遊戯王デュエルモンスターズWD―ワーストデュエリスト―   作:Rさん

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06話
真夏のデッドライン 前編


 

 

 なにかが決定的に変わるとするならば、この夏休みだと思った。

 この予感に明確な原因があるわけではない。ただなんとなく、夏の暑さにやられた思考回路が、そんな益体もない第六感を僕に通告したのだ。

 人生は刻一刻と変化している。

 時の流れは残酷なほど僕の意思とは関係なく風景を変える。その変化の過程に自覚が伴うわけではないのが困ったところだ。いつの間にか、本当にいつの間にか、気が付いたら何かが変わっている――それは砂山の中に小石が混じった程度の変化でしかなく、つまりはとっても些細なものだ。その小さい変化が積もって、ふと思い返したとき劇的な変化として認識できる。変わっていく過程に気づかなくとも、変わってしまった結果には気づけるのだ。

「御影さん、チャンネル変えてもいいですか」

「うん。いいよ」

「御影さん、コップとって貰えますか」

「はいよ」

「うーん。今日も暑いですねぇ」

「厚いなぁ。溶けそうだよ」

「そろそろクーラーを検討してみませんか?」

「クーラー? あー、その考えはなかったな」

 クーラーか。

 クーラーね。

 確かにそろそろ暑さも極まってきたことだし、冷房設備を整える必要があるかもしれない。こう暑いと何事にも集中できそうにない。そうめんを口にすることで何とか昼食中だけは涼しさを演出して誤魔化してきたけれど、これ以上夏が深けてきたらそうもいかなくなるだろう。

 しかし、クーラーか。

 現在の仕送り貯金では買えそうもないな。まあ、冷房設備なら親に頼めば揃えてくれると思う。あの親に頼みごとをするのは気が引けるが、蒸し焼けになるよりはまだましだ。

 蒸し焼けの焼死体って、洒落にならないなぁ。

 支給品の申請はおいおいするとして、僕はとりあえず食事に集中することにした。

 ここ何日か食事をそうめんだけで済ませているのは、暑さ対策だけではない。節約も兼ねているのだ。

 夏休みに入るまでは、ほぼ毎日、食事の準備を買出しまで含めてまかなってくれていた双橋に、僕はちゃんと材料費を渡している。身の回りの世話をしてもらっているうえで、お金まで出させるわけにはいかないのだ。つまり、生徒会長と双橋をあわせた三人分の食費を、一人分の生活費で工面しなくてはならないのだ。僕は趣味にお金を使うことがないから、当初は多少の余裕があったけれど、最近は双橋が料理にただならない熱を出だして、食材に拘るようになってしまったのだ。

 徐々にその拘りは膨れて、僕のお財布を圧迫していく。双橋に正直な事情を説明すれば、食費に気を使ってくれるようになると思うけれど、正直なところ、楽しそうに料理をしている双橋を落ち込ませたくないし、なにより僕の舌はすっかり高級食材に慣れてしまった。

 彼女の料理ライフをサポートするためには、それなりの蓄えが必要なのだ。

 だからこその、そうめんだ。

 ちぃーちゃんから大量におすそ分けしてもらった食料を有効活用して、夏の暑さを凌ぐとこを口実とし、そうめんライフに身をやつす。冬を前にした動物よろしく、夏の間に貯金をするのだ。今を我慢すれば、秋にはまた豪華な食事が僕たちを待っている。

 ということで、今日もそうめんをすすりながら、麦茶をあおぐ。セミの鳴き声と肌にへばりついた汗は、夏らしい風情があって、実に良い。

「……なあ、双橋」

「なんですか御影さん?」

 熱気で曇っていた脳内が、冷たい食べものによって正常に戻ったとき、僕ははたと気がついた。

「いつの間に、テレビを置いたんだ?」

 部屋の隅に配置された薄型テレビを箸で刺しながら、僕は訊く。

 どうやら彼女にとって、それは予想外となる質問だったらしい。未確認生物と遭遇したときのような顔をしている。

「いつの間にって! 御影さん、覚えてないんですか?」

「ああ、まったく覚えてない」

「ちぃーちゃんさんが持ってきてくれたじゃありませんか」

「えっ、そうだったっけ?」

「はい。部屋が殺風景すぎてホラーみたいになっているから雰囲気を変えるためにと、いろいろな備品を持ってきてくれました」

「そうだったっけ?」

 ちぃーちゃん。

 デュエル部の発足を、友達作りの口実として目指していた彼女。

 本来の目的が叶ったことにより創部を諦めた彼女は、夏休みに入る前までは、双橋や生徒会長よろしくほぼ毎日のように僕の部屋に通っていた。実のところ、お財布が圧死してしまいそうな原因は食費が一人分増えたことも無関係ではない。

 そうだった。

 ちぃーちゃんが増えたことにより、この部屋は段々とリフォームされていくようになったのだ。

「うーむ」

 僕は辺りを見渡した。

 冷蔵庫に、ゆるキャラのマグネットが多数取り付けられている。ここでもデュエルモンスターズブームは例外ではなく、ゆるキャラとはつまりクリボーで、それもクリボーだけで、まるで増殖したクリボーが冷蔵庫を守っているようになっていた。別にプリントを冷蔵庫に貼り付ける習慣もないのだから、マグネットばかりを増やしたところで、まったく意味を成さないのに。

 食器も増えている。食器乾燥機はもともと一人分にしては大き目のサイズではあったが、当初あった余裕がいまは見受けられない。四人分の食器がぎりぎりまで詰め込まれて保管されている。このままでは食器棚まで増えてしまいそうだ。

 ベットの横に、三人掛けのソファーが置かれている。部屋のサイズに適しておらず圧迫感をに感じる。

 そして、ローテーブル。

 僕のローテーブルではない。

 僕のローテーブルでなくなっている!?

 ピンク色をした、女の子らしさを感じさせるデザインのローテーブルが、いつの間にか僕の部屋にあった。僕の前にあって、僕はピンク色の表面に並んだ食器から、そうめんをすすっている。

 いや、もう、驚きである。

 いったい、いつの間にすり換えられたのだろう。

 そしてにそしてを重ね、ただでさえ狭くなっている部屋の片隅に、本棚が設置されていた。しかし、本棚といっても置かれている書物らしきものはカードカタログだけだった。残りのスペースには彼女たちの私物が収納されている。カードや勉強用具はまだ理解できるのだけれど、着替え(!?)を置いているのは流石に目を見張る。

 まあ、というように、いろいろと部屋の様子が変貌している昨今ではあるが、一番変化しているのは、実のところ双橋だったりする。

「それにしても暑いですねぇ」

 食べ終えるやいなや、彼女は食器を片付けることもせず、僕がまだ食事中なのにもお構いなしに、そのままフローリングの床に体を預けるのだった。うつ伏せで大の字だ。ローテーブルの下から彼女の生足が、反対側に腰掛けている僕の方まで届いている。

 怠けている。

 非常に怠けている。

 夏の暑さにやられた双橋は、たるんだ生活に片足を突っ込んでいた。

 ここのところ、そうめん続きの日々を送っているのは、食費云々の問題だけでなく、調理係の双橋にやる気がないからなのだった。

 そうめんの調理は簡単なので、それは僕でもできるのだ。錦糸卵とか刻みネギとかショウガとかは、クックスキルが低くとも苦にはならない。

 それにしてもどうだろう。食事の準備を終始サボって、かといって他になにかするわけでもないのに、夏休みに入ってから毎日のように朝から晩までフローリングの床でごろごろとしている彼女は、いったいなにがしたいのだろうか。

 ちぃーちゃんや生徒会長も夏休みが始まったばかりの頃は頻繁にやってきていたけれど(秘密基地みたいな感覚で使われている気がする)、冷房設備が一切なく風通しも微妙なせいで愛想をつかして、最近では顔を見せなくなった。

 双橋が夏バテしている主な原因は、おそらく冷房設備皆無なこの部屋で生活していることにあると思う。だったら彼女がどこか他の移住地を見つけてくれたら万事解決か。

「双橋、どこかに出かけるか? デパートとか図書館とか、そういう冷房の効いてるところに行こうぜ」

「いえ、結構です。外に出るの暑いですし、夜が来るまであたしはじっとしています」

 だらけているというか、再起不能だった。

 双橋がここにやってくるのは、いつも日が昇る前の早い時間からだ。そこから日が暮れるまでは、こうして寝そべっているわけである。

 正直、部屋の中で女の子がだらけているというのも、見ごたえがあって非常によろしい。けれど、年頃の女の子が短いスカートのまま男の部屋でごろごろしているのは関心できない。矛盾したふたつの感情が僕の中で渦巻いている。薄手のTシャツに浮んだふたつの立体物を眺めていてもドキドキしなくなった頃合だし、やはり早急に彼女を堕落した生活から脱却させてやらねばなるまい。

「御影さぁん。アイスとってください」

「はいよー」

 考えごとをしながらでも、僕の体は自然と動いてしまった。奴隷精神に夏期休暇はない。

 僕は食事の途中ではあったけれど、メルヘンな柄のクッション(僕の座布団は何処へ?)から腰をあげて、冷蔵庫に向った。遠目で見るクリボーの群れもなかなかに奇妙だったが、近くで見ると、それはそれでやっぱり奇妙だった。

「んんっ?」

 冷凍庫を開いたところで、自分の目を疑った。中にはびっしりとアイスのパッケージが並んでいたのだ。並んでいたというか、詰め込まれているというか、押し込まれているというか。いつの間に補充されていたのだろうか。

 スーパーのアイス売り場みたいになっている冷凍庫に釘付けになったが、いつまでも冷凍庫を開けておくわけにもいかなかったので、僕は適当にアイスをひとつ引っぱり出して、それを双橋に渡した。

「ありがとうございます」

 上体を起き上がらせることもせずに、寝転んだまま『デュエルモンスターズアイスバー』のパッケージを破った双橋は、そのまま棒状のアイスを口の中に突っ込んだ。丸い口を開けながら上下にアイスを動かすその表情は、とっても幸せそうだった。

「あっ、やりましたよ。あたりカードが出たみたいです」

 アイスを舐めながら、双橋が一枚のカードをを僕に向けた。アイスのパッケージに封入されていた小袋の、その中に入っていたカードだ。

 向けられたのは、デュエルモンスターズのカード……ではなく、黒地に星印が印刷されただけのカードだった。表面はそれで、裏面はデュエルモンスターズのものと変わりない。

「あたりカード?」

「ええ、あたりカードです。本来ならデュエルモンスターズのカードが入っているのですが、極稀にあたりカードが封入されているのです。このカードを五枚集めてお店に持っていくと、特性のデュエルディスクと引き換えてもらえるそうです」

「へえー、そりゃ凄いキャンペーンだ。でも、五枚も集める必要があるんだな。あと四枚も集められるものなのだろうか。極稀にしか入ってないんだろ?」

「そうですね。聞いた話によると封入率はとても低いらしいですよ。少なくとも冷蔵庫にあるぶんにはもう入ってないでょうね」

「そうか。それは残念だ」

「あれ? もしかして御影さん、デュエルディスクが欲しいのですか?」

「うん。まあ、そんなところだ」

 本心を吐露すれば、デュエルディスクが目的というわけではなく、デュエルディスクを売却して冷房設備の資金源を確保したいからだ。応募用のカードで希少価値のある代物ならば、それを五枚集めてようやく手に入れられるそのデュエルディスクとやらは、さぞ高価で取引されることだろう。ヘタをすれば冷房設備だけでなく、当面の食費がまかなえるかもしれない。

「そうですか。だったら、このカードは御影さんにあげます。残り四枚頑張ってください」

 いつもの双橋だったら、僕がデュエルディスクを欲しがっていると知れば、目を輝かせて食いついてくるはずなのに、夏季の彼女は違っていた。全てにおいて遺憾なく無気力を発揮している。

 再起不能であり、営業停止である。

「ありがとう。でもいいのか、このカードって希少価値のあるものなんだろ?」

「はい、構いません。あたしがそのカードを五枚集めたところで、いまのデュエルディスクから乗り換えるつもりはありませんから。カードを集める気力もないですしね」

「なるほどね。わかった。このカードはありがたくもらっておくよ」

「どういたしましてです」

 アイスをむさぼりながら、手を振る双橋だった。

 いや、ホント、何しに来ているんだろうか彼女は。食べて寝、食べながら寝の食生活では体系が変わってしまう危険性もあるだろうに。女性は多少ふくよかでも輝けると思うけど、僕としては、スリムな彼女が太くなっていく過程を観察したくない。

 あっ、もしかしたら双橋が無気力になっている原因はそこにあるのかも。食事だ。毎日口にするものがそうめんばかりだから、この暑さに体力がついていかないのだろう。

 そもそも双橋に料理をする気力がなくなったから、クックスキルの低い僕はそうめんに走っているわけで、だからこそ双橋が体調を悪くしているというのは、鶏が先か卵が先かの理論に通ずるものがあり、犬が自分の尻尾を追いかけているかのような、さながらメビウスの輪状態ではあるけれど、このまま何の対策もしないまま夏の日を過ごしていても、人生が良い方向に転がってくれるわけがない。可能性がひとつでもあるならば、しらみつぶしをしておくべきだろう。

 今晩はなにかスタミナの付くような料理を振舞って、双橋をより良い未来に向わせてやるとしよう。

 僕は食事に戻って、ニュースキャスターの声とセミの鳴き声と双橋のうめき声を聞きながら、薄ぼんやりと考えた。

 夏らしくありボリュームがあり、尚且つ僕のクックスキルでもまかなえる料理――

 今晩のメニューは、冷やし中華に決定だ。

 

 *

 

 昼食を済ませた僕は今晩の食事に備えて買出しに出ることにした。ついでに双橋を外に連れ出そうと、誘ってみたけれど、うめき声が返ってくるだけだった。返事だったのかどうかも怪しい。

 ということで、ひとりで買い物だ。

 着替えをバスルームで済ませなければならないのは毎度面倒だ。男の着替えなんて犬も食わないだろうけれど、それでも麗しき乙女の目が届く範囲で着替えをするなんて僕にはできない。もっとも現在の双橋に正常な意識があるのか定かではないけれど。

 少し迷って、サンダルに足を通した。近所のスーパーは諸事情によって利用したくないので、必然的に少し足を運ばなくてはならない。だから、できればそれなりの靴を履いて行きたいところだったが、この猛暑の中で、わざわざ自分から足の裏を蒸し焼きにすることもあるまい。

「それじゃあ、ちょっと行ってくるよ」

 一応、僕は双橋に声をかけた。彼女は相変わらず、ローテーブルの下に足を潜らせて、フローリングの上でノックダウンされていた。周りに散乱しているアイスのパッケージがお花畑のように見えなくもない。

「行ってらっしゃぁい」

 無気力な返事だった。聞いているだけでこっちのやる気までそがれてしまいそうだ。

 気を取り直して、僕は玄関から出た。中に双橋が残っているけれど、一応、というか尚更鍵をかけておく必要がある。いまの無防備な彼女をひとりで残しておくのは、防犯設備の薄いこのアパートにおいては心配の種ではあったが、だから言って部屋の窓まで閉めておくわけにはいかなかった。

「いや、暑いわぁ」

 アパートの敷地から一歩出て、そこで、僕は早くも後悔を始めていた。

 お昼過ぎの時間帯は一番太陽が活気付いている頃だ。どうせ一日中暇なんだから日が落ちてから買い物に出ればよかった。そうすれば双橋を外に連れ出すことも可能だったし、僕が料理をしなくとも外食で済ませることだってできたじゃないか。

 まあ、僕の人生におけるイベント事のほとんどは、後悔から始まると言っても過言ではないので、諦めて隣町のスーパーを目指すことにした。いや、目指すことをやめないことにした。

「んん?」

 アパートの前に見慣れない車が停車していた。

 見慣れないというか、初めて見るものだった。

 車――リムジンだ。

 黒々とした車体が太陽の光を盛大に反射して、なんだか見ているだけで体感温度が上がったような気さえする。

 その車体はリムジンだけあって、とても長い。横幅は乗用車と変わらないのに、縦幅だけ無駄に長いせいでなんだかCGを見ているような気分になる。ソリットビジョンじゃなかろうか。もしくは暑さにやられた僕が幻覚を見てしまっているだけなのかもしれない。

 もし仮にそれが実体を有していた場合、この辺りの住宅街は細い通路が多いので、ここまでリムジンを持ってくることができたということは、さぞかし腕の良いドライバーさんが運転していいるのだろう。

 すると――

 僕が高級車に見蕩れるていると、運転席が開いて、中から男性が現れた。

 スラリとしたご老人だった。

 薄着の僕でもサレンダー手前の状態だというのに、彼は見るからにしっかりとした素材のスーツでびっしりと体を包み込んでいる。それでいて涼しげな顔をしているのが印象的だ。礼儀正しそうな雰囲気が制帽と単眼鏡によく似合う。

 彼は垂れ下がった目尻を優しげに緩ませて、僕に向って言った。

「岬野御影様ですね」

「……はい。そうですが」

 嫌でも警戒するべきだ。

 僕にリムジンを所持しているような知り合いはいないし、これからできる予定もない。ご老人の口調はとっても穏やかなもので、ついつい心を許してしまいそうになったけれど、ダメだ。気を緩めてはいけない。気を緩めた瞬間にバカを見るのが、僕の人生における法則だ。

「大変申し上げ難いことなのですが、少々お時間を頂戴させていただけませんでしょうか?」

「はい?」

喜四郎(きしろう)お坊ちゃまが是非にと。不躾ではございますが、ご足労をお願いできませんでしょうか?」

「ちょ、ちょっとまってください」

 慌てて僕は身構えた。

 目の前のご老人は、困った顔をしながら僕を説得しようとしている。おそらく、その喜四郎お坊ちゃまに命令されたことに仕方なく従っているだけなのだろう。だったらここで僕がただ断っただけでは物事は何一つ良い方向には進まない。

 ……それにしてもこの老紳士さん、事情の説明が足りていない。説明ベタなのか、それとも口ベタなのだろうか。

「とりあえず、事情を説明してもらえませんか? 僕はその喜四郎という人物に心当たりがありませんし、きっとなにかの間違いじゃないんですか? 確かに僕は岬野御影ではありますが、同姓同名の別人という可能性もあります」

「人違いの可能性はございません。ちゃんと下調べは終えています。ご安心ください。喜四郎坊ちゃまは間違いなく、あなた様にお会いしたがっております」

 そんなことを言われても、何も安心できる要素がないのですが……

 喜四郎坊ちゃまが何者なのかはご存知ないが、それでも間違いなく、僕の方からは彼に用事がない。

 時間を頂戴か――その通りだよまったく。

 まあ、ここで彼に食いかかったところで、何の意味もないか。僕が食ってかかるべきなのは、その喜四郎坊ちゃんだ。

「下調べってどういうことですか? と、聞きたいところですが、きっとあなたと問答するよりも、その喜四郎って人と直接会ったほうが物事が早く進みそうですね」

「おお、ご納得いただけましたでしょうか。それは私としても一安心でございます。もしも岬野様が抵抗なさるようでしたら、無理矢理にでも連行するようにというご命令でしたので」

「…………」

 無理にでも連行って、それは誘拐じゃないんですか?

 犯罪行為に手を染めてまで僕に何の用事があるんだ、その喜四郎って人物は。

 というか、ご老人もご老人で、喜四郎に従順すぎるだろ。従う身であってもイエスとノーの区別はちゃんとつけてください。

「それでは、こちらに」

 ご老人は、言って、リムジンの後部座席を開けた。手つきというか立ち回りに凛とした気品が漂っている。

 不安要素はあるが、なんだかんだ言ってもリムジンに乗るのは初めての経験だ。状況の割りに、わくわくしている自分がいる。

 僕は促されるままに、恐縮しながら車内に踏み入った。こんなことになるのなら、サンダルなんかじゃなくて、しっかりした靴を履いてくればよかった。革靴とか持ってないけど、サンダルよりもスニーカーのほうがましであることは明白だ。

 リムジンの中は白一色の空間だった。長い車内に反比例するかのように座席が少ない。運転席と助手席の真後ろと、車の一番奥の位置にそれぞれソファのような座席が向かい合うように設けられているだけで、他に窓を除いて突起物はなかった。僕は、運転席に戻ったご老人と背中合わせになる位置に腰かける。近いよいうで遠く感じるのは運転席との間にガラス張りの板が貼られているからだろう。

 シャンパンとか、そういう優雅な空間を演出する小道具が完備してあるのを想像していた僕としては、リムジンに対して拍子抜けしてしまう。

 まあ――

 それはいい――

 そんなことを考えているような暇は僕には残されていなかった。

 遠く離れた向かい合った座席に、僕と同年代ぐらいの男が足を組んで待ち構えていたのだから。

 その偉そうな態度と、隠そうとしない不敵な笑みから、彼が喜四郎なのだろうと予測は立った。

 名門校の制服と彼の物腰が、なぜだか坊ちゃんカットの魅力を引き上げていた。

 彫りの深い整った顔、金髪、坊ちゃんカット、高飛車な態度。

「ようこそ、岬野御影」

 ――取引を始めよう。

 彼はクールな態度で、そう言った。

 *

 

「なんだって?」

 走り出したリムジンの中で、僕と喜四郎と名乗る人物は向かい合っていた。

 縦長い車内の端と端で会話をしていることや、慣れない高級車に乗っているということもあって、僕としては落ち着けるものではなかった。

「――の持っている――を――もらおうか」

「なんだって?」

「コホン。――きみが所持して――を渡して――」

「なんだって?」

「…………」

 別に、ふざけているわけでも誤魔化しているわけでもない。本当に彼が何を言っているのか聞き取れないのだ。なにぶん距離が開いていることや、窓を開けていることにより走行音が声の通りを妨害していることもあって、彼の言葉が僕の耳にまで届かないのだ。彼が無理に声を作ろうとしていることも原因といえば原因だ。品格を表そうと心がけているのか、渋い男性俳優を真似たような演技っぽい喋り方をしていらっしゃる。ゆえに、声量が犠牲になってしまっているようだ。車を走らせる前はなんとか聞こえていたが、いまではそれは望めない。僕は普通の人間だから聴力に限りがあるのだ。

 何度も聞き直す僕に向って、彼は鋭い眼光を飛ばした。別に僕が悪いわけではない。逆恨みは勘弁願いたいところだ。

 彼は一度顔を落として、気を取り尚したように席から腰をあげた。スラリとした長い身長ということもあって前かがみの体勢になり、走行中の車内であるにも関わらず、高そうな革靴を踏み鳴らして、僕のところまでやってきた。車の走行に伴う振動によって途中で何度かよろけそうになっていたけれど、そこは見なかったことにしてあげよう。

 僕の隣に腰を落ち着かせた彼は、改めて言った。近くで聞くと、確かに声を作っていることが再認識できた。品格を感じさせるように頑張っているらしい。

「きみの持っている『F・A(フューチャーエージェント)』のカードを渡してもらえるかな?」

「……なんだって?」

 これは聞こえなかったわけではない。

 本当に、なんだって、だ。

「とぼける必要はないよ。きみが世界に一組しか存在しないカード群、『F・A』の所持者であることはわかっているんだ」

「とぼけたわけじゃないよ。僕は『F・A』を持っていない」

「それがとぼけてることの証明さ。岬野御影。きみが四年前の世界大会で優勝したジュニアチャンプだってことはちゃんと調べてあるんだ。大会の優勝賞品は『F・A』。優勝者であるきみが持っていないはずがない」

「さー。どうだろう。優勝者であるからといって、僕が『F・A』を持っているとは限らないよ」

「とぼけるね。なら、振り向いてもらえるように努力はさせてもらうよ。一億だ」

「……は?」

 突然、自然な口調で彼の口から妙な単語がこぼれた。僕が首を傾げたのは、聞き逃したわけではなく、自分の耳を疑ったのだ。

 僕の呆気に取られた様子がよほどツボに入ったのか、金髪の坊ちゃんカットは上品に笑う。あるいは、そこまでの一連の流れがまるで計画通りだったと言わんばかりだった。

「一億だ。一億円。『F・A』のカードを渡してくれたら一億円払うって言ってるんだよ、この俺は」

「い、一億……」

「きみみたいな庶民には想像もできない額だろう?」

 確かに僕程度の人間では一生をかけても手に出来ないだろう大金だ。意外と耳にする機会が多い金額ではあるけれど、実際に身近に迫ってくると、なんだか他の世界に来てしまったように感じてしまう。未来の世界か、あるいは平行世界か。僕は知らない間にお金の単位が異なる世界にやってきてしまったのではないだろうか。

 なるべく平静を装いながら、僕は言った。

「そんな価値はないよ。世界に一枚ずつしかないからって、特別あのカードたちが強いわけじゃない。だからあなたがもし、強さを求めているというのであれば、他のデッキを使ったほうがいい。一億もあれば、市販されているカードをコンプリートするのも余裕だろう」

「俺は強さを求めているわけじゃない」

「じゃあ、どうして?」

「俺が求めているのはナンバーワンじゃなくてオンリーワンだ」

 彼は言った。鋭い眼光を僕に向けながら。

「デュエルモンスターズは蔓延しすぎた。世界中のありとあらゆる人々がひとつのカードゲームにお熱なのさ。それはつまりライバルが多いってことだ。凌ぎを削る連中が増え、切磋琢磨する。競い合う相手がいるっていうのは厄介なものだ。世界中のデュエリストたちはお互いに競い合い、個々は力をつける。ひとつの壁を越え、また次の壁に挑み、そしてかつて越えた相手が再び壁となって立ちふさがる。そうやってお互いを高め合っていくことで、自然と全体のレベルアップに繋がっていく。わかるかい、岬野御影。きみが世界大会で優勝した時期とは比べ物にならないほど、デュエリストの数は増えているんだ。近々、第二回世界大会が開かれるらしいけど、もしきみがそれに出場したとしても、きっと予選落ちだろうさ」

 愉快そうに、高見から見下ろすように、彼は僕を嘲る。

 確かに、現在のデュエリストレベルは昔とは比べ物にならないぐらい上がっている。それは彼の言うように高め合う相手が増えたことも関係しているし、強力なカードが増え、戦術の幅が生まれたことも無関係ではない。

「それで、あなたは何が言いたいだ? デュエリストが増えていることと、『F・A』を欲することとでは、まるで関係のないように思えるけど」

「ところがどっこい。あるんだよ、密接な関係が」

「…………」

「デュエリストが増えすぎて、全体のレベルが上がり過ぎた。ようするに、ナンバーワンになることがそれだけ難しくなったってことだ。新参ものである俺なんかが頑張ったところで天下を取るなんて夢のまた夢なのさ。こればかりは金の力ではどうしようもない。大金をつぎ込んだところで、せいぜいデッキのカードを高レアリティで揃えるのが関の山だ。だから、ナンバーワンになることを諦めた」

 ナンバーワンではなく、オンリーワン。

 一番ではなく、特別枠。

 ランキングの圏外から輝ける方法。

「ナンバーワンを諦めて、オンリーワンになることを決めたよ。デュエリストでなく、コレクターの道を歩むと決めたんだ。他の誰も所持していないカードを持っていれば、それだけでオンリーワンになれる」

「だからこその『F・A』ってわけか」

「その通り。世界に一枚しか存在しないカードは『F・A』というカテゴリーだけだ。そのカードを手に入れられれば、俺はオンリーワンとして君臨できるのさ」

「…………」

 話の流れは掴めた。

 整理する。彼は己の物欲を満たすために『F・A』を欲していた。そこで、僕が所持者であることを調上げ、こうして取引をもちかけにやってきたというわけか。コレクターにとって、世界に一枚しか存在しないカードはよほど価値のあるものだ。目下大流行中のカードゲームであることを度外視しても、大金を叩いてまで欲しがる気持ちはわからなくもない。

 一億円か。

 もしも僕があのデッキをいまだに所持していたのなら、喜び勇んで差し出すところだった。

「残念だけど、僕は『F・A』を持っていないよ」

「なんだって?」

 彼が疑問符を浮かべるターンになった。もちろん聞き逃したわけではあるまい。

「そんなわけがあるか。大会で優勝したきみが、優勝賞品である『F・A』を所持していないわけがない。……いや、俺がガセネタを掴まされたって可能性も否定はできないか。四年前の大会の情報は、何者かによって隠蔽されているみたいに霧がかったものだったし。きみの名前に辿りつくまでに結構な労力と金を使ったが。うん、その掴んだ情報がガセネタって落ちは十分にありえる話だな」

「いや、大会で優勝したのは本当だよ。僕としてはあれを優勝したとは思いたくないけど」

「そうか。だったら俺は報われるよな。でも、だったらどうして『F・A』を持っていないんだ。まさか、俺のほかに取引をもちかけてきたやからがいたのか?」

「そうじゃない。誰にも渡した覚えはないよ。覚えはないけど、僕の手元にはない。そもそもあの大会の優勝賞品が『F・A』だったと知ったのは、つい最近のことなんだ」

「どういうことだ?」

「大会の結果に満足してなかったんだよ、当時の僕は。あれを優勝だなんて思いたくなかったから、だから賞品を開封する資格がなかったのさ」

「ふーん。そうなのか。気持ちはわからないでもないな。決勝戦、不戦勝だったんだろ。そりゃ優勝した気にはなれないわな。でも、だからって優勝は優勝だろ。きみが優勝賞品である『F・A』を所持しているという事実は揺るがない」

「そこは、僕にもわからないよ。覚えてないと言うべきなのかな。記憶はないんだけど、友達にあげちゃってたみたいなんだ。あのカードは、僕が一生抱えて生きるつもりでいたんだけどね。昔の僕が考えてることは、いまの僕にはわからないよ」

 話を一通り終えて、彼は悔しそうに舌を鳴らし、手のひらで顔を覆った。

「あー、クソ。そういう展開かよ。それは面倒臭いな」

「心中お察しします」

「まあ、いいか。めそめそしてても仕方がない。その『F・A』を譲渡したっていう友人のことを教えてくれ。取引の相手をそいつに変更する」

「……いいよ」

 少し考えるフリをして、僕は応えてあげることにした。

 もちろん、本当のことを教えてやるような義理はない。

「御厨夏目ってやつだ。僕と同じ高校に通っているから調べればすぐにわかる。あいつ、あのカードのことをとても大事にしてたから、問い詰めても、きっと素直には渡してくれないと思う。他の誰かが持っているとか、そんなことを言って逃れようとするはずだ。だから交渉の際は粘り強さを大切にするといい」

「わかった。御厨夏目だな。そいつを次の交渉相手にさせてもらうよ。いや、まったく、きみには無駄な時間を使わせちまったな」

「大丈夫だよ。どうせ出かけるところだったんだし、ついでにどこか買い物ができるところまで乗せて行ってもらえないかな?」

「お安い御用だ」

 喜四郎がガラスを手の甲で叩いた。その音に反応して老紳士が振り返る。

 運転中に振り返ってはいけませんよ……。

「ふん」

 と喜四郎は鼻を鳴らしながら、座席の下からフラップボードと水性ペンを取り出した。

 いったい何がはじまるんだろうと眺めていると、彼は揺れる車内で、口をへの字にしながらペンを動かして、ボードにメッセージを書き、それを老紳士に向けた。

 老紳士、ウインクをしながらサムズアップ。

 どうやらリムジンの向う先を指定し、それが受理されたらしい。

 運転席の防音性能だけ異常に高いらしい。その防音性をもう少しだけ後部座席にも配ってもらいたい。というか、今更だがどうして後部座席の窓は開けっ放しになっているのだろうか。

「無線とか、ないのか?」

「ああ、ないね。俺は余計なものが嫌いなんだ」

「だったら、このガラス板いらなくないか?」

「あー。それもそうだったな。防犯の目的で頑丈にしてあるんだが、そろそろ心配もいらないだろうしな。うん、撤去を検討しておこう」

 目からウロコと言いたげに、坊ちゃんカットが大仰に頷く。

 とっても緩い主人と従者だった。頭のネジ的な意味で。

 リムジンは滞りなく、隣町のショッピングモールに向ってくれた。呉羽とラーメンを食べた例の場所である。道中、危うく海の幸が豊富だという彼らの地元に招待されそうになったけれど、片道五時間はかかるとのことなので丁重に辞退した。

 ショッピングモールでは当然の如くリムジンを駐車できるようなスペースはなかったので、近くの歩道に寄せてもらう形で、僕は下車することになる。喜四郎からじいやと呼ばれた老紳士が、ドアを開けてリードしてくれた。

「それじゃあ、ありがとよ岬野御影」

 開けられた窓から喜四郎が言った。終始リムジンから降りるつもりがないらしい。そりゃあ、この猛暑なのだからクーラーの効いた車内から出るには、それなりの勇気がいることだろう。僕だって、リムジンから降りるとき、出しかけていた足を一瞬引っ込めたほどなのだから。

 クーラーを動作させているのに窓を開けていることについて言及しておくべきなのだろうか……。

 まあ、とにかく僕は適当な返事を返して、送ってくれたことのお礼を言った。初対面同士の別れにはしては上出来な挨拶だと思う。僕はそのまま何の感慨ないままに、ショッピングモールに向うことにする。一刻も早く、この灼熱の太陽から身を隠したかった。

「待ってくれ、岬野」

 去ろうとした僕の手を、車の窓から腕を伸ばして喜四郎が掴んだ。手を出さなくとも口で呼び止めればいいものを。

「きみの貴重な時間を俺の我侭のために使わせてしまったんだ。ちょっとばかりの気持ちとして夕食ぐらいはご馳走させてくれ」

「それはディナーのお誘いか?」

 なるほど、実際に体験してみて実感が持てたが、確かに良く知らない相手からディナーに誘われるというのは、正直、引く。ドン引きのレベルだ。

「違う違う。俺はこう見えても忙しい身分なんだ。ディナーどころか、飲み物を口に含んでる暇だってないぐらいだ。夕食を奢らせてくれっていうのは、夕食代を出させてくれって意味だ」

「現金かよ。さすがお坊ちゃまですね」

「その呼び方はやめろ。それはじいやにだけ許した特別な呼び方だ。ほら、じいや」

 パチンと指を鳴らして喜四郎が合図を送ると、老紳士がスーツの懐から封筒を取り出して、僕に差し出した。

「どうも」

 僕は素直に受け取ることにする。夕食代だけでも、現在の僕の経済事情には嬉しい施しになるのだ。超のつくお金持ちの金銭感覚は理解できないけれど、夕食代といっても、どうせ諭吉さんが一枚とか常識の範疇でのサービスだろう。時間を取られたというか、むしろ逆に送ってもらうことで時間の節約になったので、夕食を奢るのは僕のほうが適任と言えるが、この場合、せっかくのご好意を無碍にするのは彼のプライドを傷つけてしまう恐れもあるので、もらっておくのが正解だろう。

 ずっしりと重い感覚に違和感を感じながら、封筒の中身を確認してみた。

「…………」

 札ではあった。

 けれど、束だった。

 札で、束だった。

 札束!?

「お、おい! これはさすがに受け取れないぞ!」

 僕が慌てて封筒を突き変えそうとしたとき、すでに老紳士は運転席に戻っており、リムジンは発進した後だった。手際が無駄に良すぎる。そしてクールだ。

「気にするな、岬野。それは手間賃と情報料と慰謝料だと思ってくれたまえ」

 車窓から手を振りながら、喜四郎は満足げにキザなセリフを吐いた。今は演技がかった口調ではない。歳相応、男子高校生の声色だった。ゆえに距離があっても聞き取れる。

「手間賃と情報料はわかるけど、慰謝料ってなんだよ」

「岬野御影、きみにとって四年前の出来事はよっぽど苦いみたいだったからな。それを思い起こさせてしまったのだから、その慰謝料だ」

「なにを言ってるんだ。別に僕は四年前に嫌な出来事なんて体験していないぞ」

「ははは、とぼけるなとぼけるな。その表情を見たらわかるっての。無意識なのかな、四年前の話を切り出してから、きみ、ずっと険しい顔してたぜ」

 その言葉を最後に、リムジンの窓は閉ざされて、長い車体は目の届かないところまで行ってしまわれた。

 残された僕は、首筋に浮んできた汗を拭いながら、ゆっくりと深呼吸をして、手元に残った封筒に視線を落とした。

 慰謝料――そういうことならもらっておいてもいいだろう。

 嘘の情報を彼に教えてしまってはいるけれど、それを差し引いてもまだ足りないぐらいに、僕の古傷は深く深く抉られてしまったのだから。

 

 *

 

 ショッピングモールの中は、冷房で満たされていて、体に蓄積されていた熱気があっという間に消えていった。

 夏休みだけあって、人が多い。子供ずれのお客さんたちが波を作り、それに負けじと店員さんたちも売り込みに必死なご様子だ。

 食料品を調達する前に、電化製品を見ておくことにした。臨時収入もあったことだし、これで冷房設備がぐっと身近なものになり、検討圏内に入った。

 というわけで、ショッピングモールに出店されている電気屋さんに到着した。

 商品の宣伝を兼ねてか、ここは一際冷房が過剰に効いていた。肌寒さを感じる。涼しいところから暑いところに戻ると、反動でより暑く感じるから、できれば店内の温度は控え目にしてもらいたいというのが個人的な願望だ。

 ふむ。

 なんだか並んでいる電化製品たちにひどく落胆してしまう。原因はたぶん、デュエルディスクにある。ソリットビジョンの技術が未来的過ぎて、他の電化製品たちに魅力を感じられないのだ。最新のゲームソフトをプレイしたあとに、一昔前のものをプレイしているような気分だ。もっとも、その最新のゲームソフトもソリットビジョンの前では霞んで見えてしまうのだけれど。

 比べるようなものではないのだろうけど、明らかに技術の違いが浮き彫りになっている。20年前から存在しているデュエルディスクに対して、近年の電化製品たちは成長が少ない。

 降って沸いてきたようなソリットビジョンシステムに、当時の僕は度肝を抜かれたものだ。このままどんどん技術が発達して、近いうちに空を飛ぶ車とかが世に出回るんだろうなぁ、と子供らしいことを考えたものである。

 しかし、デュエルディスクが到来してから、今日までの月日が流れても、いまだに車は地べたを走っている。機械の技術は、もちろん昔と比べて上がってはいるのだけれど、どうしてもデュエルディスクと比べると見劣りしてしまうのだ。

 平均的に工学技術が発達したわけでなく、デュエルディスクだけが特殊だった。まるで、遥か未来から持ち込まれたかのように圧倒的に高い技術力を誇るソリットビジョンシステムが、機器類においての一強として君臨し続けている。

 と。

 そんなことを考えながら冷房機器の品定めをしていると、とある人物と遭遇した。

 まさかこんなところで出会うことになるとは思っていなかった。

 前髪で顔の半分を覆い隠し、長い髪をツーサイドアップで決めている彼女は、真剣な片目で、立ち並ぶ展示品の扇風機たちと睨めっこしていた。

「こんにちは、明日宮さん」

「ん? あら、奇遇ね」

 眉間にシワを寄せたまま、彼女はこちらを向いた。

 明日宮雅。学校の同級生。

 見慣れた制服姿ではなく、丈の短いスカートに薄手のパーカーを羽織っただけという簡素な装いだった。彼女の服の周りに黒い靄みたいなものが見えるのは、たぶん僕の気のせいだ。彼女の雰囲気がそう錯覚させるだけなのかもしれない。

「ここで会ったが百年目、と言いたいところだけど、無理そうね」

 ふふふ、と彼女は不敵な笑みを作った。どこか見透かしたような表情をしている。

「今日はアレと一緒じゃないのね。今日は、じゃない、今日もと言うべきだったかしら。どうも私の気配を察知して姿を隠しているみたいね。それにしても、御影という名を与えられたあなたが、良くないものに憑かれるだなんて、ずいぶんと滑稽な話よね」

「あのさ、明日宮さん」

「なにかしら」

「あいつのことを、良くないものって言うのはやめてくれないか」

 ついだ。

 つい、彼女の言葉にまともな受け答えをしてしまった。あいつのことを良くないものと呼ばれることに我慢ならなかった。我慢してたけど、それはもう限界だ。

「ふふ。ようやく振り向いてくれたじゃない。はじめからそうやって逃げずに自白していればよかったのよ。世界は狭いわ、逃げたところでいつかは袋小路に追い込まれるだけよ。一応言っておくけれど、私はこれでも言い方に気をつかっていたのよ。悪霊とか亡霊とか、他に候補はいくらでもあったわ」

 早まったことを口走ってしまったと後悔した僕は、誤魔化す手段を見つけられず、ただただ無言で佇むだけだった。

 展示品の扇風機が、彼女の髪を舞わせた。その動きにあわせて、衣服を覆っている黒い靄が奇妙に揺らめいた。

「まあ、今日はその話はやめましょう。憑いているものがこの場にいないのでは祓うこともできないのだし」

 ありがたいことに彼女の方から話題を変えてくれた。この場は見逃してやると、そういうことなのだろう。

「私にとってあなたの件はたくさんある仕事のうちのひとつでしかないわ。そんなに熱心に取り組んであげることはできないわよ。そんなことより、と言わせてもらうわ。この夏を乗り越える手段を確保する必要があるの。冷房機器選びよ。手伝いなさい」

「…………」

 ずいぶんと庶民的なお人だった。もう少し謎めいた存在だと思っていたのだけれど、そんなことはないようだ。ただ一般の女子高生であるということに、彼女は変わりないらしい。

 気を取り直して――

 気を作り変えて、僕は平常心を心がけながら彼女に訊いた。

「扇風機を選んでるのか?」

「見たらわかるでしょ。言ったんだからわかるでしょ。無駄に会話を長引かせようとしないで頂戴」

「うん、ごめん。えっと、扇風機壊れちゃったのか?」

「べつに。壊れたから買い替えにきたわけじゃないわ。元から持ってないのよ。うちの親、堅物で古風な人だから機械類を毛嫌いしてるの」

「でも、だったらこれを買って帰るのはまずいんじゃないか。機械嫌いなんだろ、親御さんたち」

「ところが、扇風機を調達してくるように言ったのが、その親なのよね。いままで夏季は気合と根性で乗り過ごしてたんだけど、ついにおじいちゃんが熱中症で倒れちゃってね。さすがに、主義より人命を優先する運びになったわけ」

「おじいちゃんって。きみのうちは核家族じゃないんだな」

「そうね。おばあちゃんはもういないけど、おじいちゃんと私の両親とで暮らしているわ」

「ん? あれ? 機械嫌いなんだったらデュエルディスクもダメなんじゃないか。あれだって立派な機械類だろうに」

「デュエルディスクなしでも、デュエルはできるわよ」

 得意気に彼女は言い張った。

 確かにデュエルディスクがなくともデュエルはできる。他のカードゲームと同様にテーブルにカードを並べてプレイするのだ。迫力はまったくないけど、それでもデュエルであることに変わりはない。そのスタイルは滅多に見なくなったが、少し前まではデュエルディスクが使えないような狭いスペースにおいて、テーブルでプレイするデュエリストも多かった。最近は妥協して迫力のないデュエルをするぐらいなら、どこか広いスペースを探したほうが良いというのがデュエリストの共通認識として固まっている。

 堅物で古風。

 ぴったりの表現だ。

 僕は、彼女のご要望を叶えるため、扇風機の品定めを一緒になっておこなった。決して機械に強い方だとは言い切れなかったが、機械と無縁の生活を送っていた彼女よりかは、まだ僕は審美眼があると思う。

 まあ、結局、しばらく一緒になって首を傾げ続けた結果、店員さんに丸投げする形で、売れ筋の商品を購入する運びになった。

 会計のさいに、僕は彼女に割り込む形で料金を支払った。

 呆気に取られたようには、しかし、彼女はならなかった。公共の場に似つかわしくない形相で、僕の胸倉を掴んだ。

 まさかのケンカ越しである。

「あなた、いったいどういうつもりなのかしら」

「勘違いしないでくれ、僕はきみのためをやってるわけじゃない。きみに取引をもちかけたくてね、ちょっとでも好感を上げておこうという極めて自己中心的な動機だよ」

「それが、どういうつもりなのかって訊いてるのよ! そんなことをしても私は見逃したりしないわよ。あなたに憑いている良くないものは、必ず祓わなくてはならないわ」

「…………」

 すべて読まれていた。

 所詮、僕の考えていることなんて丸わかりだったらしい。

「そこまで愚かな人間だとは思わなかった」

 失望したと言いたげに、彼女は冷めた目を作って、扇風機の入ったダンボールを抱えながら、僕を残してその場を去った。

 残された僕は――またしても残された僕は、その場で乾いた笑いを浮かべることしかできなかった。

 ほんと、どいつもこいつも、僕を置き去りにして行きやがる。

 

  *

 

 夕暮れどき、まだ熱がアスファルトに残っている時間帯に僕はアパートに帰宅した。臨時収入があったので、帰りはバスでも徒歩でもなく、タクシーを利用させてもらった。防犯設備が薄いアパートに双橋を残してきたことも気になっていたし、なにより扇風機を自分用にも購入していたので荷物が重かったのだ。リムジンに乗ったあとにタクシーに乗ると奇妙な閉鎖感があってとても落ち着かないものだった。

 部屋の鍵を開けて、そこに広がっていた光景に、とりあえずビックリさせられた。

 出かける前と何も変わらない光景がそこには広がっていたのだ。強いて変化を挙げるとするならば、お花畑が拡張されていたことぐらいかな。

「おかえりなさぁい」

 出かけの挨拶とまったく変わらない調子で、フローリングの床に体を預けながら双橋が手を振った。振ったと思う。僕からは手を上げ下げしただけにしか見えなかったけれど。

「双橋。いまから夕飯を作るから待っていてくれ」

 緊急事態だと悟った僕は急いで調理に入ることにした。応急手当として、扇風機をダンボールから引きずり出し、大急ぎで組み立て、双橋に向けてスイッチを入れる。

「ふあー」

 と、呻き声に彩色を加えたような声をあげた双橋を眺めるのもそこそこに、僕はショッピングモールで調達してきたレジ袋から食材を取り出し、調理を開始する。慌てていても手を洗うことを疎かにするほど、僕は間抜けではない。

 冷やし中華の調理はそうめんと差異が大きいものではなく、夏休みに入ってから身についた麺を茹でる技術によって、メインは良い感じに仕上がった。あとは具材を乗せれば完成だ。錦糸卵を作るためにはまず、薄焼き卵と作らなくてはならない。奇麗なものを作るのは夏休み前の僕では困難だろうけど、いま僕にはお手なものだ。小さな積み重ねはいつしか大きな結果として現れる。

「さあ、出来たぞ双橋!」

「あぁ、ありがとうございます御影さん」

 上半身を上げた双橋の、その瞳は虚ろなものだった。扇風機だけでは十分な回復にいたらなかったらしい。やはりクーラーの調達は必須事項だ。今日は寸法を測っていなかったので購入には至らなかったが、明日にでも買いにいくべきだろう。

 意識を朦朧とさせている双橋に箸を握らせてやり、冷気を纏った皿を彼女の前に並べた。

「さあ、たんと食べて蘇ってくれ!」

 気持ち大盛りにしただけあって、とてもボリューミーに仕上がった一皿は、僕の持てるクックスキルを総動員した自慢の一品だった。

「ああああああああっ!」

 僕の自信作を前にして、双橋は雄たけびをあげた。

 雄たけびというか、絶叫か?

 そんなに喜んでくれたのだろうか?

「御影さん、なんですかこれは!?」

「えっ、急にどうしたんだよ双橋! そんな怒ったみたいな顔して」

「怒ったみたいじゃなくて怒ってるんですよ! おこですよ! 激おこですよ! なんなんですかこれは!」

「なんなんですかって、冷やし中華だよ。双橋は知らないのか?」

「知ってますよ、冷やし中華ぐらい! だからこそ、これはなんなんですかって訊いてるんですよ!」

「だから、冷やし中華だよ」

「ふざけるのもいい加減にしてください!」

 激怒だった。

 双橋とはとても思えないような汚く荒れた言葉使いで、壁の薄いアパートだというのに、そんなことも考慮できないぐらいに声のリミッターが外れていた。

 人格が変わったみたいな状態だ。殺気だっていて、一歩間違えれば僕を刺し殺さんばかりの形相を浮かべていらっしゃる。

「えっ……僕が何か間違ったことをしてしまったのか? 調理法を間違えたとか、そんな感じの」

「違いますよ! そもそもこれは調理法以前の問題です。これをあたしは冷やし中華だとは認められません!」

「なぜだ」

「真面目に言ってるんですか御影さん?」

「ああ、大真面目だ。どうして双橋が怒っているのか理解できなくて混乱している」

「はぁ……」

 双橋は大仰なため息をした。処置なしといわんばかりに被りを振っている。

 怒鳴ったことで少しだけ平静を取り戻したらしい彼女は、指を立ててレクチャーをはじめた。

「いいですか岬野さん。冷やし中華とそうめんは、まったく別の食べものなんです」

「それぐらいのことは、僕にだってわかるぞ。麺とか違うし、そうめんに比べて冷やし中華はボリュームがあるように思う」

「わかっているなら、これを冷やし中華とは呼ばないはずですよ」

「もったいぶった言い方をするなぁ。てっとりばやく答えを教えてくれよ。僕の作った冷やし中華のどこがおかしいって言うんだ?」

「トッピングが錦糸卵だけのものを冷やし中華と呼ばないでください」

「ええ?」

「どうして不思議そうな顔してるんですか! ばりばりに答えを発表してるんですから、そのリアクションはやめてください」

 言われて、改めて僕は自分の作った冷やし中華を見た。

 冷水で引き締まった麺の上に、焼き加減抜群の錦糸卵を乗せただけにとどめたシンプルな一品である。見るからにおいしそうに仕上がっていると自負している。

「いいですか御影さん。冷やし中華というのはハムや野菜など、彩りを考慮したさまざまな具材を載せてこそ完成するものなのです。卵だけ乗せて、それで冷やし中華が成り立つわけがないのです」

「いや、でも、そうめんだってほとんど錦糸卵を乗せただけだったぞ。そうめんがそれで許されて冷やし中華だけケチを付けられるというのは納得できない」

「だから冷やし中華とそうめんの区別が付いていないと言っているのです!」

 ビシリと双橋は言った。

「そうめんのスタンダードの形は麺とつゆだけで食べるものです。その基本形態から独自にカスタマイズするのは自由です。だから錦糸卵を乗せるだけでも許されます。でも、冷やし中華のスタンダードは違います。麺を彩る具材の存在が不可欠なのです。まあ、人によって定義は千差万別でしょうけど、少なくともあたしは、これを冷やし中華とは認められません。やはり、御影さんに料理を任せられないみたいです。あたしが教えてあげますから、御影さんは料理というものを一から勉強してください」

「お、おう……」

「まずは買出しからスタートです。冷やし中華を形作るための素材をレクチャーしてあげます。付いてきてください」

 有無を言わさず、双橋は僕の手を掴むと、玄関まで連行をはじめた。

 望んだ過程は踏めなかったけれど、最終目標である双橋の復活は、不恰好ながら成し遂げることができたみたいだ。

 

 

 

 

 夏休みの暇な時間を利用して、バイト生活に入るのもいいかもしれない。

 思わぬ臨時収入で、ちょっぴりリッチになったしまった僕ではあるけれど、それでも蓄えが多いことにこしたことはないのだ。経済的に潤っているとは言っても、それはあくまでも高校生という部類の中だけの話である。

 多ければ多いほどいい。

 それは貯金だけではなく、人生経験にも当てはまることだ。

 夏休みというフリータイムを利用して、乏しい人生経験の増幅を狙っておくべきだろう。

 というわけで、重い腰をあげた僕は、求人情報誌を手に入れるべくコンビニを目指すことにした。

「僕、ちょっとコンビニに行ってくるけど、一緒にどうだ?」

「いえ、今回はご遠慮しておきます」

 即決即断、悩むフリさえしないままに、双橋は首を振った。こちらを向きもせず、カードカタログを眺めながらの返事だった。

 ソファの上でうつ伏せになって、足を上下に動かしている彼女は、口笛を奏でているあたり、快適な室内ライフをエンジョイしていらっしゃるようだ。

 いろいろあって、夏バテから復活した双橋ではあったけど、クーラーを室内に取り付けてから、またしても外室頻度が極端に低下していた。どう転んでも彼女の夏季における生活スタイルは揺るがないらしい。

 猛暑日和は依然として途絶えることはなく、むしろ元気をまして今日も今日とて汗をかかせる作業に邁進しているので、涼しい室内から出るのはそれなりの覚悟を要するのは事実だ。双橋が外に出たくない気持ちは痛いほどよくわかる。女性は紫外線を気にするというし、尚更だろう。

 しかし今更だが、僕の部屋は便利な秘密基地ではないのだし、部屋の主である僕が外室するのだから、お客さんである彼女は気を使って一緒に付いてくるのは自然な流れではあると思う。

 まあぐだぐだ心の中でブーイングをしたところで、この炎天下の中、たかだか付き添い程度のことで外出を強制するとか、そんな鬼みたいなことは僕にはできない。

「それで――」

 と、僕は双橋から視線を変えて、生徒会長に向き直った。ローテーブルで勉強道具を広げている彼女も、なかなか現金な人で、部屋に冷房設備がやってくるやいなや、こうして僕の部屋に寄生して、日々まどろんでいらっしゃるのだった。

「生徒会長はどうする? 一緒にコンビニまで」

「結構よ。いまは外室する用事がないし、この課題を片付けておきたいから」

 そう言って、勉強に集中するためか、長い黒髪をポニーテールに束ねた。どっぷりと腰を落ち着ける気構えらしい。

「さいですか」

 どうやら僕はふたりからフラれてしまったようだ。

 別に僕は寂しがりというわけではないが、それでもせっかくの夏休みなのだから友達と遊びに行きたいという気持ちが少なからずある。たかだかコンビニまでの散歩を遊びとするのは自分でも疑問に思うけど、どんなに小さいことでも思い出は思い出となるのだ。

 だから僕はめげなかった。

「なあ、双橋」

「なんですか御影さん」

「コンビニの帰りに、カードショップに寄ろうと思うんだけど、一緒にどうだ」

「いえ、今回はご遠慮しておきます。外、暑いですから」

 双橋を動かすための最終兵器は、あっけなく回避された。

 彼女がしつこくしていたデュエルモンスターズ勧誘活動は、夏休みに入った途端にめっきりとなくなってしまった。それはおそらく、僕をデュエリストに戻すつもりがなくなったというわけではなく、夏季に入ったことにより一時的な休暇に入ったらしい。

 いや、休暇って……彼女にとって、僕をデュエリストに戻すことは、ひとつの仕事なのだろうか?

 まあ、あまりにも僕がデュエルをしようとしないから、痺れを切らせてしまった可能性もあるし、うっかり者の双橋が使命を忘れてしまっている可能性も否定できない。

 どうしたって、憶測だけど。

「うん、じゃあ僕ひとりで行ってくるからね」

 いじけているような口調で言ってみたのだけれど、双橋と生徒会長はそれぞれカタログと問題集に視線を向けたまま、僕の相手をしてくれる気がまるでなかった

 もしかして、もしかすると、彼女たちがここに来るのは、親の視線がない自由な空間が欲しいからなのではないだろうか。だったらへこむ……。

「あっ、御影さん。お出かけするんですよね?」

「ついてきてくれる気になってくれたか!」

「いえ、外に出るなら、ついでにこれをお願いします」

 ソファに体を乗せたまま、手を伸ばして、双橋は一枚の紙切れを手渡してきた。書かれていたのは、食材名の羅列。夕飯の買出しを、どうやら、頼まれてしまったらしい。

 先日、双橋からより良い食材を選別する方法を伝授されたから、買い物に多少の自信はあるし、特にレタス選びに関しては先生である双橋よりも良いものが選べると自負してはいる。だから買出しについては難儀はしないが、どうせ用事があったのなら僕にまかせっきりにせず、一緒に出かけてくれればいいのに。

 まあ、いままで彼女に買い物をまかせっきりにしていたところがあるので、双橋の休暇をサポートする意味も込めて、買出しについては承認しないわけにもいかない。

「わかった。買ってくるよ」

「よろしくお願いしますね」

 気にしているわけではないけれど、せめて一度ぐらいは顔をこっちに向けてもらいたいものである。休日をエンジョイするのもほどほどに、だ。

「あっ、しまった」

 と、今度は生徒会長が声をあげた。

「どうしたんだ?」

「シャーペンの芯を買い忘れてたの。岬野くん。コンビニに行くなら買ってきてくれないかしら?」

「…………」

 おもいっきり用事あるじゃねえか!

 一緒に行こうよ、めんどくさがらずに。

 とか。

 そんな内心を何とか押し込めて、僕は静しい顔を装った。

「シャーペンの芯なら、よかったら僕のをわけるよ?」

「ダメなの。わたしが使ってるのは0.3ミリのシャープペンシルだから、岬野くんのは大きくて入らないわ」

「そうなのか……」

 そういえば、シャープペンの芯には大きさの違いという概念があった。僕はメジャーな0.5センチしか使ってなかったからすっかり忘れていた。

 生徒会長の描く文字が繊細なのは、単に字を書くのが上手だからだけではなく、使っている道具の違いもあるのかもしれない。

「わかったよ。0.3センチの芯を買っておくよ」

「うん、お願いね」

 ともかく、僕は生徒会長からのお願いを聞きいれることにした。

 いつも頼るばかりで、頼られたことがなかったから、たかだか小さなおつかい程度のことではあるけれど、恩の返済をしておきたいかったからだ。彼女から受けた恩義を思えば、利子にもあたいしない些細な用件だが、一とゼロでは大違いなのだ。

 寂しい気持ちをグット堪えて、僕は灼熱の世界に飛び出して、コンビニを目指すことにする。

 今日はきっといいことがあるに違いない――そんな予感は一切しなかった。

 

  *

 

 アパートから駅前の道中には、カードショップがある。夏休み前に、よく双橋に連行されていたお店だ。

 デュエルモンスターズブームの影響でその店が繁盛しているのかというと、実は、そうでもない。カードショップはカードショップだが、そんじょそこらのカードショップとは一線を隔しており、入りづらい雰囲気があるからである。

 入りづらいというか、入るのに躊躇してしまうというか。

 チャージ料金みたいな概念が、その店では必要になってくるからだ。身近な例えでは、入場料に近いだろう。

 店の名は、デュエル喫茶。

 メイド喫茶のように、デュエルモンスターズのコスプレをした店員さんがお出迎えしてくれるのなら繁盛は約束されるが、残念なことに、そんなお店ではない。

 ジャンルの違うふたつのお店の融合。カードショップと喫茶店をひとつの店舗でまかなっているだけなのだ。カードも買える喫茶店と思ってもらえれば、それで間違いはない。

 喫茶店の雰囲気がベースとなった店内のところどころに、ショーケースが設置されていて、その中にカードが並べられている。ショーケースに並べられているカードは観賞用というか、雰囲気作りのための飾りのようなもので、カードを購入する際には、各テーブルに置かれているメニューブックに記されているカード名を、店員さんに告げて購入するという流れである。

 先に述べた入場料とは、つまり一応は喫茶店がベースになっているために、飲み物かあるいは食べ物を注文しなくてはならない空気が作られているためである。僕のような高校生にとっては、手ごろな料金設定となってはいるが、おこづかいの少ない小さい子が、気軽に足を運ぶのは難しいだろう。飲食をしながらデュエルすることもできるが、デュエルディスクが使えるほど店内は広くはないので、テーブルに腰掛ながらアナログな形式でデュエルをすることになる。そのため、店内で闘志を燃やすデュエリストは極稀である。

 もっとも、基本的には喫茶店に立ち寄るついでにカードを仕入れていく人をターゲットにしたお店らしいけれど、奇を衒ったコンセプトは完全に裏目となっている。水周りの店とカードショップを混合するのは組み合わせとしては悪いし、どっち付かずで中途半端な仕上がりになっているデュエル喫茶は、正直、繁盛しているとはお世辞にも言いがたいのだ。

 そんなお店、デュエル喫茶の前を通りかかった僕は、店先で佇んでいる店員さんと目が合った。

「おーい。そこのさえない顔をしているぼくくん」

 店員さんが、にこにことしながら手招きを始めた。その二人称は、年端もいかないような子供に使うようなものだったため、高校生である僕に対しての呼びかけではないと解釈し、お店を通りすぎようとした。すると、またしても声がかかった。

「ちょっと無視しないでよぼくくん」

 間違いなく、彼女は僕に向って言っていた。

 ぼくくんって……。

 その呼び方に気を抜かれつつも、冷静な思考回路を持ってして、彼女と向きあう覚悟を決める。以前にも同じような展開を経験した僕としては、嫌な予感に従って、このまま踵を返して逃走したいところだったけれど、この店によく通う身としては、それは憚られる選択肢だった。

 店員さんはお姉さんと呼べる容姿をしている。年齢がわからないような見た目の人が近頃では増えているので、彼女の正確な年齢までは推測できないが、おおよそで二十歳前半といったところか。

 ジーンズにポロシャツ、その上からエプロンをまとっている。セミロングの髪は奇麗に整えられており、同年代の女子たちとはオーラのようなものが違っていた。その大人びた雰囲気は髪の整え具合だけではなく、泣きボクロにも大きな原因があるのかもしれない。

 僕が観察をしていると、垂れ下がった目元を笑わせながら、彼女はふいに口を開いた。唇の動きが妙に艶かしい。

「ぼくくん、ちょっとだけ時間をもらえないかな」

「はい?」

 突然なにを言うんだろうか、この人は。

 僕と双橋は確かにこのお店によく顔を出してはいるが、しかし、彼女と接客業務以外で言葉を交わすのはこれがはじめてである。実際、彼女に見覚えがある僕ではあるけれど、奇麗な人だなぐらいにし思っておらず、その細部までを正確に捉えていたわけでもない。僕がその程度にしか彼女を認識していないのだから、日々たくさんの人を接客している彼女からすれば、僕のことなんて輪郭すらもおぼろげなはずである。

「えっと、どうして見ず知らずの僕にそんなことを?」

「見ず知らずなんかじゃないわよ。よく女の子と一緒にお茶だけして帰っていく子でしょ。うちに来たお客さんで、一切カードを買わないのは珍しいから」

 なるほど。カードショップがおまけみたいな扱いの店ではあるが、カードに興味がないなら、他のスタンダードな喫茶店に立ち寄るのがベターではあるので、飲食だけして帰る客は希少種なのだろう。

 だったら彼女が僕のことを記憶にとどめていても不思議ではないか。

「今日は、女の子と一緒じゃないんだね。というか、最近はめっきりうちにも来なくないけど、もしかして、わかれたりしたのかな?」

「いえ。わかれるもなにも付き合っているわけではないですよ。最近はあいつ、夏の暑さにすっかりやられちゃったみたいで、外出を渋ってるんですよ」

「あちゃー。やっぱりダメな子よね、双橋ちゃんってば」

 ぼそりと彼女が呟いた。

 ダメな子呼ばわりにはむっとしそうになったが、ここで僕が言及するべきなのは、そこではないように思われた。

「双橋のことご存知なんですか?」

 この店に足を運ぶ機会は比較的に多いけれど、店員さんと会話らしい会話をしたことはなかったはずである。ましてや、名前を名乗っていた記憶なんてあるわけがない。

 彼女は一瞬、顔を歪めたが、それはたぶん僕の見間違いで、温厚そうな表情を保ったまま、

「うん。知ってるわよ。ぼくくんのことを憶えていて、彼女のことを忘れているわけがないでしょ」

 と証言した。

 うーん。どうだろうか。僕は記憶力に絶対の信頼を寄せているわけでもないが、双橋と彼女が会話をしている場面はなかったはずである。

 引っかかりは拭えないけれど、双橋が必ずしも、僕と一緒に行動しているわけではないので、僕の知らないときにこのお店を訪れて、そこで店員さんと仲良くなったという可能性もあるわけだ。

 どの道たいして重要な事柄ではないだろうと、そう判断した。

「それで、えっと、僕に用件があるんでしたよね?」

「あっ、そうそう。時間、もらえないかな」

 彼女は両手の平を合わせて言葉を繰り返した。

 奴隷精神を持ち合わせている僕としては、年上美人からのお願いを断れるわけもなく、第六感が警告のようなものを鳴らしているのにも関わらず、首を縦に振らざるを得なかった。

「ええ、構いませんよ僕みたいなやつの時間でいいのならいくらでも差し上げます」

「じゃあ、さっそく」

 僕の承認を訊くやいなや、彼女は瞬時にエプロンの紐に手をかけ、おもむろにパージを始めた。

 おおっ!

 時間が欲しいってそういうことなのか!?

 休憩とかそういう感じの……。

「ちょっと! なにをやってるんですか! 公共の場でそんな、はしたない」

「ん? なにを勘違いしてるのかな? はいこれ、お願いね」

「……えっと、なんですか、これ?」

「なにって、エプロンだけど」

 そんなことはわかっている。

 エプロンを僕に渡してなにがしたいのかと訊いている。女性の着ていた服をもらったところで、僕はちっともときめかない。そんな性癖はないのだから。

「んー? わからないかな? 店番をお願いしてるんだよ。お姉さん、ちょっと出かけきゃならない用事があるからさ。ね、お願い」

 そんな風に、にっこりと微笑む美女からの頼みを、無碍にできるほど、僕の精神力は強くはなかった。

 こうして、短気バイトは唐突にはじまりを告げた。

  *

 

「あれれ? どうして岬野くんがカードショップにいるのかな? デュエルしないって頑なにちぃーちゃんからの誘いを断ってきたのに、カードショップでバイトをしているなんてこれいかに」

 店番を任されてからしばらくして、記念すべき入店第一号がやってきた。バーカウンターみたいな厨房を囲むようにしてテーブルやカウンター席が並べられた店内に、入店を知らせる鈴の音を響かせたのは、図らずしも知り合いだった。

 緑色の瞳を見開いてちぃーちゃんは疑問符を顔に貼り付けていた。よほど僕がカードショップでバイトしているのを不思議に思っているのだろう。

 夏らしい涼しげな白いワンピースから覗いた脇の下と、ポニーテルに結わえたことによって格段に見やすくなっている首筋に目を奪われながら、僕は応答した。

「久しぶりだね、ちぃーちゃん。ここの店員さんに頼まれてしかたなく店番を代わっているんだよ。言うなれば、超短期バイトだ」

「へえー。頼まれて、なんだね。それにしても似合ってないね、そのエプロン」

「わるかったね。どうせ僕には仕事なんて似合わないよ」

「そういう意味じゃないんだけどなぁ。まあ、いいか。確かに似合ってないと言ったら、岬野くんにカードショップは似合わないもんね。デュエリストじゃないから」

 なんだかデュエルを断り続けていることを根に持たれているらしい。この子はもしかしたら双橋よりもしつこい性格をしているかもしれない。

 知り合いであってもお客さんであることに代わりはないので、僕は彼女をテーブルまで案内した。接客のマニュアルは大雑把だがレクチャーされている。

 不本意なスタートではあったけれど、僕が目的としていたバイトの経験は思わぬ形で果たせそうである。今日働いた分のお給料はちゃんと支給してくれるみたいだし。思わぬ棚ボタにめぐり合ったことを喜ぶべきなのかもしれなかった。

「で、ご注文は?」

「でってなんだよ。お客さんに対する態度じゃないよ。それともちぃーちゃんはお客様扱いしないって言うのかい? それはいけないよ。まがりなりにも岬野くんはバイト中なんだからお客さんが知り合いであったとしても気を抜いた接客をすることは許さないよ」

「……失礼しました。お客様、ご注文はお決まりでしょうか?」

 ちょっと言葉を滑らせた程度で凄くダメだしをされてしまったが、ちぃーちゃんの指摘していることに間違いがあるわけではないので、僕は何も言い返すことができなかった。彼女を初対面の相手だと思って、店員スマイルに興じることにする。

「うわぁ。なにその顔、不気味なんですけど。ちぃーちゃん脅えちゃってるんですけど、責任とってくれますか?」

「きみこそ客としての振る舞いを心がけてくれないかな……」

 一方的に友達面されてしまってはこっちは反応に困ってしまう。店員としてなら安易に怒りを顔に出すわけにもいかないし、友達としてなら平手打ちをしても文句を言われないようなシュチュエーションである。もっとも、女性に暴力を振るうような度胸は、僕にはないけれど。

「えっと、アイスココアとニューヨークチーズケーキをください」

 メニューに目を通すこともせず、暗唱でオーダーをしたちぃーちゃんは、もしかしたらこの店の常連さんなのかもしれない。

 あまりにも自信満々に彼女が注文するものだから、僕はてっきりそれらの商品がこの店にあるものだと思いかけたが、厨房に備えられた冷蔵庫の中を見て、それが出たら目に唱えられたオーダーだと知った。僕は何度かこの店に足を運んでいるが、注文するのは決まってアイスコーヒーだけだったので、メニューをしっかり把握していなかったのだ。

「おい、ちぃーちゃん。きみ、この店は初めてなのかい?」

「はじめてじゃないよ」

「だったらどうして適当な注文してるんだ。いや、はじめての店でも適当に注文するべきではないけどさ」

「岬野くんがちゃんとお店のメニューを把握しているか、テストしてあげたの。残念だけど合格はできなったみたいだけどね。きみ働く気はあるのかい?」

「…………」

 これこそ、なにも言い返すことができなかった。確かにバイトと言えど、一時の遊び感覚でことを構えていた僕は店員としての自覚が足りてなかった。これも働くことで得られる経験の一部だろう。

 しかし、どうしてちぃーちゃんはそんなに厳しく査定してくるんだ。もうお客さんの立場じゃないよきみ。新人バイトをテストする店長のような立ち位置になってるよ。

「うん。ごめん、僕が悪かったよ。これからは脇を引き締めて頑張らせてもらうよ」

「その調子だよ岬野くん。さあ、ちぃーちゃんのオーダーを取るといい」

「いや、だからなんでそんな偉そうに構えてるんだよ。お客さんだからって偉そうにしていいわけじゃないだろう……」

「うん。細かいことは気にしない。ちぃーちゃんと岬野くんの仲じゃないか」

「僕に店員としての振る舞いを要求するのか、友達として接して欲しいのか、どっちなんだよ。僕は今後どんな態度でちぃーちゃんと接すればいいの」

「お客さん以上友達未満でよろしく!」

「…………」

 友達未満じゃねえかよ。

 ホント、ちぃーちゃんの言動はよくわからないことだらけだ。

 ひとつ、ため息をして、僕は気と取り直してボールペンを構えた。オーダーは機械ではなく、紙で取るタイプだ。雰囲気作りのためのそのタイプを採用しているのか、経費不足で機器を導入できないのかは定かではない。

 ちぃーちゃんの注文はアイスコーヒーとスフレケーキだった。今度のオーダーはちゃんと真っ当することができそうだ。作業は簡単で、クックスキルの低い僕でも難なくこなせそうである。冷蔵庫からそれぞれの品を取り出し、コーヒーをガラスのコップに注いで、ケーキをお皿に盛り付けるだけだ。

 ケーキはわかるけど、コーヒーが市販のボトルコーヒーだったのには驚いた。てっきり焙煎しているものだとばかり思っていたが……。もうホント、喫茶店に重きを置いているのか、カードショップをメインにしてるのか不明瞭だ。どっち付かずにもほどがあるだろ。

 トレーに注文の品を乗せて、ちぃーちゃんのもとに戻ると、彼女はショーケースに展示されているカードを緑色の目を輝やかせながら眺めていた。

「ちぃーちゃん、お待たせ」

「おふー。テーブルに置いといてくれるかい。ちぃーちゃんはいま夢中で眺めているところです」

 さすがデュエリストと言ったところか、まさにカードのことになると目の色が変る。

「うーん。やっぱりカードショップはいいよねぇ。ちぃーちゃんが持ってないようなカードも平然と揃ってるんだから、眺めているだけでおなか一杯になっちゃうよ。あっ、もちろんケーキは別腹ね」

「さいですか……。ちぃーちゃんはよくカードショップに足を運ぶのかい?」

「うん。そうだよ。休日はカードショップ巡りをするぐらいだよ。カードショップはいいよね。新しい子たちとの出会いが待ってるんだからさ」

「ははは。なんだかペットショップみたいなことを言うね」

「ちぃーちゃんにとってはカードショップもペットショップも大差ないね。カードは心の友と言っても過言ではないんだから。あっ、カードの買取お願いしてもいいかな」

「売るのかよ!」

 カードと出会うどころかわかれてるじゃないか!

 心の友じゃなかったのかよ!

 現金に変えるつもりまんまんじゃねえかよ!

 言動のつかめないちぃーちゃんではあるけれど、その中でも飛び切りにわけがわかんねえよ……。

 うーん。

 彼女の言動について、深く考えたら負けなのだろう。

「カードの買取だね。はいはい。承りますよ」

「おいおい岬野くん。お客さんに対してその気だるいそうな態度はなんなのかな?」

「いろいろ疲れたんだよ」

 はじめての接客作業で、早くも音をあげそうになっていた。相手がちぃーちゃんじゃなかったらこんなに脱力させられることもなかっただろう。

 カードの買取は教えてもらった接客マニュアルの一部にあった。パソコン画面に買い取るカードの名前を入力するのだ。そうするだけでこの店での買い取り上限額が表示されるから、あとはカードの状態などによって最終的な買取額を決める。カードに対して、ある程度の知識がなかったとしても問題がないシステムである。最新のカードをある程度しか把握していない僕にとっても、もちろん助かるものだった。

「それで、どのカードを買い取ればいいんだ? ちゃっちゃと出したまえよ」

「やる気ないの露骨に伝わってくるんだけど。本社にメールするよ、いいのかな?」

「ここ、個人店だから本社とかないよ」

「えっ、そうなの?」

 これは僕もついさっき知った情報である。あの女店員さんのことをバイトだと思ってしまっていたけれど、どうやら彼女が店長さんなのだそうだ。若い知識を使って勢いで店を作ってしまうものだから、こんな不安定な店になってしまったのかもしれない。

「それよりもカードだ。カードを出したまえ。僕が買い取ってやるよ」

「だからなんだよその態度は。親しき仲にも礼儀ありなんだからね」

 ぶつぶつと文句を垂れ流しながら、ちぃーちゃんは鞄からカードケースを取り出し、その中の一枚を僕に手渡した。

「ん? このカードって」

 渡されたカードには、モンスターの絵柄が書かれていなかった。もちろん魔法カードでも罠カードでもない。裏面はデュエルモンスターズのカードで間違いはないが、表面は黒い背景に星のマークが印刷されているものだ。僕はこのカードを知っている。

「デュエルモンスターズアイスバーの当たりカードだよ。封入率低いみたいだからそこそこの額はするんじゃないかな」

「いいのか。このカード売っちゃっても。五枚集めたらデュエルディスクがもらえるんだろ」

「いいのいいの。五枚も集められる気がしないし、なによりデュエルディスクにはちぃーちゃん困ってないからね。持っててもしかたないよ。だから売るんだ。買取額がいくらになるのか気になるしね」

「わかったよ。さっそく鑑定させてもらうね」

 言いながら、僕はパソコンに向った。

 このカードの買取額が気になるのは、僕も同じだからである。以前に双橋からもらったカードが、僕の財布の中で眠っている。デュエルディスクにして換金しようと企てていたが、このカード単品で値の張るものであるならば、五枚も集める必要は、そもそもなさそうだ。

「ん? あれ?」

 ここで困ったことになった。このカード、名称がないのである。カード名を入力すれば簡単に買取額が表示される便利なシステムではあるけれど、名前がなくては使い物にならないのだ。

 店長でもない僕では独自に買取額を決めることもできない。

 はじめてのバイトはつまずくことばかりである。

「ちぃーちゃんごめん。このカード、この店の買取システムには対応してないみたいだ。店長なら買い取ってあげられるかもしれないけど、臨時バイトの僕では難しいよ。日を改めて持ってきてくれるかい」

「あー。そうなんだね。うん、わかった。でも、いいよ。そのカード岬野くんにあげる」

「えっ、いいのかい? だって価値のあるカードなんだろ?」

「いいのいいの。ちぃーちゃん、お金が欲しいわけじゃないから。価値が気になったから査定をお願いしただけだよ。それもネットで調べればわかるような情報だしね。ようするに、そのカードはちぃーちゃんにとってはゴミ同然なんだよ。デュエルで使えないカードはいらない」

「そうなのか……でもホントにもらってもいいのか?」

「いいっていいって。気にすることはないさ。ちぃーちゃんと岬野くんの仲じゃないか。気負いする必要はナッシングだよ。また近いうちに岬野くんのアパートに遊びに行くからさ、そんとき手厚い対応をしてくれたまえ。あっ、あと今回の飲食代サービスしてよ」

 口元を吊り上げて得意顔を作る彼女の言動は、やっぱり一貫性がなかった。

 

 

  *

 

 一歩進んで二歩下がることが、僕の人生では頻繁に起こる。それは精神的なことでも物理的なことでも、とにかくよく起こるのだ。

 ちぃーちゃんが店をあとにして、静まり返った店内で客用の席に腰掛けながら丸テーブルに布巾を走らせていると、またしても嵐のような人物が舞い込んだ。

「おおおおっ! 岬野御影じゃないか! なにをしているんだこんなところで!」

 せっかちな声は、入口に取り付けられた鈴の、その音色をかき消して、まるで瞬間移動の如く、僕の正面にまでやってきた。ビックリして、僕は椅子から立ち上がった。結果的にそれは大きな失敗となる。立ち上がったところに、ショルダータックルをおみまいされたのだ。

 悲鳴をあげる暇なんてなかった。

 タックルによって僕は椅子に押し戻されて、さらにそのまま、椅子から転げ落ちることとなる。一歩進んで二歩下がるとはこのことだ。

 床に仰向けで倒れ、椅子に足を引っ掛けた体勢の僕に、彼は追い討ちをかける。細い両の腕が僕の耳をかすめて、床でドンという音を響かせた。

 女顔が、目と鼻の先まで迫った。どうやら押し倒された姿勢になっているらしい。

 僕としては彼のことを思い出す機会が多々あったが、実際にこうして顔を合わせるのはお久しぶりである。

 同級生――御厨夏目のご登場だ。

「岬野御影岬野御影岬野御影岬野御影岬野御影――」

「うるさいよ」

 壊れたレコーダーのように、同じ言葉を何度も繰り返す彼を押しのけて、僕は立ち上がってエプロンをはたいた。借り物を汚すわけにはいかないのだ。……はて、エプロンとは、そもそも服を汚さないために着用するものではなかっただろうか?

「岬野御影。きみはどうしてこんなところで働いているんだ!」

「いちいち声を荒らげるな。ちょっとした事情があるんだよ。おまえこそ、どうしてここに来たんだ」

「そんなの決まっているじゃないか! この猛暑の中、熱中症を危惧したボクは、目についた喫茶店に逃げ込んだんだ。そしたらビックリ岬野御影だ。というか客に向ってその態度はなんだ!」

「あー、すみませんねお客様。店内では他のお客様の迷惑になりますので大きな声は控えてくださいまし」

「他の客がどこにいるっていうんだ!」

 遠まわしに黙れと言っているのに、その内心を彼は察してくれないらしい。

 騒ぎ立てる御厨を静かにさせるために、僕は切り札となる話を切り出すことにした。

「どうだい、最近。双橋との仲は順調かい?」

「…………」

 思惑通り、御厨は黙った。その表情は怒っているものではなくて、泣き出しそうなものだったのは予想外だ。

「ん? どうしたんだよ御厨」

「……ど、どうしたのこうしたもないよ。双橋さんと友達になれたってことは前に話したよな」

「ああ、そうらしいな」

 あのとき、こっそり物陰からふたりのやりとりを見ていた僕はそのあたりの経緯を事細かにしっていた。だから、その後、彼から事後報告を聞かされたときに驚いた演技を強いられたものだ。

 よく思い起こしてみれば、確かそれ以降、双橋と御厨が一緒にいるところを見たことがない気がする。

「双橋遊奈のことで、また相談に乗ってくれないか?」

 御厨の声はさっきまでと打って変って灯火のように弱々しいものだった。

 話を振ってしまった手前、無碍に扱うこともできなかったので、僕は相談に乗ることにした。立ち話もなんだから、御厨を席に座らせて、僕は飲み物を用意して彼の向かい側に腰掛ける。

「あのとき、デュエルをすれば万事解決すると、きみがアドバイスしてくれたおかげで、双橋さんと友達になれたことには感謝しているよ。あらためてお礼を言う」

「…………」

「どうしたんだ? そんな複雑そうな顔をして」

「いや、なんでもないよ。御厨って潮らしくしてると女の子みたいだなって思ってさ」

「人が真剣に話ているときに冗談を言わないでくれ」

 真っ当な返答をされてしまった。

 真実、僕は冗談を言って誤魔化したので、彼の指摘は間違いではない。

 あのとき、御厨に的確なアドバイスをしたのは、僕ではなく神路明だった。それなのに、御厨の中でその事実は変ってしまているらしい。

 神路の存在感はとても薄く、あの双橋がデュエルをした相手だというのに、彼のことを忘れてしまっているのだから相当なものだ。特性と言っても過言ではない。

 例外として、僕にとって神路明という男はとても色濃く記憶に残っているので、彼の存在を忘れることはない。夢にまで出てくるのが時折難点ではある。

「それで、えっと、双橋遊奈と友達になれたのはいいんだけど、そこから先がなかなか進展しないんだ。というか話しかけることすら困難なんだ」

「同じ学校にいるんだから、休み時間にでも話しかければいいだろ? 前にも言ったかもしれないけど、お弁当に誘えば、双橋は必ず相手をしてくれるはずだぞ」

「それが出来れば苦労はしないよ」

「なんだよ。いまさら緊張して話しかけられないとでも言うつもりか?」

「違う。緊張はするけど、それが一番の原因じゃない。あれだよ、ほら生徒会長」

「……ああ、なるほど」

 ひとつのキーワードだけで、僕はおおよその事態に察しがついた。

 御厨は生徒会長に対してただならぬ恐怖心を抱いている。それなのに、校内において双橋と生徒会長はワンペアで行動を共にすることが多いから、話かけるどころか近寄ることすらできないわけだ。

 これはまた、難儀なことだ。

 まあ、前回の相談は大したアドバイスをすることができなかったけれど、今回はそうでもない。解決策はすぐに浮んだ。

「御厨。きみの問題を即座に解決する方法があるよ」

「なに! 本当なのか、ぜひとも教えてくれ!」

 ぐいと体を乗り出して、またしても目と鼻の先に女顔が迫った。そのまま椅子ごと後ろに倒れそうになった僕だけれど、そこは、ぐっと堪えた。

「方法は簡単だ。きみが生徒会長に恐怖を抱いている原因は、彼女が怖い顔できみのことを見るからだろう」

「ああ、そうだ。悪魔よりおぞましい死神の形相をするんだよ、彼女は。ボクはそれが恐ろしくてたまらない。思い出すだけで足の震えが止まらないほどさ」

「だったら、解決は容易だ。夏休み明けにあるテスト期間。そこで彼女よりも低い点数を取ればいい」

「え? テストで低い点数を取るのと、生徒会長の形相と、因果関係はあるのか?」

「大いにある。プライバシー保護のため詳しくは説明できないが、その方法で間違いなく、彼女は前と同じように天使の顔できみと接してくれるはずだ」

「わかった岬野御影、きみの言うことを信じるよ」

 半信半疑だと顔が語っていたが、僕の自信満々な様子をみて、一応納得してくれたらしい。

 生徒会長が御厨に牙を向いている理由は、テストにおいて御厨が生徒会長よりも好成績を収めてしまったことに起因している。だから次のテストで赤点に戻れば、生徒会長はおとなしくなってくれるはずである。それどころか、御厨と双橋の仲を取り持ってくれるかもしれない。

「ん? どうしたんだ岬野? 急に頭を抱えたりして、何か問題でもあったか?」

「いや、なんでもない。なんでもないんだ。極めて個人的なことだから大丈夫だ」

 かなり個人的な話である。

 生徒会長が裏返って御厨に優しくなってしまったら、やはり間違いなく、双橋との間を応援し始めるだろう。一見すると全てが良い方向に転がっているように思えるけれど、ひとりだけ頭を抱える人物が生まれる――そう、僕である。

 そんなことはないと思うが、本当にないと思うが、もし万が一、双橋と御厨がくっついたりしたら大問題である。

 なんとか僕はそんな未来だけは阻止せねばなるまい。

 ……あれ?

 僕は御厨を応援しているのかそうでないのか、どっちなんだろう?

「それにしても、良い雰囲気の店だな」

 店内を見渡しながら、御厨が呟いた。相談を訊いてあげただけで途端におとなしくなるのはどうなんだろうか。というか、むしろ、なにか起こると猪突猛進になる彼の特性が問題だろう。

「良い雰囲気ってのには同意するけどさ、でも、良い店ってわけじゃないのが痛いところかな。店のコンセプトにまとまりがないし、実際に客足だって少ない。今日だって、おまえを含めて二名しか来店していないんだ」

「ふーん。そうなのか。それは勿体ない話だな」

「そうか? なるようにしてなっていると思うけど」

「そんなことはないよ。デュエル喫茶、ボクは好きだぞ。気に入った。ショーケースのカードを眺めながらティータイムが満喫できるなんて素晴らしいじゃないか」

 合う合わないには個人差があるらしい。御厨からはご好評を戴けたみたいでなによりである。そういえば、双橋も僕をカードショップに連行するときは決まってこの店だし、もし学校から近いという以外の理由で彼女がこの店を選んでいるとすれば、彼女もこの店を気に入っているのかもしれない。ちぃーちゃんだって常連さんみたいな雰囲気だったし、僕の周りでこれだけリピーターさんがいるのだから、案外、この店は安泰の部類に入れているのかもしれない。

 しかし、客足はやっぱりまばらなので、予断を許さない状況であるとも言える。比較的新しくできた店だから、これからの頑張り次第で、閉店かそうでないかが決まってくるだろう。

 僕は本当の従業員ではないので応援しかできないけれど、陰ながらひっそりと声援を送るとしよう。

「さて、それじゃボクはもう帰るよ」

 しばらくショーケースを眺めながら飲み物をすすっていた御厨が、飲み終えると共に立ち上がって、僕のリアクションを待たずして、すたすたと出口に向かった。

「おい。もう帰るのか?」

「ああ。もともと長居するつもりはなかったし、岬野に相談を訊いてもらったおかげで、長らく溜め込んでたものが、ちょっとだけマシになたからね。気が緩んじゃって眠くなった。帰って昼寝をすることにするよ」

「あっ、そうなのか。わかった。じゃあ、気をつけて帰るんだぞ」

 ひとりの店番は寂しいものではあるので、できればしばらく一緒にいて欲しかったが、無理に引き留めてまで満たしたい欲求ではない。だから手を振ってお見送りすることにした。

 すると、御厨はくすくすと表情を綻ばせた。

「なんだよ、ボクは帰り道を心配されるような歳じゃないぞ」

「それもそうだけどさ。油断大敵ってやつだぜ。気をつける必要は、やっぱりないのかもしれないけど、それでも気を抜くと危ないんだよ」

「はいはい。わかりましたとも。気を抜かずに帰るよ」

「あっ、ちょと待て、御厨」

「ん? まだなにかあるのか?」

 このタイミングで、僕はあることに気がついた。自分で種をまいたのに、それを今の瞬間まで忘れていたなんて、お恥ずかしい限りである。

「最近、変ったことはなかったか?」

「変ったこと? ……いや、特に思い浮かばないな。双橋遊奈の方から接触されたこともなかったし、手紙をもらったこともない。目が合ったことすら、記憶にない」

「いや、双橋についてじゃないんだ。てか、つくづく報われないね、御厨は。えっと、たとえば、リムジンを見かけたとか、金髪のお坊ちゃまに迫られたとか、大金を吹っかけられたとか。そんな感じの変ったことはなかったか?」

「うーん。ないね。このごろは双橋遊奈のことで頭が一杯だったけど、それでも断言できる。そんな変った出来事はなかった。ここ数日は普段通りの日常だったぞ」

「……そうか」

「なにかあったのか?」

「なんでもないよ。他愛もない話だよ。気にしないでくれ」

「変なやつだな」

 御厨は怪訝そうな目で僕を見て、店から出て行った。

 鈴の音が満ちる店内で、僕は席に戻って顎に手を添える。考え事をするには、ひとりの空間というのも悪くはないものだ。

 金髪のお坊ちゃま――喜四郎。

 苗字を訊ねるのをすっかり忘れていたのは、いまさら悩むポイントではない。彼に嘘の情報を流したから、きっとすぐにでも御厨と接触を図るものだとばかり思っていたが、そうではないみたいだ。

 本人も忙しい身だと言っていたし、そうコンスタントに自由な活動ができないのかもしれない。そういえば、僕に詰めよってきたときも下調べをしてからのようだったし、今現在は御厨についての調査をおこなっている最中なのかもしれない。だったら問題だ。調べれば、御厨が喜四郎の望んでいるものを所持していないことはすぐにでも露見してしまうだろう。そうなったらまた僕が問い詰められてしまう可能性が、未来の選択肢に入る。

 まあ、べつに喜四郎に問い詰められたところで、誠意を持って対応してやるつもりもないのだし、金持ちといえど一般人と権力に差がないわけだから、あしらうことはそう難しいことでもないだろう。

「あっ……」

 考えがまとまって一息ついたところで、僕はあることを思い出した。

「お会計忘れてた」

 絶賛バイト中の僕が忘れてしまっていたのだ。御厨だって無銭飲食を企てていたわけではなく、ただ単純に忘れていたのだろう。知り合いしか店内にいなかったものだからお互いに気を抜いてしまっていたらしい。

 過ぎてしまった時間は戻せないから今更騒ぐつもりはないけれど、今日、バイトをしているはずの僕は、さっきから業務をこなす度に所持金がマイナスになっている気がするのだが……。

 頑張っても報われないのは、どうやら御厨でけではなかったらしい。

 

 

  *

 

 それにしても遅い。遅まきながら僕はそのことに気が付いた。

 店番を引き受けたはいいものの、それは短時間の話だと思っていたのだ。けれど、店番をはじめて数時間たった現在でも、お姉さんが帰ってくる気配がまるでない。

 そもそも関係性の薄い相手に、お店をまるっと預けるなんてどういう神経をしているのだろう。本当に急な用事ができて仕方なく店を空けなくてはならなくなったのだとしても、僕のような高校生にお願いしてまで開けておくべき店でもあるまいに。どうせ客足が少ないのだから、思い切って休業にしておけば、それで問題はなかったはずなのだ。

 それとも店を休業するわけにはいかない理由があったのだろうか?

 年中無休を謳っているとか、そんなやむ負えない理由があるとでも?

 もしくは、僕に店番をさせることにが重要だったりして。

 うん。

 自分が世界の中心にいるみたいな考えはしないほうが無難か。

 なんて――

 いよいよ本当に暇になってきた僕がそんなくだらないことを思考して時間を使っていると、来店を知らせる鈴の音が鳴った。

 入店してきた人物を目にして、僕は思わず椅子から立ち上がる。

 お客様にさぼっている姿を見せるわけにはいかないとか、そんな商売魂を持っての行動ではない。

 彼女との――呉羽美香子との再会に胸を騒がせているのである。

 明るい色をした長めの髪――それは僕の知っている形状からは変っていて、ポニーテールになっていた。僕の周りで、なんだかその髪型が流行しているみたいだ。季節によるものなのか服装に合わせての結果なのかは、とんと検討がつかない。

 服装はセーラー服ではない。VネックのTシャツに半袖のミリタリージャケットを羽織っていて、下は七部丈のズボンだった。ズボン――どうもファッションには疎いので、それをパンツと表したほうがベターなのかどうか判断は難しい。

 そして、一際目を引くのは彼女の整った顔立ち――ではなく、ベルトに挟まれている怪しく輝く道具だった。

 得物。

 得物だ。

 僕に恐怖を植え付けたあの木刀は壊れてしまってこの世にない。だから、だからといって、強度を増すためだといって、反省を生かすためだといって、武器を金属製に変えるとはどういうことだ。

 空港で荷物検査を受ければ間違いなくブザーが鳴りそうな道具を彼女は腰に備えていた。

 鉄パイプ――のように見える金属製の木刀。

 いや、もう木刀じゃねえよ。

 柄のない刀だよ。

「よお、ひさしぶりじゃねえか。えっと岬野だったよな」

 眠そうな瞳で、気だるげに手をあげて挨拶してくれた彼女に、僕は瞬時に返事をすることができなかった。どうしても腰で光る凶器に目を奪われてしまって反応が遅れてしまう。

「あれ違ったかな。すまん、人違いだったみたいだ」

「……いや、大丈夫だよ、呉羽。僕はきみの知っている岬野御影で間違いはない」

「やっぱり岬野だったか。ほんと、久しぶりだなぁ。五月に会ったきりだったもんな。で、その後、双橋との仲はどうなのよ」

「……ごめん。世間話にいこうできそうにない。頑張って堪えるつもりだったんだけど、やっぱり気になってしかたがないや。そのベルトに挟まっているぶつはなにかな?」

「なにかなって。見たらわかるだろ。木刀だよ木刀。金属製の木刀」

「きみは日本に銃刀法違反という法律があることをご存知かな」

「バカにすんなよな。そんなのはご存知だよ。だから言ってるだろ、木刀だよ木刀。金属製の木刀。刃は殺してあるから切れたりはしないよ。打撲系の武器だ。これなら銃刀法には触れないだろ」

「アウトだよ!」

 つい勢いで突っ込みをいれてしまった僕ではあったけれど、実際のところどうなのだろう。刃を切れなくしているからといってフォルムが刀みたいだったら銃刀法に触れるのだろうか? 詳しいところを僕は知らない。カードの裁定並に素人判断では確証を突けない領域だった。

「まあ、細かいことは気にすんなよ。これはただ単にアタイの趣味なんだから」

「どうだろう。趣味だからこそ危ない気もするんだけど……」

「そんなことより、岬野はこんなところでなにをやってるんだ? まさか高校生の分際で店を経営してるわけじゃないよな」

「そんなわけないだろ。超短期のバイトだよ」

「はーん。やっぱりそうなのか。なんだ、残念だな」

「うん? どうして残念がるんだよ」

「岬野がここの経営者だったら、求婚でもしようかと思たよ」

「お、おう……」

 なんともリアクションに困る。彼女、あからさまに男を金で見るタイプらしい。求婚されるのはやぶさかではないけれど、その理由が金じゃあなぁ。違う意味でドキッとするよ。

「いろいろと言及しがいのある場面ではあるけれど、一端わきにおいておくとして。えっと、呉羽はお客さんという認識で間違いはないよな」

「ここに来てるんだからその認識で間違いはねえよ。といっても喫茶のほうじゃなくてカードショップとして用事があってきたんだけどな」

「カードを買いに来たのか?」

 この店に立ち寄ったときにはコーヒーの一杯でも注文しなくてはならない気持ちが湧き上がるが、べつにそういうのを気にしない強いメンタルがあれば飲食をしなくても構わないのだ。喫茶店という側面は任意であって強制ではない。あくまでもカードショップと喫茶店をひとつの店でまかなっているというだけなのだから。

「いんや、違う」

 僕の問いかけに、呉羽は首を振る。首の動きと連動してポニーテールが揺れ動く。

「確認したいんだけどよ、この店、カードの買取はやってるか?」

「うん。やってるよ」

「そうか。じゃあ、お願いできるか。ちょっと量が多いから、先に買取できるか訊いておいたほうが効率がいいと思って、自転車にカードを積んだままにしてるんだ、取ってくるから待っててくれ」

「だったら、僕も一緒に行くよ。量が多いなら、力仕事いるだろ?」

「お気遣いはありがとよ。でも大丈夫だ。カードの山ぐらいならアタイでも運べるさ。だから御影は心配せずに買取の準備を整えておいてくれ」

 そう言って、呉羽は鈴を鳴らして外に出た。店の中からでは駐輪場が見えないけれど、自転車というのは、例のデュエルバイクのことだろう。

 デュエルバイク。

 スポーツバイクとかではなく、自転車に見栄えのする外装をつけただけの代物なのだ。前に僕が見せてもらったときは未完成品だったが、五月からしばらく経った現在、それは完成品になっているかもしれない。

 デュエルバイクを眺める意味でも、一緒に行きたかったのだが、断られてしまったのならしょうがない。別に買取に下準備が必要なわけでもないけれど、店内で待たせてもらうことにしよう。

 もっとも、待つほどの時間はかからなかった。呉羽はすぐに店内に帰ってきた。その両手には大きなダンボール箱が抱えられている。

「ほら、これを頼むよ」

 テーブルではなく床に置かれたダンボールはずっしりとした重量感があるようだった。大きいダンボールの中にカードがぎっしりと詰まっているのなら、それなりの重量があっても不思議ではない。一枚一枚はとっても軽いカードでも、束や山になったら重みが半端ではなくなるのだ。

 僕の知る中でもとびっきりのデュエル脳を持っている呉羽がカードの売却を申し出たことには驚いたが、デッキに組み込まないカードは所持しててもしかたがないので、自分のデッキに必要のないカードを売って、必要なカードを買うというのは、合理的な話ではある。

「それじゃあ、さっそく」

 僕はダンボールに手をかけ、ゆっくりと開封した。これだけの量を買い取るのは時間がかかるし、面倒ではあるけれど、同時に、仕事をした達成感が得られることだろう。いまだ働いている実感をもてずにいる僕にとっては嬉しいことではあった。

「……は?」

 僕はダンボールを開けて――そこで思考が停止した。

 重量感があるのも当然である。

 そこに入っていたのはカードだけではなかった。

 デュエリストにとっての必需品――デュエルディスクまでもが、その中に放り込まれていたのである。

 

  *

 

「どういうことなんだよ、呉羽」

 さすがに、ただならない事態を察してしまって、買取作業なんて続けられるわけもなく、手を止めて――手が止まって、呉羽の眠たそうな顔に視線を向けた。

 彼女は戸惑ったように頬を掻いた。面倒だとでも言いたげである。

「いや、どういうことっていうか、そういうことなんだけど。あっ、もしかしてカードの買取はしても、デュエルディスクの買取はやってなかったってことか? だったら悪いな、デュエルディスクは他のところにもってくから、カードだけ買取してくれや」

「そういうことじゃないよ。デュエルディスクの買取はここでもできるよ。だけど、どうしてデュエルディスクを売るのかを訊いてるんだ」

「ダメなのか、アタイがデュエルディスクを手放したら」

「……ダメって言うか」

 ここで、僕は言葉に詰まった。呉羽の持ち物を呉羽がどうしようと、僕に口を出す権利はないのである。むしろアルバイトとして、その行為を促進するべき立場にあるはずだ。

 しかし、わかっていても、気にしないわけにはいかなかった。

 デュエルディスクを売るということは、実質的にデュエルができなくなるということである。僕が知る限りにおいて、もっとも強力なデュエル脳を持っている彼女が自らデュエルディスクを手放すなんて、にわかには信じがたい。

「えっとな、あんまり自分のことを話すのは好きじゃねえんだけど」

 と呉羽は固まったままの僕に見かねて、話を始めてくれた。眠そうな口調は相変わらずだった。

「デュエルディスクを売り払う理由は至極簡単でよ。デュエルしてる場合じゃなくなったし、純粋に少しでも金が欲しいんだよ。アタイのうちは母子家庭なんだ。ママはさ、アタイを良い大学に通わせてやりたいって、毎日パート尽くめで、ほとんど寝る間も惜しんで働き尽くめなのな。だからよ少しでも勉強する時間を作らなくちゃならないし、資金の工面もしたいんだ」

「…………」

 パート。

 働いている。

 親がスーパーで働いているって、前に言ってたっけ。

「ママがそうやって一生懸命働いてるのに、アタイがのうのうとデュエルをしてるわけにはいかない」

「それなら、デュエルしなければいいだけで、カードを売る必要はないんじゃないか? カードを売ってお金を小金に変えるなら、バイトでもしてお金を稼いだほうがよほど効率的だろ」

「そうもいかないさ。世の中には向き不向きってのがあってさ。どうしても金を稼げない人間ってのはいるもんなのさ。アタイ、バイトできないんだ。どうにも短気でよ、すぐに客とか店長と言い合いになっちまう。そんで瞬く間にクビだ」

「……だけど、お金を稼ぐ方法は、労働だけじゃないと思うぞ。他にもいくらでもやり方はあるはずだ」

「アタイにもそう思ってた時期はあったよ。なにか他と違うことをして金を稼げないものかってさ。それで、あのデュエルバイクだ。新しい娯楽ってのはブームになればそれだけデカイ収入が得られるからな。デュエルブームに乗っかって、デュエルバイクを開発して一発逆転の大もうけを企ててたんだけど、どうにも時間が足りねーや。ひとつの物事を達成するためにはそれ相応の時間が必要だ」

「…………」

 デュエルバイク、か。ただの悪ふざけだと思っていたけれど、あれにそんな背景があったのか。

「でも、だからって」

 みっともなく、僕は説得を続ける。デュエルを卒業した身でありながら、呉羽の卒業を出迎えてやれないなんて、酷く勝手な話である。

「やっぱりデュエルをやめる必要はないんじゃないのか。人生には生き抜きが必要だろうし、好きなことをやめてまで自分を追い込む必要なんてないだろ」

 呉羽は顔を伏せた。

「わかってるわかってるよ。アタイだってデュエルをやめたくねえよ。だけどしょうがないだろ。デュエルで金が稼げるわけでもないんだから、続けてたってしょうがねえ。確かにデュエルをしなければいいだけの話で、カードを手放す必要はないのかもしれないけどさ、アタイ不器用だから、手の届く範囲に逃げ道が転がってたらついつい手を伸ばしちまうんだ。ケジメを付けるって意味も込めて、デュエルモンスターズからは綺麗さっぱり足を洗っておきたいんだ」

「……だけど」

「アタイだって覚悟を決めてのことなんだ。簡単に否定しないでくれよ」

「…………」

 そこで、僕は言葉を失った。これ以上、彼女の説得を続けられる言葉を僕は持ち合わせていないのだ。それに、そもそも僕に彼女を説得できるような権利はないのだ。

 デュエルをやめた僕に、彼女を引き留める資格はない。

 その後、僕は無言でカードの査定を始めた。カードの名前を一枚一枚パソコンに打ち込んで、買取金額をチェックする。ダンボールの中には、もちろん呉羽が使っていたデッキも入っていた。

 それなりの値段が付いているカードもあったが、ほとんどのカードはスズメの涙ほどの金額にしかならないみたいだった。

 ――そんなわけないだろう。

 彼女の大切なカードたちが、こんな端た金で取引されていいわけがない。たとえ諭吉さんが束になっても敵わないような価値が、このカードたちにはあるのだ。

 一枚一枚カードを査定するたびに、奥歯に力が入った。

 ホント、ちぃーちゃんの言う通り、僕にカードショップのバイトは似合わないみたいだ。

「呉羽、買取査定が終わったよ」

「え? 嘘だろ。まだ半分もチェックが終わってないように見えるけど」

「いいや。僕ほど熟練したショップ店員なら、これだけ確認すれば、全体のおおよその買取金額は割り出せるんだよ」

「すげーなオイ。天職じゃん。それでいくらになったんだ? あんまレアなカードは入ってなかったし、デッキだって型落ちしてるやつだから、そんな大した額にはならなかっただろうけどさ」

「はい、これ」

 僕はこっそりと財布からお札の束を取り出して、それを呉羽に手渡した。

「ああっ!?」

 彼女がその金額を前にして、目を丸くしたのも無理はない。

「ありえないだろ、こんな額! なんの冗談なんだ!」

「冗談だったらよかったんだけどね。残念ながら本気だよ」

「おかしいんじゃねえか、おまえ!」

「おかしいのはこの店だよ。僕はあくまでもバイトだから店の方針には口出しできないのさ。文句があるなら後日、店長にでも訴えればいいよ」

「……だけど、さすがにこんな額は」

 振って沸いてきたような札束を前にして、呉羽は尻込みしているようだった。僕だって、その大金を渡されたときには大層驚いたものだから気持ちはわからなくもない。

「まあ、そういうわけだから買取は成立ってことで大丈夫だよね」

「いいのかよ本当に。知らねーぞ、この店がどうなっても」

 不安げに顔を曇らせる呉羽だったが、どうにか了承はしてくれたみたいだ。

 はたして、こうすることが呉羽にとっていいことなのかはわからないけれど、僕はそうせざるを得なかった。

 呉羽のカードは僕個人が買い取った。そうすることによって、お店が本来得るはずだった利益をなかったことにしてしまうので、レジにポケットマネーを突っ込んでおく。

 喜四郎からもらった慰謝料はこれで底を突いた。豪遊することはできなかったけれど、冷房設備が整えられたのだから、それだけで十分だ。

「サンキューな。じゃあ、アタイはこれで帰るよ」

 呉羽はしばらく札束と睨めっこしていたが、やがて踵を返した。

「おい、ちょっと待てよ。せっかく再会できたんだから、お茶でもしないか? 双橋も呼んでさ」

「いや、わるいけど、いまはそういう気分じゃねえんだ。すこしでもママからの期待に応えられるように、学業に専念したいんだ。アタイ、ぶっちゃけ成績はあんまりよくないから、この夏休みの間に少しでも挽回したいのさ」

「だったら、僕のクラスメイトに良い家庭教師がいるよ。よかったらそいつも呼んでここで一緒に勉強会でもしないか?」

「そいつもどうせデュエリストなんだろ? だったらその案は却下させてくれ。デュエリストに囲まれたんじゃ、どうしたってデュエルの話題が出てきちまうだろ。そしたら勉強どころじゃなくなるぜ。それによぉ、この喫茶店はどうにも落ち着けねえ、もうカードは見たくないんだ」

「……だったらせめて、ケータイのアドレスだけでも交換してくれないか?」

「忘れたのか? アタイは一匹狼を公言してるんだぜ、ケータイなんて持ってるわけねえだろ」

 呉羽はおどけた口調で言い放った。本気で言っているわけではないと、僕にはそう思えてならない。一匹狼だからケータイを持っていなかったわけじゃなくて、ケータイを契約するような余裕がなかったから、だから持っていないのだろう。

「それじゃあ、またいつか会おう」

 別れの挨拶は、それしか思い浮ばなかった。

 呉羽は眠そうな瞳のまま、口元を吊り上げた。

「ああよ。またそのうち偶然の再会を果たそうぜ。それとさ、岬野。あんたに言っておきたいことがある」

「なんだよ?」

「ありがとよ」

 呉羽は言った。僕にとっては予想外となる言葉だった。

「あのとき岬野と出合えたおかげで、アタイは気づけたんだ。あんたみたいに、デュエルをしない生き方もあるんだなってさ。だからこそデュエリストをやめるって考えが浮んだんだ。感謝してるぜ」

 言うだけ言って、彼女は店を出て行った。

 鈴の音が、僕の痛いところを刺激した。

 ホント、余計な一言を残していってくれたものだ。

 おかげで、また罪悪感を抱えなくてはならなくなったではないか。

 

  *

 

「思ってたより遅くなっちゃって、ごめんね。店番ちゃんとできたかな、ぼくくん」

「ええ、滞りなく達成できましたよ。思ってたより時間をとられてしまったことを除けばですが」

 日が沈み始める頃、営業を終えた店内で、僕がコーヒーを飲みながら優雅なひと時を満喫していると、店長であるお姉さんが帰還をはたした。

「店番、大変じゃなかった? ぼくくんには荷が重かったかな」

「いえ、そんなこともないですよ。お客さんも三人しか来ませんでしたし、有意義なバイト体験ができました」

「それはよかったわ。ぼくくんに大変な思いをさせてるんじゃないかって、お姉さん気が気でなかったのよ」

「……大変な思いはしましたけど」

「えっ?」

「いえ、なんでもありません」

 僕はエプロンを外して、彼女に手渡した。

 お姉さんは渡されたエプロンを躊躇なく自分の身に着けた。汗をかいてないとはいえ、洗濯をしておくべきだと思うのだけれど、彼女はそんなところにはおおらからしい。

「今日は本当にありがとうね。お姉さんとっても助かっちゃった」

「僕のほうこそ貴重な体験ができました、ありがとうございます」

「さて、今日のお給料を渡すわね」

 彼女は言って、即座に引き出しから封筒を取り出して、僕に手渡した。まるで、あらかじめ容易していたかのような手回しのよさだ。

「んん?」

 封筒は厚い、しかし感覚は札束ではない。

 封筒の中身は、デュエルモンスターズだった。

 市販の、初心者用デッキ。

 子供扱いされているのはひしひしと伝わってはいたが、まさか給料が現物支給だとは思わなかった。

 こうして、記念すべき僕の初任給はデュエルモンスターズのカードとなった。

 なるほど、労働は大変である。

 

  *

 

 いろいろな意味で疲れた体を、無理矢理動かして、脱力による意識の朦朧を携えながら、僕がアパートに戻ると、そこに双橋の姿はなく、勉強に集中する生徒会長の姿だけが残っていた。

「あら、お帰りなさい。ずいぶんと遅かったわね。ん? なにかしらその大きなダンボール」

「これは、あれだよ。うん、あまり気にしないで」

「わかったわ。岬野くんのプライベートもあるものね、深くは言及しない」

 彼女は興味なさそうに言って、勉強に戻った。僕のことよりも今は勉強に意識が傾いているようだ。シャープペンシルは双橋のものを使用していた。僕の帰りが遅かったから代わりのもので妥協したのだろう。

 コンビニの袋から0.3ミリの芯を取り出して、彼女に渡しながら、僕は問いかけた。

「双橋はどこにいったんだ?」

「さあ、知らない。岬野くんが出かけたあとに、すぐ遊奈も出ていったものだから、てっきりふたりで買い物をしてるんだと思ってたけど、その様子だと違うみたいね」

「そうか。双橋のやつ、出かける用事あるなら言ってくれたら付き合ったのになぁ」

「もしかしたら、岬野くんに付いて来て欲しくなかったから、かもしれないわね」

 そう言われてしまうと、とても寂しくなる。

 まあ、双橋にもいろいろと事情があるのかもしれないので、深くは掘り下げないけど。

 と。

 そこで、ケータイの着信音が鳴った。

 双橋からの連絡なのではと思って、即座に画面を確認してみたが、残念ながら相手は違っていた。 

 ホント、残念だ。

「岬野くん。電話、出ないの?」

「えっ、いや、生徒会長もいるし、メールで返すことにするよ」

「いいわよ気を使ってくれなくて、あたしは耳を塞いでおくから出るといいわ」

「……わかった」

 気乗りしないが、勧められたのなら従わないのも不自然だ。嫌なことから逃げていては何も始まらないのも、また事実だし。

 ああ、くそ。

 やっぱりケータイの電源は切っておけばよかった。

「はい」

 僕は電話に応答した。

 相手は僕の両親、その片割れの方からだった。

 久しぶりに会話をするのだから、もう少し息子のひとり暮らしに対して心配している素振りでも見せればいいのにと思いながら、僕は敬語で受け答えをする。二、三ほど事態の報告を一方的にされて、通話はあっけなく終了した。

「誰からだったの、電話」

 通話が終了したことをさとるやいなや、生徒会長は耳から手を離した。さして興味もないふうだったので、適当な話の繋ぎとして、彼女は言ったのだろう。

 僕はすこしだけ気が引けるけど、応えないわけにはいかなかったし、また、報告しておかないわけにはいかなかった。

「親からだったよ」

「ふーん。ご両親からね。岬野くんのご両親って顔が想像できないわ。似てるの?」

「認めたくないけど、外見だけならたぶん母親に似てる」

「そうなんだ。お母さん似なのね。それで、どんな用件だったの? 一人暮らしの我が子を心配しての電話?」

「違う」

「じゃあ、どうしたの?」

「報告。離婚報告」

「……え?」

「両親、離婚したらしい。それで、僕の親権が移るから、苗字も変っちゃうみたいなんだ。これからは、遊凪御影(ゆうなぎみかげ)と呼んでくれたまえ」

 僕は、だから、悲しいことには慣れているんだってば。

 

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