空と海の青は目眩がする。空の青は突き抜けるような色で、海の青は深く全てを包容してしまう。仕事柄、電は毎日のように二つの青色に囲まれているが、見飽きることはないだろう。
電は軍人だった。否、その表現は相応しくない。外見は小学校高学年から中学一年生くらいの少女であるが、人間ではないのである。制度上は軍属として、正規の軍人ではないものの、かといって兵器や物資ではないものとして扱われている。
艦娘。人類の危機に際して、日本が生み出した、かつて大海原を舞台に戦い、多くは沈んだ軍艦の魂の擬人化である。その全てが新制の日本海軍に所属し、主に日本近海において活動している。
「今回の遠征も何もなさそうで良かったのです…」
電たちが軍艦として活躍していた時代も、新たに生を享けた今の時代も、日本は資源が少ないことに変わりはない。先の大戦の反省を生かし、電たちは頻繁に遠征――資源輸送や資源輸送船の護衛――に駆り出される。
今彼女たちがやっているのは石油タンカーの護衛だった。南方や西方から日本に運ばれてくる石油タンカーは日本の継戦の生命線である。しかし、非武装のタンカーは敵にとっては恰好の獲物であり、護衛しなければ日本に届く石油の量は激減するであろう。護衛しているという事実だけでたいてい襲撃されずに済むのである。
時には、主に敵潜水艦と戦闘になったりするものの。
「あと一時間もすれば日本の領海に入るみたいだね」
電と並んで進んでいる響の言葉だった。
艦娘は艤装をつけている間、海の上を進むことができるのである。軍艦の生まれ変わりであるから、当然のことなのかもしれないが。
響は電の姉である。正確に言えば、かつて、電より先に起工した同型艦である。
特型Ⅲ型駆逐艦。姉の方から暁、響、雷、電。彼女たちはかつての戦争が始まったときに四隻で一つの駆逐隊――第六駆逐隊を編成していた。戦争が進むにつれ、撃沈される艦も出てきたため、編成そのものは変わっていったが、同型艦という事実は彼女たちに深い紐帯を与えた。
「レディな暁に恐れをなしたのね!今回も敵の襲撃はなかったもの!」
長女の暁は黒く長い髪を風になびかせながら胸を張った。
「慢心は禁物よ、暁姉。遠征は鎮守府にたどり着くまでが遠征よ。味方が制海権を取っている海域だからって、特に潜水艦が湧かないとは限らないのだから」
三女の雷は潜水艦、と口にしたときわずかばかり顔をしかめた。かつて、軍艦だったころ、彼女は潜水艦に沈められたのである。
「失礼しちゃうわね。今もソナーで水面下の動きをきちんと探っているわ」
暁は不服そうに口を尖らせていた。長女を自負する彼女はそれだけ気位も高い。もっとも自らレディを自称するだけの、背伸びした気位であることには違いなかった。
「…いつのまにか並んでいるけど、二人はタンカー集団の後方の護衛を担当するんじゃないのかい?」
響は暁と雷を睨んだ。睨まれた二人は顔をそむける。
「やれやれ、困った姉妹だ…。二人は早く持ち場に戻るんだ」
「はーい」
暁と雷は気の抜けた返事をしながらスピードを落とした。みるみる内に距離が離れていく。
「まったく、あの二人は可愛いんだけど、どうも肝心なところを忘れるみたいだね」
「きっと、二人とももうすぐ帰れるから気が急いちゃっているのです」
響がやれやれ、と首を振るのに対し、電は姉二人の弁護をしたい気分になっていた。
「何かの古典にもあるじゃないか。終わりこそが肝要だってね」
「徒然草なのです。確かに終わりは大切ですが、普段から艦娘のみなさんや他のみなさんがしょっちゅう哨戒しているこの海域で、滅多なことはないのです」
「まぁ、確かにあったら困るな…」
私のソナーや電探にも何の反応もないし、と呟きながら響は電の方に近寄る。
名前の通り、響は音に敏感だ。もしかしたら、自衛隊時代に就役していた同名の音響測定艦の影響かもしれないし、姉妹の中で響のみ先の大戦を生き残ってその後の世界を生きたからかもしれない。理由はともあれ、音に敏感だということは、偵察機を持たないわりに索敵が得意ということである。
電たち第六駆逐隊――便宜上の呼称でしかないが――がしょっちゅう遠征に駆り出される理由の一つは響の特殊技能にあった。
「おーい嬢ちゃんたち」
電と響の上から声が降ってきた。見上げてみると、二十代半ばかと思われる若い水夫が甲板から顔を出していた。
「艦長からの差し入れだ」
ぽーん、と彼が投げたのは二つの林檎だった。電も響も危なげなくそれをキャッチする。
「ありがとうなのです」
「コントロールいいね、君。何かやっていたのかい?」
「高校まで野球をな。こう見えても投球には自信があるんだ」
彼はにかっと笑うと、「それじゃ」と右手をあげて二人の視界から姿を消した。
電は林檎を少し撫でた後、そのままかぶりついた。しゃりっとした歯ごたえの後にみずみずしい甘みが口の中に広がった。
「おいしいのです。ほっぺが落ちちゃいそうなのです」
電は思わず左手で頬を撫でていた。虫歯じゃなくて良かった、と心から思った。
電がふと横を見ると、響は何やらじぃっと林檎を眺めている。
「食べないのですか?」
「いや、姉さんにあげたら喜ぶかなって…」
電の頬は自然と緩んだ。この次姉は長姉のことが大好きなのだ。本人の前ではおくびも出さないようにしているが。
「暁ちゃん、確か虫歯あるのです…」
「…鎮守府に帰ったら休暇をもらって姉さんを歯医者に連れて行かなくちゃいけないね」
一人じゃ痛くなるまで絶対行かないだろうし、と響は深くため息をついた。
これじゃあどっちがお姉ちゃんか分からないのです、と思いながら電はもう一度林檎にかぶりついた。
無事にタンカーを目的地のコンビナートまで護衛した後、四人は職場兼住居の鎮守府まで急行した。早く帰りたい、というのがその本音だった。
電は洋上勤務は嫌いではない。むしろ、好きなのかもしれなかった。だが、交代で仮眠をとれるとはいえ、肉体的・精神的な疲労は馬鹿にならないし、何より鎮守府の雰囲気が好きだから、早く帰りたいと思うのも不思議ではなかった。
途中途中で漁船とすれ違う。向こうがこちらに気づくとたいてい挨拶をしてくれる。それに対してたいてい暁と雷は手を振り、響は静かに手をこめかみに当てて敬礼する。電は軽く会釈をするのがいつもの流れだった。
渦潮に気をつけながら内海を抜け、鎮守府にたどり着いた。艦娘しか使わないため、小さなその港に、人影があった。
「吹雪じゃない。どうしたの?」
陸にあがりながら、暁は尋ねる。
「暁ちゃんたちが帰ってくるから出迎えに行って来いって、司令官が言ったの」
吹雪は少しだけ微笑んだ。
「おかえりなさい、四人とも。お疲れ様です」
特型Ⅰ型駆逐艦一番艦、吹雪。この鎮守府の司令長官の現在の秘書艦である。秘書艦というのは、立場的に副官と参謀長を適度に兼ね合わせたようなものだ。司令長官の許可を得て、ある程度まで鎮守府に所属するその他の艦娘を指揮することもできる。
戦艦や空母など、比較的数が少なく戦力として大きく期待されている艦種の艦娘は常に実戦部隊に編入されているので、秘書艦に任命されることはない。比較的数が多い駆逐艦にその役目が回ってくるのが普通であった。
「艤装を片づけしだい、司令室に向かってください。司令官がお待ちです」
「了解したわ。ありがと」
「それでは、私は先に戻ってるね」
吹雪は軽く手を挙げると、くるりと背を向けて小走りに鎮守府第一棟に向かった。
秘書艦は激務だ。事実上の事務仕事の責任者である。鎮守府には実戦部隊や戦闘に直接かかわる部署のほかに、つまり後方勤務の部署として、事務部・広報部・技術部・兵站部があり、それぞれに部長や部員の艦娘がいたり、仕事を手伝う妖精と呼ばれる存在があったりする。秘書艦はこの四つの部を統括する立場でもある。艦娘もそう数が多いわけではないので、各部に所属する艦娘も基本的に実戦に投入される。給糧艦や工作艦など、特殊な艦種の艦娘のみ常時後方勤務である。だが、彼女たちも時には出張し、鎮守府を留守にすることがある以上、実戦を免除される秘書艦の負担の大きさが分かるというものだ。
あまりの負担の重さのために、秘書艦は不定期に交代される。交代されるタイミングは鎮守府司令長官の気分であったり、もしくは秘書艦の体に不調が現れたり、さまざまである。だが、一貫して言えることは、司令長官には秘書艦を使いつぶすつもりが毛頭もないということだ。
電は最初期に秘書艦を務めたことがあるので、その負担の大きさが身にしみて分かっていた。特に彼女の時代は鎮守府の組織作りからしなければならなかったため、現在の秘書艦の時よりも仕事量が多かった。司令長官と二人で徹夜をすることもよくあった。その結果生まれたのが現在のシステムである。後方勤務を四つの部に分担させるのは彼女のアイディアだった。
吹雪ちゃんに出迎えに行かせたのは、せめて息抜きくらいさせようという司令官さんの心遣いなのだと思うのです、と電は思いながら、吹雪の背中を見つめていた。
「第六駆逐隊旗艦暁以下四名、ただいま帰投しました」
暁は珍しく背筋を伸ばしていた。あまり態度について文句を言うような鎮守府ではないが、命令受領の時と任務終了の報告の時は礼儀を尽くすことが不文律となっていた。
暁の後ろに並んで立っている妹たちも同様にしかつめらしい表情をして直立している。
「うむ」
鎮守府司令長官――井上中将は軽くうなずいた。
井上中将は五十代半ばの海軍軍人である。大佐時代には海軍省の課長を務めたが、政争に巻き込まれ中央を追われた人物だ。しかし、当時の軍令部総長――現在は軍事参議官に退いている――に気に入られたため、むしろイージス艦艦長という文句のない役職を与えられた人物である。
その後、結局少将昇進とともに海軍省軍務局長として海軍中枢に舞い戻り、その後航空戦隊司令官を務めた後、艦娘の実戦投入と共に創設されたこの鎮守府の司令長官となり、同時に中将に昇進した経歴を持つ。
次に海軍から元帥を出す時は彼なのではないか――そう囁く声も少なくなかった。
「損害はないか?」
井上は手を組んで、肘を執務机に立てていた。ちょうど、彼の手が整った口髭を隠す恰好になっている。
「損害は特にありません。一度も接敵しませんでした」
「よろしい。ご苦労だったな。後ほど報告書を提出するように。それでは下がっていいぞ」
井上は軽くうなずいて退出を促した。暁たちは敬礼して、くるりと彼に背を向けて、部屋から出て行った。
「あー、緊張したわ」
廊下に出るなり、暁は伸びをした。本人の自己評価に反してお転婆と称されることも多い暁にとって、肩肘張ったことは敬遠したいものの一つであった。
「さて、とりあえずいったん部屋に戻るとして、そのあとどうする?」
暁は振り返って、後ろ向きに歩きながら妹三人に尋ねた。
「ちょっと休憩した後筋トレはどうだい?」
「えー、遠征から帰ってきたばかりなのに?」
「たゆまぬ努力が戦場での生存確率を上げるんだよ、姉さん」
月月火水木金金さ――響は澄ました顔でつぶやいた。
正論であることは間違いなかったので、暁は不服そうな表情を浮かべたが、特に何かを言うことはなかった。
「響姉は訓練馬鹿なんだから…」
雷はともすれば呆れ顔であった。たいてい、この四人が自主訓練をするとしたら、それは二女の提案である。
「馬鹿とはなんだい馬鹿とは。偉大なる東郷元帥のころから日本海軍は訓練を重視するんだよ。雷は東郷元帥に逆らうのかい?」
「いや、そこで東郷元帥を持ち出さなくても…。それに、その話は旧軍のものだし」
精神論の時代は過ぎ去ったのよ、と雷は付け足した。
「大体、私たちの時代じゃもう東郷元帥なんて老害だったじゃない」
「雷、海軍において神様を誹謗することは許されないよ」
「そんなんじゃ駄目よ。時代に合わせて的確に評価しないと」
「どんな時代でも不変の価値を持つものもあるさ」
響と雷の言い合いを見ながら、電は苦笑いを浮かべていた。どうして、この後の簡単な予定を決めるだけなのに東郷平八郎だの精神論だのという言葉が飛び交わっているのだろう。
電は視線を長姉に向けた。目を細めて、苦笑いしながら、彼女は2人の妹の言い合いを見ている。その表情は困った妹を見る姉の顔で、電は思わず感心してしまった。子供っぽいところがあっても、暁はまぎれもなくこの四姉妹の長女である。
暁が四姉妹の司令塔だとすると響は参謀である。雷はこまごまとした仕事やスケジュールなどの管理が得意だし、必要があればうれしそうにくるくる働いている。それでは、電はなんなのだろう、と四女は自問自答した。マスコット?
「電はどうしたいの?」
唐突に、雷が尋ねた。
「響姉が筋トレ推しで、私がおやつ推しなのだけど」
「電は、そうですね、甘いものが食べたいのです」
「それじゃあ決まりね」
雷は勝ち誇り、対して響は不満げな表情を浮かべていた。
「……まぁ、電がそう言うなら仕方ない」
どうやら、電はどうでもいい判断を投げられる担当であるようだった。
歩きながら、電はこうやって姉妹でただひたすらのんきにのんびりと暮していければ良いのです、と思った。もっとも、それは戦時中の軍組織に所属する者として、手に入れられるものではないけれども。
「電、何ぼやっとしてるの」
暁が電の顔を覗き込む。心配しているようにも、少し非難するようにも見えた。
「なんでもないのです」
電はあわてて首と両手をふるふる振った。
電たちの日常はいつもこのようなものであった。