世界が平等である程、弱者は増えていった。
9月18日 曇り 午後7:00時
チーン
涼やかな音が響いた。
「南無妙法蓮華経」
ここは人が別れを告げる場所。
現実から非現実へ移行するための通過儀礼である。
「是不可思議」
人と人とのつながりの果てに、終えた想いを、後味の良いものにする魔法の特効薬。
「以何因縁」
全ては残された人達の為に。
チーン
空気が冷える。
それは場所を引き締め、人々の意識に違和感を与える。
その差異こそが人々に別れを意識させるのであろう。
「於是弥勒菩薩」
迷いは何時だって難敵である。
憂いは何処までも無意味である。
「如我惟忖」
ただそこに生か死があるだけ。
受け入れる云々ではなく、ただ零か壱かである。
「為求声聞者」
死は平等であり、それゆえに無情だ。
全ての人が受け入れることはない。
人々の其処にあるのは諦観である。
「究竟涅槃」
だからこそ人はその先を求めるのである。
薄暮のその先を
目を閉じてしまってもその先に何かがあると信じられるから。
人々は強い。
「無有一人」
しかし旅路は一人。
慈悲も善意もなく、かといって脅威も悪意もない道の始まり。
「若身若心」
間の際に顧みることは遅く、人生生き急ぐ勿れ。
身に染み着いたこの業を先に残す事勿れ。
「日月燈明仏」
この儀式は死者に捧げるものではない。
ただ、その先に旅立つ為の決別の一句である。
「於大衆中」
だからこそ、この大衆の中に於いて、迷い出ずる事勿れ。
決して迷う事勿れ。
と囁き続けるのだろう。
「而説偈言」
チーン
「本日はご愁傷様でした」
振り返って頭を下げる。
親族一同、それに近しい方々皆が涙する中、葬儀はしめやかに行われた。
―――――――――――――
9月19日 薄雨 午前2;00時
すっかり夜となり、雨が降る帰り道を私は帰っていた。
風が強く、手に持った提灯は如何にも心許ない。
きぃきぃと軋むそれはぼんやりと先の道を照らしていた。
もう遅いからと引き止められはしたものの、私は断って出てきてしまった次第である。
それというのも私が原因なのだから仕方がない。
その人達に向けて言うことはなかったけれども、死体と一夜を過ごすことなど考えられない。
その昔、死体が攫われるとされ、葬儀が終わるまでは蝋燭の明かりを絶やすな、など様々の伝承があったが、今はその実物が地下に幽閉されているらしいので気にしなくてもよろしい。
しかし、葬儀の後ですぐ埋めることが出来なかった事はその家族に起因するのである。
棺に入っていたのはまだ年端もいかない子供であった。
友達もたくさん来ていた。
その中に小さな少女に寄り添う鬼の姿を見つけた時は驚いた。
鬼は私を睨みつけるように見ていたが、どういう意図があったのかは分からない。
私が望んでいたものが目の前にあった。
人間も妖怪も平等に暮らせる世界。
私があれほど渇望した現状が、一つの間違った形であった事は大きな誤算であった。
なんと素晴らしいお題目を掲げたものだろうか。
説法家であるが故にその意味が素晴らしく腹立たしい。
それは置いておくとして、家族はその少年の体にしがみつき、離そうとしなかったのである。
魂のない骸は霊に入りこまれ死霊と化す事がある。
その言葉もなんのその、家族は少年に覆いかぶさるように抱きつき、私は帰宅する道を選んだ。
ともかく蝋燭の火を消さないでさえいてくれればいい。
葬儀は二回に分けて行われるものとなっていた。
これも葬儀の一つの方法である。
非情だと言う勿れ。
気味が悪いものは仕方ないのだ。
昔はそんなことはなかった。
しかし、ある時から、自分の経を送った人の顔を見ることができなくなった。
私も一人の人間である。
死体に忌避感を感じるのは当然の事であると言い聞かせた。
その思考の刹那。
「もし―」
何処からか声が掛かった。
いいしれぬ闇の中、灯りを探すが徒労に終わる。
「もし―」
また聞こえた。
しかし、視線を何処にやっても虚しく空を斬るばかりである。
「何方(どなた)です」
私は闇に向けて声を掛ける。
如何にも嫌な予感がしていた。
「灯りがなく里に帰れなくなってしまいました」
声はくぐもっておりその響く声の頃から見て老婆と踏んだ。
しわがれたようなその声は闇の中から聞こえる。
「そうですか、それでは里にお送りしましょう」
声は不思議な事に何処から聞こえてくるものか分からなかった。
提灯を前に向ける。
しかしその声の主の姿は何処にもなく。
ただ目の前にある木の幹が姿を晒すだけ。
「どうしたのですか、さぁ行きましょう」
その声は空に消えなかなか姿を現さない。
自分は質の悪い化生に捕まってしまったか。
「もし―」
もう一度その声が響いた。
「どうしましたか」
「幹に躓いて足を挫きました、運んではくれませんか?」
灯りは木の幹を確かに照らしていた。
誰もいない木の幹を。
「姿が見えないようですが」
しとしとと雨が降っている。
葉脈を伝いゆっくりと落ちるものだから。
サーサーとは降らない。
実にゆっくりと、少しづつ体積を増し、降り注ぐ。
何時の間にか辺りを霧が包み初めていた。
「そうなのです、私はもう姿がない」
その声は止まることなくその先を告げた。
「だから、載せて行ってください」
一人では行けないと、負ぶさらせてくださいと。
「いいでしょう、幸い私は身軽です」
私を包むものはこの装束一つなのである。
手に持つ提灯は頼りなさげに揺れていた。
「ありがとうございます」
そうしてその声は体積を持って私に負ぶさった。
「それでは行きましょう」
来た道を戻る。
里の方へ、もう半分程も来た道を戻る。
「諸仏智慧」
経を唱えさせて戴こう。
少しづつ、ゆっくりと、経文が唱え終わる頃には里についている事だろう。
「甚深無量」
信仰を捧げる。
「其智慧門」
この世を憂う人々の歌。
「難解難入」
世は全て事もなく。
「一切声聞」
人々は安寧に暮らし。
「辟支仏」
手を取り合って暮らしていく。
「所不能知」
それが無理だと実感した祈りの歌。
「所以者何」
身に染みついた者だから口は勝手に動き、音を刻んでいく。
「それ以上口を開くな」
その声は突然背中から掛かった。
無が実を結び、そこに有が生まれる。
背中には明確な重みが存在していた。
「どうしてでしょう」
その声の主へ声を掛ける。
「その声に反吐が出るからだ」
声の主は幼く、またその実態もそのような輪郭を結んでいた。
「あなたは、朱点のですか」
「そんな古い名前で呼ぶ奴なんざ今の幻想郷にはいないさ」
そう言うと私の背中から飛び降り、私の前に進み出る。
私の目を見つけて一息、後に―
「その口から出るものは何だ」
いきなりの問答である。
確かにこの鬼、その昔もこんな事をしていたのだから不思議ではない。
元の伝承では幼くして成人の知識を持っていたというのだから。
「言の葉でございます」
凛として答えなければならない。
「その意図は」
向き直り気を静める。
「私の内を外に出すものかと」
相手は鬼だ、一度間違えばこの身は果てるだろう。
「先の声は」
雨の降る山道、ここが橋の袂であったのなら返す答えも分かろうが。
「信を貫く言霊なり」
生憎と私は武士ではないのでそこで話は終わりである。
「その数は」
何とも即席にしては際どい所を聞く。
「惑いし人を導く灯なり」
なればこそ、思考を空にする。
「その真意は」
問答とは、自分の内への問い掛けを他人の助けを借りて答えるもの。
「信心して文を唱えることなり」
その瞬間相手の問い掛けは止まった。
「それだ腐れ坊主」
私は罵倒されたことよりも相手の真意が分からない事に戸惑った。
「“それ”……とは?」
考えれども己の内に答えは出ない。
「もう一度問う、信仰とはなんだ」
その声は降り続ける雨の中でも真っ直ぐに私に届いた。
「信心をして経を唱える事です」
私は先程と同じ意図を返す。
「なら、お前は何だ?」
・・・・・
「お前のそれは唯の文章だ」
吐き捨てる様にその言葉は投げ掛けられた。
「人々はお前に何を求める?」
その問い掛けに私は直ぐに答えられない。
「あの場は人々に何を求めるんだ?」
そう、あの特殊な場所は人々に何を齎(もたら)すのか。
その答えが如何にも出せない。
「決まっているだろう、その人の無事だ」
あの場では、人々が涙を流し別れを惜しむ。
「この先の旅路で不幸のないように」
それが不安だからこそ、あの時に人々は離れるのを惜しんだ。
「どうか安楽でいられる様に」
辛い思いをしたのだから、せめてその先は穏やかでいられるように。
「自分一人が願う事は恐ろしいから」
儚い願いなど塵芥の様で、心細い。
「悲しみを分かち合う為に」
だからこそ、人を集め、此処にいた事を示すのだ。
「自分の残した跡を証明するために」
その人が生きた事は決して無駄じゃない事を証明する為に。
「あの場所は人々に信心を求める」
びしょ濡れになりながら、それすらも厭わず鬼はこちらを見据えていた。
「では、お前が求められていたものは何だ?」
考える、私に何時の間にか欠けていたものが指摘されている。
「経を唱えることか?」
その声は実に苛立たしげで、今にも拳を振りかぶりそうな怒気を孕んでいた。
「鈴を鳴らすことか?」
声は少しづつ大きくなる。
「違う!!!」
大声が雨の中響いた。
「その場所でお前は何をしていた?」
つまりはこの鬼が怒った理由はそれである。
「お前に求められていたものはなんだ?」
私が最低の事をしたと罵倒しに来たのだ。
「ただその人の幸福を願うことじゃないか」
傍目から見ていたら私自身もそう思った事だろう。
「お前が僧だとかそんなことは関係ないんだ」
私が死人から目を背けたくなった原因。
「お前が経を唱えられる事なんて関係ないんだ」
それは僧である以前に、当然のものとして求められていたものだったのに。
「お前が呼ばれたのはあそこにいた小さな子供がその先幸せに暮らせるように祈る為じゃないか」
私は人の先を願っていなかった。
ただその場限りのものとして、鈴を鳴らし、迷い出づるなと願うばかりであった。
「何故坊さんがあの場に呼ばれると思う?」
其処に至るのか。
「お前達が日々願っているからだ」
自分の来世での平穏を。
「人々を救いたいと、毎日願っているからだ」
他が我を助くと知っているから。
「人々が自分が生きる事に精一杯になっている時にも、お前達は救いを願っているから」
出来る事もせずに。
「自分が祈るよりもお前達に祈ってもらった方が徳が高いと思うんだ」
祈る事しかできないのだから。
「家族が祈るよりも幸せになれると信じるから」
自分では出来ない悔しさを滲ませて。
「他人であるお前に助けを求めるんだ」
その私がした事はなんだったか。
「お前達は普通の人だ、経が読めるだけの、何処も変わらない人」
人々は平等である。
「しかし、お前達が願う方が徳が高いんだと」
それを願ったはずなのに。
「どうだ、これが平等か?」
平等は是程
これほど
までに遠くなった。
故に、人と妖怪は相容れないのである。
人は祈るもので、妖怪は其処に或るものだから。
目指す形を間違えながらも、其処に救いはあるのだと祈った。
・・・
「ありがとうございます」
自然とその言葉は出ていた。
「一つだけ言わせてください」
私はこの空気に終止符を打つ事にしよう。
「人間をなめるな」
鬼は私の反応に眉を顰めた。
「あの場が何を求めるのか」
私は論破などされていない。
「決まっているでしょう」
人はそんなに弱くない。
「残していく人への手向けです」
確かに人が死ぬのは悲しいことだけれど。
「自分が先だって申し訳ない」
後悔が深いのはきっとお互い様のはずだから。
「もっとこうしていたかったのに」
未練や後悔を残してしまうこともある。
「そんな想いを抱くからこそ、死を明確にし、旅立つのです」
だからこそ、私がいる。
「そしてそんな後悔を抱いている自分を恐れさせないために、現世にて迷うなと私は囁き続けるのです」
迷うなではなくその真意はここに留まる人達の為に。
「全ての事に意味などなく、正しく私達は経文を読みに来ているのです」
生は厳しく常に別れを伴うものだから。
「経文を読み、鈴を鳴らし、それらしい事をするために私は来ているのです」
悲しむなとは言わない。
「僧は唯の人です、特殊な力なんて当然なく、特別な祈りが出来る訳ではありません」
悲しむ声はきっと届く。
「しかし、経は読めるのです」
確証などなくてもそうだと思うから。
「鈴を鳴らし人々に知らせる事は出来るのです」
私は出来ることをする。
「特に力などなくても人を救えるのです」
其処には安易な呵責など介在してはいけない。
「私がなにか間違っていますか?」
今度は私が問いかける番だった。
鬼はフンと息をつくと睨みつけた。
「詭弁だ」
吐き捨てられた言葉は雨と一緒に地面に落ちて行った。
「そうですとも」
実際鬼に指摘された通りなのだ。
私は経を読む事を考え故人の幸せを十分に祈らなかった。
それが気に食わなかったのだろう。
根幹を見失っていたと言える。
最も大切なこと。
私は、その人の冥福を心から祈ることを怠った。
経文が唱えられる事よりも、その人の事を心から祈ることが一番であったのに。
「ありがとうございます」
私は再度礼を贈る。
「態度で示せ」
鬼は実利主義だ、言葉の力を信用しなければ過信もしていない。
「分かっています」
だからこそ、あんな事を言ったのだ。
相手と対等に意見するために必要な事は、こちらも意見を述べる事。
所感を交え初めて論議となる。
そして互いに言いたいことがあるからこそ、何かはその何かと対等に向き合う。
「では行動で示させていただきます」
私は私の間違いを受け入れ感謝する。
その相手は妖怪である。
「もちろん聞いてくれるのですよね?」
向けた対象は呆れた顔をしながらも勝手にしろと里への道を歩き始めた。
それを追いかける。
かつてそうなりたいと願い、叶うことのなかった偶像。
それは相容れなくて間違ったモノだったけれど。
間違った形でもいい。
こうして話しが出来て、互いに誰かの事を想いあえていれば。
「南無妙法蓮華経―」
それが私の望むものだから。
死というのはどうにも難しいものですね。
作者もその関係の者なのでいろいろと考えることがあります。
死者を送り出すため、死者の平穏を祈るため、しかしこの行為には自己満足の含まれている部分が多分にあり、だからこそ、ままならないのだと思います。
でもきっと日本語は繊細ですから、単純な言葉で表すことが出来るかもしれません、しかし、作者には文章力があまりなくうまい言葉では表現できません。
死とは本当にままならないものです。