陽炎と不知火の宿は、少なくとも外面は純和風建築と言っても良い建物だった。垣根で囲われている敷地の入り口から建物の玄関までは石畳が敷いてあり、その両脇は竹林が植わっている。無粋なのは目立たないようにしてあるとはいえ、歩哨の詰所があることである。
どうやら、詰所が無人のようだ。要人が宿泊する時のみ警護の者がつくのだろう。
「…しっかし、わりとお金のかかりそうな宿よね」
「海軍軍人専用にするのはもったいないくらいです。税金の無駄遣いもいいところです」
もっとも、私たちは税金を払っていませんが、と不知火は付け足した。
「…あれ?税金って源泉徴収されるんじゃないの?所得税とか」
「艦娘は所得税に関しては免税されています。社会保障費は源泉徴収されていますが」
その差の基準はどこから来るのだろう、と陽炎は思った。所得税と社会保障費―年金とかであろうが、彼女から見たらどちらも同じようなものであった。
「まぁいいわ。とりあえず早く荷物を置きましょ」
宿の玄関をくぐると、受付があり、仲居の人が「いらっしゃいませ」とにこやかに迎えた。
「本日ここを予約している陽炎と不知火です」
陽炎の言葉に仲居はにこやかに応えた。
「鎮守府所属の陽炎様と不知火様ですね。お手数ですがお二人の身分証明書をお見せください」
陽炎と不知火は軍人手帳を見せた。艦娘に限らず陸海軍軍人が肌身離さず持っているもので、身分証明の機能のほかに、軍人としての心得や軍人勅諭が書かれている。
もっとも、艦娘は制度上、厳密には軍属であり、正規の軍人としては扱われていない。これは艦娘が正規の指揮系統に入るのを嫌った軍人がいたためとも言われる。
「ご提示ありがとうございます。お部屋はこの廊下の突き当り右に行っていただくとございます、峯風の間でございます」
仲居の人は鍵を渡しながら言う。
「ありがとうございます」
鍵を受け取ったのは不知火だった。
宿泊の部屋は畳十畳ほどの部屋で、二人で泊まるには広い部屋だった。さらに、円形のガラス窓の向こうには日本庭園が広がっている。
「さて、温泉に浸かりましょう」
荷物を置くなり、不知火は言った。
「え?まだ昼だけど?」
陽炎は首をかしげた。普通、風呂は夜入るものだという認識が彼女にあった。シャワーを浴びて汗を流すだけならともかく、温泉に浸かる時間帯ではない。
「私たちは保養に来たのです。もちろん、緑豊かなこの地を散策するのも良いですが、まずは何もしないことをしてみるべきではないでしょうか」
「まぁ確かに。休暇に来てまであくせくすることもないわね」
「そうです。別に陽炎と一緒にお風呂に入れるとかそんなこと考えてないです」
「…ん?」
「浴衣はそこにありますね…紺色で可愛くないですが、まぁ良しとしましょう」
「ちょっと不知火さん…?」
「さ、早くいきますよ陽炎」
楽しそうな妹を見て、ま、いっか、と陽炎は思った。
保養所の大浴場はかなり広かった。石造りの風呂桶に熱いお湯が張られている。お湯を吐き出す部分には龍がかたどられていた。
「癒されるわね」
軽く体を洗って汗を流した陽炎は、橙色の髪の毛をタオルでまとめてお湯に浸かっていた。
「広いお風呂に二人きりで入れるのはなかなか幸せですね」
「泳ぐんじゃないわよ」
「舞風ならともかく、私はしません」
「あら、ほんとかしら」
陽炎はいたずらっぽく笑う。不知火はそれを無視した。
「しかし、日ごろの疲れが流れて出ていくようです」
んー、と不知火は体を伸ばした。
「出撃や訓練に加え、デスクワークも多いですから、肩がこるんですよね」
「…花の乙女の言うことじゃないわ」
「乙女なのは見た目だけです。私の誕生日は1938年6月28日です」
「…それは軍艦だったころの進水日でしょ」
それじゃああなたの享年は1944年10月27日になっちゃう、と陽炎は苦笑した。
陽炎は妹たちのかつての進水日と戦没の日にちを覚えていた―異国の地で命を落とした雪風を除いて。
「…まさかあの頃はこうして陽炎と温泉に浸かるなんて思っていませんでしたでしょうね」
陽炎も不知火も、自分たちはかつて太平洋で戦い、そして散っていった軍艦の、いわば生まれ変わりだと了解していた。はっきりとした記憶はないものの、ときどきかつての思い出をまどろみの中に見る気がしていた。
「そもそも温泉なんて概念がなかったんじゃないかしら」
「そうですね。海しか知りませんでしたからね」
軍艦は海しか見ることはないが、艦娘は海も陸も見ることができる。それが良いことか否かは別として。
「そういえば、陽炎、人間は大雑把に海派と山派にわけられるそうです」
「へぇ。まぁ確かに好みの分かれそうなところね」
「陽炎はどちらですか?」
「んー…海かなぁ」
この休暇のように、たまに山に来るのは良いのだが、どうしても自分のいるべき場所は海だという気がしてくる。
「見飽きてないんですか?」
「見飽きてないというか、洋上で朝を迎えたり、夜間航行で空に満天の星を見たり、イルカの群れと一緒にお散歩したり、見飽きることがないというか」
「へぇ」
「そりゃ、戦場は嫌よ?けど、夜戦を終えた後東の空が白んでくるのを見るのはとても好き」
そうなんですか、と不知火は考え込むように押し黙った。どうやら、この妹は違う見解を持っているらしい。
「不知火はどうなの?」
「私は…私は海は好きではありません。かつて、陽炎を初め姉妹を飲みこんだ海です」
ああ、と陽炎は嘆息した。そういえば、彼女はかつて沈んだ自分の代わりにネームシップの栄光を担ったのだ。
「今でも万一のことを考えると…やはり好きにはなれません」
陽炎は妹の肩を抱き寄せた。
「大丈夫よ。私たち姉妹は強いもの」
「強くても沈む時は沈みます」
「それでも大丈夫。私の誇りが沈むわけないわ」
もし沈むとしたら敵の一個艦隊でも道連れにするでしょう、と陽炎は微笑む。
不知火は小さく頷いた。
「…事務部はいつも最悪を考えます。そして、実際の最悪はその斜め上にあると考えます。不知火の考え方も…」
「そうね。私にはそんなことはできないわ。私には必要ないもの」
ですよね、と不知火は自嘲げに口をゆがめた。おおかた、不必要にくよくよ考える自分を嘲笑っているのだろう。
「なんで必要ないか分かる?」
「…?」
不知火は首をかしげた。
「一隻の駆逐艦としては司令や事務部がそういったことを考えてくれるから。陽炎型の一番艦としては二番艦のあなたがそういうことを考えてくれるからよ。あなたは私の可愛い妹であると同時に頼れる相棒なのだから」
「…少し気が楽になりました」
「そう?それは良かった」
現在艦娘として実戦に投入されている陽炎型を一つの軍組織と見れば、陽炎は司令塔であり、不知火は参謀である。
血は水より濃いという。同型艦の紐帯は艦娘たち、特に姉妹の数が多い駆逐艦娘たちにとって何よりも強い。特に大規模な作戦において、駆逐艦を集中的に運用する時は同型艦どうしで連携させることも多い。
もちろん、それ以外にもかつて軍艦だった時の駆逐隊を参考に編成を組んだりもして、それはそれでうまくいく。
「…やはり、陽炎は姉なのですね」
「?そりゃそうでしょ。私はあなたのたったひとりのお姉さんよ」
陽炎は誇らしげだった。
「優秀で誇り高くて武勲赫々たる不知火の姉であることは私の誇りよ」
不知火は初期に実戦投入された艦娘の一人である。鎮守府において最も厳しい時期を戦い抜いた艦娘の一人だ。
「不知火も…陽炎のすぐ下の妹であることは誇りです」
不知火は陽炎の肩に頭を預けると、目を閉じて姉とお湯の心地よいぬくもりに身を預けた。
「ぷはー。この一杯のために生きているわね」
陽炎は腰に左手を添えて、珈琲牛乳を一気飲みしていた。本当はビールを飲みたいところであるが、未だに日が出ている時間にお酒を飲むことを不知火が許さなかったのである。
「ま、温泉は逃げないしビールも逃げないか…」
不知火に諭されたときに陽炎はそう言ったものである。
「言っていることがもはや親父です。乙女も何もないです」
「あんたの意見を借りれば私たちはもうおばあちゃんよ、乙女じゃないわ」
「乙女でもおばあちゃんでもどちらにせよ、おばあちゃんのセリフでもないですね」
「とりあえずマッサージチェアで幸せそうな顔をしている奴には言われたくないわね…」
二人がいるのは共用スペースで、珈琲牛乳はミックスフルーツなどを売っている売店がある。大浴場を上がってすぐのところにあり、備え付けのマッサージチェアがあったり、主要な雑誌や新聞、あるいは海軍省軍事普及部、通称海軍省新聞班が発行している海軍週報も置いてある。
ちなみに、本来は部であるのに通称が班である理由は陸軍省新聞班の存在にある。
「陽炎もマッサージチェアにマッサージしてもらえばいいのです」
「私はそんなにこってないわよ」
不知火と違って肩のこるような作業もしていなければ生き方もしていない。
「油断していると老いは一気にきます」
「私たちは軍艦よ。老朽化しても老いはしない」
「さてどうでしょう」
二人の軽いやり取りは、しかし意識的に近づいてくる人影によって遮られた。
不知火はその人物を見ると文字通りマッサージチェアから飛び上がり、敬礼をした。
「?」
陽炎は事態を飲みこめていないが、とりあえず妹にならう。
「久しぶりだな…不知火」
「高田大佐どのもお元気そうでなによりです」
「紹介いたしますと、こちらは姉の陽炎型一番艦、陽炎です。陽炎、この方は海軍省調査課長、高田惣一大佐」
海軍省の課長といえば、陽炎たちからすれば雲の上の存在である。もっとも、彼女たちの直属の上司である井上中将は大佐時代に海軍省軍務局第一課長という海軍省の課長クラスではトップの地位についていたが、そのことについては艦娘たちは歯牙にもかけていない。
「二人ともここでは気を楽にしてもらっていて構わない。休暇中だろう?」
「はい、大佐殿」
高田の言葉に促されて陽炎と不知火は手を下す。
「大佐殿は休暇中ですか?」
「休暇中でなければこんな時間からこんな恰好はしないだろうな」
不知火の問いに、高田はぶっきらぼうに答えた。彼は陽炎や不知火と同じ、この施設に備え付けられている紺色の浴衣を着ていた。
「私の休暇にたまたま大佐殿の休暇が重なり、さらにたまたま同じ保養所を選んだ、ということですか」
「さもありなん」
「偶然って面白いですね」
陽炎は一向に二人の話についていけなかった。何故不知火がこの調査課長と面識があるのかもわからないし、それなりに縁があるような口ぶりだが、どのような縁があるのかもわからない。
「場を変えて久闊を叙しましょうか?」
「ふん。四十半ばの中年男の部屋に外見が十代半ばの少女が二人行ったらそれこそ問題だ」
「それは確かに」
「それに、よもやこんな場所で重要な話をするとはだれも思わなんだ」
そのことについては俺がよく知っている、と高田は笑った。
「まぁ、世間話をしようではないか。まずは不知火君の姉君に挨拶をしないとな」
高田はそう言うと、初めて陽炎の方を向いた。
「高田惣一大佐だ。役職は海軍省調査課長。不知火君は君たちの鎮守府の窓口として、私の仕事に協力してもらっている」
海軍省調査課は海軍が必要とする情報を収集し分析する部署である。もちろん、調査課の人員だけで全ての情報を収集できるわけがないので、海軍のその他の部局や在外大使館の駐在武官、コンタクトのある民間企業や民間人などからも情報を収集している。
「陽炎型一番艦、陽炎です」
陽炎は他に紹介するものを知らなかった。役職といえるものは持ち合わせていないし、階級も正式には軍属だから曖昧である。
「陽炎型のネームシップか。陽炎型は駆逐艦の中でも特異な集団だからな、案外普通で驚いている」
「特異…?」
陽炎型駆逐艦は帝国海軍の艦隊型駆逐艦の集大成とも言われる。そのような意味で特異であるのかもしれないが、どうも彼が指しているのはそこではないのかもしれない。
「もちろん全部が全部特異だというわけではない。だが、ツチノコの七番艦、死神の八番艦、最速の駆逐艦のプロトタイプの九番艦、奇妙な幸運を持つ十番艦、駆逐艦最強の武闘派の十二番艦、二艦一対と称される十五番艦と十八番艦、WEB漫画家の十九番艦といった艦がいることは事実だ」
あれ?最後変なの混ざってなかった?と陽炎は思ったが、口に出すのは控えた。
「陽炎型駆逐艦は海軍省でもそれなりに有名だ。艦娘としての特異性でいえば、そうだな、特Ⅲ型に次ぐ」
特型Ⅲ型、通称暁型駆逐艦は艦娘として最も最初に作られた姉妹たちである。その意味で最も特異であろうと不思議にはならなかった。
「さて、世間話と言っても俺は無粋なものでな…海軍のことしかわからん」
「それでは昨今の我が鎮守府の戦果についてお話しましょうか?」
不知火は鎮守府の中枢である事務部で仕事をしているのである。たいていのことは彼女に聞けば答えが返ってくる。
「いや、俺は軍務局の人間ではないし軍令部の人間でもない。そのようなことにはとんと興味が湧かないなァ」
とぼけたような物言いのあとに、高田はニヤリとかすかに笑った。
「そう言えば君たちは知っているか。軍令部は南方での大規模作戦を予定しているらしい。既に作戦の骨子の策定が終わったそうだ」
「…知りませんね」
もちろん、陽炎も聞いたことがなかった。本来、鎮守府はその特殊な編成と地位を鑑みて高レベルな裁量を許されている。大規模作戦の司令のみであれば例はあるが、作戦の策定は全て鎮守府に任されていた。
「なんでも、今回の作戦は第一艦隊の一部艦艇も参加するそうだ」
「通常戦力の参加ですか!?無謀です!」
通常戦力では深海棲艦に太刀打ちすることはできないのは、艦娘の実戦投入前の絶望的な撤退戦で嫌と言うほど海軍は分かっているはずだった。
「無理無茶無謀。そんなことは軍令部の連中だって分かっている。だが、もう古川のおやっさんも永井のじいさんも、あるいは宮様ももう現場の不満を抑えきれねえんだな」
古川峯夫連合艦隊司令長官、永井修軍令部総長、そして海軍の宮様として絶大な発言力を持つ華頂宮博康王。高田が口にしたのは海軍の中枢を担うべき人物であった。
「現場の不満、ですか」
「各艦隊司令部や戦闘艦艇勤務の将校、軍令部や海軍省の中堅や若手、そういったところに不満がたまっているのはわかるだろ?ん?」
「それは知っています」
「最近になって、その不満をすくいあげまとめる人物が海軍省軍務局長に就任したんだな。前任はかわいそうに、下からの突き上げと上からの抑え込みに挟まれて過労で倒れてしまったからな」
海軍省軍務局長は海軍の軍政の要といえる要職で、その発言権は、もちろん局長やその上級者のパーソナリティによるが、かなり大きい。
「陸軍と比べ派閥意識が低かった海軍だがな、ここにきて将官を中心とする派閥と佐官を中心とする派閥に分裂しそうだ」
高田の言葉は陽炎にも重く響いた。