーション会のとき、アンケート書いてもらったでしょ? そのときも間違えてたのよね。それだけじゃないわ、進路調査表とか作文とか、とにかく頻繁に名前を書き間違えてるみたいなの」

「そうなのか。もしかしたら親の事情で苗字が変わったからとか、そんな事情で書き慣れてないんじゃないか?」

 生徒会長は困ったような顔をして、そして言った。

「それが、苗字だけじゃなくて、下の名前も書き間違えてるみたいなのよ」

「へー、そうなのか……」

 それは変な話だ。

 苗字が変わることは現代社会において珍しい現象ではなくなってきているけれど、下の名前を変えることなんて滅多にないはずだ。もっとも絶対にない話というわけではないから、強く否定できないけれど。

 まあ、人生いろいろだ。

 親しき仲にも礼儀ありとも言うし、名前に関して双橋に言及するのはマナー違反だろう。

 僕は話を変える。

「それにしても、いつの間に生徒会長は双橋のことを下の名前で呼ぶようになったんだ?」

「べ、別にいいでしょ! わたしが遊奈のことをなんと呼んでも」

 慌てたように、顔を背けられてしまった。

 そんな子供のような態度をする生徒会長に、普段とのギャップを感じて自然と笑いがこみ上げた。すると彼女は「ふん」と鼻を鳴らして顔を赤くした。

 生徒会長と双橋は最近、とても仲が良いらしい。よく一緒にアパートの裏でデュエルをやったり、僕の部屋のローテーブルを使ってデッキ構築に夢中となっている。休日には一緒にショッピングモールに出かけているみたいだし、当初の険悪さが嘘みたいに健全なお付き合いをされているらしい。

 どういう心境の変化があったのかは知らないけれど、生徒会長が同年代の相手と対等な関係を築けるようになったのは素晴らしいことだと思う。

 青春の息吹を感じる。

「あ、そうそう。遊奈と言えば、あの子の使ってるデッキのことなんだけど」

 気を取り直した生徒会長は話題を提示する。双橋のデッキとはつまり《F・A》デッキのことを指している。僕としても彼女の使っているカードに多少なりと興味がないわけではなかったのでその話題に乗ることはやぶさかではなかった。

「双橋のデッキがどうしたんだよ?」

「そう、あの子の使ってるカードについてネットを使って調べてみたの。そしたらね、わたしは驚いたというかむしろ納得したんだけど、《F・A》シリーズは市販されていないカードらしいのよ」

「えっ、そうなのか?」

 僕は身を乗り出した。

 どうして生徒会長が双橋本人にカードのことを訊かないのか、その疑問は気にしなくてよかった。生徒会長は妹談によるところの負けず嫌いの発展形だ。自分が知らないことを同年代に質問するのは彼女のプライドが許さないのだろう。

 僕も双橋のデッキについて訊いていない。デュエルを引退した身なのであえて自分からカードの話題を提示するつもりがないから、双橋のカードについても言及していなかったのだ。

「確かにやけに知名度の低いカードだと思ってたけど、双橋の使ってるカードっていったいなんなんだ?」

「あのデッキ、限定品なんだって」

「限定品?」

「そ。限定品。それも大会の優勝商品で、世界にワンセットしかないんだって」

「へー、それは凄いな。つまり、双橋はデュエルモンスターズの大会で優勝してるってわけか」

「うーん。どうだろうね。……その大会が開かれたのは数年前のこと、なんだけど、その頃はデュエルモンスターズがあんまり流行していなかったから大会の詳しい情報まではネットに流れてなかったのよ。だから遊奈が優勝したのかどうかは断言はできないわ。もしかしたら親族とか友人が優勝して、その景品を貰い受けただけって可能性もあるから」

 なぜだか、生徒会長の口調は荒いものになっていた。どこかふてくされたような態度で頬杖をついて窓の外へ視線を向ける。

 また僕はおかしくなって苦笑した。

 彼女は負けず嫌いだから、きっと双橋がデュエルモンスターズの大会で優勝した経験があることを認めたくないのだろう。自分の成し得ていないことを同年代が達成してしまっているのだから無理もない。

 それにしても大会の優勝商品――か。

 そういうことならいろいろと納得ができる。

 カードの知名度がやけに低いのも当然だ。

 双橋のデッキに同名のカードが入っていないのも、世界に一枚ずつしかないのなら当然のことだろう。

「……順調、順調」

 僕は小さく呟いた。

 これでまた、双橋のことを知ることができたのだから。

 いつか、離れていってしまうことがわかっていても、僕は彼女のことを知りたい。すこしでも、些細なことでもだ。その欲求は今日も順調に継続されている。

「あー、でも!」

 と。

 突如、生徒会長は頭を抱えて机に突っ伏した。なにか嫌なことを思い出しまったらしい。

「ジュニア大会なら、双橋さん本人が出場してる可能性は高いわよねぇ」

「…………」

 僕は数秒考えて、訊いてみた。

「そのジュニア大会って、何年前のだ?」

「んん? ……えっと、四年前だったかしらね」 

「四年、前……」

 その言葉を聞いた瞬間、僕の血液は急速に回りはじめた。

 頭に血が送られ過ぎて、意識が朦朧とする。

 四年前。

 四年前のジュニア大会。

 四年前のジュニアチャンプ。

 小学六年生だった頃の僕。

 デュエルに魅了されていた頃の僕。

 友達が多かった頃の僕。

 神路とライバルだった頃の僕。

 大切な思い出の一端。

 ――忘れられない苦しみの始まり。 

「どうかしたの、岬野くん?」

「……え。いや。なんでもないよ」

「そう。凄い顔してたからびっくりしちゃったじゃない。あ、それより、もうそろそろ昼休みも終わっちゃうし、教室に戻りましょうか」

 僕は何にもない風に頷いて、そして、問題集の片付けをはじめた。

 早く忘れよう。

 記憶の奥底に封印しよう。今までよりももっと深く深く深くにだ。

 今後、思い出さないように、僕は祈る。

 午後の授業を頭の中で予習して、記憶の上書きに成功した。

 

 

  *

 

 

「あっ、御影さん。今日の夕飯は味噌カツ定食でも大丈夫ですか?」

「うん。それで大丈夫だよ。っていうか、いつもゴメン、夕飯の支度までさせちゃって」

「いえいえ。夕飯の準備はあたしに任せて、御影さんは勉強に専念してください。それでなくとも放っておいたら御影さんはまともなご飯を食べようとしませんからね」

「…………」

 返す言葉がなかった。

 確かに男子高校生である僕にまともな食事の準備はできなかった。

 一応、誤解がないように付け加えておくと、本格的な料理を作れない僕ではあるけれど、カレーなどの簡単な調理ならできるのだ。

 できるのだ。

 できるのだよ!

「これから買出しに行くんですけど、一緒にどうです? あっ、もちろん先にアパートへ帰っていただいても結構ですよ。あたしとしては寂しい限りですが、御影さんには少しでも勉学を進めてもらいたいですし。早く勉強が追いついていただければ、デュエルのお誘いも気兼ねなくできるようになりますしね」

 今でも十分気兼ねなくデュエルの勧誘をしている気がするのだけれど、それは僕の勘違いなのだろうか……。

 僕は口から出かけた突っ込みを飲み込んだ。

「僕の成績を気にかけてくれるのはありがたいんだけど、ごめん。これからちょっと用事があるから、もしかしたら帰りが遅くなるかもしれないんだ」

「えっ。そうなんですか? うーん、用事があるなら仕方ありませんね」

「ホントごめんよ。あっ。一応部屋の鍵を渡しておくよ、僕の帰りが遅くなったら先に生徒会長と夕食を済ませておいてくれ」

「わかりました。でも揚げ物は出来立てが一番ですからね。御影さんが帰ってくるまで夕飯はしません。生徒会長とデュエルでもしながら待ってますよ」

「そっか。悪いな」

「いえいえ、気にしないでください」

 僕から鍵を受け取った双橋は、口笛を吹きながらスキップで去っていった。廊下は走ってはダメだと教えるべきだろうか。

 ……うーん。 

 それにしても、最近、凄くナチュラルに双橋と生徒会長が僕アパートに来るようになったなぁ。

 生徒会長の目論見は僕の成績を上げることで、双橋の目的は僕をデュエリストにすることだ。両者の思想はまったく異なっているようだけれど、その実、ふたりで僕の勉強をサポートするという結果に落ち着いているんだもん。びっくりだよ。

 別に勉強が大嫌いというわけではないのだけれど、それでもまだ高校一年生の身で勉強ばかりの毎日は精神的にキツイ。一度嫌になって逃避行に走ったことがあったけれど、それは双橋を心配させるだけの結果に終わったけ。

 たまには勉強以外のことをしたいと僕に思わせることが、もしかすると双橋の作戦なのかもしれない。

 そのために勉強をしている僕の隣で、デュエルの話をしているというのであれば頷ける。

 陰謀が渦巻いている六畳一間だった。

「まあ、窮屈な生活も悪くはない……かな?」

 自分自身に問いかけるように首を傾げた。

 そんなことより。

 そんなことを考えるより、だ。 

 僕には目下で処理しなくてはならない重要事項があるのだ。

「授業が終わったら屋上へ来てください」

 廊下を歩きながら、僕は手紙に書いてある文章を読んだ。短い文章だった。その一文以外、文字という文字は刻まれていない。差出人の名前さえ記載されていない妙な手紙だ。ワープロで打たれた無機質な文字だけが、コピー用紙には印刷されていた。

 いつの間にかこれが僕の机に押し込まれていたのだ。生徒会室で昼食を食べている間に、誰かが僕の机に入れたのだろう。

 少し前、双橋に同じ方法で呼び出されたことがあったけれど、今回は彼女とは無関係な事柄であることは一目両全だ。僕に用事がある場合、今の彼女なら直接言うだろうし、手書きの文章ではないことから双橋が関係していないことは明白だった。

 ならば、いったい誰が僕のことを呼び出したのだろう。

 今回の僕は深く考えることをしない。

 思考を絡ませている暇があるのなら、直接現地に赴いたほうが物事がスムーズに進むと、前回の一件で学んでいるからだ。

「んんんん?」

 そして――

 屋上前の踊り場に到着すると、そこには、一人の生徒が屋上へ続く扉の前で膝を抱えて座り込んでいた。

 残念だと思ってしまったのは、その生徒が男子の制服を着ていることだった。

 男にしては長めの髪をしており、その色は肌と違って黒い。長いまつ毛の下から覗く大きな瞳は、充血しているようだった。

 どうやら、彼は泣いているらしい。ひくひくと嗚咽を漏らしている。

「あっ……」

 と。

 彼の少女のような瞳が僕の姿を捉えたらしい。

「岬野。岬野御影!」

 彼はその場で勢い良く立ち上がって、僕に細い指先を向けた。親の仇を見つけたときのような剣幕をその表情に貼り付けている。

 学校において――クラスにおいて《F・A》並に知名度の低い僕の名前を、彼は知っているらしい。

 僕のほうは彼を知らない。馴染んでいないとはいえ流石にクラスメイトの名前は把握しているはずの僕が知らないということは、彼は別のクラスの生徒なのだろう。

「えっと……」

 僕は狼狽した。

 見知らぬ人間が急に名前を呼びながら人差し指を向けてきたのだから、仕方のないことだった。

 この状況で焦らない人間のほうがどうかしている。

「岬野御影、岬野御影、岬野御影、岬野御影、岬野御影、岬野御影――」

 何度も、何度も僕の名前を連呼するしながら、彼はこちらにずかずかと歩み寄ってきた。

 恐怖にも似た奇妙な感覚を覚えて頭の中が真っ白になってしまった。

 彼との距離が腕一本分になり、危険を感じた僕は彼から目を離さないようにしながら後ろにさがる。しかし、彼はおかまいなしとばかりに、ずんずんと足音を響かせながら距離を詰めてくる。

 そして遂に、壁に僕の背中が張りついた。

 彼は歩みを止めようとしない。

 恨みのこもった上目遣いを維持しながら、僕の名前を連呼する。

 ついに――ドン、と。

 彼の華奢な右手が僕の耳をかすめて壁とぶつかった。

 少し動くだけで鼻先が当たってしまうような至近距離に迫っていた。

 女の子に勝るとも劣らない整った顔立ちを彼はしている。

 薄い唇が荒い息を吐きながら動いた。

「岬野御影、きみと双橋遊奈はどういう関係なんだ!」

 見た目を裏切らない高い声質を使って、彼はそう言った。

 

 

   *

 

 

御厨夏見(みくりやなつみ)さんですか?」

 揚げ物を咀嚼しながら、双橋は首を傾げた。

「そう、御厨夏見っていう男子生徒。隣のクラスのやつなんだけど。ほら、女みたいな顔をしたやつ」

「うーん。……ちょっとわからないですねえ。申し訳ないです」

「いや、別にいいんだけど。変なこと訊いたな、こっちこそゴメン。それより、さすが双橋だな揚げ物もプロ並に作れるなんて」

「いえいえ、それほどでもありませんよぉ」

 ほっこりとした笑みを浮べながら、双橋はショートカットの髪をゆさゆさと揺らしていた。褒められるのに弱いタイプらしい。

「ふむ」

 僕は揚げたてのそれを口に運びながら彼のことを思い出だす。

 御厨夏見――僕を呼び出した彼の目的とは、そのままストレートに、双橋遊奈と僕がどういう関係なのかが知りたかったからなのだそうだ。

 壁ドンをしたあともしばらく僕の名前を連呼し続けた彼は、叫び疲れたらしく、『急にゴメン。今日はちょっと調子が悪いから、また明日ここに来てくれ』と言葉を残して帰っていった。

 結局彼は素性を明かさなかったのだけれど、下校途中に偶然出会った生徒会長に聞けば、すぐに名前は判明した。女のような顔をした男子生徒というキーワードだけですぐに『御厨夏見』という答えが返ってきた。

 ――そして、現在。

 僕は自宅のアパートで女子デュエリストふたりとローテーブルを囲んでいる状態である。

「どうしたの岬野くん。下校途中にも御厨くんのこと話題に出してきたけど」

「いや。なんでもないよ、生徒会長。ただ、なんとなく気になったっていうか。その程度のことだから」

「ふーん」

 彼女は目を細めて、動かしていた箸を止めると、氷のような冷たい声色で言った。

「岬野くんってそういう趣味があったの?」

「ふえ?」

 情けない声がつい口からもれてしまう。だって、いきなりそんな趣味とか言われても、なんのことだかサッパリわからない。

 なんだろう、情報調査趣味とかそういうことを言っているのだろうか?

 いや。

 まさかね。

 まさか……。

「そんなことより、本当に美味いなぁ、この味噌カツ。双橋には料理の才能があると僕は思うんだけど、生徒会長はどう思う?」

「話、そらした」

「…………」

 なぜだろう。まったく悪いことをしていないのに、名探偵に追い詰められた犯人のような気持ちになってしまうのは。

 変な表情で顔は固まっちゃうし、額から汗が吹き出てくるけれど、それは生徒会長から睨まれているからだ。怖いからだ。やましいことなんて何一つないのだ。

「どうですか生徒会長! あたしの料理の感想は?」

 蛇に睨まれたカエル状態だった僕を、双橋が救ってくれた。

 彼女はきらきらと目を輝かせて、生徒会長からの感想を待ちかまえている。

「えっ、えっと。そりゃあ美味しいわよ。そうね遊奈は料理が上手ね、わたしの次くらいに」

「…………」

 双橋の表情から笑顔が消えた。というか表情が消えた。

 無表情で固まったまま生徒会長の横顔を凝視している。目からハイライトが抜けたようになっているのは僕の気のせいではないはずだ。

「いや、いいんですよ。素直に感想を言ってもらっても」

「だから言ってるじゃない。確かに美味しいけど、わたしの方が料理のスキルが上だって言ってるの」

「でも、あたしは生徒会長の作ったご飯を食べたことないですよ」

「そんなの知らないわよ。わたしが勉強担当で、あなたが家事担当なんだからしかたがないことでしょ。っていうか、なによその言い方。まるでわたしが料理をしないのは、あなたより腕が下だからみたいに聞こえるわよ」

「そんなつもりはなかったんですけどね。そう聞こえるってことは、生徒会長ご自身が料理に自信をお持ちでないからなのでは?」

「…………」

「…………」

 ローテーブルの上で火花が散っていた。

 生徒会長は負けず嫌いだが、双橋も負けず嫌いだった。

 両方の料理を食べたことのある身では、どちらもそれなりに料理スキルは高い方だと思う。

 けれど、引き分けじゃ許されないのだろうことは、わかり過ぎるほどにわかっているので、僕は口を挟まず行く末を暖かい目で見守ることにする。

「こうなったら、やるしかないわね」

「そうですね。やるしかありませんね」

 両者は茶碗をローテーブルに叩きつけ、ゆっくりと立ち上がった。二人の全身から炎のようなオーラが漂っている気がする。

 どうしたって、彼女たちの次の行動が僕にはわかってしまう。

 料理でもめたからといって、料理で白黒をつけるような彼女たちではない。

「デュエルディスクを持ってきなさい! 決着をつけるわよ!」

「望むところです!」

 どたどたと足音を響かせながら、彼女たちは裏庭へ向っていった。

 ベランダの下からデュエルディスクの起動音が鳴る。

「どうにも、ワンパターンだよなぁ」

 取り残された僕は、感慨深く呟いて、取り合えず彼女たちのおかずにラップをかけ、夕食に戻る。

 冷めないうちに決着がつくことを祈るばかりだ。

「さて……」

 そして、考える。

 明日のことを考える。

 御厨夏目について考える。

 

 

 

 

 

 

 翌日、僕は屋上前の踊り場で彼と対話することになった。

 本当は約束を律儀に守ってやるようなつもりはなかったので直帰しようと思っていたのだけれど、廊下でバッタリと御厨夏目と遭遇してしまい、彼は僕と目を合わせるやいなや神妙な顔つきで頷いた。その動作だけで意思の相通が図れていると勘違いしたらしく、彼は無言で屋上へ向って舵を取ってしまったのだ。少し迷ったけれど、僕はそんな彼の小さい背中を追いかけることにした。ここで知らん顔して帰路についても、どうせ明日にはまたコンタクトを取ってくるに違いない。今日は昨日とは違って、彼の雰囲気が穏やかだから、波が引いている内に事の解決を済ませておきたかったのだ。

「昨日はすまなかった」

 屋上前に着くやいなや、御厨は奇麗なフォームで頭をさげた。謝罪の見本ともいうべき直角のおじぎだ。

「本当にすまない。昨日は感極まって気がどうかしていたんだ。考えすぎていたというか、溜め込んでいたものが不意に爆発したというか。あれからよく考えてみたら、岬野に非はなかったと、そう気づいたんだ」

「いや、いいから頭をあげてくれ。昨日のことは確かに驚きはしたけれど、僕は気にしていないからさ」

「そう言ってもらえると助かるよ」

 ほっとしたように彼は顔をあげて胸を撫で下ろした。セーラー服が似合いそうな端正な顔立ちは今日も健在である。

 とにかく、牙をむかれなかったのは素直に助かった。さすがに、昨日みたいなことをされたらどうなるものかと内心ではひやひやしていたのだ。

 昨日は取り乱していて、とても会話になりそうになっかった彼だが、このぶんだと今日は大丈夫そうである。ひと段落終わったところで、僕は本題に入ることにした。

「それで、何の用があって僕を呼び出したんだ。昨日言ってたこと、双橋との関係だっけか。それについてなのか?」

 僕の問いかけに彼は表情を曇らせる。怒っているのではなくて、どこか申し訳ないという風だった。

「そう。双橋遊奈のことできみに相談があるんだ」

「双橋のこと?」

「本題に入る前に、質問をさせてもらってもいいかな。昨日は責め立てるみたいになってしまったらか会話にならなかったけれど、改めて訊くよ。きみと双橋遊奈はどういう関係なんだい?」

「どういう関係って……」

 そこで僕は考えた。

 双橋と僕の関係性についてだ。

 知り合いの枠は少なくとも超えていて、クラスメイトという肩書きで済ませるには惜しい存在だ。他に肩書きになるような候補は限られており、デュエリストではない僕は、彼女のライバルを名乗ることもできないし……。

「友達、かな」

 そう答えるのが精一杯だった。

「そ、そうなのか! 妙に親しい仲みたいだったから心配していたが、そうか友達なのか。だったら問題はないよな」

 僕の返答を聞いた途端、急に御厨のテンションが上昇を始めた。両手を鳴らして子供のように目を輝かせる。感情の浮き沈みが激しいというか、情緒不安定というか。とにかく騒がしい人物であることは間違いないらしい。

 その後しばらく歓喜に浸り続ける彼に痺れを切らした僕は、こちらから話を戻すことにした。

「それで、双橋についての相談ってなんだ?」

「あっ、そうだったね。えっと、本当に双橋遊奈とは友達なんだよね? それ以上の関係だったりとか」

「友達でも怪しいぞ、僕と双橋の関係性は」

 双橋と知り合ってから、彼女と親しくなることを恐れた僕は逃避行をすることによって関係性の停滞を図っていた。最近、それはなくなったとはいえ、それで激的に距離が近づいたわけではないのだ。双橋は最初から距離感を持たずして僕と接してくれてはいるけれど、僕の方はゆっくりと近づき始めた段階だった。

 だから、ぎりぎりで友達と呼べる関係だ。

「うん。だったら大丈夫そうだな。こんな相談ができるのは岬野を除いて他にいないだ」

「なんだよ。もったいぶらずに早く言え。僕は出来ればすぐにでも帰りたいんだ」

 早く帰らないと、僕の部屋がデュエルモンスターズで一杯になってしまう。双橋がステマ行為を拡大し始め、壁中にカードカタログからコピーした画像を貼り付ける作戦を企てているらしいからだ。僕にそのことをリークしてくれた生徒会長の恩義に報いるためにも、できれば早く帰宅したかった。

 こんなことになるなら昨日合鍵を渡すんじゃなかったなぁ。

 やっぱり後悔が募る人生からは脱却できないらしい。

「では、改めて相談させてもらう」

「おう」

「えっと、実はボク、双橋遊奈とお近づきになりたいんだ」

「……おう?」

「彼女と仲良くなりたいんですけど、いかんせんクラスも違うし、接点もない。双橋遊奈は部活にも入っていないみたいだからお近づきになる機会がうまく作れないくて」

「ふーん。つまり、双橋と仲良くなれる機会を作れと?」

「うん。そうなんだ。でも、ちょっと違う。直接紹介してもらおうなんておこがましいことを思っているわけじゃなくて、どうすれば彼女と仲良くなれる機会を作れるのか、きみのアドバイスを聞きたいんだ」

「……ふむ」

 つまり、彼は双橋と仲良くなりたいけれど、コネを使って楽に目標を達成したいわけじゃなくて、あくまでも自分の力で悩みを解決したいということか。でも、スタート地点から離れるきっかけを掴めないから、僕にその背中を押す役目をして欲しいと、そういうことなのだろう。

 そう頼まれると断りにくい。

 自分の力で頑張ろうとしている人間が、僕にはどうしようもなく美しく見えてしまうのだ。

「うん。わかったよ。アドバイスをするだけなら受ける」

「そうか! ありがとう引き受けてくれて」

 細くて小さい両の手が、垂れ下がっていた僕の手を掴んだ。

 強制的な握手をさせられているらしい。

 どうにも彼、人との距離が物理的に近くなる傾向にあるらしい。パーソナルスペースが崩壊しているのではないかと思われる。

 別に、強力するといってもただアドバイスをするだけで、それで双橋と確実に友人関係を結ばせてやれるだんなて保障はできない。だからそんなに過剰に喜ばれても困る。例え失敗しても、損害賠償を払うようなお金は、仕送りで生活している男子高校生には用意できないうことを頭の隅にでも入れておいてもらいたい。

「それで、どうすれば双橋遊奈とお近づきになれるんだ?」

「せっかちだな、きみは。まあ、待て。落ち着いて話を聞け。確かにアドバイスを引き受けたけれど、御厨をより良い未来へ連れていくのは僕じゃない」

「ん? どういう意味なんだ」

「この件に関して僕以上の適任者がいるってことだ。その適任者を紹介してやるよ。より相談に適した相手を紹介するのもアドバイスの内に入るだろう」

「いや、ありえないよ。岬野以外に適任者はいない」

「頑固に結論付けるなよ。大丈夫。この手の相談ごとに一番適している人物を僕は知っている」

「誰だ。それは?」

「生徒会長だ」

「…………」

 生徒会長を話題に出した瞬間、空気が凍りついた。

 僕の発した一言をきっかけに、まるで時間が止まったかのように御厨は動かなくなった。長いまつ毛を閉じようともせずに、大きな瞳は乾燥してしまうのではないかと心配になるくらいに外気に晒されたままだ。薄い唇は情けなく開かれ、呆気にとられていることが見て取れた。

「どうしたんだ、御厨?」

 戸惑った僕は、彼の華奢な肩に両手を添えて振動を与えてやる。

 首をかくかくさせた後、彼は正気に戻ってくれたようだ。

「あっ……いや、ダメだ。確かに生徒会長は双橋さんとよく一緒にいるところを見るけれど、彼女はダメだ」

「なぜだ? あの人が現状では一番適しているように思えるぞ」

「だけど、ダメなんだ。あの人は天使の皮を被った悪魔なんだ……」

 恐ろしい光景を思い出してしまったかのように、奥歯を鳴らして御厨は振るえ出した。

 よっぽどのトラウマを彼女から与えられてしまっているようだ。確かに生徒会長は弱者に優しい女神として校内でその名を馳せているけれど、その逆で強者に対してはとても厳しく接する。

 思い至って、僕は尚も御厨の肩を揺らしながら問いかけた。

「なあ、御厨。この間のテスト、点数が良かったんじゃないか?」

「ど、どうして知ってるんだ? ボクは勉強が苦手だったけれど、この間のテストは山勘が大当たりして、一教科だけ凄く良い点数が取れたよ。今後のボクの人生では二度と取れないような奇跡の点数だ」

「なるほど」

 つまり普段は成績の悪かった御厨に、生徒会長は天使の皮を被って優しく接していたが、御厨がテストの点数で好成績を収めたことによって生徒会長はその態度を一変させたということか。彼の脅え具合から予想するに相当厳しい態度を取られたであろうことが想像できる。

 おそらく、彼は不幸にもテストの点数において彼女を負かしてしまったのだろう。 

 負けず嫌いである生徒会長からのライバル認定だ。

「わかった。生徒会長を頼るのはやめておこう。となると、他に頼れる人間は……」

「いや、だから岬野に頼んでいるんだろ! ボクだって岬野みたいな人間に頼るのは不本意だけど、消去法でしかたなく頭を下げたんじゃないか!」

「…………」

 態度が人にものを頼むときのそれではなかったので、僕は少しだけかちんときた。温厚な性格を自負している僕だけれど、だからといって怒らないわけではないのだ。だいたい、この依頼における僕のメリットは皆無なので、ご好意からくるボランティアといっても過言ではなく、それなのに、そんな汚い口を叩かれてはやってられない。

 ちょっと面がいいからって調子に乗られては困る。

 内心に沸いた怒りの感情を何とか表情に出さないように気をつけながら、僕は言った。

「御厨がそんな態度を続けるなら、僕はこの依頼を下ろさせてもらうことになるぞ」

「あっ、それはとても困るからやめてくれ。ボクが悪かった許してくれ」

「お、おう」

 罵ってくるのか紳士な対応をするのかはっきりしてもらいたい。でなければ、僕が対応に困ることになる。学習能力が過剰なのは良いことだと思うけれど、急ターンは他者に迷惑だ。

 音程は一定で頼む。

「それで、どうすればボクは双橋遊奈とお近づきになれるんだ?」

「がっつきすぎだよ、きみは」

 身を乗り出すようにして、顔を近づけてくる御厨を押しのけて、僕は咳払いをした。

 なんだかんだで引き受けてしまった相談事だけあって、すぐに適切なアドバイスを思いつけるわけもなく、悩むフリをしながら御厨からの期待の眼差しを耐える僕である。だいたい、女の子と仲良くなるきっかけを僕が熟知しているわけがないではないか。こっちから女の子にコンタクトを取ったことなんて生まれてから一度だってないぞ。

 もしかしたら、やんちゃだった幼い頃の僕なら女の子に話しかける術を多少なりとも有していたのかもしれないけれど、小学生と高校生はまったく別の生き物と言ってもいいぐらいの違いがあるので、覚えていたとしても参考にはできないだろう。

 実は、最初から生徒会長に丸投げすることを企てていた僕は、その頼りの綱に禁止令が張られたとあって狼狽している。

「どうしたらいいんだ、どうしたらいいんだ、どうしたらいいんだ――」

 僕が腕を組んで呻いている間にも、御厨は急かすように催促を繰り返す。

 さすがに鬱陶しくなった僕は、まるっきり適当な助言をしてやることにした。

 よく考えれば、別に御厨が双橋と仲良くなれなかったとしても僕に実害はない。純情な子供を弄ぶようではあるが、遊んでやることにしたのだ。

「あれだよ。まずは食事に誘ってみろよ。双橋は食べるのが好きみたいだし、美味しいご飯の話題を使えば仲良くなれるんじゃないか」

「食事!? なるほど、その手があったか!」

 料理を作るのも食べるのも好きな双橋ならば、『美味い弁当を食わせてやるからお昼を一緒に食べようZE☆!』とか言ったとしてもほいほいと着いてくると思う。御厨が料理が得意なのかどうかは知らないけれど、例え料理ベタだったとしてもお弁当を味見させてくれとお願いすれば双橋は喜んでおかずを差し出すことだろう。

 つまり食の話題を使えば双橋とのフェーストコンタクトは容易に達成できるのだ。

 思いつきのアイディアではあるけれど、なかなかどうしてクオリティの高い名案に僕はたどり着いてしまったらしい。

「じゃあ、さっそく双橋遊奈を食事に誘ってみるよ! まだ学校に残っていてくれるといいけど」

「えっ」

 言うが早いが御厨は階段を駆け下って行った。僕の思考回路はスペルスピードの違いで追いつけなくて、御厨を止めることができなかった。

 どたどたと騒がしい足音が階段を下って、徐々に小さくなる。

 せっかちな子だとは思っていたけれど、さすがに即決即断過ぎるだろう。

「……なんとも騒がしい」

 僕は呟いて、御厨の後を追うことにする。

 双橋がまだ学校に残っていてくれれば、僕としても安心できるのだ。彼女が学校にいる間は、部屋のリフォームが完遂されていないということなのだから。

 そして。

 即席で作ったメロディーを口ずさみながら、階段を下りていると、三階の一室の前に御厨が佇んでいる姿が映った。引き戸を少し開けて中の様子を窺っているらしい。

「何をしてるんだ?」

「おう、岬野じゃないか。静かにしろよ。実は階段を下っていたら双橋遊奈がこの部屋に入って行くのが見えたんだ。探し始めた途端に彼女を見つけられたってことは、この出会いは神さまが仕組んだ運命ではないだろうか」

「……そーですね」

 僕はそっけない返事をして、御厨と同じように引き戸の隙間から中に目をやった。

 はたして、双橋はまだ学校に残っていて、そこにいた。

 数台の筐体が陳列されているこの部屋は、どうやらパソコン室らしい。

 そして、双橋は鼻歌を歌いながら部屋の一角に設置されているコピー機を操作していた。大事そうに抱えているのは、もしかしなくともデュエルモンスターズのカードカタログだろう。つまり、あれをコピーして僕の部屋をカード一色にする作戦らしい。

 僕の部屋の危機はともかくとして、室内に他の人影はなく、話かけるには絶好のタイミングだった。

「ほら、行けよ。早くしないと双橋が用事を済ませて帰っちゃうぞ」

「そ、そんなことを言われてもだな……」

 御厨のうなじには汗が流れていた。

 顔に似合って女々しいのか、どうやら尻込みしているらしい。僕とのファーストコンタクトではあんなに積極的だったのに、いまでは人が変わったみたいにおどおどとしている。

 彼が双橋に話かけられないのは、きっかけの有無だけではなくて、もしかしたら女の子と接触するのが苦手な体質だからというのも関係しているのかもしれない。

 僕だって自分から女の子に話かけるのには勇気がいるけれど、それでも尻込みするほどではない。

「おら、行けよ。大丈夫だ。食の話題を使えば双橋はとりあえず相手してくれるだろうさ」

「ほ、本当なのか。大丈夫なのか。もし、相手にもされなかったらどう責任を取ってくれるんだ」

「いや、責任は取らない。だけど大丈夫だ間違いなく成功する。お前の頑張りは、きっとより良い未来に繋がるだろうぜ」

「岬野……」

 御厨は震える右手を左手で抑えつけて祈るように押し黙った。心の中で何かと葛藤を繰り広げているらしい。

 やがて、彼は一歩進んだ。その表情に迷いなんてものは一切なくなっている。

「ボク、行ってくる」

 ぐっと僕に親指を突き立てて、彼は未来へと進んだ。

 パソコン室に入って行った御厨を見守るために、僕は同じ引き戸の隙間から再度室内を覗く。ちょうど双橋は印刷の作業を終えて、紙束を整えているところだった。

「ふ、双橋さん」

「はい」

 御厨が室内に入ってきたことにようやく気がついた双橋は紙束を整える手を止めて、視線を彼の方に向けた。初対面の人に話しかけられたことに対して戸惑っている様子は見受けられない。ただ、どうして話かけられたのか不思議に思ったらしく、きょっとんと首を傾げていた。

 それにしても御厨のやつ、僕の前ではさんざん双橋のことを呼び捨てにしていたクセに本人の前ではちゃんと距離感に応じた呼び方をしてやがる。

「双橋さんは、その……」

「なんですか?」

 緊張で言葉が詰まっているらしい御厨に対して、双橋はにっこりと笑顔を向けた。それがよほど眩しく見えたのか彼は肩をより高くする。

 それを見る限り、どうやら本当に御厨は女の子と話すときに緊張するらしい。

 僕を屋上に呼び出すぐらいなら、双橋を直接呼び出せばいいのではないだろうかと思っていたが、今なら僕に頼らざるを得なかった彼の心境がなんとなく理解できた。

 ふたりは停滞している。時計の秒針が刻まれる音だけがパソコン室に響いていた。

 双橋は戸惑うでもなく、笑顔を絶やさないまま黙って言葉の続きを待っている。

「あ、あにょ……」

 静寂を引き裂いて、御厨が上ずった声を出した。とても間抜けな音程だったので思わずズッコケてしまいそうになった僕である。

 クスリと双橋が口元を押さえて笑ったことにも気がつかないまま、御厨は言葉を続けた。

「も、もしよかったら、こっこここ、今夜、一緒にディナーでもいかがですか?」

 ……えぇぇ。

 いくら飯の話でも、それは初対面の相手にそれは重過ぎるだろう。

 まあ、いいか。双橋が作戦に乗るかどうかはこの際、肝要ではない。第一に優先するべきなのは御厨が双橋とファーストコンタクトを取ることだ。始めの一歩さえ踏み出してしまえば、後は楽に転がすことができる。

 千里の道も一歩から。

 何事も始めてみることが肝要だ。

「えーっと」

 双橋は案の定困った顔をして、そして申し訳なさそうに言った。

「ごめんなさい。今夜は用事がありますので」

 まあ。

 定番の断り方だった。

 

  *

 

「ダメだったじゃないか、ダメだったじゃないか、ダメだったじゃないか!」

 屋上前の踊り場に舞い戻った僕と御厨は、そこで反省会を開いていた。

 双橋にディナーの誘いをかけることに成功した彼ではあったけれど、その誘いはあっさりと断られてしまい、それっきり話を広げることもままならずに、御厨は逃げるようにそこから去ったのだ。

 まあ、しょうがないことである。

 僕としてはお弁当を昼休みに誘う段取りで考えていたのだけど、その意図を彼は汲んでくれなかったらしい。

 ディナーって、おまえ。

 それは高校生の発想ではないだろ。

「ダメだったじゃないか!」

 御厨がわめいた。僕は右手で迫り来る女顔を押さえた。

「一度失敗したからって、諦めるにはまだ早い」

「いや、そんなバカな! 一度失敗したらもう終わりだ! だって、ボクは明日から双橋遊奈とどんな顔をして会えばいいだかわからない。このままでは不登校も視野に入ってしまう」

「落ち着け。まだ策がないわけじゃない」

「本当か!? なんだその策というのは?」

 僕は額に指を当てて、考えるフリをしながら御厨からの期待の眼差しに耐えた。

 いや、勢いで策がないわけではないとか言っちゃったけど、本当のところは僕にそれらしい作戦を考えることはできなかった。唯一のひらめきはあっさり失敗しちゃったみたいだし、昼食に誘ってみろと言ったところで御厨が同じような作戦をやってくれるとは思えない。無駄にトラウマを量産させるわけにもいかないのだ。

 かと言って、やっぱり名案をそう簡単に連発できるわけもなく、僕は取り合えず誤魔化して時間を稼ぐことにした。

「ところで、どうして御厨は双橋と仲良くなりたいんだ?」

「そんなの決まったてるじゃないか! 彼女が可愛いからだ!」

「…………」

 すっぱりだった。

 確かに双橋は顔もスタイルも完成されたものを持っているので、同じ男性として彼女と仲良くなりたいと思う気持ちがわからなくもない。しかし、そんなにはっきりと『容姿がいいからお近づきになりたい』と言われると、仲介人としては気後れしてしまう。

「もちろん、彼女の容姿だけを可愛いと思っているわけじゃないぞ。しなやかなボディやあどけない顔立ちにも引かれてしまうのも事実ではあるが、それだけが彼女の可愛らしさじゃない。双橋遊奈の最大の魅力は、ちょっぴり抜けた頭にある!」

 僕が黙っていると、御厨は勝手に熱弁を始めた。

 容姿だけが目的と宣言したほうが逆に好印象なのではないかと思えるような、そんな理由だった。

「彼女のようなアホの子は現実じゃ滅多にお目にかかれないんだよ。現実に存在するか、スキップをしながら下校するような人間が。現実に存在するのか、テスト用紙に名前を書き間違えるような人間が。現実に存在するのか、片方だけ履き替え忘れて、上履きとローファーで廊下を闊歩するような人間が――」

「ストップだ御厨!」

「止めてくれるな、ボクの中に溜まった彼女に対しての感動はまだぜんぜん吐き出しきれていない!」

「とにかく落ち着け! それ以上、双橋の悪口を叫ぶなら僕はこの件から引かせてもらうぞ!」

「それは困る。すまない調子に乗りすぎた。許してくれ」

 獰猛な暴れ馬を手なずける術を僕は見つけてしまったらしい。

 それにしても、双橋の抜けているところが、メリットとして彼に写っているのは意外だった。人間関係は何が起こるかわからないものではあるけれど、まさかそんな理由で好意的に見られているとは双橋も思うまい。

「で、なんだ。他の策というのは!」

 僕が呆れ顔をしていると、御厨が制服の袖を掴んできた。シワができてしまう恐れがあるので僕はそれを振りほどいて、彼から距離を取る。

 お預けを食らった子犬のような表情を彼はしていた。

「話は聞かせてもらったぜ」

 と。

 キザなせリフが御厨の後ろから聞こえた。

 それは神路明の声をしていた。

「おおおおおおおっ!」

 まったく気配を感じさせない神路の登場に、御厨は大きく仰け反った。そして、ばっと後ろを振り返り、ワックス特盛り男に人差し指を突き出した。

「な、なんなんだおまえは!」

「俺? 俺は神路明だ。悩める男子高校生を見つけたら口を挟まずにはいられない男が俺なのさ」

「おい、神路」

 僕は二人の間に割り込んだ。

「おう御影。すまないが、今日はデュエルの催促はしてやれそうにねーぜ」

「そんなことより、いったい何の用だ」

「何の用だとは失礼じゃねえか。言ってるだろ、俺はただ悩める男子高校生の手助けをしたいだけさ」

「手助け?」

「そう。手助けだ」

 神路はやけに自信たっぷりの表情をしていた。話を聞いていたというし、何か秘策があって姿を現したのかもしれない。

 不敵な面構えを持ってして、彼は言う。

「お前がお譲ちゃんに誘いを断られた原因はただひとつ、初対面同士だったからだ」

「……ふむ」

 耳に入った言葉を噛み砕いて胃袋に流し込むように御厨は頷いた。

 神路の言うことは的を射ており、初対面の人間を食事に誘うというのはそもそも間違いだったのかもしれない。

「そこで、俺の出番だ。俺ならお譲ちゃんと面識があるから誘いを無碍に断れないだろうさ」

「おおっ!」

 得意顔をする神路に、目を輝かせて拍手を送る御厨だった。

 そんなふたりの姿を、僕は冷めた感情で眺める。

 神路が双橋を食事に誘えたところで、何の意味もないんだけどなぁ……。

 うん。

 根本的な問題があるとするならば、この作戦に加担した野郎どもが漏れなく全員バカだったということだろう。それに僕も含まれていると思うと嫌な汗が全身から噴出しそうになるけれど、それを甘んじて受け止めようではないか。

「さっそく行くぜ、着いてきな!」

「おう!」

 意気揚々と階段を下っていく二人の後を、僕は少しだけ距離をあけて着いて行く。

 一階まで降りて、昇降口に双橋の上履きが残っているかを確認し、彼女がまだ校内に残っていることが判明しすると、彼女が行きそうなところを僕は提示し、そして、その候補の一つ目がどんぴしゃだった。

 双橋は生徒会室で呑気に湯呑みを傾けていた。

 引き戸の隙間から覗いた限りにおいて、生徒会長の姿は見えなかった。双橋がここにいるのなら間違いなく生徒会長も同伴しているはずなので、グットタイミングなことに彼女は職員室かお手洗いにでも行っているのだろう。

「よっしゃ、行くぜ」

 小さい声で神路は宣言して、生徒会室に侵入した。僕と御厨は部屋の外に身を潜めて、音声だけで二人の行く末を見守ることにする。

「おっす、お譲ちゃん。久しぶりだな」

「ん? えっと、あの……」

「いつも御影のやつを世話してくれてサンキューな。ホント感謝してるんだぜ、御影は自分じゃなにもできないダメ人間だからさ、お譲ちゃんの生活サポート能力があいつには不可欠な要素だ」

「それはどうも」

「そこでだ。御影の世話をしてくれているお譲ちゃんに感謝を込めて、今夜のディナーに招待しよう」

「……えっと、すみません、あなたどちらさまでしたっけ?」

 まあ。

 世の中そんなものだ。

 

 

    *

 

 

「おい、御影! お前が最後の希望なんだ、頼むから行ってくれ!」

「そうだそうだ、ボクたちの無念を晴らしてくれ!」

「…………」

 なぜだか、双橋をディナーに誘う順番が僕に回ってきたみたいだ。

 どうも彼ら、最初の目的を完璧に見失って双橋をディナーに誘えれば勝ちみたい思っているらしい。

 いや、ホント、僕が双橋をディナーに誘えたところで、意味なんてなにもないのに。

「……なんだかなぁ」

 廊下の曲がり角に体を隠して、生徒会室を監視する僕たちだった。いま、あの部屋には生徒会長が帰還しているので、双橋にお誘いをかけることが難しい。だから彼女が出てくるのを待っているというのが現状だ。

 そして――

「おし、お譲ちゃんが出てきたぞ、いまだ行け御影!」

「ボクたちの戦いを無駄にするなよ!」

 そんな耳打ちをされた僕は、進まない足を無理やり動かして、双橋の前に躍り出た。

 急に立ちふさがった僕に向かって彼女が驚いた顔をしているのは、きっとたぶん僕の表情が凄く情けないものになっているからだろう。

 躊躇するような間柄では、僕と彼女はないので、誘いの言葉はスムーズに口を出た。

「なあ、双橋」

「はい、なんでしょうか御影さん」

「今夜、一緒にディナーでもどうだ?」

「んん? ディナーって、えっと、それはお夕飯のことですよね。……それならここしばらく毎日ご一緒しているではありませんか、おかしなことを言わないでください。あっ、今日はお魚料理を予定してるのですが、よろしかったですか?」

「……うん」

 まあ。

 出来レースだ。

 

 

 

 

 

 今朝は倦怠感に埋もれた中で目が覚めた。

 僕の十六年という人生の中でベストファイブに入るほどの、それは目覚めの悪さだった。マラソンを全速力で完走してもここまで疲労することはないのではと思えるぐらい体中がだるい。

 ぼんやりとした視界が最初に捉えたのが、デュエルモンスターズのカード群だった。それもA4サイズである。双橋はわざわざ拡大印刷してやがったのだ。A4の紙は天井だけであきたらず部屋中の壁から床にまでおよんでいて、視界一杯にデュエルモンスターズが広がっている。それも、ご丁寧なことにカラーコピーだ。本来のイラストがもつ美しさを保っているのならばちょっとした美術館ぽく見えなくもないのだけれど、無理矢理拡大処理をされているものだからカードのイラストが荒くなっていて、とても残念な仕上がりになっていた。双橋の情熱はおかしな方向にばかり突き進んでいるようで、トイレや風呂場にまでカード画像を貼り付けるありさまである。風呂場に貼り付けてあるA4に、わざわざラミネート加工を施しているあたり、気配りが憎い。ただ、昨夜、シャワーを浴びただけで両面テープの粘着力が水滴によって低下してしまったので、その頑張りは無駄に終わったようだけど。

 よって、不祥不祥、居心地のよかった我が家は見事に精神の不安定化を促進させる小部屋に生まれ変わったのだ。

「…………」

 僕はベットから上半身を起こした体制で異常に満ちた部屋を見回した。

 そして、溜まっていた息を吐き、腕を伸ばして、鳴ってもいない目覚まし時計をなんとなく叩いた。

「……あぁ」 

 時計の針を見て認識の誤りに気がついた。決して間違いではなかったけれど、より正確には『鳴り終わった目覚まし時計』とするべきだった。

 一時間目が終わっている。

 高校生活初の遅刻体験だ。

 成績が悪い僕は、そのマイナス面を補うために無遅刻無欠席を心情としていた。少しでもまともな生徒として見られるように心がけていたのに、その努力は、あっさりと崩れてしまった。

 僕が遅刻したことによって、また生徒会長が喜んでしまうなあ、などと考えて少しだけ憂鬱な気分になった。

 まあ、僕のような非凡な人間が真っ当な高校生活を渇望することなど笑止に値することかもしれない。

「……どうでもいいや」

 ――どうでもいいや。

 なんだか全てがどうでもよく思えてしまう僕がいる。

 デュエルモンスターズによって、憩いの我が家が大変なことになっているのに、ろくな感想を抱けない。部屋を彩っているカード画像群だって、ただ両面テープで貼り付けているだけの印刷紙でしかなく、剥がそうと思えばいくらでもはできるはずなのに、僕にはそれをする気力すらなかった。

 どうでもいい、なにもかもどうでもいい。

 成績のこととか学校のこととか、クラスのこととかクラスメイトのこととか、趣味のこととか青春のこととか、デュエルのこととか神路のこととか生徒会長のこととか――

 なにもかもが取るにたらないことのような、他愛もないことのように思えて、とにかく悲観した結論にばかり傾いてしまう。

 どうでもいい。

 人生における八割以上の出来事は無駄なことであると僕は日ごろから思っているが、今日からその認識を改める必要がありそうだ。人生における十割は無駄なことであると、そう提唱してやろうという気になってしまう。

 なってしまう。

 明日のこととかテストのこととか、三人分の食費が積もって親からの仕送りが底をついてしまいそうだとか、デュエルを卒業した自分のこととか、僕が十六年の人生で培ってきた何もかもが、全部丸っと含めてどうでもいいことのように思えてならない。

 どうでもいい

「本当に、どうでもいい」

 僕は呟いて、また枕に頭を乗せた。

 天井の光景がぼやけてきて、よくわからなくなる。

 そしてまぶたを閉じて――思いだす。

 できれば思い出したくもないので、回想なんて真っ平ゴメンなのだけれど、それでも頭の中に焼き付いてしまった記憶を消しさることのできる術を僕は持ち合わせていないのだからしかたがない。

 脈略もなく記憶消去装置を携えたどこかの研究機関に所属した丸メガネの博士が出てきてくれれば、残りの人生の全てをその人に捧げて感謝を表してもいいと思っているが、それでも現実として現れてくれないのだからしたがない。

 頭をぶつけることで記憶が消せるのなら喜んで人間トンカチになってやろう。

 しかたがない。

 しかたがないで済ませたくはないけれど、しかたがない。

 それは夢のように、あるいは走馬灯のように、僕の頭を駆けめぐる。ぐるぐると永延に巡る巡る、昨夜からずっとだ。

 ――あの後。

 ――双橋をディナーに誘ったあの後。

『さすが双橋さん! 岬野みたいなダメ人間のために献身的な姿勢で生活のお世話をしてあげてるだなんて、天使を超越したかのような存在だ!』

 さんざん攻め立ててきた御厨に、首をガクガク揺らしながら僕は事情を説明し続けて、神路の手助けもあってなんとか話しが伝わったことで解放されるに至った。

 その代償として、双橋が僕の勉強をサポートするために世話を焼いていると知った御厨は彼女に尊敬の念を送ることとなる。

 恋は盲目とはよく言ったものだ。

 そして、屋上前に戻った僕たちは反省会を催し、散々悩んだ挙句に出た結論は、

『デュエルだろ』

 神路の一言だった。

『デュエルを申し込むのが一番手っ取り早いだろ。お互いの共通の趣味があるっていうのはなによりのメリットだ。それを有効活用しない手はない。一度デュエルをしてしまえば、あとは雪だるま方式で自然と仲良くなれるに違いない』

『た、確かに言われてみればその通りです! すげーや神路さん。岬野なんかよりよっぽど的確なアドバイスをくれるぜ』

 僕は御厨がデュエリストであるということを知らなかったので、デュエルという考えが浮ばなかっただけだ。それなのに、まるで役立たずを見るような目で睨まれるのはとんだ筋違いというものだ。

 そもそも御厨だって、デュエルを申し込むという簡単な作戦も思いつかなかったのだから僕のことを責めれれなはずだろうに。

 まあ、御厨から見下されるのは始めからだったし、そのことに対して慣れてしまったというのが僕の本音だ。だから、わざわざ騒ぎ立てるつもりはなかった。守るようなプライドがないのが僕の取り柄である。

 作戦が決まったことで事は急展開を見せた。

 反省会を終えた僕たちは、さっそく双橋と御厨のデュエルを設けるために、彼女を探した。

 幸いなことに、そう苦労することはなかった。双橋はまだ学校に残っており、パソコン室で印刷物をラミネート加工していたのだ。

 御厨は彼女に近づいて、そして、言った。

『明日、僕と結婚を賭けてデュエルしてください!』

 衝撃的だった。

 衝撃的なバカだった。

 高校生の思考回路から、彼は離脱している。恋愛における大切な過程をすっ飛ばしてそのままゴールに一直線にダイブするような奇行だ。いくらせっかちな性格をしているからといって限度というものをまるでわきまえていない。

 これはさすがに、デュエルマニアの双橋でも断ることだろう。最悪、御厨とは今後一切口をきいてくれないかもしれない。

 僕と神路は物陰から、そんな御厨の先走った言動にあきれ返っていた。いや、驚いたのかもしれない。女の子にまともに話しかけることもままならなかったはずの彼が、超然とした態度を保ってプロポーズを決めることができたのだから。

 男女の付き合いというものは急速に発展させてはならない。ゆっくりと時間をかけて相手のことを知って理解し合っていく、それが正しい恋愛のありかたであり、そのゴールが結婚なのである。過程を楽しむのが恋愛の醍醐味と言えるのだ。これは僕がロマンチストだからこそ抱いている持論なのだけれど。

 御厨は、それらの大事な順序を蔑ろにして自ら醍醐味を放棄しているようなものである。

 ましてや初対面に限りなく近い相手にプロポーズをしてしまっては、好感度が急降下しても文句は言えない。

 残念だったな御厨。

 まあ、世の中には女性が無数に存在するのだし、お前は顔もいい部類だ。せっかちな性格を許容してくれる女性だってきっとそのうち現れてくれるさ。だから今回は諦めてくれ。

 なんて――

 そんな風に上から構えていた僕は、あっさりと打ち落とされることとなる。

『いいですよ』

 にっこりと。

 いつものように満面の笑みで、双橋遊奈は首を縦に振ったのだ。

 

 

   *

 

 

 僕が再び目を開けてときには、時刻は大変な頃だった。

 ぼやけた視界が次第に鮮明になっていき、ぼやけたカードのイラストたちが露になった。

 二度寝したことにより、気持ちの動揺がなくなって、なんとなく落ち着いてしまっている。本当はもっと混乱していたいし、なんなら一週間くらい部屋でひきこもっていたき気持ちで一杯だったのだけれど、僕はバカだから、悩み事をいつまでも悩み事として留めておくことができない。いや――嘘だ。僕はネガティブだから、一度した後悔や嫌な思い出はずっと頭の中で苔のようになって残っている。必然的に墓の中まで連れて行くことになるだろうその苦い記憶の数々を租借しながら、僕は今日も生きている。

 だから、なのかもしれない。

 悩みを悩みとして受け入れ、嫌なことを嫌なことだと捉え、汚いものを汚いものとして認識する。そんな毎日を過ごしてきたことによって、僕はネガティブな思考に慣れてしまってたのかもしれない。

 落ちるところまで落ちた切って、そこで憂鬱な気持ちと友達になってしまった。

 だからこそ、僕は成績が悪いことを受け入れられるし、他人に哀れまれても平然としていられ、罵倒されてもケロッとしていられるのだ。

 ――僕には悩み事をする価値すらない。

「……行きますよ」

 なんだか部屋中に飾られたデュエルモンスターたちから急かされているように思えて、僕は学校に向うことにした。無遅刻は破綻してしまったけれど、まだ無欠席にはできるかもしれない。

 ベッドから体を起こし、取り合えず洗面台に向う。顔を洗って気分をすっきりさせたかった。

 洗面台の鏡にもカラーコピーした紙が張られていた。それは《F・Aスラッシュ・ジャイロ》だった。双橋の持つカードは一般では手に入らない貴重なものであり、カードカタログにも掲載されていない珍品だ。それなのに、そのカラーコピーがA4用紙一杯に広がっているということは、どうやら彼女、実物のカードも使ってコピーを取っていたらしい。

「…………」

 僕は少し考えて、その紙を剥がした。

 乱暴に破り捨てることは、なぜか頭の片隅にも選択肢として現れなかった。丁重に両面テープを剥がして、シワが付かないように気をつけながら、壁にある他のカラーコピーの上に重ねた。

 鏡には両面テープの後が残ってしまっているけれど、そこは問題ではない。

 肝要なのは、僕の目が充血すらしていなかったことだ。

「……悲しいのになぁ」

 悲しいはずなのに。

 泣きたいはずなのに。

 なんなら一生布団にうずくまって、そこで人生の最後を迎えてもいいような気構えでいるはずなのに、一滴の雫も垂らすことができない。

 僕は満足に落ち込むことすらできないみたいだ。

 落ちこぼれの成れの果てとしては上出来なのかもしれない。

 どうにもショックに慣れすぎてしまった。人間らしく膝を抱えて泣くこともできやしないし、感情が欠落しているわけでもないのに僕は平然とした顔をしている。

 取り合えず、蛇口を捻って顔を洗った。

 そして、考える。

 双橋が御厨の要求を冗談に捉えているとは思えない。なぜなら、彼女は以前、あのバカみたいな誘拐事件を真に受けていたことがあったからだ。あのとき、彼女は本気でプレッシャーを感じていたし、そのことを気負いすぎてデュエルの最中に膝を折ったりもした。

 単純思考なのが双橋の持ち味だ。

 だから、あのバカみたいなアンティールールを鵜呑みにしていても不思議ではない。

 では、なぜ自分の将来がかかったデュエルを申し込まれて、彼女は平静を装っていられるのか。あのくだらない誘拐事件のとき、彼女は本気で僕のことを心配していたし、気負っていた。だからこそ、僕は彼女がプレッシャーに弱いタイプなんだと認識したものだ。

 今回の彼女がなぜ平気そうな顔をしていられるのか、その理由付けが僕の中で生まれない。

 御厨から勝負を挑まれたとき、まるで親からおつかいを頼まれた純粋な子供のようにすんなりと頷ていた。あまりにも軽すぎる。その後もおかしな言動は一切なく、いつもどおりの彼女だった。

 いや、少しそわそわしていたっけ。

 つまり、つまりだ――

「……邪推、かな」

 僕は顔をハンドタオルに埋める。

 双橋の内面を考査するための材料が圧倒的に足りていない。これでは推理にもなりはしない。

 彼女のことを少しばかり知っているからといって、それですべてが理解できるわけではないのだ。

 そして、僕は急ぐでもなく、ゆっくりと着替えをして、ローテーブルの上でラップに包まれている魚料理を電子レンジに突っ込んだ。朝からなにも食べていないからお腹になにか入れておきたかった。

 昨日は食欲がなくて、残してしまった双橋の手料理だ。

「うん、美味い」

 時間が経ってもその味は衰えていない。

 僕は半日ぶりの舌鼓を打ち終えてから、玄関を出た。ゆっくりとした足取りで通学路を消化する。

 考えながら歩いていると、あっという間に目的地に辿りついた。といっても僕が考え事をしているのはいつものことなので、もしかしたらただ単に学校が近いだけなのかもしれないし、実際に近かった。そもそも学校が近いから僕はあのアパートに住んでいるのだ。

 グラウンドはクラブ活動に性を出す生徒たちで溢れていた。

 下校途中の生徒と何人からすれ違ったけれど、誰も僕に声をかけてくれることはなかった。名前を知っているクラスメイトを何人か見たのだけれど、あっちは僕に気づいた素振りは見せない。さすがクラスの日陰ものだけあって、僕のことを認知している生徒の数は少ないらしい。

 思い返してみれば、御厨とだって僕が双橋と仲良くしていなかったら接点を持つこともなかっただろうし、生徒会長とだって僕が落ちこぼれでなかったら優しく接してくれることもなかっただろう。

 唯一だ。

 唯一、双橋だけが僕を僕として見てくれていたのだ。

 きっかけはデュエルモンスターズだったけれど、そこには『僕とデュエルするため』という明確な目標があった。それは、ちゃんと彼女が僕を認識してくれていていることの証拠だ。

 そんな彼女を無碍にして、そのアプローチに裏があるのではないかと疑っていた。

 なんと情けないことだろう。

 なんと酷い仕打ちだろう。

 鶴の恩返しならぬ、鶴の虐待だ。

 僕は、双橋に疑いの眼差しではなく、恩を持って接するべきだったのだ。

 つまり、僕は――

 つまり、僕は――

 つまり、僕がするべきことは―― 

「こら、岬野くん。遅刻にも限度があるわよ」

 学校に着いた僕をはじめに迎えてくれたのは生徒会長だった。午後の授業が終わってこれから生徒会室に向う途中だったらしい。

 叱っているはずなのに、なぜだ嬉しそうに顔をほころばせているのが妙に不気味だった。

「っていうか、もう授業終わってるのに、登校する意味あるの? どんな理由があったかは知らないけれど、どうせなら休めばよかったじゃない」

「それは、その通りなんだけどさ。ちょっと気になることがあったから」

「気になること?」

「うん。えっと、双橋はまだ教室に残ってる?」

「いいえ。男子生徒と一緒に帰っちゃったわ。なんでも近所の公園へ行くんですって。ほら、前に岬野くんが話してた御厨くんと」

「ふーん。そうなのか」

 なんでもない風を装って、僕は答えた。

 生徒会長が怪しむように目を細くしたので、僕は慌てて話題を変えることにする。

「あのさ。まだ出席、間に合うかな? 僕、無欠席を狙ってるから、できるなら出席カードに丸をつけておきたいんだよね」

「うーん。どうだろうね。授業終わっちゃったわけだしね。正直、難しいと思うわ。でも、どうしてもっていうんなら先生に相談してみたら? うちの担任は緩い人だからきっとどうにかしてくれるはずよ」

「うん、アドバイスありがとう。そうしてみるよ」

「どういたしまして」

「あのさ、生徒会長。ちょっと聞きたいことがあるんだけど」

「なに?」

「もしも、結婚を賭けてデュエルしようって言われたらどうする?」

「えっと、……どういう意味よそれ」

「あんまり深く考えなくていいよ。結婚ってのがあれだったら、デートを賭けてもいいし、なんならお弁当を賭けるとかジュースを賭けるとかでもいいんだ」

「それはちょっと、振り幅が広すぎるんじゃないかしら……。まあ、そうね。デュエルを賭け事に使うのはよくないことだとは思うわよ」

「ほう、意外だよ。なんでもデュエルで決着をつけようとする生徒会長のセリフとは思えない」

「んん? それはどういう意味よ。わたしがいつデュエルでなんでも決めようとしたの?」

「ははは。まあ、自覚がないならそれでもいいよ。じゃあ、僕はもう行くね。今日も仕事手伝ってあげられなくてごめん」

「いらないわよ。手伝いなんて……って、ちょっと待ちなさいよ岬野くん、そっちは昇降口よ!」

 生徒会長の静止の声を無視して、僕は急いで靴を履き替えて、校門を出た。

 双橋たちが向った公園は大体察しがつく、近所に公園は数件しかなく、デュエルが出来そうな広さを持ったところとなればさらに数を絞ることができる。

 僕は走るのが得意だ。もっとも男子の平均速度より少し劣る程度のレベルでしかないけれど、それでも僕の総合ステータスの中ではトップクラスに高い数値を誇っているのだ。昔はデュエルモンスターズが僕の誇れる唯一のステータスだったのに、それを卒業した今では、誰にも自慢できるようなことがなくなってしまった。

 けれど、この瞬間だけは脚の速さを自慢できる。

 普段なら走って十五分ほどかかる場所だったけれど、今日この瞬間に限っては五分で辿り着くことができた。

 芝生が引き詰められた公園には、ふたりのデュエリストの姿しかなかった。

 逆を言えば、ふたりのデュエリストの姿はそこにあった。

 僕は気づかれないよう石垣の影に身を隠した。

 

 

  *

 

 

 御厨が舌を鳴らした。

 先攻になってしまったのが悔しいらしい。せっかちな彼は、攻撃できない先行よりも後攻の方を好んでいるのかもしれない。

 結婚を申し込むほど恋しく思っている相手と向かい合っているのに、舌打ちなどという印象に悪いことをしてしまっているが、そんなことにも頭が回らないほど、彼は本気でこのデュエルに挑んでいるのかもしれない。

「ボクはモンスターをセットして、ターンエンド」

 とても短いターンだった。

 後攻に特化したデッキなのであれば、バトルフェイズを行えない最初のターンでは行動する意味がないのかもしれない。伏せたモンスターもただ相手の攻撃から身を守る役割しか持っていないと僕は見た。

「あたしのターン、ドロー!」

 続く双橋のターン。

 結婚という人生の一大イベントをかけているはずなのに、彼女の表情はいつもと変わらないものだった。デュエルを楽しむかのように、朗らかな表情でカードを手札に加える。

 どうしてそんなに呑気に構えることができるのか、僕には彼女の考えていることがまったくわからない。

 ――わかりたくなかった。

「手札から《F・Aスクリプト・コントローラー》を攻撃表示で召喚! このカードが場に出たとき、デッキの上からカードを二枚、永続魔法カード扱いで場に出します」

「おお、《F・A》だって? さすが双橋さんだ! ボクの知らないカードを所持しているだなんて!」

 もはや無理矢理双橋を褒めようとしているとしか僕には思えないけれど、御厨はあれで心の底から彼女に賞賛を送っているつもりらしい。

 メタリックなアーマーに身を包んだエージェントは手にしている機器を操作してフィールドに2つの映像を表示した。2枚とも茶色い枠をしている。魔法・罠ゾーンにモンスターカードが並んでいる光景に、僕はまだ慣れることができない。

「さらに、《フューチャー・ウエポン 時断ちの太刀》を装備して攻撃力を800ポイントアップさせます。このままバトルフェイズに入り、《F・Aスクリプト・コントローラー》で、伏せられたモンスターに攻撃です!」

 2000ポイントの威力を持った斬撃が、裏側守備モンスターに叩き込まれた。セットされていたカードは反転し、ボタン電池をモチーフにした愛らしい容姿のモンスターが容赦なく真っ二つにされるビジョンが映された。

「さすが双橋さんだ、裏守備モンスターに臆することなく攻撃をしかけてくるだなんて。でも残念だったね、セットされていたカードは、《電池メン―ボタン型》だ! このカードがリバースしたとき、デッキから《電池メン》モンスターを特殊召喚できる」

「こ、攻撃したぐらいで褒めないでください」

 調子が狂いますから――と双橋は頬を染める。

 恥ずかしがっているのが目に見えてわかるのが彼女の特性だった。褒められるのが好きな双橋と、褒めることしかしない御厨は、案外相性がいいのかもしれない。 

 ……相性がいいって。

 自分で自分の首を絞めているような気がするのはなぜだろう。

「ボクが特殊召喚するのはこいつだ、《電池メン―角型》! この《角型》の効果は、デッキから他の《電池メン》を手札に呼び出すこと。ボクは《充電池メン》を手札に加えるよ」

「《充電池メン』ですか、やっかいなカードを握らせてしまいました……。ですが、絶望の未来をひっくり返すのが《F・A》の役目。ピンチな展開こそ本望です」

「さすが双橋さんだ。そんな恥ずかしいことを真顔で言えるなんて」

「ちょっと、だからあんまり褒めないでくださいよ!」

 褒めているんだかバカにしてるんだか判断の難しい御厨の言葉を双橋はプラスに捉えたらしい。実際のところ御厨も褒めているつもりだろうから意思の齟齬があるわけではないけれど、なんだか傍から見ていると切ない気持ちになる。

 現実逃避をするように、ふたりのデュエリストからフィールドのモンスターへ視線を戻すと、ボタン電池から呼に出された角型電池の、その攻撃力が1000ポイントから2000ポイントに倍増されているところだった。

「《電池メン―角型》はデッキから《電池メン》を呼び出す効果を使ったとき攻撃力が倍になるのさ。さて、双橋さん、きみはこれでターンエンドかな?」

「いえ、まだあたしのターンは終われません。カードの効果処理が残っているはずですよ」

「ん?……おっと、本当だ。まだ処理するべき効果が残っているね。双橋さんに見蕩れて《ボタン型》の効果を忘れていたよ」

「だから、褒めないでくださいよ!」

「《ボタン型》のもうひとつの効果、リバースしたこのカードが戦闘で破壊された場合、デッキからカードを一枚ドローする」

 デッキからモンスターを呼び出せるだけでも強力なのに、さらに手札を増やせる効果を備えているとは、とってもお徳なボタン電池だった。

 これで御厨の手札は《電池メン―角型》の効果で呼び出された《充電池メン》と、《電池メン―ボタン型》でドローしたカードによって、枚数は6枚になった。次のターンに通常ドローをすれば七枚になり、おまけにフィールドに《角型》まで展開できている。御厨のデッキは後攻に特化だと予想していたけれど、そんなはなかった。

「あたしは、メインフェイズ2で魔法カード、《勲章予約》を発動。デッキから《F・A》モンスターをゲームから除外します。この効果で除外されたモンスターは相手のターンのエンドフェイズ時にフィールドに現れます。《F・Aラバー・ガール》をゲームから除外。これでターンエンドです」

「さすが双橋さん。エンドの発音がとてもチャーミングだ」

「もう、やめてください」

「ボクのターン、ドロー! 行くよ、フィールドの《電池メン―角型》をリリースし、《充電池メン》をアドバンス召喚!」

 《角型》が墓地に送られ、レベル6の《充電池メン》が場に現れた。その元々の攻撃力は1800ポイントだ。

 2000ポイントの力を持ったカードと引き換えに1800ポイントのモンスターを召喚するプレイングは、一見すると愚行に思われてしまうことだろう。だが、《充電池メン》はフィールドの《電池メン》モンスター1体につき攻撃力を300ポイントアップする能力を持っており、その効果の対象は自身も含まれているので2100ポイントの攻撃力になる。

 もちろん、攻撃力をわずかにアップさせるだけのために御厨は手札を消費したわけではない。《充電池メン》はフィールドに出たとき、メインとなる効果を発揮する。

「《充電池メン》が召喚に成功したとき、デッキから《電池メン》モンスターを1体特殊召喚できる! 2体目の《電池メン―角型》呼び出させてもらうよ!」

「その展開力、さすがですね」

「やった、双橋さんに褒められた!」

「あたしが褒めたのは《電池メン》ですよ!」

「双橋さんに褒められたことで、ボクのテンションがアップする!」

「だからあなたのことじゃないですし。カードの効果みたいに言われましても……」

「テンションの上昇したボクが手札に加えるのは《燃料電池メン》だ! このカードはフィールドに2体の《電池メン》が存在するとき、手札から特殊召喚できる」

 御厨のフィールドには《充電池メン》と《電池メン―角型》が存在するので、『燃料電池メン』の特殊召喚条件は整っていた。2100ポイントの攻撃力は中堅クラスの数値であり、決して高いとは言えないけれど、しかし侮ることはできない。中型クラスのモンスターでも数が揃えば十分な戦力になりうる。《電池メン―角型》の攻撃力は自身の効果によって2000ポイントにアップしているし、《充電池メン》の攻撃力もフィールドに《電池メン》が増えたことによって上昇している。双橋のフィールド事情を考えると、苦しい戦局だった。

「まだまだ行くよ、双橋さん! 手札から魔法カード、《漏電(ショートサーキット)》を発動。このカードは自分フィールドに《電池メン》が3体以上存在する場合にのみ発動できるんだ。きみのフィールドのカードはすべて破壊される!」

「……くっ」

 3体の《電池メン》が一斉に光を放ち、双橋のフィールドを電撃が走り回った。目映いスパークが終わった後、フィールドには焦げ跡だけが残った。もちろんこの焦げ目はソリットビジョンによるただの映像なので、実際の芝生に害があるわけではない。

 それにしても、不味い展開になった。双橋のフィールドにはカードが残っておらず、御厨の布陣はどれも攻撃力2000ポイントを超えたカードばかりだ。

「《電池メン》の目玉カードのひとつ《漏電》ですか。そのカードを使用するデュエリストを見たことはありましたが、自分で体験するのは初めてです。やっぱり生は迫力がありますね」

 圧倒的ピンチな状況なのに、人生を左右する一大イベントを賭けたデュエルなのに、双橋はこの展開を楽しんでいるように見えてしまう。

 それは僕の勘違いなどではなくて――

 勘違いであって欲しかったけど勘違いなどではなくて、実際に双橋はデュエルを楽しんでプレイしている。

 あのくだらない誘拐事件を本気にして、ガタガタと震えていたはずの彼女なのに、今は負けることを恐れていない。それはきっと呉羽からの一言がきっかけで彼女が成長しているということで――そういうことであって欲しいわけで。

 考えるのが怖い。

 どうしようもなく怖い。

 ピンチをチャンスに変えることをコンセプトとしている双橋にとっては、もはや恒例ともいえる状況のはずなのに、なぜか僕の胃は万力で締められたかのように圧迫されている。

「まだまだ! ボクは墓地の《電池メン―ボタン型》と《電池メン―角型》をゲームから除外し、手札から《電池メン―業務用》を特殊召喚!」

 攻撃力2600ポイントの大型《電池メン》がフィールドに降り立った。白い火花を散らしながらの過剰演出でご登場だ。

 今の状況でも十分に双橋のライフを削りきれるはずなのに、御厨はモンスターの展開をした。それはせっかちな彼の性格をよく表していると僕には思えた。モンスターの速攻展開、フィールドを一掃してのごり押し、猪突猛進、過程をすっ飛ばして結果にひた走る彼に《電池メン》はピッタリのデッキなのかもしれない。

「さあ、受け止めてくれ双橋さん! ボクの全力をかけた攻撃を!」

 バトルフェイズが始まった。

 圧倒的ピンチの状況で双橋が余裕の態度を保つのはデフォルトなのに、どうしてか僕には、その表情がいつもとは違ってみえた。

 どうしても見えてしまう。

 そんなわけないのに。

 ――双橋がわざと負けようとしている風にしか見えない。

「まずは《充電池メン》でダイレクトアタックだ!」

 フィールドに《電池メン》が4体存在することによって、《充電池メン》は3000ポイントの攻撃力を有する大型モンスタークラスに成り上がっていた。

 双橋の墓地に例の罠カードはない。

 反撃の狼煙は上がらない。

 

  *  

 

「……あれ?」

 御厨がその端正な顔を傾けた。

 彼の攻撃宣言を《充電地メン》がまったく聞こうとしなかったからである。あのモンスターはとぼけた表情をしているため、ボーっと呆けているようなようにしか見えない。攻撃力3000ポイントのモンスターは双橋へのダイレクトアタックを実行に移す気がまるでないらしい。

「どういうことだ? ディスクの故障かな……」

「違いますよ、御厨さん。あなたのモンスターが攻撃を行わないのは、バトルフェイズが始まっていないからです」

「んん? そうなのか。うっかりバトルフェイズに入りわすれてたかな」

「そうではありません」

 双橋は得意顔で言った。

「あなたのバトルフェイズは時空から切断されています。あたしが使った装備魔法、《フューチャー・ウエポン 時断ちの太刀》のカード効果です。このカードを装備したモンスターが相手のレベル4以下のモンスターを戦闘で破壊していた場合、次の相手ターンのバトルフェイズをスキップするのです」

「さ、さすが双橋さんだ! こうなることを予期してあらかじめ仕組みを施しておいたんだね!」

「あの、もう、本当に褒めないでくださいよ。調子が狂いますから」

 褒めすぎると彼女はペースを乱されるらしい。

 さて、バトルフェイズを回避したということはこのターンで双橋が敗北することはないということだ。次のターンが回ってくれば双橋に逆転のチャンスはある。《電池メン》は展開力と場の制圧に優れた効果を持つものが多いけれど、《電池メン―業務用》などの除去効果を内蔵したモンスターは自分のターンにしか効果を発揮できない。つまり耐性力が低い。

 双橋には《勲章予約》によって除外された《F・A》モンスターがあり、それさえあれば次のターンで戦闘用のモンスターを呼び出せる。状況を引っ繰り返すことは可能だ。

「ボクはこのままターンエンド。《電池メン―角型》はボクのターンのエンドフェイズ時に破壊されるよ」

「この瞬間、《勲章予約》で未来へと飛ばされていた《F・A》が現在に追いつきました。《F・Aラバー・ガール》を特殊召喚です!」

 アーマーを身につけず、メリハリのついたボディをラバースーツで包み扇情的な表情をしたモンスターが光の柱から現れた。過去から未来に飛ばされて現在にやってきたエージェントのお目見えだ。

「そしてあたしのターン、ドロー! スタンバイフェイズに入ったことにより、《F・A》にフューチャーカウンターがひとつ乗ります!」

「おおっ! なんだかわからないけど双橋さんすげー」

「なんだかバカにされているようにしか思えないんですけど……」

 双橋が肩を落としてうなだれた。

 褒めて伸びる子にも限度があるといういことらしい。

「気を取り直して続行しますよ。《F・Aラバー・ガール》にフューチャー・カウンターが乗ったとき、第2の効果が発動します。《ラバー・ガール》は未来のアイテムを所持していませんが、そのかわりに、過去に取り残された《F・A》を現代に召集する能力を宿しています。つまり、墓地にある《F・A》1体をフィールドに特殊召喚することがでるのです」

「おおっ、すげー!」

「あたしが《ラバー・ガール》の効果で選択するのはこのカードです! 《F・Aグラビティ・ブーツ》!」

 それは初めてみる《F・A》だった。

 下半身をメタリックなアーマーで装飾して、上半身はラバーガール同様にほぼ生身だ。ノースリーブのTシャツみたいな服で決めた、不思議なファッションをした女性型モンスターだ。《F・Aスクリプト・コントローラー》で魔法・罠ゾーンに出され、《漏電》で墓地に送られていたのだろう。

 そして、これでフィールドにフューチャー・カウンターと2体の《F・A》が出揃った。双橋のエースカードが現れるのは目前だ。

「フィールドのフューチャー・カウンターを1つ取り除き、2体の《F・A》を墓地に送ることで、エクストラデッキから戦闘特化の《F・A》が現代にあらわれます!」

「おお、凄いぜ双橋さん! なんだかすごいぜ双橋さん!」

「くどいですよあなた。……えっと、そういえば、お名前は?」

「えっ、ボクのこと知ってくれてたんじゃないの?」

「いいえ、知りませんよ。だって、昨日会ったばかりじゃないですか」

「……それもそうだね。デュエルを受けてくれたから、てっきり知ってくれてると勘違いしちゃったよ。でも、だったらどうしてボクとのデュエルを受けてくれたんだい。自分で言うのもなんだけど、初対面の相手から結婚を賭けてのデュエルを申し込まれてオッケーしちゃうなんて」

「挑まれた勝負を買うのは、デュエリストとして当然のことです」

「いや、でも結婚がかかってるんだよ?」

「あっ、そういえば聞いてませんでしたね。『けっこん』ってなんですか?」

「…………」

 あー。

 なるほど……。

 頭の抜けている双橋ではあるけれど、結婚という言葉の意味を知らないほどの常識ハズレではあるまい。だが、初めて会った相手から『けっこん』と言われても、双橋はそれを『結婚』に結びつけることができなかったのだろう。

 もしあのとき御厨がデートとかお昼を一緒にとか、ちゃんとした手順を踏んだ要求を提示していれば、双橋にも意図が伝わっていたはずだ。それなのに、御厨のせっかちな性格から突拍子もない条件を提示してしまったせいで、認識の齟齬が発生してしまった。

 ついつい御厨の視線で物事を考えてしあっていたけれど、双橋の視点から考えれば御厨の言葉が正確に伝わっていないのも頷ける。

 賭け事の対象を理解していないのにデュエルを受けるのはどうかと思うけれど、それはそれ、双橋はどこまでもデュエル脳なのだった。

 つまり――まさしく邪推だった。

 僕が葛藤していた時間は、まるっきり無駄だったわけだ。

「……うっそだー」

 御厨も事態を悟ったのだろう。活気のあった勢いがとどまって、魂の抜け殻のように放心状態となっていた。

 対戦相手の変化に気がつかないままに、双橋はデュエルを続ける。

「改めて行きますよ! ひとつの過去が、より良い未来を作りだす! その鋭い兵器で、立ちふさがる障害を切り裂け! 特殊召喚、《F・Aスラッシュ・ジャイロ》!」

 2体の《F・A》を包み込んだ光の渦が収束し、双橋のエースモンスターが登場した。オートジャイロの回転翼を担いだその姿は、もはや僕にとっては見慣れたものになっていた。

 しかし、《スラッシュ・ジャイロ》の攻撃力は2500ポイントと心もとなく、唯一戦闘で倒せるのが《燃料電池メン》しか存在しない。このターンであれを破壊できたとしても、次のターンになれば《電池メン―業務用》の効果によって双橋のモンスターは破壊され、そのままダイレクトアタックを受ければゲームセットになってしまう。

 心配した僕だったけど――やはり杞憂だった。

「そして、墓地に送られた《F・Aグラビティ・ブーツ》のモンスター効果が発動、フィールドのモンスター1体の攻撃力をゼロにします! あたしがこの効果で選択するのは《電池メン―業務用》です!」

 指定されたモンススターは重力波によってその胴体を地面に叩きつけられる。《電池メン》特有の無機質な表情が悲壮感を誘った。

 これで、破壊効果を備えたモンスターを駆除できるようになったけれど、それではまだ足りない。2500ポイントの攻撃を与えたところでゲームセットには運べないのだ。

 よく観察すると、双橋の手札はまだ豊富に残っている。ジリ貧の戦いが多い彼女としては珍しいことでだった。きっとあの中に戦力となるカードが残っているはずだ。

「続けて、デッキの上からカードを1枚墓地に送り、手札から《アームズ・ホール》を発動します!」

 あのカードは、装備魔法をデッキか墓地から手札に加えることのできるカードだ。その強力な効果の代償として、発動ターンの通常召喚を封じられてしまうけれど、双橋はこのターン《F・Aグラビティ・ブーツ》と《F・Aスラッシュ・ジャイロ》しか呼び出しておらず、どちらのモンスターも特殊召喚だ。

「あたしは、墓地から《フューチャー・ウエポン 時断ちの太刀》を手札に加え、そのまま《F・Aスラッシュ・ジャイロ》に装備します!」

 舞い戻った太刀が《スラッシュ・ジャイロ》の手中に収まった。

 御厨が反応を示さない。相当ショックを受けているらしく、彼に次のターンが回ってきたところでデュエルを続行できるのかも怪しいところだった。

「バトルフェイズまで、もう1アクション待ってくださいね」

 と、双橋は動かない御厨に前置きを送った。

 対戦相手が再起不能になっていることにも気がつかないほど、彼女はノリノリだった。ひょっとしたらこのターンで決着がついてしまうかもしれない。

「手札から魔法カード発動、《死者蘇生》! 墓地から《F・Aグラビティ・ブーツ》を復活させます!」

 定番カードで自分のモンスターを復活させ、そして、バトルフェイズが始まった。

 はたして、装備カードで攻撃力を上げて3300ポイントの力を得た《スラッシュ・ジャイロ》と蘇った《F・Aグラビティ・ブーツ》だけで決着をつけられるのだろうか? 攻撃力が0になった《電池メン―業務用》を攻撃力900ポイントの《グラビティ・ブーツ》で仕留めるとして、残る《スラッシュ・ジャイロ》で《充電池メン》か《燃料電池メン》を攻撃しても御厨のライフは残ってしまう。

「まずは、《F・Aスラッシュ・ジャイロ》で《電池メン―業務用》に攻撃です!」

 予想していた行動を双橋は取らなかった。回転翼と太刀のハサミ打ちによって《業務用》に鉄槌を下す。モンスター同士の戦闘によってライフダメージが発生し、御厨のライフポイントは残り700となった。

 なったのに、御厨は放心状態から解放されない。もしも彼が手札に《オネスト》を握っていたら気の毒だなと、僕は他人事のように思った。

「そして《F・Aグラビティ・ブーツ》の攻撃です! このカードは相手フィールドにモンスターが存在しても、プレイヤーに直接攻撃ができるのです!」

 どうやら、勝敗は決したらしい。

 まるで空へ落ちて行くように《グラビティ・ブーツ》は飛び上がると、そのまま斜めに落下して、御厨へ向けてとび蹴りを放つ。

「うぎゃああああああ!」

 彼はお腹にメタリックなアーマーによる一撃を食らわされて、芝生を転がった。まあ、ソリットビジョンによる衝撃は見た目ほど痛くはないから心配におよばない。

 風が吹いてきた、芝生がそよそよと波を作る。

 デュエルが終わったのを見計らったように近所の小学生たちが公園に集まってきた。その無邪気な笑い声によって辺りはあっというまに朗らかな空気となった。

「……うっそだー」

 御厨は上半身を起こして呟いた。

 すると双橋は何かを思い出したような顔になり、彼に歩み寄る。

「ガッチャ! 楽しいデュエルでしたよ」

 謎の決め台詞が披露された。指が不思議なポーズを取っているが、僕の位置からでは細部まではわからない。

「ふふふ、一度使ってみたかったんですよ、このセリフ」

「……あの、双橋さん」

 その決めゼリフがきっかけとなったのか、はたまた子供たちが集まり始めた公園で尻餅をついているのが恥ずかしくなったのかは定かではないけれど、御厨が現実に帰ってきたらしい。体を起こしきって、服についた埃を払う。

 恋しい相手と向かい合ったのが急に恥ずかしくなったのか、御厨は顔を赤くする。どうやら緊張体質が蘇ったらしい。肩が耳と並ぶほど吊りあがっていて見る分にはとても情けなく思えてしまう。

「ボボボ、ボクと、その……ボクと友達になってくだしゃい!」

「いいですよ」

 それは、息を吹きかけただけで飛んで行きそうな軽い返事だった。

 けれど、御厨にとってはとても重たい一撃になったことだろう。

 まあ、そうなのだ。

 人生何事も焦らずにゆっくりと進めて行くことが肝要なのだ。ショートカットをしたところで、それが成功する保証なんてどこにもないのだし、石橋を叩いて渡るような気構えで、順々と階段を登って行きたまえ。

 なんて――やっぱり僕は御厨のことを上から見てしまっているのだ。双橋に関しては僕の方が圧倒的にアドバンテージを有しているから、だから見下すようにアドバイスを送ってやったりしてしまったのだろう。

 我ながら嫌な奴である。

「あっ、そういえば! 『けっこん』ってどういう意味だったんですか?」

「えっ……いや、あはははは!」

 上目遣いで詰め寄ってきた双橋に、御厨は困惑したようだった。その気持ちはわからないでもない。改めて結婚とはなにかと聞かれて答えるのは難しい。説明ベタとかそういう意味ではなくて、精神的に難しい。意中の相手であれば尚更だ。

 だから、御厨が走しって逃げてしまうのも無理はなかった。  

 

 

  *

 

 

 僕がアパートに戻った頃にはすっかり辺りは暗くなっていた。

 予定としては、御厨の逃走に首を傾げていた双橋と一緒にあのまま直帰するつもりでいたのだけれど、石垣に隠れていた僕は、生徒会長の妹であるところの木実近美也ちゃんに肩を叩かれることになったのだ。そこでひと悶着が起こり、双橋に声をかけるどころか一緒に帰ることすら叶わなかったのである。

 そして、今だ。

 僕は疲れた足を引きずりながら、アパートの階段を登り、自室のドアの鍵を開けた。

「すみませんでした!」

 第一声が響いた。

 僕は驚いて絶句した。玄関先で双橋が土下座をしていたのだった。いつものように制服の上にエプロンを装着している彼女は、僕につむじをさらすように頭を垂れていた。

「えっ……」

 いや、これには本気でたじろいだ。

 女の子が土下座してる光景を高校生のうちから見たくなんてなかった。なんだこの大迫力な光景は……もしかしたら最近で一番ショックな出来事かもしれない。

 土下座って、それは僕の役目だろ。

「……どうして、双橋が謝ってるんだ?」

「どうしてもなにもありません。あたしがやりすぎたのがいけなかったんです」

 双橋は頭を深くさげたままだ。フローリングに額をこすりつけるような勢いだ。

 彼女は床に向って謝っているかのようにしながら言葉を続けた。

「あたしが調子に乗りすぎました、ごめんなさい。どうか許してください」

「ちょっと、待て。落ち着いて話合おう。どうして双橋から謝罪されなくてはならないのか、僕にはわからない。取り合えず顔を上げてくれ」

「……とぼけないでくださいよぉ」

 双橋は嘆きはしたものの、お願いした通りに顔を上げてくれた。

 顔だけ上げてくれた。

 言葉を言葉のまま素直に受け取ったらしく、体はそのままで顔だけ上げるものだから、なんだか亀のような体勢になってしまっている。これはこれでショッキングだ……。

「御影さんは、あたしがやりすぎたから昨日からずっと怒ってるんですよね」

「怒ってる……僕がか?」

「ええ、怒ってました。あんまり顔を合わせてくれないし、夕飯だって残してましたし」

「それは大いなる勘違いだ。僕は怒っていない。昨夜はちょっと調子が悪かっただけだ」

「絶対嘘です。今日だって学校にこなかったじゃありませんか。それはあたしと顔を合わせるのが嫌だったからですよね」

「違う。それは誤解だぞ、双橋。僕が今日休んだのは、えっと、ただ単に寝坊しただけだ」

「心配してメールを送ったのに、返事を返してくれませんでした」

「……そうなのか?」

「はい」

「それは心配させたな。ごめん。僕、基本的に携帯の電源を切ってるから気付かなかったんだ」

「そうなんですか? でも、でも……」

「そもそも、どうして双橋は僕が怒ってると思ったんだ?」

「だって、あたしが御影さんのお部屋を勝手に飾っちゃったから……」

「あー、なるほどね」

 どうやら彼女、部屋をデュエルモンスターズだらけにしたことによって、僕が怒っていると思ってるらしい。昨日、双橋がそわそわとしていたのは、結婚を賭けたデュエルに浮かれていたんじゃなくて、僕の機嫌が悪そうに見えたからだったのか。

「ふむ」

 僕は亀の姿勢を維持して涙目になっている双橋から視線を外し、辺りを見渡してみた。そこに印刷物の姿は微塵もなくなっていて、見慣れた我が家の原型が蘇っていた。なぜだか不意に懐かしい気持ちになった。

 双橋は僕が生徒会長の妹と鬼ごっこをしている間に部屋を元通りにしてくれていたらしい。加えて夕飯の準備もしてくれているあたり、彼女が抱いていた罪悪感のほどが窺える。

「いいんだ。別に気にしてないよ」

 僕は膝を折って、そして、双橋のつむじに手を当てた。その髪質を味わいたかったわけでは決してない。

「本当ですか? 本当に怒ってませんか?」

「ああ。そんなことで怒れるような人間じゃないよ、僕はね」

「本当の本当の本当に本当ですか? あたしのこと嫌いになったりしていませんか?」

「きみもくどい奴だなぁ。怒ってないよ。それにさ――」

 僕は言う。

 言ってしまう。

 大丈夫だ、双橋。部屋を勝手に改造したくらいで、罪悪感に縛られる必要はない。そんな些細な事とは比べ物にならないほどの罪悪感を僕はきみに対して抱いているのだから。

「――弟子を嫌いになれるわけがないだろ」

 また、彼女に希望を見せる。

 絶対に叶わない希望を見せる。

 自分勝手な我侭のために、彼女を縛りつけている。

 本当は、何でもかんでもデュエルで解決するのをやめてくれと頼みたい気持ちで一杯だったのだけれど、彼女の望みを叶えてやれない僕がお願いできることではないのだ。

 うん。

 困ったな。

 ――この罪悪感を払拭するためには、このもどかしい気持ちを消し去るためには、僕がデュエリストに戻るほか方法はないだろう。

 なんて。

 そんな考えが一瞬だけ頭に浮んだ。

 

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