「ここは、どこ? あなたは、だれ? 私は……なに?」
そう言った彼女の顔は、何一つ冗談を含んでいない、ただ純粋に疑問に思っているかのような、そんな顔であった。
「私はなに、って、まさか、自分のことが分からないのか……?」
彼女の発言に私はそう問い返した。
記憶喪失。
時折話に聞くことがある。
悪神であり悪夢を司るデイドラ(悪神)であるヴァーミルナの仕業とも、悪意ある魔術師の呪いとも言われるが、その内容自体はいつも同じ。
自分のいままでの記憶を忘れ、自分が何者であるかすら分からなくなってしまうというのだ。
「自分……? 私は、わたしは……」
彼女はだんだん下をむきながら、そうつぶやく。
「わからない。私はなに? ここはどこ?」
「さっきも言ったけど、ここはホワイトランの近くにある宿屋。倒れていた君を見つけたあと、とりあえず一番近いところの宿屋に連れてきたんだ」
「君が何者なのかは、申し訳ないけれど私にも分からない。見た限り、ブレトンかインペリアルあたりのように見えるけど……」
彼女の姿を見てみると、特別に種族的な特徴は見当たらない。
アルトマーなどのような尖った耳もなければ、アルゴニアン(蜥蜴人間)やカジート(獣人)のようでもない。
ノルドのような金髪でもなければ、レッドガードのような浅黒い肌を持っているわけでもない。
おそらく、ブレトンか、インペリアル。そのどちらかだとは思うのだが……
「ブレトン? インペリアル? それはなに?」
「え? ブレトンやインペリアルが何か分からない? ブレトンもインペリアルもここタムリエルに住む種族の名前だけど、本当にこれらの名前が分からないの?」
「うん。わからない。そもそも私は、偉大な、偉大な……? ごめん。本当に分からないの。」
そう少し顔に影を落としながら訴える彼女の目に偽りの色は見えなかった。
どうやら本当に、彼女は自分のことどころか、この大陸の基本的なことすら分からないらしい。
言語が話せることは不幸中の幸いだが、ここまで忘れているとなると、はたしてどうすればいいのか。
「えーと、そうだ! 女将さんがさっきご飯を持ってきてくれたんだ。二人分。とりあえず分からないことを延々と二人で悩んでいても、仕方ないし、まずはご飯を食べよう。リラックスしていたら、何か思い出すかもしれないしね」
そう言って席を立ち、テーブルの上に置いていた木製のトレイを二つ持ってくる。
トレイの上には少し冷めてしまったがまだ温かい野菜のシチューと、黒パンが二つ盛ってある。
シチューは野菜がたっぷり入っていて美味しそうだ。
「はい、どうぞ。美味しそうだよ」
「うん。ありがとう。美味しそうね」
そう言って少し微笑んだ彼女は美しかった。
私は少し照れくさくなって、片手で頭を触りながら元いた席に座り、またベッドの背中の部分にもたれかかっている彼女と向き合う。
「それじゃあ食べようか。食べ方は分かる?」
「えっと、このスプーンを使えばいいのよね?」
彼女はスプーンを指さしながら小首をかしげる。
「そうそう。良かった。そういったことは覚えているんだね」
少し安堵した。良かった。こういった日常的な部分まで覚えていなかったらどうしようかと思ったのだ。
そうしてともにご飯を食べていると、ふと彼女が思い出したように尋ねてきた。
「そういえば、あなたのお名前はなんというの?」
彼女にそう尋ねられて、私ははたと思い出した。そういえば、私は彼女に名前を名乗っていない……
「ごめん、記憶のことがあまりに衝撃的で名前を名乗ることを忘れていたね。私の名前はトラバエオス・エルディキニ・ホルン。長ったらしい名前だから、多くの人にトランと呼ばれている。君にもトランと呼んでほしい」
「ええ、よろしくね、トラン。私の名前は、私の名前は…… ごめんね、トラン。どうしても、名前が思い出せないの。もしかして、私にはそもそも名前なんてなかったのかもしれないね……」
彼女はそう悲しげに微笑んだ。
「大丈夫。名前はそのものの本質を表わす神聖なもの。きっと君にも名前はあるはずさ。今はまだ、思い出せないだけで」
「そう、かな。それならいいのだけど……」
そう言った後。彼女は少しの間悩むようにうつむいて、それから顔を上げて言った。
「ねえ、トラン? もしよければなんだけど、仮のものでいいから名前を付けてくれないかな。トランも、名前を呼べないと困るでしょ?」
そう頼む彼女の顔は、どこか切実で、懇願するような響きを伴っていた。まるで迷い子のような、自分がどこに立っているかすら分からないような、そんな顔。
私は暫し、考えた。さっきも言ったように、名前とはそのものの本質を表わす神聖なものだ。
その者の本質を決める、言霊を宿すのだ。
たとえ仮のものだとしても、言葉によって世界を歪める魔術師たる私が名前をつければ、それはそれはそのものの本質を定義するということに他ならない。
私は悩んだ。だが、どこか救いを求めるような彼女の姿を見て、私は決意した。
「分かった。本当に仮の、記憶を取り戻すまでのものだけど、私が名前をつけよう。ただ一つ、お願いしたいことがあるんだ」
私がそう言うと、彼女は身を乗り出し、
「本当!? なんでも言って! 私にできることならなんでもするから!」
「そうかい? ならお願いだ。私とともに、旅をしないか?」
「え?」
「記憶もなく、頼れるものもなく、頼るべき名すらないのだろう? なら、私が名づけよう。私が君に、私の弟子としての魔術名を送ろう。私ももうそろそろ位階をエキスパートまで上げつつある。そろそろ弟子を取ってもいいころだろう」
私はそう言い、彼女の目を見て、彼女に向き合う。
まったく、自分でも初対面の彼女になぜここまでするのかと不思議に思う。ここまで異種族に優しいアルトマーなんてどうにかしている。
ただ、それでも迷い子のように震える彼女を見ると、そう言いださずにはおれなかったのだ。
彼女は少しためらってから、おずおずと、こちらを窺うように
「本当? トランはいいの……? そんな、会ったばかりの私のために……」
「いいさ。それに、これは決して私に損なだけの話じゃない。君の髪を見てごらん」
そういって、彼女の透き通るような蒼色の髪を見る。
「髪には魔力が宿る。そこまで見事な蒼色の髪なんて、私は見たことがない。きっと君は氷の魔術にすごい適正があるに違いない。だから、これは先行投資でもあるんだよ」
そう言ってほほ笑むと、彼女はうっすらと涙を浮かべて、目をつぶったあと、微笑み、そして
「はい。私に名を下さい。私を、弟子にしてください。マスター」
「ああ、これから君は私の弟子だ。そして、」
「君に名を与えよう。君の名前はイース・ヴァーデン・ホルン。この国の古い言葉で、『氷の乙女』という意味を持つ言葉に、私の魔術家名であるホルンを加えた」
「これが君の名前だ。イース。これから、よろしく」
「はいっ!」
これがすべての始まり。我が弟子と、私の出会った、最初の1ページ。