『八神はやて女神説』を補強し、はやて学界に一石を投じた『八神はやては何故こうも天使であるのか』を纏め書籍化!!
はやて学者驚嘆の一冊、とうとう出版!!
……だいたいがエイプリルフールの悪乗りです。
『八神はやて女神説』を補強し、はやて学界に一石を投じた『八神はやては何故こうも天使であるのか』を纏め書籍化!!
はやて学者驚嘆の一冊、とうとう出版!!
この著書は『はやて』第一号(平成27年6月4日刊)及び第四号(平成27年9月4日刊)にて発表されたものを、著者が再編纂したものです。
『八神はやてが何故最上の天使であるのか』
序
本稿に収められた『(原題)八神はやては何故こうも天使なのか』は、藍藤遊の名において執筆した最初の論文である。この論文の第一部は平成27年6月に創刊された『はやて』第一号にて発表され、第二部は多くの読者の呼び声に応える形で同じ『はやて』の第四号にて発表された。今にして思えばこの論文に収められた内容というのは、現在ある私のはやて学の根幹を現在でも揺らぎないものとする論文であり、以降の私のはやて学に関する多くの著書『薄幸少女における車椅子というファクターの重要性について』『一人暮らしは独り暮らしである――ある少女の半生を鑑みて――』にも、本稿に収められた研究部分が根底にあると言えるであろう。
それゆえに、熱心なはやて学者や私の著書の読者の中には、今となっては絶版になってしまったこの論文を書籍にしてくれという声も多くあがっており、私としても著書として完成させたかったのであるが、この論文に対する思い入れと、手直しに次ぐ手直しに押され、ここ十数年の間まるで手つかずだったのである。
掲載した論文そのままの状態を草稿にし、提出するという案はよく担当編集者の口からも出されてはいたことだ。しかし私にとってこの論文は思いいれが強い以上に、やはりその時分の私自身の未熟を、勉強不足を突きつけられるものだったのである。
八神はやてを二次元の天使とする、いわゆる二次元視点派と現に呼ばれる思想派の筆頭であるこの私が、自らの著書を未熟であると断ずるのは、読者の方々や私を支えてくれる学者たちにも非常に申し訳のないことではあるのだが、それでもあの時の私はまるで何かにせかされるように、そして衝動のままにあの論文を仕上げてしまった。
若き日の勢いと言えば威勢はいいが、論文とは決してそのような勢いなどというもので作り上げて良いものではないのである。
そして当然というべきか多くの批判を呼び起こしてしまい、今思えば、あの時発表していたあの論文さえもう少し丁寧に、整然と、執筆することができていればわざわざ学説の分かれ道を作り出すことなく、さらにまっすぐに八神はやてという天使の素晴らしさを多くの学者たちと研究できたのではないかと思うと悔しくてならないのである。
私はあの時分、ただ一人荒野を我がものと思う一匹の狼にすぎなかったのやもしれない。私以外に意見者はなく思想も私のものだけであった。廃れた荒野、ありふれた砂と土だけがただ私の周りにはあった。ひとたび遠吠えを上げさえすれば小さく生えた草のみが私に賛同し、それで満足であった。
一種の思春期である。私だけが無敵である、圧倒的強者であると信じて疑わず、ただひたすらに思想を並べ立てて、醒めて気付けば少々どころではない恥ずかしさが押し寄せようというものであった。
こんなことでははやて学の神髄になど触れるどころか近づけもするまい。そう考えられただけ、進歩できたと今は考えられる。
それが、つまるところ今までこの論文を著書にしなかった理由であるのだが、やはり、私の根幹を成すこの論文を、私の著作集に加えないというのは私としても納得のいかないのでこうして著書にすることにした。引用にも多少不確かな部分が散見された。しかし『はやて』に投稿されたあの原文を読みたいという読者が多かったこともあり、表現の変更や訂正はできるだけ控え、新しく説を加えることもやめにした。
現在の私は八神はやてを女神とする説にはやや懐疑的である。StSにおいて確かに管理局の三女神という言葉がちらほらと見られ、八神はやては神の一柱であったと述べることに何ら間違いはないのであるが、現在において言えば、StSでの八神はやての登場シーンを通して考えるに女神というよりもカテゴリ的には美しき戦乙女という表現こそ正しき見解のあるべき姿なのではないかとも思えるのだ。
こういった今と過去の私の間にある見解の相違が、時折この著を改稿しようとする私の手をはたと止める。もちろんはやて学に終点など未だ見えはしないのだが、それでもこの著を記したのが過去の私である以上、私自身である以上、どうしても手を加えたくなる衝動に駆られるのである。
重ねて記述することになるが、この著は大きな改稿を加えていない。平成27年の時分にあった私が記述した意見をねじ曲げるようなことは一切していない。未熟な著であろうことは織込み済みの上で、しかし私は敢えてこれを私の著書のラインナップに加えようと決意した。
『八神はやては何故こうも天使であるのか』というこの著が、はやて学の進歩に一石を投じたのは間違いようのない事実である。なればこそ、今の私が改めて著書にするべきだと思うのだ。この著を再度投稿することにより、新たなはやて学の若き萌芽が現れてくれることを、私は切に期待するものである。
『八神はやてが何故最上の天使であるのか』 藍藤遊著作集5
序に代えて
この論文は、未だ進展の一途を見せないはやて学の世界に一石を投じようとするものである。ここに示される着想をさらに組み合わせ繋ぎ合わせ、より仕上がった論文として完成させる為には、さらに文献を読み、映像文献を良く視聴し直し、実地調査に赴いてその背景を調べあげ、その上で更に多くの思考を積み重ねねばならないだろう。
それは、私もよく理解しているところだ。
だが、それでもこの熟成しきっていない論文を世に出すのは、決して『はやて』創刊の際に〆切を間に合わせる為とか、担当編集者から再三創刊時掲載の依頼をされたとか、それらがすべてという訳ではない。
私が今この論文を発表しようというのは、まるで予知にも似た直感のようなものが私の脳髄を突き抜けたからである。それ即ち、まさしく愛と言えるものだと私は声を大にして言いたい。
よって私はこの迸るパトスのままにこの論文を書き上げることとし、ちょうど創刊間近であった『はやて』の担当編集者に声をかけられたこともあり、こうして投稿する論文としてこの原稿を執筆するに至ったのだ。
八神はやてという人物について
まずこの論文を世に伝えるにあたって、まずは八神はやてという少女がどういう人物であるのかを記述していこうと思う。
八神はやては初登場時八歳。すぐに九歳の誕生日を迎え、A`sエピローグ時15歳。三期にあたるStSの段階では十九歳になっている。また、四期にあたるViVidで23歳(注1)、Forceにて25歳となっている。Forceでの八神はやての髪型については諸氏の間で血みどろの論争が巻き起こっているが、創作物のキャラクターではショートカット派の私も最高だと思えるセミロングなので静観を決め込んでいる。
なお、身長体重などについては設定資料での記述がどこにも見あたらず、おそらくは白い悪魔に強制的物理対話(注2)を求められてしまったのであろうことが伺える。
しかしながらその中で唯一資料を持ち帰り、引き替えに事切れた男により高町なのはがStSにおいて身長160cmであったところから身体スペックを割り出した氏の説によれば、StSでの八神はやての身長は約150cmであり、算出したスリーサイズ値は約83・59・84相当ではないかとされている。バストとヒップが逆ではないのかとこちらでも大きな論争が起きているが、私としては八神はやての美しいヒップがこんにちは出来るのだから何も問題はないのではないかと考えている。
出生は97管理外世界「地球」極東地区日本・海鳴市中丘町。
A`sのメインヒロインにして、StSでは時空管理局本局古代遺物管理部機動六課の部隊長を務める。
初登場時から原因不明とされる病を足に患っており、車椅子での生活をよぎなくされていた。両親はすでに他界しており、本来ならば孤児院に入れられるところをギル・グレアムによって金に不自由しない状態で、一人で暮らすこととなっていた。よって住宅はバリアフリーの一軒家。たった一人の環境で、誕生日すら病院からの留守電一本のみ。著者はこの情報をただ原稿に書き連ねているだけで、少々画面が潤んで見えなくなってしまう境遇だ。
彼女はA`sにて、薄幸の美少女として登場する。たった一人での暮らし。車椅子での生活。真に頼れる者など誰もいない。だからこそ二次創作でオリ〇シュやビッグシ○チ祭りが現れるのも、それぞれの作者の優しさないし手をさしのべたくなった愛そのものなのだろうと私は思う。
尚、九歳とは思えない料理上手で、普段から一人でキッチンに向かい、調理をしていた。その関係でスーパーなどにも良く向かうらしく、その姿を一度拝見したいと名古屋市の旧海鳴町や新潟市、神戸や平塚市を回った諸氏の話も聞いている(注3)。私自身も神戸には三度ほど向かい、当然ながら出会うことは出来ず、毎度土産の菓子を買って帰ってくる度に弟妹に怪訝な表情で出迎えられた。
さて、そんな彼女の精神面だが、一言で言えば女神だ。天使だ。ありきたりな言葉だとは私自身も重々承知の上であるが、それをふまえた上で言わせて欲しい。
はやてちゃんマジ天使。と。
たった一人の身の上で、現れた訳の分からぬ四人の他人を家族として受け入れ。足が治るという甘言も、他人に迷惑をかけてはいけないからと確固とした意志をもって断り。魔法という非常識を自然に許容しながら、手にした家族の為に尽くす。犬が欲しかった、と笑顔で言うあの少女の可憐さに癒された諸氏も多かろう。
悪意が体を蝕み、足の麻痺が進行して尚彼女は誰にもそのことを明かさず、弱いところを見せまいと一人隠れてすすり泣いた。それを聞いてしまった四人の家族――ヴォルケンリッターがはやてとの約束を破ろうと、誰がそれを責められよう。
そんなヴォルケンリッターが目の前で消滅し、絶望を叩きつけられた時。自らも殺されるような状況でありながら彼女が発した言葉は、失ってしまった家族を返して欲しいと涙ながらに願うものであった。その高潔な意思と美しき生きざまは、たった九歳の少女とは思えないほどに綺麗で、儚くて。その時初めて彼女が見せた強き感情の爆発に胸を打たれない紳士はいまい。
絶望の淵にたたされて、誰もが帰ることのなかった闇の書の意思に取り込まれて。彼女はしかし闇の書の意思と、その優しさでもって対話に成功する。輪廻を繰り返そうとする意思に「リインフォース」の名を与えることで、今までには存在し得なかった新たな道を闇の書に示して見せたのだ。
なんと高潔なことか。なんと美しきことか。儚げで、優しくて、明るくて、料理上手で、温かくて。そしてStS以降はそこに絶大な力も備わり強くて美しい少女が完成する。それが、八神はやてという少女なのである。
八神はやてに学ぶ
ここまででまず、八神はやてという少女がどんな人物であるのか。また、八神はやてという少女が如何に可憐で美しく高潔な少女なのかということに、粗方説明がついた。
ところどころ端折ってしまった部分があり、たとえばINNOCENTに触れられていないあたりは口惜しくてたまらないが、隣で担当編集者が顔を蒼白に染めて首を振り、もういいもういいと譫言(うわごと)のように呟いて焦点の合わない目でこちらを見つめるので渋々諦めてしまった。この程度で諦めることを、どうか読者諸氏には寛大な心で許していただきたい。特にリリカルなのはを知らない読者にとっては何一つ理解がいかなかったことだろう。当然である。ここまでで七千字あった原稿を、頁が足りないからという理由で削ったのだ。申し訳なく思う。
気を取り直して本稿に戻るとしよう。担当編集者には原稿が書き終わったあと三日ほど、如何に八神はやてが素晴らしいのかについて語るとして。この項目では、八神はやてという少女に学ぶ人格的要素の黄金比について取り上げていきたい。
まずそのためには、ここで一つ、研究者諸氏と対立を余儀なくされる意見を述べさせていただこうと思う。
八神はやてはキャラクターである。
三次元的視点にみる八神はやてを研究している諸氏に対し、真っ向から喧嘩を売る意見であることは私もよく分かっている。しかしながら、敢えて言わせてもらうならば。
八神はやてという人物は二次元だからこそ生まれた、魂の絶技なのではないだろうか。
無論、私とてはやて学の研究者だ。研究者諸氏と変わらず、いやそれ以上に八神はやてに入れこんでいる。いつの日か目の前に現れてくれはしないだろうか。いつの日かその声で私の名を呼んでくれないだろうか。その細くも強い指先にふれることは出来ないだろうか。そう思っている。行きずりで出会ったコスプレの方に思わず声をかけてしまったことも、一度や二度ではない。何なら死ぬ時はデスクトップパソコンの画面に映った八神はやてを目に焼き付けながら画面に顔を貫通させるまである(注4)。
だがそれとこれとは話が別だ。八神はやてはあくまでキャラクターであり、その線上にあってまさしく完璧な存在であるのだ。
まずは彼女の表面的な個性から突き詰めていこう。前項ではふれることなく頁を終えたが、彼女は優しいはんなりとした京都よりの関西弁を使う。それが人前で柔らかく明るく振る舞える彼女の性格と絶妙にマッチしており、まず素晴らしい。そしてその魅力を土台として、A`sとStSで全く異なる個性と組み合わせて美しいハーモニーを醸し出すのだ。A`sでは彼女は薄幸の少女として登場する。車椅子というハンデを背負いながら、しかしそれで同情されることを嫌い一人の人間として気高く立つ彼女。柔らかく可憐な物腰とその芯の強さとのギャップが、さらに前述の表面的な魅力と合わさって光り輝く。StSでは芯の強さが表に立ち、家族を支えて自らも強く踏みとどまることが出来る健気さと、軍にも似た管理局の政治の中で生き延びる狡猾な一面。それが幼少期の記憶とともに組み合わさり、強くなった彼女が変わらずあの優しげな言葉遣いをしているのは、また違った魅力を映し出す鏡となっている。
次に彼女の髪型だ。A`s時からViVid時にかけてのショートヘアは、やはりA`sとStSで別々の個性を生み出す素晴らしき指標の一つとなっている。ヘアピンの有無に関する論争は不毛なだけであるので遠慮願いたいところであるが(注5)。
A`sでのショートカットは、車椅子で病弱ながらも、その裏に秘めた芯の強さを表現するのみならず、コミュニケーションを苦手としない蒲公英のような明るさを持った少女であることを想像させる大きなファクターだ。
StSにおいてのショートカットは凛然とした彼女の魅力を引き立たせる小道具として扱われている一面が強いように私は思う。彼女の強く気高い面を押し出す為のファクターとしてのショートカット。いずれにしても、魅力的だ。
尚Forceにて彼女の髪が伸びたのは、同じ理由で女性らしさという可憐さを見せるファクターとしてだと考える。なぜならばForceでの彼女の扱いは泣く子も黙る"歩くロストロギア"であるから、強者としての存在感が先行するのだ。しかしながらそれをふまえた上で彼女の魅力を壊すことなくセミロングにまで髪を伸ばしたことを、僕は大いに評価したいと思う。
この、絶妙なまでに構築された彼女の可憐さ。表面一つからしてこれなのである。
さらに中身に突き詰めてみれば、スキルの観点で彼女の家庭的な魅力があげられる。A`sにおいての彼女のスキルとしての魅力は、孤独を紛らわせながら"一人でも生活出来ている"強さと、"一人で生活出来てもそれは寂しいことなのだ"と視聴者読者に突きつける彼女の悲しげな部分である。今すぐに画面の奥に行って共に暮らしたい。彼女の笑顔を見たい。そう思わせてやまないのが大きなスキルとしての魅力と言える。
StSにおいては、登場人物中屈指の魔力量と司令塔としての気高さと、よく並ぶ他の二人に比べると少々地味でありながら家庭的で柔和な少女としてのギャップだ。
共にクラナガンの街をショッピングして回りたい、気後れせずに歩けるその穏やかな魅力と、いざとなればそんじょそこらの魔導師に負けない最高峰の実力者としてのギャップこそ、彼女の魅力と言えないだろうか。
はやて学はまだまだ伸び代を大いに残した学問であることは読者も先刻承知と思うが、こうして今まで語った彼女の持つキャラクター性の組み合わせ、その黄金比こそがはやて学に多大なポテンシャルを残してくれていることをご理解いただけたであろうか。
私の執筆する論文が世にでるのはこれが初めてではあるが、この先も多く論文を世界に向けて執筆して行きたいと思っている。この項で彼女の魅力が十分に伝わらなかった場合は是非私の研究室をノックして欲しい。本来ならクラナガンの大学に研究室を持ちたいところではあるのだが、悲しいかなそれは出来ないので、いつでも研究室の門を叩いて欲しい。
話が逸れた。八神はやてに学ぶキャラクターの持つ美しさ。多くの学者が没頭するこの素晴らしさというものを、これからも常に、発信し続けていきたい。
八神はやてと愛の女神アプロディーテー
さて本稿の最後では八神はやてと古典ギリシアの愛の女神アプロディーテーとの類似点からみる、八神はやてを女神とする説に対する私の考察を述べていきたい。
あまりに一つ一つの項を続けると、先ほどから担当編集者が隣で泡を吹き始め、『はやて』という言葉を聞く度に嬉しそうに肩をはねさせるのである。そんなにただの一学者にすぎない私の意見を聞きたいというのであればあとでたっぷりと聞かせてやると言っても首を振って遠慮するばかりで、ついでに言えば泡を吹くのと首を振るので徐々に顔色が蒼白から土色に変色してきているので、論文を書き終わったら病院へ連れていこうと思う。話ならば道中でいくらでも出来よう。
本題に戻ろう。愛の女神アプロディーテーとは愛美性の三種を司るとされる、ギリシア神話に登場する女神である。ヘーシオドスの叙事詩『神統記』によればアプロディーテーは泡より生まれ、両親のないままに知らぬ島にたどりつき、そこでゼウスの養女として迎えられる。しかし欲の強いゼウスを拒み、彼女はゼウスの怒りを買ってヘーパイストスに嫁ぐことを余儀なくされてしまうのである。
ここに両親の居ないままにたった一人で暮らし、ギル・グレアムと闇の書を巡る戦いに巻き込まれた八神はやてとの類似点を発見したのが、現在はやて学にて愛の女神アプロディーテーと照らし合わせた上で八神はやてを女神とする説の大きな根拠となっている。果たして闇の書の怒りを買ってギル・グレアムの元に行くことになったのか、それともその逆なのか。そのあたりは諸説あるが、私はこの段階では愛の女神アプロディーテーと八神はやての共通点から八神はやてを女神とするのは弱いのではないかと考えていた。なぜならば、結論として八神はやては汚されることはないのだし、ギル・グレアムとて私欲からことを行った訳ではないからだ。
もっとも、闇の書にその体を買われ、それを拒んだから闇の書の怒りを買って足を奪われたのだとすれば、それは確かに間違ってはいないのだが、どうしても根拠としての裏付けに弱さを感じざるを得ないのである。
しかしながら私はこの未熟な説に興味を持ち、ギリシア神話ひいては愛の女神アプロディーテーについての文献を漁っていた際に、興味深い話を見つけたのである。
それを見つけたのは、偶然にもギリシア神話ではなくローマ神話の出典からであった。
愛の女神アプロディーテーはローマ神話ではウェヌスとされ、殆ど同一視をされている存在だ。パリスによる三美神の審判をご存じだろうか。ヘラ、アテナと共にアプロディーテーはテティスとペーレウスの婚儀に招かれる。しかし招かれなかった不和の女神エリスがこれに怒り、乗り込んできて黄金の林檎を取り出し言うのだ。「もっとも美しい女神に与える」と。ゼウスは仲裁をさせるため羊飼いのパリスに判定させるとし、結果アプロディーテーがその称号を手にするに至った。
さて、三美神という言葉にどこか引っかかりを覚えることはないだろうか。そう、管理局の三女神と謡われたなのは、フェイト、はやての三人のことである。
彼女らの間に争いはなかったとされるが、実際のところ多くの二次創作で描かれている通り三人とも男日照りが続いている。もしそこに"黄金の林檎"でも投じられようものなら、可愛らしくも狂気に染まった三つどもえの奪いあいが生まれるとは思えないだろうか。これは私の私見であるが、どこか管理局の三女神は愛したものに対しての執着が強く思える節がある。
その個人的見解にこのパリスの三美神の話を組み合わせて、さらに先述の愛の女神アプロディーテーの生まれを繋ぎ合わせてみると、確かに女神説への根拠の補強にはならないだろうか。いやむしろこちらの説こそが根幹になる気さえもするのである。
尚、三美神の審判にて他の二柱は「戦いにおける勝利」と「アシアの君主の座」を手にするに至っている。戦いにおける勝利は白い悪魔ことなのはが、アシアの君主の座とは、エリオとキャロを育てるフェイトが手にしたものと考えれば、更なる補強としてこの説をもり立てることが出来る。よって、八神はやては女神なのではないかと、考察するものなのである。
八神はやてが何故最上の天使であるのか
こうまで考察を重ねておいて何だが、私はまだ胸を張って八神はやてが女神である説を提唱出来る段階には至っていない。言ってしまえば先述したものは私の主張に都合のいいものだけをかいつまんだ結果であり、更に言えば私はいまいちギリシア神話やローマ神話には通じていないのである。よって八神はやてがどれほど女神のごとく美しくとも、もう少し説が補強出来る要素がない限り断言は難しい。しかしながらこの説が確立されるとすればそれは、はやて学の偉大な進歩の一つとして数えられるはずなのである。なればこそ、私はこれからも八神はやてが女神である説を確固としたものとするため、一学者として研究を続けていくものである。
担当編集者がとうとう白目を向いて倒れた為、少々まずいのではないかと思い救急車を呼んだ。今はその車内で論文を書きつつ、担当編集者に一語一句丁寧に論文に記入していることを伝えているところである。気を失っているような雰囲気ではあり私の言葉には殆ど反応しないのだが、やはり『はやて』という言葉を聞く度にびくりと反応しているところを見ると、そこまでして聞きたいのだろう。編集者の鑑である。
さて、本稿の総括として、今回の論文を通して私が言えることを述べてこれを締めとしようと考える。
とは言ってもそれは難しいことではない。先刻からひたすら述べているように、ここまで我々学者を入れ込ませる八神はやては女神ではなかったとしても間違いなく天使ではあるのだ。比喩表現として、これほどに相応しい言葉は他には見あたらない。少なくとも私の口からでる一番の賞賛はこの一言に尽きるのだ。
はやてちゃんマジ天使、と。
ただ、残された問題について、少しだけ触れてみることにしよう。
八神はやてを巡る多くの学説には様々な対立が見られるが、それは果たして我らが天使八神はやて自身が望んでいるのだろうか。
もちろん、この問いを投げかけた時点ではやて学の成長その全てを投げ出しているのと同義であるのだと、私自身も理解はしているところである。
しかしそうでなければ、はやて学が成長しきり学問として終焉を迎えた時にしか、かの天使はほほえみかけてくれることはないのではないだろうか。
もしそうだとすれば、画面に頭部を貫通させて死んでいった学者諸氏は、大きな根底を理解していなかったことに他ならない。
何一つ八神はやてに罪はない。罪はないがこの天使、本当に人を狂わせる小悪魔であることは違いない。
小悪魔な八神はやてもまた素晴らしいと鼻血を垂らしてしまったが、そのくらいは担当編集者も許してくれるであろう。
いずれにしても、はやて学がその終焉を迎えるのには、まだまだ時間がかかりそうなものである。
(注1)だいたいの場合、ViVid,Forceはともに四期として扱われる
(注2)別名O☆HA☆NA☆SHI
(注3)海鳴市のモデルには諸説ある。著者は神戸が有力説と考えている
(注4)八神はやてに出会う為自らの頭部で画面を貫いた例は少なくないが、そのどれも二次元の世界へ行けたという報告は未だない。
(注5)バッテンヘアピンのカラーリングや、二つのピンの有無については公式でもばらついているので、これはもう普段から複数のヘアピンを気分によって付け換えていると考えるのが無難である。
著者紹介
藍藤遊
埼玉県出身 1995年生まれ。2017年、八神大学魔法少女研究学部はやて学科卒。現在、八神大学魔法少女研究科研究所名誉教授。専攻、はやて学。
著書『薄幸少女における車椅子というファクターの重要性について』(2022、スクライア出版)
『一人暮らしは独り暮らしである――ある少女の半生を鑑みて――』(2023、ミナルヴァ書房)
『魔法少女文化論』(2025、スクライア出版)
『まだ見ぬ可能性の欠片――歩くロストロギアに見る幸福論――』(2028、スクライア出版)
等著書多数。