高田大佐との『世間話』が終わった後、陽炎と不知火は居室に戻った。そのころには夕食の時間で、ほどなくして夕食が部屋まで運ばれてきた。
メインはぼたん鍋で、さらに刺身の船盛りなどもついた、なんとも贅を尽くした料理であった。
そして、当然のことのように飲み物として運ばれてきたのは瓶ビールだった。
「陽炎、注ぎます」
一本目の瓶ビールを開けながら、不知火は言う。
「ありがと」
陽炎がコップを差し出すと、不知火はとくとくと静かにビールを注ぐ。
「きれいな泡ね」
陽炎はコップを置くと、不知火の持っていたビール瓶を受け取った。
「ありがとうございます…あまりきれいな泡にはなりませんね」
「知ってるでしょ、もう」
陽炎は瓶を置くと、自分のコップを手に取った。
「それじゃあ、乾杯」
二つのコップはチン、と澄んだ音をたてた。
艦娘の飲酒は、たとえそれが小学生か中学生にしか見えない駆逐艦娘でも、認められている。というのも、そもそも年齢の概念があてはまらない彼女たちであるし、さらに戦時立法として軍務に従属する未成年者を成人に擬制する法律が成立しているのである。おおよそ参政権を除いたほぼすべての成人の諸権利を下士官兵として戦地に赴いたり、軍属として軍組織に加わっている未成年は手に入れている。
「しかし、戦時下とは思えない贅沢な食事ですね…二年前では考えられないものです」
「人間同士の戦争と違って、そんなに資源を浪費しないし、通商もかなり回復しているもの」
「そうですね。むしろここ一年間は戦時体制の様相を解きつつあります」
戦時下の国家が悩むことの一つは銃後の国民への資源配分である。戦争は金食い虫だ。ただでさえ破壊による資源の産出能力の低下に加えて、戦地への物資輸送のコストやそこでの物資の消費は馬鹿にならない。そのような供給不足、需要過多の状況の中で国民に不満が出ないよう食糧を含めた資源を配分するのは並大抵のことではない。
その解決方法は、基本的に国家資本への経済力の集中という形で表れる。それは食糧の配給制もそうであるし、あるいは民間資本の接収や国家主導による小規模資本の合同というのもそれである。
国家資本主義とも呼称されるそれは、先の大戦の交戦国でもみられた。ドイツの国家社会主義は有名であるし、ソ連の共産主義もドイツとの開戦によって急速に戦時体制を整えていく。アメリカでさえも時に戦時資本主義と呼ばれるような非常時の経済体制を整えた。
深海棲艦との戦争も、各国、特に島国は同様の対応を迫られた。特に陽炎たちの国は深刻であり、急速に戦時体制が整えられたものである。しかし、艦娘の登場と反攻作戦の開始により、徐々に国家と国民はゆとりと豊かさを取り戻しつつあった。それは、特に、半年前の食糧配給制の廃止に象徴される。
食料への不満、飢餓への恐怖は容易に体制を破壊する土台となる。そうでなくても国民に餓死されては継戦は不可能だ。それを防ぐのが国家による食糧配給制度であり、それの廃止は国内の戦時経済体制の解体とほぼ同義と言っても過言ではない。
もっとも、今回の戦時経済は今までのそれと大きく違う点がある。それは海軍のみの戦争だということである。海軍は陸軍と比べて兵士の数が少ない。従って、従来の戦争であれば徴兵されていた男手が、比較的銃後に残っているため、生産性の低下は限定的で済んだのである。だから、戦況が好転すれば容易に戦時の窮屈な経済体制を解くことができたのである。
「…ずっと鎮守府にいると分からないけど、街とかに行くと、確かに一年前より明らかに良くなってるもんね」
陽炎はぽつりとつぶやく。陽炎は戦時下の経済しか知らないが、聞くところによると、現在の国内経済の水準は深海棲艦が現れる前とほぼ同じらしい。つまり、ほとんどの国民にとって、生活は戦争前と同程度の水準にまで回復しているのだ。
「喜ばしいことです。こうして不知火たちもおいしいものを平然と食べられるわけですし」
不知火は刺身に箸をのばした。
「鍋はそろそろ大丈夫かしら」
「もう少し待ちましょう」
ぐつぐつと鍋が煮える音が部屋の中に充満した。
「…ねえ不知火、高田大佐のあの情報、司令に教えなくていいの?」
「今は休暇中です」
不知火は澄ました顔で答えた。
「作戦の骨子が決まったとはいえ、今日明日で発令されるものでもありません。おおやけに発令されるとしたらあと二ヶ月後、内々の伝達は一ヶ月後くらいでしょうか」
「どうして?」
「総選挙があります。通常戦力も用いた大規模な作戦には内閣の承認を必要とします。現在の内閣は、挙国一致内閣とはいえ、もっとも政権に近い政党は少数派ですから、次の選挙で一気に多数の議席を取りたいでしょう」
それには大勝のニュースが手っ取り早いのです、と不知火は言う。
「今発令しても、選挙の頃にはそのニュースは色あせてしまいます。従って、時間をおくだろう、というのが不知火の見解です」
「でも、負けたらどうなるのよ?勝つとは限らないじゃない」
「明らかな大敗をしなければ、勝利を取り繕うことは可能です。だれが見ても明らかな負け方をしたら…」
政権の交代は避けられないかもしれませんね、と不知火は笑った。
「どちらにせよ、これは高度な政治のお話です。私たち前線の兵士には関係ありません。命ぜられた通り戦い、勝利を収めれば良いだけです」
その作戦の理由がどんなに嫌なものであっても。不知火は口には出さなかったが、陽炎にはそこまで汲みとれた。
軍令部で現在温められているという南方海域への大規模作戦は、海軍内の権力闘争が発端として生まれ、さらには時の政権の思惑も絡むだろう、というのが不知火の見解である。前線で命をかけて戦う側としてはそう快いものではない。
「今はおいしいものを食べて、ゆっくりと休暇を楽しんで、英気を養う方が良いのです。面倒な話を持ち込んで休暇が打ち切りになったらそれこそ目も当てられません」
「それは…確かに」
「でしょう?ですから、今は休むんですよ」
不知火は手にしていた箸を鍋に伸ばした。
「そろそろですかね」
言うなり彼女は自分の取り皿に肉を放り込んでいく。
「あ、ずるい」
陽炎もあわてて鍋戦線に参加した。
しばらく、二人は黙々と食べていた。いつも寝食を共にしている仲なので、旅行だからといって話が尽きないということでもない。ただ、少なくとも陽炎は、この沈黙も嫌いではなかった。
「…ご飯食べたらちょっと外に出て星を見ませんか?」
「星?別にいいけど、海上で見慣れてるわねぇ」
「なんだかんだ言って鎮守府のあたりは都会ですからね、
「何の違いがあるのよ」
「何か違うかもしれないじゃないですか」
陽炎も別に星が見たくないわけではないが、妙にムキになっている妹が面白い。
「それとも陽炎は星嫌いですか?」
「いや、嫌いじゃないわよ。ただ、あんたがそんなこと言うなんて珍しいわねって思って」
「星って言ったらロマンチックの代名詞じゃないですか」
「ロマンチック?そんなもの求めてどうするのよ」
陽炎はけたけた笑った。
むー、と不知火は不機嫌そうだったが、ビール瓶を手に取ると、直で飲み始めた。
「ちょっ、不知火さん!?」
陽炎の声を気にも留めず不知火は瓶から口を離さない。
「行儀悪いったら…」
自分の妹は意地汚い酒飲みだったっけ、と陽炎はひそかに嘆息する。
陽炎も不知火も、それなりに酒をたしなむし、そこそこ好む。しかし、瓶から直接飲むくらい見境なく飲むような飲み方ではなかったはずだ。
「ぷぁー」
不知火は飲み干すよりも先に息が切れたようだった。すかさず、陽炎は妹の手からビール瓶を奪う。
「私はっ!確かに武骨で無風流ですがっ!」
「や、待って、誰もそんなこと言ってない」
しかし、不知火は陽炎の言葉が聞こえていないようだった。
「でもっ!陽炎と星を見たりっ!一緒にっ!楽しいことしたいんですっ!」
最後の方は涙目になっているのを見て、陽炎は罪悪感にとらわれた。とはいえ、冷静に考えたら自分はほとんど悪くないとは思うのだが。
「あー、ぬいぬいごめんね?別に星を見に行くのは全然構わないから」
「…ほんとですか?」
「ほんとだからまず顔を拭きなさい。可愛い顔が台無しよ」
言いながら、陽炎は懐中から手ぬぐいを取り出して、妹の顔を拭く。
「可愛いですか?」
陽炎が拭き終ると、不知火が問うた。
「可愛い可愛い」
手ぬぐいをしまいながら陽炎は言う。
「…えへ」
不知火は小さく微笑んだ。
獣道とまではいかないが、舗装されておらず、土が丸出しの坂道を下駄で歩くのは苦労する。しかも、夜だから暗い。手に持つ懐中電灯が頼りだった。
陽炎はそのことを身を以って実感していた。
「もうすぐですよ…多分」
先導する不知火はあまり苦労していないようだった。細身でしなやかな体から連想される通り、彼女は運動神経が良い。陽炎も艦娘として生を享けた以上、それなりに運動はできるはずだが、この妹にはかなわないのは日ごろの鍛錬の違いなのだろうか。
陽炎と不知火は保養所の人に懐中電灯と共に教えてもらった、星を見るのにお勧めなスポットへと言っていた。少し小高い丘にあるようで、それゆえにこのような面倒なことをしているのだった。
「もうすぐって…鳥居も見えないじゃない」
教えてもらったスポットというのは古い神社らしい。今となってはほとんど、お祭りや大みそかのときにくらいしか顧みる人はいない神社らしい。
「まぁまぁ、陽炎。もやしっ子じゃないんですから歩きましょうよ」
「海上航行したいー」
海の上を歩くことであれば彼女は慣れたもので、このくらいの距離であれば荒波の上でも軽々踏破してみせるが、下駄に舗装されていないごつごつした地面というのは厳しいものがあった。
「そう言わず…」
陽炎をなだめる不知火は頬を上気させていた。
「あんたも疲れてないの?」
「疲れてませんよ、陽炎。あなたと一緒なら千里の道も踏破してみせます」
「…その科白、どうせならもっといいシーンで言ってほしかったわ」
陽炎は苦笑する。
「…いいシーンってどんなシーンですか」
「んー、ぱっとは思いつかないけど、戦闘の時とか?」
「戦闘の時に千里の道を踏破してどうするんですか」
そりゃ逃亡兵ですよ、と呆れ顔で不知火はため息をついた。
「それもそうね…。それじゃあ、二人で逃避行する時に言ってもらおうかな?」
「二人で逃げるなんてことあるんですか?」
「あるかもしれないじゃない。世の中一寸先は闇よ」
今は闇夜だけど、と陽炎はつまらない冗談を飛ばす。
「あ!でも二人きりより姉妹一緒の方がいいわね。みんな一緒の方が楽しいじゃない」
「楽しいじゃないって、そういう問題じゃないかと思います」
「あら、何事も楽しまなきゃだめよ」
陽炎はからからと笑う。
「…そんなことより、鳥居が見えましたよ」
不知火が懐中電灯を道の少し先に向けた。石造りの、それなりに大きい鳥居である。
「うーん、こうみると少し不気味ねぇ」
「大丈夫です。夜戦の鉄板、探照灯照射をしていますから」
「それなら安心安心…ってそれだと不知火に攻撃が集中するんだけど」
「私が沈む前に陽炎がどうにかしてくれると信じてます」
「信頼が重いわ…」
探照灯は敵の位置を教えてくれる代わりに、敵に自分の位置を教えてしまう代物であった。夜戦で重宝するものの、使用した艦に攻撃が集中してしまう。
「探照灯といえば、この前暁さんが使いたがっていたのを響さんに止められていましたね」
「そりゃかつてあんな沈み方したら止めるわよ、常識的に考えて」
陽炎型が総出撃して夜戦を行う場合、探照灯を使うのは雪風である…理由は簡単だろう。
「しかし、暁さんはレディと探照灯への執着は半端ないですね」
「特Ⅲで夜戦になるとすぐ暁が使うみたいね。そうすると暁が攻撃される前に敵を沈めなきゃって妹たちの士気がかなり上がるらしいわ」
姉妹艦のみで出撃する時はたいていその中でいちばん姉の者が旗艦としての任務を負う。つまり、特Ⅲ型の場合、指揮を執るのは暁で、特に交戦時に彼女の命令や行動に指図することは到底許されるものではない。
「そんな話どこで聞いたんですか」
暁さんが探照灯を使うのは知っていましたけど、それで妹たちの士気が上がるなんて聞いてませんよ、と不知火は言う。彼女は事務部員だから戦闘の報告書なども読む立場にあるわけである。
「ん、暁本人から。駆逐艦ネームシップ飲み会で」
「なんですかその語呂の悪い飲み会は」
「普段じゃじゃ馬を扱ってる長女たちが集まって日ごろの愚痴と妹自慢をする飲み会よ」
「妹自慢ですか」
「私以外みんなシスコンだったわ」
「…陽炎も十分シスコンです」
「そうかしら?」
陽炎型は数が多いが、それでも一つの姉妹として曲がりなりにも深い紐帯があるのは、妹たちを溺愛する陽炎の存在あってこそだろう。
「一番艦で飲み会をしているなら今度二番艦飲み会でもしましょうかね…」
「楽しそうじゃない」
そうこう話しているうちに、二人は鳥居をくぐっていた。
二人の目の前にある神社は小さなものであった。しかし、それなりに人の手が行きとどいていると見えて、朽ち果てている、というようなことはない。
「さて、どこに座りましょうか」
「あそこの縁側でいいんじゃない」
二人は縁側に座ると、懐中電灯を消した。都会では見られないような、手を伸ばせば届きそうな満天の星空が広がる。
普通であれば、ここで星座や星の名前を言い合って楽しむのだろうが、この二人にそれは必要ないことだった。夜間の航行において星空は、時間や方角を教えてくれるものだから、季節と星座の関係性は頭に叩き込んでいるのである。方位磁石や時計といったものは持っていくものの、いつ故障するとも限らない。時間はともかく、方角が分からなくなったら最悪、母港に帰れない可能性もあるのだ。
「明日は湖を一周してみましょう。そのあと、宿で温泉に浸かって、そのあとは卓球をするんです」
「いいんじゃない?湖一周は楽しそうだわ」
不知火の頭が陽炎の肩に預けられた。
「こうすると落ち着きます」
「…いいけどさ」
もともとこの旅行は不知火の慰安のための旅行なのだ。不知火が楽しいのがいちばんで、それがいい。
「不知火、帰ったらさ、陽炎型の姉妹でお食事をしましょ」
「いいですね」
「全員の日程を合わせるのよ。あと、甘いものが食べたいわ」
「不知火に丸投げなんですね」
「いや?」
「いえ。陽炎が司令だとすれば不知火が参謀です。それくらいのことは任せてください」
頼れる妹でしょう、と不知火は笑う。
「ええ、信頼しているわ、私の可愛い誇り」
陽炎は不知火の頭をなでる。
このまま何もしない時間というのも幸福なものだな、と陽炎は思った。