文の体はガクガクと震えだし、涙がまるでダムが決壊したかのようにぼろぼろと零れ落ちる。それほど、あの事件は文の心に大きな傷を残していた。妖怪は精神面が弱い。種族を超えた絆で結ばれた親友が、仲間の命を奪う。それを目の前で目撃した文の傷は、計り知ることができなかった。
文はポケットから取り出したハンカチで涙をぬぐい、悪夢のような事件について口を開いた。
「あの日、私は取材の帰りだった…」
「んんーっ!今日もいい写真が撮れました!絶好調ー!」
取材を終えた文は妖怪の山にある自宅に向かっていた。今日の取材で予想以上の収穫があったのか、かなり上機嫌な様子で鼻歌を歌いながら、スキップを踏んでいる。今の時間は夕方4時。予定よりも早く終わったので寄り道をしようと思い、いつもは通らない川沿いの道を進んでいた。
「川の流れが涼しくて気持ちいいなぁ。椛って犬かきをするのかな?」
そう呑気なことを考え、ぶらぶらと川辺を進む。すると、木々の間から何者かの声が風に乗って聞こえてきた。声の様子から、数人が集まって騒いでいるような感じだ。このあたりに誰かいるのだろうか、ここは天狗の里から離れた場所なんだけど。そう不思議に思った文はブン屋の血が騒いだのか、カメラを持って声のする方に向かって木々の間に足を踏み入れた。
一歩ずつ進むたびに、聞き覚えのある声が聞こえてきた。この高圧的な口調で捲し立てるのは、我々鴉天狗の中でも非行が目立つ人物で、下の位にいる白狼天狗や河童に対して様々な嫌がらせをすることで有名であり、忌み嫌われていた。なぜそのような奴がこんなところにいるのだろう。しかも話している内容から、数人の仲間を引き連れて誰かをいじめているようだ。気づかれないように距離を取り、そっと消音機能付きカメラのスイッチを入れた。その直後、聞こえてきた言葉に耳を疑った。
「なぁおい、気分はどうだ?散々こき使ってきた天狗に、鬼が見下される気分はよ!」
鬼。鴉天狗たちがいじめている相手は、同種族の天狗や河童たちではなく、鬼。でも、この山に鬼はいないはずだ。一体誰をいじめているのだろう。
「…っ!まさか!?」
文の頭は、一つの答えをはじき出した。いじめられている鬼の正体が。しかし、すぐさま頭をぶんぶんと振ってその答えを振り払う。いや、さすがに違うだろう。絶対に違う。いや、違っていてほしい。心の中で答えが外れていることを必死で祈る。
淡い期待を込め、そっと木の陰から身を乗り出した。しかし、目に飛び込んできた光景によって、文の抱いた希望は無残にも打ち砕かれた。
「そんな、嘘でしょ…」
目に映ったのは和服を着た女の子。見間違えるはずの無い、私が良く知っている姿であった。気前が良く自由奔放で、鬼と言うには人情溢れ、親友と呼べる妖怪なのだから。信じたくないと、嘘だと、再び文は願った。
そこに気紛れな風が吹く。
風に吹かれ遮る物が無くなり、大きく主張する茶色の髪と角が、真実だと告げる。
「嘘……やめて……」
鴉天狗たちにいじめられていた妖怪は、まぎれもなく心音だった。
文の顔から血の気が引き、体中がブルブルと震えだした。目を覆いたくなる光景から目を背けたいのに、視線をそらすことができない。駆け寄って助けたいのに、足に力が入らない。止めてと叫びたいのに、小さなうめき声を上げることが精いっぱいだった。今の文には、茫然とその光景を見つめることしかできなかった。
「なんでよ、うちはただ…友達に、ぐすっ…なりたかった…のに…」
心音は地面に横たわり、項垂れ、肩で息をしていた。泣き声もはっきりと聞こえる。息づかいは弱々しく、よく見れば痣も出来ている。
「友達だと?ふっ…あっはっははは!笑わせるな!」
鴉天狗は笑い声をあげると心音の角を掴んでグイッと引き上げ、お腹に一本歯の下駄を叩き込んだ。
「くぅぁっ!!」
心音の小さな体が蹴り飛ばされ、宙を舞う。そして後方の大木に体を打ち付けた。激しい音を響かせながら大木は倒れ、心音の身体に覆い被さる。
言葉が、出ない。
気づいたら涙が止めどなく溢れ、悲しみと苦痛で歪んでいた。親友がいじめられている光景を見て、心が張り裂けそうに痛む。でも、心音の苦しみは私なんかよりももっと大きく深いに違いない。
「やめて、もうやめてよ…」
悲しみと悔しさが体中を支配し、かすれたようなうめき声を出すことが精いっぱいだった。助けに行きたいのに、何もできない。そんな自分が歯がゆく、そして醜く思えた。
いやそれは違う。自分は助けられる。相手は同じ鴉天狗だ。例え数が多かろうと話し合いに持ち込めば良い。それが出来なくとも、この場から飛び出して心音を抱えて逃げれば良い。そう理解している。
理解しているのに、自分は何もしていない。悲しさと惨たらしい現実が私から力を奪い、鉛のようになった脚は微塵も動かず、惨劇から目を背ける。頭からの信号を体が拒んでいるかのように、文の体はちっとも動かなかった。
「や、やめて」
声が掠れて上手く出なかった。鴉天狗は未だに暴行を続けている。心音は涙を流し、か弱い声でごめんなさい、ごめんなさい、と訴えている。なぜ心音が謝っているのか、その理由が分からない。心音は被害者だと言うのに。もしかして、心から鴉天狗たちとも友達になりたい、そう思っているからだろうか。
「死ね!鬼の分際で!鬼のくせに!仲良くなろうとか理想抱いてるんじゃねえぞ!」
額からは血を流し、たくましい腕や足には青黒い痣が浮き出ている。恐らく先程蹴られたお腹も、酷くやられてるだろうと想像出来る。
「うっ……ぐっ……っ!」
遂にその怒りが一線を越えたのか、鴉天狗の力強い腕がするりと心音の首を捕らえると、そのまま呼吸器官に握力を加えた。心音の表情は、より苦悶の表情を映し出す。
「いいか、鬼。この際はっきり言ってやる。俺の家族は、てめぇら鬼に殺されたんだ!その復讐をしてやる!鬼が俺の両親の命を奪ったように、俺も、お前の命を奪ってやる!さあ死ね!死ぬがいい!!」
心音の首筋を掴む腕のさらに力が入る。この鴉天狗の親は鬼に殺された、その怒りと恨みが鴉天狗の理性を奪っていた。心音が鴉天狗の腕をつかむ力も、体の動きも弱まってきた。このままでは、本当に心音が死んでしまう。
親友を失いたくない、私が行かなかったら一生後悔する!そう自分に何度も言い聞かせ、動かない体に必死に鞭を入れる。震える脚で立ち上がり、心音に駆け寄ろうとした次の瞬間……
「くっ…うぐっ…うああああああアアアアアアアッ!!!」
あたり一帯に響く心音の断末魔に似た絶叫。耳をつんざくような悲鳴に、思わず両耳をふさぐ。次の瞬間、気づいたら文の体は宙を舞っていた。後方に吹き飛ばされ、受け身を取ることができず地面に体を叩きつける。痛む箇所をさすりながら開いた文の目に、衝撃的な光景が飛び込んできた。
「こ、これは!?」
心音がいた場所から、真っ赤に燃える火柱がごうごうという音を立てて立ち上っている。まるで太陽のような強烈な光と熱を放ち、猛獣が唸るような轟音を轟かせ、すべてを焼き尽くさんと燃え上がる一本の火柱。文の頭はパニックを引き起こし、呆然と見つめることしかできなかった。
しかし、茫然と火柱を見つめていると、脳裏に心音の声がよぎった。心音の持つ能力について話した時の会話が思い起こされる。
「あややんはいいよな、風を操ることができるなんて」
「そうでしょうそうでしょう!ふふん、この能力なら何でもできそうね!そう言うころろんは、どんな能力を持っているの?」
「うち?うちはまだ分からないんだ。パパが言うには、うちは炎を自在に操る能力を持っているらしいけど、まだ一回も火をおこせたことがないんよ」
「火?ということは火炎を操る程度の能力…ですか?」
「そう。パパともっと修行して、絶対にあややんよりも強くなって見せる!」
「あやややや、負けませんよ!」
まさか…。心音の能力が覚醒した。鴉天狗にいじめられ、死の淵に瀕した時、身を守ろうと能力が覚醒した。…いや、違う。能力が暴走しているんだ!心音自身は能力を制御できていない。このままでは、心音の命も危ない!
早く心音を助けたかったのだが、今の私ではどうすることもできない。風を起こして火を消そうとしても、逆に炎の勢いを助長し、勢いよく燃え上がらせてしまうだけだ。この時ほど、何でもできると思っていた自分の「風を操る程度の能力」を呪ったことはない。
「ころろん、ごめん…ごめんなさい…」
親友を助けることができなかった自分の無力さを恨み、頬を滝のように涙が流れ落ちた。
文の話に、周りの白狼天狗は思わず息をのむ。鴉天狗が仲間の白狼天狗数人とともに心音を集団で暴行し、それがきっかけとなって心音の能力の暴走を引き起こしてしまった。
「そして、その後どうなったのですか?」
「その後すぐに椛や河童のみんなが駆けつけてきて、火を消そうとしたの。でも、なぜかいくら水をかけても炎は弱まるどころか勢いを増すばかりで、どうすることもできなかった。しばらく水をかけ続けていたら、ようやく火は消えたの。そこには、気を失って倒れている心音と…」
そう言って文は途中で口籠ってしまった。しかし、話を聞いていた白狼天狗たちはその場の光景を容易に想像できた。燃え盛る業火の中にいれば、生きているものがどうなってしまうかくらい。
「そんなことがあったんですね…。その後、心音…いや、栗夢様は」
「気を失ったまま、一向に目を覚まさなかったのよ。その後私たちは天魔様の屋敷に召集され、一部始終を目撃していた私が、何が原因でこのような事態になったのかを報告した。もちろん、その場には父親である厳蔵教官もいたわ」
「なに!?心音にそんなことが…」
教官の顔は驚きと悲しみが混じったような、言葉で表すことができないような表情を浮かべていた。私はその顔を、見ることができなかった。親友である心音を助けることができなかったせいで、このような事態を引き起こしてしまった。全部私のせいだ。心がきゅっと苦しくて、張り裂けそうでたまらなかった。
「本当にっ…申し訳ありませんでしたっ!」
いてもたってもいられず、教官に向かって頭を下げた。頬を伝う涙は濁流となり床を濡らしていく。必死に涙をこらえようと努めてはいるが、一度堰が切れた涙はとどまることなく流れ落ちる。溢れ出してくる悲しみや後悔を抑えることができず、嗚咽の混じった声で何度もごめんなさいという言葉を発することしかできなかった。
「ほんと…うにっ、うっあっ…ごめん、なさい……ぐすっ…ごめんなさいっ」
両手に顔をうずめ、肩を震わせる。すると、ふと肩に温かくて力強いものがふれた。不思議なことに、体の震えがやわらぎ、落ち着きを取り戻すことができた。心の中のもやもやが晴れていくような感覚だ。顔を上げると、厳蔵教官が私の肩に手を乗せていた。その表情は、なぜか優しいものだった。
「いいんだ、文。お前は最後まで心音のことを心配して、助けようとしてくれたんだろ。その気持ちがあれば十分、ありがとうな」
「えっ…で、でも……」
「お前は心音のことを常に思いやってくれたんだろ。心音はな、文のことを一番の親友だと言ってたぜ。だから文のことを許さないわけない。ほら、もう泣くな」
そう言って私の頭をごしごしと撫でてくれた。その優しさが嬉しくて、有難くて、申し訳なかった。何もできなかった私を、厳蔵教官は許してくれた。その優しさに触れ、涙が次から次へとあふれ出す。床に崩れ落ち、私はわんわんと泣いた。自分の中にある後悔や謝罪、感謝の気持ちを吐き出すように泣き続けた。その間も、厳蔵教官は何も言わず、優しく背中を撫でてくれた。
ひとしきり泣いた後、私は何とか落ち着きを取り戻した。
「さて
そう言って厳蔵教官は天魔様の名前を呼んだ。
「ああ」
「俺は、教官の職を降りる。天狗たちの命を奪っておいて続けるわけにはいかないからな。今回の事件は俺が心音のことを守れなかった責任がある」
厳蔵教官が職を降りる。信じられない言葉を耳にして、私は教官の顔を見上げた。その表情には悲しみや決意の色がうかがえる。何を言っても彼の気持ちを変えることはできない。それを悟ったのか、天魔様も小さくため息をついた。
「はぁ、そうか。わかった。亡くなった鴉天狗たちの家族には俺から言っておく」
「すまないな。今日は心音が目を覚ますまで一緒にいていたい。明日、心音を連れて謝罪に行くよ。それじゃあな」
教官はそう言うと踵を返し、部屋の出口へと歩いて行った。その教官の背中は、いつもより小さく、悲しみに覆われていた。私はそれを忘れることができなかった。
「今でも、あの教官の背中は強く印象に残っているの。あんな背中は今まで見たことがなかった」
「やっぱ俺、同じ天狗なのに、いじめていたやつらのことは許せないです」
「鬼でも天狗でも、友達になれるならなりたいわ」
話を聞いていた白狼天狗たちはそれぞれの考え、気持ちを口に出す。心音のことがかわいそうだという意見もあれば、仲間の命を奪った行為はやっぱり許せないという意見もあった。
文はその意見を頷きながら聞いていた。体の震えは少しおさまったようで、涙ももう流してはいなかった。
「心音が姿を消したのは、その日の夜だったわ。その時私は自分の家にいたから詳しくは分からないけど、栗夢様たちが住んでいる麓の一角から灼熱の炎が燃え上がったそうよ。まるで夜が昼に変わったような、まばゆい光と灼熱の炎、そして強烈な熱風が辺りに広がった」
「それって、もしかして…」
「原因はわからない。一部の間では、また栗夢様の能力が暴走を起こしたのではないかって言う噂もあるの。私も日が明けてからその現場に向かったけど、そこに広がるのは一面の焼野原、焼けて炭になった家屋、破壊された生活…。でも、厳蔵教官をはじめ、住んでいたはずの鬼の姿はどこにもいなかった。もちろん、ころろんの姿も…」
文は目に溜まった涙を指で拭い、じっと足元を見つめていた。文の心の中には、親友との永遠の別れの寂しさや、自分が何もできなかった後悔が渦巻いているのだろう。それらを吐き出すかのように、大きなため息をついた。
「あれから300年以上たって、栗夢様たちは死んだことになっていたの。でもね、今日、私の目の前に現れた。見たでしょ、ころろんの元気な姿。見た目はすごく変わっていたけど、あの元気と笑顔は昔とちっとも変らなかった。あの笑顔を見ることができて、心の中で引っかかっていた杭が外れたような気がするわ。こんなに親友を不安にさせておいて、いったい今までどこに行っていたのかしらね……」
空を見上げ、ふふっと笑顔を浮かべた。先ほどの心音の笑顔を思い出し、昔の心音と重ねている。昔とちっとも変らない笑顔を見て心のもやもやが晴れたようだ。
「さて、私はこのことを天魔様に報告しないと。それと、ご隠居様にもね。あなたたちは、今やるべきことをやりなさい。それじゃあね!」
そう言い残し、文の姿は真っ青な空に消えていった。